「な、何なのだこれは……!?」
混沌の領域で、地下生活者は困惑の声を上げていた。
小鳥遊ホシノの反転、否、暁のホルスの顕現に成功したところまでは、全てが上手く行っていた。軽微な誤差こそあれ、大枠においては己が思い描いていた絵図面から外れることなく、己の勝利によってこの物語は幕を下ろす。そう、これはそういう結末だった。
過去形であった。
先程の一瞬、まるで陽炎のようにこの場へ
終わりになどさせない。その宣言を体現するように、想定外の変数が次々に盤上へと上がって来た。
もう一人のアヌビス。既にこの世界に存在するはずの神聖が、恐怖という裏側の存在となって参じた。それも先生の味方として。
それだけならばまだ、納得は出来なくとも理解は出来る。多元宇宙、別時間軸、そういったこの世界とは少しだけズレたところからの来訪者は、使い古されたネタだからだ。こんなチートがいるなら何故言わないと、匿名の行人への怒りを滾らせはしても、まだ対応の余地はあった。なのに、
「セトの憤怒は、一体何をやっている……!?」
もう一つの計算外。それは何の前触れもなく、突然に現れた一人の少女だった。
塗料が剥がれ落ちるように、砂原に不意の出現をした存在。生徒のようだが、しかし見た限り保有する神聖は微弱どころか皆無に等しく、だがそれが今、セトの憤怒と互角に渡り合っている。
そんなことがあっていいはずがない。
反転したホシノ、対策委員会の四名、もう一人のアヌビスに、空崎ヒナ、そして先生たる葵・硝子。
やや離れた位置に朝霧スオウを含むハイランダーの三名が退避していて、それがこの盤上の全てだったはず。
ならば今、セトの憤怒が相対している黒い少女は何だ。
神の雷をただの拳で砕き、最古の神格を退かせているあの少女は何だ。
該当する神性も神格も存在せず、正体も原理も一切が不明。ただ一つ分かるのは彼女が先生に味方し、ホルスを標的とするセトの憤怒を押し留めているということだけ。
何なのだこれは。一体何の冗談か、或いは悪夢か。
「チートの上にバグ利用だと!? どこまでも卑怯で姑息な真似を!! 恥を知らないのか葵・硝子!!」
悪役を自称する存在。この程度の不正は苦でもないと、そういうことか。
愚かしい。嘆かわしい。ルールを守ることすら知らない愚劣。だがそれこそがお前の命取りだ。何故なら、
「悪が栄えるのは物語の中だけ!! 如何なる手段も辞さぬ負け犬に、小生が負けるなどあり得ない!!」
二人のアヌビスとて、片や連戦で疲弊が激しく、もう片方も万全には見えない。セトの憤怒と戦っている黒い少女もまた、遠からず押し負けるだろう。
最後に勝つのはこちらだ。それは絶対に揺るがない。
ならば負け犬がどこまで足掻くのか、精々楽しませてもらうとしよう。
「ヒヒッ、ヒヒヒヒヒ……!!」
●
反転した大鳥が、地を蹴った。
地表すれすれを飛ぶように跳躍する赤の行く先、狙うのは二人の狼だ。
銀と黒という、鏡合わせのような二人だった。
一瞬だけ視線を交わした両者は、小さく頷きを送り合い、二手に分かれた。
銀の狼が左を行き。
黒の狼が右を行く。
挟撃の構え。しかしそれに構わず大鳥は中央を取った。
防御も回避も知らぬ。ただ己が力を振るい、目の前の何もかもを否定せんと、手にしたショットガンで狼を穿つ。
射撃。
対する狼は回避を選択した。
元より身体を動かすことが好きな、向上心の塊だ。目標として敬愛し、超えようと挑み続けた相手。手足のリーチ、射撃の癖、それらは分かり過ぎる程に分かっている。
戦術的思考すらない獣同様であれば、なおのこと。
避けた。
身を低く、射線上に己を置かないことで安全を確保。拡散軌道で放たれるショットガンとて、広がるより先に前へ出れば食らいはしない。
黒の狼が下から行き、銀の狼が大外を回った。
黒と比較すれば銀の経験は乏しく、体調とて万全ではない。攻めるならば黒と同じ選択をすべきだが、それで脱落すれば元も子もないのだ。
アシスト専念。そのつもりで銀の狼は射撃を送る。
狙いは胴体。命中重視だ。身体の中央にあるが故前後左右、そして上下とどの方向へ避けても、一番回避が遅くなる部位。
そこを容赦なく黒の狼が追撃する。
射撃後の隙を突きショットガンを跳ね上げ、浮いた身体に至近から射撃。着弾。振るわれた腕はスウェーバックで回避し、そのまま後方宙返りで離脱。その時には既に対面で銀狼が、鳥の手首を銃床で殴打していた。
ショットガンが手放される。
攻撃力を削いだ。
しかし銀狼の挙げた成果は、ほんの僅かな間に過ぎなかった。
振るった腕に引かれるようにして身を回した鳥が、逆の腕でショットガンをキャッチしたのだ。
殴打の動きでコッキングが為されていたのか発砲は即座。咄嗟に屈んだ銀狼の頭上数ミリの位置を膨大な圧が抜け、息つく間もなく蹴りが来る。
ガードの上から吹き飛ばされ、銀狼が距離を開けられる。
だが鳥が追撃に移るより早く黒狼が割って入った。
突き出されるショットガンを、位相空間から引き抜いた盾でシールドバッシュ。打撃音と銃声が篭った轟音を立て、しかし両者共に弾かれる形となる。
斜め構えで受けていた黒狼は反動に任せ身を回した。
正面から衝撃を食らった鳥は反動を受け止め堪えた。
互いの復帰と射撃は同時。どちらも得物はショットガンだった。
轟音。しかし外した。
理由は二つ。
一つはやや遅れて突き出された黒狼の銃が鳥の銃身を弾いたこと。
もう一つは膂力任せにその補正に掛かった鳥の手首を銀狼が狙撃したことだ。
当てず当てられず。だからと言うように両者が直蹴りを放つのは同時。互いが互いの蹴り足を足場に弾かれるように跳び、銀狼が後を追う。ドローンの支援射撃を盾に、一気に距離を詰めようとする。
だが、不意にその動きが止まった。
