入室すると、先生の膝に座ったヒナが二人仲良くプラモを作っていた。
「……アコ?」
ヒナの声に、アコは我に返る。どうやら衝撃のあまり意識が飛んでいたらしく、時計の針は入室時から三分程進んでいた。なんて無駄な時間を。内心軽く絶望を覚えていると、ヒナからパーツを受け取っていた先生がこちらを見て、
「おや、天雨君が足を運ぶとは珍しい。急ぎの案件でも生じたかね?」
「……ええ、まあ、昨夜郵送した書類に漏れがあったので届けに来ました。多忙な先生の手を止めさせるのも気が引けましたので」
応じ、足早にデスクの前へ。だがそれは書類を渡す為ではなく、改めて現状を確認する為だ。
日中、午後二時前。銀行や役所であっても余裕で営業時間内。ある意味最も多忙である行政・経済系の職種でさえ業務に勤しむ時間だ。それは行政官であるアコも変わりはない。
そんな中このキヴォトスにおいてトップクラスに忙しいであろうシャーレの顧問は、さぞ困っているだろうとどうにか時間を捻出し急ぎで駆け付けたというのに、事もあろうにアコの上役とうらやまけしからん密着状態で、
「……一体何をしているんでしょうか」
努めて笑みで問うた先、先生は愕然と口を開いた。信じられないものを見るように、手にした組み立て中のパーツを掲げ、
「まさか天雨君、知らないのかね!? これはプラモデルと言ってだね……!!」
「誰がそんなことを聞きましたか誰が!!」
無言で引き出しから取り出した手鏡を向けられたので、奪い取ってソファー上にぶん投げた。軟着陸するところまでを見届け視線を戻し、デスクを叩きながらアコは言う。
「毎度のことながら絶対におちょくってますよね!? 一体私を何だと思ってるんですか!?」
「これが私の平常運転だよ天雨君。単に君の沸点が低いというのもあると思うが。牛乳でも如何かな?」
「いやおかしいでしょうその平常運転が!! 生徒の見本たる大人の態度ではありませんよ絶対に!!」
言われ、先生が考えるように上を見た。そのまま視線を下へ、ニッパーでパーツを切り分けているヒナに向けると、
「だそうなのだが空崎君。もし私が口調や態度を改め誠心誠意丁寧に生徒達に接していたらどう思うかね?」
「悪いものを食べたのか疑うし熱があるのか心配した上で救急医学部まで引きずってでも連れて行くと思う」
成程成程、と二度頷いた先生がこちらに視線を戻した。
「という訳で天雨君、君の望みを叶えると空崎君の業務が滞るのだがどちらが良いかね? 選ぶ義務を与えよう」
「第三の選択肢として先生を張り倒すというのは如何でしょうか」
「物理か……。手加減はしてくれたまえよ? でなければ天雨君にキズモノにされたという噂が広まり君の命が危ないのでね」
無言で退室した。
●
「……いいの?」
勢い良く閉められた扉を一瞥し、ヒナは先生を見上げつつ問う。当の先生は塗装用のマスキングテープを貼りながら、出来を確かめるように掲げ見て、
「いや、以前に一度当たり障りなく接してみたことがあるのだが、何故か物凄く嫌そうな顔をされてね」
「……面倒というか難儀というか、屈折してるわねアコも」
「まあ、ああ見えて天雨君は風紀委員会のナンバー2、行政官という立場も相俟って品行方正な優等生を己に課しているようだからね。業務の圧迫もだが素の自分を押し込めるというのはストレスだろうし、その発散になるのならこのくらいのやり取りは全く問題ない」
「先生には苦労を掛けるわね……、ごめんなさい」
「気にすることはない。私の同期に比べれば天雨君の言動など有情過ぎて涙が出る程だ。曲がりなりにも大人なのだし、生徒の言葉に本気で腹を立てることなどそうそうないよ」
「そうね。先生の場合怒るより先に諭しに掛かるものね。大体屁理屈と暴論だし生徒以外は容赦なく煽るけど」
「──何を良い雰囲気で和んでますか!!」
アコが戻って来た。肩を怒らせた大股で、先生のデスクに手を着くと、
「生徒が会話を打ち切って去って行ったんですよ!? 追い掛けもしないとかそれでも先生ですか!!」
「天雨君、今は生徒だから良いもののそれどう考えてもパワハラと揶揄されるから今からでも改めた方が良いと思うが」
