「……何やら想像以上に大事になって来た気がするね?」
「先にも告げた言の葉を繰り返そうか。──元凶が言えた義理かい」
大人と子供という二種類の声が、広い室内に反響した。
シャーレオフィスビル内、大浴場。三十畳を超えるその施設には、熱と蒸気が充満していた。薄っすらと霞んで見える一室内、点在する人影は都合四名。
肩まで湯に浸かった先生。
その隣で浴槽の縁に腰掛け足湯状態のセイア。
セイアとは反対隣に一人分の間を置いて座るナギサ。
そして三人の正面で風呂桶を浮き代わりに抱えているミカだ。
全員水着を着用していた。
トリニティに名高きティーパーティーと、キヴォトスで知らぬ者はいないシャーレの先生。その取り合わせが何故に風呂を共にしているのかと言えば、セイアが口にした通り原因は後者に収束する。
鋼鉄大陸の一件を終え、負傷が完治しないまま後始末に奔走していた先生。ようやく目途がついたというところで、一日二十時間労働休日なしという頭がおかしいとしか言い様のないハードワークを続ける先生に、手を組んだ自称部員達が強制介入を開始したのだ。
手始めにティーパーティーの三人が話し合いに持ち込むも、聞く耳を持たない大人にミネが救護で物理的に説得。そこに他校の重役を巻き込んだミカの脅迫まで駆使し、降参した先生からタブレットとスマホを没収。こっそり仕事を始めないようミネが監視に付き、シャーレの業務はティーパーティーや総長連合生徒会を主として対処という形で話を纏めた。
……事後承諾というか、有無を言わせずに纏めた、と言うのが正しいだろうがね。
三大学園含む最低六校が束になってようやく、と考えるとシャレにならないが、そういう大人だ。伊達にエデン条約や色彩戦等を乗り越えて来た訳ではない。ミカの脅迫とて「大人しく休まないならキヴォトス中から生徒を手伝いに来させて自治区の内政をストップさせる」という子供の駄々に等しいもので、こちらの意を汲んだ先生が折れてくれた、と言う方が近い。情に厚く生徒に甘いという唯一の弱点を突かねば、それすら叶わなかっただろう。
……先生であるが故、か。
手段はどうあれ勝ちは勝ち。言ってることが悪役そのものだが、先生が自称悪役と考えれば問題はない。ともあれ先生をミネに任せ、こちらは交代要員が来るまで五時間程書類仕事だ。「これをよく一人で……」と無言で顔を見合わせる時間帯もあったが、即座に応援に駆け付けたセミナーの助力もあり経過は順調。一週間以上ぶりの纏まった睡眠を終えた先生を引きずり、ミネがこちらと合流したのが二時間程前。ゲヘナの給食部が用意してくれた夕食を囲み、引継ぎも兼ねて続投するセミナー組とアビドス、風紀委員長と玄龍門の門主に後を任せ、
「それと入れ替わりで蒼森君と桐藤君達が休息に入るのは分かるが、監視も兼ねて風呂まで同行とは些か以上に体制が厳重過ぎないかね?」
「タブレットもスマホも防水加工済みなのはどこのどなたで?」
「先生のことだから変な抜け道とか脱出路とか作ってても不思議じゃないよね」
「……という訳で、迂闊に動かないよう気を付けた方が良い。別室で休憩中のミネがすっ飛んで来ることになるよ」
三人で笑みを向けると馬鹿が壁の方を向いてルールー歌い出したが無視。三十秒もすれば飽きて元に戻るだろう。
戻った。
「それで、虜囚であるところの私はどうすれば良いのかね?」
「自虐を織り交ぜられるとコメントに困るのですが……。ひとまずミネさんからは、ゆっくり一時間は浸かるようにと言伝を」
「……暇過ぎて干物になるくらいしかないと思うのは私だけだろうか」
「どういう暇潰しだい一体」
この大人の場合本気でやりかねないから困る。
「でも実際どうするの? 泳ぐ?」
「やめなさいミカさん、はしたないですよ」
嘆息したナギサが軽く手を振るい、手元に表示枠を射出した。
