グラスアーカイブ   作:外神恭介

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似合い過ぎていてそこはかとなく背徳的というか確実に犯罪的ではないでしょうか

 昇り始めた朝の日を、広く見ることの出来る場所がある。

 開けた場所。高い建物のない場所。高層建築が立ち並び発展した街中ではそうそう叶わぬ条件を、しかし満たしている場所があった。

 海沿いの街だ。

 砂浜ではない。工事により人の手が加えられた海浜公園。遊歩道も設けられたその場所は、散歩や夜勤を終えた姿など、疎らに人影を行き来させている。

 早い時間だ。日が完全に昇りきれば、より多くの人々が行き交うだろう。

 そんな敷地を独占するように、並んで走る影が二つあった。

 一つは、銀の髪を肩口で整えた獣の耳を持つ少女。

 もう一つは、白の長髪を高く結った長身の女性だ。

 二人共汗で髪を肌に貼り付かせているが、疲労は後者の方が僅かに濃い。

 二人の行く先、遊歩道沿いに設置されているベンチの中、一つだけ荷物の置かれた一画があった。

 スタート地点であり、ゴール地点。終わりが見えたことで、お互いがスパートを掛ける。

 先行したのは少女の方だ。身軽さを武器に、加速を重ね、徐々に距離を引き離す。

 しかし女性も追い上げる。長身故のストライドを以て、少しずつ距離を詰め直す。

 だが、少女が逃げ切った。

 ベンチの前を通過し、クールダウンの為少女が小走りで周囲を回る。対し女性の方はベンチを過ぎた辺りで、強引なブレーキングで踏み止まった。

 息は荒い。朝の冷えた大気の中、身を伝う汗が足元に雫を落として行く。そんな女性の様子を見て、少女がベンチの方へと進路を変更。

 膝に手を着き、荒い息を繰り返している女性に少女が歩み寄る。その手にはベンチから取って来たスポーツドリンクのペットボトルが握られており、声を掛けるとそれを差し出した。

 女性は少女の顔を見上げ、しかし苦笑と共に受け取った。はは、と嬉の色を躊躇いなく浮かべ、

「さすがに現役には敵わないか。……見事だよ砂狼君」

「先生こそ、ここまで付いて来れるとは思わなかった」

 少女の笑みに応えるようにして、女性がボトルを一気に呷った。

 

     ●

 

 五百ミリのボトルから一息で半分以上を飲み干し、満足げな吐息を零す先生を、シロコはタオルで顔を拭いながら見ていた。

 日課のランニング。時折そこに先生が加わるようになったのは、彼女と知り合ってから程なくしてのことだ。執務室での筋トレだけでは飽きるらしく、モチベーションの為と言われれば断る理由もない。二人きりで過ごす大義名分もゲット出来てお得。最近はもう一人の自分も混ざるがノーカン。さすがに全力で飛ばすとついて来れないが、ある程度追随出来るだけでも十分だろう。

 そんなことを思いつつシロコも水分補給。見れば先生は何かを探すように付近を見回していて、恐らく空にしたペットボトルを蹴り込むゴミ箱を探しているのだろう。三十メートルくらいなら余裕でシュートする。間違いなくする。だがツッコむべきはそこではなく、

「先生、あまり急に動きを止めない方が良い。負担が掛かって身体を傷めるかもしれない」

 遅きに失した指摘ではあるものの、一応は言っておく。だが先生は、苦笑と共にタオルを手に取り、

「いやすまないね。つい学生時代の感覚でいたものだが、やはりこれだけの長距離となると衰えを実感せざるを得ない。この後ストレッチをするので、それで勘弁してくれたまえ」

 確かにデスクワーク漬けなキヴォトスの暮らしでは、必要以上に身体を鍛える時間も余裕もないだろう。それはシロコも重々承知していて、だからこそ無理をしないよう付き添ったというのに、

「ごめんなさい。先生が「はははまだまだ余裕だとも」って言うから嬉しくてつい三十キロ走っちゃった」

「何、この程度で喜んでもらえるならお安い御用だとも。またその内このような機会を設けるとしようか」

 荒っぽく汗を拭った先生が、励ますようにこちらの頭を軽く叩く。その温かさと感触に表情を緩めるが、それどころではない事実に気が付き我に返った。眼前、タオルを肩掛けにした先生から一歩を下がり、

