シロコは、シャーレ執務室に繋がる廊下を歩いていた。
日が沈み、街中の明かりが空を照らし始めた頃。仕事でD.U.外縁まで出動した、その帰りだ。
現地での事後対応も終わった為、シャーレへと戻って来ている。本来であればアビドスに帰還しているところだが、
……今日は先生、いないんだっけ。
最近はゲヘナで色々とあったらしく、現地へ出向くことが増えた。その為最近の執務室は、先生不在で生徒の溜まり場となっていることが多い。
元はといえばそういった先生不在時の混乱や、事件の対処に当たる為の総長連合・生徒会だ。総長のヒナが不在の今、生徒会長代理である己や生徒会長のシロコ、副会長のホシノや副長のミカがその辺りを取り纏めている。ユウカやノアの補佐もあって、今のところ大きな問題は起きていない。
……先生がいなくなると全て崩れる弱点へのカウンターとして始まった制度みたいだけど、上手く行ってるみたいだね。
自分の世界と同じ結末を辿る心配が減って、知らず安堵の吐息が漏れる。先生を単独にしないことは役職持ちに置ける暗黙の了解だが、四六時中一緒という訳にも行かない。有事に即応可能な自分やミヤコ、ワカモがいるにしても、それとて万全ではないのだ。地下生活者のような干渉も起こり得るし、備えるに越したことはないだろう。
……考えすぎなくていい、って先生は言ってくれるけど。
言うだけの結果を残しているし、いるだけで安心感が段違いなのは確かだ。だが、かつてそう思っていた自分は、それが通じなかった未来を知っている。
無闇に言い触らして不安を煽るつもりはない。それでも、何かしていないと落ち着かない自分がいる。失われてしまってからでは遅いのだし、あんな思いはもう二度としたくないから。
ふと、昔のことを思い出す。
自分一人になってしまった対策委員会居室。日の昇る前から部屋を出て、夜更けに帰って来ては無人の室内に倒れ込むように眠って。食事も取らず、傷の手当てもせず、壊れて行く己に見ない振りをして、使命感と義務感だけで無理矢理に身体を動かして。
一瞬、足を止めそうになった。
理由は単純だ。一人夜の廊下を歩くという近似のシチュエーションに、かつての怖れを思い出したから。錯覚だと分かっていても、笑って跳ね除けるにはちょっとヘビー過ぎる。
大丈夫、とシロコは己に言い聞かせる。
もはや視界の中央、五歩と満たない距離に執務室の扉がある。隙間からは明かりが漏れていて、誰かが動き回っているのか影によって度々遮られるのが見えているのだ。無人ではなく、確実に誰かがいる。
大丈夫、と再度の言葉を心中に落とし、緩み掛けていた歩みを再開した。
誰がいるだろう。ホシノはアビドスの夜警に向かったからここにいない。生徒会としてユウカかノアに、特務の誰かといったところだろうか。ミカとサオリはそれぞれの自治区に向かっているからそのはず。
正直に言ってしまえば、誰がいてもあまり変わらないのだが。
自分はあまり人付き合いの良い方ではない。仕事柄シャーレの役職持ちと言葉を交わす機会はあっても、雑談まで含めれば大抵は聞き役か傍観者だ。先生という共通の接点があるならともかく、アビドスの面々がいない場合、一度も口を開かないということも珍しくない。
元より自分はこの世界の外様。こちらの自分とは辿った経緯も細部が異なり、アビドス外の交友関係は皆無に等しい。加えて世界が違うとなれば、友人はいないも同然だ。
だが、別に悲観する必要はない。
元の世界において、いなくなってしまった皆。しかしこの世界においてはいなくなっておらず、日々を謳歌している。
無人の荒れ果てた世界ではなく、人々の営みがある生きた世界だ。
あの静けさと空虚さに比べれば、孤独を感じられるだけ幸いだろう。
賑やかさがなければ、独りであるということの意味すら分からないのだから。
エキストラのように、その喧騒に浸っていられるだけでも十分。
そんな後ろ向きの安堵を胸に、シロコは扉を開けた。主は不在だが、それでも挨拶として、
「……ただいま」
「おかえりなさい、シロコちゃん」
予想していなかった人物の応答に、シロコは思わず動きを止めた。
●
セリナとしては、もう一人のシロコについて色々と気掛かりを得ていたのだ。
顔を合わせたのはシェマタ事変、「シャーレへの医療物資配送依頼について、受け取り場所の指定はされていない」という先生の仕込みによってアビドス砂漠に駆け付けた時のこと。轟雷そのものと言っていい神威の具現を前に、肩を並べ共に戦ったのが始まりだ。
