「私、折り入って相談がある」
夕暮れのシャーレ執務室。空調の動く音のみが響く空間で、シロコはそんな声を上げた。
視線と言葉の向かう先、壁際のホワイトボードに向かっていたもう一人の自分が振り向く。彼女は隅の方、日付や当番を記載するスペースに向き合っていたらしい。だが本日の当番と書かれた一画は先生の手で斜線を引かれており、当番の名前を書く枠の中は空欄で、一度も使われた形跡がない。
連邦捜査部シャーレはその超法規的権限の一環として、あらゆる学園から無制限で部員を募ることが出来る。無論先生と生徒による相互の同意は必要だが、その権限を用いればキヴォトス中に影響を及ぼす集団となることも可能だ。故にその説明を連邦生徒会から受けた際、先生はこう即断したらしい。
「私は部員を募集しない。この特異な部活が注目を浴びるのは時間の問題だ、所属する生徒に奇異の目は勿論、悪意が向けられる可能性もある。故にシャーレの業務に関わる場合は仮入部という体の時限式雇用、平たく言えばアルバイトの形で協力を依頼し、責は全て私が負うものとする」
気にし過ぎではないかという意見も連邦生徒会側からは出たが、後に先生の能力の高さと奇行の数々で納得せざるを得なくなった。戦闘系の案件でない限り、彼女一人で粗方対応が成されたからだ。一部では先生が連邦生徒会長の別名義ではないかという噂も出回ったが、本人がキチガイ過ぎてすぐに沈静化した。
ともあれそんな訳でシャーレの部員は公的に不在。自主的な協力までは拒まないが、賃金はキッチリ支払う徹底ぶりだ。状況に応じて先生の人脈から依頼が飛ぶこともあるものの、どちらかと言えば対策委員会や便利屋68、アリウススクワッドのような訳アリの団体へ仕事を斡旋しているという方が近い。ホシノ暴走時のヒナ等特定の個人に協力を依頼するのは、例外中の例外と言える。
それでもやはりシャーレの看板を背負って働く以上、注目は免れない。初の依頼相手ということで先生に重用されがちな自分達ですら、周囲からは先生の肝煎りという扱いを受けているのだ。これが正式な部員となったらどうなるかは想像に難くない。シロコとしては別にそれでも問題ないので、知り合ってしばらくしてから一度入部を希望したことがあるのだが、
「実は同じような申し出を既に幾つか受けていて、砂狼君は五人目の部員となるのだが、それでも構わないかね?」
膝から崩れ落ちそうになるも束の間、冗談だと先生は言った。あまりにもタチが悪いとジト目を向ければ、先生は苦笑と共に頭を下げ、
「だが、今の申し出を受ければ同じような状況は今後も発生する。それが部の中に不和を生み、人間関係に亀裂を入れるのは私の望むところではない。特に仲の悪いゲヘナとトリニティの間で騒動が起これば、学園間抗争すら始まりかねん。そこを取り持つのが私の役目ではあるが、キヴォトスに不慣れな状態ではそれも難しいだろう。……気持ちはありがたいが、当面はこの方針でやらせてもらえないかね?」
とのことで最終的に、シャーレ敷地内は顔パスの設定にしてもらう形で落とし所となった。以降の諸々でゲヘナやトリニティの中枢に人脈が出来ても、先生はその方針を変えていない。もう一人の先生を見送った後、今後もこのまま通すのかと聞いてみたが、先生は苦笑混じりにこう答えた。
「これまでも何とかなったし、ならばこれからとてどうにでもなるだろう。部員はおらずとも、頼りになる教え子達に事欠かないのは先の件で証明されているからね」
それに、
「生徒はあくまで生徒だ。キヴォトスの運営としてシャーレの活動は必要だが、その為に学生の貴重な時間を奪うのは本意ではない。気が向いた時や手伝える時だけの変わったアルバイト、そのくらいのテキトーさで構わないだろう」
ということで自称当番として、頻繁に顔を出す形で落ち着いた。その結果似たような立ち位置としてユウカやノア、別案件でシャーレに居を移したミカなど友人も増えた。アビドスのメンバーもよく訪れているし、便利屋なんかも度々見掛ける。あとヒナも。要は一種の溜まり場で、諍いを起こさない限りは先生も止めないので定着化が進む。そんな面々の中に最近加わったのが目の前の自分なのだが、彼女は首を傾げてこちらを見据え、
「改まってどうしたの、私。先生の探してる三つ前のシーズンのガチャポンならアビドス旧市街五番区画に手付かずの筐体があるのを見掛けた」