「先生、私、今汗掻いてるから」

「お互い条件は同じだよ砂狼君。気になるならチョイとそこの桟橋から海にダイブという手もあるが」

「水着は持って来てない」

「濡れたまま帰る訳にも行かんね」

 そう苦笑する先生は、本心から気にしていないのだろう。だが、だからといって気にせずにはいられないのが乙女心というもので、先生はその辺かなりザッパだ。かといってデリカシーがないという訳でもなく、単純に己の基準がフツーの範疇から外れているだけ。緊急時の頼もしさなどはかなり男前だし、だからこそ同性相手の好意であってもあまり抵抗や違和感は覚えないのだが、こういう時はちょっと困る。でも最終的にはこちらの意図を汲んで、ちゃんと離れてくれる辺りが先生らしい。

 改めて視線を向けた先、先生の息は既に整いつつある。軽いストレッチを始めている彼女は普段とは違いポニーテールで、揺れる髪から覗けるうなじが眩しい。汗を掻いたこともあり僅かな光沢を持って見える後ろ姿は、鼓動をちょっとどころではなく乱れさせる。後ろから抱き着きに行きたい欲求と、まだシャワーも浴びていないという理性が、先程から脳内で大戦争中なのだがどうしたものか。ともあれ平静を保つ為にも、シロコは疑問に思っていたことを口にする。

「前から思ってたけど、実は走るの得意だった?」

「得意という程でもないよ。単に朝晩二十キロ走る生活を三年程送っていたことがあっただけでね」

「……先生のデタラメエピソードに引き出しの上限はないの?」

「この程度でデタラメなど恐れ多い。──もっとデタラメな連中が複数いるよ?」

 興味がないとは言わないが厄介事に巻き込まれそうなので深くは聞かないことにした。というかこの人本当に外の人間なんだろうか。銃弾一発で死にかねないこと以外、キヴォトスで暮らしていても全く違和感がないと思うのだが。

「……と、まあこんなところか。砂狼君の方のクールダウンはどうかね?」

「ん、もう終わった」

「ならば引き上げるとしょうか。……いい加減彼女を起こさねばなるまい」

 そうだね、とシロコは視線を横にスライドさせた。ベンチの横、芝敷きとなっている一画に、自分同様体操服の姿がある。違いはアビドスではなくミレニアムのデザインであることと、その人物が横倒しになっていること。生まれたての小鹿のように震えている傍らへと歩み寄り、屈んだシロコは声を掛ける。

「ノア、大丈夫?」

 

     ●

 

 ノアは、死にかけていた。

 ほんの出来心だったのだ。思わぬ経緯で発覚した自分の信じられない程の運動神経の悪さは、実は結構気になっていた。確かにミレニアムは比較的インドアな生徒の多い校風だが、いくら何でも限度がある。故にどうにかせねばと思い、ふと一つの話を思い出したのだ。

 シャーレに出入りするようになってから、ユウカが仲良くしているアビドスのシロコ。彼女は身体を動かすこと全般が趣味であり、先生も時折それに付き合っていると。

 ノア自身シロコとの交流はあり、人となりは分かっている。表情の変化に乏しく、ぶっ飛んだ言動こそあるものの、根っこは素直で優しい子。先生共々、他人の苦手や不得手を揶揄するような人物ではない。

 一人では何から始めれば良いか分からなかったこともあり、参加出来ないかと話を持ち掛けた。先生との時間を邪魔してしまうのではという懸念は、しかし想像以上に乗り気なシロコによって杞憂となった。故に内心テンション高めで、前日の夜から入念に準備を整え、意気揚々と合流してみた結果、

「まさか先生より先にダウンしてしまうとは、お恥ずかしい限りです……」

「文武両道とは言う程易くないものだよ生塩君。修めるには才覚も努力も必要、元よりミレニアムは文が主なのだから、そう気落ちすることはない」

 肩を竦めてそう慰める先生は、ノアの三倍近い距離を走っておいて既に呼吸を戻している。よくよく考えてみればこの人、不眠不休としか思えない手腕で多忙なシャーレを切り盛りしているのだ。体力というかスタミナというか、そういう面においてはキヴォトス有数だろう。自分とて劣るのは運動神経だけで、体力ならば負けていないと思っていたが、

