グラスアーカイブ   作:外神恭介

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大事な書類を折り紙代わりにして遊ぶのも仕事?

「小鳥遊君の姓は小鳥が遊ぶと書いてタカナシと読む訳だが、これは鷹──、即ち捕食者である大型の鳥がいないことから、小鳥が遊んでいられるという説話に由来するそうだね」

 唐突な先生の小話に、ホシノは伏せていた面を上げた。緩んでいた頭に、聞こえた内容を叩き込み、考え、

「まあ、よく聞く話ではあるねえ。で、それがどうしたの先生」

「ああ、そこで考えてみたのだがこのエピソードを踏まえた場合、……今の小鳥遊君はタカナシというよりトリナシではないだろうか」

 口を横に広げつつそう言う先生の視線を追い、改めてホシノは己の状況を顧みた。

 シャーレ執務室の応接用ソファー。そこに腰掛けた先生に対し、向き合う形で膝の上に座っている。両手両足は先生の胴に絡め、顔を胸に埋めているのが現状だ。

 セミであった。

 元々はガチャポンの筐体に対して先生が繰り出す不規則言動の俗称だったのだが、シロコを筆頭にアリスやモモイ、ノゾミにヒカリ、モモフレンズ絡みで正気を失った際のヒフミやアズサなどに感染って行き、今となっては自称部員の間でセミと言えば大体通じるようになってしまった。酷い時は四肢と胴体に肩車まで動員した止まり木のような光景になっていて、キャットタワーならぬ生徒タワーなどとネタにされている。

 かく言うホシノもガッツリ寝たい時やだらけたい時は、先生に対してセミになるが、

「おじさんの知るあらゆる枕の中でもダントツの快眠性を誇るよ、先生のオッパイは」

 キヴォトス広しと言えど生徒では太刀打ち出来ないサイズもさることながら、柔らかさと弾力のバランスが絶妙だ。人肌の温もりも相俟って、どんな不眠症でも一発で解消出来るのではないかと、心底本気でホシノはそう信じている。現にワーカーホリックの気があるヒナも、シャーレでは安らかな寝顔を見せることが多く、

「休憩所としてもシャーレは一級だよ、ホントに。先生は優しいしご飯も美味しいし」

「教職を辞したらそういう商売を始めろという示唆かねそれは」

「……キヴォトス中の富が集中しそうだねえ」

 銀行からみるみる金を吸い尽くす、どころか銀行強盗してまで通い詰めそうな面々に複数心当たりがあるのが何ともまた。主に部長と部長補佐と副長と番外特務。

 ……残りの役職者全員投入すれば止められる、かなあ……?

 何かしらの要因で欲望側に心の天秤が傾けば全員敵になりそうだが。

 まあそんなもしもの未来はさておき、ホシノは顔を埋め直し至福の吐息を零す。桜と石鹸の香りを胸いっぱいに吸い込んでいると、苦笑した先生があやすようにこちらの頭を叩き、

「昨夜は日課のパトロールからシャーレの依頼で休みなく動き回っていたことだし、少しは休んで行けと言った私も原因の一端だが、……ここまで臆面もなくくつろがれると逆に感心するね?」

「うへへー、もらえるものはもらっとかないとねえ。肩の力抜かないと疲れちゃうしさあ」

「その通りではあるがね。一人で何もかも抱え込まれるよりは良い」

「……先生がそれを言うかなあ」

 半目で見上げるも首を傾げられた。だからホシノは溜め息と共に、

「つい最近も百鬼夜行で色々駆け回ってたんでしょ? 本当に大丈夫?」

「過保護なことだね全く。母親でもあるまいし気にし過ぎだよ」

「生徒に対して超過保護な先生にだけは言われたくない……」

 自立心を奪うようなことまではしないものの、危機の最中にあれば躊躇なく自身の命すら賭け皿に載せるような人だ。自分が知っている範囲だけでも全面戦争やら奈落ダイブでチャーシューやらカタコンベRTAやら成層圏ダイブやらオッパイフルオープンやら枚挙に暇がない。半分以上おかしい気もするがキチガイの言動なので深く考えたら負け。

 ……前者二つと最後については私が原因なんだけどね。

 藪蛇なので黙っていようと心に決めつつ、改めて先生の顔を見た。自称部員のグループチャットによれば、最低でも四十時間以上は起き続けているはずだ。そのくせ見た目は健康そのものなので、救護騎士団や救急医学部が凄く嫌そうな顔をしていたものだが、

