グラスアーカイブ   作:外神恭介

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毎日先生のご飯食べさせてもらってるんだし、このくらいはお返ししないと!!

「──という訳で、シャーレお料理教室はーじまーるよー!!」

 いえーい、と右腕を振り上げるミカに、疎らな拍手が送られた。

 シャーレオフィスビル内の厨房。例によって申請さえすれば、生徒でも利用可能な一室。そこには現在、総長連合生徒会の中でも重役と言える三人の生徒が集まっていた。対面、眉をひそめたヒナがこちらを見遣り、

「……という訳でも何も、「エプロンと三角巾持って厨房に集合ね!!」としか言われていないのだけど」

「それでもちゃんと来る辺り付き合い良いよねヒナちゃん……。いやまあ、おじさんも人のこと言えないけどさ」

 呑気に笑っているホシノ共々、音頭に拍手を返してくれるくらいには優しい友人であることをミカは改めて感謝。内心で深々と頭を下げつつ、まずは話を進めようと思う。

「二人も知ってると思うけど、……先生のお仕事スタイルって超絶ドブラックじゃん?」

「そうね、……光沢や照り返しが存在しない程度には真っ黒だと思うわ」

「何が最悪って強制じゃなくて本人が望んでやってるからストッパーがいないことだよね、……私達じゃ止めきれないし」

 全員で俯いた。

 脳裏に快活な笑みを浮かべるキチガイが過ぎったが、頭を振って追い払う。抵抗して這い上がって来る幻覚が見えたのでこっちも幻覚で蹴り落としてから、

「まあ、その辺りはナギちゃんやセイアちゃん達とも色々考えてるからまた今度、ってことで。とりあえず今回は簡単なところからやろうと思って、先生にご飯作るのはどうかなー、って」

 ほう、と二人が頷きを作った。

「良いんじゃないかしら。あの人、生徒の食事を作る時は手抜きも妥協もないけど、自分の食事は基本雑だから」

「生徒の厚意を無下にする人じゃないし、ちゃんと食べさせるって意味ではアリかもね。仕事手伝うだけが負担の軽減になる訳じゃないんだし」

 感心の色を滲ませた声は、こちらへの同意を示すもの。それに気を良くしたミカは、気合いを入れるように両の拳を握って、

「そうだよね!! 毎日先生のご飯食べさせてもらってるんだし、このくらいはお返ししないと!!」

 二人が真顔を向けて来た。

 

     ●

 

 ホシノの視線の先、ミカが動きを止めた。ややあって、落ち着けと言うように両の手の平をこちらに向け、

「まずは言い訳を聞いて欲しいかな?」

「そうだね。──シメるのは後からでも出来るし」

 アチャー、とミカが自分の額を叩いてみせた。端から聞く分にはキツい物言いだが、何だかんだ濃い付き合いだし、先生周りだと割とよくある。要は慣れ。

 ……こういう馬鹿なやり取り出来る相手って貴重だよねえ……。

 対策委員会の皆は守るべき後輩だからこういうネタ振りにくいし、もう一人のシロコはエクストリーム過ぎてツッコミに回らざるを得ない。同学年かつ自分と同等の実力者だからこそ、というのは自分でも難儀だと思うが、それ以上に難儀な大人もいるしなあ……。将来ああはなりたくないなあ……。

「ホシノ、気持ちは何となく分かるけど今はミカの尋問に集中して」

「しれっと尋問とか言われてるよ私!!」

「いや、まあ、大体想像は付くけどさあ。……下手に言い触らすと刺されかねないよソレ」

「だよねー……」

 溜め息と共に首を前に落としたミカは、現在シャーレに住まいを移している。元々はエデン条約における騒動に対する過剰な私刑からの保護が目的だったのだが、ほとぼりが冷めた今でもトリニティ寮には戻っていない。アリウス絡みの騒動が片付いた時点で、一度そういう話も挙がったのだが、

「……同居人の目が消えたら、これまで以上に先生が好き勝手仕事し始めそうね」

 というヒナの呟きに全員俯いて誰も反論出来なかった為中止となった。

 色彩戦以降のミカの住み込みと手伝い、総長連合及び生徒会の発足、そういったサポート体制を整えてなお月六百時間とかいう頭のおかしい労働時間を叩き出すキチガイが先生だ。全生徒の目撃証言を合わせても、彼女が寝ている姿を見たという話は一度か二度。二十四時間様々な生徒が入り浸っているとはいえ、そんなキチガイから同居人(ミカ)というストッパーが外れれば、本気で不眠不休となってぶっ倒れかねない。むしろ何故今まで倒れたことがないのかが不思議なくらいだが、まああの先生だしなあ……。

