「あ、お帰りなさい、先生」
外回りを終え執務室に戻って来た己を出迎えたのは、そんな涼やかな声だった。
部屋の隅、棚にファイルを収納している姿が見える。高い位置から差す日の光が届かぬ位置、白の髪を翻しこちらに振り向いているのは、
「生塩君か。待たせてしまったのなら申し訳ない」
「いえいえ、私も三十分程前に着いたばかりですから。先生の方こそ、暑い中お疲れ様でした」
笑みで応じ、会釈を返すノアには普段と違う点があった。
制服姿ではあるのだが、ジャケットを羽織っておらずシャツのみ。タイツも普段より薄手のものに変わっている。
夏服だ。
「そういえば時期的には衣替えだったね。薄着の生塩君というのもなかなかレアな気がするが、似合っていると思うよ」
「あら、ありがとうございます。でも薄着なら、以前に幾度かご覧になってますよね? パジャマ姿」
「言われてみるとその通りだが、当時も普段もあまり素肌を見せないだろう? シャツが半袖になっただけでも、受ける印象としては大分変わるものだよ」
「ああ……、確かにユウカちゃんはソックスも短い上に、意外と肌の露出が多いですからね。一緒にいることが多いので、対比という意味でもそういう印象が染み付いてしまったのかもしれません」
苦笑する動きで、ノアが手にしたファイルを抱え直す。それによって押し上げられる胸部の立体を見て、己はシンプルにこう思った。
……改めて見ると意外にデカいね?
意外に、という枕詞は不要にも思える。だが着痩せという言葉があるように、しっかり着込むタイプのノアは視覚的にボディラインが分かりづらい。薄手の寝間着姿における胸部ボリュームの主張は故にこそ衝撃だったが、あの姿はそう何度も見る機会があるものでもないのだ。見慣れた制服姿、その夏服姿だからこそギャップが際立つ。
そんな気付きを今更得る辺り、このところリオやエイミという規格外に囲まれ感覚が麻痺していたのだろう。加えて鋼鉄大陸攻略組はスライダーを最大か最小に振り切ったような極端なオパイの持ち主ばかりだったので、知らぬ間に毒されていた節もある。
……よくよく思えば師匠連中の周りもそうだったな……。
自分もそれなりにデカい方だが、それ以上が複数人いるという結構な魔境だった、と懐かしむ。女性陣の間では服や下着のチョイスに難を抱えているという話もちょくちょく挙がっており、しかし制服とスーツの素敵な二択で生きて来た己には無縁の話題でもあった。
この手のネタはキヴォトスでもよくあるが、外の世界程調達に苦労するという話は聞いていない。やはり学園都市というだけあり、若者向けのラインナップが多いのだろう。いやでも羽川君の例もあるし一概には言えないのか? 自治区によって体制が違うのか? 謎だね。暇な時に調べておこう。
・私 :『アロナ君、各自治区の衣類の生産・流通体制について資料を集めておいてくれるかね?』
・あろな:『また!! またどうでもいいことを気にして仕事増やしてますね!? そうですね!?』
失敬な。身体に合っていない服を着ることは成長期の子供に悪影響を及ぼすのは自明の理、即ちこれもまた先生としての職務の一環。仕事である。
……野郎が発言したら一発アウトだね?