「えっ? あれっ!? お二人共ペースかなり早くありませんか!?」

「……ん、そんなに飛ばしたつもりはなかった」

「成程、これはつまりアレだ。これまでお互いとデカ狼君しか比較対象がいなかったので、平均速度が上がっていることに気付いていなかったと、そういうことだろう。ははは、落語か何かのようで痛快なオチだね?」

 つまり常識が通じないコンビに頼んだ時点で間違っていたということだ。

 初心者に無理はさせられないということでペースは落とされたが、ノアは結局道半ばでリタイア。そのままここに突っ伏して、海浜公園の敷地をハイペースで周回する二人を見守っていたという次第だ。どうにか呼吸や心拍数は平常値に戻りつつあるものの、冷静に考えてこっちより飛ばした上でもう自然体に戻ってるお二人は大概なのでは。というか、

「先生のスタミナは普段の多忙ぶりを見るに納得せざるを得ないのですが、シロコちゃんも相当タフですね……」

「アビドスは砂漠ばかりだから、足腰を鍛えてないと動くに動けないことも多い」

 ……そうでした!!

 成程言われてみれば納得だ。アビドスの中ではどちらかと言うと役職故にアヤネやセリカの方が接点が多く、彼女達はマトモ寄りなので失念していた。そもそもアビドスは環境がかなり劣悪で、しぶとくなければやって行けないのは当たり前。アヤネやセリカとて常識人サイドだが、いざという時の行動力は折り紙付き。

 そしてアビドスの銀狼は、ほぼ単独でキヴォトス縦断を成し遂げるようなフィジカルの持ち主であったのだ。

「リタイアしたからと言って落ち込む必要はない。何事も大事なのは継続。毎日じゃなくても続けて行けば、きっと得るものは多いはず」

 内心の戦慄を他所に、予備のボトルを差し出してくれるシロコが良い子過ぎる。もしものことがあったら全力で力になろうと固く誓いつつ、ノアは受け取ったボトルを口に含む。持参したボトルは既に空。半分以上バテていた為水分が足りていないということはないが、好意を無碍にする必要もあるまい。

 汗が引いた涼しさを心地好いと感じながら、落ち着きを取り戻したノアは視線を上げる。身を屈め膝に手を着いたシロコの、青い瞳を空のようだと思いつつ、

「ところでシロコちゃん、今の今までスルーし続けて来たことがあるのですが、さすがにもうツッコんでもいいでしょうか」

「……何かおかしなことでもあった?」

 不思議そうに首を傾げる彼女は、恐らく慣れてしまったのだろう。或いは最初から気にしていないか。なのでノアはこの場における常識人代表として、そのまま視線を先生へと向けた。

 白の体操服に黒のブルマを着用し、黒のジャージを羽織った姿へと。

「……先生、その格好は一体……」

 努めて笑顔で聞いた先、先生が首を傾げた。そのまま右を見て、左を見て、上を見て、両腕を広げ、

「──似合っているかね!?」

「似合い過ぎていてそこはかとなく背徳的というか確実に犯罪的ではないでしょうか」

 何なら汗を流したせいで、先程から色々と透けて見えっぱなしだ。黒の下着はデザインも確認可能な程で、谷間や臍のラインもバッチリと。当の本人も気付いているはずだが、隠すどころか意に介してもいない。これまでも夏場にシャツが透けることはあったが、曰く「見られて恥ずかしいものでもないよ」とのことで、だとしても同性相手とはいえ豪胆過ぎではなかろうか。というか記憶力の良過ぎる自分がコレを見てしまった以上、今後一生この記憶を抱えて生きて行かねばならないのはある意味地獄では。まかり間違って夢にでも見たりしたら、マトモに先生の顔を見れる気がしない。

「どうしたのかね生塩君、頭を抱えて」

「時々先生って信じられない程頭の悪い時がありますよね……。いつもの奇行とは別で」

「ん、たまにだけど苦労する」

 シロコと固い握手を交わした。生徒の不安や悩みには聡いのに、自身が絡むとどうしてこうなのか。ここまで来るとわざとなんじゃないだろうか。現に今もこちらが友情を確かめ合っているとでも思っているのか拍手してますし。そんな彼女にノアは躊躇いなく半目を向け、

