先生の月給は七十五万円でした
さて先生は何を失って何を得たでしょう
配点(回答には個人差があります)
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=27640977
「失礼致します」
その一言と共に、己は室内へと踏み込んだ。
「救護騎士団団長、蒼森ミネ。シャーレへの医療品納入及び、ナギサ様の招聘に応じ参上しました」
簡潔に用件を告げ、下げていた面を上げる。広がる視界に映るのは、しかしこちらを迎える先生でも、思い思いの挨拶を送って来る自称部員達でもない。
端的に言えば、混沌の一言だった。
「全く、仮にも良家の子女が通う伝統校の代表がこのような振る舞いに出るとは、さすがの私もビックリ仰天だね……!!」
「元凶が言えた義理かい」
「為政者たるもの、時には恥や外聞をかなぐり捨てることも必要ですので……!!」
「そーだそーだー!! ここは絶っ対に通さないもんね!!」
先生の足にセミを敢行し重りとなっているセイア。
先生の手を取って引き翼を懸命に動かしているナギサ。
正面から先生の腰を抱えるようにして押し留めているミカ。
そして渦中の先生はといえば、ナギサに掴まれていない方の手にいつものタブレットを持ち、全力で前に進もうとしている。字面だけ見ると格好良く思えなくもないが、実態としては生徒三人に実力行使で阻止されている真っ最中なので恐らくロクなことではあるまい。絵面の時点でロクでもない気もするが、まあよくある。
というか曲がりなりにもトリニティの代表とシャーレの顧問がコレで本当に良いのだろうか。
ともあれ、現状は完全な拮抗状態。四名共現在の位置から微動だにしていない。全身プルプルさせてるのはノーカンで、ええ。どちらも譲る気はないようだし、外からの仲裁が必要だろう。そう思い、気分的に物凄く嫌だがミネは恐る恐る声を掛ける。
「……あの、一体何を」
一見、デスクに向かう先生を止めようとしているように見えるが、先生周りでは常識に囚われない方が良い。平然とこちらの予想の斜め上に突き抜けるのがデフォルトだからだ。これもまた新種の遊びとか、そういう突拍子のない不規則言動かもしれない。そんな予想に反し、ようやくこちらに気付いたナギサが必死に、
「あ、ミネさん!! ミネさんも先生を止めてください!!」
気が逸れてバランスを崩したナギサが転んだ。
くの字になって先生を引っ張っていたせいか、尻から着地する軌道だ。下手に打てば腰を痛めかねない。故に即座の動きでミネが飛び出そうとした瞬間、先生がナギサに掴まれたままだった右手を握り返しつつ腕を上へ振った。
自動的にナギサが先生の腕に吊られるような形となり、反動で身が振られ尻より下に脚が回る。結果、ナギサは正しく足から着地し、ゆっくりと床に座り込んだ。
何が起こったのか分かっていないように数度目を瞬かせた後、呆然と視線を上げる。そこでようやく理解が追い付いたようで、安堵の息を零しつつ、
「あ、ありがとうございます、先生……」
「いや、こちらもムキになって張り合ってしまった。申し訳ない桐藤君」
前傾のままだった先生が身を起こし、そこでようやくミカが額の汗を拭いつつ先生から離れた。セイアも嘆息付きで身を剥がし、よくよく思うとこの二人と力の綱引きをしながらナギサの転倒に対処した訳だが、どういう体幹してるんだろうかこの人。度々思うが本当に人間なのだろうか。
……腹部を撃たれた状態で意識を保ったまま、トリニティ各所に指示を飛ばして混乱の早期鎮静化を図ったくらいですからね……。
さすがにある程度の目途が立った辺りでぶっ倒れたそうだが、後輩から聞いた話を与太だと断言出来ないくらいには、この大人のデタラメぶりを目にしている。言動が無茶苦茶過ぎるのは事実だが、今まさにナギサを助け起こしている通り根が善人なので始末に負えない。そんなコメントに困る存在は、
「ああ、遅くなったがよく来たね蒼森君。壮健そうで何よりだ。医療関係の品はいつもの場所に頼む。受領の判はデスクにあるのだが……」
言いつつ先生が視線を向けた先、半目で両手を広げたミカが腰を落としてディフェンスに入っていた。
「あの、ミカ様? 判子を押していただけないと、私の仕事が終わらないのですが……」
「ごめんミネちゃん、今の先生を机に行かせる訳には行かないの」
目が本気だった。
「……いまいち状況が見えないのですが、一体何が?」
「何、取り立てて語る程のことはないよ。病み上がりだと言うのに平常運行で仕事に戻ろうとする愚か者を止めに掛かっているだけのことだ」
呆れ全開の半目を向けるセイアを横に、そういうことです、とナギサが頷く。ミカもまた、反復横跳びで先生とフェイントの応酬を交わしつつ、
「鋼鉄大陸? の件は一区切り付いたんでしょ? ボロボロになって帰って来たのにずーっと走り回ってたんだから、いい加減休んでも罰は当たらないと思うんだよね」
それは、連邦生徒会や各校の重鎮向けに公開された情報の一つだ。
キヴォトスの一部が無機物に侵食されるという異変については一過性のものであり、シャーレとセミナー会長を主とする有志の生徒が既に解決したと公式に発表されている。一方で自分達のような立場の者には、大まかな経緯や事情まで含みで共有が為された。