逡巡は一瞬。縮めた身は前方ではなくバックダッシュ。続くように黒狼も一度引き、本陣の方へと戻る。
撤退の指示を出した、白い長髪の女の元へと。
●
「ただいま、先生」
インカム越しに一時後退の指示を受け、急ぎ戻って来たシロコはそう口にした。傍ら、もう一人の己が並ぶのを一瞥した先生は、ホシノから視線を外さぬままポケットを漁ると、
「おかえりダブル狼君。補給にチーズなど如何かね? ああ、残り少ないが良ければ奥空君達も食べると良い」
流れで夜食タイムになった。
食べやすいよう棒状に加工されたスモークチーズを口に入れながら、シロコは先生の前に立つ。こちらもまたホシノから目を離してはいないし、トリガーに指は掛けたままだ。前方二十メートル程の位置にいるホシノは、幸いなことに体勢を立て直してから動きを見せていない。
やはり反射的な動きしかしないと、そういうことか。
こちらの横、もう一人の己はチーズを口に咥えたまま、多重の武器に弾丸を装填中。背後では一通り治療を終えた皆が、同じようにチーズで一息入れていて、
「食べてる場合か、って言いたいけど空腹には勝てないわ……」
「腹が減っては何とやらだよ黒見君。──何しろここからが本番なのだから」
タブレットを操作しつつの先生の言葉に、余裕はあっても緊張が抜けていない。その意味を察してか浅く身構える面々に、小さく笑みを零した彼女は口を開くと、
「気付いているかね? 今の小鳥遊君に意識はほとんどないように見えるが、ここまでの戦闘でダメージ以外の要因から動きが鈍る瞬間があった」
ヒナとアヤネが表情を険しくした。一拍遅れてノノミも納得したように視線を落とし、一人だけ分かってないセリカが慌てて周りを見ているのがちょっと可愛い。普段の先生ならイジりに入るところだが、さすがにそういう状況ではない為か即座にその答えを口にする。
「──デカ狼君が盾を使用した時だ」
告げられた事実に、セリカも言葉を失った。
その場の全員が知っていることだ。もう一人の自分が使用しているあの盾は、彼女の世界のホシノの遺品であり。更にルーツを遡れば、元々はユメの遺品なのだと。
「彼女はあのような姿になってもなお、梔子君を求め、彷徨っている。それだけ大事に思っていた存在が、もう失われていて、この世のどこにも存在しない。……その事実が、ただ哀しい」
だから、
「──止めるぞ」
目元を拭った先生の台詞は、毅然としたものだった。
「失ったものは戻らない。泣こうとも、悔もうとも、覆すことなど叶わない。ならば抱えたままでも、前に進むしかないのだ」
何故なら、
「小鳥遊君は孤独ではない。足を止めそうになっても、何もかも投げ出したくなっても、手を引き背中を押してくれる者がここにいる。彼女もそれは分かっていて、ただ苦しみからそれを失念しているだけだ」
ならば、
「
気楽な例えに、全員が吐息や苦笑を零し、しかし、
「──Tes.」
Tes.、それが自分達の契約だ。
「それで、具体的なプランは?」
ヒナの促しに、先生は頷いた。それぞれの銃を手に身構える皆を見て、
「彼女はデカ狼君のような色彩による反転ではなく、トラウマを抉られた苦しみによる反転だ。本来あり得ないプロセスを経たが為、不安定な状態にある。その最たる証拠が彼女の胸元、手帳のようなヘイローだ」
指差した先、言われた通りのものがそこにある。どこか罅割れたような、或いはズレたような造形が、彼女が反転してからずっと在る。
「言うなればアレは、闇の中にいる小鳥遊君とこちらを繋ぐ一種の門だ。あの存在が小鳥遊君を、完全に反転する手前ギリギリのところで繋ぎ留めている。本能だけで暴れ回っている彼女に、言葉を届かせるとしたらアレを使うしかあるまい。故に──」
左手、白のタブレットを掲げ、言う。
「シッテムの箱で干渉し、彼女の精神世界へ飛び込む。暴走状態ではない素面の小鳥遊君とご対面し、あとはどう説得するか、だな」
「途端に安心感が跳ね上がったのは気のせいでしょうか……」
「先生の説得、実質丸め込みですからね……」
「言い包められる未来しか見えないわ……」
「フフフ私のことをとてもよく理解しているようだね」
全員が躊躇いなく半目を向けたが狂人は踊ってスルーした。
「だが問題は、直撃どころか余波ですらポックリ逝きかねない私がどう小鳥遊君へ近付くか、だ」
「ん、仮に先生が倒れたら手の打ちようがなくなる。それだけは絶対に避けないと」
「……砂狼シロコが二人掛かりで拮抗からやや優勢だったと考えると、先生を守りながらというのは現実的ではないわね」
「じゃあ、シロコ先輩達に抑えてもらいつつ、私達で先生を守りながら進行?」
「その場合、ホシノ先輩の攻撃範囲が広過ぎるかな……。私達が盾になっても、先生をガードしきれるとは思えないし……」
「……なら、私が下がる?」
「否、デカ狼君が抜ければ前線はたちまち瓦解するだろう。空崎君がカバーに入ったとて、彼女も万全な状態ではない」
「では、どうすれば……」
ノノミの言葉を受け、先生が前に出た。困惑の視線が向けられる中、気楽に肩を回した大人はホシノを見据えると、
「私が隙を作る。行けると判断したら、デカ狼君は私を抱えて彼女のところまで跳んでくれ」
●
「小鳥遊君!!」
呼び掛けの声とともに、先生が一歩前に出た。
名を呼ばれたからか、単なる音の発生源としてか、ホシノが確かに視線を向ける。次の瞬間には目の前まで跳躍されていてもおかしくない危険な状況の中、しかし大人は恐れも怯みもしない。
「確かに私は戦う術も力も持たない。君がその気になれば、否、その気がなくとも腕の一振り、指先一つで命を脅かされる弱い存在だろう」
だが、と告げた彼女は、動きやすくする為かジャケットのボタンを外す。風に靡く黒を纏い、毅然とした眼差しで、ホシノを指差し力強く宣言する。
