ナギサは、参っていた。
「何でよりにもよってこんな大事な日に……!!」
場所はいつものテラスではなく、学園内に設けられたティーパーティー用の執務室。その理由は言うまでもなく、眼前に山と積まれた書類だ。
現在のトリニティはティーパーティーをトップとしつつ、補佐として救護騎士団とシスターフッドが付いている。だがその実態はお目付け役であり、各方面への体裁という理由が強いと、少なくともナギサはそう理解していた。
元より本来の彼女達は他にやるべきことがあり、トリニティの運営に関わればそちらが疎かになるのは自明の理だ。以前の体制でさえ学園内を完全に御しきれていたとは言い難く、どこかに穴が開けば瞬く間に立ち行かなくなるだろう。
故に現在においても、ナギサはほぼ単独でトリニティの全てを取り仕切っていた。
決裁の済んだ書類を脇に除け、次の案件に取り掛かる。正義実現委員会の夜間巡回についての意見伺い。トリニティの治安維持組織である彼女達もまた、配置を誤れば騒動が起きた際迅速に対応出来ず各所から槍玉に挙げられるだろう。優先度は高いが、各団体からの書類を確認し終えるまでは回答を出せない。よって保留。
こんな調子でどこかの影響がまた別のどこかに波及して、ということはままあるものだが、今回はその絡まり方が尋常ではない。ほとんど徹夜明けに等しい今の己では、地道に数を捌いて行く他に方法はなく、
「動くな!! 現在この部屋は一方向より包囲されている!! 抵抗せず大人しく挨拶を返したまえおはようございます!!」
トドメを刺すようにキチガイが来た。
扉を開け放った姿勢そのままで仁王立ちしているのは、白の長髪を靡かせる黒いスーツの女。豊かな胸に乗っているのは、連邦捜査部シャーレ顧問、葵・硝子と記載された名札。その青い瞳がこちらを捉え、反射的にナギサは身を竦ませていた。
今自分が最も会いたくて、しかし会いたくなかった人。
先程愚痴のように零した大事な日という理由がこれだ。今日は元々一日オフの予定で、先生と茶会の約束をしていた。その為にほぼ徹夜で溜まっている案件をどうにか片付け、昼前まで爆睡カマしていたのが今日のナギサだ。起きたらまた山が出来ていて今に至る。急ぎ対応を始めたものの、窓の外はとうに夕方となっていて、
「……ツッコミのロールケーキが来ないね? よほど深刻な事態と見たが、君は一体何をしているのかね桐藤君」
首を傾げながらの声が、ナギサを現実に引き戻した。慌てて席を立ち、精一杯平静を取り繕って、
「す、すみません先生、約束の時間を過ぎてしまって、大変申し訳ないのですがまた別の機会に──」
「桐藤君」
いつの間にか、先生が目の前にいた。今更のように気が付いたのは、己が俯いていて視界が書類と机で埋まっているからだ。見えるのは先生の足先だけで、しかし妙に視界が歪んでいて、
……情けない。
失望されないだろうか。
幻滅されないだろうか。
そんな人ではないと分かっていても、エデン条約の一件以降時たま向けられる猜疑や疑念の視線が脳裏を過ぎって。
「……前に私が言ったことを覚えているかね?」
不意に頭へと乗せられた手の温かさが、張り詰めていた心を緩ませた。見上げた先、先生は目を細めただけの微笑でこちらを真っ直ぐに見ており、
「望むなら何度口にするのも吝かではないが、忘れるような君ではないだろう。ならば今口にすべきは謝罪や延期ではなく別の言葉だと思うが、違ったかね?」
言われ、思い当たることは確かにあった。ミカがシャーレ預かりとなった日に、諭すように言われたこと。だがそれは目の前の相手の力を借りるということであり、自らの不始末を共に背負ってもらうこと。不甲斐ないことこの上ないが、それを拒むということは自分があれから何の成長もしていないと証明することになる。
