「先生」
シャーレオフィスビル内執務室。仕事部屋と言うべき場所に踏み入ったヒナは、部屋の主に呼び掛けた。声の向かう先、顔を上げた姿はこちらを認めると笑みを浮かべ、
「おお、来たかね空崎君。予定より少し早いようだが」
立ち上がりこちらを出迎えに来るのは、黒のパンツスーツを纏った女性だ。ヒナと同じ白の長髪を靡かせ、瞳は空のように澄んだ青。手にはニッパーを握っているが、よくあることなので別にツッコまない。
葵・硝子。縁あってそれなりに濃い付き合いをしている、連邦捜査部シャーレ顧問。通称先生。そんな長身の相手を見上げ、
「アコに送り出された。こっちはいいから先生の方に行ってください、って」
「フフフ、天雨君らしからぬ言動に思わず明日の天候を警戒してしまうね?」
アコも相当優秀な行政官だが、先生の能力は更にその上を行く挙句変人だ。傍目からはテキトー極まりないのに、アコが手こずるような案件も流れるように処理してしまう。目の敵にするのは当然で、その度に返り討ちに遭ってはいるようだが、結論だけ言えば喧嘩する程仲が良いということでいいのだろうか。ひとまず害はないので放っておいているが、頭の悪い賭けを吹っ掛けるのはいい加減やめなさいアコ。衆目と常識を思い出して。
「それで先生、招集の理由は何?」
連邦生徒会長の手で創設されたシャーレは、その権限としてキヴォトス中の全学園から無制限に部員を迎え入れることが出来る。だが先生はその権利を使用せず、基本的に仮入部という名のバイトとして雇用していた。トラブル対応においても当事者が巻き込まれている場合を除き、対策委員会や便利屋68にアリウススクワッドなど先生と親交があり、受諾側にも金銭や地位向上などのメリットを提示することで契約を結ぶ、いわば仲介人のような立場となっている。それこそ名指しで依頼するなど、先日のシェマタ絡みの一件くらいで、
……だからこそシャーレが溜まり場になるのよね……。
仕事をタカりに来る者。自主的に先生を手伝う者。居心地の良い空間でくつろぎたい者。様々な生徒がこの場所を訪れ、故に先生も中立の場としてシャーレでの争いを禁じた。先生自身もキヴォトス中を飛び回っている為、会えるかどうかは運次第。そんな中家主不在で暴れ回った挙句建物を吹っ飛ばす訳にも行かず、生徒同士のトラブルもじゃれ合いの範疇に留まり、先生という共通の話題もあるので友誼を結ぶことも少なくない。
現に狐坂ワカモ撃退において協同した始まりの四人や、先生の肝煎りであるアビドス、事務手伝い常連であるセミナー、そしてとある案件によりシャーレを住居としている聖園ミカなど、学園の垣根を超えた繋がりが育まれつつある。場合によっては先生を立会人として、各校の外交の場となることさえある程だ。特に桐藤ナギサが重用しているらしいが、先生がお茶請けに出したわさび風味煎餅はかなり効いたそうでしばらく涙が止まらなくなった一幕があったと噂で聞いた。
まあそんな余談はさておき、こうしてヒナが名指しで呼び出されるのはかなりのレアケース。しかも事前に聞いた話では、一日掛かりとなるので泊まりの用意も必要だと、大仕事の気配すら漂わせていた。何があってもいいように覚悟は固めて来たが、改めて先生を前にすると緊張が身を固くする。
そんなこちらの内心を知ってか知らずか、先生は応接用のソファーを指差した。幾度も座ったその場所に腰を落とし、同じく対面に座った先生が足を組むと、