「そんな私にも武器がある。君に対しては、いいや、君に対してだけは絶対的な力を発揮する、他の何者にも持ち得ない武器が。それを今こそ見せよう」
告げた瞬間、先生が一つの動きを放った。
襟元に両の手を運び、力いっぱい開襟したのだ。
シャツのボタンが引き千切れる勢いのフルオープンであった。
キヴォトス最上位クラスには及ばぬまでも、ノノミやもう一人のシロコを優に上回るボリュームが曝け出される。黒い下着と白い肌が織り成すコントラストは、芸術と称しても許されるであろう美しさをも兼ね備え、
「どうかね!! 梔子君によく似ていると君に太鼓判まで押されたオパイが、臆面もなく放り出されているのだぞ!? いかに私が梔子君本人ではないとはいえ、時たま私の胸で安眠を貪っていた君だ!! 例え精神が限界まで荒んでいても、これを前にして何の反応もしないということはあるまい……!!」
さあ、
「戻って来たまえ小鳥遊君!! 今ならこのオパイを一日好きに出来る権利を贈呈することも吝かではないぞ!!」
●
何もかもが静止した。
衝撃的過ぎたのか卒倒したヒナを除き、ノノミも、セリカも、アヤネも、そしてホシノさえも動きを止めていた。
時間が止まったかのように、しかし風や雲、星々の光という自然現象だけが己を止めておらず、そして、
「────」
黒い速度が、弾丸のように突っ込んだ。
もう一人のシロコが、先生を抱えて跳んだのだ。
●
虚を突く形で詰められた距離は、一歩で十メートルを超えた。
人を一人抱えているとは思えないスピードで、もう一人のシロコはホシノの目と鼻の先、文字通りの眼前へ到達。間髪入れず先生が左手を、シッテムの箱を携えた腕を突き出す。
触れた。
シッテムの箱が青と紫の光を放ち、二重の螺旋を描きながら手帳のヘイローへ沈む。同時、ホシノが苦悶の声を上げ、銃を持たぬ手で頭を抱え、しかし、
「……っ!?」
赤の混じったドス黒い爆圧が、先生ともう一人のシロコを吹き飛ばした。
黒の狼は地を転がり、彼女に抱えられていた大人は宙を飛ぶ。
●
「先生!?」
アヤネの声が飛ぶより早く、跳ね起きたシロコは先生の身体を受け止めていた。
落下より早くキャッチし、一度地に足をついてスキッド。跳躍してベクトルをやや上向きに変えたところで先生を抱え直し、一息に本陣まで後退。
着地した。
即座に降り立った先生は慣性消去の為、小走りのような勢いで軽く数歩。無事に安堵の息を零す面々の正面、フルオープン状態の彼女は手を上げると爽やかな笑顔で、
「すまん!! 失敗した!!」
「少しは状況考えなさいよこのキチガイが──!!」
あまりにも昔のまま過ぎて正直泣き掛けた。
●
「さて、元気なツッコミをもらった直後ではあるが、状況はちょっと深刻だ」
ちょっと深刻って表現が矛盾してませんかね……、とアヤネは思った。思うだけに留めた。不規則言動はいつものことなので流すに限る。一々取り合っていると保たない。正気が。少なくとも平常運行でブチかませるのなら大丈夫だろう。脳はダメかもしれないが。
ツッコミで息を荒げているセリカの背中をさすりながら視線を向ければ、眉をひそめつつ衣服を正した先生がいる。復帰したヒナが頭を振り、面を上げるまで待った上で、
「シッテムの箱を用い、小鳥遊君の精神に干渉は出来た。が、やはり異物故の拒否反応だろうね。濁流のような黒い感情に押し戻され、敢え無く手ぶらで帰参と相成った」
こちらからは衝撃波のようなものに弾かれて見えていたが、外から見ていては分からぬ一瞬の攻防があったのだろう。シッテムの箱自体に破損はないようだが、エラーらしき赤い表示枠が連続で射出されるのを先生が片っ端から処理していて、
「────」
不意に聞こえた叫びに、全員がハッと顔を上げた。
出所は向こう、先生を吹き飛ばしてから動きを止めていたホシノだ。天を仰ぎ、両の腕は力なく、しかしどこまでも響く吠声を上げている。
アヤネにはそれが、泣いている子供のように聞こえた。
「トラウマに触れられたくないからか、あちらも必死だ。これまでも大概だったが、ここからはより全力で抵抗して来るだろう」
だが、
「逆に言えば、触れられれば変化が生じるという証明でもある。何しろ効果がないのならば、無駄な動きを見せたところを刈れば良いだけなのだから。先程までは声一つ上げていなかったことを思えば、感情を発露しているだけ進歩だろう」
つまり、効果がない訳ではない。
「だとすれば話は早い。オパイアタック大作戦が通じなかった以上、本来のプランに戻すだけだ」
「ナチュラルに頭おかしい作戦名は無視しますけど、本来のプランというのは……」
うむ、と頷いた先生が、口の端を吊り上げながらこう言った。
「ち・か・ら・ず・く」
●
微妙に引き攣った笑みを返すアヤネに、先生は気にするなと手を前後に振った。
「暴力は全てを解決する、それもまた一つの真理だ。言葉が通じないのなら物理で話し合うしかあるまい」
心配は要らんよ。
「ことアビドスに関しては、その手の第一人者だろう?」
「ん、銀行を襲ったりカイザー基地壊したり、うちの十八番」
「……いや、まあ、確かに言われてみればその通りだけど」
「改めて言葉にされると、私達危険な集団みたいですね」
「阿慈谷ヒフミを助ける為だけにエデン条約に首を突っ込んで来たのはどこの誰だったかしら……。あと私、厳密にはアビドスじゃないのだけど」
「この場に参じた以上ニアアビドスだろう。似たようなものだ。気になるならシャーレ枠ということで納得しておきたまえ」
それならまあ……、と頷くヒナに笑みを向け、改めてホシノを見据え直す。
やることは一つだ。
「一人で勝てないなら皆で勝つ。いつも通りだ。次は全員同時に、小鳥遊君の精神へ潜り込む」
それぞれの手元に作戦指示の表示枠を飛ばしながら、身構えた先生が鋭く声を飛ばす。