ならば、言うべきは一つしかない。
「……力を貸してください、先生。急ぎの案件が連続してしまって、私の手だけではどうにも……」
零れ落ちた弱音を、しかし先生の動きが止めた。あやすように、励ますように、軽く頭を叩かれて。伏せていた瞳を向けた先、いつもの不敵な笑みがそこにあり、
「Tes.、委細承知した。任せておきたまえ」
●
・私 :『アロナ君、プラナ君、いつもの時間ではないがお仕事タイムだ。行けるかね?』
・あろな:『はっ!? ね、寝てません!! 寝てませんよ!?』
・プラナ:『……アロナ先輩、涎を拭いてから言ってください。それで先生、内容は何でしょうか』
・私 :『君達の知覚素子と私の視覚を連動し、大量の書類を位相空間内にデータとして取り込む。ひとまず三種に分けたいので、内容の精査とフィルタリングに君達の演算能力を貸して欲しい』
・あろな:『ああ、いつものですね。それなら私がお手伝いします!! 時間加圧はとりあえず二十倍で用意しておきますね!!』
・プラナ:『では私は引き続きキヴォトス内のネットワーク監視を継続します。助力が必要であれば声を掛けてください』
・私 :『全く、頼もしい限りだよ二人共。では一丁、シャーレの良いところを見せるとしようか』
・A&P:『Tes.!!』
●
先生の対応は迅速だった。
ナギサが手元で処理中の一枚を横から確認すると、残り全ての書類を回収し別の机に積んだ。そのまま流し読むような一瞥で目を通したかと思えば、更に別の机に積み直す。やがて五分と経たず山が消えると、内容を全て記憶しているとしか思えない手捌きで書類を仕分け、
「山を三つに分けた。それぞれこの部屋で片付くもの、外回りが必要なもの、緊急度が高いものだ。私は後者二つを並行して進めるので、桐藤君は引き続き前者を」
と、一番低い山をこちらのデスクに返却。残る二つの山から十数枚の書類を抜き取り、スマホでどこかへと連絡を飛ばしながら、
「即応出来ない案件に当たったら保留し、数を捌くことを優先。判断に迷ったら私に相談。一時間後に戻るので、そこで十分程一息入れるとしよう。いいね?」
迷いなく、淀みなく、即断即決で方針を打ち出す果断っぷり。そこに不安は微塵もなく、己に対する自負と
「……桐藤君? 何か疑問でも?」
「え? あ、はいっ、大丈夫です」
「Tes.、では後程。こちらは少々慌ただしくなるが、気にせず手元に集中するように」
言い残し、悠然とした足取りで部屋を後にした。その足音が遠ざかり、聞こえなくなるに至り、思い出したようにナギサは息を吐く。
……何とまあ。
生徒達の間で話題になる噂の一つに、こういうものがある。
曰く、先生とは単一の個人を指すものではなく、容姿だけ同じ個性豊かな複数人が、互いに鉢合わせぬようキヴォトス中を駆け回っているのだ、と。
そんな与太話が生まれるのも宜なるかな。この短時間で既にエクストリームキチガイ、優しい教育者、冷静な仕事人という三つの顔を見せられたのだ。ミカやセイア共々こちらをからかい、三人仲良くロールケーキをブチ込まれている普段ともまるで違う。
底が知れない、というのは初めて会った時から抱いていた感想だが、今はそれが何よりも頼もしい。
「……はっ」
慌てて頭を振り、両の手で頬を張る。感慨に耽っている場合ではない。先生が力を貸してくれているというのに、一人呆けていて良いはずもないのだから。ここまでお膳立てしてもらって、それでもしくじるようではホスト代行の名折れ。
「頑張りましょう……!!」
気合いを入れ、ナギサは書類へと向き直った。
●