自分の性別に拘りはないが、キヴォトスに来てからは女で良かったと思うことばかりだ。無論そこに胡坐をかいていてはいけないが、やりやすさを感じてはいる。異性相手では相談しづらいこともあるだろう。性別以外で近寄り難いケースは知らん。こちらから寄って行けば良いだけの話だ。
……昨日トリニティで杏山君に猛烈な女走りで近付いたら酷く叱られたものだが。
まあナツとヨシミにはえらくウケていたので結果オーライ。アイリはノーコメントだったので無効票。三対一でこちらの勝利だ。やったね。
「……先生?」
いかん、つい癖で思索に耽ってしまった。移動中は思考加速を切っていたので外界も等速のまま。脱線や要らんこと含みで考えていると時間が溶ける溶ける。なので生じた沈黙を誤魔化すべく、口にして支障のない範囲の事実を告げる。
「いや、ふと晄輪大祭のことを思い出したのだよ。確かに当時も早瀬君は、ジャージが半脱ぎで腕が見えていたな、と」
「そうですね。逆に私はしっかり着込んでファスナーも閉めていました」
相槌と共に最後のファイルを仕舞い、ノアがこちらへと歩を進める。手を伸ばせば触れられるような位置で足を止め、下から覗き込むように見上げると、
「ところで先生、体調に問題はありませんか? 先程も少し気を抜かれていたようですし、ちゃんと水分や食事は取られていますか?」
さすがに誤魔化されてはくれないらしい。どうにも鋼鉄大陸の一件以降、役職持ちの過保護っぷりが加速している気がする。確かに帰還直後はデカグラマトン戦のダメージと大人のカードで支払った代償の重さにグロッキー状態だったが、持ち直した今でも心配を掛けるのは少々心苦しい。
「見ての通り、私は健康体だよ。生塩君が気を遣うことなどないとも」
「ミカ先輩から「起きたらもう外出してたから多分朝食べてないと思う」ってメッセージが来てましたけど?」
半目で退路を塞がれた。相も変わらず周到な。というか知り合った頃より切れ味が増している気がしてならないのだが、これは誰の影響だろうか。そんな圧を感じる正面、笑みで小首を傾げたノアが、
「麦茶か何か、ご用意しましょうか?」
「……気遣いは有り難いが、私は生徒を給仕のように扱うつもりはないよ?」
「いえいえ、私も一仕事終えて喉が渇いていたところですし、纏めて用意した方が効率的ですから」
では、と足早に給湯室へ向かって行く背中を見送る形となり、これは抵抗しても無駄だと判断。自分のデスクに戻り、メールのチェックをしながら大人しく待つことにする。ややあって、盆にグラスを二つ乗せたノアが戻って来て、
「はい、どうぞ」
差し出されたグラスを一礼して受け取り、触れた温度にふと気が付く。
「冷たくないのだね」
伝わるのは人肌、までは行かないがやや温い。が、盆をデスクに置きつつ返る言葉は至って真剣なもので、
「冷たい方が吸収は早いですが、胃腸への負担が大きいですから。何かと無理しがちな先生には、こちらの方が良いかと思いまして」
「言う程無理を利かせているつもりはないのだが……。ともあれ心遣い、感謝である」
これは午後の業務も手が抜けんな、と苦笑しつつ、グラスを傾け一気に呷る。
麺つゆだった。
●
……んンンンン?
ちょっと理解が追い付かず内心語尾が上がってしまうが、口内に広がるこの味は紛うことなく麺つゆ。それも薄口。間違っても麦茶ではない。とうとう味覚がイカれたかという疑念も、何かを期待するような笑みでこちらを見ているノアの様子から否定して良いだろう。
つまりは故意だ。
どうしたものかと熟考二秒。止めていた動きを再開し、二百ミリ程の中身を喉の奥へと流し込む。
快音と共にグラスを置いた。
吐息を零すと、ノアが僅かに横を向いた。頬に手を当て溜息付きで、
「張り合いがない、と言うのも失礼ですが、リアクションがないと寂しいものですね……」
一気飲みはお気に召さなかったらしい。だが用意してもらった手前、期待には応えねばならないだろう。なので先程舌上で味わった麺つゆを思い返し、
「本来の三倍希釈ではなく二十倍強くらいか。確か百鬼夜行南部の温暖な地域では、厚い鰹節に湯を注いで作った汁物が薬膳として暑気中りに効くとされていたね。塩分濃度に気を遣う必要はあるが、鰹由来の各種栄養素を摂取出来るという意味では合理的だ。常飲するものでもないが、たまにならアクセントとして十分アリな出来栄えだと思うよ」
「あ、そこまで気付かれたんですね。味見はしていましたが、好評なようで何よりです」
「いやいや謙遜することはない、生塩君の細やかな気遣いあってのものだよ」
