グラスアーカイブ   作:外神恭介

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だから貴女は敵に回したくないのです

「おや先生、お疲れですか」

 夜明け前のシャーレオフィスビル。ソファーの背もたれに寄り掛かり天井を仰いでいた彼女は、こちらの声に視線だけを向けた。

 白の長髪に長身。徹夜明けだというのに隙なく着込んだ黒のパンツスーツには皺一つない。眼前のテーブルに山と積まれた書類には判や署名が成されており、一息を入れたところだったのだろう。

 葵・硝子。そんな名前の先生はやがて口の端を歪ませると、

「これはまた何とも大胆不敵な来訪があったものだね黒服君。黄昏時はとうに過ぎたはずだが」

「語源を考えれば彼は誰時もまた逢魔時の一種でしょう」

「違いない。まあひとまず座りたまえ、生憎コーヒーはストックが切れているので茶の類しか出せそうにないが」

「いえいえお構いなく。むしろ手ぶらで謝罪に来たこちらに非がありますので」

 対面に立つこちらに、先生が姿勢を戻した。やや前傾、下ろした手の先にはスマホとシッテムの箱。口調こそ平素と変わりないとはいえ、警戒を絶やさないのは見事。そんな内心の称賛を知る由もなく、先生は不思議そうに首を傾げた。

「はて、直近で君に迷惑を掛けられた覚えはないのだが。実は裏で何かコソコソ動いていたのかね?」

「私ではありませんが、実態としてはそのようなものでしょう。──地下生活者に関しては」

 口にした名前に、先生が目を細めた。視線を外、アビドスの方へと向けて、

「アレならもう一人の頼れる狼が始末を付けてくれたよ。随分と手間を掛けさせられたが」

「ええ、存じております。かの黒狼もすっかりシャーレに馴染んだようで。……確かに彼はかなり難のある者ではありましたが、よもや先生本人を狙うとは。もっと早く警告を送れれば良かったのですが」

「私より小鳥遊君に言いたまえよ。生徒の為に奔走するのは私自ら望んだことだ。一番被害を被ったのは彼女だろう」

「それについては、彼女の本質の一端を垣間見られた私としては複雑なところでしてね。第一、訪ねたところで銃弾で歓迎されるのが関の山でしょう」

 違いない、と先生が吐息。スマホから手を離したのは、こちらへの信用か、或いはイニシアチブを握ったと判断したのか。とはいえ下手を打てばキヴォトス中の戦力がこちらに牙を剥くのは自明であり、それ故の鷹揚さでもあろう。まあこの人の場合常に奔放ではあるが。以前色彩の襲来を伝えた際も、

「ところで黒服君、その傷は治療などしなくて良いのかね? おや、何とここに備品の絆創膏が束で。さあ面白おかしくペタペタ貼って回るが怪我人に拒否権はないよ?」

 などと宣い包帯塗れならぬ絆創膏塗れになるところだった。しかも可愛らしいキャラクタープリント付きなのでビジュアル面でどう見ても違和感が凄い。彼女なりの心配だろうが内心と言動が不一致過ぎる。そういった内面を知らない者は彼女を狂人とかキチガイとしか見ていないようだが、分かる者には分かるのですよククク。

 話が逸れた。

 ともあれ先生の人格はともかく、今回の一件は一歩間違えれば彼女の命が失われかねなかった。それは黒服のみならず、ゲマトリアの主だった面々にとってもマイナスだろう。その辺りを全く理解していない愚か者の行動が所以とはいえ、

「我々の元同胞が先走った結果、先生には多大な迷惑をお掛けしました。深くお詫び申し上げます」

「律儀なことだ。過去の所業全てを謝罪して回るのなら取り次ぎくらいは承るが?」

「無理を仰る。私と先生では目的はともかく手段が相容れない。そのことは重々承知でしょう」

 時には手を組み、情報の提供も行うが、基本的には敵対関係だ。先生の言動が言動故敵対感は薄いが、こちらが目的の為なら生徒を害することも厭わない以上、どうあっても平行線。今もゲマトリアが解散状態である為、機を窺って訪ねたに過ぎない。

