たとえば宝くじで億を当てて、それを引き換えに行く道のりで致死性の交通事故に遭ったら。血の海の中で冷たくなっていく自身の終わりを感じながら、俺はきっとこう思うだろう。
どうしてよりにもよって今なんだ。死ぬにしても、今まで、他にいくらでもタイミングがあっただろうに……。
金ではなくとも、その日俺はそれに匹敵する幸運と不幸を引き当てて、実際にそう思うことになる。
モテ期の実在を、俺は身をもって実感した。
かれこれ三ヶ月前のこと。小学生の頃から仲の続いている友人の江東から「嫁を抱いてくれないか」という相談を持ちかけられた。俺の知らぬ間に彼がとち狂ってしまったのかと一瞬肝が冷えたけれど、冷静になって考えてみればそうではなかった。
江東が結婚したのは半年前のこと。そういえばその相手はサキュバスなのだと、当時すでに本人の口から聞いていた。
人間的な恋愛感情に乏しいと噂のサキュバス相手に結婚まで漕ぎ着けるとは大したものだ。俺に結婚願望はないけれど、夜の営みに困らないのは羨ましい。……と、祝言としては口が裂けても言えないことを腹の底に飲み込んで以来、羨ましさを忘れるためか、俺はその話題に関する諸々を失念していた。
けれども一般論として、性欲を命の糧とするサキュバス一人を養うに当たっては、人間の男一人の力ではとてもではないが足りないのだと聞いことがある。実際、我が友は三ヶ月を経て音を上げたのだろう。自身一人で嫁を生かしていくことにも、見ず知らずの男に嫁を抱かせることにも。
そこで俺に話が回ってきた。何処の馬の骨とも知れない男に抱かせるくらいなら、お前に任せた方が幾分気が楽だ、どうか妻と節度あるセックスフレンドになってくれないか……と。
俺は、戸惑いつつもそれを了承した。長い付き合いを踏まえて、こちらとしても彼のことを信用していたのである。こいつは自分から言い出したことであとから逆恨みをするようなやつではない、と。
……あと単純に嫁の見た目がタイプだった。顔立ちは幼くて胸がデカい。生まれつきの銀髪で、左右の瞳が宝石のような青と緑の色に分かれている。まさしく異界から来たロリ巨乳。そんな人間離れした美女を見れば、男たるもの、機会があれば一度抱いてみたいと思うのも仕方がないことだろう。
そういうわけでそのサキュバス、エミット・チュニングと俺は肉体関係を持った。そして彼女と意気投合した。幸運なことに俺は、体の相性だけでなく、性格的な面でも彼女と波長が合ったのだ。
そしてある日、そんな彼女から思わぬ誘いを持ちかけられる。
「わたしの友達もセックスの相手を探してるんだけど、巴くん会ってみない?」
なんとそれは、セフレのお誘いの連鎖だった。
世の中そんなことがあっていいのだろうか? 罰が当たりそうな気がしてくるけれど、あくまでもこれは、誘ってきた相手とのWinWinな関係を築こうという話である。決して私利私欲のために何かを犠牲にするわけではない。
巴というのは俺の名前だ。
そういうわけで、ひと月と待たずに俺のセフレは二人に増えた。……そして一度流れに乗ってしまえば、二度あることは三度でも四度でもあるものだった。
エミットと知り合ってから三ヶ月が経った現在、俺のセフレは、あわよくば六人に増えようとしている。
それはとある土曜日のことだった。
エミットと、彼女が連れてきた二人目のセフレであるギャル系サキュバスのセアエス。そして残る四人は、今日が初対面になる。全員が一度エミットの家に……つまり江東家に集合した。そこから車に乗って、一泊二日の観光旅行に行く段取りになっている。
江東は仕事の関係で、今日この日は丸一日家にいないらしい。それでは退屈だからとエミットはあらかじめ友人を巻き込んだ旅行計画を立てており、ついにその決行日が訪れたというわけだ。……サキュバス六人に対して、男の俺が一人、一泊二日で遊びに行く。何も起こらないはずがない。
実際、夜の予定には初めから「そういうこと」も組み込まれている。もちろん江東も公認だ。そして俺は彼から、ある使命を請け負っている。
