グラスアーカイブ   作:外神恭介

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先生は、どちらを選びますか?

 曰く、怖い。

 曰く、圧が凄い。

 曰く、夢に見そう。

 曰く、何を考えているか分からない。

 問題児の後輩を筆頭に、時たま投げ掛けられる己へのイメージ。それらに対して思うことがないと言えば嘘になるが、表には出さないようにしている。生徒会の一員として、そういった外聞が交渉において有利に働くと分かっているから。なまじユウカが情状酌量を利かせがちな為、付け入られないよう締めるべき場面では締める必要がある。それは彼女ではなく、自分が成すべきことだろう。

 生塩ノアは、特別ではないから。

 取り柄と言えるのは記憶力だけ。演算能力はユウカに及ばないし、加えて彼女のような人柄も人徳もない。例えば晄輪大祭の準備において、多忙な彼女の為にと多くの面々が協力してくれたが、自分が同じ状況に置かれた時同様の結果を勝ち取れるかは疑問だ。

 能に限らず、そういった個性が彼女にはある。

 彼女のスキルに比べれば己の記憶力など、スマホの録音機能や録画機能など幾らでも代用が利く。ユウカの演算能力も端末で代用出来るが、投資などに生かされる経験則や読みなどは彼女自身の努力の賜物だ。機械でそれを再現するとなれば、途方もない時間が掛かるだろう。そしてお株を奪われたとて、彼女には別の個性がある。

 記録を司る書記。それ故公平で、客観的であることが求められる。特別ではない己だからこそそれが出来ていると考えれば適材適所なのだろうが、それでも時折、憧憬に似た思いが込み上げるのは否定出来ない。

 私もああなりたかった、と。

 

     ●

 

「……さて、片付けはこんなところでしょうか」

 束ねた書類の角を揃え、封筒に収めたノアは肩の力を抜いた。

 夜も更け、日付変更を目前にしたシャーレ執務室。普段は賑やかなこの場所も、時間が時間故に静かなものだ。聞こえるのは空調の駆動音と、PCのファンが回る音、そして、

「どうにか大枠は纏まったことだし、後は各学園で詰められるだろう。可決されるまで気は抜けないが、まあ問題はないだろうね」

 盆を手に歩み寄って来た先生が、苦笑と共にマグカップを差し出して来た。湯気を立てるそれを一礼して受け取り、中身を見てみれば、

「あら? ホットミルクですか?」

「本日の仕事は終了だ。今からコーヒーを飲んで目が冴えたら困りものだろう?」

「ふふ、それもそうですね」

 苦笑を返し、再度頭を下げてから口を付ける。人肌程度に温められたミルクを喉に通すと、自然と息が零れ落ちた。

 何だか一気に気が抜けた気がするが、今はまだ公の時間。隣、立ったままカップを傾けている先生を見上げ、

「改めて、お疲れ様でした。先生」

「お互い様、と言っておこう。生塩君こそ、片付けまで手伝わせてしまってすまないね」

「いえいえ。皆さんお疲れでしたし、今は私しかいませんので」

 見回す室内、応接用テーブルセットの上には、複数人分のカップがある。その傍らにはミレニアムのみならず、ゲヘナやトリニティのエンブレムが付いた封筒も置いてあった。

 生徒の溜まり場となっているシャーレでは、各学園の代表クラスが仕事を持ち込んで処理している姿もよく見る光景だ。だがそれはあくまで個々の学園の業務であり、複数校に跨るような案件はない。そういった件は概ね連邦生徒会の担当だし、仮にあったとしても基本は実働で、総長連合が対処することになる。

 だが今日の一件に関しては例外で、生徒会としての仕事だった。その内容というのも、

「当たり前な話ではあるが、数百数千規模の学園が存在するとなると色々気を遣うものだね、──修学旅行の企画は」

 と、感慨深そうに零す先生の言葉が、まさにその通りのものだ。

 幾ら広大なキヴォトスといえど、大量に存在する学園が一斉に修学旅行を行えばパンクする。移動教室は三日前後、それも自治区内で済ませるパターンが多いが、さすがに修学旅行は他自治区へと、しかも一週間単位で繰り出すものだ。バッティングは勿論のこと、トラブルに備えた受け入れ側の準備なども事前に進めておかなければならない。