先生の助力により、三時間で全てが片付いた。
予め幾つか処理していたとはいえ、基礎量はナギサが夜なべして片付けたのとほぼ同量。単独であれば二徹目が確定していただろうが、枕を高くして眠れるとは思ってもおらず、
「お力添えいただいて、本当にありがとうございました。まさかこんなに早く片付くなんて……」
「伊達に君達より十年以上歳を食っている訳ではないよ。経験値で勝てぬ上に当の私自身が天才と来ている。私と同等のパフォーマンスを発揮したければ、それこそ噂の連邦生徒会長君でも引っ張って来なければならないだろうね」
場所は移りいつものテラス。平身低頭のこちらに対し、先生はカップ片手に苦笑する。湯気を上げる紅茶は先生の淹れたもので、最初は自分が用意すると言ったのだが、
「疲労困憊の身で納得行く一杯が淹れられるのかね? どうしても嫌だと言うのなら、今回の助力に対する対価を「私が茶会の用意をすること」とさせてもらうが?」
などと言い出して折れざるを得なかった。相変わらず口先で勝てる気は微塵もしない。作ろうと思っていたスコーンやクッキーも、仕事に追われていた為用意は叶わず、普段先生が配り歩いているウエハースチョコがお茶請け代わりだ。決して味が悪いとは言わないが、ナギサが思い描いていた理想のお茶会には程遠い。
正直、かなりヘコむ。
お茶会に限らず、業務面でもそうだ。退室前に先生が言い残していた一時間後の休憩で、進捗確認と情報共有も行ったのだが、
「恐らく桐藤君が次の次に対応する案件に関係する各団体の申請の不備は解消しておいた。先方へのヒアリングと追記も済ませたので内容に問題なければ判を押すだけで終わるだろう」
と、そんな調子で後は決裁するだけの書類が出るわ出るわ。実質ナギサのしていたことと言えば、先生が纏めた要点のチェックと判を押すことだけ。改めて気付かされるのは先生のマルチタスクによる処理の速さと、フットワークの軽さという二つの強みだ。
元より率いるのは正規の訓練も受けていないような、アドリブ頼りの個性豊かな生徒達。それも戦場という常に変動し続ける場において、生徒の安全を優先した上で先を読まねばならない。
それらに裏打ちされた先生のやり方とは即ち、強みを生かし弱さを補う総合力。そして力とは戦いのみに限らず、商業や政治をも交え交渉で変動させられるものであり、つまり引き出しは多ければ多い程良い。キヴォトス中の依頼を請け負うシャーレなら、それらを組み合わせ最適解を導き出さねば到底回るものではあるまい。それらを経て築いた伝手はトリニティ内にも複数存在し、後はナギサの補助という肩書きを手に入れれば、範囲が狭まった分解決は容易だろう。
ナギサとてトリニティの代表ではあるが、それにしても扱うのは一学園、一つの自治区という範疇に過ぎない。だがナギサの扱う範囲全てを、更に複数抱えているのが先生だ。視野の広さも発想も及ぶべくもなく、一人身の超法規的権限であるが故に重役特有の自由に身動きが取れないという状況もない。普段の奇行を差し引いても、お釣りの方が多いレベルだろう。
……逆に、不規則言動がなかったら本気で私達の出る幕がありませんけどね……。
完璧超人に限りなく近い先生の唯一の欠点。天は二物を与えずと言うが、試しに与え過ぎた結果人格に不具合を起こしたのだろうとミレニアムではまことしやかに囁かれているとかで、ぶっちゃけナギサも心底同意だ。今も対面で複数のウエハースを分解し層の厚みを増そうと躍起になっている姿は、どう見ても子供の絵面でしかない。そういえば以前、トリニティ自治区のゲーセンでガチャポン筐体にセミみたいに張り付いてるとか通報ありましたっけ……。現場に駆け付けた正実のメンバーは不審者としか聞いていなかった為、下手人が先生だと視認した瞬間Uターンで帰って来たとか何とか。生きる世界が違い過ぎる。
