グラスアーカイブ   作:外神恭介

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ん、轢き逃げ

「シロコ先輩、この段ボールはどこに運べば良い?」

「ん、これは……、SRTの資料だから第四区画に」

「シロコちゃん、第三区画Bブロックの方終わりましたよ。次は何をすればいいですか?」

「ええと、第二区画の空いてる棚にこっちの書類を入れて来て」

 Tes.、という応答が広い室内に響いた。

 シャーレオフィスビル内資料庫。ガラス張りの外壁が多くどこでも陽光が差し込む印象の強い建造物にあって、例外的にブラインドを下ろされた一室だ。

 一般的な教室が八つ分程の広さを誇るこの部屋には、シャーレの保有する莫大量の資料が収められている。各学園とやり取りした公的文書や、対処した案件の報告書。そういった類の機密情報を収めているのは、しかしシャーレの主たる先生ではない。入口付近、幾つか積まれた段ボール箱の前で指示を出している姿は、

「いやあ、それにしてもシロコちゃんもしっかりシャーレの生徒会長……、連邦捜査部だから部長かな? ともかく板に付いて来た感じだねえ。おじさんも鼻高々だあ」

「そんなことない。先生の見様見真似をしてるだけで、全然追い付けてない」

「……先生は基準がおかしいから比べちゃダメだと思うよ?」

 比較的軽めのクリアファイルを運搬している副部長(ホシノ)から目を逸らしつつ、シロコはノノミへと新たなファイルを渡す。彼女達だけでなくセリカとアヤネも、シロコの傍と部屋の各所を往復していて、

「それでもどこに何があるのかを大体把握出来ている辺り、シロコ先輩も十分凄いと思いますけど……」

「ん、暇な時はずっとシャーレに入り浸ってたから。先生の手伝いでここに来たことも何度かあるし」

「ついつい忘れがちだけど、これだけの数の学園の面倒見てる先生も大概頭おかしいわよね……」

 感心半分呆れ半分、微量の心配が混じった吐息と共にセリカが戻って来た。その左腕には「アビドス廃校対策委員会会計」といういつもの腕章ではなく、「連邦捜査部シャーレ会計補佐」という青と白の腕章が留められている。

 ほぼ常勤という名の溜まり場扱いをしている役職持ちであるシロコやホシノと違い、ノノミとセリカ、そしてアヤネはあくまで予備や補佐の役だ。それぞれ第二特務補佐、会計補佐、書記補佐という肩書きであり、正規の代表役職者ではない。少人数であるアビドスの全員がシャーレの役職を与れば、二足の草鞋でパンクするのは目に見えているからだ。また、アビドスがほとんどシャーレの麾下になっているという追及を躱す為でもあり、当人達もこの措置には納得している。

 加えて言えば役職持ちだからと言って、必ずしも地位や戦闘力の高さに直結する訳ではない。例を挙げるなら会計と書記はユウカとノアだし、第二特務の担当はヒフミだ。ナギサやセイアのような生徒会上層部、ネルにツルギといったキヴォトス有数の武闘派も役職なしで、この辺りの裁量は基本先生任せ。彼女に言わせれば贔屓や重用ではなく的確だと判断したが故の人事であり、

「能力に応じた役割を任せる。全ての基本だろう。当人が拒んでいるのなら話は別だが、彼女達は快くそれを引き受けてくれた。その甲斐あって連邦生徒会長不在でもキヴォトスはどうにか回っている訳だが、……ご不満なら連邦生徒会含む全ての人事をサイコロで決めて天地を引っ繰り返す大騒ぎを引き起こそうか? ああ、その場合私は溜め込んだ有給を使って一ヶ月くらい失踪するのでよろしく頼む」

 などとキヴォトス観光マップを広げながら明日の天気でも話すように宣うものだから、自分から役職者にしてくれとか誰々を解任しろと言い出す生徒は一瞬で消えた。事実役職持ちになったところで、先生の権限を限定的に分権されているだけだ。出来ることはさほど多くない。強いて言えば先生と接する機会が増えることがメリットだが、シャーレに舞い込んで来る無茶苦茶な数の依頼対応と比べれば釣り合うはずもないのだから。先生と話したいなら単にシャーレでダベれば良い。

 そんな訳でアビドスは今日も今日とて、借金返済の為払いの良いシャーレの依頼を受けに来た。その結果任されたのが執務室に保管していたここ数ヶ月の仕事に関する書類の移動と収納。確かに力仕事ならば、先生より生徒の方が適任だろう。あくまで紙媒体のみの為量もそこまで多くはなく、一時間もあれば片付きそうな程度。これで時給二千五百円は美味し過ぎる。シロコが手元で分配しているファイル入りの段ボール箱も、あと一つを残すのみとなっており、

