グラスアーカイブ   作:外神恭介

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……どうしてそう意地の悪い言い方ばかりするんですか

 キヴォトスにおける夏休みというものは、意外と個々人による格差がある。

 学業としては完全休業。しかし行政やインフラの類は年中無休であり、それらに携わる生徒は必然的に休みも減るのだ。生徒会や警備組織などの類は夏休みであっても、登校や業務を行う必要がある。学園としての規模が大きければ大きいほど、負担も倍増しになって行くのだが、

「……これ、人間がダメになるのでは」

 一学期の収支決済に判を押したところで、ナギサは薄々思っていたことを口にした。正面、このところで聞き慣れた声が、

「何か問題でもあった?」

「問題がないことが問題というか、……こんな快適な仕事場で楽していると反動が酷いことになりそうで」

 顔を上げながら答えた先には、先生のデスクで休み明けの警邏シフトを作っているヒナの姿があった。

 ここはティーパーティー居室ではなく、シャーレのオフィスだ。自分達同様無休で教職を務める先生の城であり、自称部員達の溜まり場。ナギサもこのところ業務の一部をシスターフッドや救護騎士団に回し始めたこともあり、時間が空いたら顔を出すようにしてはいるが、結局仕事してる辺り場所が変わっただけの気がしないでもない。

「でも、ここで仕事するのが一番効率的なんですよね……。セミナー居室と遜色ない設備ですし、ややこしい案件でも先生を通してスムーズに解決出来ますし」

「学園間の様々な調整も、公的に会議を開くよりこの場で会話した方が早いですからね」

 ヒナの対面で経理や記録の纏めを作っているユウカとノアの言う通り、シャーレの設備充実度はちょっと異常と言って良い。大量の多目的教室を始めとして、普通の学校にある特殊教室は網羅されており、トレーニングルームや屋内プール、果てはサウナ付き大浴場に宿泊用の施設まで。聞いた話では先生の稼ぎの大半がここに注ぎ込まれているそうだが、それも納得の環境だ。

 ナギサもミカに引きずられる形で幾度か泊まったことがあるが、正直ティーパーティー特権で得られている自室より居心地が良くて参った。生徒であれば自由に使用出来る公共の場なのはいいが、ちゃんと採算取れているのだろうかと心配にもなる。が、

「──とはいえ、労働は義務ではないよ諸君。立場がなければ極論食っちゃ寝してれば人間生きて行けるものだからね。熱心なのは良いがあまり打ち込み過ぎないように」

 当の本人はそんなことを宣いながら、盆に載せたカップを配膳している。つい先程腿上げ運動で退室という不規則言動をして以降姿が見えなかったが、どうやらこれの準備だったらしい。

 届く香りと湯気が上がっていないことから、中身はおそらくアイスコーヒー。言葉や一礼を交わしつつ、やがて先生はこちらの横へ。しかしナギサに差し出されるのは、湯気と共に異なる香りで鼻をくすぐる、

「……ナギサさん、夏も盛りなのに紅茶をホットですか」

「そういえば以前、ミカさんが話題にしていましたね。ナギサさんは「紅茶は温かいものに限る」と日々豪語している、と」

「べ、別にいいじゃないですかっ」

 思わず反論してしまうが、不意に聞こえた先生の笑いに慌てて振り向く。子供っぽいと思われただろうかと、そんな思いで見てみれば、

「空調の利いた部屋で温かいものをいただくのも、乙なものだよ早瀬君。冬に炬燵でアイスと似たようなものだ」

「……それはそれで頷くのに語弊があるような」

「個人の好み、ということで良いんじゃないかしら」

 それもそうか、ユウカが吐息。小さく会釈を送った先、ヒナは気にするなと手をひらひら振っているのでそうしておく。後で風紀委員会宛に茶葉でも送っておこう。

 一息入れて、ナギサは受け取ったカップを口に運ぶ。ダージリン。相変わらず淹れるのが上手い。普段の言動こそテキトーで無茶苦茶だが、こういった細やかなところまで手が行き届いているのは、人は見かけによらないということだろうか。聞けばホシノも第一印象は最悪だったそうだが、この大人はもう少しマトモさを取り繕うということを覚えた方が良いと思う。