 特に三大学園の修学旅行の動向は、最優先で決定しておかねば他学園の予定にまで影響を与える。

 その為本日召集されたのが、ユウカやナギサにセイア、ヒナなど各学園の役職持ち。生徒会ではないヒナがゲヘナ代表として来ている点は、当然先生が手を打ってある。先生とヒナで纏めた内容をイロハが受け取り、己の成果物として万魔殿に提出する手はずだ。イロハはサボった上で仕事をこなしている風を装えて良し、ヒナとしても無用なトラブルを避けて警備などの予定を組めるので良し。万魔殿の議長もそれを見越してか、予め希望や予算などは先生とイロハに雑談という体で横流ししており、先生という潤滑剤の重要性をしみじみと実感する。色彩襲来直前に開かれた非常対策委員会のグダグダぶりを聞いていると尚更に。

 そんなこんなで大体いつもの顔触れだが、冷静に考えるとこのクラスが顔馴染みでダベっているという時点でシャーレの異常さがよく分かる。昼過ぎから各自治区の繁忙期などの情報と睨めっこしつつ、カレンダー片手に議論を重ね、どうにかスケジュールを仮決め出来たのがつい三十分程前のこと。これらを各学園に持ち帰って決定した後、他学園の予定も順次決定して行くという流れになる。そこまで行けばシャーレと各学園での個別対応で済むのだが、

「毎度のことではありますが、ゲヘナとトリニティについては気を遣いますね……。バッティングどころか多少近場というだけで騒動の火種になりかねませんし」

「エデン条約が纏まっていたらその辺りもマシになっていたかもしれないね。私が引率するのが手っ取り早いのだが、さすがに三桁超えの生徒は私の目が届かない恐れがある」

「届かない、ではない辺り十分過ぎると思いますが……」

 付き合いが濃い為麻痺しがちだが、それでも時たま先生の人外っぷりには空恐ろしさを覚える。今日の会議とて資料をめくりながら議論する生徒達に対し、先生はといえば積みプラモを消化しつつ的確に助言を入れていて、

「……あの、先生? ご助言いただけるのは大変ありがたいのですが、まさかこれらの資料の内容は……」

「ああ、──会議前の十分程で暗記した」

 質問したナギサが辞書並に分厚い資料を取り落としてドン引きしていたが、そんなにおかしなことでしょうかね……、と微妙に自分もダメージを受けたりしつつ。この場合プラスアルファで多様なスキルを併せ持つ先生がおかしいのか、はたまた一芸とはいえ先生に匹敵し得る自分がおかしいのか。まあナギサは自分達やヒナと違い最近出入りが増えた組なので、慣れていないのはしょうがない。シャーレでやって行くのに一番大事なのは適応力。現に今回も先生が用意してくれたお茶請けや夕食の相伴に与れましたし。

 ともあれ会議は無事終了。疲れが溜まっていたのか舟を漕ぎ始めていた面々を、先生が抱えて客室へと運搬。その間に自分とセイアで軽く片付けをして、一息ついたのが現状だ。ちなみにセイアはピンピンしていて、片付けに目途がついたところで風呂桶片手にシャーレの大浴場へと向かって行った。最近自由人ぶりが増しているようだが、本人が楽しんでいるならそれで良いと思う。ノア自身も今日の打ち合わせは、実利とは別で得るものが多かった。

「それにしても皆さん、──寝ている間に先生がお姫様抱っこで運んでくれたと知ったら、可愛らしい反応をしてくれるでしょうね」

「うむ、特に寝惚けてしがみ付いて来た早瀬君など、今後長いことネタに出来るだろうね」

 親指を立て合った。ノアもセイアも先生も、この手のネタでからかう側だったのが運の尽き。ゲヘナ生不在だったヒナはともかく、ユウカもナギサもしばらくは弄られることだろう。特にセイアは容赦なくナギサを撮影していたので、物証プラスミカの追及が加わりとても良い反応をするに違いない。政務ばかりの彼女には強制的な良い息抜きとなるはずだ。