「では、空崎ヒナ君。連邦捜査部シャーレ顧問として、その権限を以て君に指示を与える。キヴォトスの命運が懸かった最重要任務だ。心して聞くように」
唾を飲み込む。背筋を伸ばし、先生の顔をじっと見詰める。真っ直ぐに視線を返され、その口がゆっくりと開き、
「──休みたまえ」
●
「……は?」
思わず首を前に倒し、ヒナはそう口にした。だが先生は首を傾げ、さも不思議なものを見たかのように、
「聞こえなかったのかね? 休みたまえと、そう言ったのだ」
「いや、でも、……えっ? 仕事は?」
先生が無言で指差したシャーレ宛書類受付のトレイは、プラスチックのクリアな底面を覗かせていた。ヒナ自身は勿論、入り浸りの砂狼シロコやホシノ、よく手伝っている早瀬ユウカや生塩ノア、同居中の聖園ミカでさえ空になった状態を見たことのない一画が、だ。過労による幻影でも見ているのだろうかとどこか遠くで思う正面、先生はお茶請けのマカロンを縦に積み重ね始めながら、
「空崎君を招集すると決めた時点で全て片付けた。明日正午までの予定は空けてあり、想定し得るトラブルに対しては先行してセミナー、万魔殿、風紀委員会、ティーパーティー、正義実現委員会やトリニティ自警団は勿論、緊急時のカウンター要員として対策委員会や便利屋68、アリウススクワッドとRABBIT小隊にも指示を飛ばしてある。統括はデカ狼君に一任しいざとなったら連絡するよう言ってはいるが、私の手腕をずっと傍で見て来たのだ。きっと上手くやるだろう」
本気だ。絵面がキチガイ以外の何物でもないが、紛れもなく本気だ。普段のアコやイオリをからかっている時とはまるで違う、鉄火場で見せる大人の顔だ。最後に間近で見たのはホシノの暴走を止める際だったか。ああ、でも目が覚めたらシャツのボタン全部飛ばしてて一体何があったのかは恐ろしくて聞けなかったっけ。ところでこの思考は現実逃避の一環だろうか。気が付けば先生のマカロンタワーが三十センチを超えていて、しかもどことなくヒナっぽいフォルムになっている気がするが、ひとまず最大の問題をヒナは言う。
「マコトが素直に頷くとは思えないのだけど」
羽沼マコト。万魔殿のトップにして、風紀委員会の業務が逼迫している最大の原因。先生には明かしていないが色々と因縁があり、反目し合っているような状態だ。シェマタの件でこそ全面協働したものの、他に意見の一致する機会などそうそうない。そんな彼女が先生の頼みとはいえ、こちらを休ませる為に協力するとは思えなかった。
だが先生はタブレットを操作し、一枚の写真をヒナに見せる。それはシャーレの一室、先生の貴重な余暇を費やす物資が詰め込まれた倉庫部屋で、
「今日は積みに積んだプラモを片付けるので邪魔をしたら角をランナーで前衛芸術のように飾り立てた上で、制服に落ちない塗料で「葵・硝子様万歳ゲヘナの全ては葵・硝子様の為に」と塗りたくると言っておいた。羽沼君もアレはアレでトップとしてのプライドがある。大っぴらに他人を喧伝して歩くことはするまい。最初こそ脅迫には屈しないと言われたが、デモンストレーションとして空崎君バージョンで実演したら快く協力してくれたとも。ああ、当然棗君や丹花君もこちら側に引き込んだ上で泣き落としも重ねたが、予想以上に効果覿面だったね?」
部屋の隅に放り出されているスーツにデカデカとヒナの名前が書いてあるのはそれか。ニッコニコの笑顔で書き上げる先生を想像して全く違和感がないのはさすがにどうかと思うが、そういう人だからしょうがない。
……というかフツー先生が生徒を脅迫する?
