「先生って、会った頃から一貫して苗字呼びですよね」
本日の対策委員会としての活動を終え、帰宅するまでのダベり時間に移行した緩い空気の中。予てより思っていたその事実を、アヤネは何気なく口にした。
夕暮れの教室内。淹れ直した紅茶を配膳しつつ、言葉を送った先を見る。片手にスマホ、逆の手に魚偏の漢字が書かれまくった湯呑みを手にしているのは、黒のパンツスーツを纏った白い長髪の女性。シャーレの先生である葵・硝子という名の彼女は、何事かと言うように小首を傾げている。故に先に反応したのは、アヤネの言葉に同意したアビドスの面々で、
「結構な付き合いになるけど、ずっとそのままよね」
「他校の生徒さんでも、名前で呼んでいるところは見たことがないですね」
セリカとノノミのやり取りからも、アヤネと同様の疑念が見て取れた。
先生は自分達に対し、何か気兼ねがあるのではないかと。
長いと言えば長く、短いと言えば短いが、密度で言えば間違いなく濃厚な時間を共にしている。それでも一向に名前で呼ばれることはなく、しかし普段の付き合いを考えると壁を作っているようには思えない。というか壁があったらセリカにマタタビや猫じゃらしを持って来たりノノミの膝枕に胸を載せて「胸塔先生」とかブチかましたりしない。それも自分達だけではなく、他の生徒に対してもそうであるなら、
……何か理由があるんでしょうか。
先生の過去については、以前に大体聞いている。だがその経歴を考えると、逆にもっと親密に接して来る方が自然ではないかとも思うのだ。あまり突っ込んだ話をするのもどうかと躊躇ったが、本当に嫌であれば明言するだろう。そのくらいの信頼と理解はある。だから雑談程度に、流そうと思えば流せるこの場で聞いてみたのだが、
「先生、この後親睦会を開催すべき。今夜はアビドスで夜通し女子会」
「提案そのものは魅力的だが君達と打ち解けていない訳ではないので安心したまえ」
強かにお泊り会の提案に持って行くシロコがさすが過ぎるが、先生は軽く流した。不満そうに頬を膨らませるシロコに座るよう促し、腕を組んだ先生は周囲を見回す。セリカやノノミだけでなく、机に伏していたホシノや先生を挟んでシロコを牽制していたもう一人のシロコまでが視線を向けていることを認め、
「まあ、別段伏せる理由もない。何を隠そうこの私、感情移入がかなり激しいタイプでね?」
「ああ……、はい……、それは物凄くよく分かってます……」
何しろ自分の依頼でアビドスに訪れた先生が、顔合わせと情報交換を行った際、自分達の事情を知った先生はまず泣いた。何を言うでもなく、いきなり涙を零したのだ。尊大な言葉遣いや風変わりな行動でキャラを掴みかねていたアヤネ達は困惑するしかなく、シロコの差し出したハンカチを受け取った先生はようやく、
「申し訳ない。私もこちらに来たばかりで立て込んでいたとはいえ、もっと早く来るべきだった」
自分がいればどうにか出来ていた。そうとも受け取れる言葉に、ホシノが一瞬眉をひそめていたが、幸い先生がそれを指摘することはなく。だが代わりにセリカが腕を組み、強がり混じりではあっただろうが、
「同情なら要らないわよ」
「同情ではない」
即応した先生の目は、ただただ真っ直ぐで。その青い瞳に吸い込まれそうな錯覚を得たのは、恐らくアヤネだけではあるまい。目元を拭い、ハンカチは洗って返すとシロコに伝えた彼女は、
「本来であれば私のような大人が手を回し、不備なく過ごせるように取り計らうべきだ。しかしそれは叶わず、それでも君達は何とかしようと努力を重ねて来た。同年代の子供達が本来得られていたはずの時間を、少なからず削ってまで。……それがただ哀しいのだ」
そう告げて、先生は深々と頭を下げた。
「遅くなったことを謝罪すると共に、これからは私も出来る範囲で全力を尽くそう。何かあれば気兼ねなく頼ってくれたまえ。──今までよく頑張った」
正直、最後の一言がかなり効いた。
口にこそ出さないものの、誰もが思っていたことだろう。法外な金額の返済など、自分達に出来るのだろうかと。
生徒は五人。周囲は砂だらけ。子供の力や考えなどたかが知れていて、それだけではどうにもならないものがある。
色々と案を出し、小規模ながら活動して。経過として楽しくはあったけど、結果としては十分と言えず、しかしそれをを認めてくれる大人がいた。
何も解決していないのに、それだけで十分報われた気がした。
