十字路を曲がった先で、先生と鉢合わせた。
「あ」
と思わず声が漏れる頃には、先生もこちらに気付いている。黒のパンツスーツを纏った長身に、白の長髪と青い瞳。連邦捜査部シャーレ顧問であることを示す名札には、葵・硝子という名が併記されている。そんな彼女はタブレットの操作をやめ、こちらに軽く手を上げると、
「おはよう砂狼君。今日は朝からアビドスかね」
「ん、仕事も特になかったから。それとおはよう、先生」
言って、隣に並ぶ。こちらより身長の高い先生は一歩のストライドが大きいが、即座にこちらの歩調に合わせた。昔はそういった細かい気遣いにも気付くことが出来なかったが、改めて様々な面から大事にされていたのだと自覚する。こっちの私はその辺ちゃんと分かってるのだろうか。気付いてなかったら一発ぶちかまさねば。
「何やら殺気が滲み出ていないかね砂狼君」
「気のせい」
それと、とシロコは傍らを見上げた。見下ろすのではなく、真っ直ぐに視線を返して来る先生に向かって、
「デカ狼君って呼ばれるの、結構気に入ってる」
誰が相手でも苗字呼びを崩さない先生の、数少ない例外が二人のアロナだ。姓がないという事情もあるが、それを除けばあだ名で呼ぶことさえしない。デカ狼という呼称を除いては。故に一種の特別扱いとして、シロコは割と喜んでいるのだが、
「だが君は砂狼シロコ君だ。呼び分けが必要な場合は仕方ないにしても、今ここには君と私しかいない。ならば名は正しく呼ばれるべきだよ砂狼君」
返る言葉は想像していたものと同じで、思わず口元が緩んだ。
自分は確かに砂狼シロコだが、この世界の存在ではない。こちらの世界には既に砂狼シロコがいて、自分はあくまで来訪者。先生を間に挟んで殴り合ったり、対策委員会の面々との付き合いもあるが、外様である事実に変わりはないのだ。皆はその辺り気にせず相手をしてくれるが、だからといってこちらのシロコの居場所を奪ってはいけない。
が、先生は知らずか敢えて無視しているのか、他の生徒やこちらのシロコへの態度と全く変わらないまま接して来る。
彼女は己の知る先生ではない。それは分かっている。だがあまりにも「そのまま」過ぎて、時折境目が揺らぐのも確かだ。
だからつい、甘えてしまう。
先生と一緒にいると楽しい。
何故か時たま周囲に甘引きされる自分の言動にも、先生は笑って乗っかってくれて。
体力を付ける口実で一緒にロードバイクを走らせたり。
実行しないと約束の上で銀行を襲うプランを練ったり。
シャーレの手伝いに行って燻製やコーヒーを貰ったり。
街中へ二人で遊びに出てガチャポンにムキになったり。
アビドスで過ごした思い出は多々あれど、真っ先に思い浮かべてしまうのはやはり彼女のこと。
そんなかつてをなぞるように、皆が生きていて、笑って過ごしていて。
今の己のような悲哀や絶望も知らず、日々を謳歌している自分がいて。
何もかも昔に戻ったようで、本当は夢を見ているのではないかとさえ思ってしまう。
だからこれが現実だと、目の前の何もかもが本当なのだと確かめたくて、つい寄りかかってしまう。
彼女は先生。生徒を見過つことなく、受け止めてくれる立派な大人。自分のような外様でも、生徒であるならば決して拒まない。
だからなるべく、一人の時は会わないようにしていた。
ストッパーがいないと、自分でもどうなるか分からないから。
自分は余所者だと意識していないと、何もかもを求めてしまいかねないから。
「ところで最近、調子はどうだね砂狼君。聞けばこちらの世界の砂狼君とサイクリングを始めた、というか再開したそうだが」
「ん、久々だから感覚が戻ってないところもあるけど、やっぱり楽しい」
「それは重畳。趣味は己の幅や交友関係を広げてくれる、適度に励むといい」
「……先生は書類アートで友達増えたの?」
「んンンンン、痛いところを突かれてしまったねこれは。一部にはそこそこウケているのだが」
「SNSに載せたらバズりつつ炎上しそう」
「曲がりなりにも機密情報を全世界へお届けする訳には行くまい」
「そういえばそうだった」
取り留めもない雑談を交わしつつ、シロコはゆっくりと歩を進める。己の抱えた感情を、胸の奥深くに沈めて。
うん、大丈夫。
