「空崎君、チョイとピアノを弾いてみる気はないだろうか」
シャーレオフィスビル執務室。半ば定位置になりつつある先生の膝の上で、ヒナは眉を寄せつつ顔を上げた。
いつも通りゲヘナ自治区をパトロールし、休憩として立ち寄って、ホシノやミカがいたら適当にダベり、いなかったら先生とプラモ制作。そんないつものルーチンから外れた発言を、疑問に思うのは当然だ。まあ先生の場合不規則言動に事欠かないので一々驚いていたらキリがないのだが、さすがに今回はちょっと予想外。なので一度ニッパーから手を放し、
「随分と唐突ね」
「思い立ったが吉日というやつだよ。無計画の言い訳としては最上だと思うが、まあ今回はちゃんとした理由もあってね」
見上げた先、先生がマウスとキーボードを引き寄せた。何やらアプリケーションを立ち上げつつ口にするのは、
「私の同期については幾度か話をしたね?」
「先生が先生になる為に色々とスキルを仕込んでくれた人達のことよね?」
「うむ。まあ腐れ縁と言う方が正解に近い頭のおかしい連中だが、当然趣味も様々だ。その中には音楽関係を専攻している者もいて、どうやら空崎君の演奏に興味があるらしい」
思わぬ方向に話が転がり、ヒナは身動きを止めていた。恐る恐る先生の横顔を見上げ、
「もしかして、スカウトされたりするの、私」
「それはそれで面白い未来だと思うが、空崎君とて奏者として食って行けるとまでは思っていまい?」
苦笑で応じる先生に内心で安堵。どうやら今すぐキヴォトスを離れてどうこう、という話ではないようだ。興味がないとまでは言わないが、先生やら風紀委員会のことやら留まる理由の方が大きく、それを正直に言ったら先生はあまり良い顔をしないだろう。己の存在が生徒の可能性を狭める枷となるなら、平然と辞表くらい提出しかねない。
「心配せずとも勧誘の類ではない。彼女はそんな小難しいことを考えるようなタイプでもないのでね。ただ純粋に音楽に対して夢中で、同類がいると聞けば興味を抱かずにはいられない、そういう手合いだ」
随分と趣味人というか、自分の好きなものに正直に生きているらしい。時折漏れ聞こえる限りでは奇人変人展覧会としか言いようのないエピソードばかりなので、僅かな意外をヒナは抱く。だがそうなると、
「招待して、目の前で演奏するとか?」
「さすがにそれは無理だ。私のように役割としてキヴォトスを訪れるのならともかく、単なる好奇心で外から人を招き入れる訳にも行くまい。故に泣く泣く、この楽譜が送られて来たという訳だ」
言って、いつの間にか印刷されていた楽譜を手渡される。まだ温かいコピー用紙の束はそれなりに厚く、奏でる難易度も決して低くはない。一応、抵抗するだけはしておこうと思い、ヒナは半目で小さく零す。
「……演奏して、録音して送れ、と」
「そういうことだ。わざわざその為に新曲を書き上げたと圧まで掛けて来るとは思わなかったがね」
本人は百パーセント善意な辺り最悪だが、と先生は苦笑した。
「幸か不幸か彼女は連中の中でも比較的マトモで、当時は色々と便宜を図ってもらった。あまり無碍にしたくもないので、空崎君さえ良ければ応じてやりたいのだが、どうだろうか」
楽譜をめくり、首を傾げつつヒナは考える。先生の恩師の頼みであれば、ヒナとて応えたい気持ちはある。ある意味先生が今ここにいるのも、ヒナがこうしてくつろいでいられるのも、彼女の一助があってこそと言えるからだ。あまりに面倒であればまた話も変わって来るが、ピアノを弾くこと自体はそこまで手間ではない。ここのところ触れる機会もなかったことだし、久しぶりに弾いてみたいという欲求もある。が、最大の問題として、
「私程度の演奏が、期待に沿えるとは思えないのだけど」
聞いているだけでもその女性が、相当な情熱を持って音楽に携わっているのは分かる。ヒナとて音楽に明るい訳ではないが、目を通した楽譜は到底素人に作り出せるものではない。ここまでハードルを上げられると、さすがに気後れが先に立つ。ガッカリさせてしまうだけなのではないか、と。だが、
「良いではないかね」
先生は笑って、こちらの頭に手を置いた。そのまま梳くように髪を撫で、
「空崎君の演奏が、直接聞いた訳でもない者の心を動かした。わざわざその為に新たな作品まで生み出してね。これはとても凄いことだよ」