 いずれまた、戦場で相見えるのは必定だ。

「ではこれにて。何か御用でしたら適当に話を広めていただければ、こちらから伺いましょう」

「黒服君」

 踵を返した刹那、先生の声が飛んだ。肩越しに振り向いた先、彼女は手元の書類を纏めながら、

「なるべく息災でいたまえ。私や生徒達の知らぬ知識を持っているという点で、君の存在は有用だ。主義主張や立場故ぶつかることは致し方ないが、いなくなられるのもそれはそれで困る」

 

     ●

 

「……お待ちしておりました、先生。貴女とは一度こうして、顔を合わせてお話してみたかったのですよ」

 初対面で彼女に抱いた印象は、美しい人という在り来たりなものだった。

 暗がりの中にあってなお輝きを失わぬ白の長髪。揺るぎなき足取りで歩を進める均整の取れた長身。雲一つない晴れた空の如き青の瞳。

 そして何より、己と同じでありながら、正反対の印象を与える黒のスーツ。

 己の黒があらゆる色を染め上げ我が物とする負の黒であれば、彼女の黒は何物にも染まることのない正の黒だ。

 己が背後に置いた生徒達を、如何なる色彩にも染めさせぬ守護者としての黒。

 成程これがシャーレの先生か、と内心感嘆の息を漏らす黒服に対し、葵・硝子という名のその女は自然体だった。誰とも知れぬ怪しい呼び出し、その張本人と対面してなお恐れも怯みもせず、

「こちらこそお招きに与り礼を言おう、黒服君。僅かばかりだが小鳥遊君から話は聞いていて、さてどのような者かと思っていたが──」

 挨拶の為に上げていた腕を組み、小首を傾げながら彼女は言った。

「──よもや物理的に顔が割れているとは。人体の神秘とは奥深いものだね?」

「取るに足らない個性ですよ。背が高い、肩幅が広い、そのような個人差に過ぎません」

「成程、覚えておくとしよう。これでも色々と学んで来たつもりだが、なかなかどうして世界は広い」

 口の端だけで小さく笑うと、先生は首の傾きを戻した。品定めするように目を細め、しかし声音には一切警戒の色を乗せず、

「して、一体何用かね黒服君。私がアビドスの件で忙しいように、そちらも暇な身分ではないように見受けられるが」

「ええ、ですが時間を割くだけの価値があると判断した為、このような場を設けさせていただきました。とはいえ貴女の時間を徒に奪うつもりもありませんので、本題に入るとしましょう」

 机上で指を絡ませ、その上に顎を乗せた黒服は先手を取った。交渉事において先攻が不利なのは承知の上で、だ。

 キヴォトスに来たばかりである彼女に対しては、まず判断材料を与えねば意思の疎通そのものが困難となる。加えて現状小鳥遊ホシノに関する手掛かりを持たない先生側は、こちらの話を聞く以外の道はない。故にこそ無償で手札を晒すことで、警戒を緩め交渉のテーブルに着かせる。その為ならば多少の開示も致し方あるまいと、そう割り切った上で口を開く。

「貴女のことは知っています。連邦生徒会長が呼び出した不可解な存在。あのオーパーツ「シッテムの箱」の主であり、連邦捜査部「シャーレ」の先生。──興味深い存在です」

「……特段功を上げた覚えはないのだが、随分と知られたものだな。本業は探偵か何かかね?」

「生憎私はしがない求道者に過ぎません。加えてサンクトゥムタワーの件もまださほど広まっていませんからね。時間の問題ではあるでしょうが」

 今は連邦生徒会長の失踪、及びその余波を受けた各自治区の混乱復旧という話題の方が大きく、先生の活躍を知るのは連邦生徒会の一部、及び彼女が指揮を執った数名の生徒とその関係者だけ。やがてシャーレの存在に関する公的な情報は連邦生徒会から発信されるだろうが、現時点では第三者の与り知るところではない。故にこそカイザーPMC理事のように彼女を過小評価する者もいるのだが、

 ……私達は違う。

 先生の存在は黒服達の計画において、最大の障害となり得る。だからこそ可能であれば抱き込みたいし、最低でも中立を保っておきたい。その条件を引き出せるならばある程度まで無償の援助、協力すらも吝かではないと、それが黒服の見解だ。だから、