 ……それはそれで病気か何かなのでは、と思えてしまうのが難ですが。

 内心遠い目になってみるが、それで現実が変わるなら苦労しない。無常なり現実。

 と、不意に椅子の動く音がした。ノアが座ったまま振り向いたようで、その視線は傍らの大人を見上げており、

「ところで、先生は何にしたんですか? いつものホットコーヒーを?」

「あ、それなら私達もホットの方が良かったですね。手間を取らせてすみません」

「気にする必要はないとも。私も桐藤君同様一品ものだからね」

 気楽に応じて、対面へと座った先生が盆に載せていた碗を掲げた。甘い香りを振り撒くそれは、

「──ホット汁粉だ」

「スイーツじゃないですか……!!」

 ユウカとツッコミがハモった。が、目の前の狂人は不思議そうに首を傾げ、

「頭を使うには糖分が必要で、飲み物を摂取したいところでもあった。この要件を満たすのにベストなチョイスだと思ったが、何か問題でも?」

「普通そこはココアとかですよね!? どうしていつもそう斜め上に行くんですか!!」

「意外性は日常を充実させるスパイスだよ。代わり映えのしない平和な毎日にちょっとした刺激を、こう、分かるね?」

「……代償に私達の心労が加速している件については、どうお考えで?」

「慣れたまえ。経験上何もかもかなぐり捨てて混ざった方が気が楽だよ」

 思わず横にぶっ倒れた。先生を挟んで反対側にいるユウカもデスクに突っ伏しており、あらあら、ノアが頭を撫でている。特段ツッコミもないヒナは完全に慣れていて、多分ホシノやシロコ辺りも似たような感じで流しそうだが、自分はまだマトモでいたい。手遅れの気がしないでもないが、そこは考えないでおく。

 箸で餅を摘まみつつ、狂人がこちらの仕上げた資料をチェックして行く。時たま何か書いた付箋を貼って戻して来るが、大方ミネやサクラコへの委託提案だろう。自分の手元で対応出来るならしがちなナギサにとって、「このくらいなら周りに任せても良い」という指針をもらえるのはありがたい。それを採用するかどうかは別の問題だが、思考が硬くならずに済む。

 ……先生が柔軟過ぎるだけだと思いたいですけどね……。

 嘆息交じりに身を起こす。傍ら、いつの間にか先生の隣にやって来ていたヒナがゲヘナ周辺の地図とカレンダーを差し出し、

「先生、クリスマスシーズンにおける人員配置の意見をもらいたいのだけど、こんな感じでどうかしら」

「……空崎君が非番の日がないように見受けられるのだが」

「風紀委員会の皆だって休んだり遊びに行く時間は必要よ。そんな中トップの私が抜ける訳には行かないし、穴埋めも難しいでしょう?」

「その皆から空崎君を除いては意味がないだろうに。……こことここ、ここの日中は非番にしたまえ。代理として便利屋と美食研を手配する」

「……出来るの?」

「前者は交渉次第だが、後者はほぼ問題なく行けるだろう。私が手ずから作ったケーキをホールで渡すと約束すれば二十四時間でも働くと思うよ、彼女達は」

「……ゲヘナ最大級の問題児集団が食べ物に釣られて警備活動なんて世も末ね」

「筋が通っていて分かりやすいからこそ信が置けるのだよ。……ああ、それとケーキはきちんと全員分用意するので桐藤君、早瀬君と生塩君も聞き耳立てて動きを止めなくて良い」

 先生の半目に赤面しつつ、ぎこちない動きで仕事を再開。そんな様を苦笑で見遣ったヒナが、やがて先生に視線を戻し、

「ありがとう」

「気にすることはない。……いや、自己管理は気にすべきだとは思うが」

「どの口が言ってるの」

 小さく笑ったヒナが、先生の肩を小突きつつデスクに戻る。先生もまた苦笑で応じ、スマホを操作しどこかへ連絡を取り始めた。恐らく先程話題に挙がった部活だろうが、そういえばあの二者はそれぞれ第三・第四特務でもあったか。しかしそこまで考えたナギサは、ふと手の動きを止め、

