ドンパチが日常茶飯事のキヴォトスで生きていれば、死を覚悟する場面というのはそれなりにある。
例えばアビドスを守る為カイザーに身売りし、対策委員会の皆と今後敵として会うことになると思った時とか。
空が赤く染まりキヴォトス全域での戦闘が生じ、最終的に宇宙近くまで行くことになった天上での戦いもある。
シェマタを巡っての騒動だってヒナとやり合った挙句もう一人のシロコまで出て来て、最後は皆で力を合わせ。
それこそユメを失った時など、どれだけ泣いて、叫んで、心を荒ませたかなど、ちょっとした黒歴史扱いだし。
だが、今直面しているそれはベクトルこそ違えど、それらと同等かそれ以上の脅威だった。
「あのー、シロコちゃん? そんなにくっ付かれるとさすがにおじさんも照れちゃうなあ、なんて……」
「ん、そんなこと言って逃げようとしてもそうはさせない」
「ん、私達の記録を見た以上ホシノ先輩も大人しく見せるべき」
ご丁寧にこちらの両腕を抱いた二人の狼が、ホシノを捕らえて離さないのだ。
シャーレオフィスビル内、休憩室。ひょんなことから先生と対策委員会の出会いを振り返ることになり、連邦生徒会に納めている活動記録を視聴し始めてはや三時間強。高かった日も既に傾き始めており、随分と長々居座っていたのだと自覚させられる。それ自体は別に構わないし、皆も各々楽しんでいるのだが、ホシノとしては気まずい時間帯に差し掛かっていた。
何しろシロコ、ノノミ、アヤネ、セリカと、全員の記録を確認し終えてしまった。もう一人のシロコとてスタートラインはこちらのシロコと変わりなく、つまり残るは自分だけ。
これまで全員茶化したり煽ったりして来たが、ここからはその矛先がホシノに向かうのだ。
更に、題材が悪い。
ホシノには皆の身やアビドスの未来を案じ、カイザーに身売りしたという前科がある。これから見るのはまさにそうなった経緯と、そこから救い出される一連の出来事だ。すっかり笑い話になったとはいえ、思い出語りではなく当時の記録を見ながらとなると色々と追及やツッコミも多いだろう。加えてこれらの記録には先生の見聞きし、知った範囲全てが詰まっている為、
……私と先生のやり取りも全部筒抜けになっちゃうんだよねえ……!!
つい先程まではそれをネタにシロコやノノミに呆れたり、アヤネやセリカをからかったものの、いざ自分がターゲットとなったら逃げ出したくなるのは当然だ。だからこそ両サイドからシロコに取り押さえられていて、リモコンを手にしたセリカとアヤネが、
「うっわ、改めて見るとチャプター数とんでもないわね……。えーっと、この辺だったっけ?」
「あ、違うよセリカちゃん、それは先生もビニール袋被って銀行強盗に参加しようとしたのを皆で止めた時のシーン。もっと先で──」
「あーアヤネちゃんストップストップ、先生がゲヘナやトリニティ、ミレニアムへ協力願いに行ったシーンは私達アビドスで準備中」
「ああそっか、その前にアビドス砂漠調べに行く辺りからが良さそうかな?」
いかん。この部屋敵しかいない。特に一年生組がやる気になり過ぎている。補充して来た飲み物を皆のカップに注いでいるノノミも、逃がしませんよと言わんばかりに満面の笑みをこちらに向けていて、私の命運もここまでか。
確かにホシノも、先生のことは好きだし、信頼している。ぶっちゃけユメ先輩に次ぐというか、瞬間的には上回りかねないくらいには重い感情を抱いている自覚はあるのだ。
だが内心で認めているそれを、表に出来るかどうかは別の話で。
シロコやノノミ辺りは完全に開き直っているが、自分はちょっとあの領域には辿り着けそうにない。かといってセリカのようにバレバレに取り繕うでもなく、純真ながらも時たま攻めるアヤネとも違う。
自然体で、並んでダラダラしているだけでも十分だと思うのだが、これは枯れているのだろうか。欲が薄いのだろうか。どちらだろうか。
「あ、やっぱりこっちにいた!!」
「……慌ただしいけど、何の騒ぎ?」
現実逃避に専念していると、不意に耳慣れた声が耳朶を打つ。全員で視線を向けた先、靴を脱いで休憩室に上がって来るのは、シャーレ総長連合ツートップであるヒナとミカ。ホシノにとっては親友とも言える同学年であり、概ねシャーレにおいては三人でダベっている。今日はそれぞれ風紀委員会とティーパーティーの方へ顔を出す予定だったはずだが、早めに片付いたので戻って来たというところか。
否、これはきっと天の助け。そうに違いない。
「た、助けてヒナちゃんミカちゃん!! さもないと、羞恥プレイがとめどなく……!!」
「何で五七調かな?」
身を捩りつつ声を上げるこちらに半目でツッコんだミカが、判断を仰ぐようにヒナを見る。彼女もまた眉をひそめ、両隣のシロコを一瞥し、セリカとアヤネが睨めっこしていたリモコンと画面を見て、
「どういう状況?」
当たり前過ぎる問いに、傍らのシロコが頷く。テーブル上に置かれていた、対策委員会編と書かれたファイルを手に取って掲げ、
「先生が保管してるアビドスの記録映像を見てた。ホシノ先輩を取り戻しにカイザーの基地へ乗り込む時の」
首を傾げているミカには親しいノノミが教えに入るが、逆にヒナは納得したように頷いた。多忙の身でありながら隙間を縫ってシャーレを手伝っている彼女は、資料や設備の類にも詳しく、
「あったわね。でも、どうして急に?」
「ん、皆が初めて先生と会った時の振り返りのつもりが、いつの間にか先生を信じたきっかけを語る会になった。これからホシノ先輩のパートだけど、一緒に見る?」
「見る」
即答であった。それもダブルで。
いそいそと黒と白の姿が座り、ノノミが追加分のカップを手渡す。真剣な表情で画面を見詰める二人に、足元が崩れ落ちるような感覚が来て、
「うわぁ──!! この期に及んで敵が増えたぁ──!!」
堪らず叫ぶホシノを無視して、セリカが満面の笑みで再生をスタートさせた。
○
ホシノは、荒れ狂う内心を必死で抑え込んでいた。
便利屋68やゲヘナ風紀委員会を交えた一悶着を終えた翌日。空崎ヒナから得た情報を元に、何やら妙な動きをしているカイザーPMCの動きを探るべく、対策委員会はアビドス砂漠に出て来た。その結果目の当たりにしたのは陣幕と言うには大規模過ぎる基地と、多数の兵を擁するカイザーの軍勢。見張りに見付かり、応戦し、戦闘が膠着し掛かったところで現れたのが、目の前のカイザー理事だ。
曰く、過去のアビドス生徒会が借金のカタに自治区の一部権限を譲渡しており、既にこの一帯はカイザーの私有地となっている。今日の事前調査までそんなことすら知らなかった自分達は反発もあって派手に暴れ、それなりの被害を与えた。結果だけ見れば不法侵入や器物損壊などなど罪状のオンパレードで、追い打ちを掛けるようにカイザー理事は借金の金利上昇と、預託金要求を決定した。
弱者である自分達は、理不尽であっても従うしかないのだと言わんばかりに。
当然皆は反抗した。だが何を言ったところで、権利を持っているのは向こうなのだ。金も、土地も、何もかもが相手の手の平の上。これ以上騒いだとしても、多勢に無勢で制圧されるのが関の山。
或いは、ホシノが本気装備であれば。この場の大半を叩き潰すことも出来たかもしれないが、今更言っても後の祭り。
ならば今自分に出来ることは、これ以上大事な後輩を危険に晒さないこと。
対策委員会のリーダーとして、アビドス生徒会最後の副会長として、皆を無事にアビドスへ帰すこと。
だから帰ろうと、皆を宥めた矢先にカイザー理事はこう言った。
「……ああ、思い出したよ。賢そうな君と一緒にいた、あの全くもって馬鹿な生徒会長のことを」
銃を突き付ける動きは反射的なものだった。
だが、守るべき後輩達の存在が、引き金に掛けた指を止めていた。
この場で争っても、意味はない。徒に被害を増やすだけ。そう言い聞かせ、銃を下ろし、血が上った頭をクールダウンさせ、無理をしていると自分でも分かる笑みを浮かべ、振り向いて、
「──私の出番か」
こちらを庇うように、先生が前に出た。
……え?
気が付けば、ホシノは一歩を下がっていた。
擦れ違い様、先生がこちらの肩を叩いていた。下がれと言うように、僅かな力を込めて。
自分達のような力があった訳じゃない。だが的確に、こちらの力の通り道を乱された。
姿勢を崩され、反射的に立て直したら下がる形になっていた。
柔術とか合気とか、そういった体術なのだろうか。
分かりはしないが、結果は一つ。先生が前に出た。それだけだ。
先生。
よく分からない変な大人、というのがホシノの率直な評価だ。
ファーストインプレッションは限りなく最悪で、不規則言動と奇行ばかり。
だが支援や実務は超が幾つ付いても足りない程に優秀で、戦闘の指揮も迅速かつ的確。
そして自分達の苦労を知った時、涙を零し頭を下げた。
これまで見て来た大人とは違う、あまりにも異質な女性。
キヴォトスの外から来たから、というだけではない、そんな違和の塊。
他の皆は紆余曲折の末彼女を信じると決めたようだが、ホシノは未だ保留している。
信じたい、と思い。
信じて良いのか、と自問し。
信じるべきではない、我を張って。
それでもここまで自分達を守り、導き、手伝って来た大人が、今度は一体何をするのか。
この状況でこちらに出来ることなど、ほとんどないに等しいだろうに。
これは期待なのだろうか。それとも不信なのだろうか。
だが、己の態度を決めかねるホシノの視線の先、手を上げた彼女は皆の前に立ち、
「失敬、少々口を挟ませてもらおう」
○
対策委員会のメンバーを背後に置き、密度高く半包囲の形で身動きを止めるPMCの兵達と、その手前側に護衛を伴って立つカイザー理事。
そんな位置関係の中、周囲の注視を受けたことを確認の上で、シャーレのネームストラップを掲げた先生が口火を切った。
「お初にお目に掛かる、カイザーPMC代表取締役殿。私は葵・硝子、連邦生徒会長が組織した超法規的権限を保持する連邦捜査部、シャーレの顧問を務めている者だ。馴染みのない名前だろうし呼び方は先生で結構。現在は彼女達の要請を受け、対策委員会暫定顧問として行動を共にしている。以後お見知り置きを、と言っておこうか」
袖に音立てて腕を振り下ろした先生に、カイザー理事が顔だけでなく身体を向けた。警戒するように先生を上から下まで眺め、ややあって腕を組むと、
「ほう、ご丁寧な挨拶痛み入る。少しは話の通じる者がいるようで何よりだ。……して、その先生が何用かな?」
「何、そう身構える必要はないよ。時間を取るようなことでもないのでね」
言って、先生が不意に一つの動きを作った。
腰から身を折り、上体を前へと下げたのだ。
謝罪だった。
「まずは非礼を詫びさせていただきたい。我々は先の指摘の通り、この近辺を調査に来ていてね。彼女達は若さ故に視野が狭く、加えて私もキヴォトスに不慣れなこともあり、この一帯が貴社の私有地であるということを知らなかったのだ。無知であれば全てが許されるとまでは言わないが、情状酌量の余地がない訳でもないということは、どうか心に留め置いていただけないだろうか」
丁寧な礼に、周囲の兵が戸惑うような動きを見せる。が、先に声を上げたのは直情的なセリカで、
「ちょ、ちょっと先生!? こんな奴らに頭を下げる必要なんて──」
「セリカちゃん、静かに」
鋭い声を飛ばすと、困惑しつつもセリカが従う。ノノミやアヤネも判断を仰ぐようにこちらを見るが、ホシノは首を横に振った。
先程までのやり取りで、こちらがナメられているのはよく分かった。
当然だ。何しろ十億近い借金を負った子供と、その貸付主である企業のトップである大人だ。そんな自分達では例え正論であっても、理不尽な論で叩き潰されるだけ。
だが、同じ大人であるならば。
それも見知らぬ、それでいて権限は持ち合わせている大人であるならば、向こうも警戒するだろう。
少なくとも、これまでよりはマシな話が出来るはずだ。
……私を止めたのは、それが理由かな。
変な大人であることは確かだが、この場における判断は正しい。今は従うべきだと、そう思ってホシノは再度視線を向けた。
ここから、どう話を持って行くのかと。
腰の低い先生の態度に、警戒を緩めたのか。カイザー理事は小さく笑みを零し、胸を張った。尊大に、先程までの自分達に対するように、
「成程。確かに小娘共では思慮が足りないのは自明の理か。だがそういった輩を躾けるのが、大人である君の役目だと思うが? 代わりに君が責任を取ると?」
「お望みであればそうしよう」
「先生!?」
アヤネの叫びに、身を起こした先生が軽く右手を振った。心配するなとでも言うように、手首のスナップで音を鳴らし、
「──ただし、君の意に沿うような責任の取り方かどうかは保証しかねるがね」
不意の風に白の長髪が踊り、垣間見えた先生の口元は、明らかな弧を描いていた。
