シロコは足取りも軽く、シャーレの廊下を歩いていた。
肩に担っているのはいつものスクールバッグではなく、釣竿を収めた黒革のケース。手に提げたクーラーボックスには、本日の釣果が詰め込まれている。
朝釣りの帰りだ。
リゾートでの一件以降趣味入りした釣りだが、アビドスから海までは距離がある。運搬中に傷んではいけないので、一度シャーレに寄って下処理を済ませるのが習わしだ。先生や自称部員へのお裾分けになるし、場合によっては冷蔵保管もしてもらえてお得。
……肉厚な個体が多かったし、鮮度の落ちない内に刺身かなめろうか、もしくはストレートにアジフライ……。
先生の不規則生活や夏前であることを鑑みると、後者の方が良いかもしれない。ん、と頷き一つと共に、執務室の扉を押し開け、
「先生、今日はアジが沢山釣れた。フライにすると美味しいと思──」
口にした言葉は、尻すぼみに消えて行った。
珍しいことに、デスク周りが慌ただしくなっていたからだ。
「今言っても詮方ないことだろうが、ミレニアムですら決裁書類が完全電子化していないのは縛りプレイか何かかね?」
「内部資料ならともかく対外的なやり取りではそうも行きませんから。紙ベースが手間過ぎるというのは同意ですけどね……!!」
「二人共、気持ちは分かりますけど制度の不備を愚痴ったところで、現状の解決にはなりませんよ!!」
デスクに向き合い作業中の先生とユウカ、そしてファイルの山を抱えて運搬中のケイ。構図自体はよくあるものだが、普段の緩い雰囲気ではない。何事だろうかと、ひとまず近付いて行くとユウカが顔を上げ、
「あ、シロコ。……また大量に釣って来たわね」
「ん、今日は早めに切り上げたから二十匹くらい」
「ほほう、なかなか良い感じだね砂狼君。ご覧の有様なので手伝いは出来ないが、いつも通り厨房は自由に使ってくれて構わないよ」
「ありがとう、先生。大変そうだし、今日の釣果持って行く? 釣り立てだし精も付くはず」
「……軽く十人分はあるじゃないですか」
半目で零しつつ、ケイが傍らに立った。ファイルの代わりに盆を抱えた彼女は、麦茶の注がれたグラスを配って行く。こちらにも手渡されたので一礼し、冷えた液体を一気に呷った。その優秀さは相変わらずだが、彼女の姉とも妹とも言える少女や部員達の姿は見えず、
「一人? 珍しいね」
「ええ、まあ、ちょっと面倒なことになりまして」
肩を竦めつつグラスを置くケイに会釈を送り、こちらを一瞥したユウカが端的に告げる。
「昨日締め切りのミレニアムの書類がまだ終わってないのよ」
シロコの手からクーラーボックスが滑り落ちた。
重い音が響くがそれどころではない。大股で先生に駆け寄り、腕を掴み引いて、
「先生が締め切りを破るなんて異常事態。即刻入院すべき」
「落ち着いてくださいシロコ。全く以て度し難いことに先生は正常です。……自分で言ってて違和感しかありませんねコレ」
「今しれっと私の人間性が否定されなかったかね?」
全員無視した。
嘘泣きを始めた大人を追加で無視し、ユウカが先生の手元から書類を回収。セミナー名義の判を押しつつ、
「先週あまりにも忙しくて、代わりにシャーレまで書類を持って行ってもらったのよ、──コユキに」
「……もうオチが見えた気がする」
ええ、とユウカから受け取った書類をファイルに収めたケイが口を横に開いた。
「尋問によるとシャーレまで持っては来たものの、先生が新作のボードゲーム開封の真っ最中で、テンション上がって放り出したそうで。つい先程棚の下から発掘されました。下手人は現在進行形でノアが説教中です」
「……またノアにトラウマを抱えそう」
「自業自得でしょう」
その通り過ぎるのでシロコもそれ以上は触れないことにした。ともあれコユキのやらかしによる皺寄せが先生に行ったのは理解したが、
「どうしてセミナーでもないケイまで?」
あー……、とユウカが気まずそうに視線を逸らした。対しケイは「気にするな」と言うように手の平を前後に振って、
「先生は元々、今日はゲーム開発部へ訪問する予定でした。アリス達も納得の上でこちらを優先としましたが、ではまた後日、で済ませるような大人ではないでしょう? どうせまた無理をするだろうと思って、仕方なく手伝いに来ました」
つまりはアリスの為という体で先生を心配して来た訳か。相変わらず芸術的なまでのツンデレっぷりは、セリカと比べても遜色ない。色合いも白と黒で対になっているし、先生と三人にしたら愉快な化学反応を起こしそうだ。今度ホシノやモモイに相談しよう。
内心でそう決めるシロコの眼前、吐息と共にユウカがグラスを手に取る。そのままケイを見上げると苦笑し、
「ホント、アリスちゃん達には悪いことをしたわ。その内埋め合わせにお菓子の詰め合わせセットでも持って行こうかしら」
「あ、でしたら甘過ぎないものをお願いします。何かと不健康な生活をしがちなので、虫歯のリスクは少しでも減らさないと」
「君達実は子持ちの主婦だったりしないかね? 会話の内容が井戸端会議のそれなのだが」
ユウカとケイが温度のない目を向けるとキチガイが黙った。うん、好意を抱いている相手にその振りはさすがに良くないと思う。指摘自体は真っ当だけど。ただ、
……気のせいじゃない、よね?
