グラスアーカイブ   作:外神恭介

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無駄だとしても
果てたとしても
足掻き続けた証
配点(生き様)
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=26986250


哀しめるのは、幸せなことなんだって

「世界の終わり……、と言うには少しばかり、在り来たりな光景ですね」

 赤く染まった空の下、(ナコ)はそう呟きを零した。

 アビドス郊外の砂漠地帯、かつて大オアシスと呼ばれていた近辺。一面の砂しか見当たらぬはずのその場所で今、一つの地獄が顕現しようとしていた。

 赤い空。

 荒れ狂う圧。

 倒れ伏す生徒達。

 全ての中心にいるのは堕ちた神性。かつて小鳥遊ホシノと呼ばれていたはずの、一人の少女が抱え続けた闇の成れ果て。

 取り戻せぬ過去を追うように長かった髪は短く。

 外敵を叩き潰す圧倒的な力は守りたかった身内に振るわれ。

 空崎ヒナが脱落した今、対策委員会の面々だけでは対抗出来まい。ほぼ丸一日の継戦による疲労、私募ファンドやカイザーの軍勢との単騎での戦闘、力尽くでも止めようとした後輩達と幾度もの交戦、そして万全な状態の空崎ヒナによる相対戦。

 本気を出した小鳥遊ホシノを止めるのに、それだけの条件を必要としたのだ。

 理性を保っていた状態であれば、身内や知人相手ということもあり命を奪うところまでは行かなかっただろう。だが反転した今となっては、そんな加減を望むべくもない。

 葵・硝子(先生)の後押しがあってさえこの有様だ。戦力も手数も時間も、何もかもが足りていない。

「暁のホルス。エジプト神話における天空と太陽の神であり、かの地における王とはホルスの生まれ変わりとされる。言い換えるならば小鳥遊ホシノはアビドスを統べる王であり、その神威が及ばぬところはない、と」

 加えて言うならば、ベースとなった神性が厄介だ。

 この世界の成り立ちを鑑みれば、太陽と月をも司るホシノが格別な力量を誇るのは当然だろう。全てがそうという訳ではないが、調月リオや明星ヒマリもまた規格外の力を有しているし、部分的とはいえ聖園ミカもあれだけの力を持っている。だからこそそういった世界の後押しがない美甘ネルの異常さが浮き彫りになる訳だが、これはまあ今考えることではあるまい。

 結論は一つ。

「このまま行けば、アビドスは終わる。それだけです」

「……私が言えた義理でもないと思うけど、コレを目の前に他人事全開で冷静な辺りがナコだよね」

 呆れ全開の声に横目を向ければ、砂の上に胡坐をかいている姿がある。口調こそいつも通りながら、真剣な目で眼下の惨状を見据えているのは、同僚にして友人の鏡子(ムラサキ)だ。本来死んでいるはずの人間、その魂を人形という器に宿したことで生き永らえた、人であり人でないモノ。先生の妹、というこの世界にとって少なからず重要なパーソナルを持つ少女の言葉に、ナコは肩を竦めこう返した。

「裏方の私達が出張れない以上、文字通りの他人事ですからね」

「うわ残酷」

「優秀なAIなので。お忘れかもしれませんが、どっちかと言えばヒトデナシですよ? 私」

「ハイハイJud.Jud.、似合わない悪役ムーブはお姉ちゃんだけで十分」

 嘆息し片膝を立てたムラサキが、顎を乗せて吐息した。

「で、真面目な話どうするつもり? 人類救済の為に世界を滅ぼそうとした元邪神サマは」

「どうもこうもありませんよ。勝ち筋は残っていますが、肝心の硝子があのザマですから。自分で立ち上がるところまでは行ってもらわないとどうしようもないです」

 砂狼シロコのおかげで最悪の状態こそ脱してはいるが、未だ彼女のメンタルはグラついている。むしろここに至るまでボロを出さなかった方が異常なのだが、身内にその最たる例がいるので言及はやめておく。

 ……まあそれでも、常人なら発狂していてもおかしくはないでしょうけど。

 エデン条約時の諸々と、要塞都市エリドゥでの一件。事態としては丸く収まったが、全てを救いきれなかった以上、先生である彼女にとって満足の行く終わりではなかった。

 そこに色彩の襲来と、もう一人の自分達との邂逅。キヴォトスを守ることには成功したが、代償に一人の生徒と別世界の己を失った。

 優しい人間の欠点だ。概ね上手く行っていても、一つでも取り零しがあれば失敗だと思い込む。傲慢な思い上がりと言うのは簡単だが、理性で納得出来ないからこそ感情と言うのだ。ショックは受けるし、折に触れて後悔するし、それらを隠そうと強がるのはしょうがないとしても、

「いい加減立ち直ってもらわなければ、この先の地獄は乗り切れませんよ」

「最近の悪の組織はスパルタだね」

「我々もそれなりに修羅場は潜ってますので」

 だからこそ、

「──ここが正念場ですよ。葵・硝子という人間が、必死で大人のフリをしている子供が、真の意味で前へ進めるのか」

「……進めなかったら?」

「それはあり得ません」

 即答だった。だがそれを意外とは思わない。何故、と視線で問うて来るムラサキに、ナコは笑みで片目を閉じ、

「お兄様が鍛え上げた人間が、この程度で負ける訳がないでしょう?」

「清々しい程のブラコンムーブをありがとう」

 虫でも払うように手を振られたがそこまで変なこと言いましたかね私。まあ価値観の相違というものはよくあるので無視。だが事態は変わらず進んでおり、

「お姉ちゃんはそれで良いとして、他はどうするの?」

 言葉を続けたムラサキが、後方を顎でしゃくる。ああ、と首を傾けて見遣れば、

「ムイ」

 青ざめた顔で、後輩達を見守っているもう一人の友人がそこにいた。

 梔子ユメ。今は井伊ムイと名乗っている彼女もまた、ムラサキ同様死んでいたはずの存在。小鳥遊ホシノの盾に憑いていた魂を、人形に収めることで蘇らせ、ナコ達の水先案内人とした。外の存在である自分達に彼女の知識は有用だし、天然入ったムードメーカーっぷりは空気を柔らかくしてくれる。

 だがさすがに、今回の件は堪えたらしい。

 元々温和で優しく、感受性の強いタイプではあった。お人好し故トラブルに巻き込まれがちで、困りはしても投げ出しはしない、そういう芯の強さをナコは高く評価している。そんな彼女が血の気を失う程拳を握った姿など、これまで一度も見たことはなかった。