「ちゃんと寝てる? 昨日も朝から仕事してたってデカシロコちゃんから聞いてるけど」

「先生という立場を下りない限り、二十四時間三百六十五日仕事中とも言える訳だがその辺りどう思うかね?」

「大事な書類を折り紙代わりにして遊ぶのも仕事?」

「用途がなくなればただのゴミだよ」

 相も変わらず口が回るというか、このノリでいつもとんでもないことを口走るから参る。以前もシロコとセリカが大オアシスの穴掘りが徒労に終わったことを嘆いていた時、

「シャベルやツルハシもまた人の生み出した文明の利器だが、技術とは常に進歩するものだよ。──重機の運転免許に興味はないかね?」

 などと笑いながらどこかに電話をしようとし始めたので全員で止めた。車に始まりバスやヘリに船舶まで運転出来る人が言うと洒落にならん。多分ショベルカーくらいは素知らぬ顔で操るんだろうなあ、と遠い目になった夕方が懐かしい。後日この話を自称部員の間でした際、セイアが興味深そうに頷いていたが大丈夫だろうか。ともあれ、

「またヒナちゃん共々実力行使で仮眠室に叩き込んだ方が良い?」

「笑顔で圧を掛けるのはやめたまえ。さすがの私も総長・副長クラスを同時に相手しては捌ききれん」

「……言外に単体ならどうにか出来るって言ってない?」

「銃火器なしの近接格闘戦に限れば、だがね」

 肩を竦めて言うようなことじゃないと思う。

 確かに純粋な力や耐久力において、先生は生徒に敵わない。だが指揮能力の高さから来る戦術・戦略面は先生の方が明らかに上だし、搦め手に関しては色彩戦の作戦担当クラスでもないと太刀打ち出来まい。ましてや先生という立場から生徒達をよく見ている身だ、相手の動きを読み切って封殺するくらいしてもおかしくないと、割と本気でそう思う。

 ……飛び付いて来たシロコちゃんやアリスちゃん回したり歩法でノアちゃん驚かせたりしてるからなあ……。

 ギャグでしか使わない為忘れがちだが、戦うだけの能はある。ミヤコやサオリといった明らかに戦闘慣れしている面々でさえ、組手で先生に土を付けたことはない。ミレニアムのダブルオーとて、三本勝負で最初の一回は負けているのだ。これでキチガイでさえなければ、というのは生真面目な面々が口癖のように言っていることだが、

 ……だからこそ、大体自分でどうにかしちゃうんだよね。

 かつてのホシノがそうだったように、己の能への自負があるが故、独力で解決しようとする。事実年季と経験が違い過ぎるし、様々な手管を以て道を拓く手腕は誰もが認めるところだ。無論、色彩戦のように個人ではどうしようもない事態もあるが、それらも生徒達の協力があればどうとでも出来よう。

 だが、そんな諸々を経て来たからからこそ気付いたことがある。

 先生は、基本的に生徒を頼らない。

 生徒の為なら躊躇なく周りの手を借りるが、自分のことについてはそうしないのだ。

 信頼されていない訳ではない。されてなかったらこんな至近に身を寄せることを許さないだろう。いや、まあ、先生頭おかしいからその辺雑な可能性もなくはないが、さすがにそこまでではない、はず。うん。

 話が逸れた。

 ともあれその前提で考えると、腑に落ちる点もあるのだ。

 例えばシャーレが部員を募集せず、バイトのような雇用関係で生徒と都度契約を交わす点。大義名分としては「超法規的権限を持つシャーレに所属することで生徒に降り掛かるトラブルを避け、全責任を雇用主である先生が負う為」とされているが、それは戦闘行為に限らない。ユウカやノアが手伝っている書類仕事とて、キッチリ時給分の支払いはしているのだ。当然ユウカは断ったものの、ある時は駄々を捏ね、ある時はヴェリタス経由で無理矢理口座に振り込み、またある時はセミナーに乗り込んで土下座したりと大人気ない所業の数々によって首を縦に振らされている。どっちが子供なんだか、と呆れもするが、