「そうよアコ、先生は不規則言動とか問題もあるけど、根っこの部分は良識ある大人なのだから敬意は払った方が良い」
「空崎君、完全ディスの上で成り立つ敬意は蔑ろにされるよりダメージが大きいと思うがね?」
「そのくらいでへこたれるような先生じゃないという信頼のつもりだったのだけど、違った?」
「……あの、すみません委員長、私が空気か背景みたいな扱いでイチャつくのやめません、か……?」
「……別に、イチャついてなんかない」
思わず頬に熱を得て顔を背けてしまったが、アコにはそう見えたらしい。ふうん……、そう……。
「空崎君、ニッコニコなところ申し訳ないのだが、反比例するように天雨君の眉間のシワが形容し難い程深くなって行くよ」
慌てて表情を取り繕った。どうにもシャーレにいると気が抜けていけない。風紀委員長として知らず気を張っていることが当たり前になっていたのだと、そんなことに気付かされたのはシャーレに出入りするようになってからだ。最近はホシノやミカなど遠慮なく付き合える友人も出来て、自分では結構素を出していると思っていたのだが、さすがに先生相手では分が悪かったか。改めてお礼をしないと、と頭の片隅で思いつつ、とりあえず言うべきは言っておく。
「アコ、書類」
「はい、こちらです」
差し出された書類を受け取り、広げて内容に目を通す。不備がないことを認め視線を上げると、先生が頷いたので処理済みのトレイに置いた。
疑問はない。一瞥しただけで内容を記憶し、過去に確認したものも全て把握している彼女にとって、多少の不足は十分予想・推測が可能なものだ。今のもその答え合わせをしたに過ぎず、想定通りだったということはアコの手腕が確かなものだという証明に他ならないのだから。
……それを言わないから誤解されるのよね先生は……。
まあ自分の風聞を全く気にしない彼女に何を言っても無駄だろうが。アコもアコで褒めても素直に喜ぶ姿を見せず見栄を張るだろうし。そういうところよアコ。いい加減先生に慣れなさい。一々気を揉んでいたらこの人に付いて行けないから。
「あの、委員長、味わい深い表情をされていますが私が何か……?」
「気にしないで」
「そうだとも天雨君、常々相手の顔色を気にしているようでは身が保たんよ?」
音の出そうな力感でアコが眉をひそめた。煽らないで先生。これでも一応心配してるんだから。
「というかですね先生、大事な書類を持った生徒を追わず遊んでいるというのもシャーレの評判に関わると思うのですが、その辺りどうお考えで?」
「私の人格が破綻しているのは既にキヴォトス周知の事実だろう。多少の悪評が流れたところで大半は辟易して聞き流すと思うが?」
半目で文句を言おうとするアコより早く、先生が面を上げた。それに、と前置きした上で真っ直ぐな視線を向け、
「私情がどうあれ途中で仕事を投げ出すような天雨君ではないだろう。自負と誇りある行政官として、必ず戻って来ると信じていたからね」
出鼻を挫かれ、動きを止めていたアコがややあって再起動。片方の手を腰に、もう片方を胸に当て、僅かに頬を赤くしつつ満更でもなさそうに、
「ま、まあ? これでも風紀委員会の行政官ですし? 先生の不手際の一つや二つ、フォロー出来ないことなどありませんとも、ええ」
人のことを言えた義理ではないが、アコも大概チョロ過ぎではないだろうか。
●
丁度作業のキリが良い所だったらしく、休憩終了としてヒナがパトロールに戻った。先生が手を振って見送り、やがてその足音が聞こえなくなると、
「……さて」
自席下の隠し床から取り出した大量の書類をデスク上に積み上げ、その消化に取り掛かった。
「……常々疑問なんですが、意味あるんですかそれ」
「溜まっている仕事を前に休めるような空崎君ではあるまい。折角休憩に訪ねてくれたのだ、心から休めないようでは意味がないのでね」
「……委員長の訪問は不定期だったと思いますけど、よくバレませんね」
「生徒の足音は全て記憶しているのでね。歩調で健康状態も分かって一石二鳥だが、履修にはなかなか苦労した」