「ハッキリさせておきましょう。私達は貴女と敵対するつもりはありません」

「という割にはほんの数時間前にドンパチやっていた気がするが? 代表取締役殿が絵に描いたような捨て台詞を残していったが、当然監視していたのだろう?」

「私はあくまでカイザー理事のオブザーバーでしてね。利害が一致しただけであり、その行動にまで率先して口を出してはいないのですよ」

「では、黒服君達の集まりとカイザーPMCの考えは違う、と?」

 素晴らしい。私「達」という含みを流すことなく、しっかりと捉えて来た。指揮能力に目が行きがちだが、即座の作戦構築やアドリブでのプラン修正などを鑑みれば、注意深く頭が回るのも当然。やはり彼女は危険な存在だと、改めて黒服は確信する。

 そしてこちらの試しに応えた以上、誠意と敬意を以て当たらねばなるまい。

「ゲマトリア。貴女と同じキヴォトス外部の存在であり、しかし貴女とは違う領域の存在。それが我々です」

「数秘術? ……いや、世界が異なれば定義も別か。ああ、今のは独り言だから気にせず頼む」

「おや、驚かれないのですね? 貴女以外に外の存在はいなかったはずですが」

「私という本来キヴォトスに存在しないイレギュラーが干渉している以上、同じような存在がいても不思議ではあるまい。方針は些か以上に異なるようだがね」

 成程、と拳を口元に当てた先生は、鋭い目付きでこちらを見据えた。

「率直に聞こうか。君達は何者だね? 簡潔に答えたまえ」

「先にも述べた通り、しがない求道者ですよ。観察者であり探究者であり研究者。そんな我々は端的に申しまして、──貴女に協力したいと考えています」

 ほう、と先生から感嘆の息が零れた。この提案は予想していなかったのか、品定めするように目を細めると、

「なかなか興味深い提案だ。続けたまえ、話を聞こうではないか」

「ではありがたく。しかしその前に、先生には一つ問わねばならないことがあります」

 良かろう、という促しを受け、黒服は彼女を注視した。如何なる反応も見逃さぬよう、視界の中央に先生を置き、

「貴女はこのキヴォトスで何を追求するおつもりなのですか? ……真理と秘儀を手に入れようとする我々との協同、それより優先すべきことがあるとは思えませんが」

「目下のところ君に拉致された小鳥遊ホシノ君を取り戻すことだが、何か問題でも?」

 しれっと返された言葉に思わず笑ってしまった。なかなか良いセンスをしているが、それに関してはこちらが有利な案件。故に押しの一手で、

「拉致、と来ましたか。しかし先生、その主張には正当性がないことに気付いていないはずがないでしょう」

 手元に置いてあった一枚の紙面を掲げつつ、問う。

「小鳥遊ホシノはアビドス高等学校を退学、同生徒会及び対策委員会からも脱退、己の全権限を私に移譲するというこの書面に、同意のサインもされています。もはや貴女の介入する余地はありません。違いますか?」

「だから手を引け、小鳥遊君を諦めるなら対価として別の事柄で便宜を図る、と?」

 そういうことです、と頷きを作った黒服は、改めて右の手の平を先生へと差し出した。

「如何でしょう。そちらにとっても、悪い話ではないと思いますが?」

「ならばこう言ってやる。──馬鹿め、と」

 鼻で笑ってから、袖に音を立ててこちらを指差した先生が、

「分からぬなら二度言おう、馬鹿め。それでもなお理解が及ばぬなら三度言おう、馬鹿め。黒服君、君は代表取締役殿より賢明で話も通じるようだが、些か頭が固いようだね。研究者ならばもっと柔軟でなければならんよ」

「……馬鹿連呼の無意味な挑発で、この状況が変わるとでも?」

「だから馬鹿だと言っているのだよ。そう言われる原因を何故考えない探求者。答えに至る鍵を君はもう持っているはずだが?」

 いつの間にか、こちらに突き付けられた右手が一枚の紙を握っている。

 遠目に読み取った内容は、ホシノの退学届だ。定型的な、公式文書としては十分な書式。そこには書き損じも不備もないように見受けられ、しかし黒服は遅れてそれに気が付く。

「まさか──」

 そう、と先生が口の端を釣り上げた。

「受領はした。中身の確認もした。だが承認するなどと一言も言っていないし、認めのサインも印鑑もない。つまり小鳥遊君の去就については、対策委員会顧問を引き受けた私がまだ全権を握っている。──外様の貴様にそれをどうこうする権利はない」

