銀色の綺麗なコップ。荒れた室内を鏡のように映す二つのコップに、アウルスは水を注いだ。
トクトク、トクトク。
水面が徐々に上がり、そこに、屈折してボヤける一人の少年の姿が映る。
10歳とは思えないやつれた姿。
姉ちゃんを失った僕の姿が、揺れる水面に反射した。
トンっという音と共に、僕の前に置かれる水。
置いた主。村長と呼ばれていた男が机越しに、僕と向かい合わせに腰掛ける。
そして、そのまま、薄笑いを浮かべ、彼は口に水を含む。
「ワイングラスで水を飲むというのも、中々乙な物だな」
「…」
僕がコップと勘違いしていた物はグラスというらしい。
確かに、それは僕が見たこともない造形だった。
上半分は丸みを帯びており、そこに水が注がれる。
そして下半分に棒が付いており、その棒を指で挟むことで持ち手として固定する。
新しい発見、姉ちゃんに自慢したかったなぁ。
そんな僕の思い。
村長は切り裂くように、口を開く。
「もう、私のことは殴らないのか?」
「はい、もう殴らないです。ごめんなさい」
僕は謝った。
時が経って、少し冷静になって、目の前の男への怒りよりも、自分への情けなさが勝ってしまった。
僕は、姉ちゃんが供物になることを止められない。
そもそも、姉ちゃんを遺体にしてしまったのは僕で、悪いのは僕。
命を救えず、遺体すら守れない。
悪いのは、全部僕。
後悔と情けなさが、僕の心を蝕んでいた。
僕は後悔だけを燃やし、一向に水を飲もうとしなかった。
というより、別に要らなかった。
だって、喉も乾かないし、お腹も減らないんだから。
動かない僕。
村長はそんな僕の姿を見て、再度ゆっくりと口を開く。
「水は飲まないのか?」
「飲みません」
「ご飯は?」
「食べません」
「……そうか」
聞いてくる村長。
彼は、グラスをゆっくりと回しながら、僕を見つめる。
「飲みもせず、食べもしないなら、暇つぶしに私の話を聞いてくれるか?」
「……」
喋らない僕。
沈黙は了承と受け取ったのか、彼が口を開き、話し始める。
「私の父は偉大な村長であり、偉大な親だった」
村長が言葉を放つ。震えは無く、針金のように芯が通っている。
言葉を続ける村長。そんな彼に、迷いは無いように見えた。
「フロット村を急成長させた父。そんな私の尊敬している父は、此度の襲撃で殺された」
僕は、黙って聞いていた。
自身の映る水面を見て、ただ黙って。
動かない視線。だけど、思うことはあった。
「凄い、ですね。僕は姉ちゃんを失って、そんなに強く、堂々となんていられない」
僕は、姉ちゃんが全てだった。
僕には出来ないと思った。『無理して』姉ちゃんの死を乗り越えることなんて出来ない。
そう思った。
そして、僕は、目の前の男が『強い』と思った。
僕とは違って『凄い』と思った。
だって、家族が死んだのに、僕と一緒なのに、こんな堂々としていられるんだから。
僕の言葉、思い。
しかし、そんな僕の心に、目の前の男は否定を示す。
「凄い、か。私は君の方が凄いと思うがな」
若き村長の考え。
未来への向き合い方が、明らかになる瞬間。
「私は、父から様々な物を貰った。礼儀作法、戦術、人との接し方。父から貰った『教育』は死しても尚、私の血肉として流れている」
血液が巡ることを表すように、目の前の男がグラスを回す。
少し減った水は安定感を保ち、グラスの中を巡る。
『教育』それを受けて流れ続ける『血肉』
僕は、この言葉に目を見開いた。
姉ちゃんからの教え。
後は、気付くだけだったんだ。
「そんな教育の最後は、一貫している」
誰もが通る道を教育として。
この言葉が、僕の心に突き刺さる。
「教育の最後は死。お前は、姉の死に何を学んだ?何を受け取った?」
「…」
教育の最後は『死』この言葉が、不思議なほど僕の心に残った。
この人とは初対面で、知らないことばかりだけど。
きっと、僕と同じなんだと思った。
大切な人を亡くして、亡くしたからこそ、無駄にしたくない。
教えてもらったことを、大切な人のことを、終わらせたくない。
僕は再度、水面に映る自分自身を見つめた。
頬は凹むほど痩せこけ、唇はひび割れて青い。
姉ちゃんがこの姿見たら、どう思うかなぁ。
……悲しむよな。
姉ちゃんから学んだもの。そんなの分かり切ってるじゃないか。
懐に飛び込んで殴る、たった一つの技『インファイト』
姉ちゃんとのインファイト。
それは、咄嗟に出てくるほど。今でも僕の血肉として流れてる。
「姉ちゃんは、僕より何倍も、何十倍も強くてかっこよかった。僕は、そんな姉ちゃんを亡くしました」
「そうか…」
今でも思い出す。大切な人の首。
ほんのり温かくて、少し柔らかい生首。
でも、大切にするのは姉ちゃんの遺体なんかじゃない。
大切にするのは、姉ちゃんの教え、インファイト。
姉ちゃんは、僕の中で生き続ける。
「僕の名前はネルフ・ムラン。得意技はインファイト」
姉ちゃん、見てて。
姉ちゃんの教えは、僕に届いてるって証明してみせるから。
「ホムラ・ムランの弟として。そして、インファイターとして。僕が、この思い出の村を守ります」
僕は、鋭い瞳で村長を見つめた。
猛獣のような圧を、今度は僕が向ける。
それは、目の前の凄い人。村長が気圧されるほどの覚悟だった。
「最高だな、ネルフ・ムラン」
僕は、両の拳に力を込める。
村長は、そんな気迫を跳ね返すように大きな声で宣言した。
「このアウルス・ガルーラ。フロット村の村長として約束しよう」
ネルフ・ムランの物語。何も知らぬ少年の物語が今、アウルスの宣言と共に始まる。
「村を守り抜き、死人の無念を晴らす。最高の村にすることを、必ず!」
彼の力強い言葉。
僕は、その言葉を聞き、目の前のパンをかじった。
姉ちゃんの無念を晴らすため、若き村長の期待に応えるために。
栄養失調にならないためだけのパンは、硬かった。
だけど、溝(どぶ)の味はしない。
少し、苦い。そう、この味は『覚悟』の味だったんだ。