ノノミは、足取りも軽くシャーレの廊下を歩いていた。
時刻は十八時前。窓の外に広がる街も、夜として己の在り方を変える。帰宅途中らしき人の行き交いが増え、手には総菜や弁当の入った袋を提げていたり、或いは食材の詰まった袋を多数抱えていたり、または連れ立ってファーストフード店やファミレスに入って行ったり。何てことのないいつもの風景だが、そういった所持品や行動から個々の嗜好や生活が垣間見えて、人々の営みに思いを馳せるのが面白いとノノミは思う。そんな己もまた肉や野菜の入ったバッグを手に、スキップ混じりで執務室を目指しており、
「先生とシロコちゃん、ビックリするでしょうか」
今日は対策委員会としての活動もなく、各々が自由に過ごしている。ノノミも昼過ぎ頃まで身の回りのことを片付けていて、一息ついたタイミングで皆に連絡を取ってみた。セリカは柴関ラーメンでバイト、アヤネは収集した骨董品の手入れ、ホシノは反応がなかったので多分昼寝。そして二人のシロコは先生共々各所を飛び回っているとのことで、三人に夕食を作ろうと思い立ち家を出て来たのだ。
サプライズの為伝えてはいない。外で食べて来る可能性も考えたが、先生のほぼ不眠不休な不摂生生活を常々咎めているシロコ達のことだ。引きずって連れ帰り、二人仲良く喧嘩しながら台所に立つことだろう。先生が作ると言っても多分仮眠室に放り込む。そのくらいはやる。
容易に想像出来る光景に笑みを零しつつ、執務室前に到着したノノミは軽く身嗜みをチェック。急ぎの移動だったが髪などにも乱れはなく、一つ頷いて気合いを入れる。
「……よしっ」
深呼吸。扉を開け、元気良く、
「失礼しま──」
放った第一声は、尻すぼみに消えて行った。立てた指を口前に当てた先生が、逆の手で応接用のソファーを指差していたからだ。
座っているのは二人のシロコ。並んでいるところを見ると姉妹のようというか、厳密には同一人物なので違うのだが、ともあれそんな印象がある。表情こそ乏しいが活動的で、仲間の為ならどんな無茶も躊躇わない優しい子。
しかしその二人はこちらに反応を返さない。だがそれは無視されている訳ではなく、深く静かな吐息を零しているからで、
「……寝ちゃってますね」
互いが互いにもたれかかるようにして、一枚のタオルケットを被り眠っている。掛けてあげたのは恐らく先生だろう。遊び疲れた子供のようだ、と思うのは母親目線が過ぎるだろうか。二人を起こさない為か、足音もなくこちらに近付いて来た先生が小声で、
「今日は一日空いているから、と明け方頃から付き合ってくれていてね。さすがに限界が来たのかぐっすりだ。大人としては申し訳ない限りだが」
苦笑混じりの先生、その背中をノノミは軽く叩く。窘めるように、しかし零れる笑みは隠さぬまま、
「シロコちゃんなら、謝られる為に手伝ったんじゃない、って言うと思いますよ?」
「……そうだな。有り難いことだ、本当に。目を覚ましたら改めて礼を言わねばなるまい」
嬉の色を滲ませた笑みが浮かび、しかし先生は不意の動きで頭を下げた。あら? と首を傾げていると、
「事情があったとはいえ、先程は挨拶を遮ってしまいすまなかった。よく来たね十六夜君、こんばんは」
「あ、いえいえそんな、顔を上げてください先生。連絡もなしに押し掛けたのは私の方ですから」
「シャーレに寄る際は事前の連絡が必須、というルールはないよ?」
「礼を失した、という意味ではお互い様です」
「強情な子がいたものだね全く。ではそれで手を打とう。遅くなり過ぎない程度にゆっくりして行きたまえ」
肩を竦めた先生がデスクへと戻った。ノノミも空いているソファーに荷物を置き、ずり落ちているタオルケットを掛け直してやる。肩掛けにしてやれば良いとも思うのだが、もう一人のシロコの方が肩ではなく胸がストッパーになるのは持つ者特有の現象ですよね……、と己の場合を思い返しつつ。ともあれそちらの対応が済んだら、テーブル上の茶菓子のゴミや空のカップを纏めて、