「桐藤君、黄昏れるのもいいが紅茶が冷めてしまうよ」
誰のせいですか誰の。
ともあれツッコミは内心に押し込め会釈。カップを手に取り口に運ぶと、良い香りが鼻を抜け舌には繊細な味わいが乗る。普段ナギサが使う茶葉とは別だが、出来栄えは勝るとも劣らない。今のナギサが用意した場合、間違いなくこのクオリティは出せなかっただろう。そう思うと知らず溜め息が零れてしまい、
「どうしたのかね桐藤君、みるみる萎れて行くようだが。地面に植えて水の代わりに紅茶を掛ければ良いのかね?」
「そんな奇態な植物になった覚えはありませんっ」
悪びれもせず笑う先生がウエハースを齧り、夜空に輝く月と星々を見上げ、
「根性論は好かないのだがね。気持ちの問題というのは意外と馬鹿にならないものだ。例えどれだけ名手を揃えた演奏会であっても、聞き手が気もそぞろでは雑音と大差ない。……それとも、私の淹れた紅茶はお気に召さなかったかね?」
「……分かっていて尋ねる先生は意地が悪いと思います」
「性根の捻じ曲がった悪い大人だからね」
「胸を張って言うことですか……」
溜め息が零れるが、そこに先程までのような自己嫌悪はない。自由過ぎる先生と話していると、真面目に悩んでいる自分が馬鹿らしく思えて来るから参ったものだ。気を紛らわせてくれているのは分かるが、それで解消するようなら苦労はなく。
「上手く行かないものですね、色々と」
かつて補習授業部の件を先生に依頼した際、彼女は引き受けつつもこう言った。生徒を信じると。トリニティの裏切り者という疑念すらも裏切ってくれるはずだと、そう迷いなく断言していた。事実その信頼は果たされ、本当の黒幕はナギサが想像もしていなかったところにいた。
それらの反省を踏まえ、同じ過ちは犯さないと誓ったというのに。マリーと先生の介入により事無きを得たものの、また自分は失敗するところだった。些細な擦れ違いの積み重なりとはいえ、ミカにも割と真面目に説教されて。後に自宅で頭を抱えてのたうち回ったりもした。
努力は裏切らないと誰もが言う。だが、頑張っても必ず報われるとは限らず、しかし怠慢は容易に人を潰しに掛かる。別段喧伝するつもりもないが、ナギサとて勤勉に努力を積み重ねて来た。だが現実は簡単にこちらの想像を飛び越えて行って、自分には何も出来ておらず、
「あれだけミレニアムエキスポ出場を反対していたセイアさんも、想像以上の活躍をされたようですし……」
ミカ共々、過保護になっていたことは否めない。だが大量の土産物を広げながら、一連の出来事を語ってみせる彼女は、これまでにない程生き生きしていた。
それはシャーレに居を移したミカも同じことだ。学外で新たな友人も出来て、一緒に放課後を過ごしたり泊まりで騒いだりと、充実した毎日を楽しんでいる。
なのに、ナギサだけは昔のまま。
己の望むように生き始めたセイアを縛り付けたくないとか、ミカを不用意に悪意や敵意に晒させたくないとか、様々な事情から頼ることは出来ず。
一度代行を預かった以上その立場を降りるまで手は抜けない。事実エデン条約調印を取り付ける辺りまではどうにか出来ていたはずなのに。
今やそれすらも、先生の力を頼る始末で。
「私、向いてないんでしょうか」
●
思わず零れ落ちた言葉は、だからこそ本心と等しかった。
気が付いた時には既に遅く、先生は無言でこちらを見ている。内心の冷えを自覚したナギサは、慌てて誤魔化しの笑みを浮かべ、
「す、すみません、先生相手に愚痴だなんて、貴重な時間を割いていただいているのに──」
「桐藤君、率直に言うが、君は他人を頼るのが下手過ぎる」