「さて、改めて確認させてもらおう。我々の貴社私有地に対する不法侵入、及び戦闘による被害に対し、アビドス高等学校がカイザーローンに負っている借金へ三千パーセントの即時金利上昇と、一週間以内に三億円の預託金を要求。その二つが君の交渉カードとなる訳だね? そして我々にはそれを支払うだけの能力がないので、大人しくアビドス自治区を引き払え、と」
婉曲とかぼかすとかオブラートとか、一切を排した直球の確認。あまりに愚直な問い掛けに、カイザー理事が笑みで肩を揺らす。
「人聞きの悪い言い方は止してもらおう。我々は大事な顧客に選択肢を提示しただけだ。選ぶのは君達であって我々ではないのだからな。その責任を負うべきは選択した側であり我々ではない。そうだろう?」
「如何にも。だが代表取締役殿、君は一つ失念をしている」
一度言葉を切った先生が、ゆっくりと周囲を見渡す。各々の武器を手に、しかし事態の進行を固唾を飲んで見守る、対策委員会とカイザーPMCの面々を。
「金銭の支払いが出来なければ、戦闘行為による制圧で踏み倒すしかない。そう考えての提案だろう。銃社会のキヴォトスらしい、何ともシンプルで分かりやすい話だ。……だが私はもう一つ、君達が想定していなかった選択肢を提示出来るのだよ」
立てた指で、真っ直ぐにカイザー理事を指差し、
「舌先三寸で世界すら動かす。交渉においては常識だよ代表取締役殿。上に立つ者ならば覚えておくと良い」
告げられる台詞に、カイザー側が反射的に武器を構え直した。
だが、場の中心にいると言っていい大人は気にも留めず、指を鳴らしつつ腕を下ろす。わざとらしく首を傾け、
「では、一つ面白い話をしよう。先程我々はこの近辺を調査に来たと言ったが、君の言うところの思慮が足りない小娘共が、独力でそんな発想に至ると思うかね? これまでただただ利子を払うだけで精一杯だったのに?」
問いに、カイザー理事の動きが一瞬止まった。困惑と、意図を確かめるような警戒の入り混じった声で、
「君が入れ知恵した……、のではないのか?」
「注意力が足りんな。私もキヴォトスに不慣れだと、予め口にしたはずだが?」
先生の声音に、いきなり冷たいものが混じった。
氷を連想したのは、その瞳の色故だろうか。今はこちらに背を向けていて、その青を見ることは叶わない。
だが、己と同じ青い目の持ち主は、ただ静かに淡々と、
「この情報を我々に提供した者は、君達の動きを掴んでいた。そして情報の提供者はキヴォトス三大学園に名を連ねる、ゲヘナ学園の風紀委員長。ゲヘナ最強とも言われる空崎ヒナ君だ」
故に、
「労働に勤しもうとするアビドスの少女達に、私はこう言ったのだよ。──もしや石油か鉱石か、それ以上の価値を秘めた「お宝」が眠っているかもしれないぞ、と」
皮肉交じりに向けられた最後の一言に、今度こそカイザー理事が全ての動きを止めた。
傍ら、いつの間にか先生の後ろで集まっていた対策委員会の面々が、額を寄せ合いひそひそと、
「……そんなこと、言ってましたっけ?」
「ハッタリだと思う。宝探しの件、先生は事実だと判断したんだ」
「だとしても、よくもまああんな出任せをペラペラと……」
だが、効果は覿面だった。こちらをナメ切っていたカイザー理事は、確かにこう言ったのだ。
この地域に駐留している自分達の目的は、砂漠に埋まっている宝を探すことだと。
煙に巻く為のでっち上げ。そう考えるのが普通だ。だが付近のヘルメット団はカイザーPMCと雇用契約を結ぶ程度には親交があり、彼女達の反抗に備えているにしても人員や装備が大規模過ぎる。他の敵対勢力は自分達対策委員会だが、借金返済に奔走するこちらは既に追い詰まっているのだ。わざわざ武力制圧する意味がない。
だがその「お宝」とやらが巨大か、危険か、或いは広大な砂漠を底まで浚う為か。そうだとすれば辻褄が合うし、借金のカタに自分達が宝探しをするのも不自然ではない。なまじ自分から宝探しを言い出したカイザー理事は戯言だと突っぱねられず、宝探しの真偽も確かめられる。
……こんな論述をアドリブで……。
口が回り胡散臭い面もあった彼女が、こんな形で自分達を救うなど誰が想像したか。いや、まあ、これまでも無茶苦茶な策や指示で道を切り拓く場面はあったが、今回のコレはちょっと次元が違う。
何の用意もない状態で、カイザー側の見せた隙に刃を突き付けるところまで持って行ったのだ。
その証左か、明らかにカイザー理事が動揺した。一歩を踏み出し、背後に広がる砂漠を腕を振って示し、
「ここは我々の私有地だ!! 仮に何が手に入ったとて、貴様らに所有権はない!!」
「記憶力がないのかね? 無知で馬鹿な我々はここが私有地だとは知らなかったのだよ? 知らぬ情報を前提に行動を咎めるとは、よもや未来でも見えるのか貴様は」
対照的に冷めた先生の口調は、相手を的確に追い込んでいる。実際に自分達が何かを手にしていれば咎めようもあっただろうが、結局は不法侵入と交戦止まりだ。それ以上を言い出すのであれば、言い掛かりに等しい感情論だけとなり、
……そこまでやったら実質負け、か。
小娘と侮っていたからこそ、小娘らしい行動の理屈を打ち返すには感情論しかない。だがそれをしてしまえば最後、カイザー理事は己が馬鹿にした小娘と同列に落ちる。
プライドを足先で転がすような、挑発に等しい暴論だ。だが、それを振るう大人は大仰に肩を竦め、
「超法規的機関であるシャーレはあらゆる自治区に踏み入り、自由に交流を持つことが出来る。ならばアビドス自治区の権利を保有する貴様らの土地は、カイザー自治区とも言える訳だ。シャーレ顧問である私が、その庇護下にあるアビドスの生徒と共に踏み入ることに何ら問題はないと思うがね」
「我々は自治区の権利を保有する企業だ!! 企業私有地への立ち入り許可はその範疇に含まれていないはずだぞ!!」
「ああ、そうだろうとも」
あっさりと引き下がる。水を差されたカイザー理事は困惑し、だが先生は言い逃れを許さぬように指を突き付け、言った。
「──だが、自治区への立ち入り権限。即ちシャーレの保有する権限については、貴様も認めた訳だな?」
「────」
先生がシャーレとしての権限を持つのは事実だ。だが、ネームストラップを見せたところで、関係各所に問い合わせねば確実な裏を取ることは出来ない。それは即ち「先生がシャーレの権限として並べ立てた主張は虚偽である」と、そう言い逃れる余地があったということだ。
たった今カイザー理事が、言外に認めるまでは、だが。
屁理屈と言ってしまえばそれまで。だが屁理屈であろうと暴論であろうと、言葉の応酬は進んで行く。最初に先生が告げた「アビドス側は自治区の権利をカイザー側が保有していることを知らなかった」という主張でさえ、真相を知る自分達が訂正しなかったことで、この場においては事実として扱われているのだから。
……わざとらしく頭を下げたのも、私達がその辺りに言及しないようにする為……?
直情的なセリカのことだ、憤って口を挟んで来ることは予想出来ただろう。そこまで組み込んだ上での振る舞いだとしたら、
……無茶苦茶だ。
騙された方が悪い、とは大人が子供を騙す常套句だが、大の大人が同じ大人相手に通しに行くなどどういう理屈だ。
「では、シャーレの権限が事実であるという前提を元に話を続けよう。この場の情報を提供してくれたゲヘナは言うに及ばず、同じく三大学園のトリニティ、そしてミレニアムとも私は繋がりを持っていてね。それも生徒会や治安維持組織に所属する者と、だ。ありがたいことに彼女達も私のことを高く買ってくれているようだが──」
一息。
「仮にここの情報を流し徒党でも組んだとしたら、……さて、貴様ご自慢の兵士達はどれだけ耐えられるだろうね?」
不敵な笑みが透けて見えるような悪辣な一言に、カイザー理事が激昂した。
「脅迫するつもりか!?」
「おやおや、私はあくまで可能性の話をしているだけだよ? ゼロでない限りあらゆる事象は起こり得る。哲学的だね?」
自分達とじゃれ合う時のような口調で、しかし生徒には絶対に向けることのない冷たい声が、敵であるカイザー理事へと叩き付けられる。
「加えて言おうか。頭の堅い君には無償のサービスで懇切丁寧に説明するが、シャーレは連邦生徒会長が組織したものであり、同会長と同等の権限を保持している。このキヴォトス全てを治める権限を、だ。……まあ仮にこの場で私を暗殺し権限を手中に収めようとしたところで、ここに来ることはゲヘナに通達済み。いずれ真相は知れ渡り報復か、権限奪取を企図した第三者に狙われることになるだろうがね」
言い換えるならば、
「私はキヴォトスの経済、それを支える大金を好きに出来るということだ。少なくとも財務を預かる部署に直談判出来るだけの権利は確実にある。金ヅルは生かさず殺さず長く搾り取るものだろう? そんな私がバックに付いているアビドスを、この場で畳ませてしまって本当に良いのかね?」
セリカがハッとした顔で先生を見たが、シロコが後頭部に手刀を打ち込んで止めた。そうだね、その判断はナイスだよシロコちゃん。話が纏まるまで静かにしてようね。
……纏まるのかなあ。
もはやカイザーにとって先生は、迂闊に触れることの出来ない爆弾と化した。敵に回せば面倒極まりなく、しかし権益を持ち合わせている為消すには惜しく、奪おうにも一筋縄では行かない。アビドスを追い詰める為の嫌がらせが、ここまでの大事になるなど想像もしていなかっただろう。だが仮にも企業の人間であるのならば、商機を逃そうとは思わないはず。
だからと言うように、カイザー理事が深呼吸するように肩を落とした。明らかに警戒を滲ませた低い声が、
「……何が望みだ」
「話が通じるようで何よりだ。貴様とて徒に兵や備蓄を損耗したくはあるまい。とはいえ企業の長である面子もあろう。故に互いの落とし所としてはそうだね……、喧嘩両成敗という先人の言葉に則り、金利・預託ともに半額まで減少、という辺りだと思うが、どうかね?」
あまりにも無茶な提案に、カイザー理事のみならずPMCの面々や、対策委員会のメンバーでさえ絶句した。
「三文芝居で一億円五千万を譲れだと!?」
「芝居かどうか試してみるかね? 三大学園と全面戦争した際の被害と、それを招いた貴様への追及や賠償に比べれば安いものだと思うが? あくまでPMCや金融の長ではあっても、カイザーそのもののトップではないのだろう?」
ああ、と思い出したように先生は言う。
「聞けばミレニアムは最先端の技術が集う場で、ゲヘナは自由と混沌をモットーとする愉快な校風、トリニティは礼儀正しいお嬢様校だそうだね。発明品の実験、便乗の愉快犯、風紀の維持と、カイザーと一戦構える大義名分は十分だ。放っておけばアビドスのように自分達の自治区の権利も狙われるかもしれないのだから。単独であれば損耗を恐れ動けずとも、合同戦力ならば被害も少なく済む。きっと付近一帯が焦土と化す大戦争になるだろうね。──戦場は砂漠なのでアビドスに痛むところは何一つないが」
無茶苦茶過ぎる。だが事実居住区を遠く離れた砂漠である以上、仮に大戦争になってもアビドスに被害はほぼない。先生なら三大学園が相手であろうと動かすだけの交渉能力があるのは、ここまでのやり取りで十分理解出来ただろう。アビドスは他学園に借りを作ることになるが、カイザーを完全に排除出来るならメリットとしては大きい。
当自治区から退去した企業からの融資への返済義務はないとか、この大人ならそのくらいは平然と押し通すだろうから。
「さて、どうするかね? 承諾するのであればこの場で得た情報は私の胸の内に仕舞っておき、何者にも明かさないと約束しよう」
それとも、
「ただの嫌がらせの為に、地位と権力を手放すのが貴様のやり方か? 代表取締役殿」
言質を引き出し、言い逃れが出来ないようにした上で、逃げ場としての飴をちらつかせる。己の発言の全てが身を縛る鎖となって、もはやカイザー側に逃げ道はない。何しろ拒否すればアーマゲドンだ。普通そうはならないと思うが、全力で無視してる例外が目の前にいるのだからお手上げだろう。
幾ら目の前の相手が憎たらしくても、条件を飲むしかない。
「……良いだろう」
長い沈黙を経て、ようやく絞り出されたカイザー理事の声は、酷く疲れたものだった。同情する気は微塵もないが、相手が悪過ぎたとは思う。
……本当に、この人は……。
もはや変人や奇人という評価すら生温いのではないかと、そんなことを思いつつ見上げた先、ホシノは気付いた。
先生が未だに、カイザー理事から目を離していないことに、だ。
「……え?」
その視線が、獲物を狙う猛禽か肉食動物のように見えて。
思わず零してしまった声に、先生が視線だけでこちらを見る。
気付いたかね、とでも言いたげに笑っていた。