「一人でも彼女の心に届けば、連鎖的に全員が到達出来るだろう。心の守りを重視して、実体側の抵抗が緩むだろうからね」
裏を返せば到達するまでは実体側が全力で抵抗して来るということでもあるが、そこは気合いと根性だ。精神論だけでどうにかなる程現実は甘くないが、実力をどこまで引き出せるかは体調と環境、そして何よりも意気。火事場の馬鹿力という言葉があるように、想いの力は限界など容易く超えさせる。
その点彼女達の士気は高く、あとはそれをどう扱うか。そこは己の領分であり、戦術と戦略次第でどうとでもなる。
「行こうか」
だからと言うように、己の踏み出した一歩は散歩にでも行くような気楽なものだった。
同時、それぞれの得物を手に生徒達も駆け出す。
ホシノを失わせない為に、馬鹿の示す先へ行く。
●
最前線を突っ走るのは銀狼と黒狼のツートップ。右翼にヒナ、左翼にノノミが位置取り、中央にセリカとアヤネを連れた先生。
左右から支援を受け中央突破、そういう構えだ。
先手を取ったのはヒナだった。
翼を用いたショートダッシュで一気に加速、杭打つような着地と共にマシンガンで制圧射撃を行う。
威力もさることながら莫大な面を叩きに掛かる範囲攻撃は、回避に難く耐えるも容易ではない。
電動鋸に似た独特な射撃音が連続し、ホシノの身体を穿ちに掛かる。
横殴りの豪雨染みた弾丸を浴びつつ、しかしホシノは動きを止めなかった。
鈍く遅いものではあったが、右手の銃を天へと掲げたのだ。
先にも見せた大規模集束砲、その事前動作だった。
効いていない訳ではない。だがヒナの弾丸がホシノを打ち据えるより、ホシノのチャージが終わる方が早い。溢れ出る熱と圧を取り込むかのように、暗い赤の球体が高速で成形されて行く。
だからヒナが戦術を変えた。
一度射撃を止め、銃口を高く。先端に紫の光が集束し始め、一拍置いてから再射撃。
狙うのはホシノ本人ではなく、彼女が束ねている力そのものだ。
放たれた弾丸はこれまでとは違い、高密度に圧縮された高速連射。傍目に見ればビームと見紛う勢いで、一筋の光条となり突っ走る。
貫いた。
行き場を失った力の塊が波打ち、砕け、爆圧としてホシノを真上から殴り付ける。砂の上に叩き付けられ、しかし立ち上がり叫ぶ声が上がった。
怒りの色が滲んだ声だった。
要は質の問題だ。通常の射撃では効果が薄くとも、強い神秘や恐怖が込められた攻撃は彼女に通じる。ならば反転し暴走する彼女自身の力とて、扱いを誤れば自爆するのは道理。
大技を防ぎ、ダメージを与えた。好機と言って良いだろう。
故に他の面々も続いた。
距離を詰めていたノノミが足を止め、射撃で抑え込みに掛かる。無論それだけで止められるような相手ではないが、逆面からシロコがドローンのミサイルとグレネードで援護。その隙にヒナがリロードを行い、使用した弾薬はアヤネが空輸する。
運命共同体に等しいアビドスの面々は結束力が強く、互いの動きは概ね予測出来る。かつてその繋がりの中にいたもう一人のシロコは当然、風紀委員会という一組織の長であるヒナも戦術を見る目はある。
先生の示した指針さえあれば、細かく制御せずとも一丸となっての連携は可能だ。
その起点となった当の大人は、ホシノ目掛け疾走中だった。
全力ではなかったとはいえ自転車のシロコを、十キロ越えの荷物を背負った状態で追い抜いたこともある身だ。走る速度は生徒と比較しても遅いということはなく、ともすれば並走するセリカとアヤネが引き離されそうにもなる。
僅か二十メートル。ホシノから溢れ出す圧が大風となって吹き荒れてさえいなければ数秒と掛からない距離だ。
普段であれば瞬く間に届くはずの距離が、今は果てしなく遠い。
だがそれは諦める理由にも、生徒を見捨てて良い理由にもならないものだ。
だからと言うように先生が行く。
もう一人のシロコがホシノの足止めと圧を和らげる為、ショットガンを連射して大気を砕く。先生とホシノを結ぶ直線上に必ず位置取り、万が一への備えを怠らない。
生徒の為ならどんな無茶だろうと躊躇わない人間だと、分かり過ぎるくらいに分かっているから。
ならばこそ彼女を失わせてはならない。己の世界と同じ道筋を辿らせてはならないと、もう一人のシロコが裂帛の声を上げた。
黒に近い青と白。そんな二色の光が一瞬、しかし確かに彼女の身体を覆う。銃口に集束し放たれた大量の散弾は、ノノミの射撃と合わさりホシノの纏う圧を剥がし切った。
そこにシロコとヒナが追い打ちを掛ける。
先生のガード役であるセリカと後方支援担当のアヤネを除き、全員が矢継ぎ早に攻撃を仕掛ける。弾薬の装填、位置の取り直し、そういった隙さえも二人以上が重ならないようタイミングを計り、特に複数の武器を即座に切り替えられるもう一人のシロコが穴埋めの主体となった。
最も負担の大きくなる彼女のフォローには先生達のチームが回り、撃ち切っては投棄される銃を拾い上げて弾丸を装填、アヤネがドローンで空輸というローテーションによって攻撃の回転数は跳ね上がった。受け渡しの隙はシロコがカバーし、こちらだけが攻撃をする時間帯を作って行く。
残り二メートル。
味方を巻き込みかねない為ヒナとノノミが射撃を中断。駆け出す二人の代わりとして、対の狼が抑えに入った。
銀の狼はドローンのミサイル投射を射撃に重ね、黒の狼は手数を重視し己とセリカの二挺分のアサルトライフを射撃する。
だが、ホシノが抵抗した。
四重の絶え間ない射撃に比べれば、現状はその抑制も半減状態。故に機会はここしかないと、反転した大鳥が得物を構えた。
天ではなく、地に向けて、だ。
先生が防御を指示するが、遅い。これまで撃たれるがまま、使われることもなく有り余っていた莫大な熱と圧が、己を中心として放たれる。
さながら慟哭の叫びを上げるように。
●