決して悪い人ではないが、悪役ムーブが似合い過ぎる困った人。それが葵・硝子という先生だ。生徒を傷付ける相手には容赦しないが、生徒相手なら悪であっても見捨てない。そういう芯の人柄が分かっているからこそ、何だかんだで愛されているのだろう。普段の奇行は一切擁護出来ないが。あといい加減マカロンタワーやめなさい。食べ物で遊ばない。ヘイローまで作り込まなくていいから。
「という訳で目下空崎君の仕事は休むことだ。嫌だと言うなら小鳥遊君と聖園君を呼んで気絶させてでも休ませるがどうするかね? なお既に契約金は天雨君に振込済で、全額備品購入に使い切ったと連絡も受けているが」
悪童のような笑みと共に言う先生は、確実に詰ませたという自信があるのだろう。ホシノも聖園ミカも己に匹敵する実力者でシャーレの常連、しかも最近急激に仲を深め連携までこなしつつある。それを先生の指揮付きで同時に相手をすれば病院送りは免れない。そうなれば風紀委員会は完全にパンクするし、断ろうにも違約金を払うだけの資金が残っているかどうか。アコならその辺りも確実に手を回しているだろう。先生の依頼だからと一も二もなく引き受けたのが裏目に出た形だが、どうあっても逃げ道はない。ブラフだと跳ね除ければ「では遠慮なく」と即座に二人を呼び出す。そのくらいはやる。そういう人だ。
深々と溜め息をつき、ヒナは半目で先生を見上げた。ある意味キヴォトス最強である交渉役に、舌戦で勝ち目など最初からなかったのだと諦め付きで、
「……分かった、大人しく休む」
せめてもの反撃として、先生がマカロンで組み上げた六分の一ヒナ像は突き崩しておく。
先生の慟哭をバックに齧るマカロンは、先生の気遣いと同じくらい甘口だった。
●
自宅だと思ってリラックスしろと言われたので、ヒナは仮眠室で寝間着に着替えた。
時刻は午後の入り際。空はまだ青く、雲一つ見当たらない。そんな燦々とした日差しが窓ガラス越しに降り注ぐ中、シャーレオフィスで寝間着姿というのは大分現実感がない光景だ。いやまあ、ヒナ自身も未だに現状を受け入れきれているとは言えないのだが。
「その姿を見るのは久々だが、緩い空崎君も可愛らしいね? 普段の凛々しさとのギャップが良い感じだよ」
ストレートに褒められて悪い気はしないがちょっと照れる。つい襟元を引っ張って顔を隠し、しかしふと疑問を抱いたので視線を向け、
「……先生は着替えないの?」
「予定を空けてあるとはいえ、先生という立場は消えないのでね。何より生徒の前で格好悪いところを見せる訳にも行かんだろう?」
「理解の及ばないところなら何度も見た」
「ツッコミが厳しいね空崎君!」
笑顔で親指を立てられたので、おっかなびっくり同じように返しておく。二人の砂狼シロコやホシノ達とよくやっているのを時々見ていたが初めて出来た。結構嬉しい。
ともあれ先生の方へ近付く。デスクには書類の代わりにプラモの箱が積み上げられているが、今のところ手を付ける様子はない。というかラインナップが黒系の翼持ちばかりなのは何かの暗喩だろうか。そんなことを思っていると、不意に先生がこちらの身を抱き上げ、
「フフフどうかね小鳥遊君もイチコロの世に二つとない激レア寝具は。何と低反発クッション付きだ」
「……コメントに困るフリはやめて」
どうにか平静を取り繕ったが、内心パニック状態だった。
現在ヒナの身は先生の膝に腰を下ろし、その上からブランケットを被せられている。後頭部に当たる柔らかい感触は紛れもなく胸であり、本人の言の通りクッション性が高い。アコやチナツも結構な大きさだが、先生はそれ以上だ。長身なこともあり自分とは正反対。そこに羨ましさを覚えもするが、デカかったらこうして抱えられることもなかっただろうか。ならばこれでいいのだろうか。どうだろうか。哲学的ね……。
「どうしたのかね空崎君、眉間にシワを寄せて」
「人間の理不尽について考えていたの」
「ああ、そういう手合いには関わらずやり過ごすが吉だよ?」
「ついさっき理不尽の塊に言い負かされた気がするわ……」
根底に生徒への愛情があるとはいえ、暴論や屁理屈を平然と持ち出す先生は世間一般で言う良い大人のイメージには程遠い。まあ水清ければ魚棲まずとも言うし、清廉潔白な聖人よりは親しみやすい方が良いのだろう。奇行はともかく。