エデン条約と色彩戦に次ぐ、先生が三度目に死に掛けた大規模事変。聞いただけの生徒もメンタルにダメージを受けたり自発的に警護に就いたりとそれなりの騒ぎになったが、
……やるべきことが残っているから、と平然と仕事してましたね……。
さすがに厳しかったのか普段よりも生徒側への支援要請も多かったものの、概ね普段通り働いていたのがこの大人だ。事後処理と言える諸々が完全に終了した、という連絡は先日受けていたが、
「先生に休む気がないのはいつものことなのでは? いえ、休養が必要だというのは全面的に同意ですけど」
寝ているところを見たことがないとか、あまりに神出鬼没過ぎて実は複数人の替え玉制だとか、都市伝説染みた噂にも事欠かない人物だ。正直に言えば一ヵ月……、はキヴォトスが終わりかねないので無理だとしても、せめて一週間……、否、三日くらいは纏まった休みを取っても許されるのではないかと思う。言って聞くような相手じゃないのが最大の問題だが。それ故自分達も苦言は呈しても、実力行使にまで及んではいない。
そういった背景も込めての問いだったのだが、ティーパーティーの三人は一斉に顔を背けた。
何かまずいことを聞いただろうかと危惧する眼前、半目のセイアが一枚の紙をこちらに差し出す。
会釈と共に受け取れば、先生の給与明細だった。
不躾だと思いつつも、目に入った金額はそれなりのもの。やはりキヴォトス全土を飛び回り活躍しているだけはあり、待遇は良いらしい。救護騎士団も決して貧乏という訳ではないが、このくらいあればもっと良質な医療器具の調達や、ボランティア活動の範囲を広げるなど出来るだろう。
……やはり私もシャーレの活動でお給金をいただくべきなのでしょうか……。
などと思いつつ、ふと一つの記載が目に留まる。
月の労働時間が六百時間を超えていた。
●
次の瞬間。
ティーパーティーの三人は、ミネがその場で膝から崩れ落ちるのを見た。
●
ゆっくりと立ち上がりながら、頭を振ったミネは意識を確かとすることに努めた。あまりに衝撃的な数字を見て瞬間的に気絶していたようだが、救護の信念でどうにか戻って来ることが出来たらしい。ええ、他ならぬ先生に支えられ黙示録の天使さえ抑えたのです。この程度で負けてはなりません。
しかしちょっとこれはさすがに正気を疑う。
……六百時間?
月およそ三十日として、一日辺り二十時間。しかも休日なし。シャーレに住み込みの為通勤時間はゼロと考えても、休憩も含めた自由時間は僅か四時間。仕事と並行で食事を済ませ、入浴を三十分と仮定しても、家事や身の回りの雑事を考えれば一日の睡眠時間は三時間を割る。
……MURIでしょう。
ゲヘナの風紀委員長もそのくらいのハードスケジュールだったはずだが、彼女はあくまで生徒。キヴォトス上位と言って良い実力を支えるフィジカルで、無理矢理誤魔化しているに過ぎない。頻度こそ少ないとはいえ、救急医学部や行政官が時間を融通し休養の時間を取れるよう図ってもいる。
だが、この大人はどうか。
ゲヘナどころかキヴォトス全域を行動範囲とし、活動時間は昼夜を問わない。連絡を受ければ辺境だろうとスッ飛んで行く人の好さは、生徒から好感を抱かれる理由の最大でもあるとはいえ、いくら何でも度が過ぎている。
だが、ふと一つの思考に至る。
鋼鉄大陸の後始末で、何かと多忙だったのは先述の通りだ。定常外の案件だった為、この明細の範囲期間内だけが異常な激務だった可能性もある。きっとそう。そうであるはず。そうであってくださいお願いですから。
「ちなみにユウカが整理した家計簿を見るに、シャーレ顧問に就いてからずっとこんな調子のようだよ」
頭痛がして来た。
「……先生に、一つお聞きしたいことがあります」
「スリーサイズかね? ……おっと、これでは一つではなく三つか。どこが知りたい!?」
無言で拳を振り上げると馬鹿がダッシュで逃げ出そうとしたが先読みしたセイアに腕を掴まれ失敗した。
ややあって、落ち着け、と両の手の平を立てた馬鹿に腕を下ろし、溜め息交じりにミネは聞く。
「……最後に休んだのはいつですか」
マトモな答えは返って来ないでしょうね、と内心諦めつつ。半目で見た先、先生は大袈裟な動きで肩を竦めると、
「このキヴォトスにおいて、先生という肩書きは私と不可分のものだ。そういう意味では二十四時間三百六十五日、年の初めから終わりまで年中無休だよ?」
「分かりました。質問を変えましょう」
問う。
「最後に寝たのはいつですか」
●
ミネの視線の先、先生が眉をひそめながら首を傾げた。
そのまま浅く上を見て、記憶を辿るように指折り数え出す。
五本折ったところで動きが止まり、眉を歪め、ややあって折り返しの六本目が開き、戻され、首の傾きが深くなる。
そのまま十秒が経過した。
気まずい沈黙の中、全く意に介した様子のない先生はこちらを見て手を上げると、
「念の為確認しておきたいのだが、……気絶は寝たと数えて良いのだろうか」
ナギサが顔を覆って身体ごと背けた。
●
・あろな:『…………』
・プラナ:『…………』
・私 :『無言で圧を掛けるのは最近のトレンドかね?』
・プラナ:『あの、先生、いくら教室内の時間経過速度が可変であるとはいえ、現実側に一切変化はない訳で』