ははは、ふふふ、と笑みを交換。直後、真顔に戻った己は改めて傍らの少女を見上げ、
「で、どういうことかね一体」
問うた先、ノアは相変わらずの笑みでこう言った。
「麦茶か何か、とは言いましたが、麦茶とは言っていませんから」
「ああ、バールのようなものと説明して実態はバールではない何かが出て来るようなものか」
以前ブラックマーケットで性質の悪い企業を潰す際、追い詰められた元締めに「慈悲とか温情とかそういうものはないのか」と言われたので、憐憫の視線を十秒程向けてからヒナに射撃を指示したのと同じだ。イオリが甘引きしていたがよくある。曖昧な物言いをした向こうが悪い。
つまり気付けなかったこちらの落ち度だ。
生徒相手だから油断していたと言ってしまえばそれまでだが、
「麦茶かと思ったら麺つゆだった案件をよもや実体験することになるとはね……」
しみじみ呟くと、ノアが屈んで視線の高さを合わせた。アメジストの瞳が真っ直ぐにこちらを見据え、
「お忙しいのは理解していますし、不規則な生活で食欲が湧かないという理由もあるかもしれません。ですが少しでも食べておかないと、いつか本当に倒れてしまいますよ?」
な、の、で、と一音ずつ区切りながら、柔らかな笑みで給湯室の方を腕で示し、
「お素麺茹でておきましたので、昼食にしましょう?」
最後こそ冗談めかしてはいたが、気遣いは真剣そのもの。シッテムの箱から供給される整調加護で体調に問題はないのだが、彼女の感じ方は違ったのだろう。公平で客観的な書記を自認するだけはあり、人を見る目はしっかりした子だ。
……学生時代の私もこのくらい聡ければ、というのは言わぬが華か。
苦笑で思える内は大丈夫だろう。未だ至らぬ身ではあるが、少なくとも向上心を嫉妬にすり替える程落ちぶれてはいないのだから。
自分としては一応、仕事は抑えめにしているつもりだ。ミネ達にも散々詰められたことだし、当分無理をするつもりはない。一日の労働時間を二十時間から十八時間まで減らしたしね。全快したら元に戻すが。
だが自分では大丈夫なつもりでも、周りから見た印象が同じとは限らない。ホシノが平然を装いつつもユメの死に縛られていたように、ハナコが奔放な振る舞いの裏で己の能を疎んでいたように。その噛み合わなさが人付き合いの面倒なところであり面白いところでもあるのだが、
……だからと言って、わざわざ齟齬を生む必要もない、か。
悪役として如何なる風聞も厭わぬ所存ではあるが、こちらに好意的な者を無碍に扱っては悪役ではなく悪人だ。その線引きだけは誤ってはならないと己は思う。午後には人と会う約束もあることだし、少しは落ち着いた時間を得ても罰は当たるまい。ただ、素直に折れると今後も押し通そうとされる可能性はあるので反撃として、
「……このネタの為だけに温めの麺つゆを用意したのではなくて正直安堵しているよ」
「さすがにそこまで手の込んだ悪戯はしませんよ。ただ、ゲーム開発部やアビドスの皆さんがいなくて幸いでした。──間違いなく真似して悪乗りするので」
そこまで計算しての実行なら何も言うまい。実害のない茶目っ気を咎めるつもりはないし、良い息抜きになったのも事実だ。なので苦笑と共に腰を上げ、ゆっくりと足を進めなが己は言う。
「折角生塩君が振る舞ってくれるのだ、少し多めに頂くとしよう」
「はい。夕食の作り置きも兼ねて沢山茹でておきましたので、好きなだけ召し上がってください」
それはそれで粗食ではなかろうか。食事抜きより遥かにマシだが。
……聖園君は今夜外食ではなかったはずだし、冷やし中華風にアレンジするか。
ミカがいなかったら素麺のまま食べていただろう、と思う程度には自分に対して雑な自覚はある。
●
「お、遅くなりました……!!」
「おや、天童妹君? 暴動で電車が止まり遅れるという話ではなかったかね?」
「近場だったので途中で降りて走って来ました……。先生の時間を無駄にする訳にも行きませんから」
「そう息を切らしてまで急がなくても良いのだがね。ひとまず水分を取って落ち着くと良い」
「あ、ありがとうございま──、ってこれ麺つゆじゃないですか!!」
「ほう、匂いで気付くとはなかなか出来るね天童妹君。私より遥かに優秀だ」
「ふざけるのも大概にしてください!! 暑い中動き回って来た相手に麺つゆを出す馬鹿がどこにいますか!! ……あれ、ノア? 何で顔を逸らしているんですか?」
「いえ、改めて客観的に言われると地味にダメージが、こう」
「気にするな。私も気にせん。という訳でこの麺つゆは私が頂くとしよう。手ずから淹れた自慢の一品だったのだがね」
「い、要らないとは言ってません……!!」