アビドスまではそう遠くない。このまま何気ない会話を続け、教室に辿り着けばいい。そこまで行けば皆もいて、揺れてしまった感情も元に戻る。後はいつもと変わらない、賑やかで退屈しない一日を送って、解散。行ける。大丈夫。だから落ち着いて、普段通りに、
「砂狼君」
「何?」
珍しくこちらではなく前を見たまま、先生が口を開いた。
「プレナパテス君、と呼ぶのも失礼か。もう一人の私が最期に残したメッセージ、つまるところ遺書のようなデータをプラナ君が復元した」
「────」
思わぬ言葉に足が止まった。
先生はそのまま三歩を進み、こちらの正面で振り向いた。伸ばされた手にはいつものタブレット、破損のないシッテムの箱が握られている。その画面に封筒のようなアイコンが二つ置かれていて、片方には己の名が書いてあった。
「小鳥遊君の一件を経て、ある程度吹っ切ったのは承知の上だ。だが、だからといって知らせずにいるのも誠実ではないと思ってね。無論君が望まないのであれば、こちらで処分しても構わない。どうするかね?」
反射的に手を伸ばし掛け、しかし理性がその動きを止めた。宙で泳いだ手は見るまでもなく震えていて、呼吸が荒くなっているのが分かる。
何で突然そんな、という思いはあるが、原因は分かりきっている。自分だ。皆がいる場以外ではなるべく先生と会わないようにしていて、そして皆がいる前でさすがにコレは話せない。たまたま鉢合わせて、日々をそれなりに楽しんでいることを確かめ、かつアビドスに到着する前というこの状況だからこそ、先生は決めたのだろう。
既に晴れたとはいえ、己の最大の後悔を抱えた相手の遺した言葉だから。
目を閉じ、息を吸って、吐く。意識して酸素を多く取り込み、揺らいだ意識を落ち着ける。目を開ければ普段通り。対外的にはそう映っているはず。出来ていないかもしれないが、そこに触れない優しさは先生にもあるだろう。だからシロコは一歩を踏み出し、両の手でタブレットを受け取った。
「……内容は?」
「それぞれ、プラナ君と君に宛てたものだ。プラナ君が復元の為に中身は改めたが、修復完了後閲覧した記憶は消去した。つまり中に何が書かれているか、知っている者はこの世にいない。正真正銘君だけのものだ。それでもプラナ君は後で謝罪しに行くと言っていたが、大目に見てやってくれたまえ」
気にしないで、と首を振った。さすがに判読不可能な文字列を渡す訳にも行くまい。むしろこのようなものを届けてくれたことを感謝すべきで、謝罪される理由などないのだから。
先生から視線を外し、画面を見た。喉が鳴り、抑えたはずの震えが戻って来たような錯覚がある。一人では到底見ることが出来なかっただろうが、先生は変わらず目の前で立ったまま。真剣な、しかし優しさを感じられる眼差しを向けて来ている。
ならば、みっともないところなど見せられない。
一思いに、己の名が書かれたアイコンをタップ。展開されるのは簡素なテキストエディタ。映し出される文字の並びを視界に捉え、目を通し、意味を理解して、
「────」
内容は、たった三行。
だがそこに込められた想いは、しっかりと伝わって来て。
膝から力が抜けて座り込んでしまいそうになり、しかし寸でのところでシロコは堪えた。徐々に視界がぼやけ、濡れたようになって行くのを自覚し、
「……もし」
震える声で、シロコは問うた。
「もし先生が、同じ立場だったとしたら、……私に何を伝えると思う?」
「……なかなか難しい質問だね」
視界の端、先生が口元に手を当てた。その声に疑念や困惑の色はなく、ただただ温かくて。ほんの数秒、しかしシロコにとっては永遠とも感じられる緊張を経て、先生の苦笑が聞こえた。
「幸せになれ、などはありがちだがナンセンスだろう。期待であろうと幸福であろうと、強要されれば重圧にしかならん。幸せにならなければならない、という風にね。だからそうだな──」
●
好きなように生き、思うがままに過ごし、望んだ道を行きたまえ。
そして無理のない範囲で幸せになるといい。君にはその権利がある。
──願わくばシロコ君の未来に幸多からんことを、心から祈っている。
●
「……とまあ、表現は違えどこんなところでは──、おっと」
聞き終えるよりも早く、シロコは先生の胸へと飛び込んでいた。
抱き締める。掻き抱く。目の前に存在する奇跡を、もう二度と手放さないと力を込める。
「ありがとう、“先生”」