改めてこの二人を前にして、気付いた事実が一つある。
●
「さて、息抜きも出来たし頑張りましょうか。先生も、もう少しだけお願いしますね?」
「気にすることはないよ早瀬君。行き違いからのスケジュール破綻などよくあることだ。期日はともかく内容の方も、さほど手間なものではないようだからね」
「いえ先生の実務能力の高さは知ってますけど。そうじゃなくて体調面の話です。また徹夜したってホシノ先輩から聞いてるんですからね? 無理はせずもっとご自分の身体を大事に──」
「はははこの程度で無理などちゃんちゃらおかしいね。全身血達磨でもなければ大気圏から自由落下している訳でもないのに」
「張り倒しますよ」
「──さて、天童妹君がマジ顔でシャドーツッパリを始める前に再開しようか」
「しませんよそんなこと!! また先生はそうやって煙に巻いて……!!」
「落ち着いてケイちゃん、一々反応してたらそれこそ先生の術中よ。手早く片付けて、アリスちゃん達と合流して、終わったらベットに叩き込む。これで完璧」
「その方が良さそうですね……。言って聞くなら苦労しないですし、最悪縛ってでも休ませましょうか」
「おやおや流れるように私の生活が管理されている上に人権が迷子だよ?」
やかましい、とステレオで返しつつ嘆息。コレさえなければどこに出しても恥ずかしくない人格者なのになあ、と心中で零しつつ。再度グラスを手に取ったユウカは、ふとシロコがこちらを見ていることに気付く。目を眇め、何かを確かめるような眼差しの彼女に、何となく気圧される感を得つつ、
「……どうかしたの?」
いや、と首を傾げたシロコが、一拍置いてケイを見た。困惑する彼女を見て、やがて一つ頷いたシロコがしみじみと零したのは、
「……ユウカが倍に増えた」
思わず麦茶を噴いた。
●
「だ、大丈夫ですかユウカ!?」
盛大にむせたユウカにケイが駆け寄り、ハンカチを渡しつつ背中をさする。受け取った白布で口元を拭い、息を整えたユウカは勢い良く立ち上がって、
「ちょ、ちょっとシロコ!! どういう意味よそれ!?」
「どうも何も言葉通りの意味」
頷く。
「口では小言を言いながらその実ダダ甘なところとか、頼まれると断れないというかそもそも断るという選択肢がないところとか、頼むまでもなく身の回りの世話までするところとか」
「事細かに列挙しなくていいわよ……!!」
「というか私そんなんじゃありません……!!」
ケイの反論が来た。彼女は立てた指でこちらを指差すと、
「何ですかその「先生のことが好きで好きでしょうがないけどそれを素直に表に出せない」みたいな人物像!!」
「……私、そこまで言ってない」
「え? ……あ──!?」
自爆したことに気付いたケイがワンテンポ遅れて絶叫した。沸騰、という表現そのもののように顔を赤くした彼女は両の拳を握って言う。
「ち、違います!! 違いますからね!! ユウカじゃないんですから!! 別に私、先生のことなんてこれっぽっちも……!!」
「何でそこで私を引き合いに出すのよ!?」
飛び火を食らったユウカが堪らずツッコむが、一度火が付いたケイは止まらない。眉を立てた彼女は身体ごとユウカへ向き直り、
「わ、私知ってるんですよ!! 晄輪大祭の後夜祭で先生をフォークダンスに誘ったの!!」
「ぅわあ──!?」
ユウカが叫んだ。誤魔化すように大きく手を振りつつ、頬も赤く動揺を隠せぬまま、
「どどどどどどこでそれを!? 当時ケイちゃんいなかったはずでしょ!?」
「新参とはいえシャーレの役職持ちです、シャーレが関わった案件全てに目を通すのは当然でしょう!? ただでさえこの大人は危険なことにホイホイ首突っ込みますし!!」
「な、何て過保護な……!!」
どっちもどっち、シロコは零したが聞いちゃいない。代わりにユウカがケイを指差し、