ドン引きしかけたがさすがに思い留まった。キチガイ過ぎて忘れがちだが、この人の行動指針は一貫して生徒の為だ。出力される行動が不規則言動であっても、根底には一本の筋が通っている。アコも口では何だかんだ言いつつ、その点については全面的な信頼を置いていた。故にこそヒナのことを任せているのだし、アコ自身度々助けを受けているが、
……委員長と私とで扱いに差があり過ぎじゃないですかね……。
こっちもこっちでムキになったり意地を張ったりヒートアップしたり大人気ないことは認めるが、それ以上に先生がアレ過ぎる。アレという表現も如何なものかとは思いつつ、他に形容のしようがない。首輪事件の辺りから一層遠慮がなくなった気がするが、まあこっちもこっちで言いたいことは言ってるのでセーフ。ヒナは上役、同僚は年下ばかりとなると、あまり砕けたやり取りをする機会もない。そういう意味では先生との外道トークは息抜きになっていると言えなくもないが、
「先生のメンタルは一体どういう強度してるんですかね……? 自分で言うのもなんですが先生に対して割と当たりがキツい自覚ありますよ、私。原因ほとんど先生ですけど」
「天雨君のように己を省みる姿勢を持っているなら過つことはないと判断しているよ。それに以前軽く話したが周りが周りだったのでね。実例として挙げると私に輪を掛けた奇人が呼吸するように不規則言動に及び身内が拳を振り上げるとダッシュで逃げるというのが日に三桁近くある」
「……ストレスでおかしくならないんですか、それ」
「それがまあお互い遠慮なく物を言っているし、ツッコミも容赦なく物理込みで可能となると案外気安いものでね。溜め込むよりも遥かに健全なのは天雨君も良く知るところだと思うが」
否定出来なかったので顔を背けた。しかしそんな雑談の合間にも、先生は手早く業務を片付けて行く。その手捌きは不本意ながら、アコでも到底及ぶものではない。先の話も合わせるとやはり経験と年季の差ということになるのだろうが、十年後の己が目の前の人物のようになれるとは微塵も思えず、
「……先生は」
思わず口をついて出た声を、止めることなど出来るはずもなかった。
「先生は、凡人でも天才に勝てると思いますか?」
問うた先、先生が顔を上げた。デスクを挟んだ、近いとも遠いとも言えない距離。そんな位置に立つこちらを見上げ、しかし己が手にしたペンを見ると、
「邪魔だな」
後ろに放り投げた。
窓にぶつかり、床に転がる音を気にも留めず、席を立った先生は応接用のテーブルセットまで移動。こちらに対面へ座るよう促し、急須の中身を確かめつつ、
「緑茶ならすぐに出せるが、コーヒーの方が良いかね?」
「お構いなく」
そうか、と頷いた先生が棚から取り出したグラスに茶を注ぎ、座ったこちらの前にサーブした。まだ温かく湯気を立てるグラスの向こう、先生は腕を組むと、
「凡人は天才に勝てるか、だったか。……何とも馬鹿馬鹿しい、かつ天雨君らしからぬ質問だね」
呆れの色すら滲ませた回答に、心の内が冷えるのをアコは自覚した。反射的に面を上げた先、先生は苦笑さえ浮かべて、
「反例が今、ここに、二つもあるではないかね」
「……は?」
思ってもいなかったことを言われ、思考が止まった。
この人のことだから、こちらを認めるような言葉が来るのは予想出来ていた。だから反例の一つ目については、納得は行かないまでも理解は出来る。だが二つと言うからには、先生が凡人の側ということになるがそれこそ有り得ないはずで、
「忘れたのかね? 私はかつて自身よりあらゆる面で劣っていた妹に、生涯初の黒星を付けられたのだよ?」
肩を竦め苦笑する先生に、つい最近聞いた話を思い出す。このデタラメ人間の根底を支える、一つの別れの物語を。だが、それを勘定に入れてみても、やはり素直に頷くことは出来ず、
「そ、それは、先生の妹さんなのですから……。秘めた才覚は凡人だなんてとても……」
「ならば私の目の前にいるのは一体誰かね、弛まぬ努力の果てに行政官の地位に就いた天雨アコ君」
お茶請けの煎餅を握り砕き、皿の上に欠片を広げながら先生は言う。大きさも角度もバラバラなそれらを、先生は縦に積み上げ、