 これまでナコ達は空崎ヒナや対策委員会の援護として、姿を隠しカイザーの軍勢を叩いて回っていた。それらが一段落ついたところで、相手側からは死角となる砂丘上に陣取り、推移を見守ろうとしていた矢先のコレだ。本来の彼女であれば一も二もなく飛び出していただろうが、死んだはずの己が出て行けば混乱は免れないこと、引いては身体を与えたこちらに迷惑が掛かるという罪悪感が、彼女をこの場に押し留めている。

 ましてや自身の死が遠因となって、大事な後輩がああなってしまったともなれば、その内心は語るまでもない。

 ……ある意味、ユメと鏡子にとっても正念場ですね。

 気取られぬよう息を吐き、ナコは空を見上げる。現実とはいつだって理不尽で、不条理で、人の気持ちなど慮ってはくれない。そして弱り目に祟り目という言葉があるように、悪い出来事というのは決まって畳み掛けるように押し寄せて来るものなのだ。それは自分達の世界でも、キヴォトスにおいても変わらないようで、

「──来ましたよ」

 

     ●

 

 ユメは、どうしたらいいのか分からなかった。

 小鳥遊ホシノ。アビドス生徒会の仲間にして大事な後輩。その彼女が今、変わり果てた姿と化して、後輩達に牙を剥いている。

 甘く見ていた、と言うしかない。自分にとってホシノは掛け替えの無い存在だが、逆については全く考慮していなかった。否、死した後も遺品である盾に魂が残留し、その後の彼女を見届けてはいた。哀しみ、惜しまれるだけの存在だったということは十分に理解していて、何もしてやれない己の無力さを悔いたことは数えきれない程あった。

 だとしても、ここまで深い絶望を抱いていたとは。

 どうしてそこまで、と思う。自分は何の取り柄もなく、アビドスを立て直すことも出来ず、最後まで迷惑を掛けてばかりだったのに。

 もういない自分のことより、傍にいる大事な後輩達のことを見てやって欲しかった。

 先生も来て、少しずつ状況が良くなって、もう前を向けたと思っていたのに。

 本音を言えば、すぐにでも飛び出したかった。私のことは気にしなくていいからと、そう言ってあげたかった。

 だが、それは叶わない。

 ユメに戦う力はない。否、奏の用意してくれた身体はキヴォトス最強クラスと素で殴り合えるスペックらしいのだが、中身がユメでは宝の持ち腐れだ。メビウスの活動においても盾役が基本で、鏡子のガードや巻き込まれた住人を守っていただけ。自分から誰かを攻撃したことは一度もなく、暴走状態のホシノを前にすれば一瞬で叩き伏せられるだろう。

 つまりこの期に及んで、梔子ユメは役立たずということだ。

 対処可能な先生や対策委員会も疲弊が重なり、ロクに応戦すら出来ない。奏や鏡子なら或いは、とも思うが、メビウスは公的に存在しない部活。シャーレの影として、先生が出張るまでもない事案や手の届かない範囲で対処を行うメンバーだ。活動中の姿を生徒に見せるのはご法度だし、そもそも死んでいるはずの自分が現れたらトラブルの種が増えるだけ。鏡子とて先生や彼女に近しい者に見られたら、どうなるか分からないのだ。

 だが、それでも、だとしても、

 ……こんなのって、ないよ……。

 ホシノは何も悪いことをしていない。現実はいつだって理不尽で、不条理で、上手く行かないことばっかりで。それが自分に降り掛かる分には笑ってやり過ごせたが、手の届かないところで大事な人達が翻弄されているのが堪らなく辛い。

 どうしようと、どうにも出来ないと分かっていてもそう思わずにはいられない中、唐突にソレは現れた。

 青白の雷で構成された身体。装飾のような金属質のパーツで、辛うじて人型と分かる程度に各部を固定された姿。雷雲と暴風を伴い天から舞い降りて来たソレを見た瞬間、ユメの中で何かが軋んだ。

「セトの憤怒。多少変質はしているようですが、ほぼオリジナルの存在。文字通りの神格相手となれば、準神格武装くらいは欲しいところですが」

「各学園の最強クラスは存在そのものが神格武装級でしょ。……例の武装は?」

「生徒用の最終調整が終わっていません。今から持ち込むにしても、その頃には全て終わっていますよ」

 奏と鏡子の会話が、酷く遠くから聞こえて来る。先程までと距離は変わっていないのに、何故かそんな他人事染みた感想を抱いた。

 ソレ以外に対する意識が、散漫になっていたから。

 心臓を鷲掴みにされたような感覚。己の命も、心も、全て相手に握られているような恐怖。連動して脳裏を過ぎるのは暑さ、寒さ、痛み、乾き、飢え、痛み、苦しみ、痛み、絶望、痛み、痛み痛み痛み、

「ぅ、ああ……!!」

「ユメ!?」

 苦痛の声を上げていることも、身に力が入らず倒れ込んでしまったことも、表情を張り詰めさせた鏡子が駆け寄り、抱き起した今になってようやく気が付く有様だった。その場から微動だにしない奏は、変わらぬ無表情でこちらを見下ろし、

「当然と言えば当然です。セトの権能とは砂漠と灼熱であり、梔子ユメの死因は砂嵐に巻き込まれた衰弱死。何より彼女の元となった神性を死に追いやったのは他ならぬセトであり、言うなればアレは梔子ユメにとっての死神そのもの」

 加えて、

「現在のユメの器は自動人形、本来持って生まれた身体ではありません。魂の定着は肉体のそれより弱く、神秘の影響を受けやすい。……場合によっては、今度こそ魂ごと消えるかもしれませんね」

「消える、って……!! 何をそんな平然としてるの貴女は!!」

「良く出来たヒトデナシ(AI)ですので。複製・自己改造・ロールバック何でも御座れの、死とほぼ無縁なモノですから」

「ああもう正論なのがクッソ腹立つ……!!」

 こんな状況でも二人が相変わらず過ぎる。あまりの場違いさに内心笑ってしまいそうになるが、身を縛る死の恐怖がそれを許さない。視界は暗転し、聴覚にはノイズが走り、段々と意識が遠退いて行く中、小さな砂音と共に耳元で奏の声が響いた。

「いいですか、井伊ムイ。いいえ、梔子ユメ。今から大事なことを言います」

 それは、

「抱いた意思を、信じなさい」

 その言葉を最後に、ユメの意識は断絶した。

 

     ●

 

 どうすれば良かったのだろう。

 そんな意味のない思考が、ただただ己の頭を埋め尽くしていた。

 ホシノを止めねばならない。

 だが、その手段はヘイローの破壊しかない。

 しかし大人として、先生として、何よりも「失わせない」ことを掲げた一人の人間として、その選択だけは絶対に容認出来ない。

 ……虚勢を張るな。

 自然と失笑が零れた。

 失わせない? 馬鹿を言うな。既に貴様は二度も負けているだろう。

 アリスの為とはいえ、その身を賭してまで活路を拓いてくれた一人の少女がいた。

 もはや余命幾許もない身ながら、こちらの命を救い果てたもう一人の自分がいた。

 彼女らが命懸けで繋いでくれた未来を、己は全う出来ていると本心から言えるか?