 ともあれそういった事情と、当人もティーパーティーとしての政務よりシャーレにおける武断系の仕事の方が向いていたこともあり、ホシノと組んであちこち駆け回っているのが現状だ。シャーレ名物切り込み隊長としてそれなりに名を挙げてもいるが、ホシノはあまり興味がない為詳しくは調べていない。ミヤコの集めた情報を見たユウカが「グッズ化して売り出せば新しい財源になるんじゃ……」と呆然とした口調で零していたが、さすがに話の盛り過ぎだろう。

「とはいえ、先生も実質シャーレ住みみたいなものだから、嫉妬や羨望も当然ある訳で」

「先生のストッパーになりつつあれだけの戦果を挙げられるのは、キヴォトス全土を見ても十人といないんじゃないかしら」

「ああ、うん、たまにトリニティの子が手伝いに来るけど、大体帰り際はドン引きして引き攣った顔してるかな……」

 ある程度先生と親交のある生徒は平然と流すが、慣れのない子にシャーレキチガイワールドは厳しかろう。私も好きで慣れた訳じゃないけど。

 話が逸れた。

「で、場所は提供するけど基本身の回りのことは自分で、って話だったよね」

「あ、うん。シャーレの仕事でお金も稼いでるし、それなりに上手くやってるよ。ユウカちゃんやミヤコちゃんのおかげで節約とかも板についてきたし」

 ただ、

「一人で食事というのも味気なかろう? って朝と夜は先生がご飯作ってくれて一緒に食べることが多いんだよね……」

「……どうしてその気遣いを自分に向けないのあの人は」

 ヒナが頭を抱えるが心底同意だ。そこはミカも同じなのか、溜め息混じりに肩を竦め、

「一応材料費とか、水道代や光熱費は払ってるけど、お金渡したからオッケー!! っていうのも何か違うじゃん?」

「それで、今度は逆に自分がご飯作ろう、ってことかー」

 成程ねえ、とホシノは頷く。概ね想像の範疇ではあったが、企画としては悪くない。場所がシャーレの厨房というのがバレバレ過ぎてどうかと思うが、アビドスとゲヘナとトリニティの役職持ちが一堂に会して問題ない場所などそうそうないので仕方ないだろう。

「ん、おじさんは賛成。乗るよ。ヒナちゃんは?」

「反対する理由もないし、私も手伝うわ」

「ほんと!? 良かったあ、私もちょっとずつ練習してるけど、あんまり上手く出来ないから」

 照れたように笑うミカに、ホシノも表情を緩めた。短慮というか直情径行が過ぎる面もあるミカだが、だからこそこういう真っ直ぐなところは相手へとストレートに届く。

 性格こそ違えど、ユメもこういう人だった。

 

     ●

 

「くしゅん!!」

「どうしたのユメ。風邪?」

「うーん、寒気や怠さはないんだけどな……。ひょっとして誰かが噂してるのかも」

「二年前の死人を誰が噂するの」

「わ、分からないよ!? ホシノちゃんがアビドスの皆に思い出語りしてるかもしれないし!!」

「はいはいJud.Jud.、郷土愛たっぷりで良いことなのは分かったから」

「二人共、イチャつくのは構いませんが鋼鉄大陸の情報サルベージという本業もしっかりと──、おっと」

「避けるな。大人しく殴られなさい」

「おやおや図星ですか? 鏡子も可愛らしいところがあるんですねえ」

「張っ倒す」

「フフフ捕まるとお思いで?」

「あっ、ま、待ってよ鏡子ちゃん!! 奏ちゃんも置いてかないでー!!」

 

     ●

 

 何の気負いもなく彼女のことを思い返せる辺り、薄情になったのか、或いはようやく飲み込めたのか。きっと目の前の相手と同様に、自分もまた少しずつ変わっているのだろうとホシノは思う。自覚の有無はさておき、人はそうやって変化し、先へ進んで行くのだろう、とも。