合法の範囲であれば、エミットと何をしようと構わない。他に女を呼ぶのも好きにすればいい。ただし、他の男だけは絶対に呼ぶな。あるいは他の男と関わるにしても、エミットにだけは絶対に触れさせるな。……それが我が友からの指令だ。いかにも嫉妬深い愛がこもっている。
元々の江東は、そこまで嫉妬深い性格ではなかった。けれどエミットとの結婚生活の最初の三ヶ月で、きっと様々な経験が彼を変えてしまったのだろう。そのおこぼれに与っている俺としては、なんとしても信頼に答え、その使命を果たさなければならない。エミット本人にももちろんその旨は伝えてある。
車はレンタカーで八人乗りの物を借りた。席順は、運転手がエミット、助手席がセアエス、後部座席の手前側中央が俺で、それを挟み込むように初対面のサキュバス二人が乗り、奥側の後部座席にも残り二人のサキュバスが乗る形に定まっている。
なぜそんな席順になったのか、詳しいことを覚えていない。旅行計画の話が俺の耳に入ったのは酒の席でのことだったのだ。それで気がついたら、初対面のサキュバスにサンドイッチされる狂気の……いや狂喜乱舞するべき席順が出来上がっていた。
新婚の二人暮しには十分な広さのアパートでも、大人六人となるとすし詰め感が出てくる。俺たちは早々に駐車場まで出て、簡単な自己紹介をこなしつつさっそく車に乗り込むことになった。
……が、耳馴染みのない横文字のフルネームを一気に四人分も鼓膜に流し込まれても、俺はそれをロクに覚えることが出来なかった。いや、ロクにというか、一つも覚えられなかったというのが正しい。そのせいで、全方位を性に寛容な異性に囲まれた中で車に揺られ始めると、早くもこの旅行の先行きが不安になってくる。
「巴くん、全員の名前覚えられた?」
バックミラー越しにエミットに問いかけられる。
俺にはそれが意地悪ではなく助け舟だと分かった。
「あ、いや、すみません。実はまったく……」
「あはは。覚えづらいもんね、人数多いし。大変だろうから、今日のところは適当に特徴で呼んでいいと思うよ。ねぇみんな?」
「もちろん」
人当たりの良い笑みを浮かべた四方の異性が、愛想のある声で一様に頷く。
しかし「特徴」で呼べと言われても、それはそれで難しいものがある。
エミットの特徴が銀髪、セアエスがギャルだとすれば、残る四人は、俺の右隣が目隠れ、左隣がへそ出し、右後ろがツインテ、左後ろがチョーカーという具合ではある。ただそれをそのままでは中々呼びづらいので、何か良い案はないものかと、追加の助け舟を求める。
「特徴といっても、例えばどんな風に呼べば……?」
バックミラー越しにこちらを見たエミットが、「んー」と少し考える間を置いてから、しれっと答える。
「陰キャ、腹筋、ハンドル、首輪……とか」
「えぇ……」
失礼ながらどれが誰のことを指しているのかは分かってしまう。目隠れの人はいかにも気が小さそうで、へそ出しの人は薄らと腹筋が割れていて、ツインテールやチョーカーの下品な呼び方にはそういう物もある。
この場のサキュバス六人は、全員ともが知り合いなのだと聞いている。身内特有の過激な冗談に巻き込まれて、俺は苦笑いを返すしかなかったけれど、セアエスが「いいんじゃね?」と呟きそれに俺以外の全員が頷いたことで、なんとその話題はそこで終わってしまった。
七人を乗せた車は高速道路に乗る。目的地までは、空いていればここから二時間程度で着く予定だ。
一泊旅行らしい大きなバッグにお菓子を持参していた目隠れさんがグミの袋を取り出し、食べます? と一つくれる。同じく自分のバッグからジュースを取り出したへそ出しさんが、飲む? と炭酸飲料をくれる。どれも車での長距離移動には必須アイテムなようでいて、魔力以外には極論で酸素すら必要としないサキュバスにとってはそうでもない。彼女らの持ち物からわざわざ飲食物が出てくることに、唯一の人間である自分へのもてなしを感じる。