ストレートな指摘に、ナギサは言葉を詰まらせた。だからと言うように、先生が小さく息を吐き、
「まず責任感が強い。確かにそれは美徳だが、なまじ能力が高く大抵の問題なら独力で対応出来てしまうが故に背負い込む。しかし生来の生真面目さから、他人に負担を掛けることを良しと出来ない。結果、自分が関わった全てを抱え込み、段々と目的の為に手段を選ばなくなり、やがてミスを犯したところで我に返る」
「あの、すみません、一応自覚はあるのでもう少し手心を……」
ストレート過ぎて思わず音を上げた。そんなこちらに小さく笑い、
「ホスト代行だからといって、君一人が全てをやらなければならないという訳ではない。君もまた生徒の一人なのだから」
言われる言葉は、確かにその通りだ。ナギサはトリニティ代表だが、生徒である以上学園の運営だけに全てを賭さねばならないという訳ではない。事実アビドスは数少ない生徒達が二人三脚で頑張っているし、ミレニアムも会長が不在の中他役職者が力を合わせて切り盛りしている。ゲヘナは知らん。風紀委員長には心底同情するが。
だが、他所は他所、うちはうち、だ。
「協力いただいているとはいえ、救護騎士団もシスターフッドも本来負うべきではない役目を負わせてしまっているのは事実です。そんな中ホスト代行である私が弱音を吐き、責務を放り出す訳には──」
「放り出してしまえば良いではないかね」
不意に先生の言葉が冷たさを帯びた。
「仮に桐藤君が抜けたとして、聖園君は厳しいとしても百合園君がいる。エキスポの件でも上手く立ち回ったようだし、彼女は意外とアクティブに動き回る方が性に合っているようだ。予知夢の力を失った怪我の功名とも言えるが、存外牽引する上役としては向いているのかもしれないね」
言外に何を言わんとしているのかは、馬鹿でも察せるだろう。だがその真意が読めず、身を固くしたナギサは恐る恐るそれを問う。
「……先生は、私がティーパーティーを降りた方が良いとおっしゃるんですか?」
「君が今の立場に重圧を感じているのなら、それも選択肢の一つだとは思うよ?」
積み重ねたウエハースを一口大に欠き、掲げながら先生は言う。遠く、空へと翳した茶菓子を見上げ、
「望んで得た苦労は糧ともなるが、望まぬ労は苦でしかない。それによって桐藤君の生活が損なわれるようなら、そうだね──」
こちらへと振り向いた青の瞳が、氷の如き冷たさを宿し、
「──手っ取り早くトリニティを解体、廃校にしようか?」
ウエハースの欠片を潰しながら告げられた台詞に、今度こそナギサの思考は止まった。
ブラフではない。間違いなく本気だ。それがこの人の頼もしいところであり、同時に恐ろしいところでもある。
やると一度口にしたならば、どんな手を使ってでも必ず果たす、と。
頭ではそう分かっている。だが感情が理解を拒否し、嘘だと言って聞き入れない。何かの間違いだと、先生がそんなことを言うはずがないと、そんな思いが引き攣った笑みを浮かべさせ、
「……冗談、でしょう? 三大学園と謳われ伝統あるトリニティを、実質滅ぼすということですよ?」
「滅びればいい。一人の少女に全ての責を背負わせねば平和を謳歌出来ない集団など滅んで当然だ」
即答が来た。ナギサが犠牲にならねば成り立たぬトリニティなど滅べと、本心からの断言だった。
「実を言うと以前から考えていたのだよ。派閥による火種の尽きないトリニティなら、いっそバラした方が後腐れがないのでは、とね。エデン条約では桐藤君のフォローにまで手が回らず、エキスポの件で百合園君の意向を優先してしまった引け目もある。故に君が望むなら、明日の朝までに全てを片付けてみせよう」
どうかね?