 否だ。

 土台無理な話だろう。

 ものは失われる。

 永遠なんてない。

 人類には想像もつかないスケールの宇宙や星々とて、有限である以上いつかは終わる。

 廃れた神話は語られし神々を無き者とし、途絶えた口伝は後になって取り戻すことは出来ない。

 ならばそれ未満の存在でしかない人間に、それも無力で矮小な身で何が出来る。

 身近な肉親の本心さえ見抜けなかった馬鹿女が、本当に他人を導けるなどと思っていたのか。

 その傲慢な思い上がりの結果がこれだ。

 ……くそ。

 後悔先に立たず、とはよく言ったものだ。

 今更どうしようもないというのに、もっと出来ることがあったのではないかと、そればかりを思っている。

 なあ、もう一人の私よ。

 貴様も、こんな気持ちだったのか。

 目覚めた時には世界が終わり掛けていて、ただ一人残った生徒は望まぬ滅びの担い手となっていて。

 もはや勝ちなど望むべくもない状況で、だが貴様はそれでもと立ち上がり、抵抗した。

 立派だとも。敬意を表する。貴様を敗者と誹る者など、キヴォトスのどこにもいないだろう。

 ならばこそ、私ではなく貴様が生き延びるべきだったのではないのか。

 確かに私は、貴様の辿った結末を回避した。だが、言ってしまえばそれだけだ。

 大人として、先生として、出来る限りを尽くしたつもりだった。

 至らぬ点も幾つかあったが、大枠では上手くやれているつもりだった。

 そんなささやかな誇りも、貴様の偉業と比べればどれだけ小さなことか。

 確かに私は勝った。勝ってしまった。覚悟も信念も行動も、何一つ貴様より上だとは到底思えない側が勝利した。

 私が貴様を引き継ぐよりも、貴様が私に成り代わった方が、もっと上手く行っていたのではないか。

 そんな疑念が、ずっと絡み付いて離れない。

 忘れていた訳ではない。ただ気付かないフリをしていただけ。

 そんなことに頭を悩ませる暇があるなら働けと、目を背けていただけだ。

 だからこそ今、そのツケをこんな形で払わされている。

 ……ああ。

 やはり、そうか。

 生徒達より年長で、多少は経験があったから、どうにか上手く行っていただけで。

 結局、私は、何も成すことの出来ない、

「……あのう」

 不意の声に、己は意識を取り戻した。

 

     ●

 

 おずおずと声を掛けた相手が、急に跳ね起きる動きに悲鳴を上げなかった自分を、後で褒めようとユメは思った。

 思わず身を引き、躓き掛けた身体をテーブルに手をつき支えた眼前、先生は茫然と周囲を見ている。

 アビドス生徒会居室。夕日の差し込む一室を、初めて見るような目で見る先生は、明らかに普通ではなかった。

 寝惚けていると言うにはあまりにも、表情が張り詰めている気がして。

 ……怖い夢でも見たのかな?

 やがて焦点を結んだ瞳がこちらを捉える。寄せられる眉の動きは怪訝か、或いは不可解か。

 声もなく、ただ見詰め合うこと三十秒。沈黙に耐え兼ね、とにもかくにも口を開こうとする。しかし同じタイミングで、居室の外から明らかに弾んでいると分かる大きな声が、

「ユメ先輩!! 先生!! 何をぐずぐずしてるんですか!? 今日はオアシス跡で宝探しの約束でしょう!? 早くしないと置いて行っちゃいますよ!!」

「ご、ごめんホシノちゃん!! すぐに行くから!!」

 慌てて答えを返すが、声の主が戻って来る様子はない。時折何かをひっくり返すような音が聞こえる辺り、荷物を纏め直しているのかもしれない。気の利く優しい子だから、自分達の為に色々と持参しようとしているのだろう。ありがたいなあ、と微笑しつつ視線を戻せば、

「……先生?」

 こちらを見ている大人の姿に、先程までと違う点があった。澄んだ空のような青の瞳から、一筋の雫が頬を伝っていて、

「……どうして、泣いているんですか?」

 

     ●

 

「すまない」

 何を言っても欺瞞になる気がして、それでも己は、そうとしか口に出来なかった。

 梔子ユメ。アビドスの復興を夢見て、拙いながらも手を尽くし、しかし報われず、事故によってこの世を去ってしまった少女。

 理想主義で、お人好しな、どこにでもいる心優しい少女。

 取り柄はなかったかもしれない。それでもその心根の善良さは、統治者として良きものであっただろう。

 アビドスの状況が、それを許さなかっただけで。

 そのことが、ただただ哀しい。

 アビドスがもう少しマシな状況であれば、政治的手腕に優れた宰相などがいれば、その願いは叶っただろう。

 悪意もトラブルもない平穏な世の中であれば、普通の学生として日々を謳歌し、きっと幸せになれただろう。

 だが理不尽で不条理な現実は、そんな未来を許さなかった。

 そのことが、ただただ悔しい。

 君のような生徒をこそ、守らなければならなかったのに。

 君のような子供こそを、二度と失わせないと決めたのに。

 自分如きに、何が出来るなどと言えたものではないけれど。

 もう少し早くこの世界に来ていればと、叶わぬ過去を思う。

 君のいない世界が哀しい。

 君のいない空白が寂しい。

 君のいない無情が悔しい。

 やれるだけやった。全力を尽くした。そんな慰めに何の意味がある。

 失ったものを前にすれば、何を口にしたところで、ただ一つの事実が浮き彫りになるだけだ。

 死を覆すことなど出来はしないという、絶対のルールが。

 ユメも、ケイも、妹も、もう一人の己も。

 遺された者がどれだけ泣いて叫んだところで、帰って来ることは永遠にない。

 だからこれはきっと、臨死体験から来る夢なのだろう。

 何故なら己は、彼女を知らない。

 又聞きと、書面から分かる情報だけで、他人をどれだけ理解出来るものか。

 そんな中途半端な人物像から成る生徒を目の前に、どんな言葉を掛けたところで、保身以外に何の意味がある。

 失くしたものは戻らない。世界が違っても変えることの出来ない不変の理。責任を負う者であるからこそ、その重さを改めて痛感する。

「私は君を……」

 それでも口をついて止まらない言葉に、己の無力さと浅ましさを思い知らされて。

 どうすれば良かったのだろうと、そんな思いと共に俯いた視界が、下からそっと支えられた。

 見れば一歩踏み込んだ少女が、両の手でこちらの頬に触れていた。

 温かく、柔らかく、全てを包み込むような感触。日溜まりのような笑みと共に、真っ直ぐこちらを見上げた少女は、

「──先生のせいじゃありません」

 