……ちょっと。
何か、とてつもなく嫌な予感を覚え、急ぎ口を開こうとしたが、先生の方が早かった。カイザーローンへ連絡を取ろうとしていた理事を制止し、何事かと向けられる視線に対し、
「まあ、何だね? よくよく考えると不法侵入と戦闘で被害を齎したこちらが悪いのだから、交渉を要求するのも図々しいと、そう深く反省したのだよ」
だから、と満面の笑みを浮かべた先生は、何でもないことのように言った。
「先程までの交渉、全部なかったことにしよう。うん」
「待てェ──!!」
○
カイザー理事のみならず、その場の全員からのツッコミに、先生は首を傾げた。そんな中真っ先に再起動したセリカが、先生の襟首を掴んで揺さぶり、
「ばばばばば馬鹿じゃないの!? 折角有利な条件引き出したのに何言ってんの先生!?」
「とは言っても物損を盾に法廷に呼ばれたらこちらが負けるのは自明ではないかね。ならば粛々と罰を受け入れ、資金の工面に奔走するのも一つの答えだと思うが」
「固唾を飲んで見守ってた今までの時間は何だったのよおおおおお!!」
「──待て!!」
割って入ったのはカイザー理事だった。ガクガク揺らされながら呑気に笑ってセリカの頭を撫で回していた先生に、大股で一歩を踏み出し指差すと、
「交渉を取り下げたら貴様らはどうなる!? 金利も預託金も変わらないのだぞ!?」
「どうも何も、汗水垂らして稼ぐ以外ないではないかね。納められた金を受け取るだけの貸付主である君の知ったところではない。三億円を超える富をもたらした代表取締役殿万歳、そういうことだ」
「ならばこの場の情報を三大学園に流すという話は──」
ああ、と先生が頷いた。
「それについてだが、借金返済とは別の私自身の反省の示しとして、この場の出来事は秘めておこう。これは無償のサービスであり、カイザー側に何かを要求するものではない。安心して宝探しに励んでくれたまえ」
手を前後に振りながら宣うこの大人を、少しでも信じようとした私が馬鹿だったと、ホシノは心底本気で思った。
何しろキチガイの宣言で、全ては振り出しに戻ってしまった。アビドスの金利上昇も預託金請求も、当初の予定通り適用される。それらを軽減する為に持ち出した交渉カードも、自分から放棄を宣言したのだ。
もはやアビドス側には何一つ、一切、交渉に用いることの出来るものはない。
だったら、抵抗するだけ無駄ではないか。
無駄に喧嘩を売るような真似をせず、大人しく引き下がっておけば良かったのだ。
そうすればまだ狂人だという印象も抱かれず、今後のやり取りにおいてもマトモな対応が、
……あ。
ホシノは気付いた。先生がカイザー理事に対し、最大の釣り針を仕掛けたことに、だ。
それを裏付けるように、カイザー理事が口を開く。放たれるのは至極当然の、しかし先生がずっと狙っていた、
「──信用出来るか!!」
○
ホシノは、背筋に寒気が走る己を自覚した。
これまで幾度も死線を潜って来た己をして、初めて覚えるタイプの恐れだった。
先生がここに至るまで、密かに進めていた手筈に気付いたからだ。
丁寧な対応、尊大な交渉、無茶苦茶な脅迫。それらを段階踏んで進めることで、先生は罠を仕掛けていた。
アビドス側ではなくカイザー側に、交渉カードを掴ませていたのだ。
……先生への不信という、絶対に手放すことの出来ない交渉カード!!
先生は「先生」だ。これまでの色々を見て来て、ホシノもそのくらいは悟っている。故に自分自身が信じられるかどうかは別として、他の皆が先生を信頼する分には止めなかった。そうするに足るだけのものを見たのだろうし、事実セリカ救出時の一幕で見直しもしたのだ。
だが、それはあくまで生徒の視点。
初めてこの場で彼女と対面した、カイザー理事の視点で考えるとどうなるか。
屁理屈と暴論を振り翳し、複数の学園を巻き込んだ大戦争をブチ上げるような、得体の知れない大人でしかない。
例え彼女の本質が、生徒を守る先生であっても、向こうはそれを知りようがないのだ。
交渉とは、相互の信頼と保証があって成り立つもの。
契約も同じことだ。
ならば絶対に信用出来ない相手が、無条件で交渉を取り下げ、完全なベタ降りをしたとしたら?
先のカイザー理事の言葉が、それを証明している。
「何とも疑り深いことだね。心に余裕がないと見受けるが、人間疑心暗鬼を拗らせたら終わりだよ? 拗らせなくてもいずれ終わるが」
セリカに対抗するように突き出されたシロコの頭を撫でつつ、先生が呆れたように言う。挑発百パーセントの物言いだが、今のカイザー理事にとってそんなことは問題にすらならない。好きに言うが勝ちというものだ。
信頼と不信は表裏一体。積み重ねられたそれは、そう簡単に覆らない。
ホシノが簡単に大人を信じられないのと同じように、カイザー理事は先生を信じられない。
今更何を口にしたところで、カイザー理事にとって先生は「頭のおかしい危険人物」でしかないのだから。
そんな相手との交渉をなしにして放り出せば、それこそ何をしでかすか分からない。
この場の情報を流さないという口約束だって、守られるとは限らないのだ。
それが意味することは即ち、
……いつ起きるかも分からない大戦争に対する警戒と疲弊を、今後ずっと抱え込むことになる……!!
兵や武装にも疲弊があり、弾薬や物資とて無限ではない。カイザーの規模ならばローテーションを組み常時臨戦態勢を保つことは可能だろうが、その代償に莫大な予算の消費を強いられる。アビドスの払えるかどうかも分からない借金など、何の担保にもなりはしない。
大損確定。代表取締役殿リコール。そういうことだ。
「ではそういうことで、我々は引き上げるとしよう。どうもお騒がせしましたまた来週、とでも言っておこうか」
「──待て!!」
こちらに振り向きノノミやアヤネの肩を押す先生の背中に、カイザー理事の鋭い声が飛んだ。緩慢に、見るからに面倒くさそうな動きで、猫背の先生が振り向き虫でも払うように手を振って、
「何の用だね代表取締役殿。交渉は終了だ。我々はこのまま徒労を嘆きつつ重い足取りで帰宅し、明日からの金策を考えるという予定がギッシリ詰まっているのだが」
言っている間にも、こちらの背中を叩いた先生は歩みを進める。どう見ても帰る気満々。あれだけ場を引っ掻き回しておきながら、烏が鳴くからとか言い出しそうなレベルの雑なムーブ。多少は慣れのある自分達と違い、カイザー側からすれば不気味なことこの上あるまい。
このまま帰し、何事も起きず関わりを持たなければ最良。
だがそう上手く行くなどと、根拠もなく信じられるはずがなく。
ならばどうするか。その答えは簡単だ。
信頼という目に見えないものが当てに出来ないなら、
「待てと言っている、そちらにも利のある話だ。──譲歩しよう」
目に見える金や利権で縛り付けるしかない。
カイザー理事の宣言に、先生は首を傾げた。わざとらしく、芝居掛かった動きでゆっくりと。
「はて、一体どういう風の吹き回しかね? 折角の儲けのチャンスを放棄するなど、利益を追求する企業らしからぬ姿勢では?」
「お客様の身になって考えるのも企業の務めだとも。そちらに一方的に非がある訳でもないのだし、長く良い関係を築く方がお互いの為だろう? 故にそうだな、先程私が口にした金利上昇と預託金要求をそちらの要求通り半額──、否、三分の一まで減らすとしよう」
大幅な譲歩に、対策委員会の面々は動きを止めた。先生の陰で再度額を寄せ合い、不審そうにセリカがひそひそと、
「何で向こうは下手に出てるの? それも半額どころか三分の一まで引き下げて」
「セリカちゃん、さっき先生は半額で纏まり掛けた取引を放棄したんだよ? 同じ条件を持ち出しても──」
「話に乗るとは思えない。なら更に譲歩を重ねて、先生が応じるようにするしかない、ということですね」
それでもアビドス側からすればかなりの負担だが、当初の想定より被害はかなり少なくなった。言葉だけでここまでの条件を引き出すなど、交渉の開始時には夢にも思っていなかったものだが、
……これ、向こうは内心怒り狂ってるだろうなあ。
少なくともこれだけの条件を持ち出せば、先生が約束を守らず他学園に話を持って行った場合、向こうは一方的にこちらを糾弾出来る。悪人相手とはいえ「先生は取引を平然と反故にする」とでも流布されれば、今後のシャーレの活動に支障が出るのは確実だ。
保険を掛けるという意味では正解だが、交渉としてはカイザー側の全負けに等しい。
貸付主として、立場の違いを分からせこちらの意思を挫くつもりだっただろう。だが実際には口先一つで交渉条件を半分以上取り下げられたのだから、目的を果たしたとは到底言い難い。一億円の追加予算と千パーセントの金利上昇と考えればプラスではあるが、腸が煮えくり返る思いであろうことは容易に想像がつく。
対する先生はどう出るのか。そう思い横目に見た先で、彼女は腕を組んでいた。右手を口元に当て、考え込むような間を作った大人は、
「何とも寛大な心遣いだが、それでは貴社に更なる損害を齎すことになるのではないかね? 貸付主に負担を掛けるのは心苦しいし、本意ではないのだが」
「謙虚な姿勢は見事だと言わせてもらおう。だが先生であるならば、生徒の負担を少なくするのも役目の一つだろう? 全てご破算にして、本気で一週間以内に三億円を稼ぐつもりかな?」
カイザー理事の声のトーンが低いのは、これ以上を望むなら結果がどうなろうともこの場で実力行使に出る、という言外の脅迫だろう。それが通じているのかいないのか、先生の態度は今までと何ら変わらない。やがて、組んだ腕を解いた彼女は会釈を送り、
「ではありがたく厚意に与るとしよう。しかしさすがはカイザー内多数の企業を任された代表取締役殿だ。顧客の立場に立っての判断、まさに慧眼というものだね?」
「なに、企業の長として当然のことをしたまでに過ぎんよ。君こそなかなかの手腕だった」
ははは、と互いに笑みを交わす両者だが、間違いなくカイザー理事の笑みは引き攣っているのに、先生は素で笑っているのが凄いと思った。
「では今度こそ退散させてもらうとしよう、実に有意義な時間だった。先の話については書面のない口約束となってしまうが、適当な紙とペンで正式に契約を結んだ方が良いかね?」
「いやいや、そこまで手間を取らせるのも失礼だろう。そちらも移動や戦闘で疲れているだろうからね。帰ったらゆっくり休むと良い。さあ君達、お客人を丁重に送って差し上げろ」
「気遣いは無用だよ代表取締役殿。貴重な兵をそんな些事に割かせる訳には行くまい。こう見えて記憶力は良いのでね、道は覚えている故案内は不要だ」
一度言葉を切って、先生がこちらに頷いた。敷地外の方へ歩を進ませつつ、カイザー理事へと振り向き、最後に一言。
「ではまたいずれ、機会があればお会いしよう、代表取締役殿」
○
敷地から出て、言葉もなく十数分を歩き、基地も遠くに離れた頃。警戒の為岩陰に止めていたバギーにようやく辿り着こうかというところで、ホシノはふと一つのことに気付いた。
一同の最後尾を歩いていた、先生の足音が止まったのだ。
皆も気付いたらしく、足を止めて各々振り返る。ホシノも続いた先、注目を浴びた先生が小さく息を吐いた。彼女はそのまま腰を落とし、上体を下げ、額を地に着け、
「大変申し訳ない」
土下座であった。
自らを箱に収めるような見事な土下座。姿勢にも、服にも一切の乱れはなく、思わず見入ってしまいそうになる程スマートに整っていて、
「交渉を有利に運ぶ為とはいえ、君達のことを視野が狭いだの無知で愚かだのと評してしまった。先生としてあるまじき言であり、平身低頭全身全霊を込めて納得が行くまで謝罪を──」
「ま、待ってください先生!!」
慌てて割って入るアヤネに、先生が顔を上げた。が、彼我の座標によって生じる不可抗力に思い至ったのか、赤面したアヤネがスカートを押さえそそくさと下がり、先生もゆっくりと上体を起こす。
「どうしたのかね奥空君、今し方ローアングルから眩しい太ももをチラァしてしまった件も含め、叱責があれば甘んじて受け入れるが」
「 責も何も……」
困ったようにアヤネが視線を振るが、他の皆の表情も似たり寄ったりだ。が、先生は再び頭を下げ、
「本当は全て撤回させてやりたいところだったが、不法侵入や戦闘の被害は事実だ。話が纏まらず実力行使に出られれば、さすがに全員無事で離脱するのは不可能だろう。プライドの高い相手は追い込まれると何をしでかすか分からないし、だからこそ向こうからの提案という形で決着する道筋に乗せるしかなくてね。事前の用意があればもっと有利な条件も引き出せただろうが、……あの場ではあれが精一杯だった」
一息。
「備えを怠った私のミスだ。すまない」
「──謝らないでください!!」
駆け寄ったアヤネが膝を着き、先生の手を取った。何事かと上体を起こした先生に身を乗り出し、前のめりで懸命に、