「そのような些事なら後で私がやっておくから、十六夜君の手を煩わせる必要はないよ?」
「朝から働きっぱなしなのは先生も同じはずですよ? 今も報告書を纏めていらっしゃるみたいですし、そんな中一人だけくつろいでなんていられません」
不規則言動時や共食いのターンを除き、先生が生徒の相手より仕事を優先することは皆無と言って良い。例えキリが悪くとも、訪ねて来た生徒を無碍にするくらいなら後の手間や不備を選ぶ。そういう人だ。いくら奇行ではぐらかしていても、本当は多忙だということくらいは分かる。だから、
「先生が生徒を助けるように、生徒だって先生を手伝いたいんです。先生は大抵のことを一人でこなされていますが、全く役に立てないということはないはずですから」
「なら私が先生として「手伝うな」と言ったら?」
「仮定で問うようなことを本当に命じる先生じゃありませんよね。それに──」
何かを被るような動きの後、銃を構えるポーズを先生に見せた。
「忘れちゃいましたか? 私達、ブラックマーケットで銀行を襲撃しちゃうような、筋金入りの不良生徒ですよ? 手伝うな、なんて言われて素直に聞く訳がありません」
先生が俯いて肩を震わせた。よほどツボに入ったのか、ややあって身を起こした姿は目尻に涙さえ浮かべており、
「……やはり、私と最も付き合いが長い面々だけあるね。出会った頃からは考えられない程口が上手くなった」
「最上級の見本がすぐ傍にいますからね☆」
当初先生を否定していたセリカでさえ、敵相手には屁理屈や詭弁暴論で開き直るようになっているのだ。直情的な彼女ですらこの有り様なら、他の面々については言わずもがなだろう。シロコは最初から適性高かった気もするが、まあよくある。
やがて先生が降参だと言わんばかりに肩を竦めた。手元のスマホに何かを打ち込みつつ、
「分かった、気の済むまで諸事の対応をして行くと良い。ただし次のショッピングは全額こちらで持つ。いいね?」
「嫌です、と言っても聞いてくれませんよね?」
「その場合誠心誠意説得させていただく所存だが」
「勝てる気が全くしないので大人しく奢られます」
苦笑を交わし合い、互いの成すべきに戻る。先生のペンを走らせる速度が明らかに増したのは、こちらとの時間を過ごしたいと思ったくれているということだろうか。そんな小さな幸いを感じつつ、ノノミは纏めたゴミをゴミ箱へ。さほど量は溜まっていないようだが、部屋の各所に設置されたゴミ箱もチェック。全て集めるとそれなりの量になりそうで、燃えるゴミの日は明日。一つに纏めて一旦部屋の隅に置いておき、空けたゴミ箱には手荷物から取り出したビニール袋をセット。掃除も必要なさそうなので、食材の入ったバッグを肩掛けにして、カップを載せた盆を手に給湯室へ。
シンクに洗い物はない。乾燥機にはホシノとミカのマグカップが置かれていて、恐らくは昨夜に使ったものだろう。ヒナのものはない辺り、やはり風紀委員長としての仕事が忙しいらしい。自分達も幾度かシャーレ経由で手伝ったが、なかなかに骨の折れる仕事だった。懐かしさを覚えつつ二人のカップを除けて、先生とシロコ達のカップを洗い乾燥機をセット。手を拭いながら冷蔵庫の中身を確認してみるが、
……やっぱり……。
中身は燻製が幾つかとミネラルウォーターのボトル、そして生徒用の飲み物類のみ。先生が自炊する場合、階下の厨房からこちらに食材を持って来るのだが、それがない辺り雑に済ませるつもりだったようだ。一旦自分で調達して来た食材類を詰めておき、ホシノとミカのカップを手に執務室へ戻る。皆の食器置き場に仕舞いつつ、
「先生、シロコちゃん達の分も含めて晩御飯を作ろうと思うんですけど、生徒用の冷蔵庫以外で使ってはいけない食材はありますか?」