 ……後輩ブチのめして出奔したおじさんが言えた義理じゃないかな。

 大人として、先生として、隙を見せようとしないと言うべきか。生徒がどのような無理難題を持ち込んでも泰然と受け止め、共に解決に奔走するにあたり、無用な遠慮をさせない。そういうことだろう。不規則言動で煙に巻かれてばかりだが、付き合いが長いこともありさすがにその辺り分かって来た。

 ホシノのように極端な行動に出ることこそないが、拗らせ具合は相当なものだと思う。

 ……一切気にせずグイグイ行くシロコちゃんが強い訳だよねえ。

 色彩戦直後の一件については聞いている。ケイを失い、もう一人の己を救えず、足を止め掛けた先生をシロコが支えたと。

 そのシロコとて先生が弱音を吐いたところは、後にも先にもその一度しか見ていないという。

 無敵快進撃とか悪役無双などと呼ばれる先生の多芸っぷりはよく知っているし、アビドスを巡る事件の中で身に染みてもいる。だが先生とて一人の人間だ。辛いことや苦しいことがあれば当然傷付くし、むしろ生徒への入れ込みっぷりを考えると当人達以上にダメージを食らっているかもしれない。

 子供の未来を守れないことこそ、先生にとっては最大の後悔だから。

 一度に二人も失って、しかし立場故に泣くことすら出来ない内心はどれ程のものか。その内片方は最近帰って来たが、一歩間違えればより多くの生徒が、引いてはキヴォトスすら滅びかねなかった一件だ。彼女の半分程度しか生きていないホシノには、あくまでも想像することしか出来ない。

 それでもユメを失った挙句、対策委員会の皆まで失ってしまったら、と考えてみれば、その絶望は察するに余りある。

 だから、決めたのだ。

 この無茶苦茶で、頭がおかしくて、へこたれる場面など全く想像のつかない、だけど情が深過ぎる優しい大人を、皆で支えようと。

 自分にアビドスの皆がいてくれたように、先生の傍で、失われることのないよう全力で生き抜こうと。

 一人だけで何もかもどうにか出来るほど、世界は優しく出来ていない。もしそうであれば自分も先生も、もっと違う生き方をしていただろう。だが現実はこうであって、過去を変えることなど出来はしない。

 ならば、答えは一つだけ。

「もし先生が思い詰めて暴走したら、馬鹿者って言ってあげるから」

 何の脈絡もない宣言ではあったが、意図は通じたらしい。そういう人だ。肩を竦め苦笑した先生は、こちらのアホ毛を押しては放してバウンドさせつつ、

「いつぞやの意趣返しかね?」

「それだけ印象的だったからねえ」

 一度ならず二度までも言われた台詞だ、その記憶は全く色褪せていない。自分の節目と自覚出来る出来事だったこともあるが、

「私に馬鹿者なんて言えるの、先生くらいのものだし」

「キレた奥空君辺りなら言いそうな気もするがね」

 そうだけどそうじゃなくて。

「あれこれ難しく考えて自分を追い込む悪い馬鹿になるな、ってことでしょ?」

 後悔を残さぬように、どこまでも我を通すこと。

 仕方なくとか、状況に迫られてとか、そんなことを抜きに自分の思うまま進むこと。

 考えるまでもない。目の前の大人がまさにそういう生き方なのだから。

 普段から全力で馬鹿をやっているし、窮地においても綱渡りのような駆け引きを用いるが、自分で自分を追い込むような真似はしない。

 かつての彼女の言葉を借りるなら、自分を諦めるようなことをしないと言うべきか。

 周りが何を言おうと、道理や理屈がどうであっても、世間一般から見て正しくなくても。

 間違いじゃないと信じた道を、我武者羅なまでに突っ走る。

 同じ馬鹿なら、そっちの方が良い。そういうことだ。

 難しいことは分かっている。だけど不可能だとは思わない。だって、

「私にシロコちゃん達がいるのと同じように、先生にも私や自称部員の皆がいるんだからさ。先生とか大人とか抜きで、頼ったって罰は当たらないと思うんだよね」

 始まりは大人(先生)子供(生徒)。だがそこから経て来た互いの全ては、葵・硝子と小鳥遊ホシノという一個人のものだ。他の誰かであればまた違った道行きとなっただろうし、それはそれで今より良い未来もあったのかもしれない。