「吹っ掛けられて、泣き寝入りするしかない状況で、それでも被害の大半をなかったことにしたんですよ!?」
「そうです!! たった五分程度のやり取りで一矢報いて、二億円以上の成果を挙げたんですから!!」
「……あれ!? 実質銀行強盗と同じ時間で倍稼いだってこと!? 大金星じゃない先生!!」
追従するノノミや、健闘を讃えるように背中を叩くセリカに、先生が呆気に取られた表情を浮かべる。これまで不規則言動はいくらでも見て来たが、思えばこんな顔を見るのは初めての気がした。
それ程皆の言葉が意外だったのか。
やがて、先生が小さく息を零した。隙を見せた己を誤魔化すように、日が傾いた西の空を見て、
「嫌われたり軽蔑されるくらいは覚悟の上だったのだが……、温かく受け入れられるというのはさすがに予想していなかったね」
「嫌ったりなんてしない」
夕焼けの赤を背負ったシロコが、先生の前で膝を屈める。真っ直ぐに、彼女と同じ青の瞳が力強い眼差しを向けて、
「先生は出来る限りのことをしてくれた。私達を守る為に、必死で頑張ってくれた。軽蔑なんてする訳がない」
だから、
「──ありがとう、先生」
愚直と言って良いストレートな感謝に、皆も頷く。その表情は一様に明るく、先の理不尽な負債追加など全く気にしていないように見えた。
これまではただ、法外な利息を必死に払うばかりで借金は減らず。
従うしかなかった理不尽に対し、真っ向から立ち向かってくれた。
それだけでも十分だというのに、実際に一部を撤回させてみせた。
それが、本当に嬉しかったのだろう。
「……参ったね」
大きく息を吐き、肩の力を抜いた先生が苦笑と共にそう零した。目を細め、眩しいものを見るように皆を見上げて、
「こうも正面から言われては、素直に受け取るしかないではないかね」
だが、
「おかげで私も自信が持てたよ。故に改めて宣言しよう。私に出来る限りのことで、君達を手伝うと」
言って、先生が三度頭を下げる。だがそれは先程までのように深いものではなく、どこか気安さも感じられるもので、
「──感謝である」
「ん、こっちの台詞」
微笑と共にシロコが伸ばした手を、先生が握り返す。引かれ、立ち上がる動きを見て、皆も同じように笑った。そして、ノノミが緩んだ場の空気を続行するように、
「それにしても先生、いつの間にゲヘナと連絡を取っていたんですか? そのおかげで助かりましたけど」
「取っていないよ?」
え? と全員が目を瞬かせた。だというのに狂人は、ん? と不思議そうに首を傾げ、
「ゲヘナ生の連絡先は火宮君と陸八魔君達のものしか知らないし、アビドスに来てからは他校の生徒と連絡を取っていないよ?」
平然と明かされた真相に、全員が黙り込んだ。話題を振った責任感故か、恐る恐る手を上げたノノミが窺うようにキチガイの顔を見て、
「……嘘だったん、です、か?」
「おやおや何を言っているのかね? 空崎君から情報を得たのは事実だ。そんな私がアビドス砂漠で行方不明となれば、聡い彼女は何が起きたか思い至るだろう。部下である火宮君からは私と面識のある早瀬君や羽川君、守月君に連絡が行くだろうし、加えてトリニティには阿慈谷君が情報を持ち帰っている。──ほら、どう転んでも代表取締役殿が三大学園の生徒を敵に回す結果は変わらないだろう?」
暴論の極みのような解説を笑ってする大人に、シロコ以外の全員が揃って溜息を零した。
「無茶苦茶なのは知ってたけど想像以上だったわ……」
「言葉は重いと、そう言ったはずだよ? これでも師匠に比べればまだまだ未熟も良いところだがね」
先程のアレ以上とか正直考えたくもないので、世界は広いという結論でホシノはそれ以上考えるのをやめた。
だが、一つだけはっきりさせておかねばならないことがある。故に一歩踏み出し、こちらに視線を向けて来る長身に問うた。
「口約束で済ませちゃったけど、本当に大丈夫? 三千パーセント金利引き上げの連絡はあの場でされてるんだし、しらばっくれられたらこっちには手の打ちようがないよ?」
「その場合は関係各所に全面戦争のお誘いを掛けつつ、こいつをキヴォトスのネットワークにバラ撒くだけのことだよ」
先生が左袖から手の中に落としたものをこちらに放った。緩い放物線を描いて飛んで来たそれをキャッチし、目の前に翳し確認する。
スティック型のボイスレコーダーだった。それも録音中であることを示す赤いランプが点灯したままの。
「……どこまで用意周到なの?」
「スマホという万能ツールが普及している分、こういった単一の用途しかない機器は盲点になりがちでね。敵陣に乗り込むのであれば備えはしておくものだよ小鳥遊君」
ここまで来ると感心より先に呆れが来るのはどうしたものか。ノノミ達も苦笑したり視線を背けたりとまちまちな反応で、一人だけ熱心に頷いているシロコがちょっと不安。こんな保険を用意しておいて備えを怠ったと言えるのが恐ろしいところだが、これでどうにか一方的に搾取されるだけの展開は避けられた訳で、
「……悪い大人に騙されないようにするには、このくらいやらないといけないのかな」
不意に零れ落ちた本音に、先生が振り向いた。彼女はこちらと、遥か彼方のカイザー基地を一瞥した上で、
「それも答えの一つではあるね。だが小鳥遊君、そして皆も勘違いしないでもらいたいのは、──アビドスを守る為に、君達が私のようになる必要は全くないということだ」
いいかね? と顔を上げたこちらを見て先生が言う。
「ブラックマーケットの銀行を襲った時、小鳥遊君はこう言ったね? これに慣れちゃうとこの先またピンチになった時、仕方ないよねとか言いながらやっちゃいけないことに手を出すと思う、と」
声は先生のままなのに抑揚や間の取り方からジェスチャーに至るまで完全に当時のホシノのトレースでシロコ以外皆引いた。そんなリアクションに愉快そうに笑った先生は、しかし表情を真剣なものにして、
「そういう意味ではとっくの昔に、私はダメになってしまっているのだよ。相手がどんな悪であれ、それ以上に悪辣な手で叩き潰すような人間に、君達はなるべきではない」
正しくないのだ、と。自嘲するようにそう零した。
「確かに私は頭が良く運動神経にも優れ容姿端麗、先程のように弁論において類稀な才覚を発揮し、何をやらせても人並み以上にこなす非の打ちどころのない人間だと自負しているが──」
「先生、事実だけど自画自賛が長い」
平然とツッコむシロコが大概だし、おっと失敬、と軽く受け流す先生も凄い。だがそんな大人は、肩を竦めて苦笑を零し、こう言った。
「人の、ましてや子供の見本になる者かと問われれば、答えは否でしかないのだよ」
そうだろう?
「先の応酬を見ていて分かったはずだ。根底に君達の保護という理由があったとしても、あのような振る舞いを選ぶ私は善ではない。今回の件とて、勝手に名前を出した各方面には後で謝罪しなければならないからね。反面教師という言い訳の極みのような言葉がなければ、私のような者が先生を務めることなど出来まいよ」
ああ、とホシノは今更ながらに納得した。先程皆が先生に好意的な反応を示した時、驚いていた理由はそれか、と。
己が嫌われ蔑まれるとしても、彼女は自分達の前に出た。悪を相手に、手段を選ばぬ悪として、徹底的に抗ってみせた。
やることなすこと無茶苦茶で、それでも彼女は結果を出した。金額の多寡などではなく、強要された理不尽という諦めを打ち破った。
自分が正しくないと分かっていても、間違った手段だとしても、それで自分達を守れるのなら、と。
「つまるところ、聖職者でも正義の味方でもなく、──どちらかと言えば悪役なのだよ、私は」
ならば矛盾を抱えた彼女の納得は、一体どこにあるのだろう。
●
「はああああ……、先生カッコいい……、惚れ直す……」
「あー……、ミカ先輩のお姫様回路が全開だわコレ……」
「当時直接見てましたけど、本当に背中が頼もしかったですね……」
「よくよく考えると、この交渉が先生の公的な悪役デビューでしょうか?」
「デビュー戦としては十分過ぎるねえ……。試合に負けて勝負に勝ったようなものだし」
「ん、無敵快進撃の始まり。これからも大活躍」
「……ところで、ミカと違ってヒナ先輩は平然としてるけど」
「そうね。あの人ならこのくらいやるだろうし、惚れ「直す」だけの揺り戻しなんてないから」
「……おおう」
○
対策委員会居室に戻って来て、日もとっくに沈んだ頃。時間がないことは承知の上で、今日のところは一度解散するという決定をホシノは下した。
砂漠地帯への往復や戦闘など色々あったし、明日から忙しくなる。その前に心身を休めるべきだという提案に、先生も同意した。ノノミ達はすぐに帰路へ就いたが、シロコと先生に声を掛けられ、
「納得の行く説明をしてもらいたい。事と次第によっては私も本気で叱らねばならんのでね」
と、シロコがいつの間にかホシノのバッグから抜き取っていた記入済みの退学届を手に告げられ、一番マズい二人に見付かったものだと思いつつ。明日全員に話すということで二人共不承不承ながら納得し、引き下がってはくれたが、
「先生、ちょっと時間もらえる?」
先生が自室代わりに使っている空き教室から彼女を連れ出し、夜の校舎を歩きながら、一連の経緯を語って聞かせた。
借金の半分と引き換えに、二年前からホシノを勧誘している黒服のことも。自身が抜けたらアビドスが保たない為、ずっと断り続けて来たことも。
退学届については、一時の気の迷いということにしておいた。
本当はいざという時の為にずっと前から用意していたものだが、そこまでを打ち明ける気にはなれなかった。
会ったばかりの自分達の境遇を聞いて、涙を流すような人だ。自分に責任がある訳でもないのに、頭を下げることまでして。
赤裸々に全てを話してしまえば、どんな手を使ってでもホシノを守ろうとすることは容易に想像がついた。だって、
「小鳥遊君」
話を聞いてくれた礼を告げ、踵を返した己を呼び止める声がした。振り向いた先、真剣な表情の大人が真っ直ぐな視線を向けていて、
「私がどうにかする。大人として、先生として、ありとあらゆる手を尽くし活路を拓く」
だから、
「自分自身を、諦めないで欲しい」
「────」
息を詰めたホシノの眼前、先生がこちらへ一歩を踏み出した。
「確かに君はアビドスの最上級生で、対策委員会のリーダーで、全体を思うが故に自身を押し殺さねばならないこともあるだろう。それはきっと今後もあるだろうし、結局は外野でしかない私にそれをどうこう言える権利はない」
だが、
「君はまだ子供なのだ。大人、法、社会、そういったものに守られていて良い立場だ。一人で全てを背負い込み、犠牲にならなければならない理由などどこにもない」
理不尽や不条理に直面し、抗うことが出来ないからと言って、
「何もかもを諦め、手放す必要はないのだ」
そんな訳がない、と。少し前までの自分なら切り捨てていただろう。
だがこの数日間、目の前の変な大人と行動を共にし、様々な出来事を経験して来たホシノは。
そうなのかもしれない、と。すんなりそう思うことが出来た。
口だけの大人なら、これまで嫌になる程見て来た。弱い立場である自分達から奪えるだけ奪ってやろうと、そんな欲深で汚いやり口を何度も目にした。
そんな信用の出来ない大人と、やっていること自体はさほど変わらないのに。自分達を守ろうと全面戦争まで宣言する馬鹿が目の前の大人だ。
全く。
諦めるななど、悪役の言うことじゃないだろうに。
自分より若く、背も低く、弱い子供に、そんな真剣な目を向けて。
「いやあ、まるで熱血教師みたいな台詞だねえ。先生のキャラに合わないし、言ってて照れ臭くなったりしないの?」
「元来こういう芸風なのでね。今から性格や人格を矯正したところで、皆に心配されるのが関の山だろう。砂狼君はフツーに順応しそうだが」
確かに、と苦笑を交わし、しかしホシノは小さく会釈を送って、
「でも、……ありがとう、先生」
正直なところ、嬉しかったのだ。
自身の敬愛する先輩を悪し様に言われ、憤りつつも後輩の安全と天秤に架け、抑えざるを得なかったあの時。
こちらを庇い前に出て、多勢に無勢という状況の中、恐れなく舌戦を挑み成果を上げてくれた。
対策委員会の皆の気持ちだけでなく、ユメとの思い出まで守ってくれた。
精神的に揺らいでいた自分への擦り寄りと見ることも出来たが、この馬鹿はそんな回りくどい方法を取るまい。やるならもっと頭の悪い、エクストリーム入った奇行に出る。間違いなくやる。初対面時のくだらないギャグくらいはフツーにやる。
だけどそんな馬鹿だからこそ、このところの皆は思い詰めることもなく、居室の雰囲気は明るかった。
誰も彼も笑っていて、忙しくも充実した毎日を楽しんでいた。