 そういう意味では、

「お姫様志望だったはずのミカちゃんも、いつの間にか随分所帯染みて来たねえ」

「い、いいじゃん別に!! 前に本で読んだけど花嫁修業? とか、そんな感じ!! 感じ!!」

 両の手を振って言うミカに、ヒナ共々動きを止めた。ややあって、真顔でお互いの顔を見ると、

「家事スキルでアピールというのも、古典的な手法だけど悪くないわね」

「先生に比べたら敵うものじゃないけど、出来ないよりは出来る方が良いか……」

「あの、ちょっと二人共? 急に目がマジになってない? ねえ」

 まあまあ、と二人で両の手の平を向ける。そんなこちらに半目を返しつつ、しかし首を傾げたミカは、

「実際のところ二人はどうなの? お料理ちゃんと出来る感じ?」

 問いに、再び顔を見合わせる。視線を戻し、お互いに片手を上げつつ、

「面倒だから基本的にやらないけど、まあ人並みには」

「おじさんもアビドスの皆とちょくちょくやってるから、それなり? ちゃんとしたものかって言われると微妙だけど、味は保証するよ」

「そっか、じゃあ二人がいれば百人力だね!!」

 無邪気な信頼が眩しいが、頼られた以上応えねばなるまい。袖を捲り、髪を一つに束ね、エプロンと三角巾を装備しつつ、

「で、何作るの?」

「え?」

 同じようにツインテールに纏めていたミカが動きを止めた。そのまま沈黙すること数秒、こちらは髪をアップに纏め終えたヒナが呟く。

「……まさか、何も考えてなかったとか」

「……ああ、企画した時点で頭が全部そっち行っちゃって、実際の段取りとか考えてなかった系の」

「ままままままさか自分で呼び出しておいてそんなこととと」

 動揺が分かりやす過ぎる。夏のバカンスで幹事を務めたと聞いていたが、ムラがあり過ぎではなかろうか。ただまあ当時の場合、大事な友人を休ませる為、何としても成功させねばと気を張り根を詰めていたが故だとすれば、

 ……気を抜いてても大丈夫、くらいには信頼されてる、ってことかな。

 多忙なヒナはともかくとして、ホシノ自身は急な呼び出しでも別に問題ない派だ。持ちつ持たれつって言うし。

 が、準備不足がそれで解消する訳でもなく。

「じゃあ、買い出しからスタート?」

「い、一応色々と材料は買って来て、冷蔵庫に詰めてあるんだけど……」

「あ、さすがにそこは準備してあるんだ」

 どれどれ、とヒナも伴って冷蔵庫からビニール袋の群れを引っ張り出す。肉、魚、野菜、卵と調味料各種が一通り。結構な出費だったろうが、余ったら先生に買い取ってもらえば良いだろう。あの人余り物でも上手く作るから。前仕事上がりに作ってもらった賄いの炒飯美味しかったなあ……。

「しかしこれだけあると何作ればいいか悩むねえ」

「私はその辺全然だから、とりあえず買うだけ買って二人に聞けばいっかー、って。どうかな?」

 んー……、とホシノは腕組みしつつ考える。先程自分やれます風に答えこそしたが、あまり難しいのは自信がない。以前皆で作ったナポリタンと生野菜のサラダは楽で良かった。麵を茹でたらソースや具と絡めて炒めるだけだし、サラダも野菜を洗って切って盛り付けるだけ。二品なのが手間と言えば手間だが、五人掛かりだったのでさほど苦労しなかった記憶がある。

 ……うちは基本自炊出来るしねえ。

 資金難が常態のアビドスで、毎度外食していたらそれだけで財政が厳しくなる。必要に迫られてと考えるとビミョーに喜べない面もある調理スキルだが、逆に言えばミカがそれらに直面したのは比較的最近。このくらいなら、とこちらが思っていても、向こうにとってはハードルが高い可能性は十分にある。なのでその辺り少し探りを入れておこうとホシノは思い、

「あんまり上手くないって言ってたけど、実際どんな感じなの?」

 問うた先、ミカの笑みが固まった。嫌な汗が背を伝い始めるホシノの眼前、若干の間を置いて再起動したミカが頬を掻きつつ、

「……えーと、例のバカンスの時、先生にサンドイッチを作ったんだけど、今思うと褒められた出来じゃなかったなー、とは」

「……ほほう」

 サンドイッチ。挟む具やホットサンドなどの拘りを度外視すれば、基本簡単な部類と言えるだろう。よくあるネタとしては卵サンドで中身が零れ落ちるとかカツサンドのソースが染みてパンが湿っぽくなったなどだが、

「具体的には?」

 容赦なくヒナが問いを投げると、ミカがゆっくりと視線を逸らす。遠い目で、懐かしむような口調で口にするのは、

「……マヨネーズがないから代わりにオイスターソース使ったり、ピクルス苦手だから少なくしたり、夏は塩分不足しがちだから塩や砂糖入れてみたら、味のバランス崩れてビミョーな仕上がりになったりとか」

 ヒナ共々顔を覆って身を背けた。

 

     ●

 

 つまるところ典型的なレシピを守らないタイプのメシマズね、とヒナは納得した。

 このタイプは比較的マシな方だ。出来上がったものが良くないと分かる舌がある以上、レシピ厳守を叩き込めば改善するのだから。

 食材、調味料、そして調理法。どれか一つ違うだけでも、出来上がるものはかなり変わる。それらが理解出来てからアレンジに踏み込むのであって、初心者はまず先人の知恵に従うべきなのはあらゆる分野における基本。