 言って、書類を懐に収めた彼女は、わざとらしく肩を竦めた後首を傾げ、

「私を先生と呼んでおきながらこの可能性に思い至らないとは、……存外君達の研究とやらも取るに足らないもののようだね?」

 或いは正式なテンプレートに基づかない、全てがホシノの手書きによる紙片であったならば、介入の余地はなかっただろう。だが公的な文書である以上、上役である顧問の承認欄が存在するのは必然。そして連邦生徒会長と同等の権限を持つ先生ならば、名目ではなく正式な顧問を任じられる。

 もはや黒服とホシノの契約は、その効力を発揮しない。

「──素晴らしい」

 こちらの優位性を覆された。にも関わらず、黒服の心中に湧き上がったのは称賛の一念だ。

「先生、やはり貴女は我々が見込んだ通りの存在のようです。少ない情報、限られた手札、それでもなおこのような起死回生の一手を打つ知性と決断力。やはり貴女を敵に回すべきではないという私の判断に狂いはなかった」

「お褒めいただき光栄の至りだ。ならば私も応じよう。先程提案のあったゲマトリアとの協同だが──」

 首の傾きを戻し、見下ろすでも見下すでもない真っ直ぐ過ぎる視線を向け、

「──却下だ馬鹿め」

 いいかね? と前置きの上で彼女は言う。

「観察。探求。研究。大いに結構だ。知性ある生き物は有史以来そうやって発展して来たのだからね。時には大義の為に少数を犠牲にせねばならない局面があることも理解している」

 だが、

「覚えておけ黒服君。私がこのキヴォトスで求めるものは「失わせないこと」だ」

「────」

「ゲマトリア? 真理? 秘儀? 気が済むまで興味の対象を調べるが良い。それ自体には文句も何もない。……だが、私の生徒達を巻き込むと言うのなら話は別だ。我々に関与しない部分で進めるならばともかく、こちらに害を成すのなら全力で抵抗する」

 ましてや、

「貴様らは若く繊細な少女達を騙し、純粋な想いや願いを踏み躙り、その絶望を利用したのだ。……邪魔をされても文句は言えまい?」

「……ええ、ええ、仰る通りです。確かに我々は周囲への害があろうとも自身の利益を追求する。世間一般から見れば、それは紛れもなく悪行でしょう」

 あまりに突拍子もない先生の「求めるもの」に唖然としていたが、どうにか平静を取り戻した黒服は口を開く。

「しかし我々の行いはあくまでルールの範疇です。それは貴女も重々承知のはず。嘘は言っていないと強弁出来る範囲で虚実織り交ぜ、カイザー理事の金利引き上げと預託要求を軽減させた貴女ならば」

 先生が意外そうに眉を上げた。いくらカイザーの基地とはいえ街中でもない場所での出来事を掴んでいるとは思わなかったか、或いは同じ穴の狢だと指摘された嫌悪か。だが隙であることには変わりなく、黒服は両の手を広げて肩を竦める。

「我々も同じです。アビドスの件は天変地異に端を発する、世の中にありふれた支配と搾取の構図。我々はそれを利用しただけ。仮に我々が手を出さずとも、いずれ誰かが似たようなことをしたでしょう」

 飢えて細り行く者に対し、水と食料を提供する。ただし一生奴隷として働いても足りぬ法外な金額で。世の中を見渡せば、そんな例はごまんとある。身を滅ぼす悪魔の誘いだと分かっていても、しかし応じざるを得ない。

 アビドス入りした際遭難し掛けた彼女は、それを身を以て知っているはずだ。

「弱い者、持たざる者、奪われる者は須く、自らの未来を決める権利すら持たないのです」

 そう、と席を立ち、机の前に回り込みながら黒服は言った。

「我々にとってアビドスなどという小さな学校、己の自由すら持たぬ者達は大した問題ではありません。ですが生徒そのものに敵意はなく、貴女と敵対することも避けたいと思っています」

 故に、と再び黒服は手を差し伸べる。

「小鳥遊ホシノさえ諦めていただければ、我々が学校を守ってさしあげましょう。カイザーPMCについても裏で対処致します。ですから先生、アビドスから手を引いてはいただけないでしょうか?」