だから、そう。
先生がいるのなら、きっと皆は大丈夫だ。
自分が去っても、五億近い借金を抱えたままでも、上手くやって行くだろう。
後輩達に必要なのは、戦う以外に能のない自分ではなく。
如何なる方法を使ってでも生徒を守る、お人好しにも程がある悪役の方なのだ。
……そうだね。
腹は決まった。
最後のアビドス生徒会メンバーとして、そして対策委員会のリーダーとして。
自分に出来ること。自分にしか出来ないことで、皆の今と未来を守りに行く。
先生には叱られるだろうが、その時ホシノはもうアビドスの生徒ではない。最後のワガママということで大目に見てもらおう。
そう、最後になってしまったけれど。
無茶苦茶で、頭もおかしくて、何をしでかすか分からない変な人だけど。
先生のような大人に会えて良かった。
……ああ。
だからこそ、もはや叶わぬ夢を思う。
もし、もしもっと早くから、先生がキヴォトスに来てくれていたら。
ユメが失われず、今も生きていた未来もあったのだろうか。
●
「キャ──!!」
「あの、ミカ先輩、気持ちは分かったから、クッションバシバシ叩くのやめない?」
「物凄い勢いでクッションがヘタれてますね☆」
「ん、ミカの馬鹿力に中身が耐えられなくなってる」
「容赦ないのは相変わらずだから良いとして、……どうしたの? 思い詰めたような顔で」
「あ、いえ、このやり取りを見たからこそ、直後にやらかすホシノ先輩への呆れというか怒りというか、……そうじゃないでしょう感が今更ながらに」
「……えーと、おじさん逃げた方が良い感じ?」
「ん、逃がさない」
○
退学届を残し、アビドスを去ったホシノ。
もし今後、戦場で顔を会わせたらヘイローを壊せとまで綴られた置手紙に、真っ先に憤ったのはセリカだった。
だが、最初に行動に出たのはシロコだった。
カイザーを強襲してでもホシノを取り戻す。そう宣言し、銃を手に出掛けようとする己を、性急過ぎるとノノミが止め。かといって具体的な指針もなく、身動きが取れない中、突如市街地方面でカイザーが侵攻を開始したことにアヤネが気付き。
目まぐるしく変わり続ける状況の中、ふと全員の耳に届いたのは、ここまで一度も口を開かなかった大人の言葉だった。
「……ナメられたものだね」
手紙を畳み、テーブル上に戻しながら、椅子に座っていた先生が立ち上がる。意図の読めない発言に視線が集まる中、彼女は全員の顔を順に見て、
「君達との付き合いが短いのは重々承知だ。「どうにかする」と言った私を信用出来ないというのは、まあ、百歩譲って良しとしよう。君達が大事で、守りたいと思っていて、だからこそ小鳥遊君はカイザーの言いなりになることを選択した。非常に気高い行いだと言って良い」
だが、
「君達がこんなやり方を認めるはずがないなど、馬鹿でも分かる。アビドス総出でカイザーを敵に回すことなど容易に想像がつくだろう。それでもこの方法を採ったということは、つまりこう言っているも同然なのだよ。──君達ではカイザーに勝てないし、借金の半分も返すことすら出来ない、と」
一息。
「──ナメられたものだね」
先生の喜や楽、哀という感情はこれまでにも見て来たが、思えば怒に近いものを見たのはこれが初めてだろう。
眇めでホシノの手紙を見遣る先生の口調は常と変わらず、しかし底冷えするような低さを孕んでいて。
ともすれば、ホシノの選択を止められなかった自分に対する怒りであるようにも見えた。
「無論私とて、はいそうですかと引き下がるつもりは微塵もない。ああ、如何なる手段を以てでも彼女を連れ戻すとも。その為にもまずは現状の把握だ、──出撃するぞ諸君」
タブレットを手に大股で歩き出す背中を、シロコは迷わず追い掛けた。ややあってノノミ達の足音が続き、足早に移動用バギーの元へ向かいつつ、
「どうにか出来る?」
「すぐには無理だ。だが、いずれ必ずと約束しよう。どんな方法であろうとも、私が彼女への道をつける」
「ほ、本当に大丈夫よね!? ホシノ先輩、助けられるのよね!?」
「つい昨日代表取締役殿に目にモノ見せたのが誰なのか忘れたかね? ──この襲撃がそのお礼参りかもしれんが」
「……それ、大人しく帰ってれば今日は平和だったってことになりません?」
「ぷ、プラス思考で考えましょう!! 街への被害が二億円以内で済めば黒字ですから!!」
「ん、でも一億円吹っ掛けられた分は赤字のまま」
「厳しい現実を突き付けるのはやめたまえ砂狼君。……まあ、その辺りも含めてどうにかするとも。これまでも手を抜いていた訳ではないが、ここからは一切容赦なく行く」
何故なら、
「──小鳥遊君には言わねばならんことが出来た」
告げる瞳は、あの日砂漠で約束を交わした時と同じ真っ直ぐな、そして鋭利な眼差しでただ前を見ていた。
●
「どうしよう、さっきから先生がイケメン過ぎて動悸が止まらない……!!」
「……ミカ、さっきからホシノのシリアス周り完全に無視してないかしら」
「それを一切悪気なくやるのがミカちゃんだからなあ……」
「ん、そんなんだから友達が少ない」
「ちょ、ちょっとシロコ先輩ストップ!! 煽ってドンパチ始まったらどうするのよ!?」
「先生が間に入れば収まる気もしますね☆」
「取り合いになるの間違いでは……」
「ん、その間に掻っ攫う。漁夫の利」
「デカシロコ先輩も便乗しない!!」
「……ともあれ、この後便利屋と合同でカイザーを退けた後、先生が私達各方面に助力願いの行脚をするのよね」
「あ、はい。現場に駆け付けてくれたのはヒナさん達風紀委員会、ヒフミさんを始めとするトリニティ生や便利屋の皆さんでしたが──」
「後から聞いた話だとセミナーや正義実現委員会にも話を持ち掛けてて、都合こそ付かなかったものの物資を融通してもらったみたいよ」
「……本気で大戦争する気満々じゃんね」
「まあ、先生のやることだからねえ……」
「ん、殴られたら殴り返す」
「ん、シンプルイズベスト」
「ではその辺りは割愛して、いよいよハイライト行ってみましょう☆」
「ま、待って待って、おじさんまだ心の準備があ──!!」
●
・プラナ:『……先生、ホシノさん救出作戦時の記録確認が佳境に入っているようですが』
・私 :『ああ、カイザーの基地に乗り込んだ時か。アレもなかなか骨だったね』
・あろな:『…………』
・プラナ:『……アロナ先輩? 何と言うか、こう、言語化するのが難しい表情をしていますが』
・あろな:『いえ、改めて当時の記録を見るとですね、こう、……思い出し激怒を』
・私 :『はて、アロナ君を怒らせるようなことを当時の私はしていただろうか』
・あろな:『こ、これだから!! これだから先生は!!』
・プラナ:『落ち着いてくださいアロナ先輩。一体何があったんですか』
・私 :『ちょうどいいのでプラナ君に裁定してもらってはどうかね? まあ私が潔白なのは明白なので勝ちは決まったようなものだが』
・あろな:『先生はフルタイムで潔白に真っ黒ですよ!!』
○
空中回廊の先に拘束されていたホシノの元にも、爆発や振動といった騒ぎは届いていた。
窓もない閉鎖空間故、ここに連れて来られてからどれだけの時間が経ったのかは分からない。
黒服との取引に応じ、身柄をカイザー側に移して。しかしそれが間違いだったと気付いたのは、思った以上にすぐのことだった。
アビドス生徒会副会長という有権者を失ったことで、アビドス高等学校はもはや何の権限も持たないとして、カイザーが力尽くの侵攻に出たのだ。
対策委員会は正式に認可された部活ではなく、生徒会ですらないのだから、抗議する正当性など存在しない、と。
最後の防波堤であったホシノが、カイザーに下ったせいで。
思ってみれば、これまでずっとそうだった。
間違って、失敗して、後悔して、しかしそれを生かすことも出来ず、何度も何度も繰り返して。
最後の最後まで、後輩達に迷惑を掛け通しの、悪い先輩だった。
いくら戦う力があっても、搦め手で押さえ込まれてしまえば、何一つ報いることが出来ず。
元より武装を奪われ、囚われた今の状態では、自分に出来ることなど一つもない。
決意も願いもプライドも踏み躙られ、どうとも出来ない状態だからだろう。不意に頭を過ったのは、昔日の光景だった。
ユメと交わした会話。何気ない日常こそが奇跡なのだと語る彼女に、馬鹿馬鹿しいと苦言を呈した己。
あの時は理解出来なかったけれど、今ならばその意味が分かる。
ノノミやシロコ、セリカにアヤネ。大事な、己の全てを投げ出してでも守りたいと思える繋がりと、共にあった日々の温かさ。
それをホシノは、自分から手放してしまったのだ。
手放さなくて良いのだと、そう言ってくれた人がいたのに。
アビドスの最年長だから、部外者の大人に頼ることなく、自分で全てを決着させようと、そんな思い上がりがこの状況を招いた。
せめてあの時。彼女がいれば、ユメが失われずに済んだ未来もあったのではないかと、そんな夢想を思い描いた時。
全てを打ち明け相談していれば、こんな最悪の状況にはならなかっただろうに。
謝りたいと、素直にそう思った。
せめて最後に会いたいと、そう思った。
かつてユメの亡骸を見付けた時は、全てが終わった後だったから。
だから爆発の衝撃で拘束装置が破損した時、ホシノはふらつく身を引きずって歩き出した。
崩落の始まった実験場、一呼吸ごとに軋みを上げる牢獄を、ただただ無心に進み続ける。
だが、元より不安定な空中回廊。破砕し落下して来た天井の直撃を受けて、砕けた通路の瓦礫と共に小柄な身が宙へと踊って、
「あ──」
我ながら間の抜けた声だと、そんな他人事のような感想と共に、一瞬の浮遊感。翼もなく飛ぶことも出来ない己は、ただ重力落下に身を任せる他になく、
「────」
無意識に、遠ざかって行く上へと伸ばした手。みっともなく、未練がましい、行き場のない手の平が、
「ホシノ先輩……!!」
そんな耳に馴染んだ声と共に、力強く握り返された。
「……しろ、こ、ちゃん?」
「ん……!!」
目を瞬かせてみれば、呼んだ通りの相手がそこにいる。
崖のようになった回廊から身を乗り出し、こちらの手を握っている姿が。
制服にも本人にも傷や汚れがあり、ここに至るまでの苦労は言わずとも察することが出来た。
上の騒ぎでまさかと思っていたが、本当にこんなところまで来るとは思ってもおらず。会いたいという願いが叶い、状況が状況でなければ涙の一つでも零していただろう。
だが、場所が悪過ぎた。
回廊は既に崩れ、残った部分も徐々に傾きを深くしつつある。シロコが身を伏せている場所だって、いつ崩れたっておかしくない。引き上げようにもバランスが悪く、迂闊に動けばそのまま滑り落ちかねない状態だ。だからホシノは反射的に、
「シロコちゃん、私はいいから戻っ──」
「嫌!!」
響いた一喝は、ホシノをして初めて聞く程の大声だった。
「ホシノ先輩を見捨てて助かったって意味なんてない。誰かが犠牲にならないと救われないなんて、そんなの間違ってる」
だから、
「絶対に離さない!!」
強い意思を秘めた青の眼差しに、ふとあの大人のことを思い出した。
だが、思い一つで現実は変わらない。
よほど表で暴れて来たのか、或いは弾薬庫に誘爆なり機密保持の為の自爆スイッチでも押したのか、先程までとは比べ物にならないほどの揺れが来る。いくら身体能力が高かろうと、無機質な平滑面では掴まるような場所もなく、段々とシロコの身まで滑り落ち始め、
「────」
ギリギリで形を保っていた回廊の崩落による衝撃で、シロコ共々身体が浮いた。
落ちて行く。手を繋いだまま、底の見えない黒の奥へ。
ああ、とホシノは思う。結局私は、後輩を死地に呼び込んだだけだったんだ、と。
ごめんね、と無意味な謝罪をしようとして。繋いだ手を伝い、身を寄せて来たシロコへと視線を向け、しかしそこでようやく気が付く。
彼女の目が、未だに何も諦めてはいないことに。
こちらの身を抱き締めたシロコが、落ちながらも天を仰ぐ。先程のホシノのように、だが己とは違い明確な意図を以て手を伸ばす。
反射的に追った視線の先、ホシノは信じられないものを見た。
馬鹿な大人がそこにいた。
○
崩落により所々が崩れた垂直の壁面。そこを落ちながら突っ走って来る姿がある。
身を低く、地面となった壁に顔が触れかねない程の前傾姿勢。真剣そのものの表情が生む全力疾走は、まだ落下速度が乗り切っていないこちらへとギリギリのところで届いた。伸ばされた手がシロコの手を握り、引き上げ、僅かながら浮かせた瞬間下へと回り込み、
「っ……!!」
抱き留めた瞬間、壁面に杭打つように両足を突き立てた。
右腕一本でシロコとホシノを抱き、靴裏の摩擦に物を言わせた強引なブレーキング。滑走すること数秒、やがて落下が急激に止まり、慣性の衝撃がこちらの身を殴り付けるが、
……止ま、った……?