・あろな:『時間圧縮で六時間睡眠を確保しても、リフレッシュできるのはメンタルだけで、肉体の負荷はシッテムの箱から供給される整調加護で強引に補っているんですからね? コレがなかったら補習授業部設立前に限界迎えて死んでますよ? 分かってます?』
・私 :『無論分かっているよ? ──やめるとは言っていないが』
・あろな:『ア──!! 先生はいつもこんな調子だから!! だから!!』
・私 :『だが、二人には本当に感謝しているよ。明日にでも手製のカステラを振る舞うとしようか』
・プラナ:『アロナ先輩、アロナ先輩、秒で買収されないでください。いつもの手口です』
●
「お、落ち着こうミネちゃん!! 正直私もドン引きと心配と張り倒したい感情でゴチャついてるけど物理はダメだよ!!」
「離してくださいミカ様!! 今目の前に末期も末期な重症患者がいるんです!! いえまあ以前からこういう人ではありましたが!!」
「ははは、鷲見君や朝顔君が抑えに回るのはいつものことだが聖園君がとなるとレアな光景だね」
セイアがハリセンで先生の後頭部をひっぱたいた。
「おや、良い音がしたね。ミカと違って先生の頭は余計なものも含め色々と過剰に詰まっていたと思ったが」
「ギャグに厳しいシャーレの顧問としては、ツッコミの瞬間自ら当たりに行くくらい基礎技能だよ百合園君」
「というかセイアちゃんさりげなく私のことディスるのやめない!?」
セイアも先生も無視した。気兼ねないということで良いのだろうか、人間関係は個人差があるので深くは突っ込まないでおく。が、別の点は気に掛かったので、
「ところでセイア様、そのハリセンはどこから……」
問うた先、セイアが紙製のハリセンを手にしている。目測だが六十センチ超、とても隠し持てるサイズではない。
……そもそも袖から手を出さぬままどうやって持っているのでしょうか……。
至極真っ当な疑問だが触れない方が良い気がしたので口には出さなかった。
対するセイアは獣の耳を軽く震わせ、ああ、と不意に真顔になると、
「先生の不規則言動を言の葉だけで抑制するのも限度があるだろう? 故にエンジニア部の面々が、先生認可の元手を入れていてね。シャーレの敷地内なら壁だろうと床だろうといつでもどこでも取り出せて、叩く度に今年一番の快音が鳴る素敵なハリセンだ。しかも相手にダメージがないので、先生相手でも気兼ねなく全力で振り回せる優れもの。今なら一本購入すると何と追加でもう一本、三十分以内の注文なら更に一本追加でお値段据え置きの大特価。さあ、画面の前の君も試しに一発如何かな?」
「あれぇ!? ここいつから通販番組のスタジオになったっけ!?」
真顔のまま一本足打法で素振りを始めるセイアをナギサが止めに入り、さすがにちょっと申し訳なく思いました。
●
「……ともあれ、事態は理解しました。また、ナギサ様が今日の予定を全てキャンセルしてでもシャーレに来て欲しいと頼まれた理由も非常によく分かりました」
「お手数をお掛けします……」
頭を抱えつつ言うナギサに、ミネは心底同情した。
エデン条約の一件以降、救護騎士団はシスターフッド共々ティーパーティーの互助に入っているが、対外的な代表はやはりティーパーティーの三人だ。加えて自分やサクラコは元々の活動もある為、シャーレとのやり取りも基本は三人の受け持ちとなる。
……加えて、ミカ様は事務系よりシャーレ部員としての活動の方に注力していますからね……。
向き不向き、というものだ。前科が前科だけにミカが政治的な活動を行うことに反感を抱く者もいて、だからこそ先生が別の形で実績を残せるよう計らってのシャーレ加入。彼女の戦闘能力の高さはスクワッドの援護や色彩戦で証明されており、現に副長という武断系のナンバー2を務めてもいる。
それらの評価も手伝って、ミカに好意的な派閥が増えているらしいという話はサクラコからも聞いていた。
……アビドスの生徒会長と二人で飛び回っている姿も、もはや見慣れたものですからね。
ホストを抜きに他校の生徒会長と親密な仲になっている、と流言を飛ばす輩もいるようだが、大半は気にも留めていない。ミネも事故現場の救助活動などで幾度か行動を共にしたが、友人という表現がしっくり来る二人組だ。ナギサやセイアに対するのとは別の、気の置けない関係と言うべきか。
そんな感じで結構充実しているミカではあるものの、彼女が政務から抜けた分残り二人の作業量は純粋に一・五倍。加えてセイアが行動的になったことで、外交と称して他の自治区へ車を走らせる機会も増えた。それに見合う分の権益を得て来てはいるが、既存の業務が減る訳ではない。
結論だけ言うと、先生の不規則言動に最も振り回されているトリニティ生がナギサということになる。
数多の派閥が連なるトリニティ内においては気苦労の絶えないナギサだ。気心の知れたシャーレという場所で、羽を伸ばせるのは良いことだと思う。別の理由で心労が増えている気がしないでもないが、というか今まさにその原因が無茶苦茶やってる訳で。
「……それ以前の問題として、連邦生徒会は一体何をしているのですか? 一応とはいえ雇用主の立場です、業務停止命令くらい出せるのでは?」
至極当然の疑問を口にすると、ナギサが頭を抱えたまま背を向けた。言いたくないらしい。では、とセイアに視線を向ければ、性懲りもなくデスクへ向かおうとする先生をハリセンで迎撃中でそれどころではない。だからというように、肩を竦めたミカが手を振りつつ、