ミレニアムの一部生徒が利用しているホログラム型インターフェースを、先生が再現・改良したもの。色彩戦において限定的に使用した後、シャーレ内においてところどころで使用されるのを見掛けるようになっている。当然生徒も利用可能で、現在ナギサは大浴場の管理情報にアクセスしており、
「泳ぎはともかく、脱水症状については心配要らないかと。ソフトドリンクは勿論、ホットコーヒーやココア、紅茶に緑茶なども出るそうなので」
「以前から常々疑問に思っていたのだが、ここは本当に先生の職場なのだろうか……」
「生徒が快適に過ごせるよう色々と便宜を図った結果なのだから、気兼ねなく恩恵に与れば良いのだよ百合園君」
「そうそう、疲れて帰って来た時、ここでアイス食べながらくつろぐの最高だし!!」
満喫し過ぎだろうこの姫君。
「アイス? ……あ、本当です。軽食として焼き鳥、手羽煮や鶏燻、おむすび、それからビスコッティにプディングまで……」
「前半のラインナップに口添えしたのは間宵君だな……」
「……ああ、そういう選出か」
「え? え? 何々? 先生もセイアちゃんもどうしたの一体」
「あ、アイスはフレーバーも五種類から選べるのですね。ふふっ、お風呂でアイスだなんて、ちょっとお行儀が悪いでしょうか」
「……気付かぬままの聖園君と桐藤君であって欲しい、というのは大人のエゴだろうか」
「案ずる必要はないよ先生、私も同じ気持ちだからね」
固く握手を交わした。飲み物については全員ジンジャーエールを頼んでおき、ややあってミレニアムで見た覚えのあるドローンが四つのグラスを運んで来る。伸ばしたアームで器用に磨りガラスの扉を開け、それぞれの手元へとドリンクを届けて行く。
「至れり尽くせりですね……」
受け取りつつしみじみ言うナギサの言葉には全面的に同意だ。先生とミカは慣れたもので、腰に手を当て一気に呷り、空になったグラスを快音付きで浴槽の縁に置いている。口元拭ってプハーなどとやっている動作までシンクロしている辺り、先生と生徒というより歳の離れた姉妹か何かのように見えるというのは、先生の妹に悪いだろうか。
そんな感慨に浸っていると知ってか知らずか、一息ついた先生がふとこちらを見た。
「……しかし夏に見た時と比べると、百合園君は大分印象が変わって見えるね」
言われ、見下ろす己の身体は白の水着一枚。だがそれは当然と言えば当然のことで、
「湯浴みという目的を考えれば、上着も日除けの装飾も無用の長物だろう。便利な道具も使い時を誤れば、得てしてその真価を発揮しないものだよ」
「フルタイムで才覚を無駄遣いしていると評されること多々なのが目の前にいる訳だがその辺りどう思う?」
「先生については自由系、という括り以上に考えるのをやめることにしたのでね。その方が精神衛生上良い」
「フフフ聞いたかね桐藤君に聖園君、百合園君がお手上げだそうだよ」
「そう振られて私達はどう返せば良いのでしょうか……」
「そだね、すっごいコメントしづらい」
「では私の一勝ということでこの話題は終わりにしようか」
ガッツポーズをキメる先生にイラっと来たが、不規則言動で十倍返しにされかねないので黙っておく。
「そういう訳で話を戻すが、身体は冷えないかね? 足湯状態とはいえ見ている分には肌寒そうだが」
「心配なら無用だよ。熱気のおかげで、見た目以上に温かいのでね。気遣いだけありがたく受け取っておくとも」
「ふむ、確かに心なしか肌艶が良いし、髪も湿気を吸ってボリュームが増しているように見えるね」
と、何の気なしに伸ばされた手がこちらの髪に触れた。
首元を掠めたくすぐったさと、労わるように梳く動きに身が軽い震えを得る。それらを悟られぬよう大袈裟に吐息を零し、頬の熱を足湯のせいだと言い聞かせていると、
「以前は波打ち際で戯れるばかりだったが、しっとりした百合園君もまた新鮮だね。良いと思うよ、私は」
満面の笑みで言うことか。
「……君という人は、本当に罪作りだね」
「目下のところ自分に正直をモットーに日々慎ましく生きているつもりだが」
