「動くな!! シャーレの討ち入りだ!!」
扉を勢い良く開け放って飛び込んで来たキチガイに対し、ゲヘナ学園風紀委員会の反応はおおよそ三つのパターンに分類された。
「あ、どうも」
一番多いのが、役職なしの構成員を主にした、下手人の正体を悟り、慣れたものとして挨拶を返す者。
「先生」
次いで多いのが、ヒナやチナツ他一部の一般生徒を主に、好意的に迎え入れる者。そして、
「げっ」
最後が約二名、あからさまに嫌そうな表情を浮かべる者だ。その片割れに対し、狂人が獲物を見付けたように視線を向け、
「やあやあ銀鏡君!! 今日も変わらず第一声からツンだね!! 私は辛抱強いので全く問題ではないが、たまには初手からデレてくれても一向に問題ないよ!? さあ本日のみかじめ料の時間だ!!」
「うわあああああ!!」
ダッシュで迫って来たキチガイから、イオリが全力で逃げ出した。
キヴォトス住民に対し、
「待ちたまえ!! この件について言い出したのは銀鏡君の方だろう!? 契約は正しく履行されねばなるまいよ!!」
「それはもういいって何回も言ってるだろおおおお!?」
ナチュラルにイカレた相手から追われているというプレッシャーで、冷静な判断力を奪うという心理戦など。と、苦々しい表情のもう片翼であるアコは半目で思った。
……嫌がる女生徒をあらゆる手段を使って追い詰める大人ですか……。
大人気ない、という言葉を体現するのに、これ以上の存在はあるまい。コレがエデン条約や色彩の襲来においてキヴォトスを救う主力となった人間の姿だなどと、誰もが信じたくないだろう。だが現実は非情であり、いつだって理不尽で不条理なものなのだ。今まさにそれに見舞われているイオリからすれば堪ったものではないだろうが。
「ハイ確保──!! 記録は一分五十七秒、まだまだ修行が足りんな銀鏡君!!」
「誰か!! 誰か!! 現在進行形で不規則言動してる不審者が目の前に!!」
全員が顔を背けた。巻き込まれたくないからだ。遠巻きに見物している分には良い娯楽だが、当事者にはなりたくないというのは先生を知る者の凡その共通見解だろう。自分から混ざりに行く自称部員の一部とかいう狂人一歩手前の連中は知らん。触らぬ神に祟りなし。
捕獲したイオリを抱き上げて三回転したキチガイが近くの椅子に彼女を座らせ、いそいそと目の前で膝をつく。慌ててイオリは周囲を見回し、やがて奥のデスクで書類を決裁している姿に目を留め、
「い、委員長!! 委員長助けて!!」
呼ばれ、ヒナがゆっくりと面を上げた。そのままイオリを見て、キチガイを見て、二、三と頷くと視線を戻し、
「先生を侮ったイオリの落ち度よ。授業料だと思って大人しくしなさい」
「委員長──!?」
無慈悲であった。というかこんな頭のおかしい状況にヒナの貴重な時間が六秒も割かれるとか無駄の極みにも程がある。だがそんなことは気にも留めていないのか、キチガイは不思議そうに首を傾げ、
「そうは言っても、結果的に銀鏡君の足を舐めたおかげで空崎君との話し合いに持ち込めたのは事実であり、小鳥遊君の奪還にも成功したのだから礼を尽くして対応せねばならんのは当然だろう」
故に、
「私は銀鏡君の提示した条件である「跪いて足を舐めろ」を誠実に実行しているだけなのだが。……何かおかしなところでも?」
「頭!! 全体的におかしいけどまずはその頭の中!!」
どこからどう見てもどう聞いてもイオリの反論に全面同意なのだが、先生がイカレてるのは今更だ。自由と混沌をモットーとするゲヘナにおいてはスルーされがちだが、他の自治区で通報を受けて駆け付けたら先生だったなんて例は枚挙に暇がない。変質者では決してないが、不審者や異常者というレッテルは否定の余地すらないだろう。アコも以前おもちゃ屋のショーウィンドウに貼り付いているコレを見た時は蹴りをブチ込んで引き剥がしたものだ。
……いや、無視して通り過ぎれば良くありません?
遅まきながら気付いて愕然とした。常識人を自任する身でありながら、狂人のキチガイワールドに飲み込まれていたとは。だが相手を黙っていられない気分にさせるという一点において、マコトと同等か超え得るのが彼女だ。無視するにも多大な精神力を要するし、それならその場で物理的に対応した方がストレスはない。よし、正常ですね。私は悪くありません。悪いのは全て先生です。悪役ですし。
安堵と共に肩の力を抜き、改めてアコは手にした書類に意識を戻す。内容はいつも通り万魔殿のふざけたものだが、予算案となれば真面目にやらねばなるまい。年末を前に風紀委員会も多忙なのだ。いくら視界の端で想像を絶するキチガイ時空が展開していようとも、仕事を止める理由にはならない。手早く片付けて大晦日や三が日くらいは平穏に過ごさねば。特に委員長のワーカーホリックぶりを考えると、一週間くらいシャーレに叩き込まねば休まるまい。誠に遺憾ながらヒナの休養という一点において、先生を超える人材はキヴォトスにはおらず、
……あれ? もしかして私、キチガイの巣窟に委員長を送り出してませんか?