言葉だけ見れば、誰だって建前で口にするような内容だ。だが涙を流し、頭を下げ、労いの言葉を掛けるこの人を、アヤネは信じることにした。
その信頼が間違いではなかったことは、後々証明されて行く。この直後のヘルメット団迎撃だったり、攫われたセリカの救助だったり、自ら人質になったホシノの奪還だったりと。だが兆候そのものは、翌日の時点で見えていた。何しろ緻密な大判の地図とタイムスケジュール表まで用意して来て、
「君達は少人数だが、同年代と比較して戦闘能力は高いようだ。なので闇金を潰して回って不当に集められた金を元の持ち主に返却。その実績を連邦生徒会から讃え感謝状と褒章という形で賞金を贈答されるのはどうだろうか。名前も売れて入学や転入を希望する者が出るかもしれん」
「お金目当てに人助けなんてダメに決まってるでしょ!!」
セリカの一喝で却下されたものの、ナチュラルに広義の銀行強盗を提案する辺りシロコと同類だとこの時点で気付くべきだったのだが、そこに思い至るのはもう少し先の話になる。当のシロコは素晴らしいものを見るような目で先生の持参した資料を検分していたが、以降銀行発言の頻度が増したのはこれが原因だろうか。
ともあれ先生のそういった親身さというか「味方として肩入れしたら絶対に裏切らない」というか、感情がかなり重いタイプなのは承知している。ええ、先日のホシノ先輩暴走の際なんてそれはもう本当に……。だが当たり前過ぎてすっかり馴染み、ついつい忘れがちであったその事実を、先の話と合わせて考えてみれば、
……あ。
思わず口に手を当て声を抑えるも、こちらの内心を見透かしてか先生が苦笑した。
「なので意識して「先生」としての一線を引いている、と言うべきか。私人として関わってしまうと自分でもどこまで行くか見当がつかなくてね」
やはりそういうことか。先生の答えに納得したのか、シロコ以外の面々も何とも言えない表情で視線を逸らした。先生とは対策委員会としての公的な付き合いとは別で、今のダベりのような集まりの時間や、個々人での私的な付き合いも当然ある。それらの時間の中で先生に、ありとあらゆる意味でしてやられたのは、一度や二度で済む話ではあるまい。それでもあくまで先生側は公的な立場を崩しておらず、それらが解禁されたらどうなるかというのは、ちょっと恐ろし過ぎて想像出来ない。
「仮に先生が先生としてじゃなく、個人として私達に関わるならどうするの?」
が、そんなことなど知らぬという肉食系がここに一人。無表情の中に真剣さが窺える視線でシロコが問うた先、先生は首を傾げた。そのまま宙を見上げ、ややあって視線を戻し、
「あまり深く考えず反射だけで答えるが、ゲージで言うと段階が七つ程あるね。初手からマックスで行くと有害指定されかねないので無難に低いレベルから行くとして──」
一体何をしでかすつもりだよ、という好奇心混じりのツッコミを全員が堪える中、先生が一つ頷いた。
「パッと思い付く範疇だと砂狼君に銀行のセキュリティホールを横流ししたり小鳥遊君を胸に埋めたままダラけた日常を送ったり黒見君のバイト先に数分置きで通って高い品を注文しまくったり十六夜君の買い物デートを二泊三日の小旅行にアップグレードして豪遊したりだろうか」
言って、先生が動きを止める。しかし何かに気付いたように、勢い良くこちらに振り向くと、
「いかん、奥空君だけ不公平だ!! さあ何なりと要望を言ってみたまえ!! 庭にプールと犬付きの豪邸くらいならば二時間で手配しよう!!」
「正気に戻ってくださあ──い!!」
「とまあこんな感じで、際限なく甘やかしてしまうのが目に見えているのでね。公私の区別はキッチリしておかねば君達の将来まで壊しかねん」
「とてもすごくよくわかりました……」
脱力して座り込みながら、何とはなしに周囲を窺う。そうして視界に入ったのは、予想通りのある意味地獄絵図だった。
ホシノは中毒症状を起こした患者のように、戦慄く己の両手に目を見開いていて。
ノノミは素早くスマホを操作し、デートスポットやホテルのプランを調査し計算。
セリカは電卓にバイト先のメニュー金額を打ち込み、齎される利益に軽く引いた。
シロコは愛用の銀行をメモした地図を広げているが、これは平常運行なのでパス。
……言葉一つでこの有り様ですか……。
有事の際に何度か見ているとはいえ、先生に話術や議論で挑むのは絶対にやめようと、アヤネは心に固く誓った。そんな一同に笑いを噛み殺しながら、先生がテーブルを指先で叩き注目を促す。
