動かない男、その言葉が彼ほど似合う男を私は知らない。
私が『諸々』を経て明石さんと付き合いだしてから約半年後、確か二月のはじめの事であった。
京都某所で行われた巨大な本市。数年前明石さんと私が参加していたような古本市ではなく、市民館をまるまる貸し切ったかのような大きいマーケットに、春休みで手持無沙汰になっていた私は物見客気分で参加していた。珍しく、有名な某漫画家のサイン会を兼ねていたようで殺到した人ごみに文字通り押し潰されていた。当然、身動きなんてできるはずもなく気付くと圧縮されたゴムボールが自由を求めて飛び出すように、体も外を求めて飛び出していた。ある程度人が疎らになるほどの過疎地まで逃避行を行った私の目には、赤が目印の自販機の前で明らかに不満な顔をした男が挙足軽重の存在感を放っていた。
因みにこの『諸々』を知らないのであれば今すぐにブラウザバックして『四畳半神話大系』を購入し読んでもらいたい。そこには私の華々しい活躍談が語られている筈だ。きっと、たぶん、おそらく。
「あァ! 岸辺露伴先生ィ! ここにいたんですかァ?」
そんな言葉をかけたのは、こちらも住む世界が違いそうな女性であった。先生、ありていに受け取るのであれば彼は教職についていることになるだろうが、少なくとも私の目には彼がそこまで思慮深くは映っていなかった。どちらかと言えば思慮を遠慮するタイプの人間だろう。
岸辺露伴。
私はその名を知っていた。本の虫として生きて早半生、最早知らぬ著者は居ないとばかりにうぬぼれた自信を持っていたからすぐに結びついたのだ。漫画家であったと記憶している。普段、私は漫画などという娯楽媒体は好まず小説ばかり読みふけっていたが絶対に読まないと意固地になっている訳ではない。『週刊少年ジャンプ』という少年誌を金を出してまで手に取ったことは無いが、本屋へ足を運べば目につく位置で配置されていることが多く、知らず知らずのうちに本を開いていたことがざらにあったのだ。そんな雑誌の表紙を数度飾った作家ならば気付かぬうちに覚えてしまうのも必然という話だろう。
「オイオイオイオイ! ぼくはこんな客寄せパンダとしてわざわざ京都に足を運んだ訳じゃあないんだ。いい加減好きに行動させてくれないか!」
一言聞いて私は思った。その男は樋口師匠のようにとんでもなくアクの強い人物であると。キャラが濃い、分かりやすいほどに画風まで濃いのは恐らく気のせいではないはず。隣り合ったら、きっと私の体は蒸発する水のように半透明になって消えていくだろう。決して私の体の色彩が薄いというわけではないのだが、彼の体が濃すぎるのだ。線の太さが違うとでもいうべきか、筆圧の差で私は惨敗を喫している。
先程から話を聞く限り、どうやら今回の本市の目玉商品は彼のサインであるのだろう。しかし先ほどの人混み、うんざりして抜け出してしまうのも無理はない。
「おや、あそこにいらっしゃいますのは、かの漫画家・岸辺露伴先生じゃありませんか。いつサイン貰いにいきます? 僕も同行しますよ」
「小津」
花京院何某に返すように私は振り返った。いつの間にか妖怪がそこにいた。
小津と私は同年代の友人である。悪友とでもいうべきか、このひねくれた恋人持ちとはどす黒い糸で結ばれた腐れ縁だ。道行く人、十人中八人は妖怪だと断定し、残りの二人は納得するそんな男でもあった。蛇足ではあるが樋口師匠から引き継いだ『自虐的代理代理戦争』は一時休戦中の停戦協定が結ばれている。というのも彼が『ダークスコルピオン』と大事にしていた自転車を『ピンクスコルピオン』にした報復で私がピンクになり入院したからだ。皮膚科医から「かぶれが酷いから安静に」という言葉もあり、一時的に止めているというマリアナ海溝よりも深い訳があった。
「彼のサイン、今プレミアついているらしいんですよ。このチャンス逃す手はありませんって」
「悪魔のような発想をする悪魔だな」
「悪魔とは失敬な。今の僕は原価三十円から数万円を作り出す『オズの魔法使い』ですよ」
失敬なのはどちらなのか。今の言葉を聞いたら『ライマン・フランク・ボーム』だって墓から蘇って殴りに来るはずだ。むしろ私がその憎たらしい顔を殴ってやってもいいほどだ。
「だが、その案乗った」
「悪魔との相乗りですねぇ。あ、助手席は僕に任せて下さい」
小津はあくまでも私からのコンタクトを望んでいるようだ。他力本願ここに極まれり。しかし、私としても漫画家のサインとやらには興味はある。例えその結果が我が友の手によって、ネットの遥か彼方に消えようとも。さあ、いざ行かん。私の気持ちはまさに関ヶ原の戦いに挑む歩兵。敵は宇宙戦艦だろうか。