飛べず、翼もない自分達が、空中で留まっている。何故、という答えを求め彷徨った視線は、すぐにその回答を見付け出した。
建材らしきワイヤーが、先生の左下腕に巻き付けられているのだ。
恐らくは爆発や崩落で露出したものだろう。比較的細身の為人の手でも動かせそうなそれが、スーツ越しとはいえ厳重に巻かれている。左手でホールドはしているものの、明らかに袖からは赤の色が覗けていて、
「先生……!?」
反射的に声を上げた先、先生がこちらを見た。まるで通りすがりに顔を合わせたように、口の端に小さく笑みまで乗せて、
「やあ小鳥遊君。昼寝に勤しむならこんな日当たりの悪い場所より、いつもの教室や屋上の方が良いと思うが?」
いつも通りだった。
こんな状況だというのに、対策委員会居室で皆とじゃれている時のような、普段と全く変わらぬ態度。そこに安心よりも恐怖を覚えたのは、この非日常の中で明らかに浮いているからで。
そんなホシノの内心を知ってか知らずか、先生が視線を動かした。こちら越しに、もう一人の生徒へと笑みを向け、
「砂狼君、良い判断だった。おかげで私も間に合ったよ」
「ん、先生なら絶対に何とかしてくれるって、信じてた」
平然と交わされるやり取りには、焦りも恐れもない。絶体絶命一歩手前なのは変わっていないのに、不安というものを感じさせなかった。
まるで、長年連れ添った相棒のように。
だが、それも当然なのかもしれない。
片や仲間の為なら人数分の覆面を作り上げ、銀行強盗すら厭わず。
片や生徒の為に屁理屈と暴論を振り翳し、奈落にすら飛び込んで。
根っこが同類。気が合うのは必然だったのだと、今更ながらそんな理解を得る。
だとしても、どうしても分からないことがあった。
「……どう、して?」
同じアビドスの仲間であるシロコは分かる。記憶がなく、身寄りもない彼女を拾ったのは自分とノノミだ。だから二人や、その後輩であるセリカやアヤネが助けに来るというのは理解出来る。
だが、先生は違う。
対策委員会の暫定顧問ではあるものの、アビドスの皆のような運命共同体ではない。こんな、自殺同然の無茶苦茶な行動に出る理由が、ホシノにはどうしても分からない。
困っている人がいれば助けたい、という思いは否定しないが、ここまでする理由が見えて来ない。
おまけにホシノは残して来た手紙で、先生に対する思いも綴って来たのだ。最初は信じていなかったことも、セリカ誘拐時の手際の良さから本気で疑ったことも。
緩い態度の裏でそんな風に思われていたと知られれば、見限られてもおかしくはないのに、先生は不思議そうに首を傾げ、
「おかしなことを言う子がいたものだね全く。アビドスを頼むと、そう書き残したのは君だろう。そこにはアビドスの生徒である君も含まれるのだから、助けに来るのは当然だ」
「で、でも……!!」
言い返しつつも、どうしても視線は先生の左腕に行ってしまう。それを悟ったのか、ああ、と納得したように頷いた彼女は気楽に、
「気にする必要はないよ。先生が生徒を救うのは当たり前なのだから。日は西から昇るとでも言うつもりかね?」
「く──」
狂ってる、という叫びが口を衝き掛けた。
頭がおかしいとか不規則言動とか、もはやそういうレベルじゃない。
論戦だけで決着したカイザー理事の時とは違う。見た目より強度があるとはいえ、素人仕事で巻き付けたワイヤーを頼りに躊躇なく飛び込む馬鹿がどこにいる。
三人分の重量、どれだけ軽く見積もっても百キロは下らない荷重が左腕一本に掛かっている上に、ワイヤーが切れるか基部が壊れれば全員纏めて墜落だ。
しかも先生は自分達と違い頑丈ではなく、簡単に死んでしまうというのに。
ユメと同等、否、身体強度などを鑑みれば、彼女以上の大馬鹿だ。
「まあ、呑気にダベるのは後の楽しみに取っておこう。二人共怪我もないようだし、後は帰るだけだからね」
絶句しているホシノを他所に、先生が上を見た。完全に崩れた空中回廊の起点までは、優に百メートル以上の開きがある。登って行くにしても容易ではないし、今は無事なエリアもいつ崩れたっておかしくない。
だが、先生は悲観の色など一切浮かべていなかった。
「砂狼君!!」
「ん……!!」
先生の声が飛ぶより早く、シロコがスマホを操作し始める。僅かに覗けるのはドローンの操作画面。さほど大きくないとはいえ、弾薬類を投棄すればシロコやホシノくらいは運べるだろう。先生の負担を減らすという意味でも、急ぎ対応すべき事案だ。
程なくして見慣れたドローンが傍らに降りて来て、下部のアームにシロコが掴まる。宙に浮く姿は危なげなく、問題なく上まで戻れそうに見えたが、スマホを見たシロコが眉を歪め、
「ごめん、バッテリーが足りなくて全員を運ぶのは無理そう……!!」
「想定済みなので構わん!! 砂狼君は十六夜君達と協力して引き上げを頼む!! 縁に引っ掛けると荷重と摩擦でワイヤーが切れる恐れがあるので慎重に!!」
「ん!!」
力強い頷きで応じ、シロコが上へと戻って行く。先生は呼吸を整えつつ、こちらの身を抱き直した。
離さないと、言外にそう伝えるように。
だが、やはり無理がある。
あまりにも平然と受け答えしている為忘れがちだが、今もなお先生の左腕は数十キロの荷重で締め付けられている。シロコが減った分マシにはなっただろうが、身動きどころかじっとしているだけでも相当な痛みが来るのは確実だ。
腕への締め付けを少しでも和らげようと、懸垂の要領で先生がワイヤーを掴み、身を浮かせようとする。だが素手でグリップ力を確保出来るはずもなく、逆に摩擦で手の平が裂けた。血の滑りが更に握りを不確かなものとし、結果一度緩んだワイヤーが再度傷口を締め付ける。
血が飛沫いた。
跳ねた滴がこちらの頬に届き、伝って行く生温かい感触と鉄に似た香りが来て、
「……どうにもキヴォトスに来て以降、鍛え方が足りないとつくづく痛感させられるね」
こちらを不安がらせない為か苦笑してみせる姿に、限界が来た。
「どうしてここまでするの!? いくら先生だからって、生徒の為にこんなことまでする必要があるの!?」
思えば、一人の変な大人がいた。
出会いは最悪で、口を開けば胡散臭くて、突拍子もない行動で周囲を振り回して。
だけどどんな時でも自分達の味方で、何度も助けてくれて、追い詰まった雰囲気を変えてくれた。
結局は大人で、部外者で、どうあってもホシノと同じ立場にはなれない、何もかも違う相手なのに。
どうしてこんなにも、信じたいと思わせる。
とうの昔に捨て去ったはずの希望を、もう一度抱いてみたいと思わせる。
「どうして……!?」
言葉にしきれない、万感の思いを込めた問い。だが折悪く爆発の振動が来て、互いの身が大きく揺れた。再度血飛沫が舞い、シャツに赤の染みを広げつつ、
「生憎と座右の銘は来る者拒まず、去る者は地獄の果てまで追い掛ける、でね。加えて私は我慢弱く諦めの悪い女なのだよ」
それでもそう笑った先生に応えるように、二人の身体が少しずつ浮き始めた。
見上げた先、ワイヤーを手繰り寄せているシロコとセリカの姿が見える。ノノミとアヤネの声も聞こえていて、必死に頑張っていることは伝わって来た。先生もまた少しでも負荷を減らそうと、荒れた壁面に足を掛け登る動きを取っていて、
「……どうして」
要領を得ない問いと同時、先生が足場にした壁が崩れた。ワイヤーが張り詰め、ジャケットの隙間から覗けるシャツを真っ赤に染めて、それでも先生が口にしたのは苦悶の声ではなく、
「──愚問だよ小鳥遊君!!」
眉を立て、歯を剥いて、再度壁に足を掛けつつ先生は応じた。
「目の前で理不尽な
綺麗事の偽善だと、そう切って捨てられればどれだけ良かっただろう。
だがそれを認めてしまったとしたら、今己の目の前で繰り広げられているこれは何だ。
損をしてばかりで、何の得にもならない、だけど眩しく気高い姿は、
「もはや理屈ではない、これが私の、葵・硝子という人間の生き方なのだよ!!」
何も言うことが出来なくなったホシノに構わず、先生は面を上げる。
「私が手を伸ばすことで目の前の命が救えるのなら……!!」
半分を超え、輪郭ではなく個々の表情を見て取れる位置まで近付いた対策委員会の皆を見上げて。
「大事な誰かと笑って過ごせる明日を作れるのなら……!!」
痛い程にホシノの身を抱き締め、泥臭くも諦めない大人は、ただこう口にした。
「──それが
●
「……わーお」
「……私達が表で戦ってる間にこんなことしてたの? 先生」
「ん、全て事実」
「同じように助けられた私が言えた義理じゃないけど、我が身の顧みなさっぷりが半端ないというか……」
「ここまでされてこんなこと言われたら、脳が焼かれるのも納得ね……」
「キヴォトスの辞書でキチガイと男前って調べると先生のことって出て来るようになる日も近いですね☆」
「……何故でしょう、否定したいのに否定出来る要素が全くありません……」
「先生なら絶対にやらかすという負の信頼があるわよね……」
「それとホシノ、貴女もうちょっと素直に他人を信じるということを……、ホシノ?」
「ん、両手で顔を覆って横倒しになってる」
「キャパ超えちゃったか──」
●
・プラナ:『…………』
・あろな:『…………』
・私 :『どうしたのかね二人共、据わった目をこちらに向けて』
・プラナ:『……記録によるとこの一連の出来事の間、反応速度と対応の確度を上げる為に、思考加速を常時十倍で適用していたそうで』
・あろな:『……そっちの処理と、基地の中枢に侵入して隔壁操作なども行っていたせいで、先生の腕にバリアを張れなかった訳ですが』
・私 :『いやいや、事前にアロナ君にシミュレートしてもらった上で、十分間に合うからこそ踏み切ったのであってだね? 決して無考えに飛び込んだ訳では、あっ、こら、やめたまえ、無言で頭をポカポカ叩くのは、今燻製が良いところで、あ、あ──!! 煙が目にィ──!!』
○
シロコやノノミ達の尽力のおかげで、ホシノと先生の身は迅速に引き上げられた。
崩落を恐れ、引っこ抜くような動きで入り口側に投げ出され。身を起こすよりも早く、対策委員会の皆に囲まれた。
熱に似た温もりと、寄せられた身の柔らかさと。皆が生きて、そこにいるから感じられる全てを、ホシノはただ噛み締める。全員ボロボロで、だけど笑っていて、ひょっとして夢なんじゃないかと思いもした。だけど、
「……馬鹿者」
言葉とは裏腹に優しい声と共に、頭を軽く小突かれた。
見上げた先、右の拳を握った先生がいる。ドアをノックするように、手の甲をこちらに向けた大人が。
一番重傷な彼女は、目を細めただけの微笑でこちらと、周囲の皆を見て、
「手放そうとしていたもの、取り戻せたかね?」
それは、あの夜に先生が語ったことの続き。
何もかもを諦め、手放す必要はない。かつて彼女が言っていたことの証明が、今この光景の全てだろう。
……そっか。
「諦めなくて、良いんだ」
小さく零した言葉は、きっと誰の耳にも届いていないだろう。
ただ、ずっと覚えていようと、ホシノはそう思った。
この先どんなことがあったとしても。何もかも見失い、足を止めそうになったとしても。
どうにかしようと、力を貸してくれる人がいるのだから。
ようやく、という形で口の端に笑みが浮かぶ。視界が滲んでいるのがどうしようもないが、見なかったことにしてくれるくらいの気遣いはあるだろう。だからホシノは皆と先生に、伝えるべき言葉を告げようと面を上げる。
直後、先生の背後四十五センチの位置にデカめの瓦礫が降って来た。
「おや」