元よりアビドスとはホシノ救出時、先生のぶっつけ本番ワイヤーバンジーによってチャーシューみたいになった腕の治療に当たってからの付き合いだ。改めて振り返ると何言ってるか大概分からんが事実なのでどうしようもないとして、同学年・同身長という接点のあったシロコとは以後も度々交流があり、シャーレの活動体制が整ってからはほとんど毎日顔を合わせてもいる。
そんな彼女のもう一つの未来と聞けば、気にならないはずもない。
物静かというか、一線を引いたような立ち位置にいるもう一人のシロコだが、こちらは医療従事者なのだ。声を掛ける大義名分はある。故に一つ年上になってしまった彼女にも物怖じすることなく、
「お疲れ様です。遅くまで大変でしたね」
「あ、おかえりシロコ。ヴァルキューレの援護で暴走族の鎮圧って話だったけど、作戦完了ってことで良いのかしら?」
医療品の目録を作っていた手を止め、ユウカ共々声を送る。だが、当のシロコは呆けたように、動きを完全に止めてしまっていて、
「……シロコ?」
「……あ、う、うん。カンナに全員引き渡したからおしまい」
「そ。言うまでもないと思うけど、報告書仕上げるまでがシャーレの仕事だから忘れない内に済ませときなさい。時間が経つと細かいところ忘れがちだし」
苦笑するユウカにおずおずと頷きシロコがこちら側、デスクの方へと近付いて来る。どことなく動きにぎこちないものを感じるのは、自分達に不慣れというころか。嫌われてはいないだろうと、そう思いたいところだが、
……なかなか難しいですよね……。
こちらは向こうを知っているが、向こうはこちらを知らないのだ。時たま見せるスッ飛んだ部分はこちらのシロコそのままだが、彼女へのハードなツッコミや塩対応は長い付き合いあってのもの。同じノリで接する訳にも行くまい。特に常識人のユウカは手刀で諫めようとして慌てて手を止めるところをよく見る辺り、心底慣れとは恐ろしい。
こちらに出来ることはあまり気負わず、フツーに接するくらいだろう。
……良いタイミングですし、そろそろ一息入れましょうか。
思考を切り替え、ペンを置いたセリナは席を立った。時間も時間だし、ユウカが淹れてくれたコーヒーも既にないのだ。先生が作り置きして行った夜食用のポタージュでも出せば、話のネタになるかもしれない。そう思い、シロコもどうかと聞く為に視線を向け、
「……って、シロコちゃん怪我してるじゃないですか!!」
「え……?」
言われ初めて気付いたように、シロコがセリナの視線を追った。
右手の甲、擦過の傷から薄く血が滲んでいる。見たところ銃弾によるものではないことと、当人に自覚がなかったということは、知らずどこかに引っ掛けたか。痛みもなかったということは大した負傷ではないようだが、
「すぐに治療しますから、こっち、座って待っててください」
「で、でもこのくらいの傷なら別に──」
「いけません」
辞退しようとするシロコの言葉を断ち切ったのは、書類の山を縫うようにして顔を突き出したミヤコだった。浅く眉を立てた真剣な表情の彼女は、手にしたままのボールペンでシロコの右手を指差すと、
「軽い負傷と侮った結果、傷口から菌が入り込んで重症化する例はいくらでもあります。きちんと手当てをしておくことが肝要ですし、治療をしない理由もありません」
さすがはSRT、自己管理の意識が高い。事実、生徒会長代理というポジションであるもう一人のシロコは、先生やシロコ、ヒナに次ぐ上役として色々と受け持っている部分が多い。体調不良で長期離脱でもされれば、他の面々にも負担が掛かる。
……その辺りの調整で苦労するのは、情報系や警備を扱うミヤコちゃんですからね……。
無論本心からの心配もあるだろうが、理詰めで説き伏せに掛かるのが彼女らしい。そんな気迫に押されたのか、あるいは戸惑いが抜け切っていないだけか、ともあれ言葉を止めたシロコの手を引き座らせる。
常備している救急箱から消毒液と脱脂綿、ピンセットを手に取った。このくらいなら救護騎士団の活動で慣れたもの。ピンセットで摘まんだ脱脂綿に消毒液を染み込ませ、
「少し沁みるかもしれませんけど、我慢してくださいね」