視界の端、半目のナギサが立てた手の平を左右に振っている辺り見解は同じようだが、大方彼女も先生に「やられた」のだろう。つまりはタラシが平常運行だ。
……こうやって三桁以上の生徒達が撃沈されて来たのだね……。
しみじみ思いつつ、これに正面からカウンターを返せるダブルシロコも大概だね、と追加で思う。現在あの狼二人は執務室で掃除中だったはずだが、些細な張り合いから殴り合っていそうな気もする。それでもやることはやっているだろうが。こちらはこちらで顔の火照りを誤魔化すようにジンジャーエールを喉に流し、炭酸の刺激と共に感慨を飲み込む。一息つき、先程からひっきりなしに響く水音の源へ視線を向け、
「……ミカ、先生が言い出したとはいえ頭から湯を被り始めるのはあからさま過ぎないかい?」
「え!? べ、別に変なことじゃないよ!? ただ単純に潤いが欲しいなー、とか思っただけで!!」
いつものことだが分かりやす過ぎる。
●
やれやれと肩を竦めるセイアに唸りつつ、ミカは浴槽の湯を掬っていた風呂桶を下ろした。自分でもちょっとわざとらしいとは思ったが、セイアの指摘がなければまだ誤魔化せる範疇だった、と思う。多分。本当にこの友人は一言多い。一言どころか十や二十も多い大人がいるけど。
そんなこちらの内心を見透かしているのか、先生が苦笑交じりに湯を掻き分けながら近寄って来た。若干の気まずさと共に視線を向ければ、彼女は頭に乗せていたタオルを手に取り、
「意気込みは買うが、もう少し後先は考えた方が良いね」
と、こちらの顔を拭ってくれた。
「……えへぇ」
柔軟剤の香りと、優しい手付きがこちらの肌を撫でて行って、緩む頬を止められない。
行為そのものもだが、気を割いてくれたという事実がただ嬉しい。例え相手がミカでなくとも彼女ならそうしただろうという現実に一抹の残念を感じもするが、そうじゃなかったら先生じゃないとも思う。ミカを救ってくれたのは、そういう大人だったから。現に今も、
「風邪を引かれても困るし、髪も軽く拭いておこうか」
そんな言葉と共に膝立ちとなって、こちらの頭にタオルを被せた。
水飛沫と共に、水面から上がった先生の身体が視界いっぱいに広がる。
スーツを主に黒と白の組み合わせは先生の代名詞とも言えるものだが、このルールは水着においても適用されていた。ホルターネックタイプのビキニ姿は肉感的でありつつも、下品さやいやらしさがなくビシッと決まって見えるのが先生らしい。
不規則言動のせいでついつい忘れがちなのだが、顔も良ければスタイルも抜群なのだ、この大人は。
そんな相手が目の前で、こちらの髪をタオルで挟むようにして水気を拭っている。その動きに合わせ薄布一枚で支えられた胸部も当然のように揺れる訳だが、
……おっきいなあ……。
背丈のことであり、胸のことでもある。
ミカも身長はともかく胸は結構ある方だが、先生と並ぶとさすがに霞む。己の知る限り比肩し得るのはハスミくらいだろうが、恐ろしいことに先生は基本ヒールのある靴を履かない。生徒達と共に戦場やら砂漠やらを駆け回っているのだから当たり前と言えば当たり前だが、
……それで私より頭一つ分以上大きいんだもんなあ……。
せめて肩の高さがこっちの目線くらいにならないと、隣に並んだ時釣り合いが取れない気がする。身長を伸ばすには牛乳と日光と睡眠、あと鶏肉とキャベツだっけ? 後半胸か。そっちはそっちで必要だけど。でもよくお昼寝してるホシノちゃんの身長やスタイルがアレだし信憑性薄いかなあどうかなあ。
ちなみにこの雑な思考は先生のオッパイから意識を逸らす為です。ハイ。
……先生意外と無防備だよねー……。
自身に対する無頓着さという欠点が存分に発揮されている。その極みとも言える月六百時間労働の結果現状がこうなっている訳で、人生何があるか分からないものだ。美味しい思いをしたとは思うが、悶々として眠れなくなる気もする。まあ先生と良い感じに過ごせた日の夜は大体そんな感じだけどね!!