全方位爆圧とでも呼ぶべき一撃は、全員を容易く吹き飛ばしていた。
反射的に得物をガードに構えたシロコもヒナも、身を低く堪えようとしたノノミも、比較的離れた位置にいたセリカもアヤネも、ショットガンと盾で限界まで相殺しに掛かったもう一人のシロコも、彼女がそうまでして守ろうとした先生も、ただの一人も例外はない。
ある者は宙を舞い、ある者は地を転がり、ホシノへの距離を開けられ、ここまでの奮戦を無へと戻される。
立っているのは叫びの主、ホシノだけだ。
●
「まだだ……!!」
●
鋭い声が、全員の耳朶を叩いた。
二重の意味で意識をぶん殴られたかのような衝撃と共に、視界へ映る姿がある。
先生だ。
もう一人のシロコが守りに入った為か、髪や衣服に乱れはあるものの傷はない。どうやら綺麗に足から着地したらしく、身を縮めて衝撃を逃した先生が即座に前に出た。
戦う力を持たない、ある意味この場で最も無力と言える存在が、それでもただ行くことを望んだ。
それを黙って見送る生徒など、キヴォトスのどこにもいる訳がない。
それぞれが身を起こし、或いは受け身を取り、限界の身体に鞭打って動き出す。
望むことはただ一つだ。
「──小鳥遊君を独りにさせるな!!」
●
戦線への復帰が最も早かったのは、やはり黒の狼だった。
息は上がっているが、その意思には微塵の揺らぎもない。
何故なら、彼女は知っていた。
喪失の痛みを知っていた。
帰らぬ嘆きを知っていた。
独りの辛さを知っていた。
故にこそ失わせないという大人の矜持に対する理解と同意は、この場の誰よりも強いという自負があった。
前へ。
先生より先に。陣頭に立ち、セリカのアサルトライフルを射撃しながら突撃する。
自前のアサルトライフルは再装填が必要で、この状況ではそれだけの時間も惜しい。
当てる。当てて、止めず、砂を蹴立ててドレスを翻し動き続ける。
派手に立ち回ることで注意を引き、他の面々を狙わせない。
己の知る皆なら、必ず復帰してくる。その信頼故の時間稼ぎだ。
撃ち切った。
内心で謝罪しつつ、アサルトライフルをその場に打ち捨てる。最後のグレネードを取り出し、山なりではなくキャッチボールのように直線で投擲。
当てることではなく注意を引くことが目的だ。
当然のように弾かれる。だがその僅かな猶予を代価に、ノノミのマシンガンを引き抜いた。
射撃。
狙いは付けない。狙ったところで走りながら当てられるような代物ではないし、狙わないからこそバラける範囲攻撃は逆に回避を困難にさせる。ヒナ程ではないが火力も出るのだから、現状においてはこちらが正解。
果たしてホシノの双眸が、もう一人のシロコに狙いを定めた。
ショットガンが放たれる。大気を抉り貫く無数の弾丸が、黒の狼を仕留めんと殺到する。
対する狼はマシンガンを手放し抜盾。斜めに受け、跳ね上げるようにしてこじ開けた隙間を潜り、身を低く疾走した。
逆の手に引き抜くのはホシノのショットガン。
互いの射撃が連続した。
多くは相殺され、相手に届かず、至近を掠めるものは無視し、当たる軌道はシールドバッシュ。穿ち、弾き、避け、進み、そして届く。
五メートルまで距離を詰めた。
撃ち切ったショットガンを放棄し、しかし黒狼はそれを目にした。
至近で放つには明らかに威力過剰な、大規模砲撃の構えをホシノが取っているのを、だ。
自爆前提の迎撃だった。
狼が急ぎ盾を構えるのと、鳥が轟音を放つのはほぼ同時。
元より神性の全力だ。防ぐという考え自体がどうかしている。必死に堪える黒狼の足掻きも虚しく、足場が粒状の砂原であることも相俟って押し戻され始めた。
だが、その後退は程なくして止まった。
もう一人のシロコの背を押す者がいたのだ。
セリカとアヤネだった。
一年生の二人が、もう一人のシロコを支えていた。
驚愕し振り向くもう一人のシロコに、二人が笑う。大丈夫だと。独りにはしないと言うように。
黒の狼は放心したように目尻から雫を零し、しかし前を向いて身に力を入れ直す。
受け切った。
砲撃時と同等の爆音が響き渡り、硝煙と砂塵で付近が覆われる。
視覚も聴覚も利かない中、それでもホシノは己に近付くそれに気付いた。
黒を纏う銀の髪。察知と迎撃は同時のことで、ショットガンを抜き撃った。
幾度目かも分からぬ轟音と共に銀の髪が倒れ、同時に衝撃で閉ざされていた視界が開ける。
銀の色が短かった。
先生のジャケットを羽織ったシロコだ。
黒装束が印象的過ぎたもう一人のシロコ。その特徴を生かした陽動だった。
倒れる動きも被弾による崩れ落ちではなく、転びながらの回避によるもの。衝撃波を浴びはしたが、直撃に比べればどうということはない。
ただでさえ大規模砲撃を放った直後だ、出力不全の一撃などそよ風に等しい。それでも当てれば沈められると踏んでいたのだろうが、結果は見ての通り。
加えて砂塵が晴れたホシノの至近、着実に距離を詰めている人影があった。
セリカとアヤネをもう一人のシロコの元へ送り出し、一人となった先生だ。
左手に持つ白のタブレット、それを視認した瞬間ホシノは射撃した。
生徒相手であれば有効射程外からのハンドガンによる射撃にすら劣る攻撃。しかし大人の命を奪うには十分な一発だ。
回避の困難な散弾。シロコは遠く、ヒナは姿が見えず、セリカもアヤネも間に合わない。先生もまた腹を括ったのか、半身になることで被弾面積を減らし強引に前へ出ようとする。
だが、ギリギリのところで割って入った姿があった。
ノノミだ。
両腕を広げ飛び出したノノミが、その身を盾としたのだ。
打ち据える。
ノノミ越しに弾け飛んだ砂礫が頬を裂き、手足に擦過の傷を生む。だが致命傷ではなく、当初の想定よりもずっと軽い被害だ。
生徒を盾にした、という一点さえなければの話だが。
足を止めそうになった先生を、しかしノノミが真っ直ぐ見上げた。
