グラスアーカイブ   作:外神恭介

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ん、思い出し激怒

「──という訳で先生、大分時間もらうね」

「……という訳でと言われても、何が何やらサッパリなのだが」

 眼前に床で正座させた先生を置き、シロコは腰に手を当てた。

 そろそろ日付が変わろうかというシャーレ執務室。ダベっていた自称部員達も既に帰宅し、居候のミカも外務がない為自室でご就寝。ホシノが立ち寄る時間帯ももっと後で、つまり名実共に二人きり。そんな恵まれた空間で、穏やかな時間を過ごしていて、

「気のせいか幻覚でなければ、先程まで割と良い感じの雰囲気だった気がするのだが」

「気のせいでも幻覚でもない。良い雰囲気「だった」よ」

「……砂狼君、心なしか凄まじい圧が滲み出ていないかね?」

「ん、思い出し激怒」

「パワーワードだね?」

 半目を向けると狂人が大人しくなった。やがて俯いた彼女は恐る恐る右手を上げ、

「……状況を整理しても良いだろうか」

「ん」

「感謝である。……ええと、いつも通りにふらっと現れた砂狼君に、淹れたてのコーヒーを振る舞ったね?」

「ん、今日も美味しかった。ありがとう」

「礼には及ばんよ。それで、お盆も近いことだし向こうの私や皆の墓参りを考えねばならんねと、そのような話題になったね。供え物にコーヒーというのは許されるだろうかと、真剣に討論もした」

「ん、アビドスの環境だとあっという間に温くなって皆も嫌がりそう、って笑ってたね」

 それで、

「改めて箱舟で助けてくれたことのお礼を言った」

「うむ。先生として当然のことをしたのだから気にすることはないと応じたね」

「だから怒った」

 半目で言うと先生の動きが止まった。ややあって、腕を組んで首を傾げた彼女が、

「やはり何がどうしてそうなったのかサッパリ分からんのだが、これは私に非があるのだろうか」

「大あり」

 応じて、シロコもまた腕を組んだ。

 ……あ、胸の下で腕を組むと肩が楽。

 胸部重量は己がデカくなった弊害の一つだが、シロコ以上の体捌きを見せる先生はその辺りどう制御しているのだろうか。その内聞いてみようと先生との話題デッキにストックしつつ、

「助けてもらったことへの感謝はあったけど、同時に許せないこともあった。だからお礼を言って、気にしなくていいって言われたから、ここからはお説教」

 言うと、先生が身体ごと首を傾けた。斜めになった彼女は小さく手を上げて、

「恩に着せるつもりは全くないのだが、命の恩人が説教されるというのも何かが果てしなくおかしい絵面だとは思わないだろうか」

「それはそれ、これはこれ」

 それに、先日対策委員会の面々と過去の記録を見返していて気付いたのだ。先生がシロコの命を救ったのは紛れもない事実だが、

「遭難してた先生を拾った私も命の恩人。つまりお互いイーブン」

「んンンンン、それを言われると返す言葉がないね……!!」

 腕を組んだまま仰け反った先生が負けを認めた。吐息を零し、改めて姿勢を正すと彼女は真っ直ぐにこちらを見据え、

「それで、許せないこととは? もう一人の私を討ったことかね?」

「“先生”を討ったのは先生じゃない」

 即答に、先生が意外そうに眉を上げた。だがシロコは構わず、その根拠を口にする。

「プラナから聞いた。私を送り出した後も、先生は“先生”と一緒に地上へ戻る為に手を打ち続けてた、って」

 当時プラナのシッテムの箱はダウンしていた為、こちらのプラナからの伝聞という又聞きだ。先生は動けぬ“先生”に肩を貸し引きずって、自爆まで猶予のない箱舟の中を進み続けていたらしい。

 もはや数秒と保たぬ命であろうに、捨て置かず、キヴォトスで手厚く弔うべきだと。

 最終的に“先生”は爆発から先生を逃がすべく突き飛ばし、その願いは叶わなかったのだが、

 ……後悔は、ないんだね。

 墓標代わりに“先生”の大人のカードを手向けたのは、その清算だろうか。

 ともあれプラナの言が事実ならば、“先生”を終わらせたのは“先生”自身だ。外部要因ではなく、己の意思で己の命を使い切った。それを尊重こそすれど、

「先生を恨むのは筋違い。そんなことをしても後悔は晴れないし、先生はずっと私のことを支えてくれた。だから“先生”が去ってしまったことは残念だけど、それを今後も引きずるつもりはない」