……ほぼ毎日じゃん。
参ったー、と他人事のように思ってみても、現実は変わらない。こういう不意打ちは日常茶飯事なので、ウッカリ昇天しないよう堪えるのも大変だ。普段が普段だから威力は倍。ギャップ萌えという表現そのものだが、落差が酷過ぎて風邪どころではないとは思う。かく言うミカも当初は面白い変わり者くらいにしか思っていなかったものだが、エデン条約の一件でガッツリ落ちた。あんなのときめかない方がおかしい。ズルじゃん。その後も色々とフォローしてくれて、好きになるのも仕方ないというか。
「何やら物凄い勢いの百面相だが、どこか気になるところでもあったかね?」
「う、ううん!? 先生上手だし、凄く気持ち良いよ!?」
「……何故そう君は言葉選びが致命的に下手なんだい、ミカ」
セイアちゃんうるさい。
「……ところで先生、先生のタオルをミカさんに使ってしまっては、先生の分はどうされるのでしょうか」
「心配は無用だよ。聖園君のお転婆や百合園君のアグレッシブを想定してタオルは多めに持って来ているのでね」
「用意が良過ぎるのも考え物ですね……」
嘆息するナギサも本心から呆れている訳ではなく、気が抜けているが故の素だ。シャーレ内部、とりわけ先生の前では随分とリラックスした姿を見せるようになって、幼馴染として嬉しい限り。役職持ちではない分、自称部員とのやり取りも公より私の面が大きいし、割とベストな環境なのかもしれない。セイアも僅かに口元を緩ませている辺り、思うところは同じだろう。
そんな物思いに耽っていると、先生がタオルでこちらの髪を纏め終えていた。
「うむ、こんなところか。短く纏めた聖園君も素敵だね?」
「そ、そうかな?」
「私としてはやはりいつもの髪型が印象に残っているが、だからこそ状況に応じて髪型や着飾りを変える聖園君の姿は新鮮に映っているよ?」
「じゃあ、飽きられたりしないように頑張っておめかししないとだね」
「その心配は無用だと思うが、期待はしておくとも」
うん、と笑みで応じた。セイアとナギサが容赦ない半目を向けて来るが、二人も頭からお湯被れば解決だよ?
とはいえ、先生の休養目的のはずが自分だけかなりイイ空気吸っている自覚はある。なので助け舟というか会話の糸口として、先程から気になっていたことを口にすることにした。それは、
「ところでナギちゃん、さっきからビミョーに先生から視線逸らしてない?」
ナギサの動きが止まった。
●
要らん指摘を……!! というのがナギサの正直な感想だった。
シャーレの大浴場を利用の際は、タオルか水着の着用を必須とする。それが先生の定めたルールだ。
同性とはいえ年頃なのだ。身体を晒すことに抵抗のある者や、視線が気になってしまい落ち着かないという者もいる。そういった諸々への対処としての施策だが、ナギサの場合水着一択となる。
翼があるが故、タオルを巻きにくいからだ。
これはミカや、尻尾のあるセイアも同様。それらに合わせる形で先生も水着での入浴だ。夏のバカンスを思い返し、感慨とも郷愁とも言えぬ感情に浸っていられたのは着替える直前まで。その理由については、それはもう至極単純なもので、
……刺激が強過ぎます……。
泰然としているセイアやシャーレ暮らしで慣れのあるミカと違い、そういった方面に免疫がないという自覚はある。気にならなかった当時はそれだけ疲れていたのか、或いは周囲に目を向けるだけの余裕をようやく取り戻せたのか。いずれにせよ今のナギサにとってはちょっと由々しき事態で、先生を直視出来ないという問題が浮上している。
いえだって、冷静に考えてみましょうよ。何ですかあのモデル顔負けのビジュアル。手足もスラリとして長く、しかし鍛えられ引き締まったバランスの良い身体は、膂力以外でこちらが敵う要素などない。加えて人目を惹く胸部のボリューム。夏に同道したハスミも大概だったが、先生の場合訳が違う。何しろこちらを労わったり抱き留めたりなど、布地越しとはいえ少なからずあの立体と接した過去があるのだ。否応なしに蘇るそれらの記憶が顔に熱を持たせ、訳もなく視線を逸らしてしまう。先程までは肩まで浸かっていた為顔を見て話せば済む話だったが、水面から上がった今ではどうあっても視界に入り込んで来る。つまりMURIです。故に不自然にならない程度に口を挟みつつ、顔を合わせないようやり過ごして来たというのに、
……ミカさんが言及したから対面が不可避ですよ!?