と、一言告げてからゆっくりと触れる。血を吸った脱脂綿が鈍い赤に染まって行くが、傷口から追加の赤は滲んで来ない。軽く拭い、乾いた部分で水気を取って、あとは絆創膏を貼ってやれば、
「……はい、もう大丈夫ですよ。思った以上に軽傷でしたし、明日の朝には剥がして大丈夫ですからね」
笑みで言うが、やはりシロコの反応はどこか薄い。絆創膏の貼られた右手を、静かにじっと眺めている。礼が欲しくてやった訳でもないが、ここまでリアクションがないとさすがに戸惑いが勝って来る。横目に見ればユウカやミヤコも同様なのか、眉を寄せ首を傾げていて、
「たーだいまー」
不意に勢い良く扉が開かれ、そんな声が室内に響いた。
全員揃って振り向いた先、風呂上がりの浴衣姿で、髪を湿らせ頬を赤くしたのは、
「シグレちゃんですか……、ビックリしました」
「あー、ごめんごめん。大きいお風呂に浸かって飲んでたからちょっとテンション高めでねー」
悪びれもせず笑ったシグレが、シロコの存在に気が付いた。お、と眉を上げた彼女は、すぐに崩れた笑みで寄って行き、
「おー、お疲れシロコちゃん。段々冷えて来たけど外寒くなかった? コーヒー牛乳あるけど飲む?」
と、有無を言わせず牛乳瓶を握らせる。薄茶の液体が詰まった瓶は未開封で、しかし彼女が手にしている白のもう一本は既に半ばまで量を減らしていた。それを見たユウカが、口を横に開きつつ、
「……ヤバいもの入ってないでしょうね?」
「だいじょーぶだいじょーぶ、そっちはフツーのコーヒー牛乳だよー」
「……そっち「は」?」
セリナのツッコミに、ユウカの視線が冷えた。が、瓶を握ったままのシグレは逆の手の平をユウカに向け、
「おーっと言いたいことは分かるよー? ところがどっこい、ドリンク類の開発は先生も絡んでるからラベルも成分表示もないんだなこれが。つまり今私が飲んでるこれを実際に味わう以外証明のしようがないんだけど、ユウカちゃんどうする? 間接キス行っとく? やだーユウカちゃんのえっちー」
「……すみません、公序良俗に反するという名目で拘束した方がいいでしょうか」
やれ、とユウカが半目で手を振るとミヤコが浅く身構えながら距離を詰め始めてシグレが笑みのまま高速でバックダッシュした。そのままデスクの周りを五周程回って、
「全く……、身内から逮捕者出たらどうするのよ。曲がりなりにもシャーレ古参なんだからもう少し節度を持ちなさい」
「いやあ、爆破やら何やら起こしてる第三・第四特務に比べれば全然大人しいと思うけどねえ。ユウカちゃんのとこもエンジニア部やらヴェリタスやら、色々と噂は聞いてるよー?」
「ぐ、耳の痛いことを言ってくれるわね……!!」
「というか身内が逮捕云々を言い出すと、ノリノリで自分から収監されに行っている先生の時点でダメのような……」
「以前引き取りに行った際、面会手続きが面倒だから手っ取り早く捕まってみた、と臆面もなく笑顔で言い切られましたね……」
ユウカが耳を塞いで顔を背けた。ミヤコも頭を抱えてデスクに突っ伏し、しかしシグレは瓶の中身を呷りつつ、
「ま、あの人らしいけどね。もうちょっと外聞気にした方が良いとは思うけどさ」
「言って聞くなら苦労しないわよ……!!」
説得力しかないからどうしたものか。
嘆息したユウカが肩を落とし、立ち上がる。軽く伸びをして、肩を回し、
「まあ、その得体の知れないコーヒー牛乳の処遇は任せるとして、一旦休憩にしましょうか」
「えーユウカちゃんひどーい。シロコちゃん、持ち帰りでも良いからちゃんと飲んでねー、力作だから」
ユウカとミヤコが半目を向けるとシグレが黙った。ともかく、と咳払いと共に前置きしたユウカがシロコに向き直り、
「夜番への夜食、って先生がいくつか作り置きして行ったから、一緒にどう? 南瓜のポタージュなら温まるし、身体に良さそうだから夜食の罪悪感もあんまりないと思うけど」
「あ、私も同じこと考えてました。美味しいですよね、アレ」
「ハロウィンパーティーで出す為の試作と聞いていますが、今のままでも十分美味しいですよね……」
「本人不満そうだったけどねー。とろみの黄金比が見付からん……!! って」
「またムキになってますね……。って、あれ?」
苦笑し、シロコの方を見たセリナは、遅れてそれに気付いた。
目を細めたシロコが、眩しそうに自分達を見ていることに、だ。
●
……子は親に似るとは言うけど、この子も大概先生と似たタイプよね……。
心中で苦笑を零しつつ、ユウカは目の前の相手を改めて見た。