「本気度合い高めの前振りはさておき、今のは葵・硝子としての私的な理由だ。先生としての公的な理由は、やはり生徒との適切な距離感だね」
一息。
「私人としては君達アビドスの面々に相当肩入れしているし、君達の方も少なからず私を信頼してくれているだろう。が、それは互いに互いの事情や結束が通じているが故であり、何も知らない他人から見たら理解が及ばん。そんな姿を衆目に晒せば、アビドスに謂れなき被害が及ぶ可能性も否定出来ん。公的には「生徒全員の味方」であるはずの身が、特定の生徒や学園に肩入れしている、と」
アビドス一同は顔を見合わせ、やがて視線が一人に集中した。ホシノへと。そんな彼女は半目で先生を見つつ手を上げて、
「現状既に依怙贔屓してない? 美味しい仕事とか私的な依頼回しまくってるし」
「そこはシャーレ名義の正式な依頼という建前がある。アビドスの資金難に対し、シャーレを手伝う形で解決策を提示しているとね。事実アビドスは私がキヴォトスで最初に関わりを持った学園だし、少人数故に小回りが利く上戦力としても優秀、かつ比較的手が空いているので重用しやすいのだよ。便利屋も同様ではあるが、彼女達は騒動のせいで目を付けられがちだからね。が、君達を名前で呼ぶことは、依頼云々で正当性が示せない」
屁理屈の鬼……、という呟きが聞こえたが、誰もツッコミを入れなかった。意味がないからだ。無論先生もその範疇であり、彼女は苦笑を一つ零すと、
「こんなテキトー極まりない人間でも、困ったことに有名人だ。例え休暇や休憩という時間であっても、私の立場は私から離れてはくれん。他人の目が届かない自室ならまだしも、人目のある場所ではね」
「それは……」
冗談めかされてはいたものの、告げられた内容にアヤネは沈黙した。
アビドスとて相当に大変な状況だ。だがそんな自分達の面倒を見つつ、他の学園や生徒達まで目に掛ける先生ではあるが、果たして彼女が「先生」でなくなる時間はあるのだろうか、と。
対策委員会は、あくまで生徒だ。放課後になれば街へ繰り出したり、夜には家に帰って私的な時間を持つ。寝て、起きて、登校して下校したらまた自分の時間の始まりだ。
だが、先生が休んでいる姿など、果たして見たことがあっただろうか。
いや、まあ、時たまシャーレを訪れると積み上がった書類の山で謎のアートを手掛けている辺りまだまだ余裕ブチかましている底の知れなさはあるが、彼女とて人間だ。かなりの高頻度で素直に頷いていいものかとても悩みはするものの、ごく普通の人間、のはず。多分。きっと。恐らく。そうであって欲しい。微妙に脱線したがそんな彼女は、昼夜問わず精力的に動き回っている。SNSで先生の話題を追い掛けてみると、先生が何人も同時に動いているように錯覚してしまうことすらある程だ。
ならばそんな彼女に対し、自分達が出来ることは何だろうか。
「……先生、やっぱり女子会をやるべき」
アヤネの思考に応えるように、これまで沈黙していた声が上がる。それは先程から先生の湯呑みにジャムを入れようとしてはブロックされていた、もう一人のシロコであり、
「人目のある場所では私人として振る舞えない。逆に言えば、他人の目がなければ私人として過ごすことが出来る。例えばそう、施錠した密室とか」
最後の一言に、全員が「んン?」と首を傾げた。が、それを無視して彼女は先生を見据え、
「先生は同性。密室に二人きりでも過ちは起きない。完璧」
「……デカ狼君、私が女性でも構わないタイプの人間であった場合を失念していないかね?」
「それはそれで私としては美味しい。何も問題はない」
「というかしれっと二人きりとか言い出す辺り本気でシロコ先輩よね……」
デカい方のシロコが親指を立てて来たので、全員で同じように返しておいた。そして先生へと振り向いた彼女は、
「人間として魅力的であれば、人生の伴侶に性別は問わないと言ったのは先生」
「……君はまたどうでもいいことをよく覚えている子だね全く」
「先生のことなら当然。……それとも、出任せ?」
「ならば当然覚えているはずだがね? 自分の発言に責任の取れない生き方をしているつもりはない、と。紛うことなき事実だとも」
先生の即答に、己の身が強張るのをアヤネは自覚した。