「ああ、あの荷物はそういう理由か。直近で誰かに振る舞う予定はないので好きに使ってくれて構わない。有り物で作るアドリブもそれはそれで楽しいからね」
「分かりました。何かリクエストはありますか?」
「十六夜君の腕と献立を信じるよ。ただ、砂狼君が起きるまでに冷めてしまうから少し遅めにした方が良いだろう。それと領収書はきちんと渡すように」
抜け目ないですね……、と苦笑を向けると親指を立てられた。大人しく財布から取り出した領収書を手渡しに向かう。先生はカード払いの明細を一瞥すると、引き出し内の小型金庫を解錠。取り出した紙幣と小銭を封筒に収めてこちらに寄越した。一礼と共に受け取って、多めに払われていないかを確認しつつ、
「いつもの光景ではありますけど、ちょっと不用心ではありませんか?」
「鍵は役職者の中でも一部しか持っていないし、勝手に持ち出すような生徒はおるまい。仮に持ち出したところで早瀬君に気付かれ月雪君が探り当てるのがオチだろう」
説得力しかなかった。加えて実力行使しようとしても、キヴォトス最強クラスが日常的にダベっているような場所だ。どう頑張っても成功するまい。かく言う自分達対策委員会も、他校と関わりを持ち始めたことで相当な上澄みらしいということが理解出来て来たが、居場所を守りたいが為に奮闘しているだけなので実感は薄い。ともあれ、
「ありがとうございます。腕によりをかけて作りますので、期待しててくださいね」
力こぶを作って見せると、不意に先生が笑った。目を細めただけの笑みは、アビドスのメンバーでも稀にしか見ないもので、
「礼を言うなら私の方だ。十六夜君の気遣いには、常に色々と助けられている。将来はきっと良い奥方になることだろう」
思わぬ一言にノノミは己の動きを完全に止めた。
動かぬ身の、しかし首下辺りから急激に熱が昇って来て、体感温度が五度くらい上がった感がある。だというのに頭の中では先程の先生の言葉が、終わることなくループしていて。力を込めていないと口元が緩み、みっともない表情を見せてしまいそうだった。
そんなこちらの内心を遅れて悟ったのか、先生が己の額を平手で叩いた。そのまま深々と頭を下げ、
「すまない。今の文脈では求婚と受け取られても仕方ないな。期待させるようなことを言ってしまい誠に申し訳ない」
「い、いえいえ!! 私もちょっと舞い上がってしまっただけで、落ち着いて考えれば全然!!」
嘘です。実は物凄くヘコんでます。主に自分の単純さに対して。
先生と生徒である間は関係を結ばない。先生がそう宣言していることを知っているのに、想像力が先走り過ぎた。先生は口が達者で煙に巻くような言動も多いが、世辞は決して言わない人だ。だからこそ褒め言葉は偽りない本心で、正面から受け止めざるを得ない。それが「良い奥さんになる」となれば、心臓が早鐘を打つのは当然で、
……へ、平常心っ、平常心っ。
思い返すだけで頬が熱を持ってしまう辺りどうしようもない。しかし先生は首を横に振って、
「結果的に十六夜君の心を弄んでしまったのは事実だ。相応の償いはせねばなるまい」
故に、
「私に応じられる範疇ならば、如何なる要望にも応じる所存だ。さあ、十六夜君の望みを言ってみたまえ」
瞬間的に脳裏を埋め尽くした数百の願望を、振り絞った理性が全てゴミ箱に叩き込んだ。
「え、ええと、その、急に言われましても、そう簡単には出て来ないと言いますか」
あわあわと両手を動かして主張した先、口元に手を当てて先生が考え込む。やがて席を立ちソファーへ移動すると、隣に座るよう手招きする。ふらふらと言われるままに従ってしまうのは、人間混乱すると判断力が落ちるという実証だろうか。頭の後ろ半分でそんなことを考えていると、ゆっくりと肩に手を回され、
「いつだかこうして私を労ってくれたことがあったね」