思わず身動きを止める対策委員会の眼前、振り向いた先生が通り雨にでも遭ったような軽い口調でそう口にする。そのまま二、三と頷くと、肩を竦めながら視線を戻し、
「再会を喜びたいところだが、いよいよ時間がなさそうだね。積もる話は後にして、今はここからの脱出、を……」
言葉が尻すぼみに消えて行った理由は、問い返すまでもなく明らかだった。
先生を含めた全員の視線が行く先、ボンレスハムとかチャーシューのようになっている先生の左腕がある。事前の巻き付けと荷重によって、どう見ても本来の腕の輪郭よりも食い込んで締め上げられている左腕が。
結構な勢いで血が滴り落ち、足元に溜まりを作って行く様を見て、しかし先生は爽やかな笑みを浮かべると、
「どうやら外すことの出来ない呪いの装備だったようだね。三人纏めてグチャアよりマシとはいえ、参ったねコレは」
呑気に笑っていられる先生は間違いなく大物だと、全員が改めて確信した。
現実逃避に等しい呆れの一時が過ぎた後、事実を受け入れざるを得なくなった皆が一斉に取り乱し、
「どどどどどどうするのよ!? 引き千切る!? 引っこ抜く!?」
「おおお落ち着いてセリカちゃん!! ワイヤーより先に先生の腕が壊れちゃう!!」
「これだけの建物を支える建材ですし、そう簡単には壊せそうにないですよ!?」
「ははは落ち着きたまえ諸君、なるようにしかならないからね」
「ダイレクトに言うけどあんたのせいだよ!!」
ツッコミを受けても先生はどこ吹く風だ。スーツのジャケットを右腕から抜き、左の上腕をハンカチで縛り上げて止血処置を始めている。慣れた手付きなのはそういった訓練を受けているということだろうが、いつも通り笑いながらやっている辺り末恐ろしい。が、ノノミ達は完全にパニック状態で、
「撃って切るのも先生だと危ないですし、誰かハサミとか持ってませんか!?」
「アヤネちゃん!! アヤネちゃん!! さすがにハサミでワイヤーは切れませんよ!?」
「表に便利屋や風紀委員会もいるし、誰かしら何か持ってるでしょ多分!! ああでも、呼んでる間に崩れちゃ──」
頭を抱える三人の背後で、突如破砕音が響き渡った。
敵襲かと身構え振り向く皆の視線を追えば、砕けた壁に蹴りを入れているシロコがいる。彼女はこちらを気にも留めず、そのまま至近で銃弾をブチ込み始め、
「……シロコ先輩? 何してるの一体」
セリカが恐る恐る問うた先、シロコが振り向いた。完全に破砕した壁の中、ワイヤーのテンション調整用らしき、一抱え程もあるシリンダーに手を掛け、
「とっくに壊れてるし、根っこから引き抜いて持って行けば良い」
シロコの発言に、全員が顔を見合わせ、
「──それだ!!」
○
そして行きよりやたら大荷物になった面々は、脱出の為急ぎ駆け出した。
ルートを記憶しているアヤネが先行し、ホシノの手を引くシロコ、束ねたワイヤーとシリンダーを抱えたノノミと先生が続き、殿にセリカという進行。一同は崩落する施設から脱出し、二次被害を恐れ更に距離を取っている間に、こちらを捕捉した協力者達と合流。シャツの左腕を真っ赤に染めて帰って来た先生にイオリが蒼褪めたりヒフミが卒倒しかけたりアルがおろおろしたりした後、風紀委員会の工作用具を用いたヒナがワイヤーを切断しチナツが追加で応急処置。そのまま対策委員会共々近くの病院までヘリで運ばれ、
「中度の筋繊維断裂で全治一ヵ月。生徒の命に比べれば安いものだね? 安過ぎてラーメンを奢るくらい余裕だとも。これまさに文字通りの出血大サービス」
最後の一言に一部の生徒が無言で手刀をブチ込む一幕もあったが、幸いと言うべきか生徒達の負傷はほぼ例外なく軽傷で済んだ。囚われていたホシノも特段何かされた形跡はなく、事態の峠は越えたということで一同は解散。協力者達はそれぞれの自治区へ戻り、対策委員会は最低限の事後対応を済ませるとその活動を一時中断、入院する先生の看病に専念することとなった。
やはり通いが多かったのはシロコで、ノノミ共々シャーレから必要な物を取って来たり、足りなければ買い出しに出たりとよく動いて回った。セリカもバイトの合間を縫って毎日顔を出し、アヤネはシャーレの手伝いに専念。今回協力してくれた生徒達の窓口役として、先生の負担を減らすことに努めた。
だが、特筆すべきはホシノだろう。
病院側に宿泊届を出してまで、先生から片時も離れることはなく。左腕が使えない先生の補助として付いて回るその表情は、一貫して気の抜けた笑みを浮かべていて。
心から信頼出来る相手が出来たと、そういうことだろう。
また、動きはアビドス以外でもあった。入院中に便利屋68や風紀委員会、ヒフミなど一連の事件で親交の出来た面々が、代わる代わる見舞いに訪れたのだ。生徒達はタブレットを持ち込み右腕一つで仕事を続ける先生に呆れつつも、報告や手続き等を済ませ、差し入れを渡したり雑談に花を咲かせたりと、騒々しくも穏やかな時間を過ごした。
容体の悪化や急変もなく、先生は予定通り一週間で退院。とはいえ完治した訳ではないので、対策委員会の溜まり場も病室からシャーレの執務室へと移行。帰りの道中で買い物もしつつ、一同揃って電車に揺られて移動し、
「……まさか救出しに行った小鳥遊君ではなく、病室に叩き込まれていた私が最後の帰還になるとはね」
着替えなどの入ったバッグをデスクに置き、感慨深そうに先生が一息をついた。
約三週間ぶりとなるらしいオフィスに、ホシノは初めて入ったことになる。幾度か先生の頼みで物資を取りに来ていたシロコとノノミは、慣れた様子で自分達の荷物を置き、
「先生、何か飲む? 言ってくれれば準備するし、買って来た分から持って行っても良い」
「皆が選んで余るようなら紅茶で頼む。退院祝いのケーキに合わせるのならそれだろう。完治したら茶葉から淹れる本場式を振る舞わせてもらうので、楽しみにしておくといい」
「はい、じゃあお皿共々準備しちゃいますねー」
二人が隣の給湯室へと向かい、アヤネは先生が病室に持ち込んでいた書類の整理に入る。セリカもそちらの手伝いに加わり、ホシノと先生だけが残る形となった。
気を遣われたかな、と内心苦笑しつつ、何気なく室内を見回す。結構な広さを有する一室は、しかし仕事場と言うよりも、
「……何か、プラモの箱やら、ガチャポンのカプセルやら、趣味の物の方が多くない?」
「結局のところ、人間の原動力は気分だからね。テンション高く快適に過ごせるようにしただけのことだよ。その方が効率も上がる」
先生が顎で指し示した先、隅の方にはやたらデカいクッションや運動用のマットを始め、紙飛行機の残骸やら連邦生徒会からの書類で作られた紙の塔など、カオスとしか言い様のないものも見えてあまり言及しないようにしようとホシノは思った。根っこの部分が信頼出来る大人だというのは理解したが、不規則言動はまた別だよね。
「とはいえ、対策委員会周りの手続きを済ませたら少し片付けをするつもりではあるがね」
遠い目をしていると、ふと先生のそんな声が聞こえた。振り仰いだ先、先程の自分のように部屋を見渡している姿に対し、
「手続きって? あと、片付けってどうして?」
「うむ、順番に答えるが、まずは対策委員会をシャーレの権限で正式なアビドスの部活として認可、顧問には私が就く。そして一連の経緯を連邦生徒会に記録として納め、カイザーグループに現状の法外な利息や要求を全て取り下げさせる。入院中に各所への根回しは終わっているので、あとは判を押して送付すればスムーズに進むだろう。カイザー側は表向き麾下の独断と言い逃れ持ち企業を手放すようだが、君達は随分と楽になる」
改めて空崎君達には礼をせねばならんな、と言うのは本当にその通りだが、自分達が看病していた間にそこまで対応していたとは。口を横に開いたホシノは、取り繕うこともなく思ったことをそのまま口にする。
「先生はホント、そういう裏工作とか暗躍得意だねえ……」
「悪役だからね。生徒では手の回りきらない部分をどうにかするのも先生の仕事だよ」
ははは、と笑って言うこの大人には一生勝てまい。
……勝とうとも思わないけどさ。
どれだけ表見の態度が胡散臭く、やることなすことデタラメでも、この人は生徒を裏切らない。そのことが確信出来た今となっては、張り合ったところで意味がないだろう。対立しているならばともかく、同じ方を向いて共に行くことの出来る仲間なのだから。
……ほんの十日そこらで随分と丸くなったなあ。
素直にそう思えた自分に気付いて、また苦笑。だが悪い気はしないし、それで良いのだとも思う。そんな変化のきっかけを作ってくれた大人は、
「続く後者の質問だが、このところ思案していたことを実現する為の第一歩だね。平たく言うと模様替えと、そんなところだろうか」
「模様替え、って言うほど物多いかな? いや、まあ、デスクの上に私物積んであると言えばそうだし、個人の自由だとは思うけど」
「おやおや何を他人事のように言っているのかね? 家具類の調達には君達もついて来てもらうつもりだよ?」
は? と首を傾げてみれば、先生が窓際に立った。眼下、広場のようになっているエントランスを見下ろして、
「今回の一件の前から、漠然と考えてはいたのだよ。学園の垣根を超えた中立の場、一切のしがらみなく協力体制が築ける仕組みというものをね。シャーレという超法規的権限があれば、その辺り介入する建前も通しやすいし──」
横目にこちらを見た先生が、悪戯げに笑って、
「今後阿慈谷君や空崎君達に何かあった場合、大手を振って君達が助けに乗り込める、ということだよ」
「────」
思ってもみなかった絵図面に言葉を失う。だが、先生は雲一つない青空を見上げて、
「その手始めとして、生徒達が気楽に立ち寄りダベって過ごせるように、色々と設備を整えるつもりだ。とはいえ君達とは歳が離れているし、何より私自身キヴォトスにはまだ不慣れなこともある。それ故君達のセンスを当てにしたいと、そういうことだよ」
そこまで言って、こちらに振り向いた先生がふと動きを止める。何かあっただろうかと思い見た先、肩を竦めた彼女は背後へと振り向き、
「という訳だ砂狼君、一丁付き合ってくれるかね?」
「ん、当然」
気配を殺していたらしいシロコが、先生の後ろから生えるように顔を出した。
「……いつの間にそんなとこまで移動して来たのかな?」
「先生とホシノ先輩が良い雰囲気だったから、さりげなく見守ってた」
親指立てつつ言うシロコに先生も同じように返していて、今後のマッシュアップがえらいことになりそうだなと思いつつ。吐息と共に振り返れば、応接用のソファーセットに集まっている皆の姿がある。
「ほら、小難しい話は終わりにしてこっち来てよ!!」
「まだまだ全部が解決した訳じゃありませんけど、一区切り付いたお祝いは必要ですよね」
「そうですよ、わざわざその為にお菓子とかジュースとかたっくさん買い込んで来たんですから☆」
既に全員分の皿やグラスが並べられ、クラッカーまで構えている辺り用意が良い。というかおじさんが先生と食料品買ってる間にそんなものまで買ってたんだね。シロコちゃんなんてパーティーハット被ってるし。だが、
「……そだね」
苦笑し、皆の方へゆっくりと歩を進める。
「先生も退院したし、パーっと騒いで盛り上がっちゃおっかあ」
「主賓らしからぬ謙虚さだね。私の退院祝いはオマケで、メインは小鳥遊君帰還の打ち上げなのだが」
「えっ」
思わず歩みが止まった。思わず振り向いて、皆を見て、もう一度先生を見て、
「えっ」
「いや何、情けないことに私の怪我で後回しになってしまったのだが、大事なことを言っていなかったものでね」