その後しばらくの間は、女子六人の世間話が和やかに車内の空気を支配した。それぞれ仕事の調子はどうだとか、既婚者であるエミットになぞらえて各々の人生設計はどうなっているのかだとか。旅先で一番楽しみなことは何かだとか、最近ハマっている趣味の話だとか。どうやら六人全員が集合したのは久しぶりらしく、どこかしらの組み合わせで必ず、同窓会じみて話が盛り上がっていた。
そしてその雑談タイムは次第に、性的な方面の話題へとなだれ込んで行く。そうなるとさすがに、本来ならば女子会であるべきだった今日この日に、異物である自分が紛れ込んでいることの感覚が強まってきた。
実際、江東が何も言わなければ、この旅行はサキュバスたちの女子会になるはずだった。厳密な話をするなら、俺はエミットから友達としてこの旅行に誘われたのではなく、江東夫妻から信頼できる監視役としてこの旅行に誘われたのである。六人ともがそれを承知してくれているし、「サキュバスと過ごすんだからそれはそうでしょ」とばかりに、今日中に多かれ少なかれ全員との性的接触があることまでもが話の内に入っているけれど、いざ現場に来てみれば、桃源郷の甘い香りは、人間の身には濃すぎる気もしてくる。
雑談の最中、誰もが俺に気を遣って話を振ってくれた。巴くんだっけ? 仕事何してるの? 好きな人とかいる? 景色とグルメどっちが好き? 普段何してるの? この中で誰が一番好み? 等々……。しかし俺は四方を取り囲むサキュバスの圧に負けて、ロクに話を広げられなかった。エミット一人とならいつも会話が弾むのに、数の差というのは想像以上に難しい物だった。
……しかし女子だけで会話に盛り上がってくれるなら、それはそれでもよかったのだ。特等席でそれを眺めるというのも悪くないはずだった。予定通りに事が進んでいれば、楽しいことだけに満ちた時間が過ぎていくはずだったのに。
……高速に乗ってから三十分前後が経った頃だったろうか。俺たちの乗る車は、カタツムリの歩みにも劣るおそるべき渋滞に巻き込まれていた。事故渋滞だった。
何この渋滞、やばいね……と、地平線まで続きそうな車の列を眺めた誰もがドン引きする。停止することの多くなった車の中からでは、二時間で終わるはずの道のりが実際のところ何時間まで伸びるのかは見当もつかず、押された時間の分、観光計画のうちの断念せざるを得ない部分について思いを馳せることになる。
不幸が不幸を呼ぶ構図。それがまた良くなかった。楽しげだった雑談は完全に水を差されて、まずは渋滞から抜け出せないことには、かつての勢いを二度と取り戻せなくなってしまったのである。
「暇んなっちゃったね……?」
へそ出しさんがそう言いながら、何の前触れもなく俺の首筋に唇を寄せてきた。唐突なことに他五人の目が気になり、咄嗟に身を引いてしまう。
引いた先には目隠れさんがいて、勢いで肩が触れ合うと「わ、」と向こうが小さく声を上げる。けれど驚いているようでいて、相手の体は少しも逃げていかなかった。
「こらー、つまみ食いすんなー」
指輪付きの左手をだるそうにハンドルにもたれかけた姿勢で、バックミラー越しのエミットが後部座席の無法を制する。
サキュバスだらけのこの車内。退屈があまりに続くようだと、本気でエロ漫画のようなことが起こりかねない。……俺はそう期待、もとい危惧したけれど、実際にそういう流れになることはなかった。なぜならそんなことになっては、手前側の後部座席に乗った三人以外があまりにも暇だったからである。
男一人の性欲ではサキュバス一人の腹を満たしきれない。ということは、六人のサキュバスに対して男が一人しかいないこの場では、俺の性欲は全員分のおやつにすらなれないのだろう。そして物理的な理由で、俺の両隣以外の人物は性行為自体に参加することもできない。集団行動としてはそれが大きな問題だった。