 だからこそ、自分達が必死で掴み取ったこの現在は、他の誰でもない自分達だけのものだ。

 ホシノが信じたのはシャーレの先生でもキチガイな大人でもなく、葵・硝子という一人の人間だ。

 だから気兼ねなく頼って欲しい。戦うことしか能がないとしても、全力で報いたいという想いは負けないから。

 そんな内心で見詰めた先、先生が吐息と共に肩の力を抜いた。ややあって、荒っぽい手付きでこちらの髪を掻き回し、

「さすがは対策委員会リーダーにしてアビドス生徒会長。言葉に重みがあるね」

 頭を撫でられる遠慮のない感触に目を細める。マトモに取り合っていないような台詞だが、本心で言っていることは表情を見れば分かる。ただ一つだけツッコミを入れるとするなら、

「先生が言うかなあそれ。まあ普段の不規則言動はヘリウムガスばりに激軽だけど」

「フフフ女子供は羽のように軽いと相場が決まっているものだよ。こんな風にね」

 いつもの雰囲気に戻った先生が、セミのこちらを抱えたまま身軽な動きで立ち上がった。

 ……おおう?

 不意の出来事に虚を突かれ驚きと照れの混じった声を上げ掛けたが、内心に押し込めたのでセーフ。そんなこちらに構うことなく、悠然とした足取りで歩き出した大人は、

「チョイと話し込んだことだし、飲み物でも用意しようか。リクエストはあるかね?」

 向かう足先は給湯室。ある意味執務室、キッチンと並ぶ先生の三大職場だ。本業が何だったか首を傾げるラインナップだがそういう人だし。ともあれお言葉に甘えることにして、

「んー、今はホットミルクの気分かな」

「承ろう。なら私はコーヒー牛乳と洒落込むか」

「あ、そっちもいいなあ。うーん悩むねえ」

「シャーレのドリンクバーはお代わり自由だよ?」

「いやいや、その度に先生歩かせるのも難だしさ」

「離れる気が微塵もない辺り見事だよ小鳥遊君」

 そりゃまあ、一人にはしないしさせないって決めてるからね。

 

     ●

 

 シェマタの一件が片付いた翌日。軽い仮眠を挟んだ後、最低限の事後処理に目途が付いたタイミングで、先生は解散を宣言した。当然、まだやるべきことが残っていると全員で反論したが、

「峠を超えたことですっぽ抜けているのかもしれないが、君達は二十四時間以上ぶっ通しで動いていたことを忘れていないかね? ──アドレナリンや休憩で誤魔化すにも限度がある。各方面の対応はこちらで進めておくのでいい加減しっかり休みたまえ」

 言われてみればノノミの誘拐から始まり、単身出奔しようとしたホシノを止めようとしたシロコとの相対戦、アヤネとセリカを打ち負かした後に市庁舎に配置された私募ファンドの兵力やカイザーとの戦闘、スオウの追走に対策委員会との再戦、ヒナとの相対に反転と暴走、もう一人のシロコの助太刀を経てセトの憤怒との決戦と、どう考えても一日に詰め込むようなボリュームではないのも事実だ。決着がついた安堵もあり、アビドスに戻ったところで生徒全員気絶するように眠りに落ちたものだが、

「それを言うなら先生だってシロコちゃん達とずっと動き回ってたんだし、休まないといけないって意味なら同じでしょ?」

「ははは、合流前シャーレが吹っ飛んで丸一日寝てたダメな大人が、ここ以外のどこで挽回する余地があると? それともアレかね? 私は肝心な時に寝てて全く役に立ちませんでした、とでも書いたプラカードをぶら下げて一年程過ごした方が良いかね?」

 本気でやりかねないので全員で止めた。遠因となったうちが自称部員から白い目で見られるし。

「……まあ真面目な話をすると、前線に立って戦っていた君達と比べて、後方で指揮官面していた私の方が余力があるのだよ。何せ丸一日寝てた訳だからね。加えて今回の件はゲヘナやハイランダーも関わる以上、慎重に事を進めねばならん。疲労困憊な状態で冷静な判断が下せる自信があり、なおかつ私の処理速度に付いて来れるなら手伝っても構わないが?」

 笑ってそう言われては名乗りを上げられる訳もなかった。先生の普段のハードワークっぷりを考えれば、まだまだ余裕だろうというのは嫌でも分かる。

 先生はバギーで送迎しようかと申し出たが、さすがにそこまで迷惑は掛けられない。仮眠や寝落ちのおかげか足取りは思った以上にしっかりしていたし、全員が一度帰宅することに不承不承ながらも、翌朝に再集合することとなったのだ。