眉を歪め、唇を噛み、しかし疾走の前傾を礼として、先生は何も言わず通り抜けた。
今は言葉を発することさえ、走る邪魔だとでも言うように。
それで良いとノノミが笑って、膝を着いた。
意識はあるし、死ぬ程のダメージではない。言い訳にもならない、それでも前に進む理由を抱いて、先生が遂にホシノの正面に辿り着く。
だが、一瞬の逡巡が明暗を分けていた。
ホシノの構えたショットガンが、その銃口から赤の光を迸らせていたのだ。
射撃寸前。回避も防御も不可能。絶体絶命という例えそのものの光景。
それでも先生は動きを止めなかった。
だからと言うように、ホシノの視界を遮るように何かが落下した。
アヤネの遺品であるドローンが投下した、一挺のアサルトライフルだ。
もう一人のシロコのものだった。
ノールックでキャッチしたシロコが即座の動きでリロード。同じ銃だ。マガジンの規格も同様であり、スムーズに装填が成される。
同時に飛来した彼女のドローンが、ミサイルの発射態勢に入る。
だがホシノは眼下のそれではなく、天を見上げていた。膨れ上がった戦意と降り注ぐ銃弾に気付いた、反射的な動きだ。
赤く染まった空の下。それでもなお輝く月を背負った、黒の狼がそこにいた。
後方、身を起こしノノミの元へ駆け寄るセリカとアヤネの近く、倒れたままの盾がある。そこにもう一人のシロコはいない。
着弾時の視界不良に紛れ、跳んでいたのだ。
これまで執拗に身を低く下からの回避や突撃を望んでいたのも、上に意識を向けさせない為の戦術。
そうして最後の隙を生み出した彼女は、再装填したシロコの銃と己のドローンを従え攻撃に掛かる。
合図も打ち合わせもなく、しかし二人の狼の動きは全くの同時。
天からの二十一発と地からの十三発が、反転した大鳥を穿ち膝を着かせた。
そこに先生が飛び込んで行く。
●
先生が、左手を突き出した。
生徒程速くはないが、的確で、流れるようにスムーズな動きだった。
だが、打ち負かされてもなおホシノが抵抗していた。
ショットガンを取り落とした右腕で、先生の腕を振り払ったのだ。
乾いた音がして、先生の腕が外へと大きく開く。
その肩は不自然な程に外側へと突っ張っていた。
脱臼したのだ。
一瞬握力が抜けたのか、白のタブレットが吹き飛んで行く。
しかしその画面に映し出されていたのは、アロナでもプラナでも、ましてやシッテムの箱のエンブレムでもない。
それは昨日日付で入力された、対策委員会名義の帳簿。
アヤネのタブレットだった。
シッテムの箱ではない。
敢えて同じ左手で突き出されたからこそ、そこに先程と同じものを察知した。その錯覚を利用した罠だった。
本命は右。左手を突き出す陰で腰のタブレットケースから抜き放たれたシッテムの箱が、ホシノの手帳型ヘイロー目掛け突き出される。
だが、計算違いが生じていた。
二人のシロコの全力を受けてなお、ホシノが抵抗したことだ。
脱臼する程の打撃を受けたのだ。いくら体術に長けた大人であっても、瞬間的に姿勢を制御するのは難しい。
接触まで僅か〇・二秒。反転した神聖に掛かれば、ただの人間など百度殺しても釣りが来る程の隙だ。
だからと言うように、ホシノが左腕を振り上げる。放っておいてくれと。構うなとでも言うように。
出来なかった。
背後から組み付いたヒナが、ホシノを羽交い絞めにしたからだ。
疲弊が激しく復帰が遅れたが、武器を捨て身軽になったことで、瞬間的に距離を詰めていた。それ故のインターセプトだ。
二人の狼が強襲し、先生が正面から行って、注意を引いたからこそホシノに気取られることなく、間に合った。
皆で勝つ。その宣言の通りに、シッテムの箱がホシノに触れる。
届いたのだ。
●
「手を伸ばせ!!」
手帳型ヘイローに触れる瞬間、先生の叫びに全員が応えた。
身を起こしたシロコも、着地したもう一人のシロコも、ふらつきながらも足を止めないノノミも、ノノミに肩を貸していたセリカもアヤネも、全員がホシノに触れる。
ヒナが抑え込んでなお、ホシノは抵抗を止めようとしない。身動きは取れないが、吹き荒れる風と熱と圧は疲弊してなお凄まじく、
・私 :『思考加速を解除!! 浮いたリソースで防護加護を全員に再設定!!』
・あろな:『Tes.!! そう言うと思ってもうやってます……!!』
上出来だ。さすがはスーパーアロナちゃん。長い付き合いだけあってこっちのことをよく分かっている。混沌の領域の制御に掛かり切りなのかプラナの反応はないが、ここまでもかなりの苦労を掛けた。この件が片付いたらアビドスやヒナのみならず、彼女達にも慰労をせねば。いちごミルクをダースで買おう。あとカステラも。
しかし状況は未だ好転していない。脱臼? 知らんよそんな軽傷。嵌めれば治る。痛みは根性で我慢。問題はそんなことではない。
ホシノの心の内に、生徒達は無事到達出来たらしい。目を閉じたまま微動だにせず、時折寝言のように言葉が聞こえるのは、ホシノに語り掛けているのだろう。自分は派手に拒絶されたものだが、やはり大事な後輩達相手なら話は別らしい。悔しくなどないとも。後でこの件について報告書を出した際奥多摩の連中に死ぬ程煽り倒されるだろうが、生徒が無事ならそれで良いのだ。そもそも長年の付き合いである対策委員会と、ぽっと出の自分が同格の扱いになる訳がないだろう。ああそうだとも。悔しくなどない。ないったらない。
話が逸れた。
ともかく今自分に出来ることは、生徒を守ること。ホシノが暴れ出しそうになったら引きずってでも下がらなければならないし、懸念は彼女だけではない。
もう一人のシロコが攻撃を防ぎ、跳んだ辺りのタイミングで、遠方の砂原が激震したのだ。それは先程、セトの係累が顕現したらしき方角。以降全く動きを見せず不審に思っていたものだが、微かに聞こえた音は戦闘のそれに等しく、
……何があった……!?