軽く叩き、
「ただ楽譜に従うだけであろうとも、担い手の思いが乗ればそれは一つの作品だ。そして私は空崎君の作品を好ましく感じているし、叶うならばまた耳にしたいとも思っている。そこに折良く音楽馬鹿が便乗して来たと、これは単にそれだけの話だよ」
故に、
「気負わず、空崎君の望むようにすると良い。無論引き受けてもらえるならば、シャーレ名義の依頼として正式に報酬も出そう。どうかね?」
「……前半だけで済ませていれば良い話で終わったのに」
苦笑を零しつつ、ヒナは先生の膝から降りた。楽譜を抱え、出入口の方に足を向けつつ振り向いて、
「分かった。あまり自信はないけど、先生が望むなら全力で応える」
「何とも光栄かつ嬉しいことを言ってくれるものだ。──感謝である」
笑みを浮かべる先生に、こちらもまた笑って応じる。が、その笑顔は立ち上がる先生が手にした物を見て一瞬で固まった。動きを止めたこちらに先生が首を傾げるが、ヒナは構わず立てた指先を向け、
「……そのヴァイオリンは、何?」
問うた先、ケースを抱えた先生が考えるように上を見た。やがて握った手で逆の手の平を打つと、
「シャーレの地下には超高性能3Dプリンターが設置されていて、それをチョチョイとすれば楽器の用意も簡単でね? 自腹は切っていないので安心してくれて構わないよ?」
「入手経路の話や懐の心配をしているのではなくて」
はて、と再度首を傾げた先生が、タブレットに映した楽譜をヒナに見せる。それはヒナが持つピアノ分のみならず、弦楽器や打楽器に管楽器など片手では利かない種類の楽譜が用意されており、
「これだけ多種多様な楽器の重奏だというのに、空崎君のピアノ一つでは寂しかろう。私も一つくらいは行けるだろうと思い、いそいそ準備して来たという訳だ」
ああ、
「他の楽器は既に打ち込みを済ませてあるので、生演奏程ではないがそこそこのオーケストラに仕上がると思うよ?」
「聞いてないんだけど」
一人演奏会を想定していたはずがとんでもないことになっていた。というかよくよく考えると先生と合奏。悪役と風紀委員長のアンサンブル。一瞬でハードルが壮絶に高くなった気がするのは気のせいだろうか。正直いつぞやの演奏時より緊張感が半端ない。きっと先生のことだから涼しい顔して卒なく弾くだろうし、そうなるとヒナの拙さが相対的に際立つだろう。どうしよう、お腹痛くなって来たかもしれない。
「どうしたのかね空崎君、見る見る青褪めて行くようだが」
「……先生、実は私をイジめて楽しんでない?」
「待ちたまえ、何か盛大な誤解と行き違いがある」
両の手の平を立てられたので大人しく待った。そのまま彼女はこちらの楽譜を手に取ると、表紙の余白にペンを走らせる。ものの五分程で返却されたそこには、一つの単語と一つのイラストがそれぞれ
デフォルメされたヒナと先生が、ピアノとヴァイオリンを奏でている絵。その横には達筆で、
「音を楽しむ、と書いて音楽だ。文字通り、ただただ楽しむことを望むと良い。その為ならば私も助力は惜しまんとも」
失敗など微塵も考えていないような笑顔に、ヒナは肩の力を抜いた。吐息と共に、軽く先生に肩をぶつけ、
「心臓に悪いことを言った分、後でお土産もらってくから」
「致し方あるまい。天雨君達の分も含めて、燻製を多めに持って行きたまえ」
無言で頷く動きだけを返し、ヒナは先生と歩き出した。目指すは階下の音楽室。ユウカやアリス達が一日限りのユニットを組んだ際や、トリニティのとある部活がバンドを始めた際など、そこそこ利用機会のある一室だ。時たまヒナもピアノへ触れに来ているが、ここのところは顔を出していない。バッティングするかとも思ったが、幸いなことに室内は無人で、
「準備はこちらで進めておくので、軽く練習などしてはどうかね?」
という先生の言葉に甘えることにした。通しで演奏こそしなかったものの、難所は数度繰り返してコツを掴む。その間に先生は録音の準備や、打ち込んだ他楽器のスピーカーなどのセッティングをしていて、しかし、
「……先生の分の譜面台は?」
「既に記憶した」