「今更ではありますが、……本当に良かったんでしょうか」

「おや、ケーキは苦手かね? ご希望ならクッキーでもマカロンでもタルトでもスコーンでも何でも行けるが」

「ケーキが良いです。……いえ、そうではなくてですね」

 思わず食い気味に答えてしまったが、問題はそっちじゃない。

「……私、ここにいて良いんでしょうか」

 三大学園の実権持ちという点で見れば、ナギサもこの場にいる面々に比肩する。

 だがよくよく考えてみれば、ヒナは総長連合のトップ。ユウカもノアも生徒会の会計と書記という、シャーレにおける役職持ちだ。色彩戦以降指揮系統の充実化を図り設立された枠組みに属する彼女達は、上下関係のないシャーレにおいて珍しく自称部員よりも明確に権限を上とする立ち位置となっている。

 対するナギサは単なる自称部員。それもミカやセイアに引きずられるような形で、という但し書きが付く。当初シャーレに来なかったのはエデン条約時のあれこれもあるが、トリニティの内政に奔走していて忙しかったからという面も大きい。現在は蟠りもなくなり、ミネやサクラコの補助もあり徐々に落ち着いて来ているものの、無理はさせられないからと役職は特段なし。

 派閥争いから弾き出されたが故自由に動けるミカや、逆に多忙だが味方が少ない為強制介入する大義名分を得るという面もあるヒナとは違う。ナギサ自身直接的な戦闘力は高くないし、指揮系もヒナやミヤコにサオリ、もう一人のシロコなどがいれば十分だろう。事務系の作業にしたってユウカやノアがおり、そもそも先生がその気になれば瞬く間に捌いてしまえるのはよく知っている。

 気遣いであって疎外ではない。ナギサもそう分かってはいる。だが、あくまで公務でこの場に来ている自分と、砕けたやり取りを交わせる程馴染んでいるヒナ達を見ると、ふと思ってしまうのだ。

 自分は、場違いな存在なのではないか、と。

 ……いけませんね。

 どうにも先生の前だと、簡単に弱音を吐いてしまうようになってしまった。

 普段はティーパーティーのホスト代行として、毅然とした振る舞いに徹することが出来る。セイアは無理が利かないし、ミカはアレな上に立ち位置も危ういしで、自分が矢面に立たなければと強く在ることが出来る。

 だが、あらゆる垣根を超えて様々な生徒が集うシャーレ。その代表であり生徒達をあらゆる面で凌ぐ大人である先生を前にすると、自分のそれが虚勢としか思えなくて。

 いつかの一件で、不覚にもそんな自分を見せてしまい。頼って良いのだと言われて、心の支えを得た気でいたが。

 結局はただ、甘えているだけなのではないか。弱くなってしまったのではないかと、そんな疑念が頭の片隅に、

「馬鹿者」

「あうっ」

 ドアをノックするように、握った手の甲で額を小突かれた。

 痛みはなかったが、驚きから思わず頭を押さえてしまう。そんなナギサに苦笑を零し、先生が背もたれに身を預け直した。

「そんなことはない、と言ったところで桐藤君は素直に受け止められないのだろうね。君は変なところで捻くれているようだし」

 捻くれ検定三十段くらいの大人に言われましても。

 そんな半目が通じたのか。頭を掻いた先生が、誤魔化すようにお汁粉を啜った。椀を置き、一息ついた上で、

「まあ、桐藤君の人格はさておき、先の問いはなかなか興味深いね。何故なら──」

 肩を竦め、両の手を上げた先生はこう言った。

「一生徒である君がここにいて良いのかどうか問うということは、空崎君達を始めとする他全ての生徒に対し、ここから出て行くかどうか問うのと同じことなのだから」

 えっ、と思わず声に出して、先程の発言と先生の言葉を振り返り考えて、慌てて両の手を振りつつ、

「わ、私、そんなつもりでは──」

「否とは言わせないよ? 学園は違えど君達は等しく生徒という同等の立場だ。その区分けにはティーパーティーもセミナーも風紀委員会も関係なく、ましてシャーレ役職持ちであることも作用しない」

 してやったり、と言わんばかりの笑みを浮かべた先生が席を立った。そのまま背後、書類から顔を上げこちらを見守っていた面々に対し、

「さてお三方。率直な意見を聞きたいのだが、ここから出て行く気はあるかね?」

 どこか楽しそうにも聞こえる先生の問いに、全員が首を横に振った。

「私は嫌よ。外、暑いし」

「そうね。まだまだやることが残ってるんだもの」

「これを全部ミレニアムまで持ち帰るだなんて、ゾッとしますね」

 無表情なヒナはともかく、苦笑で言われては返す言葉もない。何と応じたものか感情を持て余すナギサの横、先生が身を投げ出すように座り、

「だ、そうだよ桐藤君。彼女達は退出拒否、無論私もお断りだ。だから君も深く気にせず、テキトーに居座ると良い。メシも風呂もあることだし、泊まって行けば聖園君は大層喜ぶだろう」