仮に自分が奥側の後部座席に座っていて、前の席に男がもう一人いて、その一人だけが暇潰しのエッチにありついていたらどう思うだろう? それが何十分あるいは何時間も続いたら? 俺は羨ましいを通り越して不愉快になるに違いない。……今この場ではそれと似たような構図が成り立っていて、それゆえに、この後みんなで楽しく旅行を続けていくためには、エッチなことをしている場合ではないのである。
「なんかゲームとかしようよ。全員で出来るやつ」
助手席のセアエスが言う。
離れた席の六人全員が参加できるゲームといえば、およそ声を使った物に限られる。しかしいざ種目を募ってみても、
「しりとりとか?」
「盛り上がったことないよアレ」
「じゃあ人狼?」
「ギスらない?」
「ていうか運転しながらやるゲームじゃなさすぎる。ほぼ動いてないとはいえ」
「じゃあ他に何がある?」
「カラオケ?」
「WiFiあればなぁ」
「言うて本当に何もないのでは……」
「あ、古今東西ゲームは? 共通の話題があれば盛り上がるかも」
「共通の話題……?」
……そこで、六人の視線が一斉に俺の方を向く。
まるで、共通の世界観に生きていないのは巴くんだけだから、問題はそこ一つだけだと言わんばかりの視線だった。
俺はその段になって初めて、今日ここへ来たことを一瞬だけ後悔した。そしてその直後、悪いのは渋滞だ、もっと言うと事故を起こした奴だ……と思い直す。古今東西、許せないやつ、休日の高速道路で事故る奴。
……しかしまぁ、何を後悔しても何を恨んでも、自分に出来ることが増えるわけではない。俺は自白するように答えるしか無かった。
「…………すみません、ガンダムくらいしか知らないです」
「お、いいじゃん。じゃあ古今東西、ジオン軍のモビルスーツ挙げゲームね」
「最初に詰まった人の罰ゲーム何にする?」
「お土産奢り」
「六人もいるんですけど」
「え、ちょっ、え?」
信じられない速度でガンダムが受け入れられようとしていた。
そして実際、遅々として進まない車の列の中で、本当にそのゲームが開催された。
「じゃあいくよー。ザク」
「グフ」
「ドム」
「ゲルググ」
「ズゴック」
「ゴッグ」
「え、あ、アッガイ」
「ゾック」
「ジュアッグ」
「アッグ」
「アッグガイ」
「ゾゴック」
「アッザム」
「えー、ギャン?」
いや、これ何の時間? サキュバスにとってガンダムは必修科目なのか?
困惑する俺をよそに、回答は爆速で回った。そしてしばらくした後、最初に詰まったのはチョーカーさんだった。
けれど脱落者が出たところで、特に適切な罰ゲームも思いつかず、そもそも暇潰しとしてはゲームを続けることにこそ意味があるのだという方向に話がまとまっていく。回答の猶予をシビアに決めず、脱落の概念もなく、ただただジオンのモビルスーツを挙げていくだけの会がしばらく続いた。
意外と時間が潰せたのか、それとも謎のやり取りに意識が耐えかねたのか。体感時間としては三十分近くそのゲームが続いたように思う。
……時計がないわけではない車内に居て、体感時間でしかそれを語れないのは、俺がその時点である理由によって、正確な時間を気にするための余裕を失っていたからだ。
途中で目隠れさんが、
「あの、今さらなんですけど、「ザク」の一言でザク系統全部潰れてるのずるくないですか……?」
と物申して以降は、事実上の古今東西ザクシリーズの会が勃発した。
「なら最初のザクはザクⅡだったってことで」
「じゃあ、旧ザク」
「ザクIII」
「あー、ザクスナイパー」
「シャア専用ザク」
「え、それあり? じゃあシャア専用ズゴック」
「シャア専用ゲルググ」
「ザクタンク」
「ハイザック」
「それジオンじゃないでしょ」
「あ、そっか。じゃあサイコザク」
「ドアンが乗ってたザク」
「それもあり……?」
「ゲームだと個別のキャラだし」
「あー、なるほど? じゃあ次、巴くん」
「…………」
「……ザク以外でもいいんだよ?」
「……いや、すみません、そうじゃなくて」
古今東西ゲームは円滑に進みながらも、盛り上がりとしてしりとりに勝るのかは怪しい虚無感がまとわりついている。同じように、渋滞の列も少しずつ進んでいることに違いはないのだけれど、その遅々とした光景に希望を感じることは出来ない。