「終わったら執務室で一息入れよう」

「そうね。楽な仕事とはいえ、さすがにちょっと喉渇いて来たわ」

「いくら先生の依頼でも、先に完了の報告をした方が良いような……」

「逆に休憩取らされそうだけどねえ。急ぐ内容でもないのだから後にしたまえー、とか言いそう」

 既にほとんどが気を緩め切っていて、放課後を前にした教室のような空気だ。だがそんな中、ふと気が付いたように周囲へと視線を巡らせる者がいた。

 ノノミだ。

「……そういえば、もう一人のシロコちゃんが戻って来ませんね?」

 おや、と全員が周りを見るが、確かに言われた通りの姿がない。半目になったシロコが立ち上がり、足早に第一区画のプレートが架けられた棚へと向かう。果たして窓際の最奥に、探していた相手を見付け、

「私、サボりはダメ」

 飛ばした声に、アビドスの制服と赤のマフラーを纏ったもう一人のシロコが振り向く。部長補佐、という形でシロコと同等の権限を与えられている彼女は、まるで今気付いたように周囲と、シロコの後を追って来た面々を見て、

「ん、ごめん。ちょっと懐かしいのを見付けて」

 謝罪と共に掲げたのは、シャーレ内において最も古いと言って良い記録だった。白の分厚いファイルには、表紙に先生の手書きでこう書かれている。

 連邦捜査部シャーレ活動記録:対策委員会編、と。

「それって……」

「そう。貴女達と先生の記録。先生が初めてアビドスに来て、皆と知り合ったり、他校の生徒達とも関わりを持った頃の」

 今回先生から預けられた書類には、最近片付いたシェマタの一件の記録も含まれている。それらを収める際、それ以前の記録が目に留まったということか。特に彼女からすれば、随分と昔の出来事になるのだろう。ホシノ達も納得の頷きと共に、過去の一連に思いを馳せ、

「そっか、おじさん達から見ても懐かしいけど、シロコちゃんからしたらもっと懐かしいってことだもんね」

「驚く程濃密で印象深い出来事が沢山ありましたね……」

「ええホント……、忘れたくても忘れられないくらいに……」

「そういう諸々を含めて良い思い出、ですよ☆」

「ん、大変なこともあったけど、そのおかげで今こうしていられる」

 すっかり懐古ムードとなって各々があれこれと口にする。こんなことがあったとか、あの時は肝が冷えたなど、語り出せばキリがない。なまじ多感な学生時代の出来事故に、一連の記憶は強烈な印象となって焼き付いており、なおかつ皆で苦難を乗り越えて来たのだから美化もされる。

 だが家族に等しい集まりであっても、四六時中一緒という訳ではないので全員が全てを把握している訳ではなく、

「ところでシロコちゃん、アビドスで遭難してる先生を拾ったのが最初の出会いだって言ってましたけど、一体どんな風に?」

「ん、轢き逃げ」

「轢き逃げ!?」

 全員が食い付いた。

 

     ●

 

 騒然とした空気の中、最初に動いたのはもう一人のシロコだった。記憶を辿るように浅く上を眺めていた彼女は、納得したように握った拳で手の平を打ち、

「思い出した。こっちでもそうだったんだ」

「ん、物凄くビックリさせられた。あそこまで焦ったのは人生でもそんなにない」

「シロコちゃんがそこまで言うのも珍しいですね……」

 ノノミの言葉にシロコは頷き、かつての邂逅を思い出す。時間にすれば三十分もない、そんな短時間の出来事ながら、今でもはっきりと思い出せた。そう、そこで何があったかと言えば、

「簡単に纏めると轢き逃げ、ゾンビ、約束の三つ」

「いや余計に分からないんだけど!?」

「……もうこの時点でロクな思い出じゃない気しかしないねえ」

 苦笑するホシノにアヤネが半目を向けるが、訂正しようとはしない辺り同意なのだろう。得てしてそういうしょうもない日々の思い出こそが、ふと振り返ってみると楽しかったと感じるのは、様々な窮地を共にして来た対策委員会にとって周知の事実だ。それはもう一人の自分にとっても同じはずで、

 ……だとしたら……。

 思い、シロコはスマホを取り出しショートカット登録してある番号へ発信。皆にも聞こえるようスピーカー設定にしている間に通話が繋がり、

『私だ』

 二秒と経たずに応じる辺りさすがは先生。通話なら七秒、メールやモモトークでも五分を割ったことがない鬼のような反応速度は、逆説的に彼女の身の危険を察知する指標としても用いられる程だ。今は燻製部屋で仕込みの準備中だったはずなので、用件は手短に済ませるが吉。

「先生、頼まれた仕事だけど、そろそろ終わりそう」

『うむ、お疲れ様と言っておこう。給湯室の冷蔵庫でケーキとジュースを冷やしてあるので皆で分けると良い』

「ん、ありがとう。皆も喜ぶ」

 先生の労いにセリカが嬉しそうな声を上げ、ノノミやアヤネは礼を述べる。先生もいつもの調子で言葉を交わし、

『それで、本題は何かね? わざわざそれだけの為に連絡して来た訳ではないだろう?』

「分かるんだ」

『私と直接顔を合わせる口実を逃す君達ではあるまい。砂狼君に限らず、ね』

 苦笑付きの台詞に半目を向けるともう一人の自分以外が顔を背けた。とりあえずその件については後で追及してイジるとして、

「資料庫の中にあるアビドスの記録、皆で見ても良い? 先生と初めて会った時の」

『その程度なら構わんよ。休憩室ならスクリーンも再生機器もある、鍵は開けておくので好きに使いたまえ』

 再生機器? とここに不慣れなノノミ達が首を傾げると、もう一人の自分が手にしたままだったファイルを広げてみせる。その末尾には幾枚かのブルーレイディスクが付属されており、