 ならばシロコが何に怒っているのかと言えば、

「私を助けたこと」

 言うと、先生が身体ごと首を傾けた。床と並行になった彼女は小さく手を上げて、

「助けられた礼を言っておいてそれは、矛盾していないかね?」

「矛盾してない」

 だがちょっと言い方が悪かった気もする。反省。なので正確に言うのであれば、

「自分が助かる為の手段を私に使って、自分は箱舟に残ったこと」

 告げた言葉に、先生の表情がほんの僅かに強張った。言われてみれば、という程度の些細な変化だが、ずっと彼女の傍にいた己を相手に誤魔化しきれると思っているのなら甘い。だって、

「“先生”がいなくなったのをきっかけに、私の世界は傾き始めた。それを聞いたのなら尚更、先生は無事に帰らなきゃいけなかった。例え私が生徒だとしても、この世界にとって外様なのは私の方だから」

「……馬鹿者」

 一喝というには、優し過ぎる声と共に額を小突かれた。いつの間にか立ち上がっていた先生が、こちらの頭に手を置いて、

「己に絶望し、失意の底に沈んだ生徒を置き去りにしろと? 未来からの教訓を元に、自分だけは上手くやって行こうと? 泣いている子供に背を向けて、他の子供達の前で先生を張れと?」

 一息。

「──そんな手段で勝ち得た未来など要らぬよ。私は目的の為なら如何なる手段も是とするが、それは己に対する誇りあってこそ。砂狼君を犠牲に生き延びたとして、その私はもはや先生でも、ましてや悪役ですらないただの悪だ」

 ああ、とシロコは思う。やっぱり先生ならそうするよね、と。

 心配を掛けたことを謝罪はしても、また同じ状況に直面したら彼女は同じ選択をする。

 その結果己の命が脅かされ、周囲の生徒達が心を痛めると分かっていても。

 先生である誇りを捨てることは、彼女にとって死に等しいから。

「……例え同じ哀しみを、自分の生徒達に押し付けても?」

「生徒達を哀しませるのは本意ではないが、悪役だからね」

 それに、

「助からなくても仕方ないとは思っていたが、助からないつもりはなかったよ?」

 何故なら、と先生は肩を竦めた。

「助かる見込みが一切なかったのなら、砂狼君を送り出す際にシッテムの箱を預けていたからね」

 ぶん殴ってやろうかと、一瞬本気でそう思った。

「……砂狼君、この数分で目力が増していないかね?」

「その原因にだけは言われたくない」

 プラナが制御下に置いていたアトラ・ハシースの箱舟、その本質は物質変換とでも言うべき代物だ。その力を使い箱舟の一部をパージ、或いは脱出艇への加工が成れば、生還も可能だろうというのが当時の先生の策だったらしい。その制御にシッテムの箱が必要だから手元に残していただけで、仮に箱舟が別の由来だったら間違いなく彼女はシロコにシッテムの箱を押し付けていただろう。今更ながらに当時の綱渡りっぷりを自覚し、背筋に冷たいものが走るが、

「だったら先生が先に脱出して、私の生還をサポートする方が良かった。先生と違って頑丈だし」

「当時の君の精神状態が今と大差なければ、それもアリだったかもしれないね。──確実に生還させられる保証がない以上どう足掻いても脱出シーケンスは君に使っただろうが」

 ビシビシと手刀を入れるが、先生はどこ吹く風で笑っている。その笑みに明らかに嬉の感情が滲み出ているのは、シロコの感情が届いているが故だ。

 例えそれが平行線で、互いに譲ることの出来ないものであったとしても。

 それを裏付けするように、手刀を収めたこちらの頭を先生が撫でた。穏やかな、目を細めただけの笑みと共に、 

「すまないね。砂狼君の気持ちはありがたいが、こればかりは応えられそうにない」

「言って聞くような人じゃないのは知ってる」

 だけど、

「言わないと、当然のことになっちゃうから」

 普段のキチガイムーブとは違う。「はいはいいつもの」と流していれば、取り返しのつかないことになってしまうのだ。いや、まあ、キチガイムーブも慣れてない面々にとっては、迷惑度合いで言うとかなり良い勝負かもしれないが、