「私の記憶違いでなければ、先生はいつ如何なる時も黒のパンツスーツ姿でしたよね? 例外はゲヘナのパーティー出席時のドレスコードくらいで」

「うむ、先生の由緒正しい姿とはああでなければいけないからね」

「そうですよね。風呂上がりでもいつものスーツ、晄輪大祭の時も運動用のスーツ姿でしたし、生徒を海まで引率した時でさえ上着は脱いだもののスラックスのままでした」

 ハイキックすら放てる柔軟さと稼働性を誇る先生のスーツは、律儀に用途が分けられている。そして今述べた通り、運動用のスーツも所有しているのだ。色々と何かがおかしい気もするが、一々ツッコんでいたらキリがない。なので疑問は至極単純に、

「──何故ブルマを?」

 問うた先、先生が腕を組んだ。巨乳が歪み体操服の貼り付き方が変化して動揺したが全力で堪える。あと躊躇なくガン見してるシロコちゃんは凄いと思います。ともあれ、

「アレはあくまで先生としての正装だ。私の内より溢れ出る情熱と誇りを、そのまま形にした素晴らしいものだよ。特にそうだね、こう、この辺りなど身に音立てて動きを取った時のキマり具合が抜群で……、ええい何故こんな時に限って着ていないのだ私は」

「先生、先生、物凄い勢いで脱線してますのでこっち、こっちに視線お願いします」

「おっと失敬。ともあれそういう訳でアレは公的な姿だ。キヴォトスにいる以上私の先生という肩書きも離れないので、常日頃からあの姿でいるのも当然と言えよう」

 だが、

「運動という観点において、砂狼君の方に一日どころではない長があるのは自明の理だ。ならば先達に敬意を払い、教えを乞う立場である私は生徒も同然。そして生徒であるならば、それに相応しい正装がある。運動時の生徒の正装として、この格好を選択した。それだけのことだよ生塩君」

「……はあ、そうですか」

 生返事になっている自覚はあるが、罪悪感が湧かないのは性格が悪過ぎるだろうか。そんなことを思いつつ、ノアは一応の納得を得る。結論があまりにあんまり過ぎてビジュアル面だけ見るとキチガイで犯罪だが、理由としては筋が通っていると言えるだろう。純粋に良い物を見れたというプラスの面もある。良過ぎて毒なのが難だが。しかし、

「……その理屈で言うと、シロコちゃんはスーツ姿でなければいけないのでは?」

 問いつつ横目を向けた先、シロコはアビドス指定の体操服だ。晄輪大祭でも見た姿は、運動の為に選択したものだろう。サイクリング用のジャージも持っていたと記憶しているが、ランニングの今回は趣が違う。そして先生のキチガイ理論を適用しても、狂人である先生を除きフツー運動時にスーツは着ない。果たしてどんな返しが来るのかと、若干の期待と共に視線を戻そうとして、

「グッドアイディア」

 痛みを覚える程の力強さで、シロコに両肩を掴まれた。

「……ええと、あの、シロコちゃん?」

「ノア、ありがとう。今世紀最高のアシストだった。これで先生の服一式を公的な理由で着ることが出来る」

 真剣そのものの表情で告げるシロコの言葉に、ノアも遅れて理解した。

 先の理論を適用するなら、シロコはスーツに着替えねばならない。

 だがキヴォトスにおいても、女学生がスーツを持つというのはさほど常識的ではない。

 ならば買うか貸与の二択。だが前者はないだろう。上等な品であれば値段も相応に張るし、資金難に喘ぐアビドス生に先生が購入を強要する訳がない。

 かといって先生が自腹で買い与えるのもなしだ。他の生徒にも同じ対応をするのかという問題が出るし、シロコだけ特別扱いするのも角が立つ。そしてそれらの事情を抜きにしても、ここで受け取るという択はない。

 そうすれば残る選択肢である貸与、即ち先生が常日頃着ているスーツを借り受けることが出来るのだから。

 重箱の隅を突く程度の一言が、思わぬ方向に転がり始めた。この論が通じるなら書記たる己も、各種記録の取り方について「先生」として先生に教えることが出来る。他、何らかの面で先生に匹敵するスキルの持ち主にとって、福音と言って良い朗報だろう。サイズの問題等はあるが、齎されるプラスの方が遥かに大きい。