 だが、これだけは聞いておこうとヒナは思い、

「……味見はしなかったの?」

「……さ、最近はしてる、よ?」

 つまり当時はしなかったと。食中りなどを起こさなかったのは不幸中の幸いだが、

「自分で食べるならともかく、他人に食べさせるなら味見はしなさい。先生はああいう性格だから残すこともないでしょうし、それで体調を崩しでもしたら一番辛いのは貴女よ」

「はい……、反省してます……」

 分かっているならそれで良い。ティーパーティーの他二人が文官タイプな為侮られがちだが、ミカも決して馬鹿ではないのだ。自分のやらかしを気にし過ぎる自罰的な面も最近は治まって来ているし、同じ轍を踏むことはないだろう。今回は自分達も付いているのだから大丈夫。

 しかし本題はどうしたものか。多様な食材を活かした品となるとすぐ思いつくのは鍋料理だが、さすがに時期を外している。締めの雑炊や麺類を考えると食事の時間が長引くこと請け合いで、多忙な先生に振る舞うには適さない。

 やはりここはシンプルに初心者御用達のカレーか。よほど変なことをやらかさない限りは、マズく作る方が難しいとまで言われる定番中の定番。市販のカレールーさえあれば肉と野菜を切って煮込むだけ、シチューや肉じゃがなどにも応用が利くので自炊の第一歩としては良い選択肢だ。だが、

 ……カレーは先生が一家言あるから地雷を踏んだら悲惨かしら……。

 彼女の異常とも言えるスキル群を叩き込んだ面々がカレー信仰の蛮族だったとかで、その洗脳から脱却しきれていないという話は以前に聞いた。改めて見ると意味不明にも程がある文字列だが、まあ先生周りは常識が通じないのがデフォルトだし深く考えない方が良いだろう。先生に好き嫌いがあったという記憶はないが、拘りを軽んじると偉いことになるのは美食研究会や温泉開発部の蛮行からよく分かっている。

 そういった諸々を考えていると、ふとヒナの胸中に一つの念が沸き上がった。

 ……面倒ね……。

 ミカの突発的な思い付きや、ホシノの悪乗りに振り回されること自体は、さほど嫌とは思っていない。ゲヘナで起きるトラブルの数々や、先生のキチガイムーブに比べれば可愛いものだし、強制的な気分転換として助かっているのも事実なのだ。

 だが、それらの中で生まれたタスクの実行に、面倒を感じるのはまた別であって。

 ……放っておくのも心配だし、最後まで付き合うけど。

 投げ出すつもりは微塵もない。それが友人として当然の義務だ。だが風紀委員会の仕事から解き放たれた空崎ヒナは、日がな一日寝ていたいと思うような不精系キャラでもある。結局すぐに仕事へ戻ってしまうのがヒナの美点であり欠点だと、先生にも苦笑混じりに言われたものだ。自分としてはやるべきことをやっているだけなのだが。

「……正直、先生相手じゃなければ完成品を買って済ませる話よね」

「準備や片付けの手間を考えるとそっちの方が圧倒的に楽だよねえ」

「ハイそこ!! 企画の前提を台無しにするようなこと言わない!!」

 とはいえこれは結構な難題。改めてフウカの苦労が偲ばれる。しかも彼女の場合はこれが数千人分かつ毎食。一人分の一食であれこれ悩んでいる自分達とは比べるのも烏滸がましいが。

「ホシノは何かないの?」

「アビドスで作る時はあり合わせで野菜炒めとか名もなき創作料理的なのばっかりで、こういう時に見栄えの良いものと言われるとなかなか……」

「……それはそれで問題あるんじゃないかな?」

 ミカのツッコミも最もだが、それは一旦置いておく。いくら先生が文句一つ言わず完食するようなお人好しでも、気負ってしまうのは当たり前だ。少しでも良いものを、という理想は腕前という現実的な問題の前にはどうしようもないのだから。

 吐息と共に視線を落とす。と、不意に視界の端で鮮やかな色合いが過ぎった。

「……?」

 釣られて見た先はテーブルの端。先にこの場を使った誰かが忘れて行ったのか、市販のレシピ本が置いてある。その表紙に写っている黄色に赤を差した一品は、

「……オムライス」

 え? と二人が振り向く。だがヒナが思うのは現在の友人ではなくかつてのこと。シェマタ事変でアビドスに出張った自分に、先生が一日休みを作ってくれた時のことだ。あの時彼女が振る舞ったのもこのメニューで、その報恩としていざ作ることを考えてみれば、