〇
「先生! サインを戴いてもよろしいでしょうか!」
私のファーストコンタクトはこの上なく無難なものであった。というのもこれ以上に最適な言葉を私は知らないからという無難極まる理由であるからだ。緊張で硬直こそは過去の経験でしないにせよ、初対面に自分から話しかけに行くのは中々ハードルが高い。過去、そのハードルを乗り越えられずに手前で砂場遊びをしていたのもまた私なのだから。
「ちょっと、サインは並んでからにしてくださいねェ!」
語感を強めた女性は私と岸辺先生の道を断ち切った。一本の細い綱渡りの紐を切られたのだから当然、私は奈落に落ちていく。目の前がまっくらになった、とでも表現すべきだろう。羞恥心とも呼べないような悪感が私の言葉を狩ってくる。これが言葉狩りかと心のどこかで納得しているが、傍から見たらフリーズしている不審者そのものだ。
「まあまあ、そう言わないでくださいよ。良いじゃないですか、たった二枚ぐらい」
小津からのファインプレー。この時ばかりは地獄に蜘蛛の糸を垂らす如来のように輝いて見えた。いや、きっとこんな男の垂らす糸など碌なものではない。耐重性能など私一人も満たないだろう。ならば地獄でじっとしていた方がマシなのではないか。
女性は「んー」と考える素振りを見せ、直ぐに「向こうで待っている人たちが可哀そうだからねェ」もっともな反論を返してきた。確かにそうだ。ここで我々が貰ってしまえば、あの長蛇の列をすし詰め状態で待っている人はどうなるというのか。馬鹿を見るに違いない。我々は休憩中の岸辺先生を運よく見つけたに過ぎない。であれば大人しく外野からホームランボールという名の声掛けがかかるまで見守っているのが最低限度のマナーではないだろうか。しかし、そのマナーを破ったのは他でもない岸辺先生本人からであった。
「いいよ、この岸辺露伴に運よく会えたんだ」
「先生!?」
救いの手を差し伸べたのは小津だけではなかった。先ほどまでその独特なヘアバンドを弄っていた当先生はこちらを見つめてそう言った。捨てる神あれば拾う神ありとはまさにこのこと。この場合、文字通り作品を書く神であったが。
「ただ条件がある。君たちってここについて詳しいかい?」
けったいな事を聞くものだ。京都と言えば国内有数の観光地。そこら辺の本屋に立ち寄れば数秒もしないうちにパンフレットが見つかる。それどころかその手の薄い板で検索すれば掃いて捨てるほど出てくる。
しかしさすがの小津。そのチャンスを逃さなかった。
「そりゃあもう。そりゃあもちろん。そりゃあできますとも」
調子のいい奴だ。ゴマをするようにクネクネと岸辺先生に近づく小津はまるで、海を漂う海藻のようであった。ところで、その案内に私は含まれているのだろうか。含まれているとするならば勝手に巻き込まれたこととなるのだが。
しかし私も伊達に三年、いや四年もここに住んではいない。周囲一帯の地理ならばそれなりに自信はある。サインの為だ、致し方あるまいと自らを納得させる。
「なら、案内を頼もうか。――下鴨幽水荘に」
なんと、と声が思わず出てしまうのもこれまた致し方ない。そこは下鴨泉川町にある古びた下宿。かつて私が四畳半神話大系を築いた場所であるのだから。
〇
下鴨幽水荘。人聞きにはなるもののその歴史は古く、幕末の混乱期に焼失して、再建された古びた木造三階建の廃墟であると聞いている。否、廃墟と言ったが実際はその安い額面に吊られた阿呆共が住み着いているため廃墟一歩手前が表現として正しい。かく言う私も今では樋口師匠の部屋を点検しに行くことがあるため、なんだかんだで出入りはしている。そのたびに新しい住人が増えるものだから一見、人気下宿としてテレビで報道されるのではと戦々恐々だ。
そんな下宿にかつて私は住んでいた。
記憶としては、あの無限に続く四畳半を駆け巡ったことばかりが先行するが三年も住んでいれば間違いなく都であった。トイレ風呂のない狭い部屋に腐りかけた畳が今では懐かしく感じる。それもそのはず、今の六畳間の部屋に引っ越して半年もたっていれば懐かしくもなる。
サイン会を強引に抜け出してきた岸辺先生を連れて、小津と私は見慣れた道を歩んでいた。
「して、何故そんな廃墟に?」
「漫画のネタさ。歴史のある下宿として特集が組まれていたのを見てね」
漫画のネタ。なるほど、確かに道理だ。あの廃墟は夕暮れに明かりが灯っていなければ幽霊屋敷そのもの。つまり彼の次の作品のテーマはホラーと見た。