 どうなるのか。少なからぬ期待を込めてシロコと見る先、先生が感心したように頷きを作る。成程、と前置きした上で笑みを浮かべ、

「確かに、そういう解釈もアリだ。棚から牡丹餅とは言ったものだ、よくぞアドリブでこのような一手を打って来たね」

 見事だ、とも口にして、しかし先生は余裕の態度を崩さぬまま、

「では正式に砂狼君には先生を任じよう。いや、砂狼先生と呼ぶべきか。ああ、目上の立場となるのだからそれ相応の態度で接しなければならないね?」

「上下関係なんてない。同好の士」

「……あっ」

 本心故であろうシロコの即答に、ノアが声を上げた時には遅かった。してやったりと口の端を吊り上げた先生が、大仰に両腕を広げ、

「では対等な関係ということでスーツの貸出もなしだ。今後ともよろしく頼むよ砂狼君」

 理解の追い付いたシロコから表情が消えた。

 風が吹く。海からの、日の温かさを帯びた風が。だが詰めの一手をしくじった心を、その曇りを晴らすにはあまりにも弱過ぎた。

「────」

 無言のままシロコがその場に崩れ落ちる。膝を着き、上体を伏せ、芝生を握った拳で殴りながら、

「先生として先生にあんなことやこんなことが出来るチャンスを逃すなんて……!!」

「シロコちゃん、本音、本音が猛烈に垂れ流されてます」

 キツく拳を握るあまり芝がブチブチ引き抜かれているのだが、強引にでも止めるべきだろうか。というか先生が心底楽しそうに笑ってて止めようともしないのがさすが過ぎる。やがて走っていた時よりも息を荒くしたシロコが身を起こすと、目の前で先生が腰を落とし、

「だがまあ、惜しいところまで行ったのは確かだ。これに懲りずまた挑んで来ると良い。私はいつでも挑戦を待っているよ?」

「……ん、いつか絶対目に物見せる」

 その意気だ、と頭を軽く叩く。何だかんだ言いつつシロコも満足げに口元を緩めている辺り独特の循環というか、不思議な関係性だとノアは思う。最も気の合う間柄だからこそ成せるものでしょうか、とも。自分とユウカとも違う、ホシノとヒナやミカとも違う、一言では、上手く言い表せないような繋がり。強いて言うならばアビドスメンバーの連帯感を、更に一歩進めたような、

「さて、一息ついたところでそろそろ引き上げようか。お互い各々の予定があるだろうしね」

 思考に没頭し掛けた意識を、先生のそんな一言が引き戻した。面を上げればシロコも手荷物を纏め終えており、先生も靴紐の結びを確認している。故にノアも少ない持ち物を手に、

「そうですね。戻ってからの身支度を考えるとさほど時間に余裕があると、は……?」

 立ち上がろうとしたら、尻餅を着いていた。

「……あら?」

 何が起きたのか分からず、

「……んっ」

 身に力を入れてリトライし、

「んー……!!」

 掛け声付きで頑張ってみても結果は変わらず、

「……あのう、先生」

「……何かね生塩君」

 沈黙が気まずくなるより先に、ノアは意識して笑顔を作りつつその事実を告げた。

「立てないみたいなんですけど、どうしましょう……」

 我ながらあまりにも情けない告白に、先生が上を見た。そのまま五秒二八が経過し、やがて視線を下ろした彼女は身を屈め、

「ふむ、思った以上に軽いものだね?」

 俗に言うお姫様抱っこの形で難なく抱き上げられた。

「せ、先生!?」

「一人ここに置いて行く訳にも行くまいよ。時間はなく、タクシーを呼ぼうにも持ち合わせが心もとない以上、他に選択肢もないと思うが?」

 事も無げに言う先生は、華奢という程ではないが細身だ。それでもこちらを抱える力強さに揺るぎはなく、大人という単語を改めて実感させられる。単に鍛え方がおかしいだけな気もするが、だからといって跳ねた心臓の鼓動が落ち着くはずもなく。

「汗で貼り付いて気持ち悪いかもしれないが、そこは大目に見てくれたまえ。折衷案として間に未使用のタオルを挟むという手もあるが、そちらの方が良いかね?」

「そ、そこまで気を遣っていただかなくて大丈夫ですっ」

 ああ、相当テンパってますね私、と頭の片隅で思う。ユウカや他の生徒が似たような目に遭っている時は「あらあら可愛らしい」などと余裕ブチかましていたものだが、遡及しての謝罪はどこまで有効だろうか。というか混乱のあまり現実逃避してませんかね私。もっと他に考えるべきことがあるでしょう。仄かに香る燻製の桜の匂いとか、服越しに密着する胸の柔らかさとか、微かに感じられる鼓動のリズムとか、

 ……違いますよ!!