かつて一度、話題になったことがあったのだ。先生の尊大な態度や趣味の数々、何より鉄火場での頼もしさが男らしく、また女性的な着飾りに興味がない上に、可愛いよりも麗人と呼ぶべきビジュアルから、ある意味必然とも言える噂が飛び交った。
先生は、実は女性にしか興味がないのではないか、と。
元は一部の生徒の願望が入り混じった冗談程度だったが、普段の不規則言動故嫌な説得力があり過ぎたのが拡散を後押しした。やがてシャーレ執務室での手伝い中、シロコがその件を問い質した結果、先生がそう答えたのだ。あくまで性自認は女性だが、己が共にいたいと思うような素晴らしき相手であるならば、男でも女でも構わないと。そんな爆弾発言は瞬く間に広がり、結果一部の生徒に火が付いたり更なる騒動が発生したものの、
「言うまでもないだろうが、先生と生徒である間は関係を持たんよ? 卒業か、私が今の立場から降りるか、また別の形かは分からないが、数年は当然十数年という時間が掛かるし、キヴォトスを出るという未来もあるかもしれない。それでも私の心を射止めようという覚悟があるならば、思う存分やりたまえ。実るかどうかは保証出来んがね」
という先生の宣言で大半は終息した。だがそうではない生徒も当然おり、アヤネが見る限りシロコは間違いなく本気だろう。当然もう一人のシロコも。故に、
「さっきバカシロコ……、ううん、今回に限っては天才シロコの女子会発言の時、先生は魅力的な提案と言った。断る理由はないはず。観念して女子会をやるべき」
別世界でも共にいただけあり、デカい方のシロコは弁が立つ。自分達も付き合いが長じるとこんな屁理屈魔王になるのだろうかとビミョーに心配になりはするが、今は問うた内容の方が重要だ。例え個々人にどんな思惑があろうとも、先生と夜通し過ごせるというイベントは純粋に楽しめるだろう。学園らしい活動の乏しいアビドスメンバーなら尚更だ。自分やホシノ達は勿論、喧嘩友達のような関係のこちらのシロコでさえ、真剣な眼差しを先生に向けている。やがて先生は肩を竦め、
「なるほど、上手く言質を拾って追い詰めて来たね。さすがはデカ狼君、君はとても優秀だ」
「ん、先生の教え子なら当然」
僅かに笑みを見せたシロコに、しかし先生が手の平を向けた。見れば彼女もまた口の端に笑みを乗せており、しかし瞳の奥には負けず嫌い特有の熱量が秘められていて、
「だが、詰めが甘かったね。私はこう言ったはずだよ? 例え休暇や休憩という時間であっても、私の立場は私から離れてはくれん、と」
返した手には、いつの間にか先生のスマホが乗っている。そこに映し出されているものを見て、シロコの笑みが固まった。位置の関係で画面が見えないことに業を煮やし、こちらのシロコが横からスマホを覗き込み、見て取った内容を口にする。
「……二十時、ゲヘナ風紀委員会訪問?」
「そう、先約があるのだよ。天雨君含め手が空いていないとのことで、今夜は空崎君と夜通し書類仕事だ。ちなみに依頼があったのは奥空君がこの話題を始める直前。……お誘いが一足遅かったね」
全員が、デカい方のシロコに躊躇いなく同情の視線を向けた。
「だがまあ、私を女子と称していいのか疑問は残るが、女子会が魅力的な提案だという言葉に嘘はない。近々予定を空けておくとも。会場はアビドスでも構わないが、ご希望ならシャーレの部屋も用意しておく。聖園君が乱入して来るかもしれないが、まあ許容範囲だろう。企画はそちらで纏めておいてくれたまえ。ああ、私はサプライズも歓迎するよ?」
スマホを懐に仕舞い、両の手を打った先生が立ち上がった。時刻は既に十八時過ぎ。夕食の調達や先生の足を考えると、そろそろ移動し始めなければ約束に遅れる。つまりは解散の合図と、そういうことだ。
「じゃあ今日はここまでですね。女子会の方はモモトークで相談しましょうか」
「だねー。あ、おじさん送ってくよー? ヒナちゃんに渡すものもあるし」
「私も大将と話して予定調整しないと。まあ間違いなく融通利かせてくれるだろうけど……」
「ん、これは負けじゃない。次の勝利の為の戦略的撤退」
一同も僅かに残念さを滲ませつつ、しかし概ね前向きだ。先生なら宣言通り予定を空けてくれるという信頼があるし、イベントは準備の段階から楽しいのだから。それも先生が課外授業のような形で、妙な依頼や企画を持って来てくれるから分かったことであり、
「先生には敵いませんね……」
思わず漏れたアヤネの本音を合図としたように、固まっていたシロコがテーブルに突っ伏した。