テーマの真偽はどうでもいいとして、かの大先生をそんな場所にさっさと案内する。サインの対価として働いているのだ早ければ早い方が良いに決まっている。暫く歩くとようやくその輪郭が見えてくる。古ぼけた屋根に外壁、こじんまりというよりも解体予定の建物の雰囲気に近い。我が懐かしの居城、きっとこの動悸が止まらないのも感極まっているからに違いない。
しかし、見慣れない軽トラックが下宿の前で止まっていた。ささくれが付いた丸の中にバツのマークが刻印されているものだ。見覚えはある。
自転車にこやか整理軍。
かつて、別の私が配属されていた組織の名だ。それは違法駐輪自転車を取り締まるがその実、秘密機関『福猫飯店』の手足として働く団体であったと記憶している。その車両が何故、下鴨幽水荘の前に止まっているというのだろうか。住民の阿保共が自転車を捨てたのならば理解もできるが、前回訪れた際、駐輪場に自転車は一台たりとも止まっていなかったはずだ。
「おい小津」
私の言葉に「ええ、分かってますとも」とでも言いたげな小津は軽く頷くだけであった。生憎、私と小津は将来を誓い合った仲などでは断じてなく、行く先々にこいつが勝手についてきているだけに過ぎない。以心伝心と口に出そうものならば私の手で切って捨ててやろう。つまり、小津の言いたいことなど私からしてみれば何一つとして理解できないという話だ。
しかし、この自転車整理軍についてはいくらかの知識はある。主締めはもちろん『福猫飯店』。今やその規模は福猫商店だとのこと。どうやら小津のまき散らしたスキャンダルがかなり響いたらしくその規模は縮小傾向らしい。実際、我が大学に通う同志御用達であったレポート作成代行サービスは人手不足につき、ひっそりとその看板を置いたのだから。未だ醜くそんな飯屋にしがみつく自転車整理軍の車を通り過ぎる。だが、付近に構成員の影は無く、まさしくもぬけの殻であった。
〇
まず、扉を開けて入ると腐った木の匂いが鼻をへし折ろうと襲い掛かってくる。次に、我々の耳には扉を開いた音だけを反射してくる。生活音など何一つとしてなく、返ってくるのは虚し気なこだまだけ。随分と静まりかえっているが、休みの日ぐらいはそんなものだろう。皆、デートやらなんやらに現を抜かしているに決まっている。
とりあえず、合い鍵のある樋口師匠の部屋に案内しようということとなった。二階にある部屋を目指し階段を上り、部屋を目指す。登り、上り、昇る。そうして十階にでも差し掛かろうとする所でその歩みを止めた。
「……この下宿、外から見たら三階程度の高さしかなかった気がするんだけど、もしかしてタワーマンションの一種だったりするのかい?」
「そ、そんなはずは……」
小津がうろたえる。この建物は前述の通り三階の建物であり、いくら古いとはいえこんな上下に質量保存の法則を無視するようなオーパーツテクノロジーは使われていない。にも関わらず我々は十階近くもの階段を登っていたのだ。『異常』、いや『奇怪』とでも表現するのが適切だろう。窓に廊下、扉の先に廊下、階段の先に廊下。そんな様はさながらギリシャ神話に名高いラビリントス。
この時、私には嫌な記憶がそっと脳裏に蘇る。私が四畳半主義者だった頃の記憶である。当時の私は、気が付いたら自分の部屋が無限にループしていたというまこと『奇怪』な現象に見舞われていたのだ。しかし、怪しげなオーラを有料で垂れ流している老婆に助言された通り『ふわふわ戦隊モチグマン』の人形を明石さんに返すと誓い、何とかあのループを抜け出したのだ。だが当時と違い、老婆も無ければ四畳半ですらない。これでは『四畳半神話大系』でなく『廊下と階段神話大系』となってしまう。そんなことは断じて許さないし、許したくもないものである。
「――いいやッ! 気のせいなんかじゃあない!」「アレを見るんだッ!」
「窓の外が、廊下になっています!?」
その一言が私の顔をより一層青ざめさせた。とにもあの出来事は半ばトラウマとなっており、トイレも無く、風呂も無く、浮浪者さながらに四畳半を練り歩いたのは徹頭徹尾思い出したくもない禁忌なのだ。しかし、当時と同じ状況に近しいことが起きているとみて間違いはない。しかも、今回は小津と岸辺先生のセットだ。あの時のようにカステラなんていう豪勢なものは無く、真っ先に私の脳に過ったのは餓死であった。明石さんを残して惨めったらしく死ぬ様を想像するのはあまりにも酷である。
「部屋を開けても、この廊下に戻ってきてしまう!? まさか、この建物に閉じ込められたって言うのか!?」
「おい! 小津!」