……そんな状況で俺の身には、刻一刻と深刻な結末が迫りつつあった。
ゲームの答えとしてはザクマリンを思い浮かべつつ、それどころではない俺は誰にともなく……という体で実際はエミットに聞いた。
「……サービスエリアって近くにないですかね?」
「…………ないね」
その短いやり取りを経て、車内の空気が一気に張り詰める。
進むことも戻ることもできない渋滞の中、一人の人間がサービスエリアまでの距離を気にしている。食べ物や飲み物は足りている現状で、そこに求める施設は一種類しかない。……トイレだ。
車内の七人全員が、最悪の結末を想像した。しかし誰もそれを言葉にしようとはしない。この渋滞の中では、俺自身にもそこへ言及する勇気がなかった。遠回しに話題を切り出すことにすら相当な緊張を伴ったくらいだ。
けれど、見ないフリで解決する問題でもない。待ちくたびれた風にハンドルを指で叩きながら、エミットが聞くべきを聞いてくれた。
「ちなみに巴くん、大か小どっち?」
「……大です」
「どれくらいもちそう?」
「……正直そんなには」
「んー……」
エミットは身をよじり、窓の外のあちこちに目を向ける。追い越し車線までぎっしりと車両で埋まっていて、どうにもしようがない光景を改めて確認する。
彼女は普段煙草を吸わない。けれどその時彼女が吐いたため息は、紫煙を吐き出すかのように細かった。
「一つだけ、円滑に解決する方法があるかも」
「それは……?」
「サキュバスの体は生まれつきあらゆる衛生問題を克服してる、ってことは知ってる?」
「…………聞いたことはあります」
「じゃあ、はい皆に質問。スカトロプレイは苦手だよって人は手を挙げて」
……誰一人として、手を挙げなかった。
前の車が車体一台分だけ前に進み、エミットの運転もそれに続く。数キロ程度ではたどり着けないトイレに向けた移動としては、切羽詰まった者の目にはいっそ悪趣味に映る。
エミットが考えていることにピンと来ていない人は、おそらくこの場に一人もいない。誰もがシリアスな雰囲気をまとっていて、その一方で、抗議の意思を示す者は一人もいなかった。
だから俺が言うしかなかった。
「ちょ、ちょっと待ってください。いくらなんでもそれは無理でしょう」
「でも他にどうするの」
「それは……。なんか、こう、アレだけど。せめてビニール袋とか」
「誰か持ってる?」
車内の全員が首を横に振る。
菓子やジュースを人数分持ち込んでいれば、ビニール袋だって自然にあったのかもしれない。けれど人間一人分の飲食物なら、サキュバス六人が小分けに私物として持ち込めば事足りるだろう……という構図が仇になった。
エミットがまた、細く長いため息を吐く。
「……ちなみにね巴くん。言ってなかったけど、わたしは魔法で人の記憶を消せるんだ」
「えっ」
「ただそれにはいくつかの条件があって。特に困ったこととして、一日につき一つの場面の記憶しか消せないんだよね」
「一つの場面っていうのは……?」
「この車内で起こったことの記憶なら消せる。でも、車内で起こったことと、車を降りたあとのことをどっちも消すっていうのは無理。だから「降りたあとには何もしなくてもいい状態」を作りたいのね、わたしとしては」
「……でも、そうは言っても。やっていいことと悪いことがあるだろ……」
「分かるよ。でも、他に手がなくない……?」
「…………」
俺は車の外に目を向ける。神話じみて巨大な百足の節のように並んだ車の列……。その中にいる人たちはきっと、直前までの自分たちと同じように心底暇な気持ちでいる。だからもしも窓の外に何か目立った変化が起これば、それを目ざとく察知して観察するだろう。
立ちションの要領でなんとかするという線は、その意味でほとんど現実的じゃない。公然わいせつだとか、公共の道路に対するなんらかの損害的なことだとか、とにかくどの方面から冗談抜きの法的問題として訴えられてもおかしくない。同乗者のことも考えるとなおさら、こんなことで警察沙汰になるのは、なんとしても避けなければならない。