「当時の記録を元に仮想空間で構築、再現した映像。文面だけだと細かい部分が追い切れない場合もあるから、試験的に作ってみたって聞いてる」

「……再現ドラマみたいな?」

「そんな感じだねえ。ユウカちゃんとかノアちゃんとか、たまに見てるらしいよ?」

『視聴後は決まって無茶をするなとか身体は大丈夫かと、説教や心配されるのが難だがね。今無事なのだから問題ないだろうに』

「それ面と向かって言ったら張り倒されるのでは……」

「ん、もうやった」

 もう一人の自分が半目で零したが、先生をフォローする者は一人もいなかった。

 何しろ彼女を救う為、超高空からの自由落下までした身だ。死なない限りはどんな無茶でもやらかすというのは、骨の髄まで身に染みている。言ってもやめないのだからなおタチが悪い。

 だがそれ故に救われた者も多く、あまり強く言えないのがまた難だ。セミナー組に限らずヒナやナギサも頭を抱えているというのに、

『まあ、もう過ぎたことだ。反省会は当時済ませたのだしこの辺りで──』

「ねえ先生? 私とシロコちゃん助ける時何やらかしたかもう忘れちゃったかなあ?」

 シェマタの一件以降過保護さの増したホシノがキレた。笑ってない笑みで告げた先、スピーカーから誤魔化すように口笛が聞こえる。逸らし方が雑。案の定相当お冠らしいホシノは、若干引いているセリカやアヤネに構わず、

「この前も私が割って入らなかったら大怪我するところだったよね? 自分を大事にしろって説教した大人がそれはどうかと思うなあ?」

『ああ、分かった分かった。不適切な発言は謝罪するとも。私とて好き好んで君達に心配を掛けたい訳ではないし、無事な健康体であるに越したことはないのだから』

 だが、

『必要であれば私は躊躇わず行動する。そこについて納得しろとまでは言わんが、意は汲んでもらいたい。決して悪ふざけや捨て鉢ではないのだから』

 それに、と先生が言葉を続ける。

『先日の件については小鳥遊君なら余裕で間に合うだろうと、そう信頼していたが故の策だ。事実間に合ったということは、お互いの信頼関係が揺るぎないことの証明だよ。ならばそれを喜ぶ方が建設的だと思うが、小鳥遊君は違うのかね?』

 笑みを滲ませた先生の声に、ホシノの表情が固まる。ややあって頬を赤くした彼女は、頬を掻きながら顔を逸らし、

「も、もう、先生は本当にしょうがないなあ。危ない時は私が守ってあげるから、あんまり無茶しちゃダメだよ?」

 チョロい……、という空気が一同の間に広がったのは、決してシロコの気のせいではないだろう。肝心な所で一歩引く辺りがミカそっくりというか、だからこそ仲良くやってるのかもしれないが、控えめながらも要所では主張するヒナを見習った方が良いとは思う。ある意味バランスの良いトリオではあるが。ともあれ、

「じゃあ、皆と休憩室で見てるから。先生も暇なタイミングで顔を出してくれたら嬉しい」

『うむ、仕込み自体はもうしばらく掛かるが、終わったら合流しよう』

「お待ちしてますね」

 ノノミの挨拶を最後に通話を切る。視線を向ければもう一人の己はアビドスの記録を棚から手に取り、近くの空き棚に平積みしている。そっちは任せておくことにして、シロコは対策委員会の皆に振り向き元来た方を指差した。

「じゃあ、残りの分を片付けたら行こう。長丁場になりそうだし、先に先生の依頼を終わらせないと」

 

     ○

 

 砂狼シロコは、基本として自転車通学である。

 曰く、市街地においても迷子になりかねないと言われる程広大な自治区だ。己の足だけでは移動にも時間を要し、鉄道とて細部まで網羅している訳ではない。そうなると車やバイクなどが移動手段の主となって来るが、手軽さという意味では自転車だろう。己の脚だけでどこまでも風を切って先へ進める感覚が好きで、暇な時は気の赴くまま走るのが趣味にもなっている。

 とはいえ今の目的は気晴らしではなく登校。今日は対策委員会の定例会議を行う日であり、アビドスのメンバーが全員揃う日だ。

 全校生徒がもはや五人だけとなってしまったが故に、常日頃から纏まって行動することが多いとは言っても、さすがに四六時中という訳ではない。各々それぞれの用事があり、それらの噛み合わせ次第では、何日か顔を合わせないこともザラだ。そして今回がまさにそのパターンであり、直接会うのは久しぶりという感がある。