「前に一度だけ、無理矢理休暇を取らせたことがあったらしいんだよね。色彩戦後の復興処理が片付いた辺りで。ただその余暇を使って先生のやったことが、──連邦生徒会の執務室で茶々入れながら結果的に仕事の補佐」
「……はい?」
行動もだが結果的にとはどういうことか。と、セイアと攻防を繰り広げていた先生がこちらを一瞥し、
「私が私の時間をどこでどう過ごそうと私の自由だろう? 故に私が不在で混迷を極めるであろうキヴォトスを最も俯瞰出来る場所として、連邦生徒会執務室を選んだだけのことだよ。自ら解決に動く必要がないので無責任に好き勝手言っていられるというのはなかなか貴重な経験だったね。七神君が終始額に青筋を立てていたのが酷く謎だが」
「……と、まあこんな感じ。仕事は恐ろしく進んだけどストレスが尋常じゃないから、仕事を与えておいた方が大人しくなる、って判断されてね? 先生の労働状況については関与しない、って方針が満場一致で決定したってさ」
頭痛が倍増しになった。
ぶっちゃけ交渉で先生に勝てる人材がキヴォトスにいないので、連邦生徒会側が切れるカードは先生をクビにするくらいしかない。だが先生を欠いてしまえばキヴォトスが保たないのは周知の事実であり、つまりストッパーが機能しておらずどうしようもない。人格はともかく心根はマトモなのでキヴォトスに危害を齎さないことが唯一の救いだが、本気でこの世界のバランスが不安定過ぎる。連邦生徒会長もさぞ苦労していたのだろう。
しかしそうなれば取り得る選択肢は、もはや一つしか残っておらず。それはミネがこの場に呼ばれた理由であり、
「──つまり先生を気絶させてでも休ませれば良いのですね」
「疑問形じゃなくて断定な辺りが本気でミネちゃんだなー……」
呆れ交じりに零すミカだが、止めはしない辺りそういうことなのだろう。ナギサも無言で頷いたので、トップの許可が下りたということで行動開始。
先生の首根っこを掴んだ。
「……おおっと?」
「引っ掛かったね先生。私の迎撃は本命かつ囮。ミネが動き出すまでの時間稼ぎに過ぎなかったのだよ」
ドヤ顔のセイアには申し訳ないが、袖の中で親指を立てても見えないので手を出してやる方が良いと思います。
「よーしタブレット確保ー!!」
「スマホも没収です。下手に持たせるとあの手この手で仕事し始めますからね」
「おやおや流れるように身ぐるみ剥がされて行くよ?」
「普段の行いを顧みてから言いたまえ」
などとミネが抑えている間にティーパーティーが先生の仕事道具を回収して行く。が、先生はナギサに視線を向け、
「スマホの持ち込みくらいは勘弁してもらえないかね? ゲーム開発部の新作をプレイして精神のリフレッシュを、こう」
「前に同じことを言ってこっそり連邦生徒会と打ち合わせしていたのはどこのどなたですか?」
笑みで凄まれて馬鹿が口笛を吹きつつ視線を逸らした。が、ミネが抑えた先生の身体は脱力しておらず、脱出の機を窺っているのは明らかで。
……本当に、この人は……。
思わず溜め息が漏れた。その内心に気付いたのか、タブレットをつつき回していたミカがこちらを見て、ややあって先生へと視線をスライド。
目が据わった。
彼女は視線を外さぬまま、肩掛けにしたポーチからスマホを取り出す。素早くロックを解除しショートカットから発信。五秒もせず相手が応じ、
「あ、もしもしホシノちゃん? 先生が休むのヤダって駄々捏ねて相変わらず屁理屈ムーブしてるんだけど。うん、あれから未だに寝てない。……え、シロコちゃんとすぐに行く? デカシロコちゃんとヒナちゃんにも声掛ける? うん、おっけおっけ、じゃあそれまでミネちゃんとナギちゃんとセイアちゃんで頑張って抑えとくね☆」
通話を終えたミカが満面の笑みを先生に向けた。
「良かったね先生、ヘリまで使ってソッコで来るって☆」
「聖園君も大概な手を使うね……!?」
ミカの笑顔が崩れた。頬を膨らませ、両の手を握って地団駄を踏みながら、
「だって先生が全然言うこと聞いてくれないんだもん!! 先生が大人しく休んでくれればそれで済む話なのに、このままだとトリニティどころかアビドスやゲヘナまで内政が滞っちゃうよ!?」
言って、スマホのアドレス帳から別の相手を選択し先生へと突き付け、
「まだ仕事する気ならユウカちゃんとかサオリにも声掛けるよ!? いいの!?」
言葉や態度こそワガママのそれだが、やってることが先生に似通って来た辺り、やはりシャーレの悪役は情操教育に悪いのではなかろうか。
●
「……分かった分かった、降参だ」
吐息しつつ、先生が両の手を上げるのをミネは見た。やはり先程のミカの言葉に思うところがあったのか、額に手を当て俯いて、
「かつてない程本気だということは理解したので、そのスマホを仕舞いたまえ。姫君志望の聖園君が悪役ムーブを身に付けてしまっては、君の将来に申し訳が立たん」
へえ……、とセイアとナギサが温度のない目を先生に向けたが、クリティカルを食らった当人はそれどころではなかった。瞬間的に頬を紅潮させたミカは、スマホを取り落とす勢いで狼狽し、
「え!? あ、うん!! 分かってもらえれば良いっていうか、私もちょっとやり過ぎちゃったかなーって気がしないでもなくて!! あ、でも一応、先生が休んでる間は人手が多い方が良いかなーって思ってホシノちゃんに連絡したって部分もあってね!?」