「無論、全ての生徒は滞りなく他の学園へと編入させるので安心してくれて構わない。校舎や地盤が倒壊する恐れが出たなどと声明を出せば、混乱は初期段階のみだろう。派閥ごとに編入先を分ければトラブルの種も減るし、その後折を見て正式に廃校とすれば良い。トリニティという枠組みが消え各学園に帰属するとなれば、同情から反発も抑えられる。自治区を割譲という形で恩も売れるしね。そうなればゲヘナやアリウスも正面切って喧嘩を売ることは難しくなるので、後はシャーレが細々したフォローをすれば丸く収まる。いざとなれば私から連邦生徒会に掛け合い便宜を図ることも可能だ」
ああ、と笑みさえ浮かべながら先生が言う。
「何なら、ティーパーティーの三人と阿慈谷君達だけはアビドスで迎えようか? 対策委員会が実質生徒会となっているし、元とはいえ他校の役職者を運営組織に据える程小鳥遊君も軽率ではない。これで桐藤君はただの生徒として、何の気兼ねもなく毎日のびのび過ごせる訳だ。いっそ茶会部など立ち上げてみても──」
「──いけません!!」
反射的に立ち上がっていた。
手を着いたテーブルが揺れ、カップの縁から紅茶が溢れる。だがそれらは意識の内になく、ただ真っ直ぐに目の前の相手を見据えた。
急な動きに、しかし先生は動じない。相も変わらず笑みのままで、どうしたのだというように首を傾げている。そんな彼女に僅かな怯えを抱きつつも、しかし言わねばならないことがある。
「先生の心遣いはありがたいと思います。私を思っての提案だということは重々承知していますし、……ここで私が頷いたら、すぐにでも実行に移し完遂するだろうと、そのくらい信頼もしています」
ですが、
「トリニティに害を成すと言うのなら、私は断固として立ち向かいます。例え先生が相手でも、です」
そうだ。
正しくなくて、間違いだらけで、上手く行っているとは言えない。問題は多く、解決の目途が立っていない案件だってある。だが、それでも、だとしても、
「ミカさんやセイアさんのいる大事な場所を、皆さんが過ごす大切な場所を、一人の一存で壊すなどあってはいけません!!」
かつて、こことは違う世界を滅ぼした者がいた。
生徒を守る為、滅びの担い手という悪を背負い、しかし確かに未来へと繋いだ者がいた。
ナギサは思う。“彼女”だって本当は、世界を滅ぼしたくなかったでしょうに、と。
だが、“彼女”に出来た精一杯がそこまでで。
そこから先を、自分達に託されたのなら。
喪失による解決だけは、絶対に望んではいけない。
遺して、繋いで、託して、継いで。そんな連綿を絶やすことなく次代を作らねばならない。
それがあの一件を通しナギサの得た、生き切るということの意味だから。
世界は違えど先生が貫き通した、限られた生命の誇りある使い方だから。
故にナギサは見据える。何一つ敵うところのない相手を、しかし気持ちだけは負けないように。
だから、気付くのが遅れた。
先生の笑みがいつの間にか、目を細めただけの微笑と呼べるものへと変わっていたことに。
「安心したよ。本気の私を前にそれだけ言えるなら十分だろう」
声音も、視線も、先程ナギサに手を差し伸べてくれた時と同じ温かなもので。肩の力を抜き、こちらに座るよう促しながら、
「先程ティーパーティーを降りるべきかと私に問うたが、答えはもう分かっているのではないかね?」
言われ、揺らいでいた己の意思が定まっていることと、失念していた一つの事実に気が付き、
……あ……。
思わず、口を手で押さえていた。
恐れ、慄いた訳ではない。反射的に零れ掛けた笑いを隠す為だ。だが口元を覆ったところで、身の震えまでは隠せるものではない。
自分の馬鹿さ加減と、先生が仕掛けた罠が白々し過ぎて。
きっと先生は本気だっただろう。ナギサが言葉に詰まったり、同意するような素振りを見せれば、裏から色々と手を回したはずだ。
だがそれは、ティーパーティーの負担を減らし、ナギサがホスト代行として忙殺されることのない範疇での話だろう。
何故なら彼女は知っている。自分やセイアが権威の失墜を受け入れてまで、ミカを守る為に奮闘したことを。
ティーパーティーという集まりを、トリニティで過ごす日々を、とても大事に思っていることを。
例え生徒を守る為であっても、先生がそれを引き裂くだろうか。
本当に必要なら、やるかもしれない。しかしそれはあくまで最終手段。明確な悪事や危険でもない限り、生徒の望むことを止めはしない。
だから過激とも言える対策を提示し、試したのだ。
