「んー……」
鉛筆を片手に思案する。目の前には問題集。
うんうん唸ってもう三十分が経過している。一問題に割いていい時間量じゃない。
「……分からない……」
先生や友人に解き方を教わった。解説動画も見た。それでも尚、『どうしてそうなるのか』が理解できなかった。
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「……参ったな。君に泣かれると、私はどうも弱いらしい」
「う゛ぅ゛ぅ~……カ゛イ゛チ゛ョ゛ー……!」
今さらだけどボクは高等部に上がっていて、今日、憧れのカイチョーは卒業する。
カイチョーとの思い出はトレセン学園に入学する前から始まっている。そして、いつも隣には招がいた。
「どうか笑顔で見送ってくれ、テイオー。君にはやはり笑ってほしい」
「グス……う、ぅぅ……!」
憧れだ。大好きだ。どこかパパみたいで、ボクの核には招と同じくらいカイチョーがいて。
「……バイバイ、カイチョー。元気でね」
「ああ。私の夢に終わりはない。いつか再び交わることもあるだろう。それまで君が元気溌剌でいられるよう、心から祈っているよ、テイオー」
……寂しい、筈なんだ。実際それに間違いはない。なのにボクは、あの有馬記念から招のことばかり考えている。
ボクだってもう子供じゃないから、理解はしていた。この感情の種類を。
招が好きだ。友愛的にも家族愛的にも恋愛的にも大好きだ。
でもきっと、こんな感情を曝け出したら招はきっとボクを拒む。
だからこの思いは大事にとっておく──つもりだった。
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「今回も赤点ギリギリか……」
「補習無いんだろ?なら合格と変わらねぇじゃねーか」
「……ありがとう」
友人に励まされながらテスト用紙を畳む。復習は忘れずにしているのに、何かを掴む兆しは見えない。
──折れそうだった。
テイオーちゃんは、どん底に叩きつけられても這い上がったというのに。僕は毎日の勉強すらままならない。
どれだけ努力すれば、みんなに追いつけるのだろう。テイオーちゃんのような輝きを、僕もいつか得られるのだろうか。
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『もしもし、招?』
「うん。どうしたのテイオーちゃん」
今日もテイオーちゃんとの電話以外の時間は全て勉強に注ぎ込んでいた。彼女と話す間だけ、僕はあの時の越雲招でいられる。
……救われていた。テイオーちゃんの音調が、僕にとって何よりの寄る辺だった。
「フー…………」
『?どうしたの?』
「あーいや、ちょっと疲れちゃってね」
『大丈夫?ちゃんと寝てる?』
気遣いが、痛い。
トウカイテイオー。誰よりも輝く、僕の幼馴染み。幾度折れかけても立ち上がり、栄光の舞台に立ってみせた。
こんな僕とは、違う。
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「はぁ……」
「どしたのテイオー。そんなため息ついて」
「あ、ネイチャ」
お昼時、カフェテリアのランチをつつきながらため息を零すボクに声をかけてきたのはナイスネイチャ。前々からそれなりに交流がある、ボクの友達だ。
「最近親友が元気なくてさ」
「あー、有馬の時言ってた人?」
「そ。いっぱい励ましてもらったから、ボクも力になれたらなーって思ってるんだけど……」
「……アンタさ、時々眩しすぎるんだよね。余計なお節介かもしれないけど、深く干渉しすぎたら逆効果になるかもよ?」
「……うーん、そうかもしれないけど……」
最近、寝ても覚めても招のことばかり考えている。
招の全部が欲しい。そんな欲望が時折脳を刺す。
「……ボク、その人のこと好きなんだよ。この世界の誰よりも」
「ッスゥー、話が変わってきましたねぇ……」
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「マヤノはどう思う?」
「マヤ分かんないよ……」
連日そんな問いを投げかけていた所為か、マヤノはキャパオーバーに陥っていた。ボクと同じ天才でも人の心を紐解くのは難しいってことなのかな。
「……テイオーちゃんは、招ちゃんに嫌われてる感じは無いんでしょ?」
「表面上はね。……あ、でも……」
思い返す。招の部屋で引退宣言をした時のこと。
『──ッ、ボクは招みたいに強くない!』
『……そういうとこだよ……!招のそういうとこ、ホントに嫌いだ……!』
ボクは言ってしまった。いつも助けられていたのに、最低な突き放し方で。
……嫌われちゃったかな。招ならきっと『そんなことないよ』って言ってくれるだろうけど、それはそれとしてボクは酷いことを言ってしまった。
そんなボクに、招を求める権利はある?