     ●

 

 ああ、とユメは思う。きっと私は、この時の為に生き延びていたんだ、と。

 夢のような微睡みから覚めた今となっては、現状が正しく理解出来る。

 葵・硝子。外からの来訪者。大人で、先生で、生徒を助け導く存在。

 飄々として、尊大で、不規則言動の絶えないキチガイが、全て演技だったとは言わないまでも。

 その裏側で、彼女はずっとこうだったのだろう。

 命を削り、時間を削り、数百を超える生徒達を支え。

 些細なトラブルから、キヴォトスを揺るがすような事件まで、あらゆる問題に奔走し。

 協力し、共に戦う仲間はいても、それらは全て守るべき子供であるならば。

 責任を負う大人として、弱みを見せず、頼れる先生で在り続けるしかない。

 折れず、挫けず、諦めず。毅然と立ち向かう大人の姿は、生徒にとってどれだけ心強かったことだろう。

 彼女とて普通の、失敗もすれば落ち込みもする、自分達と変わらない人間なのに。

 否、直接戦う手段を持たず、後方で指示に徹せねばならない以上、無力感は尚更に募るだろう。

 意地を張って、己を奮い立たせ、頑張って、頑張って、しかしとうとう失った。

 色彩襲来時の一連を失敗だと言う者などいるはずがないのに、彼女は己を赦せない。

 守るべき生徒から犠牲が出た。

 救おうとした相手に救われた。

 シロコの言葉で持ち直しはしたが、ホシノが今まさに失われようかという事態に直面し、かつての疑問が浮かび上がって来たのだろう。

 ここにいるのが己で、本当に良いのだろうか、と。

 大丈夫。

 ユメの持つ神秘は冥界に由来するものらしいのだが、同時に農耕や豊作に纏わるものでもあったらしい。

 即ちそれらは実りを呼ぶ陽光、太陽の力。ホシノにも繋がる因子の一つ。

 だからこれから、己の闇に食われそうになっている彼女を、光の下へ連れ戻す。

 生死の境を彷徨っていた、という共通項もあろう。だが自分が死にきれず、生き延び、奏や鏡子に救われ、この世に留まっていたのは、きっとこの時の為だったのだ。

 死んだはずの者。存在しない者。それ故に後先考えることなく、思いの丈をぶつけることが出来る者。

 喪失を否定する彼女の心に、必ず言葉を届けられる者。

 例えこれが夢のような邂逅であっても。

 自己弁護の逃避だと思われかねないとしても。

 それでも生徒の一人として、己は彼女に言わなければならない。

 死んでも死にきれなかった残念を、貴女が晴らしてくれたのだと。

 貴女がいてくれたから、私は安心してアビドスを離れることが出来たのだと。

 彼女はこちらを知らないだろう。だけど己は知っている。全てとは言わないまでも、遺品に宿った魂を通して、彼女の行いを目にしている。

 彼女にお礼を言えるのは、これが最初で最後の機会だと、きっとそう思うから。

「どうすれば良かったんだろう、って考えるのは、どうにかしたいと、そう思ってくれているからです」

 届けと、届いてくれと、心からの想いを込め、真っ直ぐに先生の目を見据える。

「そう思って、頑張ってくれたから今の皆があるんです。そのことだけは、何があっても嘘じゃありません。誰が何を思い、口にしても、変えることの出来ない絶対の事実です」

 だから、

「ホシノちゃんを助けてくれて。今もまた、助けようとしてくれて。……本当に、ありがとうございます」

 そうだ。

 完璧じゃなくても。取り零してしまったとしても。多くの、出来る限りを救って来た。

 目の前で苦しんでいる誰かを救いたい。そんな願いが、気高き意思が、間違いであるはずがないだろう。

 大人とか、先生とか、そんなことは関係ない。葵・硝子という個人が、どうにかしたいと思い、行動したから成し得たこと。立場や肩書があったところで、当人の選択がなければ結果は生じないのだから。

 責任感や義務感だけしかないような人間が、即席のバンジージャンプで奈落に飛び込んだり、得体の知れない相手に拳一つで殴り掛かったり、辞表を提出してまで学生の自治に干渉したり、上空七万五千メートルからの帰還手段を手放したりなんかしない。

 悪役を自称し、どんな手段を使ってでも、手を伸ばすことを諦めなかったから今がある。

 だから、哀しむ権利はあるとしても、哀しむ必要や義務はない。

「知ってますか? 先生。……哀しめるのは、幸せなことなんだって」

 哀しいのは、哀しくない状態を知っているから。

 哀しくないのは、それが幸せなことだから。

 幸せを知らなければ、それを失う意味とて理解することは出来ない。

 哀しみを抱くというのは、自分に幸せな一時があったのだという証明に他ならないのだ。

 自分を、妹を失って、ホシノも彼女も、消えない哀しみを背負っただろう。

 だけど哀しいだけのままだったら、笑うことすら出来やしない。

 対策委員会の皆。様々な出来事を経て関係を結んだ皆。そんな沢山の人達と、青春の日々を過ごして、抱えきれない程多くのものを得た。

 忘れることは出来なくても、抱えたままだとしても、前に進むことは出来る。

 そうして積み重ねて来た結果が、今ここにいる貴女達なのだから。

 だから、失うことを怖れないで。

 その人と得て来た全てを、失ったという結果だけで否定しないで。

「小さな積み重ねが、いつか大きな幸せ(きせき)になりますから」

 失った事実が変わらないように、それまで経て来た幸いもまた、変わらないのだから。

「私は、そう信じます」

 

     ●

 

「正しくなくても、間違いじゃないよ、硝子」

 忘れないで。

「貴女が自分を疑うなら、私達が否定する。貴女の選択が、あまねく軌跡が、貴女に絶対の支持を返す」

 だから、

「私達の信じた貴女を、貴女自身も赦して(信じて)あげて」

 

     ●

 

