シャーレの執務室に入ったユウカが見たのは、子供の遊び場としか言い様のない光景だった。
「……先生? 一体何をしていらっしゃるんでしょうか?」
努めて笑顔で問いを向けた先、床に這い蹲っている女性が一名。黒のパンツスーツに身を包んだ、白い長髪の長身だ。ご立派な胸部が潰れるのも厭わず、真剣な表情で視線を低くして、繊細かつ緻密に両の手を動かしている。彼女はこちらに振り向くこともなく、明らかに緊を帯びた声で、
「来訪早々申し訳ないが静かにしていてくれたまえ早瀬君、今私は人類の限界に挑んでいるのだよ……!!」
返る台詞に、ユウカは半目で隣を見た。セミナー会計である己と同等の権限を持つ書記であり、良き友人でもある生塩ノア。彼女もまた普段通りの微笑を絶やしてはいないものの、表情には明らかに困惑が混じっている。いや、違うか。この子の場合「あらあらどうしましょう」だ絶対。
嘆息し、改めてユウカは周囲を見遣る。縦に直立した書類が無数に並べられた室内を。
どう見てもドミノ倒しのそれだった。
「…………」
ただの紙をどうやって立たせているのかという至極真っ当な疑問は、この相手の場合思うだけ無駄だ。正直千年難題を解き明かすより、この人の思考回路を理解する方がよほど難しい。というかMURI。当の本人も飄々としているかと思えば、理に適ってはいるものの頭のおかしい発言をぶっこんだり、ガチャの乱数解析が出来ないかとコユキに土下座で頼み込んだりと、ある意味キヴォトス最大の問題児。だというのに火急の事態においては、決して諦めず活路を拓く大人としての顔も持つ、時と場合によって別人のように評価が激変する不思議な人。
それがユウカの知るシャーレの先生、葵・硝子という人物だ。
とはいえ今は狂人の時間帯。こういう時は容赦なくやっちゃっていいというのが彼女をよく知る者の共通見解だ。視線を向けた先のノアも、苦笑混じりに指で丸を作っている。
抱えていたクリップボードで扇ぐと、巻き起こった風がドミノ書類を無残に散らした。
舞い上がり、ゆっくりと降って来る無数の白を三人で見上げる。雪のようだと冷めた感慨に浸っていると、我を取り戻した先生が大股で歩み寄って来て、
「早瀬君!! 私が朝四時から丹精込めて築き上げて来た芸術に何をするのかね!? 遺憾の意を表明し賠償を請求することも辞さないよ私は!! どれだけの損失になると思う!?」
「先生がアビドス旧市街でガチャポン回しまくって散財した額よりは安いんじゃないでしょうか」
おおっと、と先生が右手で己の額を打った。痛快だと言うように笑みを浮かべ、
「これは一本取られてしまったね、ここは私の負けだと素直に認めよう」
さあ、と床に寝転んだ先生がこちらを仰いだ。大仰に自らの腹を叩き快音一発、両腕を大きく広げて、
「勝者としての要求を告げてみたまえ、遠慮なく呵責なく大胆に!!」
「仕事してください」
「ではそうしよう」
何事もなかったかのように起き上がり、スーツに付いた埃を払いながら書類を拾い始めた。何ですかねこの変わり身の早さ。見ればノアも笑みで書類を集めており、何だか自分だけ酷く損をしている気がする。ああ算盤弾きたい。
「先生、よくよく見るとこの書類、きちんとカテゴリ毎に纏まってるんですね?」
「うむ、並べ方にも拘ってこその芸術だからね。とはいえ早瀬君の一振りで混ざってしまったが」
「ちょ、私が悪者みたいに言うのやめてください!!」
ともあれユウカも手伝いに加わり、束ねた書類をデスクに積んで行く。出来上がる山は一つや二つでは利かず、これを今から処理するのかと思うとげんなりもする。元々自分達がここに来たのも、セミナーから送った書類の進捗伺い兼、こうなっているのが予想出来たのでその手伝いが目的だ。三人掛かりなら日付は跨がないだろうが、それに近い時間帯まで拘束されるのは確定だろう。まずは飲み物の用意から、と思い給湯室に向かおうとして、
「ああ、そうだ。セミナー宛の書類がこれとこれと、あとこちらもか。ついでにミレニアム宛も幾つかあったので渡しておこう。内容に不備がなければそのまま持ち帰って進めてくれたまえ」
乱雑に纏められたはずの書類の山から迷いなく数枚の紙を抜き取った先生が、それをこちらに握らせた。呆然と視線を落とせば、完璧としか言えない出来の書面があり、
「どうして最初からこれが出来ないんですか……」
「巷では私を聖人君子か何かのように持ち上げているようだが、そもそも私は単なる快楽主義者でしかないよ。シャーレの仕事も「面白そうだから」でやっているに過ぎない。書類仕事の重要性も理解はしているが、率直に言えば興が乗らなくてね」