……人格以外は完璧超人だけど。
普段の戦闘指揮は勿論、シャーレ顧問としての交渉や調整力。そしてキヴォトス住民には及ばないものの、身体能力だって相当だ。以前風紀委員会に体術指南を依頼した際は、護身術の見本としてイオリを無血で押さえ込んでもいる。イオリも銃器なしで全力ではなかったとはいえ、拳銃程度しか持たない一般生徒と一対一であれば、恐らく無力化出来るだろう。先生曰く「手の内を知っていれば遠距離から一方的に倒される程度の心得だよ」とのことだが、逆に言えば至近かつ初見相手なら通せるということだ。身の安全を考えれば前線には出せないが、いざという時に身を守れるというのはありがたい。彼女の周りには実力のある生徒が多いものの、その守りとて万全ではないのだ。エデン条約の時がその最たる例で、
「何か物騒なことを考えていないかね?」
「……ごめんなひゃい」
こちらの内心を見透かしたように頬を引っ張られた。休みなのに仕事の思考が抜けないのは悪い癖だ。今は休養。先生の膝の上というシチュエーションにも、段々と慣れて来たことだしいい加減現実を直視しよう。嘘。全然慣れてない。現実逃避の思考も封じられて実はかなりピンチ。とりあえず何か話題を繋げなければ、ええと、ええと、
「思った以上に生地が柔らかいのね、スーツ」
会話下手か。もうちょっとマシな話題がいくらでもあったろうに。内心のセルフツッコミをよそに、先生は襟元を軽く引っ張り、
「七十万円払っただけの価値はあるということだよ。ハイキックを放てる程柔軟な素材だ」
「……いつ放つのそんな技」
「無論気分転換にここから部屋隅のゴミ箱まで紙パックをシュートする時だが?」
言われて見た先、件のゴミ箱にくの字に曲がったコーヒー牛乳の紙パックが山積していたのでヒナは何も見なかったことにした。奇行はツッコむだけ無駄だ。無論、とか常識のように言ってるし。よくある。なくていい。
「おや、こんなところにちょうど空の紙パックが。空崎君も一発どうかね?」
「私が本気で蹴ったら粉々になると思うんだけど」
「常に全力投球というのも好感が持てるが加減は覚えておきたまえ。上手く入れたら新作の燻製チャーシューをお出しするが」
一発でキメた。
「さすがだね空崎君!! オーバーヘッドシュートは私もまだ試していないというのに難なく成功させるとは!! 世界を獲れる逸材がこんな身近に眠っていたとはね……!!」
褒めちぎられると達成感と充実感もひとしおだ。ナチュラルに頭を撫でられているが悪い気はしない。むしろ良い。凄く良い。とても良い。今とてつもなく語彙がダメになっている自覚があるがそれすら気にならない程良い。正直これだけで精神のゲージが二十本くらい満タンまで回復した。幸せ。
「では約束の報酬の時間だ」
再着席したこちらを乗せたまま、先生がキャスターを転がし椅子ごと冷蔵庫前に移動。扉を開けると真っ先に目に付くのは、ミネラルウォーターのボトルが複数。あとはゼリー飲料のストックが少々。隅には件の燻製があり、そしてそれで全部だった。
「……先生、ちゃんと食べてる?」
「食材の類は給湯室の冷蔵庫だよ。今宵は空崎君の為に腕を振るうから期待していたまえ」
えっ、と思わず面を上げた。想像以上に近い距離の整った顔立ちに一瞬動揺しつつも、しかしそれ以上に先生の発言の方が気に掛かり、
「作るの?」
「自炊する気は微塵もないが、生徒に振る舞う為なら労は惜しまんよ?」
先生の多才ぶりは料理においても隙がない。相伴に与った面々の評価は漏れなく高く、ちょっとした噂にもなっている程だ。燻製はちょくちょくお裾分けをもらっているが、それとは比にならないとか。かつてイオリに急ぎの書類をシャーレまで届けさせた際、アビドスメンバーに振る舞った余りをもらったらしいのだが、
「……何で先生、キチガイムーブ以外欠点がないの……?」
とふらついた足取りで戻って来たことがあり、そのままソファーに座り込んで一日中呆けっぱなしだった。おかげで予定が狂いアコが終始キレっぱなしだったが、その後訪問して来た先生の助力もあり事なきを得ている。自己回収という文字が脳裏を過ぎったものの、以降密かに熱望していたのは事実で。
……最高の休日過ぎる……。