 ……ああ。

 深く息をつくと、自然と口から言葉が漏れた。

「そうだな」

 馬鹿か私は。全く以て、自分の愚かさが恨めしい。

 とっくの昔に答えは得ていた。それを焦りから見失っていただけで。

 確かに自分は、失った人間だ。

 だが失ったからこそ、妹のことを知ることが出来て、次の自分への標をもらった。

 頭のおかしい連中に寄って集って鍛えられて、この世界にやって来て、掛け替えのない沢山のものをもらった。

 それらを思えば、何故と問われてもこう応じることが出来る。

 失ったからといって、それで全てが終わる訳ではないのだと。

 失ったという結果は変わらなくとも、だからこそ得られたものが、確かにこの胸にある。

 そうだ。

 全てが虚しいのだとしても、立ち上がり抵抗した少女がいた。

 ただ友達を助けたいからと、限界を超えて戦った少女がいた。

 何もかも失い続けてもなお、最善を尽くし続けた馬鹿がいた。

 彼女達もまた、失敗し、何かを失ったり、失い掛けたりもした。だがそこで終わらせなかったからこそ、次へと繋ぐことが出来た。

 何故そんなことが出来たのか、などと問うまでもないだろう。

 ただ、そうしたかったから。

 無理だとか、不可能だとか、そんな後付けの理屈は関係ない。

 意思がそちらを向いたから。

 そうしようと決めた自分自身を、最後の最後まで信じ抜き、全うすること。

 それこそが幾度失敗し、挫けそうになったとしても、最終的な勝利へと至る方法。

 どうすれば良かったのか、ではない。

 己がどうしたいのか、だ。

 心に問えば答えは返る。

 失われ掛けている命を救いたい。

 理不尽で不条理な現実に苦しんでいる子供にも、幸いな未来があるのだと示したい。

 ならば、ただそうすればいい。

 怖れる必要はない。その意味もない。

 月明かりの下で、自分の為に泣いてくれた少女がいた。

 何度自分を疑ったとしても、積み重ねて来た証明である自分達が、貴女を肯定し支えると、そう言ってくれた少女がいた。

 絶対の支持を叫んでくれる相手が、最低でも一人はいる。

 一人ではないし、独りでもない。

 振り向けば、同じ道を共に行こうと、肩を並べてくれる者がいる。

 ああ、そうだ。

 失敗しても、取り零しても、失っても、正しくなかったとしても。

 選択し、歩み続けて来た全ては決して、間違ってなどいなかった。

「──梔子君のその言葉、忘れないとも」

 本心から告げた言葉は、思った以上に芯を取り戻していた。

 そうだ。こうでなければなるまい。頭脳明晰、傲岸不遜、屁理屈暴論大いに上等、不規則言動免許皆伝。

 どこからどう見ても嫌な人間。ロクでもない悪い大人。それでも生徒達が信じてくれたのは、そんな悪役なのだから。

 思考が澄んでいる。活力が満ちている。先程まで益体もないことをウジウジと悩んでいた私は馬鹿か。無論である。

 絶好調だね。

「……先生はこれからも、苦しんでいる子を助けに行くんですよね?」

 ああ、と己は応じた。真っ直ぐに、琥珀色の瞳を見据え、

「例え届かないとしても、手を振り払われることがあっても、手を伸ばすことを諦めたくない」

 否。

「諦めないと、そう決めたのだ」

 力強い断言に、ユメが笑った。

 日溜まりのように温かく、柔らかな笑顔だった。

 きっと、彼女は本物の梔子ユメではない。

 だが、己にとっては本物だったと、そのことを覚えておこうと思った。

 恨み言の一つも言わず、馬鹿な己の背を押してくれた、と。

 そんな彼女は、笑みのままただこう言った。

「助けられると良いですね」

「Tes.」

 即答した。

「必ず助ける。全員で、生きてアビドスに帰ると、契約(テスタメント)の名の下に誓いを」

 大人として、先生として、生徒との約束は絶対に違えない。

 だからこそ、必ずホシノを救うと決めた。

 彼女が安心して眠っていられるように。

 アビドスの皆が笑って過ごせるように。

「梔子ユメ君、……君に会えて良かった」

 手を差し出すと、不思議そうに首を傾げられて苦笑。ややあって、ようやくこちらの意図に気付いたユメが、慌てて手を伸ばし握り返す。

「私も……、会えて良かったです。ありがとうございます、先生」

 握手を交わし、一歩を離れ、頭を下げた。踵を返し、居室の外へ踏み出して、告げるべきはただ一つ。

 君の魂に幸いあれ。

「──感謝である」

 

     ●

 

「初めましてと、そう言わせてもらおうか。──ようやく会えたな地下生活者」

 次元や時間、実在の有無が非確定状態で交じり合う混沌の領域。そこに今、あるはずのない声が響いた。

「貴様は、葵・硝子……!?」

 胡乱げに振り向いた地下生活者が、目を見開いて見る先に一人の女がいる。黒のスーツに身を包み、長い黒髪(・・)を靡かせた青い目の女だ。その鋭い視線の持ち主はしかし、紛うことなく先程倒れ伏したはずの相手であり、死に瀕したことで魂だけがこの領域に迷い込んだと言うなら納得出来る。

 だとしたら何故、その瞳の熱が消えていない。

「今更何のつもりだ!? 小生の勝利でゲームは終わったはずだ!!」

「──否」

 否定を返し、ゆっくりと腕を掲げた。握った拳をこちらに向けて、不敵に笑みを浮かべた彼女は宣言する。

「まだ終わってはいない。むしろここから始めるのだ」

 ああ、そうだとも。

「──終わりになど、させはしない」

 

     ●

 

「座標確認。発現した「色彩」の力で、強制転移シーケンスを発動します」

 

     ●

 

 覚悟は決まった。

 その不屈の意思は、全霊の最期は、己の記憶にも残っている。

 失わせない。理不尽な死と諦めに対し、全力を以て抵抗する。

 何を思い、何を願うかなど、言葉にしなくても分かっている。

 ”彼女”もきっと、そうして来たはずだから。

 多くを失い、世界が滅びてしまったとしても。

 今の彼女のように、己の隣で戦い続けたはず。

 それ以外に、理由など不要だろう。

 必ず来ると。呼べば応えるのだと。

 信じるのは、彼女の信じた己自身。

 届け君へと至る声よ。

「砂狼君──!!」

 

     ●

 

 声が聞こえた。

 大事な人の、大事な声が。

 己を呼んで、求める声が。

 それだけで、十分だった。

 具体はない。だが通じているという確信が胸にある。

 反転以前も、それ以後も、世界の滅びさえ共にした。

 ずっと隣で、”彼女”をただ見続けて来たのだから。

 何を思い、何を願うかなど、言葉にしなくても分かっている。

 失わせない。理不尽な死と諦めに対し、全力を以て抵抗する。

 その不屈の意思は、偉大な背中は、己の根底にも残っている。

 答えは一つだ。

「──Tes.」

 