「半熟で仕上げようとか卵で包もうと思わなければ、そこまで難しくはない。……どうかしら?」

「あー、被せるタイプなら確かに。チキンライスは炒飯の要領で行けるから今後に活かすことも出来るし、良いと思う」

 同意を返すホシノに対し、うーん、と日に透かすようにレシピ本を掲げたミカは乗り気ではない。ややあって、眉を寄せた彼女がこちらを見て、

「チキンライスはまあ良いとしても、卵はハードル高くない? グチャグチャになる未来しか見えないんだけど」

「失敗した卵はスクランブルエッグとして私達が食べれば良いし、最悪チキンライスは冷凍モノを温めるというリカバリーも出来る」

「最後の一つは聞きたくなかったよ!!」

 万が一に備えるのは大事だから。

「ミカが良ければこれで行こうと思うけど、どう?」

 問いと同時、ホシノもミカへと視線を向ける。あくまで自分達が出来るのは提案止まり。最終決定権は発案者である彼女にある。

 ミカは考えるように腕組みし、上を見て、ややあってから手の中のレシピ本に視線を落とす。表紙のオムライスを真剣な目で見詰め、ややあってから小さく頷き、

「……うん、やってみる」

「おっけー、じゃあやってみよー」

 ホシノの相槌に首肯を返し、ヒナは思った。これは面倒くさがってもいられないわね、と。

 

     ●

 

 脱線しまくった気がしないでもないが、目標も決まったことでようやく計画が動き出した。

 手を洗い、タオルで拭いつつレシピ本と睨めっこしていたミカは、ふと隣に視線を向けた。慣れた様子で食材を分けているホシノに、

「この手の本見掛けるたびに思うんだけどさ。……少々とか適量って具体的にどのくらいなのコレ」

「いきなりレシピという概念の闇に触れるのやめない?」

 タブーだったらしい。と、調理器具を準備していたヒナも応じて、

「味の好みは人それぞれ。ベースとなる分量は書いておくから、あとは好きに味付けしろと、そういうこと」

「その結果ダメダメになったサンドイッチの話する?」

「……まあ、ある程度慣れた人向けの書き方であることは事実ね」

「門前払いじゃん私」

 まあまあ、と二人がこちらに手の平を向ける。

「今回は私やホシノもいるし、味見を交えつつ調整して行けば事故は起きないでしょう」

「おじさん達の味覚が一般的な範疇からズレてなければだけどねー」

「き、急に不安を煽るのやめようよホシノちゃん」

 うへへ、と悪びれもせずに笑うホシノにヒナが嘆息。炊飯器を早炊きに設定しつつ横目でこちらを見て、

「作るものは決まったけど、どうする? 全員で手分けして一品を作るのか、私達の口添えを受けつつミカが練習で何度も作るのか」

「それが全く考えてなくてさー」

 本心からの答えにヒナの目が据わった。が、一応はこちらの言い分も聞いて欲しいと思い、慌てて、

「れ、練習が一番ってのは分かってるつもりだよ? でも食べ物を粗末にしちゃいけないし、作った分だけ食べないと、ってなると、一度に何個も作れないじゃん?」

「ミヤコちゃんに声掛ける? RABBIT小隊なら向こうから頼む勢いで消化してくれそうだけど」

「試食とはいえ先生に食べてもらうものを先に他の誰かに食べさせるのも何かこう……、違わない?」

「分からなくはないけど、つまり練習で作った分は全部ミカが食べるの?」

「……しばらく体重計に乗りたくないなあ」

「乙女心は複雑だねえ」

「寝ぼけたフリして先生に抱き着くホシノちゃん程じゃないよ?」

 笑顔でカウンターを叩き込むと下手な口笛と共にホシノが顔を背けた。ヒナが足先でホシノの踵を小突いているが、まあ素直に甘えられるタイプじゃないもんねどっちも。この件が片付いたらお礼に根回ししとこ。ともあれ、

「チキンライスは多めに作って、良さ気な部分を先生に出せば良いと思うんだ。余ったら冷凍したり、お弁当に詰めたりも出来るし。内側だから盛り付けもやり直せるもんね。だけど──」

「卵に関してはそうも行かないし、一度焼いたものを修正することも出来ない。そうなると一度私達が実演して、ミカに何度か試してもらう方が良さそうね」

「そだね。練習でおじさん達が作った分はさっき言ったみたいにスクランブルエッグにしたり、夜食のおにぎりにしても良いし」

 そう言うホシノは日課で夜間のアビドスをパトロールしているんだった。普段は携行食や先生の持たせたおにぎりなどを食べているらしいが、バリエーションとしてアリなのかもしれない。確かコンビニでもオムライス風みたいなのあった気がするし。今度買ってみよう。

「方針もこれで決まりね。……米が炊けるまで三十分、その間に卵の方を練習しましょうか」

「よーし、やるぞー!!」

 気合い十分。二人の先達というサポートもある。他人に誇れる腕前でこそないが、きっと上手く行くと、そう信じられる。

 世界は理不尽で、不条理で。だけど決してそれだけじゃないと、先生が身を以て示してくれたように。

 自分の頑張りも、先生にとってそうであれば良いと、そう思った。

 

     ●

 