「本当は良くないことなんだ、って。貴女を心配し、気に掛けている人がいるんだ、って。それを先生が忘れないでいてくれるなら、私は例え無駄でも、何度だってお説教する」

「……つまり砂狼君の説教が、ホイホイ死地に飛び込む私にとっての蜘蛛の糸という訳か」

「ん、ホシノ先輩を助けた時みたいに、皆で頑張って手繰り寄せる」

 そうか、と先生が零した。やがて、シロコと同じ色の瞳が真っ直ぐにこちらを見て、

「私とて死にたがりではない。無意味に危険の多い方を選ぶことだけはしないとも。それだけは信じてくれたまえ」

「ん、知ってる」

 先生がそんな手段を取るのは、本当にどうしようもない時だけだ。

 だが自分達がいれば、どうしようもない状況も少なくなるだろう。

 共に行き、生きて行くと、つまりはそういうことだ。

 シロコの望み通りとは行かなかったかもしれない。

 だが違う人間なのだから、重ならない部分があるのは当然のこと。

 お互いの譲れぬ部分は尊重し、共有出来る部分は一緒に背負って行けば良い。

 そういうものだというのは、自称部員の皆を見ていればよく分かる。

 己にとって大事なことは決して曲げない。そんな風に育ったのは、先陣を突っ切る馬鹿な大人から学んだからこそ。それに、

「──本番はここからだから」

「……今、何か、聞き捨てならない発言をしなかったかね砂狼君」

 警戒されたようだがもう遅い。先生の背後、扉を開けて入室して来る姿があるのだ。黒のセーラー服にコートを羽織った、長い白髪の持ち主は、

「シロコ、こちらの準備は完了しました」

 小さな足音と共に、こちらに歩み寄って来るのは、プラナだ。

 先生の協力者から提供されたというボディに己をインストールした、外界活動用の生体式人型端末。先生同様見た目相応の膂力しか持たないものの、どう見ても人間そのものにしか見えず、

「二対一です、お覚悟を」

「使いどころがないと言っておいてソッコで持ち出して来るプラナ君が見事過ぎるが、……さてはグルか!?」

 二人揃って頷いた。己の頭に乗せられたままだった手をガッチリとホールドし、プラナも先生のジャケットの裾を掴むのを見ながらシロコは言う。

「お説教が効かないのは分かってた。だから代わりに、先生の時間を大分もらう」

「……具体的にはどのように?」

「先生はシャワーこそ日に二回以上浴びていますが、最後にお風呂に入ったのは一ヶ月以上前です。たまには広い浴槽でくつろいで、リフレッシュすることも必要かと」

「……それだけの時間があればどれだけ仕事が進むと思う?」

「加圧空間内で済ませれば現実においては一秒未満ですね」

 AI故の論理的な反論に先生が天を仰いだ。如何に屁理屈魔王の先生でも、理が向こうにある以上強く言うことは出来まい。自身を気遣っての進言なのだから尚更だ。というかサポート役としてシッテムの箱に常駐している分、先生のやり口はとっくに学習済みだろう。

 そして、ダメ押しとばかりにプラナが首を傾げた。

「新しい身体に慣れるには日常的な動作を積極的に経験した方が良い、と天童ケイさんにも言っていたはずですが」

「今日はことごとく過去の発言がブーメランで返って来る日だね……!! 全くどうしたものかこの始末!!」

「ん、大人しくお風呂に連行されるべき」

「今日の私は先生の秘書補佐モード改め下克上モードです。抵抗はオススメしません」

 シロコが先生の手を引き、プラナは後ろから背中を押す。前後を挟まれ逃げ道のない先生は、身を捩りつつも階下へ連行され、

「ああっと流されている!! 流されているね今私は!! さながら川面を行く木の葉のように……!!」

 現状自分達の思惑通りに事が進んでいるはずなのに、イニシアチブを握れた気が全くしないのは何故だろうか。

 