みたいなことを考えていると──
「わっ」
「もしかして……招ちゃん?」
スマホが震え出す。パパかママかなと思って画面を見ると、招から。
「……ちょっと外行ってくるね」
「消灯までには帰ってねー」
部屋を出て、人気がない場所に向かいながら応答した。
「もしもし?珍しいね、招から電話かけてくるなんて」
『……テイオーちゃん……』
「……どうしたの?何かあった?」
招の声はどこか意気消沈で、いつもとは違った危うさが残っている。
『……ちょっと聞きたいんだけど、テイオーちゃんはなんで僕の親友になってくれたの?』
「え?り、理由?」
キミが好きだから、と言葉にするのは簡単だ。だけどボクの中にある罪の意識が、それを阻んだ。
「……キミはさ、いつも頑張り屋で、優しくて、ボクの支えになってたんだ。だからボクもキミを助けたいって思ったし、何よりあの有馬記念で最後にボクを奮い立たせてくれたのは、キミなんだよ?そんな風に招はいつもボクの中にいたから、だから、親、友……」
ブレるな。ボクはどこまでいっても『親友』止まりだ。それ以上は、望んじゃいけない。
『……そっか。ありがとう、テイオーちゃん』
「……ホントに大丈夫?何かあったなら相談乗るよ?」
『大丈夫。僕、″頑張る″から』
その言葉に込められた違和感。今、これが何かの分水嶺だという予兆を感じ取った。
『改めてだけど、電話出てくれてありがとう。それじゃ──』
「ま、待って招!」
『ん?』
「…………いつでも頼ってくれていいから。しん、ゆう、だから……だから、いざとなったらボクがキミの味方になるから、さ……。……あー、何が言いたいんだろ。と、とにかくボクを頼りにしてくれていいからね?」
『……ありがとう。それじゃ』
電話口から聞こえる。息を小さく吐く音。それは微笑むようで、或いは──諦めるみたいで。
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「招、お前大丈夫か?」
「……なんでそう思ったの?」
「いやお前……見るからに憔悴してるぜ」
「……ちょっと、徹夜しすぎたからかな」
最近よく眠れない。勉強しなければという強迫観念が意識を常に覚醒させている。
僕は、人一倍努力してようやく半人前だ。だから、
『……キミはさ、いつも頑張り屋で、優しくて、ボクの支えになってたんだ』
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「越雲くん、反応速度落ちてるけどどうしたの?」
「……すみません」
「いや責めてるわけじゃないんだよ?だけど……最近眠れてる?目の隈すっごいよ?」
心配させてしまっている。同じかるた部のメンバーにも気を遣わせてしまっている。
「越雲くん、今日は早めに帰っていいよ。ちゃんと眠ってからまた頑張ろうよ」
頑張る。頑張る。それが僕の全てだ。それができない僕に、電池切れの僕に……価値は無い。
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「────あ」
思わずそんな言葉が漏れた。帰ってきたテストの答案用紙。そこに記されていた点数は──クラスの平均未満。要するに赤点だ。
「……招、補習なら対策手伝うぜ」
「……うん。ありがとう」
友人も、テイオーちゃんも、人一倍優れている。僕とは不釣り合いなぐらいに輝いている。
──やっと同じとこまで墜ちてくれた。
あの時過った想念を否定する。堕ちてくれた?バカを言え。ハナから立つ舞台が違う。彼女は特別で、僕は、欠陥品。
……まだチャンスはある。彼女の親友でいるためにも、諦めない執念だけは持たないと、そうでないと僕は──僕を諦めてしまう。
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「はっ、はっ……」