頼めば作ってくれるのだろうが、先生の多忙っぷりを知りながら正面切って言える者はそうそういまい。必然的に先生の気紛れによってのみ供される食事は、遭遇すること自体が都市伝説に等しい代物だ。それをあろうことかヒナの為に作るなどと、最高以外にどう表現すればいいのか。着々と語彙がダメになっている気がするが、明日からちゃんと社会復帰出来るだろうか。
「空崎君、トリップするのは構わないが食べないのかね」
慌てて現実に復帰し、ヒナは小皿と爪楊枝で渡されたチャーシューを齧った。
卵やベーコンは度々口にしていたがチャーシューは初。香るのは桜の風味だ。燻された表面と本来の断面から来る如何にもな肉のイメージとは裏腹に、柔らかな匂いというギャップを面白いとヒナは思う。味については言わずもがな、先生が手を掛けたというだけで何倍も美味しく感じられるのだから不思議だ。濃い目の味はパンに挟むか、王道のラーメントッピングが良いだろう。白米でも行ける。だがやはりヒナが一番気に入ったのは桜の香りで、味よりも匂いを堪能しつつ、
「これ、好きかも」
「では林檎で燻したものも気に入るかもしれないね。どちらも同じバラ科だから」
「……そうなの?」
「身近なところで言うと苺もバラ科だよ。木にならないので燻煙材には出来ないが。林檎の方は今度作っておくので試してみたまえ」
うん、と頷きを一つ。先生はこういう雑学も豊富で、時たま生徒を楽しませながら見聞を広めてくれる。キチガイムーブが頻繁過ぎて忘れがちだが、やはりそういう辺りは大人だ。そんな不思議な人の横顔を見上げていると、視線に気付いた彼女が笑みを浮かべた。
「食後の日光浴でもしようか」
再度キャスターを転がし窓際に移動。壁の一面が全てガラス張りとなっているシャーレ執務室は、日向ぼっこに最適だ。ホシノもよく窓際のソファーで寝ている。あと時々聖園ミカや黒崎コユキも。天童アリスは……、まだ見てなかった気がする。だが実際に同じ場に立ってみると納得で、
……心地良いわね……。
温かくなると血行が良くなり、身体が緩んで眠くなる。ましてや陽光のみならず、先生の温もりに包まれているのだ。これで緩まない訳がなく、更に言えば何も考えずぼーっと日の光を浴びるなどいつ以来だろうか。そんな取り留めもないことを思っている内に、意識は急速に薄れ始めて、
「そういえば頭のおかしい変態企業が以前、現実の太陽光とゲーム内容を連動させるという作品を出したことがあってね。長らく続編が出ていなかったのだが、どうも最近開発者の遺児が跡を継ぎ新作を発表したらしい」
そんな先生の雑談に相槌を打てたかどうか、微睡みに落ちるヒナには定かではなかった。
●
目覚めた時には七時を回っていた。
「……寝過ぎた」
よもや平日の昼日中から六時間も爆睡してしまうとは。しかも快眠だったのがまたどうしようもない。こんなにぐっすりと眠れたのは久しぶりで、比喩どころではなく身体が軽い。手を組んで伸びをしてみても肩や関節が鳴るようなこともなく、文句なしに気持ちの良い目覚めだ。
これで窓の外が朝焼けなら完璧だったのだが、日が沈み街灯やビルの窓によって照らされる夜景がそこにあった。
仮眠以外でこんな状況になったことはないので少し新鮮。ベッドから足を下ろし、スリッパに爪先を通したところで、ふとヒナは違和感を覚えた。
……私、先生に抱き抱えられたまま眠っていたような……。
よくよく見ればここは執務室併設の仮眠室、もとい実質的な先生の私室だ。元々他所にちゃんとした住居を持っていたのが「面倒」の一言でオフィスビル内の一室に移り住み、再度「面倒」の一言でここに居を移したと聞いている。元の部屋は引き払い、階下の部屋も現状は物置状態。結果として基本ここに缶詰めな訳だが、それでもこの部屋を使用している姿を見た記憶はない。ちゃんと寝ているのだろうか、とブーメラン気味な心配をしつつ、改めてベッドへと視線を向ける。
無言で身を投げ出した。
そのまま十秒程深呼吸。ゆっくりと身を起こし半目で一言。
「……匂いがしない」
燻製でよく使う桜の香りと、青のイメージを抱かせる涼やかさが入り混じった先生の匂いが薄い。つまりロクにベッドを使っていないということだ。人に説教しておいてこれだからあの人は本当に。ちょっと文句を言ってやろうかと思うのは、安らかに休養を取れた反動による退行だろうか。ともあれスリッパを床で鳴らしつつ、ヒナは隣の執務室へと向かう。すると向かい側、キッチンスペースも兼ねた給湯室からエプロン姿の先生が顔を出し、