「心配せずとも通じているよ。聖園君が気を回し過ぎる性分なのは夏の一件でも理解している」
はひゅ、という返事なんだか呼気なんだか分からない音と共にミカがダメになった。
そんなやり取りを目の前で見せられて、平静を装える程大人でもなく。ナギサやセイア共々、不自然な程晴れやかな笑みを交わしつつ、
「それではミネさん。お手数ですが先生の監視と休養、くれぐれも丁重によろしくお願いしますね」
「下手に会話はしないように。些細な糸口から、あっという間に丸め込まれるのが関の山だからね」
「ええ、重々承知しています。不審な動きを見せれば、延髄に手刀を打ち込むつもりでいますので」
「もはや扱いが犯罪者のそれではないかね? ──まあ見目麗しさは犯罪級だという自負はあるが」
全員で圧を込めた笑みを向けると馬鹿が大人しくなった。
「……さて、キチガイ不在の間は我々と、ミカの言っていた通りアビドスや風紀委員長で回しておく。夜半からはセミナーや特異現象捜査部、玄竜門の門主も加わるので、上手く交代しつつ、だね」
「これだけの面々が揃っていれば、色彩レベルの異常事態でもない限りつつがなく済むと思います。ミネさんはこちらを気にせず、狂人の監督に専念していただければと」
Tes.、と応じた。事ここに至って抵抗するつもりはないのか、大人しく待っていた先生の襟首から手を放し、腕を掴んで引いて行く。生徒用のデスクに向かうナギサと、ミカの顔面にハリセンを叩き込み正気に戻すセイアを執務室に残し、
「それでは先生、お覚悟を。最低でも明日の朝までは大人しくしていただきます」
●
「……とは言ったものの、やることがないと身体は休まっても心が落ち着かんと思うのだが」
「そのワーカーホリックぶりは紛れもなく病気だと思いますよ……」
「そこについては救護騎士団団長殿も大概だったと思うがね?」
「先生に比べれば健全な範疇です、ええ」
などと雑談を交わすのはシャーレ居住区の客室。生徒であれば申請すればいつでも無償で利用出来る一種の宿泊施設で、シャーレの仕事における待機や夜通し集まる為の場としての利用など、使い方も生徒の裁量に任されている。
今回は業務上発生する泊まり込み、ということでミネに宛がわれた一室へと、先生を連れて来た形だ。
先生の私室でもある、執務室併設の仮眠室は使えない。仕事用の物品が散らばっていることもあって休養に適さないという点も大きいが、隣でティーパーティーや他の生徒達が仕事をしているのに自分だけ休める性格でもないだろう。
外部の宿泊施設では人目に付かないとも限らないし、セキュリティという面から見てもシャーレ以上の場所はあるまい。以前一度爆破されたこともあったが、自分であれば有事であっても先生の警護は可能。万が一の場合も治療や施術が出来るので、監督役として適任。そういった要素を加味しての選出だったのだと、今更ながらに理解する。
ナギサから連絡を受けた際、泊まりの用意をするよう言われたのもむべなるかな。しかしいざトランク片手に踏み込んでみると、泊まり掛けで旅行にでも来たような錯覚を得るのは、少々浮かれ過ぎだろうか。
……こういった非日常への高揚が、学校や季節ごとのイベントの盛り上がりに通じるのでしょうね。
救護活動やボランティアに勤しむ救護騎士団にとって、それらのイベントは運営側というイメージがある。無論トリニティ謝肉祭など参加者側として楽しむこともあったが基本は裏方。そういう意味では趣こそ違えど、貴重な機会を得ている気がするのだが、
「……物凄く暇を持て余しているように見えますが」
「事実その通りだよ。何しろ仕事と生徒との触れ合いが趣味だというのに、それらを取り上げられてしまった状態だからね」
声の主に視線を向ければ、ベッド上で横になり軟体動物ばりに脱力していた。無気力に天井を見上げている姿を見てしまうと、数秒前の浮き足立った思考など跡形もなく消し飛ぶ。同性オッケー宣言以前からアプローチを掛ける生徒も少なくないはずだが、この人本当に自分が狙われている自覚あるんだろうか。一応二人きりなのだが。
……この調子だから本来恋敵の面々が徒党を組んで掛かるんですよね……。
無論結果は言わずもがな。目指す頂は遥か遠い。ミネも思うところがない訳ではないが、前途多難過ぎて時たま目を逸らしたくなるのが何ともまた。
しかし今は私情より先生の休養。このまま放っておくと暇潰しに脱走しかねないので、対面のベッドに腰掛けたミネは膝を揃え、
「とはいえ、生徒のいない時間帯や、進められる仕事がないタイミングもあるでしょう? そういった場合はどうされているのですか?」
「無難にSNSを漁っているね。生徒の話題やトレンドを知っておけば、既知でなくとも会話のフックになる。気になる出来事や不穏な動きも追えるし──」
そこまで言って、ふと先生が動きを止めた。ややあって、身を起こした彼女は納得したように手を打ち、
「つまり仕事の一環か。道理で捗る訳だ」
「どこまで仕事人間なんですか先生は……」
聞けば聞く程機械とか人造人間と言われた方が納得出来るレベルで戦慄した。自分も大概だという自覚はあるが、さすがにここまでではない。はず。しかし、
……そう考えると、趣味らしい趣味は燻製くらいでしょうか。