「ん、有力な情報ありがとう私。でも今聞きたいのはそれじゃない」
こちらの真剣な様子を見て取ったのか、シロコがマジックのキャップを閉めた。微かに見えた相合傘らしき落書きは後で厳重チェックするとして、改めてもう一人の己を見遣る。
見慣れた黒いドレス姿。自分より十センチ近く背が高く、胸の大きさだって大分違う。髪の長さも先生を超える程になっていて、大人になった自分を想像したらこんな感じだろうという姿。それだけならばまだ自分の将来的可能性ということで納得は行くが、
「一年で成長し過ぎだと思う」
そう、目の前の己と自分は、僅か一歳の差しかない。まだ成長期と言える範疇ではあるが、いくら何でも変わり過ぎではないだろうか。
冷静に考えてみて欲しい。対策委員会の五人が並んで立っていて、しかしある一点を境に自分と彼女が入れ替わるのだ。さすがに一瞬で激変とまでは行かないにしても、違和感が先に立つのは間違いない。他の面々も大なり小なり成長はするだろうが、これはちょっと間違い探しのレベルを超えていると思う。
故に疑念はたった一つ。
「どうやったらそんなに大きくなれるの」
真剣に問うた先、シロコが考え込むように腕を組んだ。あ、先生と同じ癖。口元に当てるのが握り拳ではなく伸ばした指先なのは違うけど。そんなこちらの内心をよそに、浅く上を見ていたシロコは視線を戻すと、
「先生に揉んでもらった」
予想外にも程がある回答に、シロコの思考は完全に止まった。
せんせいにもんでもらった。その文字列が持つ意味を理解することを、脳が全力で拒否している。おかしい。確かに先生は一見テキトーで屁理屈大魔王で敵とあらば容赦なく理不尽と暴論で叩き潰すぶっちゃけ悪役ムーブが似合い過ぎる系の人ではあるが、生徒に対しては真摯かつ真剣に接する大人だ。まさかそんな、いくら同性とはいえ成長促進の為に生徒の胸を揉むような人ではない。断じてない。もしもバレたらキヴォトス中がひっくり返る大騒ぎだ。ホシノ先輩辺りは暴走する。確実にする。でもしない。先生はそんなことしない。だがもし、やむにやまれぬ事情で、例えばそう、一年で巨乳にならないと死ぬ病に罹っている生徒を救う為なら、一切の下心なく揉むかもしれない。落ち着け砂狼シロコ、そんな病気はない。はず。絶対とは言い切れないがフツーない。でも、だけど、自身の発育不良を真剣に悩んでいる生徒から相談を受けたとしたら、先生はどうするだろう。シンプルに病院を勧めるだろうか。いや、そんな当たり前過ぎる返しはしない気がする。民間療法や俗説を片っ端から試して夏休みの自由研究にするというのは一石二鳥ではないだろうか、とか、そのくらい斜め上のアドバイスをする。絶対する。でもそんな短期で育てば苦労しない。やるなら人生を賭した研究に、
「冗談」
耳に入った一言が、錯乱する思考を打ち切った。強張った身を遅々とした動きでシロコに向け、念押しするように低い声で、
「……本当?」
「先生は先生である限り生徒と関係は持たない。何度もそう口にしているし、私の世界でもそうだった。そして私が先生呼びを変えていない以上、一般的なコミュニケーションしかしていないのは自明。冷静に考えれば分かること」
淡々と述べていたシロコが、不意に真剣な眼差しを向けて来た。そこには普段のような感情の薄さはなく、気遣いの色すら含んだもので、
「先生が関わると冷静さを欠くのが私の弱点。惚れた弱みではあるけど今後は気を付けて」
「ん……、何だか物凄く納得行かないけど覚えておく」
上手いこと丸め込まれたような気がしないでもないが、同じ自分同士だ。先生を大事に想っていることは通じているし、彼女は一度それを失っている。故の諫言だと思えば、このくらいは我慢すべきだろう。しょうもなさ過ぎる無駄な時間を過ごした事実は消えないが。
「じゃあ、特に何かした訳じゃない?」
「ん、気が付いたらこうだった。気にする余裕もなかったから、何もしていないとは断言出来ないけど」
聞いた範囲だけでもハードな経歴で、実態は恐らくそれ以上。であれば食事や生活習慣に気を遣っていたとは考えにくいし、だからこそ彼女にも心当たりがないのだろう。