従って本来なら、尊厳を犠牲にして、気まずさを飲み込む覚悟を決めて、ただ生理的現象に身を任せる他に選択肢はなくなるはずだった。……が、エミットの言う「人の記憶を消す魔法」がその場合でのみ使えないとなると、話が複雑になってくる。
俺たちは今、楽しいはずの旅行に向かっているのだ。渋滞から抜け出したら気を取り直して、しっかりと旅を楽しみたいじゃないか。それを邪魔する記憶を根本から消し去れるというなら、消えない気まずさを全員で抱えて一泊二日を過ごすよりもそちらの方が絶対にいい。間違いなくその方がいい……のだけれども。
いくら記憶ごと「なかったこと」になることが約束されていても。世の中には、人としてやっていいことと悪いことがあるように思う。
それは衛生観念だけの問題じゃない。俺は今まで女性にそんな惨い仕打ちをしたことなど一度もない。当たり前のことだ。俺がそんなことを平気で出来る男なら、そもそも江東はエミットを俺に任せてくれなかっただろう。……ならば今俺が彼女の提案に乗ることは、そういった信頼に対する裏切りになるのではないだろうか。
つまり結局のところ、どちらに転んだとしても、この場の全員の尊厳が危うい。そしてだからこそ、どの方向にも決心がつかない。
「な、なんかないんですか。誰か、ワープ系の魔法があるとか、人体の働きをコントロールできるとか」
「ないね」
エミットの答えに合わせるかのように、全員が無念そうに首を横に振る。そのうちの何人かは、恵まれない人を哀れむような表情までしている。今起きている不幸は、視点と度合いの違いこそあれ、この場の七人全員に共通していることなのに。その哀れみには自身へ対する同情も含まれているのだろうか。
「……無理です。俺が決めていいことじゃない」
俯き、できるだけ腹を刺激しない姿勢をとって、俺は自身以外の六人に身を委ねる。責任逃れだと言われればそれまでだけれど、俺の一存では必ず禍根が残ってしまうような気がしたから。
「じゃあ巴くん以外の六人でジャンケンして決めよう。誰がその役をやるのか」
「え?」
思わず顔を上げる。すると運転席と助手席から、すでに何の形とも言えない手が一本ずつ上がっていた。
両隣の二人もそれに習う。バックミラーを見ると、最後列の二人も同じように手を上げている。
「最初はグーね」
「さーいしょーは」
「待って、勝った方負けた方どっち?」
「そりゃ勝った方でしょ」
「おっけ」
「さーいしょーはグー。じゃーん」
「ちょちょちょちょ! ちょっと待ってください!」
俺は慌ててその地獄のジャンケンを止めに入る。真剣な面持ちの六人が、一斉に俺の方を見た。
古今東西ゲームに困惑していた頃に戻りたい……と走馬灯のように思う。あのゲームが始まった当初はまだ平和だった。しかしザクの話が始まった頃には、俺にはすでに絶望への道筋が色濃く見え始めていた。
聞いた話では、サキュバスは魔法的な力で、自身の生理的現象にすらかなり融通を効かせられるらしい。数時間単位でトイレを我慢することなど当たり前にできるのだろう。だからこそ彼女らは俺に「なぜもっと早くトイレに行っておかなかったんだ」と詰め寄ったりしない。彼女らの瞳の奥には、人間という難儀な生物への哀れみがこもっている。
走馬灯に対して、俺は思った。戻りたいと思うタイミングにしては、それは遅すぎる。そのゲームが始まった頃には、すでに俺は詰んでいた。遡るのはもっと前、雑談が盛り上がっていた頃。少しもその気がなくたって、俺は最初のサービスエリアを通り過ぎる前に「一応トイレに行っときませんか」と言うべきだったのだ。
……いや、ダメだ。それも無理だ。自分以外にはサキュバスしかいない環境で、自分に催すものがないというのに、盛り上がる雑談に水を差してまでどうしてそんなことが言えただろう? 俺はいったいいつから詰んでいたんだ……?