 長く苦しい戦いだった。

 挑戦回数二十回。累計三時間にも及ぶ激闘は、歴戦の叩き上げであるホシノをして、相当の苦戦を強いられたと断言出来るものであった。

 ……初手の卵割りから躓くとはねー……。

 別にミカが度を越した不器用という訳ではない。ならば何がいけなかったのかと言えば、ホシノやヒナが慣れた動きで片手で割って見せたのがいけなかった。ムキになったミカが片手割りに拘り、混入した卵の殻を取り除くところからスタートすることになったからだ。

 さすがに五回連続でやらかした後はミカも冷静になったのか、大人しく両手で割る方向に舵を切り、そこからはひたすら卵を焼く練習。鉄製のフライパンにガスコンロと、条件自体は悪いものではなかった。

 だが、溶き卵という液体は手やフライパンの傾きによって簡単にその範囲や厚みを変える。形を意識すれば厚みが寄り、厚みを気に掛ければ形が歪になり、という無限ループ。軌道修正を図ろうにも熱されたフライパンは溶き卵を卵焼きへと変化させて行く為、速度と正確さと判断力が問われる。概ね慣れによって解消されて行く面ではあるが、先生の為にと肩に力が入っているミカには難しかったようで、

「うわーんまた失敗したー!!」

 と、及第点ラインに達していても自己評価が厳しく、なかなか満足行く出来にはならず。溜まりに溜まったスクランブルエッグの山を消化しつつ、卵焼きに掛けるものは醬油かケチャップか塩かで謎の応酬が始まったりもしたが、ある程度は習得したということでチキンライスに移行した。

 カットした鶏肉や人参、グリーンピース、そして最後にケチャップを炊いた米と混ぜて炒めるだけ。こっちもこっちでケチャップの浸透具合が疎らになり、白米とチキンライスの斑模様が生まれたりもしたが、卵よりは楽だったのか比較的スムーズに完成。予め皿に盛り付けておき、再度卵へと挑戦すること三十分、

「で、出来た……」

 崩れないよう細心の注意を払い、円状に焼いた卵をチキンライスに被せたミカが、半ば呆然とそう零す。

 視線の先、白い平皿に盛り付けられたチキンライスを、卵は隙間なく覆っていた。焦げもなく、火の通り具合も均一。飲食店のサンプル写真に使えそう、というのは贔屓目かもしれないが、少なくともホシノは本心からそう感じた。

「出来た!! ホシノちゃん!! ヒナちゃん!! ちゃんと出来たよ私!!」

 緊張が抜けて、一気に実感が来たのか。フライパンとフライ返しを置いたミカが、花の咲くような笑みと共に振り向く。達成感に満ちた表情は、頬にちょっとケチャップ付いてて締まらないけど、

「うん、ちゃんと見てたよ。大丈夫」

「これまでの努力が実を結んだ。それだけのことよ」

 親指を立てるホシノの隣、ヒナも口元を緩めている。細めた目を潤ませ、ゆっくりと近付いて来たミカがこちらを見て、口を開き、

「うむ、よく頑張ったね聖園君。小鳥遊君も空崎君もお疲れ様」

 不意に聞こえた声に三人で悲鳴を上げた。

 

     ●

 

 思わず身を寄せ合いながら振り返った背後、エプロン装備の先生がそこにいた。白の長髪をポニーテールに纏めた姿は、蕎麦粉の袋と延べ棒を手にしている。明らかに今来た風ではない立ち姿に、ミカが完全にテンパった赤面で、

「い、いつからそこにいたの!?」

「最初からずっといたよ? 唐突に天蕎麦という一語が降って来たので仕事を放り出し一心不乱に生地を捏ねていたのだが、何やら和気藹々としていたので邪魔するのも忍びないと、ずっと気配を殺していたのだよ。ほら」

 最後の一言と同時、オムライスの横に突如笊に盛られた蕎麦が出現する。歩法と呼ばれる体術を用い、こちらの知覚を潜り抜けて置いたのだろう。役職持ちとして長い時間を共にしている自分達相手だ、呼吸や拍子を読むのは容易だったに違いない。

 思い出す。何を作るかで悩んでいた自分達の前、目に付くような場所に置いてあったレシピ本のことを。あの時はそこまで気にしていなかったが、ヒナの記憶が確かであれば、厨房に集まった時点ではあんなものはなかったはず。

 他にも調理中、必要な調理器具がそれとなく手の届く位置に置いてあったり、切れたはずの調味料が補充されていたり、流し周辺の水がいつの間にか拭われてもいた。気を張っていればその時点で気付けたはずだが、