     ●

 

 ノノミも、アヤネも、セリカも、ヒナも、全員がそれを見た。

 虚空に穴を開け、軽いステップで踏み出した黒の少女が、色彩に触れ掛けたシロコの腕を掴んで止めたのを、だ。

 身を起こした先生が向ける笑みを受け止めつつ、少女は小さく首を振って、言った。

「──そんなものに、手を出しちゃダメ」

 

     ●

 

 シロコは、訳が分かっていなかった。

 かつて色彩の襲来において、自分達と相対したもう一人の己。その一件以降消息が途絶え、時たま思い出しもしていた相手が今、

「ど、どうしてここに……!?」

「ん、馬鹿な私を止めに来た」

 肩越しに色彩が消失したのを認めてから、こちらの手を離した己がそう答えた。油断なく視線を走らせた先には、急な乱入を警戒して動きを止めたホシノがいる。

 僅かな間隙、しかし貴重な一瞬を消費して、最初に動いたのは先生だった。

 立ち上がり、真っ直ぐこちらに向けて歩いて来た大人が、握った拳を軽く掲げ、

「馬鹿者」

 こちらの頭に手の甲をぶつけた。

 痛みはない。だが、かつてそれを見た時のことを思い出して、弾かれたように顔を上げたシロコの前で、肩を竦めた先生が鋭い視線を返し、

「意気込みは買うが、性急が過ぎる。もう少し考えてから動きたまえ」

 一息。

「皆を守りたいという想いも、その為に全てを差し出す覚悟も、気高く尊いものではある。だが同じ道を選んだ小鳥遊君を止めようとした君が、それを選んでしまっては本末転倒だ。仮に小鳥遊君を取り戻せたとして、彼女にどう申し開きをすると?」

 身も蓋もない正論だった。諭している当人が真っ先に自分の身を削るタイプなのが大分理不尽だが、目が笑ってない辺り反論しても無駄だろう。特に最後の一言については、返す言葉がないのは事実で、

「ん……、ごめんなさい」

「分かればよろしい。だが……」

 居た堪れず俯いた視界が、不意に黒の一色で染まった。頭に手を回し抱き寄せられた、と気付いた時には柔らかな感触と、桜と石鹸の香りに包まれていて、

「──感謝である」

 告げられた言葉は、この場に似つかわしくない程穏やかだった。

「君のおかげで救われた。かつて礼は述べているが、一度しか言ってはならないという決まりもないのでね」

「……? どういうこと?」

「分からずとも良い。君は君のままであれ。そんな君こそが、私に最も大事なことを教えてくれたのだから」

 何のことだかさっぱり分からない。困惑し面を上げてみても、先生は笑うだけだ。軽く頭を叩いてからこちらを解放し、

「……さて」

 ゆっくりと、もう一人の己へと向き直る。

 

     ●

 

 重く、鈍い音が響いた。

 バネ仕掛けのように跳ね起きたユメが、心配し顔を覗き込んでいた鏡子の頭に、勢い良く激突したのだ。

 声にならない声と共に額を押さえ蹲る二人を見て、ナコはしみじみと思う。

 ……やはり痛覚は常に切っておいた方が有用ではないでしょうか……。

 己が人ではなくなった、という自認を強めては困るので五感などは全て生前同様にしてあるが、任意でのカットは可能だ。人形の身体であるが故に、精神的にショック死さえしなければ換装や治療によって完治させるのは容易い。ナコは趣味で残しているが、不注意で怪我の多いユメと前衛として殴り込むムラサキは常時カットの方が色々と良い気がする。ああ、でもユメの方は迂闊に切ると大怪我しても全く気付かないかもしれないのが難と言えば難。

 ……AIである私はミリ秒未満でも猶予があればカット出来ますけど、ベースが人間の二人では間に合いませんからね……。

 後で改修担当に相談しておこう、と脳内メモリにメモを残し、呼び出した表示枠で痛覚減衰術式を二人分。軽く診ておくが負傷はしていないようで一安心。

 どうにか復帰したのか、面を上げたユメの表情が、先程までと明らかに違うことに己は笑みを零し、

「良い夢、見られましたか?」

 小さく頷いたユメがその場に正座。こちらと、同じように身を起こしたムラサキを順に一瞥し、

「奏ちゃん、鏡子ちゃん」

 どこまでも真っ直ぐで、尋常ではない熱を秘めた瞳。さながら太陽のような琥珀色に、懐かしい人物を思い出して、

「ホシノちゃんを、先生を、皆を助けたいの」

 お願い。

「力を貸して」

「──良く出来ました」

 即答した。

 間髪入れずの快諾がよほど意外だったのか、驚いたようにこちらを見上げるユメに触れる。かつて己の創造主が、時たまそうしてくれたように、ゆっくりと頭を撫でた。

「出来ないことは他人に任せる。自分でどうにかしなければと焦る者は、常にそれを忘れるもの。どんな立場であろうと、どんな信条があろうと、それを忘れさえしなければ、案外どうにかなるものですよ。……それこそ、世界を救ってしまうくらいに」

 そう、絶体絶命と呼ばれる窮地など、所詮その程度のことでしかない。

「外様である我々は、なるべく目立たず干渉しない方が良い。その前提は変わりません。ですが──」

 ですが、

「──目の前で苦しんでいる誰かを、それを救おうと必死で足掻く誰かを、道理や建前を持ち出し見捨てるのが正解などと、そんな諦めを強要するように生きて来た覚えはありません」

 失わせない。それは葵・硝子の意思である以上に、彼女を見出した兄や姉達、自分達の総意なのだ。

 失われる運命にある命を救う。死ぬ為に生まれて来る者などいないと、あらゆる理不尽と不条理に抵抗する。

「力及ばずとも、何も出来なくとも、それでも手を伸ばそうとする意思。正しくなくとも、間違っていない、不撓不屈の魂の輝き。……それを信じたからこそ、安易な世界の改変ではなく、共に世界を変革する道を選んだのですから」