「時に生塩君は大丈夫なのかね? 早瀬君共々調月君の穴埋めで、色々と駆け回っていると聞いているが」

「私はユウカちゃん程根を詰めていませんから。……それとも、先生としては口実が欲しかったですか? 私へのお姫様抱っこ」

 笑みと共に問い掛けると、先生が上を見た。が、即座に良い笑顔をこちらに向けて、

「それは非常に魅力的だね。以前腰が抜けてしまって抱き上げた際は一週間近く尾を引いてマトモに顔が見れなくなっていたが、あれからどれだけ耐性が付いたのか、などとても興味がある」

「うっ……!?」

 思わぬカウンターを食らって顔を背けた。頬が紅潮していると自分でも理解出来てしまうのがどうしようもない。

 この手のポジションは基本ユウカで固定されている上に、優れた記憶力を持つノアに口で勝てる相手などそうはいない。それ故自分が食らう側になる経験が全くと言って良い程ないだけで、これは決して私が単純とかチョロいとかそういうことではないはずです。そんな誰に聞かせるでもない言い訳を心中でしていると、先生が小首を傾げ、

「それとも、生塩君の方こそ口実が欲しかったのかね? 自分が望んだ訳ではなく、私の要望で仕方なく抱き上げさせてやったのだ、と」

「……ナギサさんが時折頬を膨らませながら先生を見ている理由がよく分かりました」

「お褒めいただき恐悦至極だよ」

 平然と言うこの大人には一生勝てまい、と幾度目になるか分からぬ感想をノアは抱いた。今回で累計四百十三連敗。今日顔を合わせた面々とも徒党を組んで挑んでいるが、黒星を付けたことは未だにない。小さく溜め息を零すと、先生が苦笑を浮かべ、

「まあ、私の場合は周囲の連中がどいつもこいつも口達者な上にメンタルがダイヤモンド級だったものでね。むしろそんな修羅の国出身を言い負かすような子供がいる方が頭を抱えるよ、私は」

「言われてみるとそんな気もしますけど、今後も先生無双が続くという犯行予告のような……」

「早瀬君や才羽姉君のように翻弄されるのも可愛らしいが、こうして生塩君と駆け引き染みた応酬を交わすのも楽しいと思っているよ? いつでも掛かって来たまえ」

「先生がストロングスタイルだということはとてもよく分かりました……」

 苦笑し、冷め始めたミルクを口に運ぶ。これを飲み終えたら軽くシャワーを浴びて、泊まりからの朝帰りだろう。セミナーとしての業務は粗方片付けて来たので、明日はゆっくり過ごしても問題ない。ただ、

 ……どうなんでしょうね。

 ちょうど良い機会かもしれない、と思い直し、ノアは傍らの大人を見上げた。カップ片手にスマホを操作している先生は、何やら取り込み中のように見えなくもないが、この人の場合真剣な表情でガチャを回すくらいはよくあるので気兼ねすることなく、

「ところで先生、一つお聞きしても良いでしょうか」

「スリーサイズかね?」

「違います」

 笑みで言うと狂人がスマホを懐に仕舞った。

 そのままこちらの対面に当たるソファーに座ろうとして、しかしナギサが持って来た菓子折りや先生のプラモで埋まっていた為方向転換。こちらの隣に座り、続きを促すように頷く。だからノアも遠慮なく、

「例えば、の話ですが……、先生の前に、二人の生徒がいるとしましょう」

「私の目には生塩君しかいないように見えるのだが、実は幽霊が見えるクチかね?」

「真面目な話ですよ?」

 笑みで言うとキチガイが大人しくなった。

 

     ●

 