しれっと恐ろしいことを言われた気がしたが、いつもの先生なのでヒナはスルーした。それとも外では七分弱の楽譜を暗記するくらい普通なのだろうか。いやまあ、二ループ分なので正確には三分程度とはいえ、それでも並大抵のことではないと思うのだが。もしそうなら恐ろし過ぎて音楽で食って行ける気は微塵もしない。やる気もないが。個人の趣味や先生に聞かせるならともかく、見知らぬ他人の為に弾こうとまでは思わない。
そんないつも通りの正気度が下がりそうなやり取りを経ている内に、互いの準備が整った。座るヒナからすぐ目の届く位置に、先生が腰を下ろす。ヴァイオリンを手に取り、顎と肩で押さえる姿は様になっていて、本当に多才なのだと改めて思わされる。見惚れていたいのも山々だが、メインはピアノの担当だ。こちらが止まっていてはどうにもならない。
最後に一度だけ、先生の方を見た。彼女もこちらに視線を向け、笑みと共に頷きが来る。だから、
「────」
始める。
●
それは、ジャンルで言うならばジャズに近かった。
BPM135前後。軽快で、節々に物悲しさを滲ませつつも、サビには熱を秘めた力強さを感じさせる、小洒落た曲という印象をヒナは得ている。
ジャズ自体がそういう印象ということもあるが、大人という一語を思わせる、そんなメロディだった。
主旋律はピアノ。それを裏から支えるように、ヴァイオリンの優美な音が重なる。主張は激しいものではないが、常に寄り添って離れない。
お互いの関係そのもののようだ、と思うのは感傷が過ぎるだろうか。
だが、ヒナにとってそう感じられるのなら、ヒナにとってはそれが正解だ。
現に中盤、まるで力尽きたようにピアノの主張が減る。だがその穴を埋めるようにヴァイオリンが前に出て、手を取って引くように空白を埋める。
一人ではないのだと、言外に伝えるように。
ふと面を上げると、先生と目が合った。
笑っていた。
だからと言うように、ヒナは内心の熱もそのままに、サビでピアノを前に出す。
追い掛け、追い付き、追い越して。それでもヴァイオリンは付いて来る。はしゃいで手を振っている子供を、苦笑混じりで追うように。
ならば前者は己だろうか。柄じゃないと思いはするが、そんな光景をヒナは夢想する。青い空の下、草木萌ゆる風の吹く高地、というのは気取り過ぎ。だったらまだ海の方が想像しやすい。以前行った際は基本だらけているだけだったが、今度はホシノやミカ達と連れ立って行くのもアリだろう。引率役の先生には苦労を掛けるだろうが、ある意味その引率役が最大のトラブルメーカーになりそうだと思うのは信頼の裏返しということにしておく。
脱線した。
だが鍵盤を走らせる手に淀みはなく、思考はシンプルで心が澄んでいる。合奏だと聞いた時はあれ程動揺したのに、今はまるで先生の膝を借りて微睡んでいるかのような安らかさだ。
言葉を交わしている訳でもない。
目と目が合っている訳でもない。
手を重ね合っている訳でもない。
それでも互いの存在を感じられているのは、それぞれの奏でる音が重なり合っているからだろう。
ここにいると、当たり前のように傍にいると、そう信じられるが故に。
ラストサビでも同様だ。主賓であるピアノを立てる為、他の楽器が手を止めている中、しかしヴァイオリンの音色は止まず。背中から抱き締めるように、こちらの道行きに絶対の支持をくれる。
一気に展開し他の楽器群が合流しても、その在り方は揺るがない。二種の旋律によるデュエットが、飾り立てに負けることなく自分達を主張して。
比翼連理。並び立つ対は何者にも引き裂くこと能わず。
ああ、とヒナは思う。私はきっと、先生とこう在りたいんだ、と。
先生に甘えたいという思いは今もある。労ってくれることは素直に嬉しいし、だからこそもっと頑張ろうとも思える。
だけど与えられるばかりではなく、先生に何かを返したいという想いもまた本物だ。
どうすれば良いのかは分からない。最近ホシノやミカという友人を得て、ようやく並び立つということの意味は分かって来たつもりだけど、目指す頂は遥か遠く。
だが、だからと言って諦める理由はどこにもない。
今はまだ叶わなくとも。
守られる側の生徒でも。
手間の掛かる子供でも。
いつかは、と望むことに間違いはないはずだ。
故に行く。重奏の中でしか実現出来ぬ将来の姿に、ヒナは己の全霊を賭す。精一杯の、しかし溢れる想いを込めて。
並んで走り抜けた。
●
気が付くとそこは、シャーレ内の音楽室だった。
……あれ?