     ●

 

 そんな訳で風呂である。

 同性故隠す必要もないのだが、一部が暴走しかねないことと、身体を晒すことに抵抗のある面々の心情も慮り、シャーレの風呂は基本タオルか水着の着用をルールとしている。意外にもこの決まりを推進したのは、その辺り大らかそうな先生だったそうで、

「嫁入り前の女子がみだりに肌を見せてはならんよ。──私自身は別にフルオープンでも構わないのだが」

 本来の目的から逸れかねないのでプラナ共々全力で止めた。

 プラナの水着がなかったことから、倣う形で全員タオルを巻いた姿だ。三人共髪が長い為、各々それぞれの形で纏めている。シロコはポニーテール、プラナはシニヨン、そして先生はと言うと、

「……まさか教え子に髪を洗われる大人になるとは」

 十人単位が入れそうな大浴場、湯気に満ちた白の空間に、先生の声がやや反響して響いた。

 風呂椅子に座り、目を閉じた先生の長髪は、言葉の通りシロコとプラナによって洗われている。

 シロコは先生の正面で膝立ちになり頭を担当し、背後のプラナは正座で毛先側を担当。よくよく考えると先生に撫でてもらったり梳いてもらったりという機会はそこそこあったが、逆の立場になったのは多分初。新鮮さと貴重さと、眼下に見える二つの果実が織り成す谷間に内心鼓動を乱れさせつつも、シロコは丁寧に髪を洗って行く。シチュエーションこそ普段とは違うが、交わされる会話はいつもの調子で、

「シャンプーハット、買って来れば良かったね」

「何故かね?」

「今まさに先生の目の前に絶景が広がってるから」

「……ああ、成程。私が先生ではなく、かつ男であったならばその場で押し倒しかねない魅力的な光景だろうね」

 先生から見てもシロコのプロポーションには魅力があると暗に言われて、嬉しいやら照れ臭いやら。風呂場の熱気とは別の理由で頬を染めつつ、一つだけ気になった点は訂正しておく。

「女でも押し倒して良いよ?」

「それは先生のすることではないよ。そして先生でなければ砂狼君と出会うこともなかった。ならば私は先生でありたいね、二重の意味で」

 思わぬカウンターに胸を撃ち抜かれ、その場で倒れ伏しそうになったのを懸命に堪えた。

「……シロコ、手が止まっています」

「……ん、ときめくあまり時間が止まってた」

 深呼吸と共に平常心を取り戻し、手の動きを再開。が、入れ替わるように手を止めたプラナが、己の胸元に両の手で触れ、

「先生は、大きい方が好みなのでしょうか」

「私は見た目より中身派だよ。胸の大きさで人格が決まる訳ではあるまい。後天的な影響は受けるが」

「……と、言いますと?」

「師の一人が背も胸もあまり大きくならなかったタチでね。以前似たような話題になった時、こう言っていたことがある」

 理解出来ない、とばかりに嘆息を零し、

「デカくて得しないのは百歩譲って良いとしても、小さいとプライド的に損することは確実にある、と」

「……哲学的ですね」

「持つ者に持たざる者の気持ちは生涯分からないのかもしれないね……。胸に限った話ではなく」

「……深いね」

 うーん、と三人揃って十秒程考え込んだが、答えが出ないのでやめた。プラナも安心したのか諦めたのか、膝に乗せた風呂桶の中で泳がせている先生の毛先を梳くように洗っている。なのでシロコも意識を戻し、側頭部辺りから頭皮を揉み解しつつ、

「力加減、大丈夫?」

「良好だよ砂狼君。意外と言っては失礼かもしれないが、上手いものだね」

「ん、アビドスに来たばかりの頃に、ホシノ先輩やノノミがこうしてくれたから」

 ホシノと派手にやり合って、負かされて。行き場のないことからマフラーを与えられ、アビドスの一員として迎えられた。その件は先生や対策委員会の後輩にも聞かせたらしいが、当然他にも色々な出来事があった。三人で風呂に入ったのもその一つで、