身を横倒しにされて、先生の太腿に頭を預ける体勢になっていた。
俗に言う膝枕だった。
「せ、先生……?」
「周囲に気を遣う者は、得てして己を気遣うことに慣れていないものだ。十六夜君は比較的肩の力の抜き方を分かっているようだが、たまには素直に甘えても良いと思うよ?」
戸惑うこちらに苦笑が届き、ゆっくりと頭を撫でられる。巨乳で顔が見えないのが難だが、ある意味正解だったかもしれない。以前自分が膝枕をする側だった時は、同性ということもあってさほど気にせずニコニコしていたものだが、
……いざされる側となると、気恥ずかしいですね……。
ホシノも時たま先生の膝を借りているが、そういう時は心から安らいでいる気の抜けた表情だ。彼女とて先生には並々ならぬ想いがあるだろうに、一体どれだけ心を許しているのか。単に今までが張り詰め過ぎていただけというのもあるだろうが、自分ももうちょっと落ち着けないだろうか。MURIですね。二秒で即答出来るくらいにはMURI。この辺りやはり先生の言う通り、気遣われるのに慣れていないのだろう。
対策委員会における友人としての気遣いはあっても、甘やかす側であったノノミが甘やかされる場面はなかったから。
ただ、とノノミは思う。緊張や照れは消えていないが、独特の心地好さがあるのも確かですね、と。
シロコ達やミヤコに付き合っているだけあり、肉付きが良くも引き締まっている太腿は枕として最上だ。人肌の温もりも相俟って、寝不足でもないのに眠気を誘う。ホシノや先生もこんな気持ちだったのだろうかと、思わず微睡みに身を委ね掛けて、
「そのまま眠ってしまっても構わないよ」
先生の言葉に、慌てて意識を叩き起こした。先生の助けになるべく訪れたのに、逆に甘やかされてどうする。棚ぼた的に得したとは思ってますけど。
参った。
シロコやホシノ程ではないにしろ、どちらかと言えば振り回す側であった自分がこうも翻弄されるとは。それを楽しんでしまっている辺りがどうしようもないが、俗に言う惚れた弱みだろう。事実皆や先生と過ごす時間は、何物にも代え難い宝物で、
「……先生は、人間性に魅力があれば伴侶が同性でも構わない、と仰ってましたよね?」
だからこそ、以前から気になっていたことを口にする。
「そう考えるようになったきっかけって、あるんですか?」
ノノミの問いに、こちらの髪を撫でていた先生の動きが一瞬止まった。上を見上げているのであろう僅かな間を置いて、
「性別問わず、というのはやはりキヴォトスにおいても珍しいかね?」
「元々が騒動に絶えないので、そういった関係が生まれてもあっさり受け入れられそうな気はしますが……、実例は私の知る限りではなかったかと」
アコのヒナに対する忠誠なのか崇拝なのか微妙な例はあっても、明確な恋愛感情に至っている者はいなかったように思う。アビドスの外をほとんど知らないような身なので断言は出来ないとはいえ、シャーレ経由で知り合った面々からも聞いたことはない。
だからこそ先生の宣言は衝撃的だった訳だが、或いは外の世界ではそれが普通なのだろうか。あまり外の話をしない先生だが、差し支えなければ聞いてみたかった。
彼女が先生を志した過去の話はあれど、そういった思想や内面に纏わる話はほとんど聞かないから。
……普段の言動が強烈過ぎて追求する気が削がれるという面もありそうですけどね。
不規則言動を見ても「まあ先生だし」で流されるし、鉄火場における無茶の数々も過去を知る身からすれば「まあ先生だし」で納得してしまう。だがそれらは彼女を構成する外面と核でしかない。公人としての先生はよく知っていても、私人の葵・硝子については分からないことだらけだ。
それを知る一助になれば、と。そんな気持ちからの問いだったが、
「十六夜君、……というより対策委員会の面々には、私の同期連中について幾度か話したね?」