あっけらかんと述べる先生は、言葉の通り現場派だ。ミレニアムに限らずゲヘナやトリニティ、そして親交の深いアビドス等には、最低二日に一回は顔を出している。大抵は生徒達と雑談したり騒いだりではあるものの、去り際に残して行く助言のおかげで効率が上がったという話は、風紀委員会や正義実現委員会からもよく聞いている。無論セミナーもその範疇に漏れず、大人買いでダダ余りした茶菓子の差し入れ共々歓迎されるのが常になっているのだが、代償として放置される書類はオフィスで積み上がり続ける。当人がこういうスタンスなので尚更だ。
「とはいえわざわざ手伝いに来てくれた生徒達にまで負担を強いるのは大人としても先生としても失格だろう。ならば本気で取り組みもするし、捻出した空き時間で歓待の一つくらいはするとも」
と、気が付けば応接用のテーブルセットにコーヒーと茶菓子まで広げているのだから対応に困る。お茶請けがどう見ても子供向けなシール付きウエハースなのも含めて。だが折角の用意を無碍に断るのも失礼なので、渋々といった体でソファーに座りつつ、
「どうしてこんなテキトーな人を指名したんでしょうね、連邦生徒会長は……」
「だが件の連邦生徒会長君は目下行方不明だ。そして私は彼女から同等の権限を譲渡されており、つまり私を権力的に止められる者はいない。ならばクーデターでも起こされない限り私の立場は安泰だよ早瀬君。不満とて行動で示さねばただの愚痴かツンデレに過ぎん。いっそセミナー総出でのし上がって合法的にキヴォトスを治めてみるかね?」
「今のキヴォトスから先生がいなくなれば保たないのは誰でも分かってますって……」
アビドスの一件から始まる大規模な事件は言うに及ばず。日常的なトラブルとて、先生がいなければ回らない部分は多いのだ。だというのにホイホイ前線まで付いて行くのだから、常識人としては心労が絶えない。先生と出会ってから楽が出来る場面は増えたが、算盤を弾く時間はそれ以上に増した。半目を向けてみてもどこ吹く風だし、こちらとしては出されたコーヒーに手を付けるしかない。
両の手でマグカップを握り、淹れたてのコーヒーを口に運ぶ。隣に座ったノアもウエハースに手を付け、
「先生? ユウカちゃん凄く嫌そうに言ってますけど、本当は先生がいなくなったりしないか心配しての発言なので、そこは誤解しないであげてくださいね?」
「ちょっ……!?」
急な暴露に思わず立ち上がった。が、ノアは敢えてこちらを無視しウエハースを口にしている。そして先生の方もタブレットを操作しながら、
「案ずることはないよ生塩君。早瀬君が気遣いの人であるということは、ゲーム開発部の件やこうして度々訪ねて来てくれることからも重々承知している。いつぞやに燻製で火災報知器を作動させ濡れ鼠になった際も、説教と簡単な反省文で済ませた上に燻製部屋まで用意してくれたからね。いやはや、早瀬君は将来良い奥方になることだろう」
何でもないように告げられた言葉に、思わず頬が熱を持った。口を戦慄かせているだけで何も言えないこちらに対し、追い打ちを掛けるように満面の笑みのノアが、
「良かったですねユウカちゃん。良いお嫁さんになれるって、先生のお墨付きですよ?」
「な、な、ななななな……!!」
先生に褒められた嬉しさと、友人にからかわれる恥ずかしさと。頭の中がしっちゃかめっちゃかになり、そんな意味もない単音の羅列しか口に出来ない中、一つの吐息が聞こえた。
先生だった。
彼女は密かにこちらに目配せし、悪戯げに笑ってみせた。テーブル上にタブレットを置くと足を組み、背もたれに身を預け、膝上で手を組みながら小首を傾げて、
「無論、早瀬君に限ったことではないがね。生塩君も負けず劣らずだと保証しよう」
「あら、ありがとうございます。では後学の為にお尋ねしますが、具体的にどの辺りがそうだと?」
笑みで返すノアは、先生をからかいたかったのだろう。お世辞であれば言葉に詰まるし、咄嗟に出て来る褒め言葉も心に響くものではない。当然そんな先生ではないことは承知していて、あわよくば褒めてもらえるのではと、そんな軽い好奇心だ。
恐らく期待通りの反応をするユウカを見て、少しだけ気を緩めてしまった。だからこそあまりにも単純な、そして重要なことを失念したのだ。
その証明のように先生が、タブレットを指差した。監視カメラの映像と思われるそれは、俯瞰で映るシャーレ執務室内のノアであり、