 何故そうなった。というか匂いなら自分が気に掛けるべきでしょう先に。タオルで拭いはしたが長々ぶっ倒れていた後のことなので消臭が万全とは言い難く、かといって自力で歩いて帰るのはMURIだし、そもそもお姫様抱っこの衝撃で完全に腰が抜けているし、一体どうすれば良いというのか。ミレニアムの難題が霞んで見える。混乱の極みのあまり、自分でも何を口走ろうとしているのか分からぬまま口を開こうとして、

「先生」

 不意の声が正気を呼び戻した。慌てて視線を向けた先、しかし声の主はいない。あら? と首を傾げ周囲を見回し、

「生塩君、下だ」

 言われた通り下を見ると、シロコが地面に伏せていた。大の字に、真剣な眼差しで空を見上げ、

「足が攣った。動けない」

「……つい先程まで元気に動き回っていた気がするのだがね」

「急に来た。多分はしゃぎ過ぎた反動」

 迫真の真顔であった。

 やがて先生が吐息と共に、ノアを下ろさぬまま身を屈める。シロコに背を向け、肩越しに視線を送り、

「生憎両手が塞がっているので砂狼君の腕力頼みになるが、大丈夫かね?」

「大丈夫、体力には自信がある」

 腹筋で起き上がったシロコが先生の肩に手を掛け、負ぶさるようにしてぶら下がった。先生が一息と共に立ち上がり、ベンチ上の荷物を回収しようとして、

「……砂狼君、何やら両脚でガッチリと私の胴体がホールドされているようなのだが」

「落ちないように掴まる場所を増やしただけ。至って自然な行動」

「つい十数秒前の発言と偉い勢いで矛盾しているのはツッコんだら負けかね?」

「過去に囚われ過ぎるのは良くないって言ったのは先生」

「では首筋に顔を埋めて過去の残滓である匂いを嗅ぐのはやめたまえよ」

「脱力して身を預けているだけ。運動した後だから深呼吸するのも不可抗力」

「ならば二人抱えてシャーレに辿り着いた後、疲労困憊の私が砂狼君の方に倒れ込み酸素の補給に勤しんでも拒否はしないね? 無論シャワーを浴びる前に」

「……残念、ここは諦める」

 どっちもどっち過ぎる。思わず半目を向けた先、しかし先生は笑っていた。

「では生塩君、使い立てて申し訳ないが荷物を頼む。私も砂狼君も手が塞がっているのでね」

「構いませんけど、……シロコちゃんは一度自分を省みた方が良いのでは」

「先生のスタンスと同じこと。一瞬一瞬を悔いなく生きてるだけ」

「とはいえ振り返らねば同じ過ちを犯すだけだと思うのだがね?」

「確かに有史以来、人は失敗からしか学ばないと言いますけども……」

「ん、その時は先生に助けてもらう」

「……やれやれ、困った生徒だ」

「でもそんな生徒を見捨てないのが先生の良いところ」

「おかげで苦労されてるみたいですけどね。現に今とか」

 違いない、と苦笑する先生に、シロコ共々笑みを零す。密かに視線を交わし合い、小さな頷きを送りながら。先生には頑張ってもらう分、業務を手伝うことで返そう、と。

 ……深入りしていなければ、素直に幸運だったと思えたのかもしれませんけど。

 そこまで薄情でも恩知らずでもない。困ったことにこのどうしようもない大人に対し、自分達は相当入れ込んでいるのだ。惚れた弱みという言葉の意味をこんな形で体感することになるとは思ってもみなかったが、

「ところで生塩君、何故にそのような熱視線を」

「いえ、クールダウンを済ませたはずがトレーニング続行になってしまっているので、無理のないように目を皿にしてチェックしようかと」

「先生、あっちにスポーツ用品店が」

「この後に及んで寄り道とはスパルタだね砂狼君!!」

 本当にどうしようもないのは自分達の方かもしれないと、少しずつ高くなり始めた日差しにノアは目を細めた。

 今後も折を見て参加しようと、そんなことを思いながら。 

 

     ●

 

 その後数日間、先生に抱き上げられたことや触れた感触の記憶が鮮明過ぎて、ノアが挙動不審になったり眠りが浅くなった結果、セミナーの業務が僅かながらに滞った。

 一方シロコはいつも通りで何の支障もなく、むしろ快眠だったことを付け加えておく。

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