誰かが交戦していた、と考えるのが筋だが、この近辺には自分達以外誰もいないはず。ハイランダーの三人が退避したのは反対方向だし、地下生活者はそもそも存在する領域が違う上に敵だ。
ならば一体誰が、何の目的で。
「……分から、ない」
己の内心を代弁するように、そんな声が聞こえた。意識を戻し振り向いた先、俯いたホシノが口を開いていた。
最後に会ってから半日と経っていないはずなのに、随分と久しぶりに彼女の声を聞いた気がした。
見れば頭上に浮いた眼の形をしたヘイローが、ノイズのようなエフェクトと共に本来の形と反転後の形を行き来している。だが姿形は反転後のままで、
「他の人に、この苦しみは……」
「──当然だ馬鹿者!!」
うわごとのような台詞に、反射的にそう答えていた。
抱き寄せる。無事な右腕一本で、対策委員会やもう一人のシロコごとホシノを抱き締める。熱でシャツの裾が焦げ、アロナが警告を送って来るが、今はただ言葉を紡ぐ。
「私は君ではない!! 梔子君を知らない!! いくら記録や伝聞を漁ったとて、理解など及ぶ訳がないだろう!! 他人の全てを理解することなど、永遠に不可能だ!!」
ティーパーティーの擦れ違い、リオの決断、ケイの願い、カンナやユキノ、ナグサの懊悩、もう一人の己の覚悟。
そして何より、ロクに会話を交わすこともなかった妹。
分からなかったこと。分かってやれなかったこと。分かるべきだったこと。不備を挙げればキリがなく、己の未熟さに憤るばかりだ。
だが、それでも、だとしても、分かり合いたいと努力し、結果として今に繋げることが出来たのは、変えることの出来ない事実で。
「理解したいと歩み寄り、手を伸ばすこと!! 互いに手を取り握るからこそ握手と言うのだ!! 君が手を取って来た対策委員会の誰も彼もが、君を理解出来ておらずとも、救いたいと懸命になっているのだぞ!!」
それは、一つの鏡写しだ。
「君の手を取ったであろう梔子君を、理解出来ずとも君は知っている!! 何を思い、何を考え、何を願い行動するか、考えるまでもなく分かるはずだ!!」
ならば、
「手帳がなくとも、事実が分からずとも!! 君の思う中に真実はある!! それは最も彼女の傍にいた、君だけが想えることだ!!」
そうだろう、と己は思う。笑ってこちらを送り出してくれた、夢の中の少女のことを。
例えあの少女が、本来の姿や性格ではないとしても。彼女がくれた言葉は、願いは、己の中で生き続ける。彼女の影響を受けた自分が生きて、この世界に在り続ける限り、彼女はこの世界というキャンバスに描く風景の一部となって残り続ける。
それは目の前の相手にも言えることだ。
もし後悔だけを思い、彼女と共に在った己を否定するなら、
「──君は梔子君と過ごした、幸いな過去すら否定するのか!?」
「……っ」
●
一瞬だけ、彼女の左目が本来の青に見えたのは、感傷から来る錯覚だろうか。
●
「……来ましたか!!」
シッテムの箱に仕掛けたバックドア経由で、奏はそれを感知した。
対策委員会やヒナ、もう一人のシロコの尽力で、ホルスの側に傾いていた天秤が僅かに戻った。そこに硝子の言葉が届き、一瞬とはいえ確実に彼女は「ホシノ」に戻っていた。
これを逃す手はない。
「接続──!!」
準備はとっくに出来ている。人の手で生み出された
連戦に次ぐ連戦で補給もままならない中、諦めず足掻き抜いた対策委員会。
雷帝という大義名分を盾に、ホシノや先生達を助けんと参戦を決めたヒナ。
絶望的な現実を前にしても、それでも失わせないと叫び立ち上がった硝子。
最悪の結末を回避せんと、世界の壁を超えて駆け付けたもう一人のシロコ。
そんな皆を救いたいのだと、無力を承知の上でこちらに協力を仰いだユメ。
姉への贖罪を含むとはいえ、己の右腕を犠牲にしてでも時間を稼いだ鏡子。
立っている場所も、向いている方向も、主義主張に出自や信念、何もかも違う誰も彼もが、しかしただ一つの目的を同じとしている。
救いたいのだ。
失わせない。
人はそれを何と言う。無理か、不可能か、理想主義か。或いは偽善か、傲慢か。
身の程知らずと謗られかねないその願いを、しかし彼女達も自分達も、そして悪の組織も、誰もがこの一言と共に掲げたのだ。
「──うるせえ知るか、と!!」
歯を剥き、不敵な笑みを浮かべながら、奏は表示枠を操作。突貫工事の通神経路、秒単位で揺らぎ崩れ落ちそうになる道を、強引な補正で修復し、保ち続ける。並列処理、高速思考、AI故の利点を存分に生かし、作り物の頭脳が二重の意味で熱を持つのを自覚し笑った。
傲慢、大いに結構。そもそもが誰かを救おうなど、上から目線の傲慢でしかない。例え本人にその気がなくとも、救われる相手を己の下に置く行為だ。余計なお世話だと、差し出した手が振り払われることがあったとしても、
「それでも救いたいと飛び出す馬鹿こそが、世界を変えて行くんですよ……!!」
●
ホシノは、漂っていた。
何もかもが曖昧で、茫洋とした意識の狭間。ともすれば海のようにも感じられる場所を、ただ流されるままになっている。
そこに微妙な懐かしさを覚えるのは、対策委員会の皆で海に行った思い出があるからだろうか。
そんな郷愁に似た心地好い揺蕩いの中、しかし心のどこかに引っ掛かりを覚えている。
