原作ではガンドルフォとフーが互いに「お前」「君」と呼んでいたので、作中でも固有名詞で呼ばせていません。
宵闇に浮かぶガス灯の青白い光を目印に、繁華街へ伸びる路地を歩く。
近づいてくる露店の喧騒。
行き交う馬車の車輪が石畳を擦る音。
家路を急ぐ人達の足音。
石炭の煙と、焼いた肉の焦げた匂い。
同じ街なのに、薄暗い路地から見た明るい通りはまるで違う世界のように見える。
(痛!)
石畳の欠けた縁に爪先を引っ掛けた。
古くなったサンダルの底が剥がれて、右足にぶら下がっている。
(まあ、いいや)
サンダルを道の隅に脱ぎ捨てて、冷たい石畳を裸足で歩く。
彼は、まだ待ってくれてるだろうか。
「物乞いなら他所でやってくれ」
こちらを一瞥してドアマンが吐き捨てる。
高級なホテルだ、確かに僕の格好は場違いなんだろう。
「ここで待ち合わせなんだけど」
ドアマンがふん、と鼻を鳴らす。
「そんな嘘ついても駄目だ。どうせ……」
「おい、こっちだ!」
懐かしい大きな声。
記憶より少し歳を取った彼が、人垣をかき分けながらこっちへやって来る。
「来ないかと思って心配したぜ。そいつがどうかしたのか?」
そう言って彼がドアマンを睨む。
ドアマンは青くなって下を向く。
「何でもない」
「そうか?ならいいが。部屋に行こうか」
「うん」
「相変わらず痩せてんな。腹は減ってないか?」
「少し」
「わかった、部屋に持ってこさせる。何か食いたいものあるか?」
「何でもいいよ」
「ならサンドイッチでも作らせるか。髪伸びたな。これまでどうしてた?連絡取れなくなってから色々あったんだぞ」
止まらない言葉、変わらない口調。
まるで、あの頃に戻ったみたいだ。
「いいホテルだね」
「これでも買い取ってしばらくは赤字だったんだけどな。駅前の一等地ともなると競合も多いし税金も高い」
ワインのコルクを抜きながら彼が応える。
「それでもこっちに拠点があると都合がいい。人と会うのに場所を選ばなくて済む」
振り向いて笑った彼が急に真顔に変わり、ソファから立ち上がって身を乗り出してくる。
「血が出てるじゃねえか、その足はどうした?」
「来るときに引っ掛けて」
「見せろ」
「いいよ」
「良くねえよ。ほら、足出せ」
跪いて僕の足を手に取る。
「爪が剥がれかけてるな。ちょっと滲みるぞ」
そう言いながら傷口をワインで洗う。
足先から落ちる赤いワインの雫が、まるで血のように見える。
「絨毯が汚れるよ」
「気にすんな。それより痛くないか?」
「大丈夫」
割いたハンカチで爪先を器用に巻いていく。
「上手いね」
「昔、炭鉱で怪我した時は有り合わせの布を巻いてたからな。後で包帯買ってこさせるから、それまで我慢してくれ」
「うん」
そう言えば、昔の話とか聞いたことなかった。
どうして気にならなかったんだろう。
今はこんなに気になるのに。
「お前、あれからどうしてた?」
彼が急に声を落とす。
お酒が入ったからか、少し顔が赤い。
「新聞広告出しても返事が来ねえようになったから心配してたんだぞ」
「ごめん」
「言いたくねえなら言わなくていい。でもな」
眉間に皺を寄せて目を閉じる。
「ホテルの前でお前を見て驚いた。初めて会った時の雰囲気に戻ってたからな」
「そうかな」
「薄汚れた格好で、裸足で。その、街角に立ってる連中みたいな……」
歯切れが悪いのは、言葉を選んでるんだろうか。
「あちこち旅して生き甲斐を探すと言ってたから何も言わなかったが、そんなボロボロになっちまうくらいなら、オレは」
「オレは?」
「あの時お前を縛りつけてでも引き止めるべきだったんじゃねえかと、そう思った」
「どうして?」
「そりゃ、お前が……」
そのまま口を噤んでしまう。
お前が、何?
その言葉の続きが聞きたい。
「僕、色んな国を見てきたよ」
こちらが話し始めると、彼も黙って視線を合わせてくる。
「色んなものを見てきた。綺麗なものも、そうでないものも」
知らないものがたくさんあった。
知らないこともたくさんあった。
「でも、やっぱりつまらなくなってさ」
物語の中の怪人としてどんなに活躍してみても、それは結局僕じゃなかった。
僕が本当に欲しかったものじゃなかった。
「もう何も要らないと思って、ずっと引きこもってたら」
たまたま拾った新聞を見た。
「君がまだ広告を出してくれてて」
それで、やっと気付いた。
「もう一回、君と勝負したくて返事したんだ。……ダメかな?」
「いや、嬉しいぜ。オレも負け越したままじゃ終われねえからな」
「そう言ってくれると思ってたよ」
僕が本当に欲しかったもの。
僕のためだけの『浪漫』。
「賭け金のことだけど」
「お前、何も持ってないだろ。これまではオレが負け越してるから……」
「僕、自分の人生を賭けるよ」
カードをシャッフルする手が止まる。
「だから君も、何か見合ったものを賭けてよ」
しばらく黙って、彼が口を開く。
「お前、何言ってるのか分かってんのか」
「分かってるよ」
「オレはお前と親子くらい歳が離れてんだぞ」
「知ってるよ」
こっちを見つめてくる顔には、眉間だけでなく目元や口元にも皺が刻まれている。
「……ビッグゲームだな」
小さく笑って彼が続ける。
「よし、ならオレも自分の人生を賭ける。朝から晩までコキ使ってやるぜ」
「ありがとう」
そう言ってくれると信じてた。
「相手が全額ベットしてくるなら、こっちも全額ベットするのが礼儀だからな」
「君、やっぱりバカだよね?」
「その言葉、後悔させてやるからな」
期待してる。
今度は僕を負かしてよ。
カードをめくる。
それじゃゲームを始めようか。
「カルペ・ディエム!」