 嘆息一つで意識を切り替え、ノアは口元に手を当てる。考えを整理し、纏まったところで口を開き、

「では改めて、先生の前に二人の生徒がいるとしましょう」

 それは、

「片方は、感情豊かで、分かりやすいくらいお人好しな、誰からも好かれるような子で」

 そして、

「片方は、あまり表情が変わらず、何を考えているのか分かりづらい、敬遠される子で」

 だけど、

「そんな生徒が二人、目の前で危険な目に遭っていて、どちらか一人しか助けられないとして、……先生はどちらを選びますか?」

「両方助ける以外に何があると?」

 即答だった。

 ノアとしては、予想出来た回答だ。大人として、先生として、彼女は必ずそうするだろう。だけど、自分が問いたいのはそこではなく、

「ですが両方を助けようとすると、どちらも助けられないということが分かりました。状況は切迫していて、すぐにでもどちらかを選ばなければなりません」

 さあ、

「先生は、どちらを選びますか?」

「それでも両方助けるが、何か問題でも?」

 一瞬の躊躇もない即断だった。

 

     ●

 

 薄々予想はしていたが、ここまでノータイムで返されるとは思っておらず、ノアは一瞬思考が止まったのを自覚する。だが内容はどうあれ先生はこちらの問いに答えていて、会話としてはこちらのターン。だから、内心の焦りや混乱を抑えられぬまま、

「り、両方は助けられないんですよ? そもそも設問の前提として、どちらかを選ぶしかありません。先生の回答は答えになっていませんよ?」

「はははつい先程盛大にカウンターを食らった身でよく言った。ならばこちらも懇切丁寧に答えよう」

 目が笑っていなかった。

 先生のこんな表情を見るのはアリスを救いにエリドゥへ乗り込んだ時か、或いは虚妄のサンクトゥム攻略戦の打ち合わせ時以来か。隣に座ったまま、しかしこちらに身を向けた大人が、いいかね? と前置きした上で、

「どちらかしか助けられない、それはあくまで出題者である生塩君の主観による判断だろう。実際に現場を目の前にしたら、違う解が見えるかもしれない」

「それは詭弁と言うのでは……」

「通れば正論だよ。という訳で検証のお時間だ、片方しか助けられないシチュエーションを述べてみたまえ、ほら」

 何故問うた側のこちらが詰められているのだろうか。ええと、とノアはしばし考え、月並みな例えではあるが、

「……高所から落下中で、パラシュートが先生含め二人分しかない、とか」

「パラシュートを生徒達に渡して、私は水場目掛け軌道変更。姿勢制御でなるべく速度を落とし、落下中に救援の手配もしておく」

 というかだね、と先生が半目になり、

「未だに生徒達から擦られるネタだが、デカ狼君を優先し上空七万五千メートルからダイナミックフリーフォールキメた女だよ私は。パラシュートが利用可能な高度から落ちたくらいで死ぬとでも?」

 説得力が尋常じゃなかった。

 

     ●

 

・あろな:『は、離してくださいプラナちゃん!! さすがに今の発言には仏のように心の広いアロナちゃんでもプンプンです!!』

・プラナ:『アロナ先輩、落ち着いてください。全面的に同意したいところですが暴力はいけません』

・私  :『ははは今日も二人は元気で良いことだ。いざという時に限らず頼りにしているよ』

・あろな:『うわあああ任せてくださいって言いたい自分と素直に頷きたくない自分がいますうううう!!』

 

     ●

 

 テーブル上に置かれたタブレットを一瞥した先生が、いいかね? と二度目の前置きを作った。

「大前提として覚えておきたまえ。……世界とは、不完全なのだよ」

 それはどういうことかと言えば、

「世界には理不尽で、不条理で、やってられないようなことは幾らでもある。アビドスを襲った砂嵐がそうだし、弾圧により逃れるしかなかったアリウスがそうだし、多くのものを失ったデカ狼君がそうだ。もしも世界が完全で、公平で、道理が伴っているのなら、彼女達は今と違った生き方をしていただろう。努力は必ず報われる、などということはない」