二度目の愕然に手が止まる中、キチガイ時空で動きが生まれた。席を立ち、イオリのブーツとソックスを脱がしに掛かっている狂人の元へ歩みを進めるのは、
「先生」
チナツだ。
「いけません先生。手洗いうがいなどで比較的清潔に保ちやすい手指とは違い、足は雑菌が繁殖しやすいのです。ましてイオリはブーツ派、通気性が悪く蒸れやすいので、その傾向は跳ね上がります」
元救急医学部らしい正論の説得に、二対の視線が向けられる。救いを期待する切実な眼差しと、何事だろうという疑問の目と。それらを受け止めたチナツは先生の隣に屈むと、ポーチから取り出した消毒液を脱脂綿に吹き掛け、イオリの足を拭い、
「さあ、どうぞ」
救いの女神ではなく退路を断つ悪魔であった。
「うむ、見事な手際感謝である火宮君」
「チナツぅ──!?」
突然の裏切りに絶叫するイオリがさすがにやかましくなって来た。これ以上騒がれると仕事の邪魔なので、溜め息交じりにアコは手を挙げる。
「先生? イオリを庇う訳ではありませんが、──委員長と話し合う直前の時点でその契約は履行済みなのでは?」
現場を直接見た訳ではないが、当事者二名の自己申告によると条件自体は達成されているらしい。そして小鳥遊ホシノ救出、並びに援護の返礼として風紀委員会への協力という契約が果たされている以上、もはやイオリの足を舐める義務はない。
カイザー相手に舌先三寸で億単位の利権をもぎ取った彼女が、その程度のことに気付いていないはずもないだろう。
ならば何故、と問う眼差しを向けた先、先生は再度首を傾げた。やれやれ、と呆れのポーズさえ付けて、
「何を言っているのかね天雨君。銀鏡君の提示した条件にはいつ・どこで・どのようになど具体が一切欠けている。そして既に風紀委員会の助力を得てしまっている以上、契約の不履行は私の評判や沽券に関わる。ならばどうするか、答えは自明だろう」
もっともらしく頷き、狂人は言った。
「二十四時間三百六十五日、……とは行かないのが不徳だが、銀鏡君と鉢合わせる都度跪いて足を舐める他あるまい?」
正気が削れる、と悟ったアコは、大人しく匙を投げることにした。
多分、何が間違いだったのかと言えば。こんな屁理屈と暴論が服着て歩いてるようなキチガイ相手に、冗談でも足を舐めろなどと吹っ掛けたイオリのミスだろう。
ではどうするか。答えは単純だ。
触らぬ神に祟りなし。
「仕事の邪魔なのでイオリを連れて退室してください」
「アコちゃああああん!?」
笑顔で出口を指差しながら言うと、見捨てられたイオリの慟哭が響いた。
「おおっと上役自らのお達しだよ銀鏡君!! これでもう私達を邪魔するものはないね!? ではチョイと席を外して来るが、打ち合わせ開始までには戻るので心配しないでくれたまえ!!」
「はーなーせー!! おーろーせー!!」
笑顔全開でイオリを小脇に抱え、いそいそと先生が出口に向かう。イオリも手足をばたつかせ抵抗するが、悲しいかな全く効果がない。と、不意に思い出したように懐から一枚の紙片を取り出した先生が、
「ああ、火宮君。鷲見君から最新の医療品仕入れ先目録を預かって来たので渡しておこう。それから空崎君、昨夜頼まれた件は小鳥遊君と聖園君の調整が付き次第だが二日後の夜辺りで行けそうだ。ついでに天雨君、何故かここに犬耳のカチューシャがあるので進呈しておくね?」
「ついでって何ですかついでって!!」
はっはっは、と快活に笑ってキチガイが去って行った。チナツが受け取ったリストを手に隣の備品庫へ向かい、ヒナもまたスマホのスケジューラーを操作する。アコもまた押し付けられたカチューシャをソファーへと放り投げ、仕事に戻りながら思う。
本当に、食えない大人だ、と。
年末年始となればインフラ以外の大抵の業務がストップする以上、備品の発注は早めに行わねばならない。イオリも警備活動の頻度を増やしていて、疲労が溜まっているのは誰の目にも明らかだ。タスク量の多さから居室内の空気もやや張り詰めていたものだが、キチガイムーブのせいで今は相当に緩くなっていた。
何より無表情がデフォルトの委員長が、二言三言交わしだだけなのに明らかにテンションが上がっている。
こちらに気を遣わせない強制的な息抜き、というところか。本人からすれば十割本心の遊びだろうが、結果的にプラスとなったのは事実。
……これだから、奇行をどうこう言えないんですよね……。
苦笑しつつ、アコも目を閉じ深呼吸。頭おかしいのは否定出来ないが、気分転換にはなった。出口付近で集まっていた構成員も交代で見回りに出る頃だし、集中してさっさと終わらせよう。差し当たって、今手に持っている万魔殿のふざけた予算案を、
「……んン?」
既視感を覚え、ようやく気付いた。
先生が襲来してから一切進んでいないどころか、手にしたままだったことすら記憶からすっぽ抜けていた書類の存在に。
●
次の瞬間。
巡回に出ようとしていた風紀委員会の一団は、アコが声にならない声を上げながらデスクに拳を打ち付けるのを見た。
一瞬顔を見合わせたものの、先生が絡むとよくあることだ。ヒナやチナツに会釈を送ってから、風紀委員会居室を後にする。
「ほら見たことかね、足裏がえらいことになっている。巡回も結構だが限度を知りたまえ。──ほうら大人しく身体の力を抜いてリラックス」
「あっ、ちょ、あだっ、いだだだだだだ死ぬ死ぬ死ぬぅー!!」
隣の空き教室から足ツボマッサージによる苦悶の声が響き渡るが、全員スルーし外へと向かった。