 ……今日は、借金返済の抜本的な対策を話し合うんだっけ。

 各自最低一案は持って来るということだったが、皆はどのような案を出すだろうか。自分は詳細なタイムスケジュールから手製の覆面まで用意して来たが、もっと効率の良いプランが出ても不思議ではない。とはいえ九億の借金をそう簡単に返せるとは考えにくいし、代案として己のプランはストックして温めておこう。ターゲットも二桁は見繕っている。ん、完璧。

 何かを轢いた。

「!?」

 考え事に耽っていた為気付くのが遅れた。段差に乗り上げたようにバランスを崩す車体を、姿勢を低く重心を安定させ立て直す。そのままブレーキを掛け急停止、急ぎ背後へと振り向いた。

 人がいる。

 ほとんどが砂に埋まった旧市街、その道路の中央だ。大の字と言うより出の字に近い、上から見た蛙のようなポージング。背にはやたら大きなバッグを背負い、腰にはタブレット端末を収めたケース。黒のスーツにも白の長髪にも、少なくない砂が付いており、

「……やっちゃった」

 零しつつ、下りた自転車を引きながらシロコは近付く。気付かぬ間に結構な速度が出ていたようで、彼我の距離は三十メートル近く開いている。人通りがゼロに等しい旧市街故気を抜いていたと言えばその通りだが、結果を前にしては言い訳でしかない。まあ銃撃戦が日常茶飯事のキヴォトス住民からすれば自転車に轢かれるくらいダメージにもならないだろうが。とはいえ万が一もある以上一応は病院か、或いは警察……、に届け出る意味が果たしてあるのか。無事ならそれで良いとして、ダメだったら所持品でお金になりそうなものをいただいてから手厚く埋葬しよう。有効活用した方が被害者も喜ぶはず。特にタブレットなどは高く売れそうだし、

「……?」

 ふと違和感を覚え、シロコは足を止めた。目の前で倒れている相手が、先程見た時と何か違う。この後の展開について思考を巡らせる前と後、一体何が変化したのかと目を凝らし、そして気付く。

 出の字がY字になっていた。

「…………」

 距離十五メートル。左の手の甲にはタイヤの痕があり、先程轢いたのは伸びた手だったのだろうと分かるが、もっと大事なことを分かれと頭のどこかで冷静な自分が言っている気がする。しかしそれに向き合うよりも早く、更なる動きが視線の先で生じていた。

 五指が開いたのだ。

 何かを握ろうとするように波打った指が山となり、手に力が入り、身を支えるようにしてゆっくりと起き上がる。緩慢な動きは不安定にふらつき、まるで死者が蘇ったかのような錯覚を寄越す。長髪から薄々予想はしていたが、線の細さや胸の膨らみを見るに相手は女性。どうやら背負った荷物が相当な重量らしく、振り回されるようにして立ち上がった身はしかし前傾で、

「…………」

 油の切れた機械のような動きで振り向いた顔が、確実にこちらを見た。

 前髪で隠れて視線は分からないが、シロコはそう判断した。

 野生の勘が、動物としての本能が、脳内で必死に警鐘を鳴らしている。

 ヤバい存在に見付かった、と。

「────」

 ヤバい女が、こちらに一歩を踏んだ。

 反射的に一歩を引くと、向こうも動きを止めた。

 そのまま十秒。緊張で動けぬ視線の先、しかし女の動きは突然だった。

 髪を振り乱しながら一直線に突っ走って来たのだ。

 

     ○

 

 シロコは百八十度ターンさせた自転車に跨り全力で漕ぎ出した。

 脇目も振らぬ逃走。未だかつてない全力の逃げだ。それ程までに女のプレッシャーが凄まじく、ここまで恐怖を覚えたのは人生初かもしれない。

 だが、とシロコは思う。これなら逃げ切れるはずだと。何しろこちらは身体を動かすことが趣味のフィジカル強者、それも自転車付き。対する向こうは明らかにコンディションが悪く、しかもただの走り。おまけに荷物付きだ。これで逃げ切れない訳がない。

 安全圏に自分を置けた安堵から吐息を零し、遠ざかって行く女を見送ろうと振り向いた。

 距離が十メートルまで縮まっていた。

「っ!?」

 追って来ている。しかも速い。

 こちらは自転車。体感で言えば時速三十キロは出している。砂に塗れた悪路、謎の女と鉢合わせ追われている動揺、スタートしたばかりで速度が乗っていないなど悪条件は重なっているが、それでもただ走っているだけの相手なら悠々置き去りに出来るはずだ。

 だがじりじりと距離を詰めて来るこの女は、概算時速三十五キロを叩き出していた。

 百メートル走にすれば十秒強。ノノミは力でこちらの上を行くし、身軽さによる機動性ではホシノもいるが、シロコの周囲に純粋な速度でここまで追随して来た者はいない。

 ……この人、何……!?