それが“彼女”への最後の言葉。今後も思い返したり、何かを伝えたりはするだろうが、引きずって来た想いに対する答えはこれでおしまい。
公人としての立場を徹底していた先生が、最後に名前を呼んでくれた。
先生としての言葉はあの時にもう伝えたからと、そういうことだろう。
先生の過去を知っているからこそ、名で呼ばれることの重みは痛い程に分かっている。
「先生、私、幸せになれるかな」
「それは君の心持ち次第だよ砂狼君。一文無しの根無し草とて、日々が充実していれば幸いだろう。全ては周りから見た環境や境遇ではなく、自分にとってどうであるかだ」
「ん、そう言うと思った」
頷くと、涙の残滓が零れ落ちた。今更ながら先生がこちらを受け止めて、あやすように頭を撫でてくれていたことに気付く。失われたかつての未来においても、“彼女”は時折そうしてくれた。
今、“彼女”と全く同じ受け止め方をして、“彼女”と全く同じ言葉をくれる人がいる。
過去は変わらない。だが不変の過去を行動の指針とするが故に、如何なる困難を前にしても揺らがず折れない。己の知る“彼女”がそうであったのなら、目の前の彼女とてそうなのだ。そんな“彼女”に託されたからこそ、尚更に彼女は諦めない。“彼女”がそうであったように、例え死んでも諦めない。“彼女”の意思は彼女の中で、何より己の中で生き続ける。
ならば自分は、何も失ってなどいなかったのだ。
「先生はやっぱり“先生”だった」
「私は厳密には彼女ではないよ?」
苦笑する彼女の答えは噛み合っていないようで、しかしこちらの内心は通じているだろう。イコールではないのだから、“彼女”を己に投影しているだけなら後で苦しむことになると、そういう優しさからの皮肉だ。だけど、
「私、本気だから」
もう我慢しない。抑えようなんて思わない。遠慮も気兼ねも何もかも、無責任に放り出そう。
こちらの重荷にならないよう、しかし幸せを祈ってくれた人がいた。
あらゆる罪と咎を背負い、それでもなお守り抜いてくれた人がいた。
好きなように生きる。思うがままに過ごす。自分が望んだ道を行く。
それが“彼女”に贈る答えであり、彼女に示す意思であると、シロコは己の芯を定めた。そう、だから、
「先生の隣に立ちたい。先生の背中を任されるパートナーでありたい。先生に守られる子供じゃなくて、先生と一緒にいて恥じない大人になりたい」
それは文字通りの意味であり、しかし裏に確かな想いを秘めたもの。奇人とか変人とかキチガイとか不規則言動の印象ばかりが先に立つが、先生は聡い人だ。ちゃんと通じているという確信がある。全てを明言してしまえば、立場故に断らざるを得ないと分かっているから、今はこれが精一杯。それでも、
「ならば──」
それでも生徒に対し真摯に向き合い、安易な承諾や拒絶はしない。先生はそういう人だ。
「ならば日々励みたまえ。実るか実らぬかはこれから次第だろうが、己を研鑽し身に付けたあらゆる全ては、必ず君の糧になる。それはきっと君の行く先を、明るく照らす導きとなろう」
だから、と先生が笑った。肩に手を置き、少しだけ距離を開け、こちらを青の双眸で真っ直ぐに見据え、
「私が先生でなくなった時、君の意思が変わっていなければ、私は君の言葉に答えよう」
それだけで、シロコには十分だった。
「ん、約束」
「では君も覚悟したまえ。約束したからには私の返答を聞くまで死ぬことも去ることも許さん。天国の果てまで追い掛けて、嫌だと言っても答えを聞いてもらう」
「それを言うなら地獄じゃないの?」
「君は地獄に落ちるような悪人ではあるまい」
そっか、とシロコは笑った。嬉しさ故とはいえ泣き顔を見られたくはないので、彼女の胸に顔を埋める。昔日の記憶が脳裏を過ぎるが、そこにもう寂しさはない。
全ては繋がって、続いているのだから。
……ん。
決して途絶えることのない繋がりが、また一つ増えた。その奇跡を噛み締め、頭を撫でられるに任せていると、不意に異質な音が聞こえた。
足音。
反射的に顔を上げた先、十字路の角を曲がって来た姿がある。
自分だった。
「あ」
目が合う。言い逃れの余地がない程バッチリしっかり、完璧に視線が交錯した。互いに漏れた声のせいか、背後故彼女が見えていなかった先生も振り向いて、
「おや、おはよう砂狼君。今日はいつものロードバイクではないのかね?」