 そんな中、先に後輩達を帰したホシノは、先生と二人で夜の校舎を歩いていた。

 少し時間をもらえないかと、そう声を掛けたのだ。

 拍子抜けするくらいあっさり承諾され、やや砂の散った廊下を歩くこと数分。窓の外、月を見上げた先生が苦笑し、

「懐かしいね。いつぞやもこんな風に話したことがあったものだが」

「あったねえ。珍しく先生が真面目な顔して、熱血教師みたいなこと言ってたっけ」

 そう、カイザーの一件の時は、まだ先生を信じ切れていなかった。というより侮っていた。まさか本気で他学園の助力を得てまでカイザーとの全面戦争に乗り出してくるとは思わなかったし、自分の腕がチャーシューになりかねないぶっつけ本番バンジージャンプまでするようなキチガイだとも思っていなかった。フツー思わない。死んでても全然不思議じゃなかったしかなり本気でやめて欲しい。言っても聞かないだろうが。

 だが、おかげで馬鹿な己にも理解出来たことがある。

 この大人は、絶対に子供の味方なのだと。

 どんな状況下でもあろうと手を伸ばすことを諦めないし、如何なる手段を用いてでも助けを求めて差し出された手を必ず取る。

 どうにかしようとするし、実際にどうにかして来たことは、何度だって目や耳にした。

 だからこそ、どうしても言わねばならないことがあった。

「ね、先生」

 歩調を早め、先生の前に回る。足を止めた大人の眼前、ホシノは深々と頭を下げ、

「ごめんなさい」

 言って、言葉が大気に溶けて消え、反応が返って来るまで優に三分は掛かった。

「……ぶっちゃけ、謝罪される理由が分からんのだが」

「……いやいやいやいやいや」

 思わずずっこけそうになって、慌てて身を起こす。見上げた先では先生が不思議そうに首を傾げており、腕を組むと身体ごと傾けて、

「実はこれから酷い目に合わせるので、先行して謝罪しておこうというアレかね?」

「先に謝るなら実行する意味が分からないし、後から皆に報復されるのがオチじゃないかな……」

 溜め息が漏れた。どうしてこう、先生といい皆といいなかなかシリアスにさせてくれないのか。類は友を呼ぶと言うし、他の部活も程度の差はあれ似たり寄ったりだから、中心にいる先生が大元な気がする。つまり今後もずっとそうっぽい。そっか……。そっかあ……。

「何を黄昏れているのかね小鳥遊君。夕暮れ時はもう過ぎたよ」

 誰のせいだと。

「何か凄い勢いで前言撤回したくなって来たけど、それは一旦置いといて。……今回の一件、ずっと迷惑掛け通しだったからさ。改めて謝っておきたくて」

「その件は日中全員に謝罪したろう。それで十分だし、後に尾を引かれる方が困るよ、私は」

 分かっている。皆もそう思っていたからこそ、茶化すようにして流してくれたのだと理解している。だけど、それとは別で先生にはもう一つ謝らなければならないことがあるのも確かなのだ。

「こういうのに順序を付けるのは良くないと思うけど、……やっぱり一番苦労したのは先生だろうから、さ」

 そう、馬鹿げたレベルで生徒に肩入れし、先生を全うする彼女だからこそ、生徒同士の対立においては手が出しにくくなる。どちらか一方に加担した時点で、相手側の生徒を見捨てるということになるからだ。それでもなお必要であれば行動を躊躇わないのがこの大人の恐ろしいところだが、覚悟があることと傷付くことは別だと思う。

 最古参クラスの自称部員であり、自惚れでなければ色々と目を掛けてもらっていた、長い付き合いなのだから。

 そこを一切の悔いなく割り切れるような、そんな人ではないのだ。この優し過ぎる大人は。

「だから、……本当に、ごめんなさ──」

「──馬鹿者」

 握った拳の甲で、頭頂部を軽く小突かれた。

 それは、あの時と同じ。あまりにも無茶苦茶な方法でカイザー基地から救い出された際、己の過ちを諫める際に先生が取った言葉と行動だ。はっとして頭を押さえつつ顔を上げてみれば、肩を竦めた先生が小首を傾げ、