「はい。先生が先生になる為に、色々と教えてくれた人達、ですよね?」
軽く触れる程度でしかなかったが、節々からでも先生と同等かそれ以上の変人ばかりだというのは伝わって来た。先生の不規則言動や異常とも言える多芸っぷりに対する納得もあったが、随分な環境だったのだとノノミは思う。セリカ辺りが同じ立場になったらツッコミの過労で倒れるんじゃないだろうか、とも。そんな十年来の付き合いに対し、先生は言葉を選ぶように、
「少々突っ込んだ話をすると、元々は一組の男女を中心に纏まった集団でね。後々様々な連中が増えて行くのだが、中核にいる十数人が……、ぶっちゃけ一夫多妻のような状態になっているのだよ」
思っていた以上にとんでもない方向に話が吹っ飛んで、ノノミは危うく先生の膝からずり落ちかけた。
「そ、それってアリなんですか?」
「ない、とまでは言わないが一般的ではないね。当然連中の住まう地域でも公的に認められているものではない。公になればあまり良い目は向けられないだろう」
言葉の割には、先生の口調に偏見や忌避の色はなく。それは彼らの人柄を知るが故か、或いは世間一般の法や倫理に興味がないのか。いずれにせよ話は止まらず、
「加えて本命……、という言い方は全員に失礼だが、ヤツの心の奥深く、一番大きなウェイトを占めている相手は決まってしまっている。だがそれを理解していてもなお、全員が毎日楽しそうに馬鹿やったり騒ぎを起こしたり共食いしたりしているのだ。屈託なくね。……何故だと思う?」
まさかのご指名が入った。課外授業にしても扱う内容がエクストリーム過ぎる。辛うじて道徳の授業とも言えなくはないが、しかしどう答えたものか。
先生の同期であり師匠の話ということは最低でも先生と同年代、下手をすれば自分達の倍近くを生きている人達の人生観だ。在校生徒六名、ほとんどが砂に埋もれた学園で、あらゆる経験に乏しいノノミには到底想像することなど出来ない。だから、
……私の場合は、どうなんでしょう。
己の生活を思う。さすがに先生程不規則言動が激しい訳ではないが、アビドスの面々とて日々騒々しく、しかし充実した楽しい毎日を送っている。借金があって、砂だらけの環境で、それでも笑っていられるのは何故か。その答えは考えるまでもなく、だからこそ顔も名前も知らないその人達もきっと同じだろうと確信して、
「自分にとって一番大事なことが決まってるから、ですか?」
「大変良く出来ました。花丸を差し上げよう」
掻き乱すようにして頭を撫でられた。真面目な話が続いたことで緊張も落ち着いており、ついつい普段のノリで、
「きゃー☆ セットが崩れちゃいますー☆」
「ははは優秀な生徒は褒めてなんぼだよ十六夜君」
そのまま二分程じゃれ合った。やがて先生が一度手を放し、指先で乱れた髪を整えてくれる。くすぐったさに身を捩らせていると、笑みを帯びた口調で、
「今でこそ私と同年代や年上だが、当然君達のような年頃だった時期もあった。大事な人を失ったり、些細な擦れ違いから関係が壊れ掛けたり、さすがに銃でドンパチまではしていないが……、いや、ある意味もっと頭のおかしい殴り合いもしているし、いやいや」
「先生、先生、何だか脱線して答えの出なさそうな方向に行ってませんか」
おっと失敬、と止まっていた手の動きを再開。
「まあ、過程は端折るが君達のように、悩んだり迷ったりという時期を経て来た。そんな連中を強引にでも引っ張って行ったのが件の二人でね。おまけに二人共呆れて物も言えなくなるようなお人好しで、自分が関わりを持った相手は皆幸せであれば良いと、そんなことを真剣に考えていた。だから
一息。
「お前らの人生を左右した分、ありとあらゆる手段を以て責任を取る。だからお前らの全てを俺にくれ、と」
さすがに予想外過ぎて反射的に身を起こそうとして、しかし先生の胸に顔が埋まった。
軟着陸。そのまま数秒が経過し、先生がしみじみと、