全くブレず普段通りに挨拶してる辺り、やっぱり先生は大物だとシロコは思った。
「……ん、おはよう先生。今日はちょっと歩きたい気分だった。でも、今はもっと大事なことがある」
予想だにしない光景に固まっていたこちらのシロコも、先生の挨拶とあっては反応せずにはいられずどうにか復帰。が、即座に大股で距離を詰め、先生が挨拶の為に上げた右腕を抱き寄せると、
「先生と何してたの」
見上げる視線には明らかに嫉妬の色がある。当然だろう。途中まで己と同じ経過を辿っているのならば、彼女にとって先生という存在は対策委員会の面々と同じくらい重い。それが別の世界の己とよろしくやっていれば、良い気などしなくて当たり前。普段なら少しからかいつつ、すぐに先生から距離を取っている場面。
……でもね。
タイミングが、あまりにも悪かった。そんなこちらの己の不運に少しだけ同情しつつ、しかし内心で笑みを浮かべながら先生の左腕を抱え、
「ん、先生にお嫁に行けなくなるようなことをされた」
告げた台詞に、こちらのシロコが再び固まった。
一連の出来事で感情が目まぐるしく駆け巡り、頬は紅潮して泣いた痕もある。おまけに先生の身を抱き締めて見詰め合っていたのだから、誰が聞いてもどう見てもそういう連想に至るのは道理だろう。あと一応嘘は言ってない。やがて油の切れた機械のような動きで、しかし鋭い眼光と共に彼女は先生を見上げ、
「先生、私にも同じことをしてお嫁に行けなくするべき。私だけされないのは不公平。さあ、一思いに今ここで」
「確かに以前人生の伴侶に性別は問わないとは言ったが踏むべき段階をスッ飛ばし過ぎではないかね砂狼君」
誤解を解く気がない辺りさすが過ぎる。経緯を説明すれば湿っぽい話になるからというのも当然あるだろうが、正直自分やホシノなどより先生の肝の太さの方がよっぽど神秘ではなかろうか。そんなこちらの内心など知る由もなく、こちらの己は先生の腕を引き、
「先生、年増の私なんて置いて早く学園に行くべき」
「大人の魅力が分かっていない、さすがチビシロコ」
「体力が落ちるくらいなら子供の方が良い」
「胸部重量があるから体力を使うのは必然」
先生を間に挟んで視線をぶつけ合う。普段なら殴り合っているところだが、お互い先生の腕を抱えているのでそうも行かない。仮に放したらもう片方の自分が抱えてダッシュでテイクアウトする。そのくらいはやる。そんな嫌過ぎる信頼の下、火花を散らす勢いで睨み合っていると、不意の笑い声が生まれた。
先生だ。
呆気に取られ二人で見上げた先、目の端に涙すら浮かべて先生が笑う。おかしくて堪らないと言わんばかりに、自分達を順に見て、
「いやはや、両手に花とはこのことか。夫婦喧嘩は犬も食わないと言うが、狼の場合どう言うべきだろうね全く」
「夫婦じゃない」
シンクロした叫びに先生が噴き出した。再び睨み合う中先生が己の腕を抜き取り、こちらと向こうの頭に手を乗せて、
「自己否定のじゃれ合いは程々にしておきたまえ。そして互いを傷付けるような真似をしない限り、私も止めはしないとも。そういう馬鹿をやっている時間が、何物にも代え難い宝物になるのだから」
故に、と二人の頭を撫でて、
「仲良く、な?」
諭すような言葉に、お互い顔を見合わせた。やがて向こうのシロコが不満そうながら、嘆息一つで表情を切り替え、
「ん……、先生が言うならここは引く」
「不満があるならいつでも受けて立つ」
だけど、
「それは今じゃない、いつかのこと」
「皆が待ってるから、そっちが優先」
ん、と二人頷き合う。頭上の手を取り、指を絡めるようにして握って振り仰ぐ。自分達の大事な人を。お揃いの青の瞳が、互いに互いを映し出して、
「では行こうか。皆が待っている、君達の居場所へ」
先生の言葉に、しかし二人首を振る。腕を引き、同時に一歩を踏み出しながら、
「君達、じゃない」
「私達、でしょ?」
虚を突かれたように口を開いた先生が、やがて苦笑と共に歩を進めた。あとは三人歩調を合わせて、同じところを目指すだけ。
交わされる会話は取り留めもなく、しかし日々の充実の証明で。何気ない、ありふれた話題でも、そこに笑顔の花が咲く。
大丈夫だよ、“先生”。
私は幸せ。この先何があったとしても、それだけは絶対に変わらない。
大好きな人の傍で、大好きな人達に囲まれて。
こんなに笑っていられるんだから。