「おや、お目覚めかね。タイミングとしてはちょうどいいとも言えるが」
何が? と首を傾げると、先生が盆を手にこちらへと歩いて来る。応接用のテーブルセットに広げられるのは、出来立ての湯気と香りを上げる、
「夕食を用意した。寝起きだろうが食べると良い。ああ、心配せずとも味は保証するよ?」
オムライスの乗せられた平皿と、瑞々しい野菜の盛り付けられたサラダ、そしてスープ入りのカップ。ケチャップで五線譜と音符まで描いているのはやり過ぎだと思うが、見た目はお高い店で出される物と比べても遜色なく、
「……これだけの物が作れるのに自炊しないの?」
「食べるのが自分だけなら凝ったところで時間の無駄だよ。生徒との団欒だからこそ腕を振るうだけの価値がある。さあ、座りたまえ」
エプロンを外しナプキンを装着し始める辺り用意が良いというか何というか。ご丁寧にヒナの分も用意されていたのでこちらも装備。背の低さも相俟って見た目完全にお子様だが、服を汚すよりはマシか。見るのも先生だけだし。
ともあれ合掌。スプーンを手に取り、まずはオムライスから。楽譜の装飾が綺麗過ぎて、崩すのが凄まじく躊躇われるのだが、容赦なく真っ二つにしている先生はもうちょっと雰囲気を大事にした方が良いと思う。作る側からすればそんなものかもしれないが。一応確認を取るべきかと手を上げて、
「写真撮っても良い?」
「構わんよ。何なら自撮りもセットで付けるかね?」
変顔でクネクネと隣に寄って来たので額に手刀を入れておいた。許可は下りたのでスマホを取り出し撮影。データは保護を掛け大事に保存。そこまでしてようやく踏ん切りがついたので、端の方から割って掬い口に含んだ。
「────」
美味しい。それ以外に何も言うことがない。よく美辞麗句を並べ立てて味を褒める者がいるが、そんな賞賛すら生温い。言語野が破壊され、ただただ手を止めるなという脳の命令以外全てがどうでもよくなる、そんな一品、否、逸品。これはイオリが呆けて帰って来るのも納得だし、先生の伴侶となる人はこんなものを三食味わえるということか。完全に人間が駄目になるのでは。
呆けているヒナの正面、既にオムライスを半分片付けた先生がスープを飲み一息。こちらに一瞥を寄越すと、カップを掲げて笑みを浮かべ、
「味見で問題ないことは分かっていたが、一年ぶりに作ったとは思えない出来栄えだね? さすが私」
底が知れない、という感想を抱かされるのは何度目だろうか。
●
浅かったかもしれない。底。
そんなことを思うヒナは現在、再び先生の膝の上。二人仲良くデスクに向かい作業中。当然書類仕事などではなく、手にしているのは工作用具だ。
プラモの製作中だった。
食後のまったりとした時間を過ごしていると、先生がデスクに戻り何やら始めたのだ。よもや業務ではないかと覗いてみれば、恐らくヒナが寝てから開封したのであろうプラモの組み立てに勤しんでいて、危うくズッコケかけた。そのまま眺めていると一緒にやってみないかと誘われたので、興味本位で参加してみたのだが、
「空崎君にはニッパーを扱う天賦の才があるのかもしれないね……。いっそ私の助手として雇われてみないかね?」
「……その度に今回みたいな大掛かりな根回しをするつもり?」
「ははは愚問だね空崎君。──私は目的の為なら手段は選ばんよ?」
目がマジだったので丁重に断っておいた。
「残念だ……。引き受けてもらえればシャーレニッパー大臣の役職を与えようと思ったのだが」
かなりとても凄く揺らいだが断っておいた。
会話はともかく、意外と向いているのは事実らしい。面倒でもやるべきことを投げ出せないのがヒナの性分で、それ故に手抜きは一切しない。プラモもまた精密な作業を求められはするが、一度のミスがシャレにならずタスク数も膨大な風紀委員会の業務に比べれば随分と気楽だ。先生との共同作業ともなれば気合いも入るというもので、
「出来た」
「おお、初めて作ったとは思えない出来栄えだね。実に見事だよ空崎君。何なら記念にそれは持ち帰ってもらっても構わないが、どうするかね?」