「断る」

 即答だった。にべもないという表現そのままに、手を下ろせと手振りで示した彼女は、

「言ったはずだ。小鳥遊君の去就については私の預かりだと。本人の知らぬところで誰とも知れぬ相手に引き渡しを認めるような大人を、一体誰が信用する?」

 加えて、

「どうも君は勘違いしているようだね。確認させてもらいたいのだが、小鳥遊君の身柄を対価にアビドスの平穏な生活を提供する。それがそちらの交渉カードと、そう見て問題ないかね?」

「平たく言えばそうなりますか。無論、私の手が及ぶ範囲であれば融通は利きますので、交渉材料を上乗せしても──」

「それがそもそもの間違いだ、黒服君」

 ほう、と視線を向けた先、先生は懐かしむような目で遠くを見た。

「平穏な青春の日々。ああ、学生生活とはかくあるべきだろう。ありふれた毎日を、しかし明日は少しだけ何かが変わるだろうと、そんな期待に胸を膨らませながら迎える、限られた貴重な時間だ。だが──」

 だが、

「平穏とは当然のように在るべきものであり、かつ世界に生きる全ての者がかくあれかしと行動した結果作られるものだ。傲岸不遜な上から目線で与えるものでも、ましてや他人のそれを脅かしていいものでもない。自ら望み得に行くのでなければ、あらゆるものに価値などないのだから。……君の求める真理と秘儀とやらも、そういうものではないのかね?」

「────」

「故に貴様の提示した条件は、交渉材料として破綻している。そもそもの問題として、小鳥遊君を奪おうという貴様と、失わせぬことを掲げる私とでは、主義主張が平行線なのだよ黒服君。どんな条件を提示されたところで、私が首を縦に振ることはない。どちらが先に諦めて引き下がるか、これはそういう殴り合いだ。……それとも、分かりやすくこう言った方がいいかね?」

 一度言葉を切った先生が、餓狼のような眼光と共にこちらを射抜き、笑った。

「アビドス対ゲマトリア。──全面戦争、しようではないか。なあ?」

 ブラフやハッタリではない。ここで首を縦に振れば、今すぐにでもアビドスの生徒達と連絡を取り武力行使に移る。そんな確信が黒服にはあった。

 敵対を避ける? 中立を引き出す? そんな日和った思考など、この目を前にしては抱けるはずもない。

 生徒に手を出すという逆鱗に触れた以上、敵対以外の未来はなかったのだ。

「……どうあっても、我々と敵対するおつもりですか? 貴女は無力で、戦う手段も持ち合わせては──」

「──ない、と思っているのなら試してみるかね?」

 速くはない、しかし不知覚の動きで右腕が突き出された。その指に挟まれているのは、怖気を震わせるほどの黒一色。クレジットカードによく似た、しかし見る者に本能的な忌避感を抱かせる、触れるべきではない代物。

 因果律変換式願望機C型(大人のカード)だった。

 マズい、と黒服は思う。如何にかの穢れた聖杯を用いたところで、こちらを殺すことは出来ないだろう。だが現状向こうを挑発したのはこちらであり、生徒を手中に置き敵対の原因を作ったのもこちらだ。仮にこの場で彼女が大人のカードを用い、こちらに害を成したとしても、向こうに「敵対した相手への正当防衛だ」「黒服がそれを望んだから行使した」という大義名分を与えてしまう。

 だが、それ以上にマズいのは、

「大人のカード……、持ち主である貴女ならその代償もご存じでしょう。使ってしまえば取り返しのつかない、後悔だけが残るふざけた代物。少なくともこんなことの為に使うようなものではないはずです。さあ、それは仕舞って、もっと大事なことの為に──」

「──舐めるなよ観測者」

 低い声と共に、大人のカードが黒と赤の光を迸らせた。

 ハッとして見た先、カードから生まれる圧によって先生の髪や裾が棚引いている。放電するように不規則な輝きを放つカードを掲げたまま、しかし先生は微動だにしない。

 如何なる錯覚か、或いは明滅によるものか。澄んだ空のようだった青の瞳が、血と見紛うほどのどす黒い赤に染まって見えた。

「私にとって先生という肩書きは命より重いのでね。そちらがその気ならば容赦はしない。今プールしてある可能性を食らわせれば、貴様ごとこのビルを消し炭にするくらいは可能だろう」