「……クッション性が高くて助かったね? これまさに巨乳防御」
「後半流しますけど、確かに先生と顔をぶつけるよりは良かったかもしれません……」
まあまあ、と先生が手の平を向けて来たので深呼吸。仄かな桜の香りに若干心臓を跳ね上げつつ、しかしそんなこちらの表情が見えていない先生は話を再開。
「世間からは到底認められないような在り方だ。だが最終的に全員が賛同して、事情を知る面々も否定することなく見守っている。誰も彼も幸せであれば良いという子供のような願いを、しかしあの馬鹿は確かに叶えたのだ」
懐かしいものだね、と郷愁の色を滲ませて先生は言う。
「私が連中と知り合ったのはそれから一年程経った後だ。妹を失い、それまで己の信じていた世界や価値観が一気に崩れた直後にそんな馬鹿共を見たからだろうかね。……理解が及ばず、一般的ではないとしても、外れ者なりの幸いを掴み取っている姿が、酷く尊く眩しいものに見えた」
最後の言葉に、ノノミの中で繋がるものがあった。
先生は自他共に認める悪役だ。屁理屈や暴論は日常茶飯事だし、言葉の駆け引きにおいて敗北したことなど見たことがない。時たま「そこまでするか」と味方からさえ呆れられる振る舞いは、しかし一貫して生徒を守る為のもの。
教育者としては明らかに不適切で、しかし子供を守る大人としては一切ブレていない在り方。それは彼女が度々口にしている、
「……正しくないけど間違ってない、ですよね?」
「いかにも。私が先生を任じるにあたり、さてどのような姿で在るべきかと考えた時、すんなりと連中のことが思い浮かんだよ。以後行動の指針として、いくらか参考にしてもいる」
分かる。誰も彼も幸せであれば良いということは、全てを守りたいということだ。それは今あるものを欠けさせないこと、つまりは先生の大方針である、
「失わせない、ですね」
妹の喪失をスタートとする先生にとって、命が損なわれる選択は何を置いても否定すべきものだ。それは「生きたい」という想いを諦めさせる、理不尽や絶望を打ち払うこと。ホシノの時も、アリスの時も、ミカやサオリ達の時も、いつだって彼女はそうして来た。
世話になったとか、色々と仕込んでくれたという以前に、そういった芯の部分が通じ合っているからこそ、先生はその友人達を信頼しているのだろう。恋愛や、それに伴う関係の在り方に鷹揚なのもそれが理由か。だとしたら、
「先生も、同じような道を選ぶんですか?」
アビドスの繋がりはノノミにとって大事なものだ。先生も含めた皆との時間は、何にも勝る大切なもの。だが先生の隣に立てるのは一人だけであり、譲りたくないという想いはあれど、かといって皆と争うのも嫌だ。その解法の一つを先生の友人達が選択しているのなら、先生自身はどうするのだろう。
不安と、僅かな期待と共に問うた先、先生の苦笑が聞こえた。
「連中は私など及びもつかない筋金入りの馬鹿共だ。だからこそ普通では有り得ないような決断を下したが、私はそこまで振り切れそうもない。先生として全ての生徒を愛してはいても、葵・硝子として全ての求めに応じられるとは思えん」
だから、
「仮に私が誰かを選ぶなら、それは一人だけだろう。それ故選ばれなかった者達を哀しませることになるし、それを謝罪すれば何故選ばなかったという話になる」
一息。
「……感情とは、本当に難しいものだね。正解がないからこそ、他人の例はあくまで参考にしかならず、自分で何もかもを決めねばならないのだから」
だが、と先生は言う。
「私は私なりの答えを出す。必ずね。その時に一人でも多くの者が笑っていられれば、と。そう思っているよ」
静かな、しかし確かな覚悟を秘めた声に、ノノミは改めて大人という言葉を思う。ただただ好意を示しているだけの自分達とは違い、先生は更にその先を見ていて。
でも、そうだとしたらもう一つだけ聞かねばならないことがある。