 警戒と共に見遣る先、俯いていてその表情は窺えない。足を止めた瞬間倒れかねない程に身を前へ倒し、腕を大きく振って走る姿は必死と言っていいだろう。確かに轢いたこっちが悪いとはいえ、ここまで死に物狂いで追い縋って来る程のことだろうか。言い訳や保身などではなく、純粋な疑問としてそう思わされる。

 だが、そんな一瞬の迷いが明暗を分けた。

「あっ……!?」

 ペダルに掛けた足を踏み外し掛け、バランスを崩した。

 慌てて立て直しはしたものの、明らかに速度が緩む。それを好機と見た女がスパートを掛け、もはや壁を駆け下るような姿勢で一気に加速し、

「────」

 追い抜かれた。

 こちらの先を取った女は、そのまま前へと回り込み立ち塞がる。回避は不可能。全力でブレーキを掛けるが、速度と慣性が乗った車体はそう簡単には止まらない。前を望む動きに引っ張られ、後輪が浮き、人身事故という単語が脳裏を過ぎって、

「!?」

 こちらのハンドルに手を掛けた女が震脚をブチ込み、浮き掛けた車体が戻った。

 だがさすがに速度の全てを殺すには至らず、シロコは女と共にそのまま滑走。車体から放り出されるかと思ったが、先の震脚で下向きの力が加わったことと、前傾姿勢の女がこちらの胴体を支えたことで杞憂に終わった。やがて数十メートルを移動して全てが止まり、お互い無事に切り抜けたと言って良い状態になる。

 今更のように、女が纏う淡い香りに気が付いた。

 桜の匂いだった。

 だがそんなことに気付いたところで、迂闊には動けない。息が触れ合いそうな至近に、震脚一つでこちらの制動まで行うような相手がいるのだ。しかも何故かシロコにご執心。少しでも対応を誤れば、どんな目に遭うのか想像も付かない。迎撃しようにも背負った銃を手に取るより、女の体術の方が確実に早いだろう。

 どうする、と緊張で身を固くする中、隣り合うような位置にある女の顔が動いた。口が開き、己の心臓の鼓動にさえ掻き消えそうな程の小さく掠れた声が、

「……み」

「……み?」

 オウム返しに問うた先、女は全ての力を使い果たしたように、

「水と食料を分けてもらえないだろうか……」

 そう言い残すと横倒しに突っ伏した。

 受け身すら取らない、砂に埋もれた路肩でなければ頭を強打し負傷する勢いの崩れ落ちだ。

「……えっ」

 それが砂狼シロコと、連邦捜査部シャーレ顧問、葵・硝子の出会いだった。

 

     ●

 

「……シロコ先輩と先生、こんなホラーみたいな出会い方してたの?」

「わあ、運命的な出会いですね☆ 映画ならこの後謎の組織に追われたり首都圏が壊滅する展開でしょうか?」

「うへえ、対策委員会居室で顔合わせた時も大概だったけど、こっちの方が強烈だねえ」

「……誰一人としてフォローする方向に行かないのは先生への負の信頼でしょうか」

「ん、まだまだこのくらいなら甘口」

「ん、さすがは私、よく分かってる」

 

     ○

 

「いやあ、さほど長く生きている訳でもないが、ここまで死を覚悟したのはさすがに人生初だね!!」

 ヤバい女改め、遭難していた女性は愉快そうに笑った。

 当人の遺言通り水と食料、具体的にはシロコの昼食になるはずだったおにぎり二つとスポーツドリンクのペットボトルを差し出したところ、彼女はものの一分足らずで腹に収めてしまった。そのまま大きく息を吐き、吸ったと思ったら先の言葉と爆笑に繋がる。頭は打っていないはずだが、さすがにちょっと心配になり、

「……ええと、大丈夫?」

「うむ、おかげさまで持ち直したとも。しかしなかなか得難い体験だった。標識に従いハイヨーハイヨーと目的地を目指してみれば、まさか砂漠を経由することになるとは!! しかも案内が途切れるオマケ付き!! 雪の中で方向感覚を失って遭難というのは知っていたが、よもや砂漠で同じ目に遭うとはね!! バッテリーも尽き備えもなかったもので、危うくアウト一発ご昇天するところだったよ!!」

 つまるところ冗談抜きで死に掛けていたという結論になるはずなのだが、心底楽しそうに笑っている様を見ていると全くそう思えないのが凄いと思った。

 今シロコと女性がいるのは、先程壮絶な追いかけっこをしていた道路の脇。半壊した建物の作る日陰に、衰弱した彼女を背負って運んだ位置だ。ガードレールに腰掛け自転車も立て掛けているこちらに対し、女性は地べたに胡座というラフスタイル。肩を回したり上半身を捻っている姿は、明らかに只者ではなさそうだった。

 黒のパンツスーツに身を包んだ年上の女性。腰近くまで伸びた長髪は白く、瞳はシロコと同じ空のように澄んだ青。背はこちらより二十センチ以上は高く、比例するように胸もノノミよりデカい。本人曰く芸風らしい口調や、遭難を笑い飛ばす強靭なメンタル、自転車のこちらに追い付くフィジカルなど、特徴を挙げればキリがないのだが、それ以上に目立つ点が一つある。