アレも実益を兼ねているので趣味とカウントして良いのかどうか微妙なラインだが。コーヒーや料理も生徒に振る舞う時以外は雑なのでカウント外な気がする。あとは食玩くらいだが、これもまた当たりを引けなくて慟哭しているという印象の方が強くてどうしたものか。
何だかカウンセリング染みて来ましたね、と内心思いつつ。これから口にする質問もお見合いか何かのようで、知らず頬に熱を持ちつつ、
「他のご趣味は?」
「現代の娯楽品代表であるスマホやタブレットがあれば時間を潰すには事欠かないが、どちらも没収されてしまったのでね。図書館の本は読破済みだし、プラモは空崎君抜きでというのも味気ない。ガチャポン巡りに外出は今回の趣旨に反するし、屋内で一人と考えると特にない、という回答になるのだろう」
と、こちらの懸念を読んだのか、先生が苦笑した。
「まあ、結局のところ好きでやっている仕事だ。給料の大半もシャーレの改築に注ぎ込んでいる筋金入りっぷりだとも。だからこそ時間を忘れてあれこれ手を出しては、生徒達に苦言を呈されている訳だが」
「是非はともかく、充実しているのなら何よりです。健康とは肉体だけでなく、精神に依るところも大きいですし。……救護騎士団としては良いと言いたくないですが」
「蒼森君にも苦労を掛けるね」
悪びれもせず笑うのだから、それ以上ミネは何も言えない。言っても無駄だと分かっているからだ。そして先生は備え付けの急須と茶葉入りの缶を手に取り、
「緑茶で良ければ淹れるが、飲むかね?」
「いえ、そのくらいでしたら私が。先生は休んでいただく方を優先してください」
「とはいえこのままでは暇過ぎて心を病んでしまうのだが。……アー!! 何だか急に身体が重くー!!」
嘘百パーセントだと分かっていたが、駄々を捏ねられる面倒さと互いの精神の安寧を天秤に架け、悩んだ末に、
「……では、一杯だけ」
「うむ、任せておきたまえ」
いそいそと準備に入る背中が本当に楽しそうで、思わず笑ってしまった。普段は訳の分からない行動が多く、有事においては異常に頼りになるのに、こういうところは自分達と同じかそれ以上に子供らしい。
微笑ましい、と言うべきか。不慣れな頃のセリナやハナエが治療に当たる際、厳しく指導しつつもこういった感慨を捨てきれなかったことを思い出す。
そんな内心を知る由もなく、ポットでお湯を沸かしていた先生が不意に振り向いた。白の茶碗を手に、何故か真顔の彼女は、
「一応聞いておきたいのだが、監督役として明日の朝まで共に行動するということだったね?」
「ええ、そのつもりです」
「……風呂や手洗いの際はどうするのかね?」
「勿論同行しますが?」
そこまでするか、とばかりに先生が仰け反ったが、医療従事者にはよくあることですので。
やがて湯が沸き、先生が慣れた手付きで茶を淹れる。相伴に与るのは久しぶりだったが手並みは相変わらず。基本紅茶派で緑茶に馴染みの薄いミネでも、美味と感じられるものだった。
「教職ではなく、料理人や茶店のマスターなどでもやって行けそうなものですが……」
「何人かにも似たようなことを言われたが、やる気が続かんよ」
と言う先生はお茶請けのウエハースのシール開封に夢中で、しかし肩を落とした辺り目当てのものは出なかったらしい。かと思えば茶碗の縁を掴むようにして飲む姿が様になっていて、本当に印象が安定しない人だと思う。風聞が一人歩きし過ぎて出会った瞬間逃げ出す生徒もいるくらいだ。本物はもっと酷いが。
……手の掛かる年上の妹、と言うのはさすがに不遜ですね。
そんな調子で振り回されていたかと思えば、不意にこちらが参ってしまうようなことを平然として来る。セリナの休養目的で緊急の呼び出しを掛けたり、ハナエの引っ提げて来た民間療法を一緒に検証したり、今もまた思い出したようにポケットを漁って、
「先の騒動で完全にすっぽ抜けていたが、一昨日ゲーセンのガチャポンにセミを敢行した際、ダダ余りになったウェーブキャットのキーホルダーだ。今日の礼、と言うには物足りないだろうが、一つ進呈しよう」
差し出されるのは彼女が口にした通りのもの。ミネの訪問は事前にアポを取っていたので、予め仕込んでおいたのだろう。受け取ったキーホルダーは密かに気になっていた品で、しかし店頭に並んでいない為見付けられずにいたものだ。
「ありがとうございま──」
口にした言葉が、思っていた以上に浮かれた色を持っていて。今更だとは思いつつも、咳払いと共に毅然とした表情を作り、
「──何が目的ですか」
「……そこまで裏を疑われると悪役としては正解なのだが、先生としてはよろしくない気もするね?」
「分かっているなら普段から控えてください……」
嘆息しつつも、薄々ミネには分かっていた。無理なのでしょうね、と。
周囲からどう思われようとも、己の信じた道を突き進むという点で、己とこの大人は非常に近しい在り方をしている。
両者の違いはただ一点。
ミネは己の信ずるものが正しいと信じ、救護の誇りと共に戦場を駆ける。
対する先生は己を正しくないと思っていて、しかし誇りを以てそれを是とし悪役を謳う。
生徒達の「間違ってない」を通す為に、汚名を被ることも躊躇わない。そういうやり方だ。
●
世界は綺麗事だけでは回らない。
このくらいの年齢になって来ると、そんなどうしようもない世界の在り方に嫌でも気が付いてしまうのだ。そこから世界と自分のズレを修正し、大衆に迎合してやって行くのを妥協とか、大人になると人は言うのだろう。