「どうして、その話を私にしてくれたんですか?」
「……自分から聞いておいて酷いことを言う子がいたものだね」
「……え、あ、いえ、そういう意味ではなくてですねっ」
慌てて手を振り訂正しつつ、ノノミはその疑問を口にする。
「私がこの件を誰かに話したら、複数人で先生を囲ってしまおうという動きも出るかもしれません。そんな話をしてしまって、本当に良かったんですか?」
「仮定で問うようなことを本当に実行する十六夜君ではあるまい」
超ロングレンジのブーメランに噴き出し掛けて全力で堪えた。が、先生は愉快そうな笑みを漏らし、
「これで一勝一敗、と」
「膝枕をしていただいた上に貴重なお話を聞かせてもらっている時点で私のボロ負けです……」
よしよし、と頭を撫でられた。悔しいがこの感触を味わえるなら負けで良いかもしれない、などと思ってしまう辺りダメダメだ。というか先生が負けず嫌い過ぎる。様々な事件に最後まで諦めず立ち向かう辺り当然と言えば当然だが。
「さて、真面目に答えるお時間と行こう。基本的に世間一般においては、正しく在ることが求められる。複数の個が集団として過ごす以上、法や倫理といった共通の価値観を据えねば纏まることなど不可能だからね。そして後代にとっては生まれた頃からそうであるが故に、疑問を抱くこともなく従うようになる」
だが、
「それは正しくても、ただ正しいというだけのものだ。社会が正常に回るのなら、極論理解する必要さえないのだから。故に正しいと力のある者や大多数が判断すれば、明らかにおかしなことにも従わざるを得なくなるだろう。かつてアビドスの負担を減らすべく、小鳥遊君がカイザーに身売りしたようにね」
苦笑が聞こえる。
「本当は自分が正しいはずなのに、他の全てが間違っていることなど、世界にはありふれているのだ。面倒なことにね。だから子供の内にそういったものを知り、触れて、自分なりの考えや意見を持てるようになっておくことは、君達の将来において必ずプラスとなる。余計な入れ知恵をするなとうるさい連中もいるだろうが、死ぬまで温室育ちでいられる者などそうはいまい」
だから、
「十六夜君が真剣に考えた上でその道を選ぶのなら、私はそれを支持しよう。応じるかどうかはまた別の話だが」
最後の一言に、ノノミは思わず笑ってしまった。
そうだ。
この人は、最初からそうだった。
追い詰まっていた対策委員会を訪れた、あの頃からずっとそう。
不規則言動で周囲を騒がし、紆余曲折どころか平然と寄り道をし脇道に逸れ、しかし最終的には必ず正面に来る。
大事なこと、大事なもの、大事な人、そういった悉くにおいて過ちはしない。
正しくなくても、間違えないのだ。
だから、ノノミの答えも決まっていた。
「良い勉強になりました。……話していただいてありがとうございます、先生」
「おや、何か吹っ切れたような声だが。アビドス総出で追い込み漁でもする算段が付いたかね?」
「そんな未来も楽しそうですけど、……やっぱり、譲りたくないですから」
この人の隣に立ちたい、と。
「なので、その第一歩として晩御飯を作らせていただきますね。頑張っちゃいます」
「確かにそろそろ良い時間だね。砂狼君達も起こしておかねば、そのまま生活リズムが乱れかねん。寝坊助キャラは小鳥遊君だけで十分だろう」
ですね、と笑って応じると先生に背中を叩かれた。名残惜しさを覚えつつもゆっくりと身を起こし、立ち上がってみれば先生はいつもの微笑。彼女もまたシロコ達の方へと足を動かし、
「バッティングさえしなければ私の膝は貸出自由だ。十六夜君もたまには借りに来たまえ」
「嫌です☆」
おや、と先生が振り向いた。だからノノミは、とびっきりの笑顔で言ってやる。
「今日は先生の膝を借りたので、次は私が貸す番ですよ?」
負けず嫌いなのは、こちらも同じなのだから。