 ああ、と口の端を吊り上げ、

「無論、静かなティーパーティー居室で独り寂しく黙々と書類仕事がしたいなら、それはそれで止めはしないよ?」

 言外に何を言わんとしているのかは馬鹿でも分かる。だがその遠回しな気遣いは、かつてナギサの為にトリニティを廃校にしようかと嘯いたあの夜のことを思い出させ、

「……どうしてそう意地の悪い言い方ばかりするんですか」

「性根の捻じ曲がった悪い大人だからね」

 笑って言うのだからどうしようもない。故にナギサは嘆息し、脱力した身を先生に預けた。

 こちらの思考が読める訳でもないだろうに、あの時と同じく髪を梳くようにして撫でられる。

 本当に、悪い大人。

 こちらを振り回して、からかって、戸惑ってばかりなのに不思議と嫌ではなくて。

 芯にある確かな気遣いが、こちらの抱えているものを的確に捉え、支えてくれて。

 ミカの惚気を聞かされる度に辟易としていたものだが、これでは彼女をどうこう言えない。

 奔放な振る舞いが増えたセイアとて、先生と深い部分で通じ合っているような節はあった。

 だからこそ自分だけが、周りに置いて行かれているように思ったこともあった。

 だが、決してそんなことはないのだと、髪に触れる温かさが証明している。

 あの二人程ハジけるのは性格的に無理があり過ぎるが、もっと気楽で良いのだろうと、そう思えた。

 ……そうですね。

 今後は遠慮なく、思い立ったらくらいの感覚でここに来よう。最低限の礼儀は忘れないようにしつつ、しかし自分の思う通りに振る舞おう。

 この場におけるナギサはホスト代行でも何でもない、皆と同じただの生徒なのだから。

 そうですね、と二度目の納得を心に置くと、色々と楽になった気がした。

 だからだろうか、ネガな思考が吹っ飛んだことも相俟って、一気に視野が開けた気がする。

 視界の端、ヒナ達は書類仕事に戻っているが、何となく雰囲気が違うように思えた。どこか既視感を覚えたのは、騒がしくない時のミカに似ているからだろう。

 心配はしないが気には掛けている。そんな砕けた、長年付き合いのある友人のような。先のやり取りがあったからか、或いは向こうは最初からそのつもりで、単にナギサが気付いていなかっただけか。

 どちらでもいい、と思える程度には、ナギサも気を遣わないようになっていて。

 改めて感謝を伝えようと、そう思い隣の大人へと視線を向け、そこでナギサは一つの事実に気が付いた。

 いつの間にか、自分が翼で先生の身を抱くようにしていたことに、だ。

 ……えっ。

 キヴォトス内でも獣耳や角と並んで有無の分かれる翼。当然身体の一部なので、自分の意思で動かすことが可能だ。飛べるかどうかは個人差もあるが、あったらあったで服だったり寝所だったり色々と気を遣うのでこれはこれで結構大変。ミカのような戦闘系ならショートダッシュや姿勢制御に活用しているものの、行政がメインのナギサは使い道など特になく、これまでもあまり意識したことはなかったのだが、

 ……こ、こんな形で使うことになるとは!!

 これはマズい。とてもマズい。何がマズいかと言えば完全に無意識だ。だからこそ本心というか本音を無自覚に突き付けられた感があって、「ああ、私、先生とこういうことしたいんですね……」と理解せざるを得ないというか。いやまあ、身近にいるのがスキンシップ過多なミカや意外とアグレッシブなセイアなので毒されたという線もあるが、それにしたって無意識はマズい。自ら望んで行動したならともかく、無自覚にやらかしたのならば今後も似たようなことが起こりかねない。先生と二人きりならまだセーフかもしれないが、誰かに見られたら終わる。

 というか問題は先生ですよ……!!