そう、と肩を落としていると、シロコがスマホを取り出した。慣れた手付きの素早い操作は、躊躇いなく「胸 大きくする」という文字列を検索。こちらとしては身長も含めた全体を指していたつもりだが、あっちの自分的にやはり胸はアピールポイントらしい。ん、負けない。こっちだって発展途上。決して小さい訳でもないし。それに先生が巨乳派じゃない可能性もある。大丈夫。
「……真偽はともかく牛乳、キャベツ、鶏肉、大豆が効くという説が多いみたい」
「ん、早速帰りに買って行く」
忘れない内にメモ。先生と過ごしていると楽しい上に面白いイベントがやたら起きるので、大事なこと以外はすっぽ抜けがちだ。これは決して忘れっぽい訳ではなく、密度が濃い分相対的に薄口のことが追いやられるだけ。今日も便利屋が駆け込んで来てフードファイトの賞金を踏み倒された悪徳ラーメン屋を一緒に潰しに行ったし。示談金として渡されたチャーシュー三十キロは現在先生が燻製室で育成中。楽しみ。
ともあれシロコも調査開始。ヒットするのは見るからに怪しげな情報ばかりで、これならデートコースかサイクリングの予定でも立てる方が有意義だったかもしれないと後悔するまで約五分。しかし不意に見付けた一文に、思わずシロコは動きを止めた。
「……どうかした?」
突然の静止に気付いてか、向こうの自分が視線を向けて来る。故に僅かな震えと共に、シロコは己のスマホに映し出されたものを見せた。小首を傾げつつもう一人の己が読み上げる内容は、
「……ストレスが多いと成長しにくい?」
そう、とシロコは弱々しく頷いた。真理に到達した賢者のように、呆然とその思案を告げる。
「つまりそっちの私の経歴はストレスじゃなかった……?」
「あからさまな冗談じゃなかったら今すぐ眉間に風穴を開けているところ」
半目で返される辺り冗談にしてもやり過ぎたか。まあ銃を持ち出さない内はセーフ。ネタにして流せる辺り、彼女の中でも折り合いはついたようで何よりだ。
とはいえ彼女の過去を思えば、ストレス云々の話は信憑性がない。よくよく考えればノノミとて実家絡みでこちらの知らぬ苦労があるだろうし、アヤネは満場一致で苦労人だ。ああでも、先生はストレスフリーな生き方してるし反証かも……。いやでも先生としての立場や仕事を考えるとまた別? どうだろう。
「……ん、一つ分かったことがある」
口元に手を当て考え込むこちらに対し、眼前のシロコが頷いた。スマホを仕舞い、お手上げと言うように両の手を上げ、
「俗説は当てにならない」
「極めて信憑性の高い真理」
互いに親指を立て合った。
「結局は生まれ持った素養次第。将来は約束されているんだから、焦らず健康に過ごすべき」
「ん、食事と睡眠と運動は欠かしてない」
親指を。
「……でも、ちょっと残念」
吐息と共に座り直したシロコは零す。傍ら、立ったままの己を見た。こちらの言葉の意味が分からず、首を傾げている己の身体を。
「そのドレス、一度着てみたかった」
黒のドレス。胸元が大きく開き、スリットも深いデザインは、今の自分ではちょっと厳しい。後者はまだしも前者については、せめてノノミくらいのサイズにならないと似合わないだろう。引き合いに出してしまったのは悪いと思うが、年頃の少女として着飾ることに興味はあり、
「普段通りの毎日も良いけど、いつもと違う一日を、皆で過ごすのも良い思い出だ、って。そう思う」
もう一人の己が、どれだけ皆と過ごせたのかは分からない。だが最早取り戻せないその過去は、この世界においては
「終わりが来ても、笑顔でまたねって言えるよね」
生まれて来たことを呪うのではなく。
生まれて来たことを喜んで眠りたい。
それは後悔なく全力で生きるという、先生のモットーにも通じること。先生不在のオフィスを眺めていて、そんな感傷を抱いたのは夕日の眩しさが起こした気紛れか。故にやりたいことをぼんやりと考えてみて、ふと目に映ったのがもう一人の自分だった。
それだけの始まりが、随分と馬鹿な時間になったものだ。
だからほら、変な顔しないで私。何をそんなビックリした顔してるの。あなたが何をどうしたところで、あなたはもうこちら側なんだから。
私が認めた。先生も認めた。皆も笑って受け入れた。だから過去そうであったように、今を好き勝手生きれば良い。
そんなことを思うが、口には出さない。同じ自分だ、言わずとも通じているだろう。何より恋敵に対して、あまり塩を送るつもりもない。