 その煌めきを。燃焼を。尊いからこそ光と仰いだ。大局から見れば遅々とした歩みで、無駄だと一蹴されるような小さな積み重ねでも。

 より多くの、行ける限りの仲間と肩を並べ、前へ進むと決めたのだから。

 硝子は再起した。

 もう一人のシロコも参じた。

 対策委員会も空崎ヒナも諦めていない。

 そしてユメも決意したのなら、勝ちの目は作り出せる。

「救いましょう。貴女の大事な後輩を」

 その方法は、

「アロナもプラナも優秀です。地下生活者が身を潜めている混沌の領域が、ナラム・シンの玉座に近似の空間であることは既に突き止めているでしょう。オーバークロックによる演算を重ね、不完全な反転体である小鳥遊ホシノの心に干渉。そこで本来の彼女を取り戻すことが出来れば、元に戻すことは可能なはずです」

 だから、

「シッテムの箱に仕掛けてあるバックドアから強制介入。二人の演算を支援しつつ、ユメの精神を追加で送り込みます」

 多重に展開した表示枠で、今後の流れを図にして示す。色彩によるものではない、歪な手段で反転させられた今のホシノであれば、元に戻れる可能性は十分にある。

 何よりユメは肉体的に死んでいて、本来は魂だけの存在。距離が離れていようとも、奏とシッテムの箱を経由すれば、ホシノの精神世界に潜り込むのは対策委員会の面々より容易いだろう。

「硝子や対策委員会が連れ戻したとしても、ユメとの別離に決着をつけない限り同様の事態は起こり得ます。後顧の憂いはスッパリ断っておいた方が、今後を鑑みても最適です」

「……良いの?」

 あまりにもトントン拍子で進んで行く事態に付いて行けないのか、呆然とユメが問うて来る。自分から望んだのに、それが叶うことに疑問を抱くなんて、生前の彼女はどれだけ現実に裏切られ続けて来たのか。

 ならば悪の組織の一員として、己はこう言ってやるだけだ。

「私の元居た世界では、年に一度死者の魂が帰って来る祭事があるんですよ。野菜に割り箸を刺した動物を飾って、櫓を囲んで寄せては引く踊りのオマケ付きです。ならばキヴォトスでだって、一度くらいそんな機会があっても良いでしょう」

 何より、

「この身は多次元世界を滅ぼす一歩手前まで行った、最先端の神性にして電子の神。──不可能なんて、力業(奇跡)で打ち破るだけです」

 その神ですらただの拳で圧倒され、そんな拳を教えた己の創造主も事故であっさりとこの世を去った。

 現実なんてその程度のもの。理不尽で不条理で不完全だからこそ、ありとあらゆるに不可能はない。

 必要なのは、夢を叶えるまで諦めない意思、それだけだ。

「小鳥遊ホシノについては、これでどうにかなるでしょう。硝子もいるのですからね。ただ、問題は──」

 響く雷鳴に顔を上げた先。至近とは言えないまでも目視可能な位置に、相変わらず一柱の神性が在る。

 セトの憤怒。自らに連なる神性(アヌビス)の出現に動きを止めていたようだが、本来の目的であるホシノは依然健在。ホシノへの対処が可能だとしても、ホルスに釣られて出現したかの神性が、それを黙って見ている訳がない。ほぼ間違いなく、先生や対策委員会を巻き込む形で、纏めて消し去ろうとするだろう。

 天裂き地割る神話の再現。それを止められるとすれば、

「奏」

 一歩前に出たムラサキが、振り向きもせずこちらを呼んだ。

 

     ●

 

 こちらに振り向く先生を、シロコは見た。

 ボロボロだった。砂や汚れに塗れ、スーツにも幾箇所か穴や解れが生じている。だが仄かに香る桜と石鹸の匂いも、強い意思を秘めた青の瞳も、暴風に靡く白い髪も、記憶の中にある姿と何ら変わりない。

 懐かしく、ともすれば涙が零れそうになる感傷を、しかし今は心の奥底に仕舞う。

「言いたいことも、聞きたいこともあるだろう。だが現状見ての通り火急の事態であり、言葉を尽くしている時間はない。……だから今は一つだけ、これだけは言わせて欲しい」

 一度言葉を切った先生は、深々と頭を下げ、告げた。

「──感謝である」

「……ん」

 十分だ。

 頼ってくれた。

 名前を呼んでくれた。

 一人の生徒として扱ってくれた。

 かつてと同じように礼を言ってくれた。

 それだけで、今この瞬間まで生き永らえていて良かったと、そう心から思うことが出来る。

 泣くのは後。

 喜ぶのも後。

 今はまだ、やるべきことがあるのだから。

「────」

 瞬間的な動きで跳躍した。

 先生と、ついでにもう一人の自分を抱えて跳ぶ。直後、寸前まで自分達のいた位置を桜色の光弾が薙ぎ払って行った。シロコを放り、先生を丁重に下ろしつつ振り向けば、ショットガンを構えたホシノが明確にこちらを見ていて、