不規則言動の狂人ではあるが、生徒への気遣いを欠かさない。そういう人だ。実際今も彼女は首を傾げつつ、こちらへと無造作に歩み寄って来る。
「為政者たる者相手の目を見て話すことが肝要と、そう口にしていた桐藤君らしからぬ振る舞いではあるね。オフだから気を抜いている、というだけならそれで良いのだが、どこか身体の具合でも?」
「い、いえ、決してそういう訳ではなく……!!」
慌てて手を振って否定するが、先生は足を止めない。あっという間に眼前へと至り、屈んで、こちらを上から下まで一瞥し、
「見たところ異常はなさそうだが、少々顔が赤い気もするね。湯当たりと言うにはそこまで長く浸かってはいないと思うが、得てして個人差があるものだし──」
伸ばされた手の平が、こちらの前髪を掻き分け額に触れた。
「────」
わーお、と半目でぼやくミカの声が酷く遠く聞こえる。己の五感が全て額の一点に移ってしまったようで、伝わる温もりと柔らかさ以外何も理解が出来ない。速いペースで内から打撃音のように響いているのは鼓動だろうか。しかし己の内で繰り広げられるそれらを、対面の相手が理解出来るはずもなく、
「……みるみる体温が上がって行くようだが。聖園君か百合園君に同伴してもらい、一度上がって涼んだ方が良いのではないかね?」
こちらの手を取り手首の脈まで測り始めるに至り、セイアが先生を呼んだ。呆れとも苦笑ともつかぬ色を織り交ぜ、軽く手の平を振りつつ彼女は言う。
「見世物としては面白いが、あまりナギサをいじめないでやってくれ。こう見えてかなり初心なのでね」
ん? と首を傾げた先生が、ややあって彼女の含意に気付く。ああ、と納得の頷きを作ると、満面の笑みを浮かべ、
「成程確かに、職務柄肌を晒すこと自体が稀だったね私は。とはいえ見られても良いと判断したが故のこの格好なのだし、艶やかさで言えば君の水着も相当だろう? 様になっていて綺麗だが、内面の純情さを思うとチョイと背伸びな気もするね」
ははは。
「全く、桐藤君は本当に可愛らしいなあ」
限界が来た。
両の腕を広げ、溜めるように曲げ、掻き出すように目の前へとぶつけ、
「先生は意地悪ですっ……!!」
言葉と共に放たれた湯の波が、先生を打ち倒し浴槽に沈めた。
●
ミカによる先生の水揚げ後も頬を膨らませ拗ねていたナギサだったが、セイアが注文したアイスが届く頃には機嫌を戻していた。
オチはともかく、綺麗や可愛いと言われたのが嬉しかったのだろう。先のやり取りで発散し心の整理もついたのか、先生に置いていた距離もない。今は素直に隣へ座り、ストロベリーアイスの味にテンションを上げている。
思えばこうやって何の衒いもなく感情を表にする彼女も、最近ようやく見れるようになったのだと気付いた。
そしてそれは、ナギサに限った話ではない。
ミカとて表情がころころ変わるのは昔からだが、奔放なだけでなく前向きさが目立つようになった。感情的な面は相変わらずとはいえ、一度立ち止まって周りのことを考えようと努力している。
「……何と言うか、不思議なものだね」
口を開くと視線が集まった。だが気兼ねなく、ソーダ味のアイスを口に運びつつセイアは言う。
「そんなものか、と思える日々の光景も、そこに至るまでに様々な経緯と経験、懊悩、選択があり、目に見える範囲だけでさえそうなのだから、きっと世界というものは分からないことだらけなのだろうね」
考えながら喋ったせいか要領を得ない抽象的な話になってしまった。案の定脈絡のなさにミカとナギサは首を傾けており、しかしアイスのチョコチップを発掘するのに躍起になっていた大人は苦笑を一つ。