「待たせたねダブル砂狼君!! 否、テンション高くツイン砂狼君と言おうか!! チョバったチャーシューは二日後くらいにタカりに来てもらうとして、とりあえず出来立てのチーズと卵でも如何かね!?」
タイミングの良いことに、先生のトリプルアクセルが湿っぽい空気をブチ壊した。
「ん、じゃあ卵をもらう」
「うむ、近々黒見君にも来てもらわねばならんね。柴関ラーメンでトッピングメニューとして燻製卵を出したい、と弟子入り志願して来た時は驚いたが、なかなか好評なようで嬉しい限りだ」
「先生の教え方が良いからだって言ってた。あ、でもセリカには内緒」
「ではツッコミ待ちの体で私の指導の賜物だと喧伝しておこうか。手刀を白刃取りで迎撃する準備もしておかねば」
呆気に取られてこちらと先生の会話を眺めていたシロコも、この段に至ってようやく再起動したらしい。吐息を零し、微かな笑みを浮かべた彼女は、
「先生、ちょっと時間もらってもいい?」
歩み寄り、先生のシャツの袖を引きながら言う。己の纏う黒のドレス、その裾を摘まんでみせ、
「こういう服着てみたいって、そっちの私が」
「えっ」
アシストどころかゴールネットをブチ抜く勢いで放たれた豪快な援護射撃に、思わずシロコは固まった。
すっかり立場が入れ替わった隙を見逃さず、あちらのシロコが先生に向き直る。壁際の棚、ゲヘナ関連の書類が収められた一画を指差し、
「ゲヘナの案件でパーティーに出席したことがあったはず。今後似たような依頼が来た時、依頼側とは別で先生側でも護衛が必要。アビドスの立て直しで対策委員会が出席する日が来るかもしれないし、ドレスコーデを持っておいて損はない」
「……なるほど、確かに理に適っているね。自分が着飾ることに興味はないが、砂狼君を美しく魅せるのはやり甲斐がありそうだ」
先生の方も思った以上にノリノリで、スマホを取り出し素早く操作。確か先生のドレスコーデはヒナと同じ店で買い揃えたのだったか、そこそこ値が張ると思うのだがお金は足りるだろうか。やはりここは銀行強盗。あ、でもそうなると買い物イベント自体が消失しかねないデメリットが、
「ああ、仕事着という建前が通るので、私からプレゼントしようと思うが如何かね?」
退路を塞がれた。やはり口先で先生に勝つのはMURI。その薫陶を受けたもう一人の自分も先生側なのだから尚更。いや、冷静に考えればどう転んでも大勝利なのだが、あちらの自分にお膳立てされたと思うと微妙に負けた気がするのは何故だろう。先生の向こう側でドヤ顔している自分に対し、何とも言えない感情を持て余していると、
「無論、デカ狼君の分も見立てて構わんのだろう? 確かにドレスではあるが、普段と同じでは新鮮味もあるまい。白なども似合うと思うのだが、どうかね?」
「えっ」
「それが良い。私達の中で一番自由に動けて戦力も高い、つまり一番着る機会がある」
今度はこちらが畳み掛けた。あっちの私に拒否する猶予など与えない。そんなことに時間を費やすくらいなら、幸いを得ることに使うべきだ。先生はそれをよく分かってる。故に応じは即座のもので、
「では近い内に予定を立てよう。いずれ対策委員会の面々も連れて行くというのも良いかもしれないね」
「ん、じゃあ私達と先生で下見とリハーサル」
言って、先生の手を引く。もう一人の自分の手も。元々燻製の仕込みが終わったら、夕飯の買い出しに行くという話だったのだ。手を取る大義名分は揃っている。
「この時間だとまだセリカはバイト中だと思う。寄る?」
「そのまま食べて行くのも捨て難いが、そろそろ混み合う時間帯だろう。邪魔にならないかどうかがネックだが、どう思うかねデカ狼君」
先生が声を向けた先、戸惑いされるがままだったシロコが肩を震わせた。迷うような間は一瞬。すぐに表情を緩め、
「例え忙しくても、行けばきっとセリカは喜ぶ。だから皆にも声を掛けよう」
「ん、じゃあ私はアヤネに。先生はホシノ先輩、そっちの私はノノミに」
分担は即座。スマホを取り出し、アヤネへとメッセージを送る。先生もホシノへとスタンプを連打していて、負けじと応酬が始まっているのが見えた。だがシロコはこちらを見て、
「二人共」
振り向くと、夕日に照らされた柔らかな笑みが見えた。
「──ありがとう」
二人で親指を立ててやると、同じように返された。