「努力を積み重ねるというのはそう容易いことではない。業腹なことに努力とはゲームと違う。同じ内容で学んだとて個人差はあり、噛み合わせが悪ければ全く成果が出ないこともある。それでもなお己の研鑽を諦めないというのは、それ自体が一つの才能だと言えるだろう」
ある程度の高さまで達したところで、しかしバランスを失した塔が崩れた。呆然とそれを見遣るアコに対し、先生は気にした様子もなく手の中に残った欠片を口に運ぶ。
「まあ、私が天才だということは否定しないよ。謙遜すれば私以外を軒並み凡愚だと貶めることにもなるからね」
「……随分と思い上がった上から目線ですね」
「上から見ようが下から見ようが生まれ持った才は変わらんよ、面倒なことにね」
いいかね、と苦笑を挟んで言葉が続く。
「所詮天才も人の子だ。才能に胡坐をかいて怠惰に浴せば、努力を重ねたかつて凡人であった者の後塵を拝することになる。スタートラインに差があったとて、決して埋められぬことはない」
ならば、
「人一人でさえそんなものなのだ。これが複数人で知恵を出し合い、経験を重ね、より高みを目指したとすれば、それは一個人が努力しても届かぬ領域へと達することだろう。そしてその結果だけを見た連中は口を揃えてこう言うのだよ。──普通じゃない、と」
所詮はその程度の曖昧な物差しに過ぎん、と先生は事も無げに言う。
「例えば早瀬君や生塩君など、専門分野は違えど天雨君に勝るとも劣らない能力の持ち主だ。あの二人なら色彩の件で面識もあるし、因縁もないので接する分には構える必要もない。奥空君もまだ下級生故未熟はあれど、将来的には大きく伸びるだろう。浦和君は意思疎通が少々骨かもしれんが、見聞を広めるという意味では好例だ。他にも各学園、才能や努力の如何を問わず、独自の強みを以て世界を動かす者は多くいる」
どうかね?
「風紀委員会の多忙は理解しているから無理にとは言わん。だが天雨君もたまには顔を出したまえ。きっと得るものはあるはずだし、良い気分転換にもなろう」
そして、
「才能、努力、関係、時間。全て生かすも殺すも君次第だ。私から言えるのはそれだけだよ。後は天雨君の思うようにすると良い」
ただし、
「悔いのないように、な」
普段とは違う、目を細めただけの笑み。こんな表情も出来るのかと、そんな場違いのような感慨をアコは抱く。
先程までの心の冷えが、いつの間にか別のものに変わっていた。だがそれは決して嫌なものではなく、むしろ己を突き動かす燃料源となって行くのが分かる。
馬鹿馬鹿しい。らしくない。全くもってその通りだ。そんなことを悩む暇があるなら、頭と手を動かし積み重ねる。そうして来たからこそ、今の己が在るというのに。
「詭弁ですね」
零し、両の手でグラスを手に取る。力の抜けた、呆れ混じりの眼差しを返し、
「でもそんな詭弁でキヴォトスを動かし、事態を収拾して来たのなら、……何事も所詮はその程度と、そう気楽に考えて良いのでしょうね」
「不規則言動で知られた私とて、言葉一つで学園の趨勢を左右出来るのだ。ならば不断の努力を重ねる天雨君なら、もっと良く出来るとも」
言うものだ。だからアコは吐息一つでナイーブな感情を吐き捨て、代わりと言うようにグラスを呷る。程良く温くなった緑茶を一気飲み、グラスを快音付きでテーブルに置いて、
「戻ります。ヒナ委員長が外回りに出ている以上、風紀委員会を取り仕切れるのは私だけですからね」
「頑張りたまえ。だが無理だけはしないように。身体を壊しては元も子もないからね」
傍らにあった手鏡を先生に放って、アコは執務室を後にした。
屈託のない、素直な笑みを浮かべながら。
●
翌日。
シャーレに顔を出したアコが目にしたものは、大量の飲料ボトルを広げ謎ブレンドの生産に勤しむキチガイの姿だった。
光を失った瞳を向ける先、こちらに気付いたキチガイが振り向く。彼女は常と変わらぬ笑みを浮かべ、形容し難い色のドリンクが注がれたグラスを差し出し、
「おや天雨君、まさか昨日の今日で顔を出してくれるとは嬉しい限りだね!! ではお近付きの印にメーラなど一杯如何だろうか!? ああ、メーラというのは百合園君発案のメロンソーダとコーラをブレンドした新感覚の清涼飲料水で──」
アコは額に青筋を浮かべた笑顔で腰の入った手刀をブチ込んだ。