 ヘイローがないのだ。

 制服も纏っていない以上、キヴォトスの生徒ではないだろう。だがシロコの知る限り生徒ではない大人で、自分達のような外見の相手は見たことがない。相当レアな例外なのかとも思うが、まあそんなこともあるだろう。今のところアビドスに関係している訳でもないし、警戒し過ぎなくても良い、はずだ。

 ……悪い人ではなさそうだし。

 あくまで勘だが、シロコはそう判断した。詐欺ならこんな人気のない場所ではターゲットがいないし、自分を狙い撃ちするにしても行き当たりばったり過ぎる。食料への食い付きっぷりも、似た経験のある自分が見た限り演技ではない。無論これまでの全てがこちらを騙し切っている可能性もあるが、シロコは彼女の一点の曇りもない澄んだ瞳を信じた。

 うん、と内心頷いていると、不意に女性が居住まいを正した。正座で、両の手を膝に置いた彼女は真っ直ぐにこちらを見て、

「遅くなってしまったが、改めて礼を言わせてもらいたい。君は紛れもなく命の恩人だ。──感謝である」

 一切の躊躇いなく、深々と頭を下げた。

 ……ん。

 悪い人ではない、という判断を推測から確定まで持って行く。こちらを見上げるのではなく、正面から見据える目は、信用の根拠には十分だ。だからシロコは会釈を返し、

「どういたしまして」

「否、この借りはいずれ何らかの形で必ず返すと約束しよう。言葉を尽くすことも大事だが、行動で示さねば口だけに過ぎないからね。私は有言実行の女だよ?」

 フフフ、と不敵に笑った女性が立ち上がろうとして、しかしふらつき座り込んだ。飲まず食わずで三日も彷徨った挙句、自転車のこちらを追い抜く勢いで走ったのだから無理もない。水分と食事を取ったとはいえ、久しぶりの摂取で身体も付いて行かないだろう。だからシロコは彼女の肩を押さえ、

「無理に動かない方が良い」

「いやはや申し訳ない。情けないことに先のダッシュでグロッキーのようだ。行儀が悪いが、マトモに動けるようになるまではこのままで許してもらいたい」

「ん、気にしないから大丈夫。だけど……」

「他に気になることならある、という風情だね。良いとも、私に答えられることなら答えよう。さあ遠慮なく問うといい、今ならスリーサイズも大公開だ」

「それは別にいい」

 

     ●

 

 次の瞬間。

 アビドスメンバーは映像を一時停止したシロコが休憩室のカーペットへ突っ伏し憤るように床を殴り付けるのを見た。

 見かねたアヤネが声を掛けようと腰を上げるが、もう一人のシロコが肩を掴んで止める。

 首を横に振っていた。

 なるようにしかならないこともある、と。

 

     ○

 

「で、何が聞きたいのかね?」

 促しの問いに、シロコは頷いた。先程自分達が突っ走っていた一画を横目に見つつ、

「凄く速かった。コツとかあったら教えて欲しい」

「俗に言う火事場の馬鹿力というやつだろう。ここで君を逃したらもはや助かる術はないと判断出来たので、全力で後を追わせてもらった。結果としてこの様なのだし、普段からあれだけの速度を出せる訳ではないよ」

 どうやら技術によるものではないらしい。残念。自分の走りに生かせるようなら聞いておきたかったのだが。そんなこちらの落胆を察してか、彼女は再び頭を下げ、

「とはいえ、怖がらせてしまったようですまなかった。怪我がなくて何よりだが、自転車の方は大丈夫かね?」

「ん、チェックした感じ大丈夫そう。貴女のおかげで転ぶこともなかったし」

 そうか、と女性が肩の力を抜いた。そのまま傍らの愛車を見上げると、

「良い自転車だ。手入れも行き届いているようだし、単なる移動手段以上の思い入れがあると見たが」

「ん、身体を動かすのが好きだから。暇な時は目的地も決めず気の赴くまま流してる」

「道理で速い訳だ。私の知り合いにもすばしっこいのが幾人かいるが、良い勝負になるだろう」

 笑みを零した女性が、懐かしむように空を見上げる。

「私の前の職場は山の中でね。交通の便が悪く駅からそこそこ歩くのだが、朝方などは冷えて澄んだ空気が心地好いものだった。同じように考える者が多いのか、ランニングしている姿と擦れ違うのも日常茶飯事だったものだよ」

「そうなんだ。私の住む場所はこんなだから、市街地でもそういう擦れ違いはないかな。海の方まで足を延ばすと見掛けるけど」

 ノノミは時たまトレーニングに付き合ってくれるが、元々はダンベルなどで膂力を鍛えるのが主だ。得物が得物だけに仕方ないとはいえ、自らの足で進むのが好きなシロコとは方向性が違う。それ故基本、走りもサイクリングも単独での道行きとなり、