泣くのを堪えているような、しかし哀ではなく喜の感情によって作られる微笑。そうやって浮かんだ笑みは、己にも覚えがある。
色彩戦や鋼鉄大陸攻略戦の後、無事に帰って来た大人を見た時。失われたかもしれないと思っていたものが、しかしそうではなかったという事実から生まれる嬉しさの笑みだ。
彼女からすれば、この世界のどこにでもそれがあるだろう。だから良かったと、安堵の笑みを零す姿は、これまでも幾度か見掛けている。
だが、そこに自身も含まれるのであれば、話は別だ。
仲間を失い、世界を滅ぼし、それ故に自己嫌悪というか、自分を低く見積もり過ぎている。知己であるアビドスの面々以外、率先して自分に関わろうとする相手もいないだろう、と。
妹の一件から、自分の能はともかく人格や人間性について最低クラスと自認している節のある先生と、変なところでそっくりだ。あの大人はエクストリーム入ったキチガイなので一概に否定しきれないのが難だが、本当にそれだけの人間であれば生徒達が慕うはずもない。身を切るようなやり方も厭わず、生徒の助けになろうとする信念は間違いなく本物だ。
それは、反転したホシノのヘイローを破壊してでも止めようとした彼女と通じる部分がある。
恨まれようとも、疎まれようとも、成さなければならないことがあるなら躊躇わない。そしてそれはこの世界にとっての異分子たる己が担うべきであり、住人達にその咎は背負わせない。
馬鹿な子だわ、とユウカは思う。
突拍子もない行動から勘違いしがちだが、それは彼女の優しさだ。身内を大事に思うが故に、どんな無茶も躊躇わない。
馬鹿ね。
貴女が目標とする人も、大概無茶だし背負いがちだけど、すぐに周りを頼るじゃない。
頭は回るし、果断で不敵で、だけど彼女は戦う力を持たないのだ。実力行使という手段を取る場合、ほとんど何の役にも立たないと言って良い。
それを理解しているから、彼女は自分達に頼ることに迷いがない。
大義名分は必ず立てるし、同意を得ることが前提ではあるが、あの大人はもはや生徒達を巻き込むことを恐れない。頼らず、独りで解決を図り、結果己が失われるようなことになれば、沢山の子供達が哀しむと理解しているから。
それは先生と生徒の間に限らず、生徒同士や、来訪者であるシロコにとっても同じことだ。
経歴がどうであろうとも、生徒であるならばシャーレにおいては不問。そのルールがある以上、指名手配されている便利屋や美食研、エデン条約で爪痕を残したミカやサオリ、七囚人たるワカモでさえただの子供。
ならばこのシロコとて、同様の存在でしかない。
擦れ違えば挨拶を交わし、度が過ぎたボケにはハードなツッコミもして、書類の山に頭を抱えたり、肩を並べて戦場を共にしたり。面倒な諸々が終われば打ち上げで騒ぎ、泊まりで話し込んだり、行き付けの喫茶店でお茶する約束をしてみたり。一日を終え、ベッドに潜り込んで、明日もまたこんな馬鹿騒ぎするんだろうなと、期待を胸に眠りに就く。
そういうありふれた、どこにでもある普通の日常に、彼女だけが含まれないなんてことはないのだ。
その辺り、先生を間近で見て来たこっちのシロコはよく分かっている。仮に今彼女がこの場にいたら、間違いなく張り倒しているだろう。幸せになることを否定するな、と。
……まあこの子の場合、アビドスが世界の全てみたいな生活だったし、その辺の線引きが上手く出来てないってのはありそうだけど。
自分達とのやり取りで、対策委員会の皆だけが自分の全てじゃないと、遅まきながら理解したか。染み付いた考えを即座に変えるのは難しいが、価値観とは時間と共に移ろって行くものでもある。この分ならそう遠くない内に、学外の友人と談笑しているシロコが見れるようになるだろう。
世界が違っても手の掛かるところは一緒だわ、と再度の苦笑。放っておくという選択肢が微塵もないのがどうしようもないが、そこはセリナやミヤコ達も同じだろう。シグレとて先程は微妙な空気を察して、わざとボケに走っていた節もある。素と言われても否定出来ないのが嫌な現実だが。
ともあれ、受け入れる側の用意は出来ているのだ。先生も対策委員会も同様。ならばあとは踏み込む側の心持ち次第。
いつでも手を取れるよう、伸ばして待ち続けるだけだ。
「で、どうする? 疲れてるなら先にお風呂でも良いけど」
「え、ユウカちゃん背中流してくれるの? うーん、こりゃもう一回お風呂タイムかなあ」