後悔すら満足にできない中、力まないように細く叫ぶ。
「な、なんですか、ジャンケンって。もっとこう、話し合いとかで」
「でも、特に苦手な人もいないし」
「なら逆に、得意な人は……?」
「いる……?」
エミットがバックミラー越しに全員へ目配せをする。……しかし苦手を聞いた時と同じように、挙手する者はまたしても皆無だった。
それを見て、俺はハッとする。彼女らのうちの何人か……あるいは全員が、少なからず嘘をついているのだということを察する。
渋滞中とはいえ、席替えをすることはそれなりに難儀だろう。それゆえに俺たちは、性行為を諦めて古今東西ゲームをしていたはずだ。……であれば、「本当に誰でもいい」のであれば、人柱になるのは俺の両隣に座るどちらかであるのが自然なはず。
だけど実際にはそういう話運びになっていない。ジャンケンという平等かつ事実上ランダムな手段で、車内のうちの一人を犠牲にしようという方向で話が進んでいる。……つまり「誰もスカトロが苦手ではない」という話は嘘だ。そうでなければ説明がつかない。
「なぁ、エミット」
俺は運転席にいる友人に問う。
「少なくとも俺の両隣にいる二人は、平気なんてのは嘘なんじゃないのか」
左右から、ぐっ……と何かが喉に詰まったような音が聞こえた気がした。やはり図星なのだ。
エミットの指は、もう退屈そうに踊ってはいない。彼女はぎゅっとハンドルを握りしめたまま答える。
「そこまで分かってるなら、巴くん。わたしたちに、どんな話し合いをしろって言うの?」
「どんなって……」
そう言われて俺は、今の状況が、想像し得る中で最悪の物になっていることを理解した。
スカトロが苦手なものは挙手をせよ。……その号令に従わなかった全員の心境が必ずしも一枚岩ではないかもしれないと、俺はほんの数秒前までは考えていた。同調圧力から手を挙げられない者もいれば、素の答えとして手を挙げない者もいるのではないかと。そんな可能性を考えていた。
けれどここにいるサキュバス六人は全員が知り合いなのだ。俺がまさにその渦中にいるように、彼女らは横の繋がりで男をシェアする。であれば、そんな気の置けない仲である、性に密接で寛容で奔放な彼女たちは、お互いの性的な得意不得意をすでに共有し合っていてもおかしくない。
エミットの言葉は、それを示唆するものだった。彼女は遠回しにこう言ったのだ。「全員が苦手なのに、何をどう話し合いで決めろというのか」。
性的な得意不得意を知っているくらいなら、お互いの持つ魔法だってあらかじめ知っていたのかもしれない。本人を含む六人全員が、最初からエミットの記憶消去の魔法を当てにしていたとしたら。誰一人として抗議の声を上げなかったことにも一応の納得ができる。
そして実際、押し黙ってしまった俺に、エミットはそれを告げた。
「巴くん。わたしたちはこれから、楽しい旅行をするんでしょ? ううん絶対にする。だからそれには、余計なことは忘れたいじゃない。みんなそのために本気なんだよ」
「で、でも……」
「いいんだよ。ここで何があったって、一つの場面で完結させられさえすれば、全てはなかったことになるんだから。……みんなそれを望んでる。ただそれを、平等な方法で決めたいだけなんだよ」
「でも……!」
もう誰も、無力な男の制止に耳を貸しはしなかった。
それじゃあ行くよ……のかけ声で、全員がグーともチョキともパーともつかない形の手を上げる。「勝った人がするんだからね」と、エミットが念を押した。
「さーいしょーはグー」
車内に、握り拳が六つ掲げられる。
……その一瞬の合間に、俺は、一つの違和感に気がつく。
どうしてジャンケンに勝った人が犠牲になるのだろう? 普通は負けた人がそうなるものではないのか?