「例えば私が不在でもここを訪れて、書類の蓄積具合を確認したり軽く掃除などしてくれている辺りだろうね。陰から主たるを支える、古典的だが良き夫人の姿だと思うが?」
●
からかうつもりで盛大に自爆したわね……、とユウカは赤面で俯く友人を見て静かに深く思った。彼女も時折こちらをからかって楽しむ面があるが、先生相手では太刀打ち出来まい。というか先生を口先で負かせる相手がキヴォトスにいるかどうかすら怪しい。ああでも、よくよく考えたらそれって先生以上にトラブルの種になるってことよね……、じゃあいっか……。というかノア一人で来てたんだ……。ふーん……。
「違うんです……、ユウカちゃんも誘おうと思ったらゲーム開発部の方で盛り上がっていたので邪魔するのも悪いかと思っただけで、決して抜け駆けとかそういうのじゃないんです……」
「ははは結果として早瀬君に追加ダメージが行かなかったようなのでそれで良しとしておきたまえ。早瀬君も今後からかわれたらこのネタで反撃するといい」
いえ別の意味で追加ダメージ受けてます、と思わず半目を向けてしまったが、当の先生は会話の合間合間に書類を捌き始めている。セミナーでこの手の業務に慣れているユウカの目から見ても、仕事の出来は良い上に速い。これをオフィスで一人の時に一切発揮しないのが先生の悪いところだが、こうして手伝いに来れば真面目にやってくれるのは良いんだか悪いんだか。
……あれ、つまりここに常駐すれば書類仕事で困ることはないんじゃ……。
これはシャーレに入り浸る口実が出来たということでいいんだろうか。でもセミナーの方の仕事もあるし会計がいない間に無茶な予算案通そうとする面々に心当たりしかないしどうしようかな……。あと先生がここに釘付けになって各校に恨まれそうだなあ……。
「早瀬君、黄昏れるならカップを置いてからにしたまえよ」
「っとと……!!」
手の中で傾きつつあったマグカップを慌ててテーブルに置き、吐息一つでメンタルをアジャスト。ここに来た本来の目的を果たそうと、席を立ちデスク上の書類を持って行こうとする。
既に山が一つ消えていた。
「……毎度のことですけど、本気出すと本当に速いですね、先生」
「元々読書が趣味だったのでね。貴重な時間を有効活用する為に、速読と主要言語は中等部に上がる前にマスターしている」
その貴重な時間で書類ドミノするのはいいんだろうか。
……いいんだろうなあ……。
そう思うくらいには慣れた。諦めたとも言うが。ともあれ手伝いに来ておいて、黄昏れてる間に全て片付けられてはセミナーの名折れ。ノアもようやく復帰したようだし、ここからは真面目にお仕事モード。
「先生、ティーパーティーからの依頼の件はどうします? シスターフッドと救護騎士団との会合に同席して欲しいとのことですが」
「明日百合園君の見舞いと聖園君の様子見にトリニティを訪れる予定だったので細部はそこで詰めよう。念の為桐藤君にアポを取っておいてくれたまえ」
「ゲヘナの風紀委員会からも時間を取れないかと打診が来ています。近い内に風紀委員長がゲヘナを離れるタイミングがあるので対策を練りたい、と。シャーレ名義で救援を要請しますか?」
「アビドスの面々を動員する案を考えている。空崎君や風紀委員会には借りがあるから大義名分は立つし、彼女達なら信頼も置けるだろう。監督役兼指揮役として私も同伴する。両者には相談という形で事前に話を通し、私がゲヘナを訪れたタイミングで確定させよう」
定型的なものはユウカとノアでも対処出来るし、判断に迷うものも先生に振れば即応が来る。特に各所へと顔が利くことから、お互いの利害と建前を噛み合わせた上での共同対応案がナチュラルに出て来る辺り手慣れている。アビドスの一件で各校から援護を受けたことがヒントになっているそうだが、やはりあの学園での出来事は大きかったらしい。それでも連邦生徒会のような一筋縄では行かない案件もあるが、三人掛かりともなれば進みは速く、
「……終わ、ったあー!!」
背もたれを支えに思い切り仰け反り、両腕を伸ばして吐息を一つ。壁の時計を見れば夜八時前。想定より随分と早く片付いたものだが、そもそも先生が真面目に仕事してればこうなっていなかったので何とも言えない。というか書類を溜め込まなくなったらそれはそれで病気か何かではないのかという心配の方が勝ってしまうので、これからもこのイベントは定期的に発生するだろう。期待とも憂鬱ともつかない感情を持て余していると、肩を回しつつ立ち上がった先生がこちらの視線を辿り、