 だが、

「だからこそ、この世に絶対など存在しないのだ」

「……はい?」

 ネガティブな前置きから至ったとは思えない断言に、思わず聞き返してしまった。が、先生は苦笑と共にシャーレのストラップを揺らし、

「法、資産、立場、権力、そういったしがらみによって行動の選択肢が狭まることはあるだろう。己が望んだ通りに行く方が珍しく、泣く泣く諦めざるを得ないことだってある」

「なら──」

 口を挟もうとする己に手の平を向け、だとしても、と彼女は言った。

「だとしても、それらに対して何かを思うことまで禁止される謂れはない。クサい言い方をすれば、心はありとあらゆるに対して自由なのだ」

 何故なら、

「我々は物語の登場人物ではない。選択を強いられても、望まぬ道を選ばされても、意思までは変えられない。何を思い、何を願おうと、それを他から否定される理由はないのだよ。否定されたところで、感情は止まらないのだから」

「────」

 分かるかね?

「人の行動を選ぶのは意思だが、それを決めるのは気分だ。出来ないとか、不可能とか、そんなことは問題ではない。理性によって語られる理屈など後付けの説得力でしかないのだからね。心がそちらを向いて、動こうと決めたのなら、それが当人にとっての正解だ」

 だから、と肩を竦めて先生が笑った。

「私がそうしたいからそうするだけだ。パラシュートを譲るのも、上空七万五千メートルからフリーフォールキメたのも、キヴォトスで先生をやっているのも、突き詰めればそれだけの話だよ。その為にありとあらゆる手と力を尽くし、我を通すのが生きるということなのだと、私はそう思っている」

 言って、先生がこちらに触れた。無責任に、しかし気楽に、励ますように軽く頭を叩いて、

「あまり表情が変わらず、何を考えているのか分かりづらい、敬遠される子。それもまた誰かの主観だろう? 印象など所詮は個々の主観の最大公約数に過ぎず、それがその人の全てではない。……私から見たらよく笑い、茶目っ気のある、繊細だが頼りになる子だと思うがね。友人や身内の為に頑張ることの出来る子だ、とも」

 それは、

「誰だって持っている、しかし突き詰めればその当人にしか持ちえない、世界に一つだけの個性だ。それが己の望む通りの道行きへと挑むのならば、私はそれをただ手伝う。そういうことだよ」

 

     ●

 

 それは、先生がキヴォトスに来た初日。シャーレオフィスビルを奪還し、連邦生徒会の行政再開に目途がついて、その一助を担った友人に、どんな大人なのかと聞いた時のこと。

「……何と言うか、一言で表すのはMURIね。胡散臭くて、飄々としてて、突拍子のないことを言うし、何をしでかすか分からないし、自分で言っててどうしたものかと頭を抱えたくなるような無茶苦茶な人だけど──」

 己の左手に視線を落とした友人は困ったように、しかし嬉しそうな笑みを零し、

「目の前の相手に対して、どこまでも本気になれる人、かしら」

 

     ●

 

「……無茶苦茶ですね」

 ふと、ずいぶんと前に交わした会話を思い返し、苦笑を零しつつノアは言った。空になったカップを置き、肩の力を抜くと、

「二者択一の選択問題から、どうやったらこんな着地点に話を運べるんですか」

「試験ではないのだから成否を計るものでもあるまい。これが私の答えだ、と言っただけに過ぎんよ」

「だとしても設問が間違っている、なんて屁理屈にも程がありますよ?」

「大人とは得てして屁理屈が上手い生き物でね。ましてや交渉役などやっていると、心にもないことを呼吸のように口にするものだ」

「あら、それでは先程の言もそのつもりで?」

「何をどう伝えたところで、相手がどう受け取るかまで外から決められるものではあるまい?」

 本当に、ああ言えばこう言う人だ。だがそこに嫌気や不快なものはなく、どんな風に自分の想像を超えてくれるのかという期待に似た楽しみがある。

 正直に言ってしまえば、諦めたかったのかもしれない。

 先の問いだって、大抵は前者を取るだろう。どちらかを選ぶものではないと、そう口にする者もいるだろうが、実際に直面した時そのように振る舞えるものは少ない。現実には、手に取れるものに限りがあって、時には酷な選択を決断しなければならないことだってある。