「……総長という役職を預けられておいてこれは失態ね」

「友人達と面白可笑しく騒いでいる最中でも張り詰めている、というのも不健全だと思うがね」

 笑って言われてはどうしようもない。嘆息し肩の力を抜くと、ホシノもやれやれと両の手を上げた。ただ発起人であるところのミカは、納得行っていないのか口を尖らせつつ、

「むー……、サプライズのつもりだったのに」

「それに関しては申し訳ない。厨房ではなく家庭科室の方が良かったかもしれないね。あちらの設備もこちら同様に充実させておこう」

 暗に百万単位の予算を注ぎ込むと宣言した馬鹿に全員で半目を向けたが、それが効くような相手でもなく。延べ棒と蕎麦粉を置き、打ち粉まみれの手を洗い始めた先生はこちらを一瞥し、

「差し支えなければ、今ここでいただいてもいいだろうか。コシを出すべく生地に掌底打ち込んでいたから腹も減っているし、やはり出来立てが一番だからね」

「中盤無視するけど後半は同意ね。ミカ?」

「え? ……あ、う、うん!! むしろこっちからお願いしたいくらい!!」

 キチガイ登場ですっぽ抜けていたのか、慌ててミカが皿を手に取る。隅から人数分の椅子を持って来たホシノが順に並べ、先生とミカを挟む形で座る。

 表面上冷静さを保ってはいるが、自分達も関わった一品の終着点。どうなるのだろう、という期待に似た高揚があることは否めない。

 ホシノ共々見守る先、ミカが先生の前に皿を置いた。が、慌てたようにその場を離れ、スプーンとケチャップを手に戻って来る。

「セイアちゃんに聞いたんだけど、店員さんがケチャップで色々描いてくれるんだよね」

「間違ってはいないが微妙に偏った知識な気もするね……」

 先生の呟きに内心同意。以前アコが先生に賭けで負けてコーヒーにミルクで絵を描くよう命じられ四苦八苦していた場面を見たことがあるが、さすがにアレより難易度は低いだろう。定番は名前やハートだろうが、ミカはテンションで突っ走る面もかなりあるので予想外の方向に事態が転がる可能性もある。

 どうなるかしらね、と再度の思いと共に見た先、見るからに緊張した様子のミカがケチャップの容器を構える。蓋を開け、中身を絞り出そうとして、

「あ」

 暴発したケチャップが散弾のように飛び、オムライスに赤いドット柄を作った。

 

     ●

 

 嘘、という自分の声を、酷く遠いものとしてミカは聞いた。

 ……何で?

 考えれば分かる。基本的に容器の中身はケチャップで満たされているが、使えば使う程に減って行く。そしてプラスチックの容器には復元力があり、凹みが戻る際に使用されたケチャップではなく空気を内部に取り入れる。それが繰り返されれば中身における空気の割合は増えて行き、両者が入り混じって吐き出される。

 それが今起きた。ただそれだけのこと。なのに、

 ……何で?

 心中を埋め尽くすのは、そんな意味のない疑問。否、これも考えれば当然だ。チキンライスの練習やスクランブルエッグの消化で、既にケチャップの容器を四本は空けている。それだけの量を使っているのだから、使いかけの五本目でこうなる可能性は十分にあった。浮かれて、緊張して、視野が狭くなっていた自分が、それに気付けなかっただけで。だけど、

 ……何で今なの?

 出来が悪かったなら、まだ良い。改善点を考えて、次に活かそうと、そう前を向くことが出来る。

 だけどこれは、そもそも挑戦の土台に立つことすら阻まれたようで。

 せっかくホシノとヒナが手伝ってくれたのに。三人で頑張って作ったのに。思い描いていたのと違う形ではあったけれど、先生に食べてもらえるところだったのに。

 よりにもよって、このタイミングで。

「聖園君」

 悔しさとも憤りともつかない感情で、俯きかけた己を先生が呼んだ。

 弾かれたように顔を上げると、目尻に浮いていた雫が宙に舞う。その向こう側、こちらを真っ直ぐに見ている大人は、安心させるように頭を軽く叩き、

「──大丈夫だ」

 告げる言葉の力強さに、ふとかつてのことを思い出した。

「空崎君、すまないが流しの上の棚、右から二番目を」

「……ええ」

 思わず動きを止めた眼前、背後へと振り向いた先生がヒナに言う。それだけで意図を察したのか、靴を脱ぎ椅子の上に立ったヒナが言われた通りの棚を開けた。程無くして取り出し、先生に渡されたのは、

 ……キッチンペーパー……?