ノールックでアイアンクローを叩き込んだ。
「あ、ちょ、痛い痛い痛い頭蓋ミシミシ言ってる」
「失礼ね、そこまで馬鹿力じゃないわよ。副長クラスには到底及ばないただの会計だし」
「役職持ちの時点で十分常人離れあだだだだごめんごめんタップタップ」
「……SRTで訓練を受けた私から見ても見事な極まり具合に見えますが、どこかで師事を?」
「不本意なことにコユキやらモモイやら叱る相手のバーゲンセール状態だから自然とね……」
「き、気を落とさないでくださいっ、ユウカちゃんの面倒見が良いことは皆知ってますからっ」
「……ふふ」
セリナに宥められつつ黄昏れていたが、不意に聞こえた笑い声に視線を戻す。口元に手を当て笑みを零していたシロコが、目尻に淡く浮いた雫を拭いながら、
「ごめん、別に悪気があった訳じゃない」
ただ、
「……昔、似たような光景を見た気がして」
「昔、じゃないでしょ」
こちらのホールドを剥がしたシグレが、着崩れた浴衣を直しつつ口を開いた。
「結局、人間楽な方に流れるんだしさ。良いな、と思う方向に行けば良いんだよ。それが流れか踏み出しかはその時々だろうけど──」
肩を竦め、苦笑交じりにこう言った。
「良いな、と思えたなら、間違いじゃないよね」
●
そっか、とシロコは頷いた。
「そうだね」
腑に落ちた、とはこういうことだろうか。シグレの言葉が、驚く程に自分の内側へと収まった気がする。
確かに自分は外様で、来訪者で、この世界にとっては異分子で。
だけどそれも結局は個性の一つに過ぎず、周りを見ればもっと強烈な生徒もゴロゴロいるのだ。
この場に限っても激甘カーチャン会計と神出鬼没ナース、ミリタリーしっとりウサギに酔っ払いオコジョと相当な面々で。
ならば自他を無闇に区別し、身を引くだけ無駄だろう。
何よりこんな変人連中の親玉からして、大人で悪役なエクストリームキチガイだ。仮にこの場に彼女がいれば、果たしてどんなリアクションをするだろうか。
「おやおや外様で来訪者なら私もそうだよ? 加えて大人なので異分子ポイントは私の圧勝だね? 出直して来たまえ」
あまりにも想像が容易で笑ってしまった。凄く言いそうというか解像度の高い辺りがどうしようもないが、そういう付き合いだ。開き直るしかあるまい。
開き直り。今の己に最も必要な要素かもしれないと、そんなことをシロコは思う。
無人の暗い室内はもはやない。こっちがナーバスだろうが何だろうが、明かりを絶やさずギャーギャー共食いしている連中がいるのだ。眺めているだけで幸いなら、自ら混じって行けば更に上の幸せもあるだろう。
そんな一歩を、ここから踏み出そう。
だからそれに気付かせてくれた、
「ユウカ、セリナ、ミヤコ、シグレ」
そして彼女達に繋いでくれた、あの大人の印象的な言葉を借りて。
「──ありがとう」
●
『おや、早瀬君? どうしたのかねこんな夜更けに。……まさか厳重に隠しておいた』
「戻って来てから超叱るので覚悟しておいてください。って、そうじゃなくてですね。それとは別で、その……、非常に言いにくいのですが」
『ふむ? 早瀬君が言い淀むとは珍しい。まあ気にせずドンと来たまえ。並大抵のことでは動じぬよ?』
「じゃあお言葉に甘えてぶっちゃけるけど、いつメンで女子会してたらお茶菓子摘まむ手が止まらなくてねー。先生が作り置きしてたラングドシャ、全部食べちゃった。てへ」
『ああ、それなら問題あるまい。切らした時の為のストック分がキッチンにある。間宵君なら所在も知って──』
「あーいやいや、その予備分含めて、全部」
『……明日は黒舘君が来訪予定だったな。──刺されないようにしたまえよ?』
「……防刃ジャケットは人数分あったでしょうか」
「マジトーンで言うのやめなさいよ!!」
「ん、問題ない。話し合いで解決しなかったら張り倒す」
「……今、一瞬で物凄い安心感が生じたね」
「お、穏便に行きましょうシロコちゃん!! シグレちゃんも煽っちゃダメです!!」
「……と、現状シャーレはこんな感じですので、場合によっては更に暴飲暴食の爪痕が増える可能性があります」
『ゲヘナ帰りの仕事の一発目が菓子作りになりそうな盛り上がりっぷりだね。まああまり気にせずダベると良い』
「先生」
『?』
「──ありがとう」
『礼を言われる理由は皆目見当もつかないが、──無論である』