えっ、と慌てて振り向いた。
「いいの? 折角作ったのに」
「それは観賞用なのでまだ保存用がある。何も手元に置いて愛でるだけが全てではないよ、見たくなったら空崎君に頼めばいいだけのことだ」
「……じゃあ、貰っておく。ありがと」
先生を家に誘う口実もゲットして一石二鳥。内心ガッツポーズをキメつつ、次のキットを開封する先生からランナーを受け取る。
作業速度は二割増したが、結局山を崩すには至らなかった。
●
そんなこんなで十一時過ぎ。先生とお風呂に加え髪を洗ってもらったり乾かしてもらったりという自分に都合の良い幻覚を疑ってしまうようなイベントの数々を経て、ヒナは執務室に戻って来ていた。先生は施設内の戸締まりを済ませてから戻るとのことで、手伝いを申し出はしたが断られた。
仕方ないとはいえ、暇を持て余す。
手持ち無沙汰で、何となくソファーではなく普段先生が使っている椅子に座ってみた。長身の先生は椅子の高さも最大付近に設定しており、ヒナが座ると足が床に届かない。正確な数値は知らないが、三十センチ以上は身長差があったはずだ。それでも立場の違いを除き、同じ目線で物事を見てくれる彼女を、改めてありがたいとヒナは思う。
……今回も、色々と手を回してくれたし。
さすがに脅迫はやり過ぎだと思うが、全てはこちらを思うが故だ。内容も子供の嫌がらせのようなものだし、まあギリギリセーフということにしておくくらいの寛容さはある。咎めるのは恩知らずが過ぎるし。
とはいえ今後何かしらの形で返してはおきたいところだ。果たしてどうすべきかと考えること十秒、
……やろうかな、ニッパー大臣。
再度十秒考えて首を横に振った。いくら何でも頭が緩み過ぎだ。例えヒナの助力で消化速度が上がったとしても、先生が積むペースの方が明らかに速い。それこそ専業主婦にでもならない限り追い付かないだろう。若干想像が行き過ぎた感はあるが、ニッパー大臣はなし。何かヒントにならないだろうかと、シャーレ入りしてからオムライスの撮影以外全く触れていなかったスマホを取り出し、
「……え?」
緊急の連絡が一件、通知欄で己を主張していた。
メールだ。送り主はチナツ。受信はヒナが先生と風呂を堪能していたタイミング。基本的にはもう一人の砂狼シロコや外部の協力団体と連携して業務を行う手筈だったそうだが、こちらに連絡が来るとは余程の大事だろうか。慌てて確認してみれば、こちらを気遣うような文面が数行。安堵から肩の力を抜いて、しかしまだ続きがあることに気付く。
風紀委員会の公開アドレスに送られて来たこと、検閲済みで危険はないこと、そして自分が最初に発見し隠したので他には誰も見ていないこと。それらを伝える文章の下、転送する形で別のメールが付いていた。その送り主の名前を見て、ヒナは思わず眉を顰める。
マコトだった。
万魔殿の公開アドレスから、署名すらないシンプルさ。
「明日の正午までだ。一秒たりとも延長はしない」
という簡素な文面と、五分程度の音声ファイルが一つ。ロクでもない予感しかないが、チナツが検閲の上で緊急送信して来たものだ。聞くだけの意味はあるのだろうと、躊躇いなく再生する。
内容は、二人の女の会話だった。
音質が悪く、篭ったように聞こえるのは恐らく盗聴器か何かか。またドラマにでも影響を受けて万魔殿の居室に仕込んだりしたのだろう。そのくらいの想像は付く。だが今重要なのは頭の悪い予算の使い道ではなく、交わされる言葉の内容だ。軽い雑談から始まり、しかしすぐに本題へと移る。
「私は君と彼女の間に何があったのか知らぬ。故に君を責めることはしない。だが今回に限っては口を出させてもらうし、そうするだけの大義名分もある」
聞き間違えるはずのない声。真剣な、滅多に聞くことのない声が、真っ直ぐに言葉を放つ。
「ゲヘナも因縁浅からぬ案件とはいえ、依頼したのは私なのだ。他校の問題だというのに力及ばず、空崎君を頼ったのは私なのだ。そして成果にはそれ相応の褒賞で報いねばならず、その為ならば私に出来ることは何だってやるとも」
故に、と声の主は告げた。
「恥を承知の上で頼む。どうか一日だけ、彼女を休ませてやってはくれまいか」