何だろう。何か、とても大事なことを言われた気がする。だがまるで微睡みの中のように、形になりきらず手の平から擦り抜けて行くような。
よくあることだ。夢と同じ。見ている時は現実に等しくても、起きれば薄れ忘れて行く。
そんなもんだよね、と普段であれば笑って流しているいつものこと。
なのに何故か気が付けば、手を伸ばしていた。
手放さなくて良いのだと、かつて誰かがそう言ってくれたから。
誰だったろうか。
朧げなイメージはある。それは、己よりも遥かに背が高く、髪が長く、胸も大きく、信じられないようなとんでもないことをやらかすのが当たり前で。そう、何か己の記憶を疑うレベルで不規則言動の枚挙に暇がない、傍から見てるだけだと存在自体が天災だったような、何か言ってて段々自信がなくなって来たけど、だけど、とても温かかったと、そんな印象だけはブレることがなくて。
何だろう。
凄く大事なことだったはずなのに、思い出せない。
自分にとって、凄く大事だった人。今はもうどこにもいないその人と、似ても似つかないのにどこか重なる、そんな人がいた気がする。
誰だったろうか。
分からない。何も分からない。自分の知りたいことはあの人が残した手帳に書かれていると、捻じれて歪んだ囁きに唆されるままここまで来たけど、その誰かのことも手帳に載っているだろうか。
ならなおのこと探さないと。
そう思っているのに、何故か身体は動かない。
まるで手帳がなくても答えは分かるのだと、そんな風に言っているかのように。
どうして。何故。分からぬまま、揺れ、漂い、そして、
「……あれ?」
気が付けば、砂に埋もれたはずのアビドス本校舎屋上に立っていた。
靄が晴れるように、急速に意識が現実に追い付く。目が覚めた、と言うべきか。何が起き、何をして、どうなったのか。おまけに夢見心地で考えていた誰かさんことキチガイのこともハッキリと思い出したが、思い出して良かったのかな……。悪い人ではないんだけど、こう、フォローのしようがない時間帯が多過ぎて、うん……。
当人不在でもギャグ時空だなー……、と乾いた笑いを零しつつ、ホシノは改めて周囲を見回す。二年ぶりになる風景は記憶のままで、ならばきっとここは現実の場所ではないのだろう。それだけこの場所が自分の原風景ということなのか、或いは未練がましいだけか。両方だろう、と思う程度の冷静さはあり、しかし気になる点は尽きない。
「……皆も、ここにいるの?」
微睡みの中で聞こえたのは、先生の声だけではない。シロコやノノミ、セリカにアヤネ、もう一人のシロコにヒナなど、自分に縁のある人達の声が聞こえたのだ。
自分が今こうして夢の中にいるのなら、皆も同じようにいるのだろうか。
探すべきか。否、会ったところで何を言えば良いのか。そもそもアレだけ色々ぶちかましておいて、どの面下げて会ったものか。とか言ってると先生がエクストリームキチガイを発揮して更にこっちを針の筵にしかねないので迅速に戻るべきだとも思うが、しかし踏ん切りがつかないのも確かだ。
ユメがいないという現実は、どうあっても変わらないのだから。
ならばいっそ、夢の中に留まっていても良いのではないか。
皆に迷惑を掛けることもないし、もしかしたらユメに会えるかもしれない。
例えそれが、自分の心が生み出した紛い物に過ぎないとしても、
「……え?」
俯いた視界に、それが入って来た。
ユメの手帳。探して、探して、探し続けて、どれだけ足を延ばしても、どれだけ時間を費やしても、見付からなかった彼女の遺品。
反射的に拾い上げていた。
それが都合の良い幻だとしても、手を伸ばさないという選択肢はなかった。
触れる。柔らかな紙の感触が、確かに手の中にある。
何が書いてあるのだろうか。
自分の想像に過ぎないとしても、思い込みでしかないとしても、知りたいと、そう思った。
唾を飲む。壊れ物でも扱うかのように表紙に触れ、つまみ、一息にめくろうとして、
「ホシノちゃん」
懐かしい声が聞こえて、総毛立つ感触と共に振り向く。
ずっと会いたいと願っていた人が、そこにいた。
●
こんなにちっちゃかったっけ、というのがユメの素直な感想だった。
物理的に縮んだ訳ではない。かつてより僅かだが背は伸びているし、髪も伸びて雰囲気は大人びた。だがこちらを呆然と見上げる表情も、丸く見開かれた目も、当時より幼い印象を抱かせるもので。
こんな小さな肩に、どれだけの重圧が掛かっていたのだろう。
いつもこちらを助けてくれる、頼もしい副会長。だから、知らず知らずの内に忘れてしまっていたのかもしれない。
彼女とて同年代の、何なら年下の女の子だということを。
だからこそ、幸せになって欲しいとユメは思う。
今更ではある。それで彼女の二年間がなかったことになる訳でもない。
だけど、そうしたいと思ったのだ。
先生ならきっと、笑ってこちらの背を押すだろう。やりたいようにやれと。責任は取るから好きにしろと。
ほんの僅かに言葉を交わしただけだけど、確信をもってそう思える。
何度挫けそうになっても、手を振り払われることがあっても、諦めない。
短い間であっても、彼女の教え子であったと思うなら。自分もまた彼女と同じように、自分自身を最後まで諦めない。
かつて彼女にそう諭されたホシノにも、それを思い出して欲しいから。
「それじゃあ、何から話そっか」