そう考えた瞬間に、まだ渋滞の中にあっても平和だった頃に想像した「もしもここにもう一人男がいたら」という仮定がリフレインする。
八人乗りの車で最後列に着席することは、出入りのたびに前の座席を動かさなければならない分、その他の席に座るよりもやや手間になる。それならサキュバスたちだって誰しもが、どちらかというなら中央の方に陣取りたいと思うはずだ。
けれどその時、席順をジャンケンで決めるとしたら。最後列に男がいない今回のようなシチュエーションの場合、負けた人が面倒な後列に行けばいい。けれどもう一人そこに男がいた場合は? 負けた方がそちらに行くという決め方では、なんだかその男の自尊心を傷つけてしまいそうじゃないか……?
俺がサキュバスの立場だったら、決して悪意はないのだということの表明として、勝った者が後列に座るというルールでジャンケンをしていたかもしれない。……ということは、いま目の前で行われようとしているジャンケンも、俺に気を遣ってルールを設定された物なのだろうか。
…………だとすれば、なぜ俺に気を遣う?
この場で起こる全てのことは、車から降りたあと、全員の記憶から綺麗さっぱり消え去るという段取りなのに。どうせ消える記憶の内容について、どうしてそこまで気を遣う?
自身の魔法について語るエミットの言葉が脳裏をよぎる。記憶違いでなければ、彼女はこう言っていたはずだ。「記憶を消すには、いくつかの条件があってね」。
そう、彼女は「いくつかの」と言った。しかし今のところ明かされている条件は「消したい記憶が「一つの場面」に収まる必要がある」という一つだけ。残りの条件とはいったい何なのか……?
「じゃーんけーん……」
俺の前後左右で、掲げられた拳が各々ゆらめく。それぞれの拳がそれぞれの思惑によって、その形を改めて決めようとする。……たった一つのジャンケンに、出てくる手の数は六つもある。
……「一つの場面」とは客観的な話なのだろうか? それとも主観的な話なのだろうか?
客観的に見れば、「車内で起こったこと」という場面は一つしかない。けれど主観的にそれを見るなら、「車内で起こったこと」にはそれぞれの視点がある。俺を含めて計七つもの「場面」が、この場にはあると言えるのではないか。
もしも、エミットの魔法にある「少なくとも一つでは無い条件」のうちの二つ目が、「一場面につき複数人の記憶を消すことは出来ない」という物だったなら。ジャンケンのルールが俺に気を遣った物として設定されたことにも合点がいく。
……俺はこれからこの車内で起こることを、一生忘れられないのだろう。記憶の消去が一人限定なら、それは犠牲者にこそ当てるべき物なのだから。
「ぽん!」
威勢の良いかけ声と共に、全員の手の形が安定した。
俺は、なぜこの不幸は今日に限って降りかかったのだろうと神を恨む。渋滞中にトイレを我慢できなくなる。そんな不幸自体は、誰の身に起こってもおかしくない。けれどそれが、なぜよりによって今日なのか。子どもの頃、家族旅行で巻き込まれた渋滞でもなく。大人になってから、帰省の際に巻き込まれた渋滞でもなく。なぜ、最も取り返しのつかない今日なのか。
バックミラーに目を向ければ、車内全体に掲げられた手が見渡せる。……乱立した平和の象徴の中に一つだけ、握り拳を掲げたままの者がいる。
渋滞からはまだしばらく、抜けられそうもない。