昔から走るのは好きだった。ボクがウマ娘だからってのもそうだし、何より勝てば賞賛を貰える。招に凄いと思ってもらえる。
褒められるのが好きだった。認めてもらえる、褒めてもらえる。どれもボクの心をくすぐった。招の親友として強い自分でいたかった。
『だから──走れ!トウカイテイオー!』
諦めかけた時、招から受けた檄は何よりも強くボクの心を打った。幼馴染みという補正を抜きにしてもあの時の招はカッコよくて、今もボクの中枢に深く刻まれている。
好きだ。招が好きだ。招のためならなんだってしてあげたい。なんだって捧げてもいい。
心が膨れ上がっていく。自分勝手に招を欲してしまう自分がいる。だけど、嫌われたくない。もうあんなカッコ悪い所は見せたくない。
ボクは帝王だ。なら、王は強く在らないと。
……でもやっぱり好きなんだよな~……
「お疲れテイオー。今日はここまでにしようか」
「うん。ありがとトレーナー」
トレーナーはイケメンだなーとは思う。だけど心から陶酔させられたのはあの時の招にだった。容姿の良し悪しよりも、心そのものを掴まれてしまった。
「ねえトレーナー」
「ん、どうした?」
「……やっぱりボク、招が欲しいんだ。……この気持ち、どうやって処理したらいいかな」
そう言うと、トレーナーはしばらく思案していた。返答はありきたりだけど、でも納得できるものだった。
「カッコいい所を見せたいんだろ?なら、その気持ちを走りにぶつけてみたらどうかな」
「あー、昇華ってヤツ?」
モヤモヤ、グズクズと燻る恋心。この熱量を走りに転換できたなら、ボクは今以上に最強になれる。
……よし!ウジウジ悩むのは止め!
招のために。そのためなら、どんなライバルが相手でも勝ってみせる。
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「あー、越雲、残念だが……」
僕は僕に負けた。努力は、届かなかった。
目の前には気まずそうに点数を伝える教師。補習でさえも、僕は満足にこなせなかった。
罅が入る。
あ──これはもう、ダメだ。
僕は、これ以上頑張れない。
『だから──走れ!トウカイテイオー!』
あんな大言壮語をほざいておきながら、結局はこれか。
努力に裏切られたとは思わない。報われるまで続けるのを努力と呼ぶから。
でも、何度解説を見ても何度実践しても理解ができなかった。
教師は熱心に教えてくれた。友人も最大限に助力してくれた。その期待にも、僕は応えられなかった。
補習がダメでも留年が確定したわけではない。その次の補習で取り返せば挽回はできる。
だけどもう、無理だ。僕は、折れてしまった。
「……ハッ」
「……越雲?」
僕は笑った。笑い続けた。瞳から溢れ出す嘲笑が、脳から零れ出る絶望が、僕を染め上げていった。
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最近、招に電話が繋がらない。それだけで軽く絶望しちゃったけど、嫌われてるってわけではない……と信じたい。
今は年末。ボクは地元に帰る。電話がダメなら、せめて招の現状が知りたい。
『はーい、どなたー?』
「ボクでーす」
というわけで実家に突撃。インターホンを押すと招のママが応対してくれた。
今の時間帯なら招も家にいる筈。親友として、どんな状態に置かれているかを把握しときたいという思考があった。
そんなことを考えていると玄関のドアが開いた。
「はいはい、お待たせー。ごめんねテイオーちゃん、今招ちょっと休んでて──」
「いや、大丈夫だよ母さん」
「招っ!?」
「……ま、招……!?」
招のママの背後に、幽霊みたいな存在感で招は立っていた。目は落ちくぼみ、髪はボサボサで、頬はガリガリに痩せこけている。
「どうしたの?またゲームでもする?」