先生とシロコが、止まったこちらを追い抜いた。そのまま振り向くと、皆と目を合わせ、さん、はい、と音頭を取り、
「おかえり、
告げられた言葉に、胸中で込み上げるものがある。だがホシノはそれを抑えることなく、満面の笑みとして皆に応じ、
「──ただいま、皆」
●
「……何と言うか、大団円そのものって感じだね!!」
記録の視聴を終え、ミカが伸びをしつつ零した台詞に、ホシノは心底同意した。未だ冷めやらぬ頬の熱を誤魔化すように、冷えたサイダーを口に運びつつ、
「当時も十分感謝してたけど、私の知らない裏側が見れて良かったなあ。ホント、色々頑張ってくれてたんだよね、先生も皆も」
「付き合いの長い対策委員会より先生が先に来るのね」
ヒナちゃんチェック厳しい。
だが苦笑で言っている辺り、ヒナ自身も似たようなものなのだろう。エデン条約に纏わる事件の中で、彼女も先生に救われた部分が大きいようだったから。というか、
「改めて先生が本気で頭おかしいというか、即死じゃないならどんな無茶でもやらかす感が凄いよね」
「ん、危うくお星様になり掛けたりするし気が休まらない」
「あー、私の時も聖徒会の軍勢相手に正面から啖呵切ってたなあ……」
「シェマタの時もオッパイフルオープンやらホシノ先輩を信じてノーガードだったりしたわよね……」
「正直、何でまだ生きてるのか不思議になります……」
皆が視線を逸らす中、ふとヒナが手を挙げた。全員の視線が集まる中、彼女はいつもの無表情の中に呆然の色を混ぜつつ、
「……一番問題なのは、「まあ先生だし」で納得してしまっている私達の方なんじゃ」
全員が俯いた。
「……あ、そうだ!! ちょっと一つ聞いていいかな!?」
気まずい沈黙に耐えかねて、ミカが手を打ちながら口を開いた。セリカが生温かい眼差しを向けているのは、先程自分が似たような立場だった故か。ともあれミカに促しの視線を向けると、シャーレの副長は首を傾げつつ、
「取引のせいで、カイザーの基地がどうこうの話は出来ないんだよね? どうやってナギちゃんやヒナちゃん達に救援の交渉したの?」
あー、アビドス組が口を横に広げた。視線を向けた先、ヒナは素知らぬ顔で饅頭の包装紙を開けているが、ひよこ型のそれそんなに気に入ったのヒナちゃん。味は良いけど食べる時罪悪感ないかなそれ。だが当事者の一人が回答をボイコットした以上、こちらで答える以外にない。
だからホシノは、開いた手を前後に振りながらこう言った。入院生活に付き添っていた当時、先生から聞いた時そっくりそのままの再現として、
「当然、あの場で得た情報は口にしていないよ? ただ小鳥遊君が不法に拉致されたので、奪還の為助力を願いたい、と請願しただけでね」
うわあ……、とミカが同情全開の呟きを零した。
あの近辺でカイザーの動きがあるという情報は、ヒナから齎されたものなので取引には影響がない。
そしてホシノがカイザーに下った件も、ホシノ本人の置手紙から発覚したので取引には影響がない。
ホシノの所在を突き止めた件については分からないが、結果的にヒナの情報と同じ場所なので口外するのに影響はなく、
「一切取り決めを破らずアーマゲドンかあ……」
「言い訳と屁理屈と暴論において、先生に勝てる相手はキヴォトスのどこにもいないでしょうね……」
しみじみと言うミカとヒナに、対策委員会の皆が乾いた笑みで応じているのが全ての答えだ。何も言うまい。でもドヤ顔してるダブルシロコちゃんはちょっと後で真面目にお話しようね。
「まあ、建前とかお膳立ては先生の方で整えた上で、実益として各所に今後の協力を約束してたみたいだし。補習授業部の顧問の件とかがそれでしょ?」
「あ、うん。私が先生を推薦した時、ナギちゃん凄く悩んだ後に許可したんだけど、……当時一体どんな交渉してたんだろうね」
「機会があったら、聞いてみるのもいいかもしれませんね。知らない仲でもありませんし、もう終わった事件の話ですから」
笑みで言うアヤネの台詞に、各々が微笑や苦笑で頷く。当時は色々と大変で、あちこち奔走するような大事件だったとしても、終わってみれば良い思い出だ。トラブルを肯定する訳ではないが、命懸けの戦いを共に潜り抜けたからこそ、その中で培われた絆は何よりも強い。その絆がまた別の苦難において力となってくれるのは、先のシェマタの一件でも理解したことだ。
どうにかしたい、と諦めず足掻く限り、その手を取ってくれる大人がいるのだから。
誰もが渦中の変な大人を思い笑みを交わすのと同時。不意に背後の扉が、大音付きで開け放たれ、
「おやおや、私と桐藤君の密談に興味があるのかね!? 立ち会っていた阿慈谷君が終始困り顔だったが、お望みなら再現するのも吝かではないよ!?」
キチガイのご登場だった。
●
男物の革靴を脱いで上がって来た先生は、いつも通りの黒いスーツ姿だった。だがその割には石鹸の香りが強く、肌や髪も艶を帯びていて、
「お風呂入って来た?」
「うむ、シャワーで手短に済ませるつもりだったのだが、ちょっとした手違いで煙をモロに浴びてしまってね。デカ狼君とお揃いだ」
瞳を輝かせたもう一人のシロコが先生と親指を立て合い、シロコと殴り合いが始まるまでが一ターン。ミカ共々適当なタイミングで仲裁に入り、一息入れてから顔を上げ、
「で、燻製は楽しめた?」
「おかげさまで充実の一時だったとも。後で出すので良かったら食べて行くと良い。チョイとピリ辛故、苦手な者にはいつものやつを出すので申し出るように」
おお、と期待の声が上がる。シャーレに入り浸りで摘まんでいる為麻痺しがちになるが、先生の燻製はあの美食研究会が太鼓判を押すような逸品だ。それも出来立てとなれば、普段の作り置きよりもグレードが高い。既に日が暮れている時間帯というのも相俟って、思い出したように空腹感が押し寄せて来る。
……夜警の時に持たされるけど、ホント美味しいんだよねー……。
胃袋を掴む、という例えがあるが、そういう意味ではあらゆる生徒が篭絡されてるなあと思いつつ。解散ムードで席を立ち始める皆を見て、先生が思い出したように、
「ああそうだ。先程下拵えを終えたので、良ければこのまま夕飯も食べて行くと良い」
相も変わらず唐突だが、さすがに慣れては来たもので。本心では答えを決めつつも、一応の建前として、
「良いの?」
「何やら過去の記録を見て随分と盛り上がっていたようだからね。感想戦で盛り上がるまでが一種の様式美だろうと思い、予め色々と用意はしていたのだよ。おかげで顔を出すのが遅くなってしまったのは申し訳ないところだが……」
肩を竦め、悪戯げな笑みを浮かべると、
「泊まって行くなら、夜食のスイーツもこれから仕込んでおくつもりだ。どうするかね?」
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「そこまで言われちゃ仕方ないなあ」
苦笑で応じるホシノに続き、立ち上がったシロコは先生の傍へと歩み寄った。こちらへと向けられた視線に頷き、
「私も手伝う」
「気持ちはありがたいが、テキトーにくつろいでいても構わないよ?」
「最近はデザートの作り方も勉強し始めたから、後学の為に見ておきたい」
「そういうことなら頼もうか。夕食のデザートに作っておいたカスタードプディングの仕上げを終えたら、ビスコッティの用意をしよう」
「ん、ユウカと勉強中のちびシロコには無理でも私なら余裕」
「ん、負けない」
張り合ってこっちの自分が足早に寄って来るが、自炊がメインのこちらに勝てる訳もない。勝利の笑みを向けてやると、殴り合いになるまでが一ターン。そんな自分達をよそに、
「では、一方的にお世話になるのも難なので、私達も手伝いましょうか☆」
「そだね。食器用意したり運んだりなら私も出来るよ!!」
「……引っ繰り返したら凄まじく恨みを買うから慎重にね」
「ならこのままシャーレお菓子教室と洒落込もうか。余ったフルーツの摘まみ食いも出来るよフフフ」
「……そのお誘いは大変魅力的なのですが、総カロリーがとんでもないことになりそうな」
「細かいことは気にしない。普段から砂漠を走り回ってるんだし誤差よ誤差!!」
「セリカちゃんも言い訳が上手くなったねえ、おじさん感涙ものだよ」
好き勝手言いながら移動を開始。すっかり日の落ちたD.U.の景色を横目に見つつ、全員で連れ立って進む。先陣切って進んで行くミカがあまりにもらしいが、
「砂狼君」
不意に名を呼ばれ、面を上げると首元に柔らかい感触が来た。仄かな温もりを帯びたそれは、燻製の煙をモロに浴びた際先生に預けていたマフラーで、
「エンジニア部には礼を言わねばならんね。乾燥機で乾かしたとは思えない完璧な仕上がりだ」
優しい手付きで巻き終えると、軽く頭を叩いて先生が笑った。直後にこっちのシロコが引きずるようにして拉致して行ったが、それを咎める意味もない。
傍にいなくても、離れていても、通じるものはあるのだから。
足を止め、マフラーを抱き、ただその幸いを噛み締める。石鹸の匂いと桜の香りが、シロコの思いが錯覚ではないと証明してくれる。だから、
「ホシノ先輩」
始まりをくれた人。目の前を行く背中に声を掛けた。
ん? と振り向く小柄な、しかし自分には想像も付かないであろう重荷を背負って来た先輩に、シロコは本心からの思いを告げる。
「良かったね」
シェマタを巡る一件を終えたからこそ、ようやく理解出来たことがある。ある意味で、彼女は自分の鏡写しだったのだと。
ユメを失い、先を思うことが出来なくなり、崩壊寸前のアビドスという現実に縛り付けられて。
だけど、先生が未来を望めるようにして。
ユメもまた、過去から送り出してくれた。
二人の先生に救われたシロコと同じ。この先きっと、ホシノは何の気兼ねもなく、思うまま、望んだ生き方をして行くだろう。
だから良かった、だ。
死ぬ為に生まれて来る者などいない。先生の信じた理念の、その証明が自分達であり、今なおダベっている面々であり、シャーレに集う皆なのだから。
「……うん」
唐突とも言えるシロコの祝福に、しばしの間を置いてホシノが笑った。その笑みは先生に似た、木漏れ日のような温かいもので、
「まだまだ未熟で、知らないことばかりの子供だけど、でも、これだけは言えるよ」
目を弓にして、
「辛いことも、苦しいこともあったけど、今まで生きてて良かった、って」
ん、と応じ、シロコも笑った。
自分達は、失った人間だ。
だけど、望めばそれ以上を得て行けるのだと、そう教えられた。
子供なのだから、これまでより、これからの方が遥かに長いのだと。
綺麗事のようだけど、間違っていないと信じられる。だって今も、つい足を止めてしまっていた自分達に振り向いた馬鹿な大人が手を振って、
「小鳥遊君、デカ狼君、どうしたのかね? 甘味に飢えたケダモノガールズが我先にと突っ走って行こうとするので、ゆっくりしていると二人の分がなくなってしまうよ?」
酷い言い草だが、事実シロコがミカの首根っこ掴んで止めていたり、ノノミがセリカとアヤネを引きずっていたりでどうしたものか。こちらを待っているのは先生とヒナくらいで、だけど他の面々も本気で置いて行こうとしてる訳ではないことは通じている。
だからシロコはホシノと顔を見合わせ、苦笑と共に駆け出した。
「──大丈夫!!」
大きく手を振って声を張り上げるホシノに頷いて、
「すぐに──」
シロコもまた笑みで手を振った。
「すぐに追い付くから!!」
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──もう、諦めないよ。