「なら借りの返済一つ目は、一緒に海までランニングとしておこうか」

「……え?」

 当然のように告げられた台詞に、シロコは思わず振り向いた。ガードレールに手を掛け立ち上がった彼女は、調子を確かめるようにゆっくりと屈伸しつつ、こちらに苦笑を返す。

「仲間が欲しい、と顔に書いてあったよ。先程のような速度を望まれても期待には沿えないが、走るくらいならば私にも付き合える。無論、君が良ければの話だがね」

 応じる声に気負いはなく、散歩にでも誘うように気楽なものだ。

 多分彼女はこちらの身体能力を甘く見ていて、実際付き合わせたら酷い目に遭いそうな気もするし、そもそも会って十分そこらの相手と約束するようなものでもない。ワガママを言う子供を宥める為に、その場凌ぎの方便として用いていると考えるのが自然だ。

 だが、シロコの口から生まれたのは世辞や社交辞令としての返答ではなく、

「……いいの?」

「うむ。直近のスケジュールが未定なのでいつになるかは分からないが、予定が空いたら必ずと約束しよう。最近海を見ていなかったことだし、先導してもらえるとありがたい」

 笑みでこちらに返される視線は、どこまでも真っ直ぐで。

 だからシロコも釣られるように、口の端を緩めていた。

「ありがとう。嬉しい」

「礼を言うのはこちらの方だ。──感謝である」

 ん、と応じるシロコの胸中には、一つの思いが生じつつあった。

 この人ともっと話をしてみたい、と。

 これまで自分が会って来た人達とは、全く違うタイプの人。少し話してみただけでも、身体能力や価値観に限らず、色々な差異を感じている。大人だから、という理由だけではない、そんな何かを。

 伏し目にスマホを確認してみれば、対策委員会の集まりまでにはまだ時間がある。そうでなくてもホシノ先輩は確実に遅れて来るだろうし。だからこの貴重な機会を逃さないという言い訳を盾に、シロコは更に話題を振ってみる。

「貴女は、何の為にここへ? どうして遭難してたの?」

「平たく言えば仕事だ。少々この地で成さねばならんことがあってね。人が待っているのだが、だからと言って焦り動けば先の二の舞だろう。確実に辿り着くことを優先し、もうしばらく休んでから出発しようと思う」

 軽く腿上げなどしていた辺りもう動くことは出来るのだろうが、彼女はこちらの意を汲んでくれた。ありがたいと思いつつ安堵の息を零していると、不意に空色の視線がこちらを捉え、

「逆に君は、何故ここに?」

 問う声音は、先程までとは違う真剣さを帯びていた。

「先の言を聞いているだけでも、この土地は不便が多いということは察せる。簡単なことではないだろうが、他の場所へ移るという選択肢もあるはずだ。そうすれば同好の士も見付かるだろうし、新たに部活を立ち上げることも出来るだろう。金銭や移動先など、現実的な問題だと言われてしまえばそれまでだが……」

 見渡す限り砂だらけの周囲を一瞥した上で、彼女は問うた。

「何か、この地に拘る理由があるのかね?」

「大事な居場所だから」

 応じる答えは、すんなりと言葉に出来た。意外だったのは眉を上げる女性に、腰を上げたシロコは向き直り、

「確かに色々と問題はあって、辛いことや苦しいこと、上手く行かないことだってある。だけど──」

 目を閉じれば思い浮かぶ皆の顔を思い出せば、答えは決まっていた。

「それでも、私の大切な人達と、一緒に守って行こうって決めたから」

 真っ直ぐに告げた先、彼女もまた正面から視線を返していて。

「そうか」

 それだけを口にして、目を細めた。

 懐かしむようでもあり、眩しいものを見るようでもある、優しい笑みだった。

 僅かな時間とはいえ、様々な顔を見せて来た彼女が、初めて見せるタイプの表情。それに戸惑いにも似た不思議な感覚を得ていると、女性がこちらに向き直っていた。改めて砂と、風と、空と、太陽を一瞥し、

「いや成程、なかなか大変な状況のようだ。生憎と先約がある為今すぐとは行かないが……、こちらが片付いたらすぐに君を手伝おう」

 唐突な助力の申し出に、シロコの頭の中は疑問符で埋まった。

「……どうして?」

「……これはまた、おかしなことを聞く子がいたものだね」

 素直に問い掛けた先、女性は苦笑した。大仰に肩を竦め、高い位置にある青の瞳でこちらを見て言う。

「困っている者がいれば助けたいと思うのは当然だろう。年端も行かぬ子供なら尚更だ。ましてや命の恩人と来ているのだから、これで手を貸さねば私は自らを恥じて腹を切るね」

 はは、と笑って一度言葉を切った彼女が、己のジャケットの襟を掴んだ。上に勢い良く跳ね上げ両腕を伸ばし、紙を打つような音と共に衣服の乱れを正すと、

「君が痛みを感じていたならば、私はただ君を守ろう。君が独りを嫌だと言うのならば、私はただ君の傍にいよう。君が悩み迷っていたならば、私はただ君を支えよう。君が何かを成したいと思ったならば、私はただ君を手伝おう」