衣擦れの音は、恐らく頭を下げる動き。それだけのことをされて、応じぬ訳には行かなかったのか嘆息が聞こえた。万魔殿との一日提携や、他幾つかの条件と引き換えに、相手は彼女の要求を呑む。契約成立の書面を交わし、しかし即座に他の団体とスケジュールの調整に向かうと言う背中に、部屋の主は問うた。そこまでするだけの意味があるのかと。対し足を止めて返される言葉は、
「意味など私の内にだけあれば十分だ。そして生徒の為ならば、どれだけ手を汚し悪評が広まろうとも構わない。それが先生というものだよ羽沼君」
扉が閉まり、やがて部屋の主の長過ぎる溜め息が聞こえ、そこで再生が終わった。
耳元に当てていたスマホを、目の前に持って来る。両の手で抱えているというのに、震えているのが丸分かりで。
……全く。
心中に生まれた想いは、一言では到底表せないものだった。
積みプラモ崩しも脅迫も嘘。こちらに気を遣わせまいとする、回りくどい気遣いだ。マコトがこれを送って来たのは、こちらに恩を着せたいのか、或いは先生へのささやかな仕返しか。何も考えてない可能性もあるが、現実は変わらない。
酷い大人だ。
嘘はつく。生徒はからかう。奇行ばかりで理不尽も多く、暴論や屁理屈で丸め込まれた回数など数え出せばキリがない。しかもそれを自覚していてなお、改める素振りさえない。
悪い大人と、そう言っていいだろう。
だが、彼女は先生だ。
どこまでも徹頭徹尾、生徒を思い労を厭わぬ、生徒の守り手にして道をつける者。生徒の未来の為ならば、悪名も悪評も躊躇わない。
悪役だ。
悪人や悪党ではない。善性から望んで悪を背負う者を、他にどう呼ぶかヒナは知らない。
偽善だと人は言うだろう。だが偽善でここまでやる馬鹿がどこにいる。生徒の為に己の生還すら放棄し、三日で無茶苦茶な法案を纏め上げるような偽善者など、他に二人といて堪るか。
そうだ。
思えば彼女は最初からそうだった。ホシノを救いに行った時も、聖園ミカやアリウススクワッドを守った時も、もう一人の己と相対した時でさえ、彼女はずっとそうして来た。
自覚の有無を問わず、返しきれない程沢山のものを、自分達は受け取って来た。
だが、だからと言って何もせずにはいられない。
そうだ。
シャーレがその禁を反故にしてまで己を頼ったように、先生とて無敵の万能者ではない。人一人の力では限界があって、どうにも出来ないことがある。
だから、繋ぐのだ。
同じ志を持ち、同じ方向を向ける者。
手を取り合い、力を合わせ前を望み。
そうして結ばれるのは、絆という力。
これこそが、先生がシャーレを通して生徒に教えようとしていることではないのか。
部員という括りに囚われず。
学園というしがらみを超え。
共に肩を並べて立ち向かう。
色彩の一件がそうだったように。
「戻ったよ」
不意の声に、ヒナは過熱して行く思考から覚めた。僅かな火照りを覚えながら見た先、風呂上がりなのにパンツスーツ姿なのは相変わらずどうかしているが、彼女はこちらを見ると首を傾げ、
「おや、私の席に興味があるのかね? 空崎君の器量ならシャーレの顧問も務まりそうだが」
「え? あ……」
言われ、先生の椅子に座ったままだったことに気付く。何と説明するべきか、しかし先程までの気恥ずかしい連想やマコトから知らされた真相を言う訳にも行かず、ふと目に付いたのは机上に置いたままになっていた、
「プラモ。晩御飯の写真と一緒に、風紀委員会の皆に見せびらかそうかと思って」
「ああ、それは愉快なことになりそうだね。銀鏡君や天雨君辺りが間違いなく騒ぎ立てる」
納得したらしい先生がデスクを回り込み、こちらの隣に来る。中腰で、自然に視線の高さを合わせ、
「となれば一つポーズでも取らせるべきか。このタイプは関節の可動域が広いので正座も可能と来ている。喧伝するにはお誂え向きだ」
「あ、じゃあこっちの武器も持たせたい。行ける?」
「余程前衛的な構えでなければ問題なかろう。調整はこちらで行うので、空崎君は撮影を頼む」
うん、とスマホを構えながら横目を向ける。手際良くプラモを飾り立てる姿は、先程聞いた真剣さとは掛け離れた子供のそれで。思わず口元に笑みが浮いてしまい、改めてヒナは思う。
「よし、こんなところか。……と、どうしたのかね空崎君。まさかポージングに何か至らぬ点が!?」
「なんでもない」
このおかしくもありがたい、どうしようもなく馬鹿な人の、絶対の味方でいよう、と。