「……何故?」

 黒服の口から零れ落ちたのは、シンプルな疑問だった。

「何故? 何故、何故、何故、何故、何故何故何故何故!?」

 一声ごとに一歩を踏み、未だ大人のカードを発動寸前のまま保っている先生への距離を詰める。額と額が触れ合うような距離に至り、それでもなお揺るぎなき彼女に向かって、

「何がそこまでそうさせる? 何が貴女を突き動かしている? 貴女は彼女達の保護者でも家族でもない。偶然アビドスに呼ばれ、偶然出会っただけの他人でしょう。何故そこまで他人の為に身を削り、可能性すら捧げようとするのです?」

 大人とは望む通りに社会を改造し、法則を決め、常識と非常識を、平凡と非凡を決める者。権力、知識、力を用い、それらを持たぬ者を支配する立場だ。

 だが目の前の相手はその中でも特上とも言える、この学園都市の全権を手中にしておきながら手放した。

 理解出来ない。利己であれ利他であれ、莫大な権力を持っていた方が身動きは取りやすいはずだ。なのに何故簡単に譲る。何故会ったばかりの他人に任せる。そして何より理解出来ないのが、

「失わせないなどと、本気で叶えるおつもりですか?」

 ものは失われる。形あるものは言うに及ばず、無形である思いや願いとていずれは薄れ消えて行く。永遠など存在しない世界で、失わせないなどと出来る訳がない。そんな不確かな、曖昧なものの為に、この女は文字通り己の全てを懸けている。

 何故。

 答えてみろと、そんな思いで向けた眼差しに、先生はやはり変わらない。青と赤を行き来する瞳で、真っ直ぐな視線を返し、

「だから言っているのだ。馬鹿め、と」

 いいかね。

「確かに彼女達の先行きは厳しいだろう。小鳥遊君を取り戻したとて、莫大な借金があり、砂に埋もれた土地があり、いつまた訪れるやも知れぬ自然災害がある。徒労、困難、そして悪意、様々な障害が降り掛かるであろうことは誰にでも分かる」

 だとしたら、

「彼女達は、──生まれて来るべきではなかったとでも言うのか」

 馬鹿を言うな。

「死ぬ為に生まれて来る者がいるか。そんな不条理があって堪るか。そんな未来しか選べないと言うのなら、間違っているのは世界の方だ」

 この場に訪れて初めて、彼女が声を震わせた。大人のカードを握る手に力が入り、呼応するように輝きが強さを増す。

「哀しむ為に生まれて来たなどと、苦しむ為に生まれて来たなどと、絶望の中で死ぬ為に生まれて来たなどと、そんなことがあってはならない」

 ならばすべきことは決まっている。

「子供が痛みを感じていたならば、私はただそれを守ろう。子供が独りを嫌だと言うのならば、私はただ傍にいよう。子供が悩み迷っていたならば、私はただそれを支えよう。子供が何かを成したいと思ったならば、私はただそれを手伝おう」

 そして、

「子供が誰かの助けを欲していたならば、私はただその手を取ろう」

 理由などそれで十分だ。

「私が手を伸ばすことで目の前の命が救えるのなら」

 失わせなどしない。

「大事な誰かと笑って過ごせる明日を作れるのなら」

 諦めなど要らない。

「──それが大人()の役目だからだ」

 毅然と、当然の如く告げられた一言は、黒服が今まで聞いたあらゆる言葉より重く響いた。

「……その役目を、責任を果たす為であれば、あらゆる手段を問わない、と?」

「綺麗なものを守るには、汚れる覚悟も必要だろう。如何なる所業も厭わぬ私には、それだけで十分だ」

 故に、もはや無駄な問いだと分かっていても、黒服はただ確かめることしか出来ない。

「……それが貴女の、カイザー理事に告げた言葉を借りるならば、悪役としての矜持、ということですか」

「Tes.、少なくとも今の君には理解出来ないと思うが、ね」

 ああ、と先生が口の端を歪めた。それは今までとは異なる、苦笑とでも言うべきこちらへの親身さを覗かせた笑みで、

「いっそ小鳥遊君のことを諦めて、それを探求してみてはどうかね? それならば私も手を貸すに吝かではない」

「────」

 ああ、と黒服は思う。これはどこからどう見ても、こちらの完全な敗北だ、と。

 どれだけ条件を重ねたところで、結局のところ黒服の要求は「ホシノを諦めろ」だ。だが彼女はそれをこちらに返し強いるのでなく、新たな道をも提示してみせた。例えこちらが頷かないとしても、選択肢を示すこと自体を無駄だとは思っていない。