「さて、改めて確認しようか。何故君は今、私に謝罪しているのかね?」

 は? と一瞬口に出し掛けた。理由なら先程説明しただろうに、何故問い返されるのだろうかと。だから、きちんと通じるよう言い方を変えて、

「……私の間違った行動で、先生にいっぱい迷惑を掛けて──」

「それがそもそもの勘違いだ、小鳥遊君」

 こちらの言葉を断ち切った先生は、真っ直ぐに青の瞳を向けると、

「──君は、間違ってなどいない」

 思ってもみなかった言葉に、思考が止まった。だが彼女は構うことなく、それこそかつてこの場で己を諭した時のように、

「やり方は正しくなかったかもしれない。パッと思いつくだけでも話を聞かないわ後輩をブチのめすわ一人で解決しようとするわで、減点ポイントを挙げて行くと枚挙に暇がないのは紛れもない事実だが──」

「今フォローと見せ掛けておじさんディスられてる?」

「非常に珍しいことにシリアスを維持しているのだから茶化さず聞きたまえよ」

 正論だけど凄く理不尽に思うのは心が狭いだろうか。ともあれ、

「あれだけ頑なだったのも、対策委員会の皆を大事に思っていたからだろう。大事で、掛け替えのない存在で、己の何と引き換えにしても守りたいと思うくらいには、彼女達を大切に思っていた」

 ならば、

「それは間違いではなく、すれ違いと言うのだよ。その線引きを誤ってはいけない」

「────」

 いいかね?

「人間焦ると視野が狭くなり、ベストではない回答であっても「これしかない」と固執しがちなものだ。例え冷静であっても、一度決断したことに対し踏み止まるのは容易ではない。結果上手く行かなかったとしても、私はそこに怒りの感情を抱きはしないよ。死ななければ、諦めなければ、いくらでも取り返しは利くのだから」

 気付いていなかったのかね、と苦笑交じりに先生は言う。

「だから以前も今も、こう言っているのだよ。──馬鹿者、と」

 何か、随分と無茶苦茶なことを言われている気がする。いや、まあ、普段からキチガイ的な意味で無茶苦茶ではあるのだが、今回は真面目な意味で無茶苦茶だ。何しろ先生の言を鵜呑みにするのであれば、悪意を以て行動したのでなければ構わないということで、

「……先生は、それで良いの? 迷惑とか手間とか、他にも色々負担があるのに、そんな一言で許せるの?」

「許すも何も、そもそもこの仕事自体が趣味の範疇だよ。迷惑だとも、手間を掛けられたとも思っていない。何しろ私は類稀な才覚を持ち行動力溢れた自他共に認める天才なのだからね」

 小鳥遊君、とこちらを呼んだ先生が距離を詰めた。目の前で屈み、視線の高さを合わせた彼女は、

「今回の件も、梔子君のことも、君はずっと抱えて行くだろう。折に触れて思い出し、後悔して、至らなかった己を責めることもきっとある」

 だとしても、

「君の願いは、意思は、決して間違ってなどいなかった。……私はそう思うよ、小鳥遊君」

 真っ向からぶつけられた言葉に、ホシノは俯いた。歪んだ視界を前髪で覆い、震える声をやっとのことで絞り出し、

「正しくないけど、間違いじゃなかった、って、……そう信じて、良いの?」

「去って行った相手のことを引きずるのはよくあることだよ。知っての通り私もその口だ。私が今偉そうに講釈を垂れていられるのも、君の五倍程そういった時間を過ごしているからに過ぎない。だから君も完全に吹っ切るのに、あと八年くらいウダウダやってても構わないのだよ」

 だから、

「──今までよく頑張った」

 その言葉を脳が理解した瞬間、肩口に顔を埋めるようにしてしがみついていた。

 石鹸と桜の香りに包まれる中、先生のジャケットに目尻から溢れた雫が染み込んで行く。

 参った。

 夢の中でのユメとの邂逅で、もう涙など完全に枯れ尽くしたと思っていたのに。

 どれだけ自分で自分をダメだと思い、悔やんでも、絶対の信頼を預けてくれる人がいる。

 かつていたその人は、もういなくて。新しいその人は、似ても似つかない程デタラメだけど。

 ちゃんと、ここにいる。

 正解じゃなくても、失敗ばかりでも、間違っていないと胸を張って言える方向へ導いてくれる。

 改めてその意味と有り難さと、溢れんばかりの嬉しさを噛み締めて、

「……うん」

 頭を撫でられる感触に、少しだけ先生に甘える自分を許した。

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