「どのような方針を採るにせよ、まずは小鳥遊君を止めねば話になるまい。再会の挨拶もそこそこに行う共同作業としては些かハードだが……」

 頼む。

「力を貸して欲しい」

「──任せて」

 即答した。

 言われるまでもない。例え別世界の、自分の知る彼女達ではないとしても。

 セリカを。

 アヤネを。

 ノノミを。

 もう一人の自分を、そして先生を、ホシノの手で討たせなどしない。

 肝心のホシノについては、どうすればいいのか分からないけど。

 もはや打つ手など残っていなくて、ヘイローを壊すしかないのかもしれないけど。

「きっと先生が何とかしてくれる。──ここは、先生が守ってくれている場所だから」

 別れの際、もう一人の自分は己に対してそう言った。

 同一の存在が同じ世界にいたとしても、きっと何とかなる、と。

 それを信じるに否はない。

 何もかもを諦めて、絶望して。どうしようもなくなっていた己に、明日をくれた人だから。

 どんな世界であっても、どんな状況であっても、生徒の手を取ることを諦めない大人だから。

 何とかなると、そう信じる。

 手に取るのは己の愛銃。一人になっても、色彩で反転しても、ずっと共に戦い続けて来た相棒。そして未練がましくも手放すことの出来なかった、皆が使っていた数多の武器。

 これらと己の知識、経験、能力の全てを使い、ホシノを止めねばならない。

「先生、下がってて。巻き込まれたら危ない」

 前に出る。だが重ねるように響いた足音が二つ。目を瞬かせつつ横目に見れば、隣に立ったもう一人の自分が、

「ん、私は下がれって言われてない」

 心なしかドヤ顔だった。

 自分とて疲弊が激しいだろうに。それ程までにホシノが大事か、先生や皆を守りたいのか、或いは自分には負けられないという意地か。

 ああもうどうでもいい。

 分かっているのは、自分が彼女と同じ立場であれば、同じようにしただろうということ。

 手が動き、足も動き、五感が働いていて理性と感情がそれを望んでいるのなら、不屈の意思を以て立ち上がるだろうということ。

 ならば止めるのは無粋だろう。

 大丈夫。

 どれだけ無茶をやっても、限界を超えても、それ以上にデタラメで、だけど最後の一線で必ず止めてくれる大人がいるのだから。現に、

「私の性格はとうに知っているだろう? ……独りになど、させんよ」

 もう一人の足音の主が、笑って肩を叩きながらそう言った。

 予備のインカムをこちらに握らせ、構えるシッテムの箱は既に戦闘指揮モード。恐らく時間加圧もフルで使用し、この状況を打破する策を練っているだろう。

 視線は油断なく。だが怖れも怯えも虚勢もなく、ただ自然に、散歩にでも行くような自然体で、

「──共に行くぞ、砂狼君」

「ん」

 綺麗にハモった。

 思わず顔を見合わせるお互いの間で、先生が浅く上を見た。ややあって、手の平を拳で打ちつつ名案だとばかりに、

「今後は便宜上、二人が同じ場にいる時は砂狼君とデカ狼君と呼び分けようか。日常会話ならまだしも戦闘中は些細な乱れでも危険だからね」

「デカ狼……」

 こっちの自分が半目を向けて来たのでドヤ顔を返してやった。

 合流から五分も経っていないのに、ソッコでいつもの空気になっていてどうしたものか。だがかつて自分がいた場所に、しかし違う形で受け入れられて、そのことに溢れる喜びを噛み締める。

「──やれるかね?」

「ん、戦い方なら分かってる。前にも戦ってるから」

 だから、と己は前を向く。先生に渡されたインカムを装着し、銃を携えて前に出る。

 

     ●

 

 背後、奏が深くため息をつく音をムラサキは聞いた。苦笑の色を織り交ぜた声が、こちらの背中に掛けられる。

「名前だけを呼んで、具体を言わないのは卑怯ですよ?」

「語るまでもないなら言わなくて良い」

 そう、本当に語るまでもない。

 姉も、シロコ達も、そして奏とユメも、ホシノの対処に回ると言うのなら。

 セトの憤怒に対応する人員など、一人しか残っていないだろう。

 だから出る。前に出る。それだけのこと。

 それしかないと分かっていて、だからこそ奏は苦言を呈したのだ。

 自らをヒトデナシだのロクデナシだの公言して憚らないこの性悪AIが、本当は救い難いレベルのお人好しであることくらい、十年来の付き合いである己には分かっている。

 そもそも本当に人でなしなら、哀しみや苦しみに喘ぐ人間を見ても何も思わない。

 困難と絶望を前にしてもなお、諦めず足掻こうとする人間の尊さに涙などしない。

 そんな人類を救う為に、今ある世界を滅ぼしてまで改変しようなど思う訳がない。

 本当に、馬鹿なAI。

 古き神性との一騎打ち。死にはしないまでもただでは済まない。それが分かっているからこそ、彼女はこちらを案じた。

 だが、言って聞くような行儀の良い馬鹿は、彼女を含め悪の組織には存在しない。

 だから、嘆息した奏が返す言葉も想像がついた。

「……全力は禁じます。生徒ではないとはいえ、あれもまた一つの神性。ウッカリ消滅させようものなら、どんな影響が出るか分かったものではありませんからね」

「Jud.、まあ手加減して勝てる相手でもなさそうだけどね」

 Jud.、何ともまあ、自分達に相応しい応答だ。断罪と審判を意味する咎人の応答。そんな皮肉に失笑を零すと同時、奏が新たに射出した表示枠を操作。連動し、こちらの手元を表示枠が走り抜け、

「U-13、抜拳」

 位相空間から腕ごと引き抜かれるのは、シンプルな黒のグラブ。手の甲に大きな赤の円と、それを中心に張り巡らされた同色のライン。そんな特徴を除けばどこにでもありそうな、しかし己の為の武装をムラサキは双の拳に纏う。

 打ち付けた。

 応じるように、脈動したラインが微かな光を放つ。それを見届け、己の対応を進めつつ奏が口を開く。

「連邦捜査部メビウス顧問補佐、江田ナコ。日向・奏の名において、同所属である総長ムラサキ、葵・鏡子に命じます。──目標はセトの憤怒の迎撃。可能であれば撤退に追い込み、葵・硝子と対策委員会、協力者達の安全を確保すること。殺害、消滅、自死、これらに反しない限り、ありとあらゆる戦闘行動を許可します」

 一息。

「行きなさい、ロゴス。言の葉の拳の継承者。無限の円環(メビウス)に囚われてなお抵抗を諦めぬ者。汝の進む先に答え在れ。──Tes.」

 Jud.、と応じて前に出た。

 砂丘を下り、三歩程進んだところで背中に視線を感じた。顔だけで振り向けば、こちらを心配そうに見守っているお人好しが一人。奏が視線すら向けていないのは自分への当て付けだろうが、割り切れないタチなのはどちらも同じか。

「鏡子ちゃん……」

「ユメ」

 こちらを案じ、声を掛けて来る少女の名を呼ぶ。外で活動している時は頑なに偽名呼びを通していたが、今は彼女にとっての正念場だ。今回くらいは良いだろう。

 ……まだ私にも、そんな感傷が残ってたんだ。

 内心で自嘲しつつ、ぎこちないと自覚しながら笑みを向けた。心配するなと。

 上手く笑えているだろうか。

 昔は何も考えず、馬鹿みたいに笑っていたものだが。今では仏頂面がデフォルトで、当時の面影など残っていない。

 十年前のあの日から、楽しさや喜びという感情を失って。哀しむことすら飽いた空っぽの器は、ただただ溢れんばかりの怒りに満ちて。

 そんな自分が、他人を安堵させようと笑うだなんて。

 本当に、感情というやつはままならないものだ。

 だけど。ああ、だけど。

 この心が、やるべきことを分かっている。

 この器が、成すべきを果たそうしている。

 姉の邪魔はさせない。

 少女達の祈りを失わせない。

 今大事なのはそれだけだ。他は全てどうでも良い。だから、

「面倒なあれこれは、こっちに任せて。貴女は、ホシノを助けることだけ考えて」

 大丈夫。

「アイツが無茶苦茶なのは分かってる。これまで戦って来た相手とは比べ物にならないことも」

 だけどね。

「──私に勝てるのはお姉ちゃんだけだよ」

 だから、と己は前を向く。スナップした右手に音を立てさせ、拳を握って前に出る。

 

     ●

 

「先生が一緒なら、負けない」

「神様が相手でも、負けない」

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