 そして、

「君が誰かの助けを欲していたならば、私はただ君の手を取ろう」

 言葉と共に、手の平を上に向けた右手が差し出された。

「どうだろうか。行きずりの関係とはいえ、旅は道連れ世は情けだ。もし私の手を取ってくれるのならば、私は全力で君の力になろう。如何なる状況にあろうと、何もかも諦めてしまいそうになっても、君が望み願うことを果たせるよう道をつけてみせる。契約(テスタメント)の名の下にね」

 最後の一言の意味はよく分からない。だが微笑している女性の瞳は真剣で、本気の発言だということだけは分かる。

 普通に考えればこちらに取り入ろうとしているとか、そう警戒するのが筋だろう。セリカじゃあるまいし、そのくらいの分別はつく。

 だが、シロコはこれまで見て来た彼女と、それを信頼する己を信じた。

「ん」

 己もまた右の手を、グローブに覆われていない素の手の平を伸ばす。触れて、握った感触は温かく、柔らかくて、しかしこちらの手を握り返す力強さもあり、

「お仕事頑張って。もしその後、私のことをちょっとでも覚えていたら、助けに来てくれると嬉しい」

「こんな衝撃的な出会いを誰が忘れるものかね。君が救いを求めた時、私は必ず駆け付けると誓おう」

 笑みで言われるその言葉が形式的なものではなく、混じり気なしの百どころか億超えパーセンテージの本気だったとシロコが知るのは、そう遠くない内のことだった。

 

     ●

 

「……良い話に、なった、わよ?」

「……あのキチガイムーブからこれが出て来るのが先生の強みだよねえ」

「……変に意識して不規則言動に及んでいる訳ではなく、ナチュラルに狂人だという証明になってしまったような」

「でも何だかんだ言いつつ、皆もそんな先生に影響されて段々染まって来てますよね☆」

 ノノミの身も蓋もないツッコミに他の三人がギャアギャアやっているのを、シロコはどこか遠くにいるような心地で聞いていた。共食いに混ざって来ないことに違和感を覚えたのか、こちら側の自分が振り向いて、

「どうかした?」

 問うて来る自分に、己は首を振った。その動きに合わせて目尻から雫が飛び、しかしそれは哀しみから来るものではなく、

「嬉しかったの」

 もはや己の中でも薄れ消え掛かっていた、先生との始まりの記憶。こちらの自分とは辿った経緯に差があれど、この時点ではまだ同じだった。それ故に大事な記憶もはっきりと蘇り、そんな今だからこそ気付けたことがある。

「約束、守ってくれてたんだ」

 どちらもシロコだと、彼女はそう言った。

 最初は気兼ねするこちらへの気遣いだと思い、段々と本気で言っていたのだと悟り、だがここまで愚直だったとは思ってもみなかった。

 これまで抱えた苦しさや罪悪感を吐露すると、話を聞きながらずっと寄り添ってくれた。

 寂しさを感じてふらっとシャーレに訪れると、笑って出迎えてコーヒーを淹れてくれた。

 “先生”や皆に対する後悔を引きずっていると、答えに至る為のヒントを用意してくれた。

 先生に並び立てるようになりたいと告げると、知識や技術を学ぶ環境を提供してくれた。

 そして、

「どっちの先生も、泣いてる私の手を取ってくれた」

 物言わぬ屍に等しい状態となっても、“先生”は次へと繋いでくれた。

 それを継いだ先生もまた、自分にただのシロコとして接してくれた。

 救いを求めたならば、必ず駆け付けると。

 そんな最初の約束を、ずっと果たし続けてくれていた。

Tes.(テスタメント)

 かつて彼女の手を取った右手で、首元を覆うマフラーに触れ、シロコは小さくそう呟く。

 シャーレの符号。了解や承諾を意味する相槌。神聖なる言葉にして、生徒達に対する絶対の誓約。

 失わせないという先生の意思、その象徴。

 ……良かった。

 先生としてキヴォトスに来てくれたのが彼女で、本当に良かった。

 全てが上手く行った訳ではなく、取り零しや後悔もあったこの世界だけど。

 それでも先生が来てくれた世界で、本当に良かった。

「……先生に会って来る」

 故にこそ漏れた言葉は、本心そのものだった。不意に立ち上がったこちらにシロコが眉を上げ、首を傾げつつ右手を持ち上げて、

「スマホで連絡した方が早い」

「ん、直接顔が見たくなった」

 長髪を翻し踵を返す己を、こちらのシロコが半目で見上げる。呆れ全開の眼差しに、しかし止めようとする色はなく、

「大丈夫?」

「大丈夫」

 顔だけで振り向いて、シロコは笑った。握った拳を胸元に当て、

「大事なものは、ずっとここにあるし──」

 こっちに気付かず騒がしくやっている対策委員会の面々を見て、

「──きっと、どこにでもあると思うから」

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