「というかケイちゃんだって第五特務補佐に任命された時、泣きながら先生に抱き着いてたらしいじゃない!!」
「ぅわあ──!?」
ケイが叫んだ。誤魔化すように大きく手を振りつつ、頬も赤く動揺を隠せぬまま、
「ななななな何でそれを!? というかアレには複雑な事情がありまして!!」
「アリスちゃんが「ケイと先生が仲良しで嬉しいです」って満面の笑みで教えてくれたわよ? それはそれとして、ふぅん……、説明が必要な事情があったんだあ……、へぇ……」
「アリスぅ──!!」
天丼ネタ? とシロコは零したが聞いちゃいない。このまま延々ヒートアップして行くかと思われたが、次いでの声は異なる場所から挙がった。それは腹を抱え、デスクに突っ伏し、肩を震わせた先生の、
「っふ、くく……、まさかあの馬鹿共と縁も所縁もないこの場所で、ここまで完璧な共食いが見られるとはね……!!」
マジウケしている馬鹿を見てさすがに冷めたのか、ユウカとケイが躊躇いなく半目を向けた。壮絶な自爆合戦による焦土化は避けられた自覚があるのかないのか。いや、まあ、コレを前にしたら気付いていても手刀を叩き込みそうではあるけれども。ともあれ二人が拳を鳴らしつつ踏み出そうとした瞬間、ようやく身を起こした馬鹿は目尻に涙すら浮かべながら、
「い、いやすまない、言い得て妙というか、これ以上なく的確な例えだったものでね。……お気に召さないならデュアルカーチャンシステムとか、どうかね!?」
ダブルで手刀が打ち込まれ、馬鹿が椅子から転げ落ちた。
●
身を起こし、スーツの裾を叩き埃を払いながら先生がしみじみと言った。
「……どうにも最近、生徒達から物理的なツッコミに対する躊躇がなくなった気がするね……」
「自分の所業を顧みてから言ってください」
容赦なく切り捨てたユウカの台詞に、先生が一瞬動きを止める。ややあって、真顔でこちらに振り向くと、
「……砂狼君、私は何か悪いことをしただろうか」
「ん、先生は悪くない。二人が墓穴を掘り合っただけ」
「そもそもの発端にだけは言われたくないですよ……!!」
まあまあ、と先生と共にケイを宥めておく。気の立った猫のようだった呼吸もやがて落ち着き、深い溜め息と共に肩を落とした。先のやり取りで放り出し、散らばってしまった書類を重力制御で掻き集め、恨めしげな視線を先生に向ける。
「……全く、馬鹿なやり取りで時間を無駄にしてしまったじゃないですか。アリス達を待たせているんですから、もっと真剣に仕事を──」
「終わったよ?」
え? とユウカとケイの声がシンクロした。視線を向けた先、束ねた書類をクリアファイルに収めた先生は事も無げに、
「君達が仲良く殴り合っている間に終わらせておいた。早瀬君のチェックが必要なものもあるが、まあ概ね問題ないだろう」
言って、気軽な動きでユウカの眼前にファイルを置いた。呆気に取られている二人をよそに、先生は軽く屈伸すると、
「さて、これで心置きなくゲーム開発部に遊びに行けるね。待っていたまえ皆の衆……!!」
そう言い残し、ダッシュで去って行った。手を振って見送っていると、ようやく我に返ったケイが慌てて後を追う。
「ま、待ちなさい先生!! ほぼ私有地とはいえ建物の中で走らない!! 誰かとぶつかったりしたらどうするんですか!!」
バッグとレールガンを掻っ攫うように拾って駆け出すケイに続き、ユウカも席を立ち荷物を纏める。スマホと書類片手にどこかへ連絡を飛ばしつつ、
「ちょ、ちょっと先生!! まだチェックしてないんですから終わりじゃないですよ!! 不備があったらやり直しなんですからね!?」
と、慌ただしく走って行く後ろ姿を見て、シロコは振りっぱなしだった手を下ろす。うんうん、と頷きを作り、
「やっぱり似た者同士」
零し、空になったグラスを載せた盆とクーラーボックスを手にしたシロコも執務室を後にした。