「……っそ、それどころじゃないよ!大丈夫なの!?」
「僕のことなんか気にしなくていいよ。ごめん母さん、二人きりにさせてくれる?」
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「ごめんね、最近電話出られなくて」
「そんなことよりも……!招、どうしちゃったの……?」
「ダメだったんだ。全部。僕はもう、胸を張ってテイオーちゃんの親友を名乗れない」
話をした。絶えず頑張り続けてきた招は、ギリギリまで磨り減っていた。それが赤点という一滴で完全に切れてしまった。
「……ボクの、所為で……」
「君は何も悪くない。ただ僕が、ダメ人間だっただけなんだよ」
ボクが頑張り屋だと言ったから、招はずっとそれに応えようとしていた。ボクが──招を呪っていた。
「厄介な精神病になっちゃってね。だから電話に出られなかったんだ。テイオーちゃんにこれがバレて、失望されるのが怖くて」
「失望なんてっ!そんなことする筈ない!ボクは……!」
招が好きだから、なんてどの口が言える?ボクの所為でこの人は壊れてしまったのに。
──じゃあ、招を諦める?今度はボクが頑張るのを止めるのか?
……いや。
ボクは、招が好きだ。招のためならなんだってしてみせる。だからボクが、今度はボクが。
「テイオーちゃん」
「……なに?」
「僕は……もう、ダメなんだ。君の隣に立つのに相応しくな──」
「招」
招は泣いていた。そんな彼を、思い切り抱きしめる。
「ボクね、キミが好きなんだ。あらゆる意味で」
「……ぇ……」
「キミがいたから、ボクは走ってこられた。だから誰が何て言おうと、ボクの『一番』はキミだけ」
「…………」
「招は、ずっと頑張ってきた。ボクのために応え続けてくれた。だからボクは走っていられた。だからもう、いいんだよ」
「テイオー、ちゃん……」
「逃げていいんだよ、招。その隣にはいつだってボクがいるから」
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足が棒になりそうだった。小遣いをやりくりし数日間かけて、僕は歩き続けていた。
精神病によって通学が困難になった僕は留年になった。退学届を出したため、もう僕はあの高校の生徒じゃない。
そうしてまた歩き続けて、夜になってやっと辿り着いた。
「もしもし、テイオーちゃん」
『もしもし?どうした?』
「今、トレセン学園に着いたんだ」
『……えっ!?今外土砂降りの大雨だよ!?』
「逃げてきちゃったんだ」
『──待ってて、すぐ行くから』
数分もせず彼女は僕の元へ来てくれた。
本当は止めてほしかった。僕なんかのために未来を奪われてほしくなかった。
だけど、それと同じくらいに僕は彼女を欲していた。今になって、好きだと知ってしまった。
「お待たせ、招」
「……テイオーちゃん。最終確認なんだけど、本当にいいの?」
「……ふっふっふー、ワガハイは結構一途なんだよ?ちょっとの問題なんてどうってことないよ!」
そう笑むと彼女は僕に近づき、差していた傘を放り投げた。
「──はい。これでボクも墜ちちゃった」
酩酊すらしてしまいそうな甘い視線。
僕は太陽を堕とした。
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「父さん、母さん。僕……」
『大丈夫。分かってるから。招は自分のやりたいように生きていいんだよ』
「……ありがとう」
──────────────────────
その日からトウカイテイオーと越雲招は姿を消した。
彼らが行き着く先はどこになるか、どんな道を辿るかなど、誰も知る由はない。
ただ一つだけ言えることは、互いを求め合った、その結果がこの状況とするならば。別れが二人を引き剥がすことは、決してない。