 言葉そのままの、どこのご家庭にもあるアレだ。ロール状のそれから一カット分を破り取り、荒く畳んだ先生は

「錠前君に聞いた話だがね。飲食系のアルバイトにおいて盛り付けに失敗した場合、清潔な布巾で皿を拭いリカバリーを図るそうだ。だからこうやって──」

 拭うのではなく、水気を吸わせるようにキッチンペーパーを添えた。吸水性が高いこともあり、半液状のケチャップはその大部分がオムライス上から消えて行く。残った分は掠めるようにして掬わせて行けば、やや赤みが付いたものの元の状態と言っていい卵があり、

「小鳥遊君」

「ほいほーい」

 二つ返事でホシノが渡したケチャップの容器、その蓋を先生が外した。絞り出すことで凹み、歪んでいた容器に空気を入れ、元の形に復元。蓋を閉め、振ってから逆さにし、自重で中身を絞り口の方へと寄せて、

「残り僅かな歯磨き粉などでも使える、ちょっとした生活の知恵だよ」

 これまたホシノが渡した小皿に、先生がケチャップの容器を絞ると、暴発することなく綺麗に中身が出た。

 うむ、と満足げに頷いた先生が、再び空気を入れて中身を寄せ直す。そして容器をこちらに握らせると軽く肩を叩き、

「さあ、もう一度やってみると良い」

「え……?」

 呆然と問い返したミカに先生は苦笑。丸めたキッチンペーパーを、ごみ箱に叩き込みつつ気楽な口調で、

「道は作ると、そう言っただろう?」

「────」

 大丈夫だと、そう言われた時に思い出した光景は。

 決して独り善がりな逃避ではなく、通じていて、今もなお果たされる確かな約束だった。

 だから、

「……うんっ」

 目元を拭い、応じた声は、思った以上に芯を取り戻していた。

 オムライスの皿へと向き直り、ケチャップの容器を両の手で握る。先程のような無用な力は入っておらず、しかし慎重に中身を絞り出す。

 信頼。好意。尊敬。憧憬。それら全てであり、しかし一つの想いとして、溢れんばかりの感情を形にする。

 シンプルなハートマークに。

「……召し上がれ!!」

「うむ、ありがたくいただこう」

 出来上がったオムライスに、先生は笑みでそう告げた。

 両の手を合わせ、頭を下げてから、端の方から掬い、口に含む。

 目を閉じ咀嚼する僅かな時間が、随分と長いものに思えた。だがそこに不安や怖れはない。だって、

「初めて作った、という点を抜きにしても上出来だろう。小鳥遊君や空崎君のサポートもあるが、それも聖園君の直向きな努力あってこそだ。蕎麦打ちの合間に様子は見ていたから、その頑張りもよく分かっている」

 世界は理不尽で、不条理ばかりだけど、決してそれだけじゃないと信じ、通そうとする馬鹿な大人は、絶対に相手を見過たないのだから。

「美味しいよ。気が向いたらまた作ってくれるとありがたい。何しろ初手で君達が愚痴った通り、私生活にとことん無頓着な悪い大人なのでね」

 冗談めかして笑った先生が、労うようにこちらの頭を叩いた。背後、低い位置で響いた乾いた音は、恐らくホシノとヒナのハイタッチだろう。莫大な安堵と達成感に座り込みそうになるが、一度スプーンを置いた先生がゆっくりと立ち上がり、

「少々早いがこのまま夕食にしよう。興が乗り過ぎて十人前は堅い量の蕎麦があるのでね。皆も食べて行くだろう?」

「お、良いねえ。おじさん魚肉ソーセージの天麩羅が付いてると嬉しいなあ」

「……茄子天はあるかしら」

「あ、二人共ズルい!! じゃあ私はえっと、えっと」

「悩まずとも品目は豊富だから安心したまえ。なければ作れば良いのだからね。準備はこちらでするので、申し訳ないがその間に片付けを頼む」

 Tes!! と喜び勇んで作業に向かおうとした背中に、しかし声が掛けられた。

「聖園君、小鳥遊君、空崎君」

 顔だけで振り向いた先、目を細めただけの笑みを浮かべた先生がいる。彼女は一度横目に食べ掛けのオムライスを見て、視線を戻すと、

「──感謝である」

 告げられた言葉に、ミカはホシノやヒナと顔を見合わせ、

「────」

 笑った。

 

     ●

 

「先生、少し良いだろうか」

「おや、錠前君。バイトは終わりかね?」

「ああ、アリウスの生徒達も少しずつ慣れて来たようだし、そろそろ付き添いの頻度を落としても良いかもしれないな」

「梯君もいることだし、滅多なことはないだろうね。……それで、一体何用かな?」

「あ、ああ。実はミカのことなんだが、──今朝方シャーレのエントランスで顔を合わせた際、いきなり深々と頭を下げられてな。心当たりが全くないのだが、何か知らないだろうか」

「……聖園君は何と?」

「本っ当にありがとう、の一点張りで詳細は何も」

「……なら、額面通りに受け取っておきたまえ。きっと錠前君の知らぬ間に、君の存在が彼女の助けになったのだろう」

「そうなのか……? いや、先生がそう言うのなら、きっとそうなのだろうな」

「そういうことにしておくと良い。それもまた、人の縁というものだよ」

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