「それも当然のことだろう。世界そのものが単純明快だとしても、その上に生きる誰もがそれぞれに物を思い、その幾分かを秘め、行動しているのだ。全てを俯瞰出来る神でもない限り万象の必然性は理解が及ばんよ。私とて常に論理的に動いているというのに、周囲からはまるで理解されないのだから」
「ここ、笑うところかい」
半目で言うと親指を立てられた。そのまま、先生は意に介した様子もなくアイスにスプーンを突き立て、
「だからこそ、共にある者達を思い、意思を重ね、通じ合えたことを、親しくなった、と言って大事にするのだろう」
それに、と頭に手を置かれた。
「他人事のように言っていた百合園君とて、知り合ったばかりの頃より良い顔をするようになったと思うよ?」
柔らかく頭を撫でられると、自然と肩の力が抜けた。
「君と話していると、物思いに耽ることさえ馬鹿馬鹿しく思えて来るね」
「思おうが行動しようが、時の流れは変わらないのだ。ならば好きなようにやるのが一番だとも」
自由系狂人が言うと説得力があり過ぎる。
だが、結局のところはそれも「そんなもの」の一つなのだろう。
「得難い奇跡のような日々を、心行くまで楽しむが吉、か」
そんな示唆を寄越した大人はと言えば、風呂の熱気で溶かしたチョコチップの群れを一つの塊へ錬成するのに夢中になっていて、つまりキチガイタイムだ。礼すら言わせてくれないと呆れるべきか、気にするなという遠回しな気遣いか。どちらにせよ敵わないと苦笑しつつ、怪訝な視線を投げ掛けて来る友人達に会釈を一つ。
「すまないね。感傷から込み入った話をしてしまった」
「ええ、まあ、お二人が飛躍した話を繰り広げるのはよくありますので」
「よく分かんないけど良い話してるんだろうなあ、くらい?」
理解を投げ捨ててはいるが結論が合ってる辺りミカらしい。吐息し、表示枠相手にバニラアイスの追加注文を連打しているミカは半目で、
「セイアちゃんは順当に何言ってるか分かんないけど、先生は不規則言動が行き過ぎてて何言ってるか分かんない」
「それから、セイアさんは常態でその調子ですが、先生の場合波というか揺らぎというか、状況に応じて奇行がエスカレートするので被害が読めないですね」
「ははは、生徒が忌憚なく意見を言えるようで幸いだね」
本気で言ってるからこの大人は恐ろしい。
これがトリニティの場合嫌味とか煽りとか含意とか、そういう駆け引きも視野に入れねばならないものだが、先生の場合頭おかしいのを除けば基本正直だ。言葉遊びでこちらに悪戯を仕掛けることはあれど、害意や悪意というものが全くない。そんな気楽な応酬が交わせるからこそ、振り回されることを加味しても彼女の傍は居心地が良いのだが、
……もう少し加減が欲しいと思ってしまうのは、未熟な子供の見解かな。
結局は彼女の言う通り、好きにやれば良いのだろう。やらかしてもフォローし合える、頼りになる仲間がいるのだから。
ならばとセイアは腰を浮かせ、座り直した。先生の膝上へと。
「……おおっと、これまた珍しいパターンだね」
「おや、小鳥遊ホシノや空崎ヒナ相手によくこうしていたから、そういう嗜好なのだと思っていたが」
「直近で言えば桐藤君や生塩君にもしているし、セミまで範疇を広げれば枚挙に暇がないよ?」
「守備範囲が広いようで幸いだね」
ミカが頬を膨らませ水面を叩き始めたが無視。シャーレ暮らしなのだから機会は一番多いだろう君。
そして槍玉に挙げられたナギサは静かに顔を背けていた。こちらの登場に驚いて転びかけたのを、先生が空中で一回転させ着地させた時のことを思い出したか。僅かに覗ける頬が赤い辺り、だから初心だと言うのだよ君は。
……私も人のことは言えないがね。
頬の熱に快さを感じ、セイアは笑った。
ああ、楽しんでいるよ。私も。