一瞬、理解が追い付かなかった。ピアノを奏でている中、随分と多くのことを思った気がするが、夢から覚めてしまった時のように既に大半が朧げになりつつある。集中とか、ゾーンに入ったとか、言い方は色々あるだろうが、自分にとってとても大事なことを想っていた気がして、
「空崎君、申し訳ないが前言を撤回させてもらいたい」
ヴァイオリンを下ろしつつ口を開く先生に、ヒナは半ば呆然とした眼差しを向ける。だが彼女は満足げに、こちらへと拍手を送って、
「君は奏者としてもやって行けると思うよ。詳細は分からぬまでも、溢れんばかりの感情を乗せて奏でられる旋律は、私の心にも深く響いた。技術は後から如何様にでも伸ばせるが、意気はそうも行かないからね」
折角の先生の褒め言葉も、夢見心地でどこか現実感がなく。しかし先生は首を傾げ、珍しく真剣な表情で、
「その気があれば、キヴォトス内でも引く手数多だと思うが、……空崎君はどうしたい?」
問いへの答えは、思った以上にすんなりと己の内から零れ出た。
「私の演奏は、私が大事だと、届けたいと思う相手への気持ちで出来ているから。見ず知らずの大勢に向けてじゃ、きっと心を打つことは出来ないと思う」
だから、
「気が向いたたまの機会に、聞いてくれる物好きが一人いてくれるだけで十分」
微笑を向けた先、先生は僅かに間を置いて、
「そうか」
それだけだった。
その一言と共に表情を切り替え、立ち上がった先生はこちらの隣へ。労うように頭を撫でつつ、口の端に笑みを乗せ、
「どうだったかね、久方ぶりの大舞台は」
それはもう、シンプルな一言に集約される。
「楽しかった」
「それは重畳」
少し強めに撫でられたが、その感触が心地好い。こんな温かさをくれる手指があれだけ力強い音を奏でるのだから不思議というか、ある意味納得というか。ついでに言うと普段の奇行もこの手で引き起こしている訳だが今は良い雰囲気なのでノーカン。
「……?」
不意にポケットのスマホが震えを寄越した。
アコかチナツだろうかと取り出してみれば、送り元は先生で。モモトーク経由で先の演奏を録音したデータが送られて来ていた。
振り仰いだ先、先生は既にイヤホン装備で聞く体制に入っていて。こちらの視線に気付いた彼女は、イヤホンの片側をこちらに差し出し、
「しかし、改めて言わせてもらうが良いものだねこれは。……いっそのこと小鳥遊君や聖園君にも声を掛けて、バンドをやってみるというのも面白いかもしれないね?」
受け取り、しかしヒナは苦笑した。耳に嵌め、先生の方に身を預けつつ、
「多分三日も保たないと思う」
「試しもしない内から言うものではないよ」
「なら任命責任で顧問は先生かしら」
「作曲から衣装制作まで任されそうなのは気のせいかね」
互いに苦笑を交換しつつ、取り留めもない言葉を交わす。二人の共同で生み出した音をバックに、ただただ楽しさで心を満たして。
その日の休憩時間は、これまで以上にあっという間に過ぎて行った。
●
その後、風紀委員会の間でイヤホンを付けている時のヒナは機嫌が良いという情報が飛び交ったり、楽器を始めようとして二日で挫けたホシノとミカがシャーレの自称部員達にイジり倒されたりしたという噂が流れたが、いずれも真相は定かではない。