 完敗だ。

 それでいて心中に重いものがないのは、彼女のこちらへの態度だろう。明確な悪であるこちらを悪役として叩き潰し、しかし尊重を忘れない。答える必要のないこちらの問いに、己が信念を詳らかにする必要などないのだから。

 参ったものだ。目的は何一つ果たせなかったというのに、ここまで晴れやかな気持ちになるとは。

 ならばこちらも答えは決まっている。

「良いでしょう。交渉は決裂です、先生」

 負けとは言わない。それがこちらをも立ててくれた彼女に対する義理であり、せめてものプライドだ。踵を返し、デスクから手に取ったホシノの全権委任状を先生に掲げる。

 破り捨てた。

 一度、二度、三度と裂いて文字通りの八つ裂きとし、目の前で散らす。白の紙吹雪が舞うのに合わせ、先生もまた光を収めた大人のカードを懐に仕舞った。気のせいでなければ零れた吐息は、安堵の色を滲ませているように見えて。

 ……随分と無茶をする人だ。

 これは大人の戦い。子供達には明かされぬものであろう。だから彼女達の代わりとは言わないが、せめてもの手向けとして黒服は最後の手札を晒す。

「小鳥遊ホシノはアビドス砂漠のPMC基地中枢、実験室に捕えています。我々は手を引きますが、カイザーは手放そうとはしないでしょう。救出に向かうなら急いだ方が良い」

 邪魔はしない。ただし手助けもしない。黒服に出来るのはここまでだ。しかし先生は眉を上げると、微笑と共に会釈を返し、

「情報提供と不可侵の確約、感謝しよう。それだけでもここに来た甲斐はあった」

 そうですか、と応じた黒服は足を進める。擦れ違う寸前、視線だけを好敵手たる大人に向けて、互いに苦笑を交わしながら、

「微力ながら、貴女の幸運と成功を祈ります。葵・硝子先生」

「もし次があるならば、別の形で会いたいものだね。黒服君」

 

     ●

 

 告げられた内容に、邂逅の記憶を思い返した黒服は思わず苦笑した。つい先程互いは敵同士だと、そう認識し直したばかりだというのに、

「困ったお人だ。だから貴女は敵に回したくないのです」

「そこはお互い様だろう。改心したならいつでも訪ねて来たまえ、善良で優秀な大人はいくらでも欲しい」

「それは先生の役目でしょう。手本となるべき最も身近な大人である貴女の仕事だ」

「世辞も大概にしておきたまえ。暴論・屁理屈・理不尽三点セットの身で良い大人とは到底言えまいよ」

「綺麗な物を守るには汚れる覚悟も必要でしょう。その挺身を知る生徒達は皆貴女を信頼している。それが答えではありませんか?」

「趣味でこの仕事をしている凡俗に随分な買い被りだ。だからこそ有能な補佐が欲しいのだがね」

「はてさて、私如きが先生の期待に応えられるとも思えませんが、心には留めておきましょう」

 互いに手を上げ挨拶とし、黒服は素早くその場を離れた。背後、オフィス内へと駆け込む慌ただしい足音と共に、

「先生!! 何か変な気配したからマッハで来たけど大丈夫!?」

「おやおや聖園君、心配してくれるのは嬉しいが挨拶を欠かしてはいけないよ? ひとまず危機はないので安心したまえ、そしておはよう」

「え、あ、うん、おはよ……、ってあああああ!? 慌てて来たから寝間着のままじゃん私!! す、すぐ着替えて来るね!?」

「似合っていて可愛らしいのだから気にする必要はないと思うが、とりあえず転ばないように気を付けたまえ」

 賑やかなことだ。つい先程までゲマトリアのメンバーと話していたというのに、一瞬で空気が変わってしまった。ある意味彼女らしいのかもしれないが、だからこそ人が集うのだろう。

 葵・硝子。ガラスは光の当たり方によっては、見る者を映すし向こう側を見せもする。そんな名を持つ彼女が行く先はどこか。分かりはしないが楽しみだと、黒服は素直にそう思った。

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