そこに真っ向から否を叩き付け、望むように在れと言うのが先生だ。
当然、それだけで押し通せる程甘くはない。だからその矛盾と歪みを、先生は身を以て解決する。生徒であれば仲裁し、妥協点を擦り合わせ、悪人相手であれば容赦なく叩き潰す。
カイザーを筆頭にブラックマーケットの企業など、先生を恨んでいる勢力も決して少なくない。トリニティ内部に限って見ても、反ミカ派や先生の本質を知らぬ生徒が冷ややかな目を向けることもままある。
それらを一切気に留めず、先生は矢面に立っている。
一人の人間として好感を抱くし、尊敬もしているが、在り方についてだけは受け入れられない。それがミネの先生に対する評価だ。
頑固で融通が利かないという自覚はあって、故に多弁で飄々としたこの大人と噛み合うところはないと、最初はそう思っていた。
だが蓋を開けてみれば、自分と同等どころかそれ以上に頑固で己を曲げようとせず、どんな状況であっても子供に手を差し伸べる、そんな人で。救護騎士団の活動を手伝ってくれたのも一度や二度ではなく、疑念は信頼へと変わって行った。
だからこそ、悪役を任ずる彼女のことを惜しいと思う。
先生が生徒に示唆や助言を与える時、決まって言う一言がある。
己のようになる必要はない、と。
シェマタ事変におけるセリナの救援手配など、この大人はグレーゾーンや悪辣な手を臆面もなく利用する。結果的にそれで救われたものはあるし、協力者には事前に双方の同意を取り付ける誠実さもある。
だが規律を重んじる立場としては、本心がどうであれ彼女を咎めなければならない場面はあるのだ。
セリナが専任していたシャーレへの医療品配送を、今回ミネが行ったのもその一環。事後報告を受けた結果ナギサやサクラコ立ち会いの元決定した無意味に近い施策だが、対処したという建前は必要だ。普段が普段故「またか」と流す生徒が大半ではあるものの、疑惑や悪評を広めようとする者もいるのだから。
それらに気を揉む自分達に対し、しかし彼女は気にするなと笑う。
正しくないと理解しつつ、それを押し通す己は悪なのだから、後ろ指差されて当然なのだと。
だから己のようにはなるなと、反面教師という言葉そのままに彼女は悪役を張り続ける。
その多芸さを以てすれば、他にいくらでも楽な生き方があるだろうに。
思えば自分にはセリナやハナエ、そして他の団員達など、程度は違えど志を同じくする仲間がいて、
救護騎士団に限らずティーパーティーやシスターフッド、他校まで範囲を広げれば対策委員会や風紀委員会とて同様だろう。
シャーレもまた共に行く仲間ではあるが、先生の悪役という在り方はどこまで行っても個。責任を負う大人として、その一点だけは誰とも重なることがない。
ならば彼女に並び立とうという者は、一体どれだけの資質を求められるのか。
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……途方もない、と言うべきでしょうか。
素直に、ミネはそう感想する。
己は彼女と近しい在り方をしていて、平行線という対に近いスタンスではあるが、並び立つという意味ではまだまだ遠い。黙示録の天使の半数を抑え込んでいたことさえ、先生の言葉がなければ結果は違っていただろう。
ふと思う。仮に彼女が黙示録の天使に取り込まれ、自分と同じものと見たとしたら、どのように対応しただろう、と。
……相手の不備と稚拙さを指摘した上で完膚なきまでに論破しそうですね……。
ノータイムで想像出来る辺りが先生の先生たる由縁だが、正座させて説教する絵面が嫌に似合い過ぎていてどうしたものか。生徒相手ならともかく相手は土地に染み付いた怨恨だ、容赦も手加減もしないだろう。アリウス分校を牛耳っていたゲマトリアの怪人に対し、自ら拳を叩き込んだくらいだ。
力はなくとも、己に出来ることで抗い、戦う。そういう人だ。
そんな先生だからこそ、色彩戦においてあらゆる生徒が即座の協力を買って出たのだろう。
敵わないことは重々承知。大事なのはその背を見た上で、己がどう在りたいと思うか、だ。
並び立ちたい背中は遠くても。
今の己に出来ることで、この無茶苦茶な大人を支えようと、そう思うことが出来る。
自分を呼び出したナギサ達や二つ返事で出立を告げたアビドスとて、同様の思いがあるからこその振る舞いだ。ならば今ミネが為すべきは、先生が少しでも休めるよう取り計らうこと。
……そうですね。
思い、思索を打ち切って、目の前へ意識を戻す。
先生が何の前触れもなく横倒しになっていた。
「……先生!?」
不規則言動で慣らされている為反応が遅れた。慌てて跳ぶように近寄るが、幸いなことに意識はあるらしい。というか当人自身、おや? と得心行かないように首を傾げ、しかし身を起こすことなくこちらを見上げると、
「いや、何だろうね、近年稀に見るレベルの眠気が急速に下からグワッと」
「見たことですか。自覚はなくとも疲れが溜まっているということですよ」
言ってからふと思う。あの先生が、生徒の前でこれ程無防備な姿を晒したことがあっただろうかと。ミネが言った通り疲れているのは確かだろうが、こんなスイッチを切ったような切り替わりの早さで。
……まさか先程の茶に何か盛りましたか!?