ナギサが大事なことを見失っていないかどうか。
例え己を敵に回しても抵抗出来るのかを。
……全く。
回りくどいにも程がある。素直に「ナギサなら大丈夫だから自信を持て」と、それだけ言えば済んだ話だろうに。いや、まあ、自分の性格ではそれでもプレッシャーに感じてしまうかもしれないと考えたのだろうが、それにしたってやり方が無茶苦茶だ。
たかだか一人を励ます為に、学園を解体しようとまでする馬鹿がどこにいる。
ミカやセイアのみならず、ヒフミ達やハスミ達。ミネ達にサクラコ達、他にも親しい者が多いだろうに。それら全てから恨みを買うことすら呑んで、素知らぬ顔で手筈を語るなど正気ではない。普段の奇行に慣れていても、これは明らかにやり過ぎだ。
先生の人となりを知る者であれば真っ先に気付いていたはずなのに、まんまと踊らされた自分も馬鹿でしかない。
こんな茶番、笑わなければやってられないだろう。
意地の悪い人、と再度の感想を抱き、ナギサは座る。目尻に浮いた涙を拭いながら、
「例え冗談でも度が過ぎますよ、先生? トリニティを解体するなんて」
「ははは、やろうと思えば出来ると判断したが故の発言だが?」
「だから怖いんですよ先生の冗談はっ」
ですが、とナギサは頭を下げた。
「ありがとうございます。吹っ切れた、と言って良いのかは分かりませんが、前を向けた気がします」
「はて、私が面白半分でトリニティを潰しに掛かり、桐藤君がそれを毅然と跳ね除けただけで、礼を言われるようなことはなかったと思うがね」
「どれだけ悪役を演じても、素直に騙されてくれる生徒はそうそういないと思いますよ?」
先程まで思いっ切り騙されていた自分が言えた義理ではないが、このくらいの応酬は許されるだろう。手段を選ばず、理解の及ばない面も多々あるが、正しい意味での生徒の導き手。傍から見れば正しくなくとも、当人が間違っていないと胸を張れるようにその背を押す。
いつかは自分も、そんな立派な大人になれるだろうか。
なりたいと、素直にそう思うことをナギサは躊躇わない。
だから、もうちょっとだけ踏み込んでみようと思う。
「さて先生。トリニティを脅迫した、なんてゴシップが広まらないように、一つお願いを聞いてみる気はありますか?」
「承ろう。今更何が広まったところで「ああ、またか」で流されそうな気もするが。普通の教師を捕まえて酷い話だね全く」
どの口が。万魔殿議長を脅迫して風紀委員長に休みを取り付けたの知ってるんですからね。多分実態は違うのだろうが、敢えて追及する意味もない。故にナギサは席を立ち、椅子ごと先生の隣へと移動して、
「おや」
そのまま、先生の身体に寄り掛かった。
細身に見えて鍛えているだけはあり、先生の身体は揺るぎなくこちらを受け止める。ナギサは肩に頭を預け、しかし目を合わせることはさすがに出来ず、床を見下ろしながら小さく、
「……少しだけ、このままでいさせてください」
「随分と控えめで可愛らしいお願いだね。添い寝と子守唄までならサービスするが?」
「そこまで頼んでませんっ」
ついツッコんでしまったが、今離れたら二度と戻れないと思うので動きはしない。既に頬は赤く熱を持ち、後のことを考えると頭を抱えたくもなるが、今だけは全部放り出して後の私に頑張ってもらいましょう。
そんなこちらに苦笑を零しつつ、先生が逆の手を伸ばして来た。髪に触れ、差し込むように梳き、ゆっくりと撫でてくれる。
その温かさと心地好さに身を任せていると、不意に疲れが一気に来て、
「お疲れ様、桐藤君。……本当によく頑張った」
その言葉を最後に、ナギサの意識は眠りへと落ちて行った。
●
「ねえナギちゃん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「何ですか藪から棒に」
「先生昨日夕飯前には帰るって言ってたのに遅かったから「急ぎのお仕事でも入ったの?」って聞いたら「桐藤君の寝顔鑑賞が楽しくて時間を忘れてしまってね!!」って、どういうこと一体」
「おや、これはまた興味深いね。今日手伝おうと思っていた業務も全て片付いているようだし、……聞けば昨日は先生が学園内を猛烈な女走りで駆け回りティーパーティー代行を名乗っていたそうだが?」
「……ナギちゃん、先生と何してたの?」
「か、解散!! 仕事もないので今日は解散です!!」
「ミカ、押さえ付けるんだ。全て吐かせるまで逃がしてはいけないよ」
「おっけ☆」
「黙秘!! 黙秘権を行使します!!」