「ふむ、腹具合から察してはいたがもうこんな時間か。間食を摘まんでいたとはいえさすがに物足りないところだ。──どうかね二人共、これから一緒に食事でも」
唐突な誘いに、思考が固まった。
一瞬、着飾ったドレス姿の自分と先生が、夜景の見えるレストランでコース料理に舌鼓を打つ場面を思い浮かべてしまったが、さすがに想像力の行き過ぎではなかろうか。違う。重要なのはそこじゃない。私的にはとてもかなり物凄く重要だけど、公的に言うべきは、
「またそうやって思い付きで出費しようとして……。だったら私が何か作りますから、冷蔵庫の中見せてもらえますか?」
「生憎とミネラルウォーターのボトルと燻製ベーコンしか入っていないよ? 材料を買ってから戻って来るのも手間だろうし、今回は手伝いの礼も兼ねているのだ。素直に奢られておきたまえ」
うぐ、と言葉に詰まる。一応先生も自炊は出来るのだが、時間が勿体ないとのことで生徒に振る舞う以外は基本コンビニや菓子類で適当に済ませるタイプだ。放っておくと一日一食カップ麺が一週間とか平気でやる。見兼ねた生徒が差し入れを持ってくることもあり、良いところを見せる口実としてはバッチリだったのだが、理論武装は完璧な辺りさすが先生と言うべきか。これはダメそうね……、と心中で嘆息し意識を切り替えようとして、
「……でも先生? お気持ちは嬉しいですけど、ユウカちゃんは性格的に「また出費させてしまった」と後々まで引きずると思いませんか?」
こちらの肩に手を乗せ、後ろから覗き込むように顔を出したノアがそう言った。驚き振り向けば、こちらに片目を瞑ってみせたノアは笑みと共に、
「それに先生、以前言ってましたよね? 晄輪大祭の時、ユウカちゃんの差し入れをもらって」
あ、と先生と揃って口を開く。確かにあの時、多忙な先生でも食べやすいようにとおにぎりを幾つか押し付けるように渡していた。どうにかこうにか一日を乗り切った後、先生がこちらに告げた台詞を、自分は今でもはっきりと覚えている。
「素晴らしく美味であった。機会があればまた何か作ってもらえるとありがたい。……ああ、確かに言ったね。その件を持ち出されてしまうと、私には反論の術がない。降参だ」
両手を上げ苦笑する先生に、ノアが背後で拳を握る気配を感じた。恐らくはこちらへのアシスト兼、監視カメラの件への意趣返しでもあったのだろう。後でまた酷い目に遭いそうな気もするが、今は素直に感謝しておく。
「では急ぎ支度して外へ出よう。荷物と材料費くらいはこちらで持たせてもらえるのだろう?」
「ええ、さすがにそこまでは譲ってくれないと分かっていますので。ほらユウカちゃん、一緒にメニュー考えましょう?」
「そうね。おにぎりしか作れない女と思われちゃ堪らないし、安上がりでも美味しい完璧なメニューにしてやるわ」
そうと決まれば気合いも入る。勢い良く立ち上がり、ジャケットを羽織り直して歩き出すが、ノアの足音しか付いて来ない。二人揃って足を止めて顔を見合わせ、振り向いてみると先生は目を細めていて、
「……ああ、すまない。少々感慨に浸っていてね」
それは、
「やはり君達に来てもらって正解だった。一人黙々と作業していたら、こんなに楽しい晩餐にはありつけなかっただろう。──感謝である」
不意の言葉に、再度二人で顔を見合わせた。
らしくない、と先生をよく知らない者ならば思うだろう。だが彼女が誰かと共に過ごす時間というものを酷く大事にしているのは、これまで関わって来た誰もがよく分かっている。
そうでもなければ多忙の身で、各所に隔日で顔を出したりはしない。
「まだ始まってもいないのに気が早過ぎですよ、先生? 楽しいのは否定しませんけど」
「そうです。大体こんなに溜め込まなければ、ゆっくり買い出し出来たんですからね?」
とはいえそれは、表立って指摘することでもあるまい。先生がそれを喜んでいて、自分達もまた同じであるならば、全てはただいつも通りでいいのだ。だから軽口混じりに返すと、先生は笑みを苦笑とし、
「うむ、君達には苦労を掛けぬよう善処するとも」
「三日後にはまた山が出来てそうですけどね……」
「ダメですよユウカちゃん、そこはせめて一週間後とかにしないと」
「味方がいないというのも居た堪れないが、手伝ってもらった手前甘んじるしかないようだね」
足を速めて追い付いて来た先生と並び、三人でオフィスを後にする。一体何を作ろうかと、そんなことを考えながら。
おだてると続きが増えるそうです