でもよくよく考えればミネも同じものを飲んでいた。セーフ。こちらに盛るつもりで間違えたという可能性もあるが、この先生に限って言えば絶対に有り得ない。やるならもっと頭の悪い、珍品とか癖のあるものを嬉々として見せびらかしながら振る舞いに掛かるという確信がある。
だとすれば先生を恨む者が仕込んだか。だがシャーレのセキュリティは生徒以外には厳重だし、念の為に改めた茶葉や急須にも不審な点はないようで。
……では、一体何が原因で?
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・あろな:『プラナちゃん!! ナギサさんが仕事の関係でかなり大きめのファイルをアップロードするみたいなのでネットワークが低速化します!!』
・プラナ:『緊急用のサブ回線を使用します。先生とのリンクを切らせないことを最優先で』
・あろな:『うう、シッテムの箱まで没収されてしまったのは想定外でした……。加護類の基点なので引き離されるとマズいことに……』
・プラナ:『中継点代わりに出来るスマホも回収されていますからね……。同じ施設内だったのでどうにかネットワーク伝いに供給出来ていますが、出力的には半減といったところでしょうか』
・あろな:『……五割運用の場合、どうなります?』
・プラナ:『臓器へのダメージカットや生命維持などを優先しているので、命に別状はありません。ただ逆に言うと優先度の低いタスクは中断となるので、日常生活に支障が出るとは思います』
・あろな:『具体的には?』
・プラナ:『──覚醒術式が切れて死ぬ程眠くなっているのではないかと』
・あろな:『先生!! 先生!! 寝ても死にませんけど死なないでくださあーい!!』
・プラナ:『アロナ先輩、死ぬ程眠いというのは例え話であって実際に死ぬ訳ではありません』
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「いや参った、生まれてこの方眠気に屈したことなどないのが、数ある取り柄の一つだったはずなのだが」
などと普段通りに零してはいるが、瞼が落ち掛けていたり時折ガクッと脱力する辺り相当眠いらしい。軽く診た結果重病の兆候などもなく、純粋な過労だと判断出来た。よくよく考えると今まで一度も過労でダウンしていなかったということなのだが、先生の肉体をサンプルとしたら健康面に多大な貢献があるのではないだろうかという考えがにわかに真実味を帯びて。
「蒼森君、何か物騒なことを考えていないかね?」
「いえ、今後の為に思案すべき内容があっただけです」
この件は後日先生がマトモな時に相談しようと思った。そんな日が来るのかは果てしなく疑問だが。ともあれ横倒しになっていた身を仰向けにし、首元など軽く緩めつつ、
「お休みになるのであれば正しい姿勢で眠った方が良いですよ。場合によっては疲れが取れず無為に時間を浪費することになります」
「お恥ずかしながら指一本動かすことさえ億劫な眠さでね。どのような状態でも寝ようと思えば寝られるので放置してもらって構わんよ」
「はいそうですかと頷ける訳がないでしょうに」
嘆息しつつ背と膝裏に手を回し抱き上げる。こちらより二十センチ近い長身は、思っていた以上に軽かった。
生徒の前に立つ揺るがぬ背中からは、想像も付かない程に。
そんな感傷を心の奥底へ仕舞い、ベッドの中央に身を横たえる。スーツがシワになってしまうが、この様子では今から着替えを取りに行っても戻るまでに眠っているだろう。傍を離れて不規則言動をされても面倒だ。
火は使っていないし、茶の片付けは後で良いだろう。やや迷ったものの、ミネもまたベッドの上に身を移し先生の頭の下へ足を潜り込ませる。
「……最近の医療従事者は患者に膝枕のサービスもするのかね?」
「人手がいくらあっても足りませんよ。……冷たい枕より、温かい膝の方が寝付きも良いかと思いまして」
以前、もたれ掛かったり膝で休んでも構わないと告げたことがあるが、その言葉に二言はない。それで少しでも彼女が安らげるのなら本望だ。建前としても十分だろうと、頬に上がって来る熱は努めて無視。最も先生という立場である以上、こういった甘える行為に彼女が難色を示すのは知っているが、
「常に気を張る必要はありません。必要な時に頑張る為には、休むことも必要ですよ」
休むことなく救護に専念していた自分にかつて向けられた言葉を、笑みと共にそっくりそのまま返してやる。当時を思い返したのか、苦笑した先生が身の力を抜き、
「では、サービスで子守唄でも頼もうか」
「死んだように眠る分には望むところですが、眠るように死んだら恨みますよ」
「それで死ぬのは創作の中くらいだろう。生憎私には生きて為さねばならぬことが山程残っているので、まだまだ生を謳歌するつもりだ」
上空七万五千メートルから落下して生還した人間が言うと説得力が凄い。
自分達より脆いことは確かだが、それでも彼女ならどうにかして生き延びるのだろうと、そんなことを思ってしまうのは危険な信頼だろうか。
そうさせない為の自分達であるならば、先生も生徒も思うところは同じだ。
悪役として共に在ることは出来ずとも。
失わせないという願いは、共に目指す先にあるのだから。
故にミネは、先生の顔に掛かる髪を払って言う。
「では一曲、先生の為に歌うとしましょう」
貴女の純粋で幼気な願いが、どうか叶いますように。