「ノノミは当然として、意外とホシノ先輩も上手だった。髪が長いと色々面倒でねえ、って笑いながら」

 当時は二人にされるがままだったが、する側になってみると結構楽しい。そんな思いから表情を緩めると、先生も笑っていた。だがそれは懐古ではなく、微笑ましさと苦笑いの中間のような笑みで、

「……それでも切ろうとしなかった辺り、小鳥遊君らしい話だね」

「……そういえば以前、先生も髪を切ろうか話題にして、生徒の皆さんから満場一致でストップを掛けられていましたが、キヴォトスに来る前も長いままだったのですか?」

「ああ、どうも妹の中では私イコール髪の長いカッコイイ女、という認識だったようでね。当時の外見を崩さない程度の調整しか入れていなかった。今ではもう見た目どうこうではなく心根の問題だと思っているのだが、バッサリ切る機会もなかったのでそのままという山もオチもない話だよ」

「……先生、自分自身についてはとことん雑ですからね」

「何かねプラナ君、その視線を背けながら零していそうな台詞は」

「ん、大正解。実は先生、見えてる?」

「伊達に濃い付き合いはしていないよ。おおよそのリアクションは想像出来るとも」

「じゃあ、私、今どんな表情してると思う?」

「私の顔を見ようとして先程のやり取りを引きずって照れてしまい俯いたら私のオパイが視界に入って迷った末に浅く上を見ているのではないだろうか」

「大正解です、先生」

「……ん、やっぱり先生に勝てる気はしない」

「負けたから今ここでこうしてされるがままになっているのだがね?」

 泡の音、水の音、反響する三人の声。過去と今を重ねる訳ではないが、どうしたって感情は動く。

 かつて大事な人達と過ごした時間を、今また大事な人達と過ごしている。

 そんなありふれた、しかし奇跡に等しい幸いが嬉しくて。

 だが、そんな時間にも終わりは来る。ネガティブな意味ではなく、単純に工程が終わったのだ。

 叶うことならばもっと続けていたかったが、あまり先生を拘束する訳にも行かない。

 少なくとも今はまだ、自分だけの先生ではないのだから。

 名残惜しさを抱えつつも、手を放そうとした刹那。表情を緩めた先生が、頬杖を突いていた手を下ろし、

「こうして他者に洗ってもらうなど、物心付いて以降一度もなかったものだが──」

 一息。

「なかなか、悪くないものだね。心から信頼出来る相手に身を委ねるのがこうも心地好いとは、知らなかった」

 だから、

「シロコ君、プラナ君、──感謝である」

 予想出来ていた言葉を、予想出来ていなかった形で言われて、シロコの思考は完全に止まった。

「……先、生? 今、何て──」

「いや、姓がないのでプラナ君については他に呼びようがなくてね。とはいえ並べて礼を述べる以上、砂狼君だけ苗字呼びというのも難だろう? 執務室でのやり取りもあったし、私なりの謝意というやつだ」

 何でもないことのように言われるが、急に名前を呼ばれたこちらの内心は動揺しっぱなしだ。何しろ元の世界においても、名前で呼ばれたことなど一度もない。唯一該当するとすれば”先生”の遺言の中だが、それにしたってデータ上の紙面の話だ。大好きな人の声で、こんな至近で、しかもタオル一枚で隠しただけの状態で。気持ち早めだった鼓動は全力疾走から急停止を掛けたような激しさで、首下辺りからこれまでとは全く質の違う熱が上がって来て、ともすればこのまま目の前の相手を抱き締め、引き寄せ、頬を擦り付けてその存在を全身で感じたくなる欲求が込み上げて来て、

「ああ、こっちの砂狼君については既に一度名前で呼んでいるので、その辺りを引け目に思う必要はないよ?」

 思い出したように手を打ちつつ付け加えた先生の顔に、シロコは風呂桶に入った湯を全力でぶちまけた。

 万歳で吹っ飛んだ先生が水に濡れたタイル上を滑って行き、プラナが慌てて後を追う。

 後から思えば、こっちが衝動的にしでかさないようワンクッション入れてくれたのだろうが、もうちょっとやり方は考えて欲しかったとも思うシロコだった。

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