 どうしよう。引かれてないだろうか。恐る恐る横目に見上げてみれば、特段気にした風はない。セーフ。というか頭を撫でる動きに淀みない時点で気付きなさい私。誰ですかさっき視野が開けたとか言ったの。思っただけで言ってはいませんけど。

 しかし当然のように受け入れられるとこれはこれで不安というか、先生の方はどうとも思っていないのではないかという悪い疑念が急速に。いけません、落ち着きなさい桐藤ナギサ。悪い想像で自分を追い詰め雁字搦めになるのはもうやめようと誓ったでしょう。だからそう、これはどうとも思われていないのではなく、先生もこちらを信頼してくれているのだとプラスに考えて、だとしたら今後はどの程度のラインまでなら許されるのかとか色々考える必要は出来たものの、まずは目撃される前に翼を離しましょう。

 ……よし!!

 混乱は収まった。成すべきも明確だ。故に迷いなくナギサは面を上げ、改めて先生の方へ顔を向ける。

 その向こう側、肘掛けに頬杖をついてこちらを見ているセイアがいた。

 目と目が合う。

 彼女は、やあ、とでも言うように軽く手を上げて、しかし首を傾げると、

「どうしたんだい身動きを止めて。折角良い雰囲気なのだからそのまま行くところまで行ってしまいたまえよ」

 

     ●

 

 次の瞬間。

 セイアは、ナギサが悲鳴を上げつつ身を引こうとしてソファーの肘掛けに腰をぶつけバランスを崩し頭から床に落ち掛かったところを先生の軽く触れるような動きで縦に後方一回転しながら空中に跳ね上がり先生の膝へと尻から落下しつつ両腕で柔らかく抱き留められるのを見た。

 

     ●

 

「……今、何か、一瞬で凄く色々起こったような気がするんだけど」

「そうですねユウカちゃん、恐ろしく濃密な一瞬だった気がします」

 セミナー組の呆れが混じったコメントを、ナギサはどこか夢見心地で聞いていた。

 視界が縦に一回転というちょっと普通じゃない出来事に認識が追い付いていない、という面は多分にある。時たまシャーレでシロコやゲーム開発部の面々が回されているのは見たことがあるが、まさか自分が同じ目に遭う日が来るとは。だが今回に関して言えば救助の為なのでセーフ。ええ、先生は悪くありません。

 が、現状が問題だ。

 跳ね上げられ、落下して、受け止められた。今もナギサの身は緩い仰向けで、肩と膝裏に手を回されている感触がある。

 俗に言う、お姫様抱っこだった。

 ……ええ、と? え? ええ?

 助けられた礼を言うべきか、照れるべきか、戸惑うべきか、様々な選択肢が脳裏に浮かんでは頬から昇って来る熱で片っ端から焼却処分されて行っている。とりあえず事の発端であるセイアは後で超 るにしても、それは未来のことであって現状への対処は如何ともし難い。かつてミカも先生に抱き上げられ、アリウス自治区から脱出して来たそうだが、確かにこちらを抱く力は揺るぎなく、安堵のような落ち着きもあって。

 まるで本当に、自分が物語のお姫様か何かになったような。

 ……ミカさんの乙女脳が感染ってますよ私!!

「いやはや、日に日に歩法の腕前が上がって行くね。見事だよ百合園君」

「先生の体術に比べればまだまだ若輩の身だとも。というか後方一回転なのに手前側へ移動するとはどういう仕掛けだい一体」

「ははは、師がデタラメ空手の使い手だったのでこのくらいの理不尽は余裕だとも」

「不規則言動が物理法則にまで適用されるとは思わなかったよ」

 しかし当の本人は下手人と和やかに談笑中で、この感情をどこに持って行ったものか。下手にバーストしたらそれはそれで大惨事だとも思うが、かといってこのまま頭の中でグルグルやっているのも進展がないのでどうしようもない。あれ、詰んでませんかねこれ。どうすればいいんでしょうか私。こういう時こそ先生の助けを求めたいのに原因も先生なので始末が悪い。