 だが、目の前の大人は違う。

 どちらかしか助けられない、なんて安易な解を認めない。一手しくじれば自分が危険な目に遭うとしても、平然とそれをやってのける。失われることを、諦めによる喪失を、何と引き換えにも否定する。

 これまでだってそうして来たのだ。嫌と言う程分かってしまう。

 公平で、客観的であることが求められる書記が、特定の個人に執着すべきではない。ましてや可愛げがないと自覚までしているのだから、勝ち目のない勝負に挑むなど馬鹿のやることだろう。

 だけど、馬鹿で良いのだ。

 勝算など関係ない。心がそちらを向いて、動こうと決めたのなら、もはやそうするしかないのだ。

 感情は止まらないのだから。

 失われることを止める大人が、これまでそうやって道をつけて来たように。

「先生」

 呼び声に、隣の大人が振り向く。そんなありふれたことがただ嬉しくて、だからノアは、

「えいっ」

 勢いを付けて寄り掛かった。

 引き締まった長身は、容易にこちらの身を受け止めた。程なく桜と石鹸の香りが来て、しかし彼女は動じることもなく、

「生塩君がストレートに甘えて来るとは珍しいね」

「あら、先生が促してくださったんですよ?」

 だって、と肩に頭を乗せて、

「私がそうしたかったから、です」

 言ってやると、僅かに間を置いてから先生が笑った。苦笑混じりに、こちらの頬に掛かった髪を払いつつ、

「お姫様抱っこの代替にしてはずいぶん安上がりだね」

「ふふ、いけませんか?」

「もっと欲深くなっても罰は当たらないと思うが?」

「心配は要りませんよ。分割払いということにしてもらいますので」

「ちゃっかりした子だね全く」

「お褒めいただき光栄です」

 やや冷えた夜の空気故、服越しとはいえ触れ合った温もりがダイレクトに伝わって来る。セイアが戻って来るまでには離れようと思いつつ、ノアはゆっくりと目を閉じた。

 遠回しでも、婉曲的でも、こちらを過たずに見てくれる人がいる。ならば変に悩んだりせず、思うままに動けば良いのだ。己がどうであっても、向き合い、受け止めようとしてくれるのだから。

 そんなありふれた、しかし得難い幸いがただただ嬉しくて、だから零れる笑みをノアは止められない。止めようとも思わない。

 願わくは、いつか彼女にとって自分との時間が、大きな比重を占めるものになりますように。

 

     ●

 

「聡いが故に愚かというのも、先生の言う「世界は不完全」の証明ということか。……私が言えた義理でもないが、ね」

 と、薄く開いた執務室の扉から離れ、セイアは小さく息を吐いた。

「ネガティブな現実は子供に伏せたがるのが大人だろうに、本当に型破りな人だよ、君は。いや、だからこそシャーレの先生などという大役が務まっているのか」

 要らぬ心配だったかな、と零し、手にしたスマホを一瞥。映っているのはモモトークの画面で、風呂に行く前先生に送ったメッセージが一つ。ノアの様子がおかしいように見える、というセイアの言に対し、返答にはただ一言、

「シャッター音は切っておくように」

 何言ってるか分からん。だが平常運行だ。つまりいつも通りであり、心配要らないということだ。現に覗き見た先で、我らがシャーレの書記は柔らかく笑っていた。ならばこれ以上の気遣いは野暮だろう。

 だからセイアは、届かぬと分かっている一言を残し、自身に割り当てられた客室へと歩き出した。

「もっと気楽に生きたまえ、ノア。君の周囲が、君を正しく理解しているかは分からないが……」

 苦笑。

「──君が思っている程、ここの連中は君を誤解してはいないよ」

 

     ●

 

 翌日、セイアから送られて来た先生とのツーショットを目にしたノアが、動揺と羞恥から復帰するまで一週間を要した。

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