「……ええと、ヒナ先輩。一応確認なんですけど」

 不意に、おずおずとした動きでユウカの手が上がった。視線を向けるヒナに、ユウカは手の平でセイアを指し示しつつ、

「知らない仲ではないとはいえ、音も気配もなく生徒に侵入されている訳ですが。警護や警備も担当する総長連合としてはあまりよろしくないのでは」

 至極最もな問いに、ヒナがセイアを見た。セイアはセイアでピースを返しているが、ヒナはそれを無視してユウカに振り向き、

「妙な気配は感じたけど敵意はなかったから。先生も反応してなかったし無視で良いと思って」

「……あ、気付いてて放置してたんですね。なら良いです」

 それで良いのか、とツッコミを入れたくなった自分はまだ正気を保っているのだろうか。

「ふむ、上手く全員の知覚から抜けられたと思っていたのだが、やはり一筋縄では行かないか」

「私はノアやユウカ程貴女との付き合いがないから、呼吸や拍子を読むにも限界があるでしょう」

「それもそうだが、そうなるとやはり見知った仲相手の手品くらいが関の山というところかな」

「戦闘系ではないのだからそのくらいで良いと思うけど。少なくとも一般生徒相手なら十分通用すると思うわ」

「ないよりマシな護身用、と思っておくよ。先生、また今度練習に付き合ってもらえないだろうか」

「無論である。弟子に超えられるのは師の本懐、存分に学んで行ってくれたまえ」

「……セイアさんもすっかり染まりましたね」

 しみじみ呟くノアに心底同意だった。

 現状を忘れすっかり見物人感覚で眺めていると、ふと先生がこちらを見た。抱き上げ直し、据わりを確保した上で青の瞳がナギサを見据え、

「遅くなったが、怪我はないかね?」

 そこでようやく、意識と現実が繋がった。

 抱えられたままとはいえ、位置関係としては先生の膝上に横座りで見詰め合っているのに等しい。普段が普段故忘れがちだが、先生は控えめに見ても美形だ。透き通るように白く長い髪も、切れ長の鋭い目も、きめ細かい肌も、全てが少し手を伸ばせば触れられるような至近。加えて密着状態である為、自分は愚かミカですら及ばぬ胸のボリュームや、引き締まっていながらも肉付きの良い太ももなどの感触がダイレクトに伝わって来て、

「あ……、ぅ……」

 思い出したように全身が熱を帯び、相手の顔を直視出来ず、俯く動きで頷きを返すことしか出来なかった。が、先生は小さく息を零すと、

「それは重畳」

 と、膝上にこちらを下ろした上で軽く頭を叩いた。礼を言うべきだと頭では分かっているが、口が上手く動かず、誤魔化すように腰前で指を絡ませることしか出来ず、視界の端でセイアが感心したように口元に弧を描いているのが腹立たしいやら照れ臭いやら。だが、そんな友人はゆっくり立ち上がるとテーブル上の書類を纏め、

「さて。驚かせてしまった分、ティーパーティーの残務はこちらで巻き取るとしようか。先生、空き部屋を借りたいのだが、構わないかい?」

「うむ、利用手続きさえ済ませてくれれば問題ないとも」

「感謝するよ。ではまた後程」

 と、踵を返したセイアが一瞬デスクの方を見た。間髪入れず、椅子が動き立ち上がる音が連続して、

「さーて、仕事仕事……。ちょっと資料庫で調べ物して来ないと」

「あ、私もヴェリタスに確認することが出来たので、通話の為に席を外しますね?」

「じゃあ私はシャーレの弾薬保管庫で在庫や補充のチェックして来るわ」

 白々しい言い訳と共に全員が部屋を出て行った。打合せした訳でもないだろうにどういう連帯感だ。擦れ違い様、ヒナがその手にドアノブへ引っ掛ける「現在外出中」のプラカードを持っているのが見えたが、どこまでお膳立てするつもりだ一体。

 ……でも私も逆の立場ならそうしますよねー……。

 案外自分もとっくに染まっていたのかもしれない、と内心頭を抱えつつ。手を振って見送っていた先生が、扉の閉まる音と共に悪戯気な笑顔で振り向き、

「おやおや、期せずして二人きりだね桐藤君。もはや人目を気にする必要もなくなった訳だが、これからどうするかね?」

 聞かれてみても、先生の膝上から下りようという気にもなれず、かといって居座るのも誘導されるようで癪だし、だが結局のところ本心に噓をつくことなど出来るはずもなく。

「……意地悪」

 そう小さく零し、寄り掛かることしか出来ないナギサだった。

 苦笑と共に肩を抱き寄せられ、身を縮こまらせながら翼を広げると、周りから身を隠す。

 これは果たしてナギサが先生に抱かれているのか、ナギサが翼で先生を抱いているのか。

 どちらとも言い切れないおかしな光景の中、ナギサがその温もりと心地好さから眠りに落ちるまで、先生はずっとこちらの頭を撫で続けていた。

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