「しら、知らないですよこんな怪現象!?」
さすがの小津でもわからなかったらしい。
あの空間は私の迷いと現実逃避が現実になったものと考えていたがそうではなかったようだ。何故ならばここには私以外に二人も第三者の観測者がいる。私一人でループするならば気が狂っただけの可能性もあったが、三人一緒に気が狂うとは考えづらい。その事実が、この状況は科学的にはありえないということへの証左でもあった。
それから、私たちは階段や廊下を何度も、何度も、何度も、何度も行き来を繰り返した。思いのほか小津が取り乱していたが、彼はあれでも小心者らしいと聞いたことを思い出した。きっと交際中の彼女を置いて先にいくのが嫌なのだろう。もっと意外であったのは岸辺先生がこの状況に早くも落ち着きを取り戻していたことだ。通常、こんな出られるか分からない場所に閉じ込められたのならば、時間が経つにつれ焦ったり取り乱すものだ。過去、私もそうであった。しかし先生はあくまでも冷静であるのだ。文字通り『動じていない』とでもいうべきか、冷静に状況を分析していた。流石は漫画家、私達よりも特異的な状況の判断が上手なようだ。
そしてとうの私は、万力のように締め付けられる腹痛と激闘を繰り広げていてそれどころではなかった。この建物、トイレは廊下にあるのだがそのトイレのドアを開けても先にあるのは廊下であり、用を足す約束の地は石をひっくり返しても出てこなかった。私としてはこのまま汚物を垂れ流すのは我慢ならない。前回こそ、一人であったため見て見ぬふりができていたが今度は二人。私を合わせてトライアングルである。そんな魔のバミューダトライアングル海域が形成された視界の中でゲリラ作戦を行おうというのなら、きっと私に向けられる視線は卑猥で猥褻なDVDを見ている思春期の息子を陰からそっと見た親の視線となることだろう。文字通り生暖かいものを見る、きっとそんな視線だ。いかに私と言えどそんなことを許容できようか。いや、できない。
そこで刻一刻と迫るタイムリミットを前に覚悟を決め、トラウマ地雷を上から偵察するかの如く過去の記憶を掘り起こす。
あの四畳半期は、部屋を跨いでも時間が巻き戻っているわけではなかった。というのもこの空間一つ一つがパラレルワールド、つまり他の世界であるということだ。そのため、置いてある物や配置が若干ずれている。そして数に限りがあることだ。故に延々に周回しているとそのうち元の場所に帰ってくることとなる。だが所詮は廊下と階段。置いてある物から得られる情報などさして変わらない。
「どーするんですか! 僕、こんなところで白骨死体になって風化なんてしたくないですよ!」
「やかましいぞ!」
負の妄想を膨らませて語る小津を岸辺先生は怒鳴った。実際、付き合いの長い私も面倒くさく感じる時はあるのだから、ほぼ初対面の先生の反応は正しい。嘆いてもどうしようのないものはどうしようのないものだ。ならばこの状況を突破するには私の記憶が鍵になってくるだろう。
「……実は過去に一度、似たような状況に陥ったことがあります」
「あなた元から気が狂っていたとは思っていましたが、こんな状況でも宣うなんて阿保ですね! 筋金入りの阿保です!」
意を決して打ち明けたというのにこの仕打ちは私を後悔させるには十分だった。それと同時にかの傍若無人な小津の性根を叩き直すと決心させるには容易であった。
「続けてくれないか」
やはり岸辺先生は真面目に私の話に反応してくれるようだ。
それから私は覚えている限り、奇怪な出来事を詳細にかつ事細かに説明した。最初のうちは茶々を入れてきた小津も最後の方にはその口を一文字に結んでいた。それは私の経験に驚いたというよりも、理解できずに口を挟むに挟めないだけであろうが。
とはいえ当時を振り返ってみて、この状況を打開する要因を分析してみても『漫然とせず、好機を思い切って捕まえてごらんなさいまし』とあの老婆から私の財布の金一封で賜った言葉と、その後に蛾の大群に襲われたことぐらいしか手掛かりにならないだろう。よしんばそれが手がかりであったとしても、その好機について思い当たる節がなければ、蛾なんぞどう扱ったものか。
「成る程、人生に迷うから迷った。なら、ここにいる誰か、もしくは全員が生に迷っているのか……?」
その理論であれば少なくとも私ではないだろう。何故ならば、私は一度ここから脱出したのだ。再び迷うにはまだ人生を積み重ねていない。であれば、小津か岸辺先生のどちらかに限られてくる。
しかして、岸辺先生とはまだ交流も浅く判断には早計であるが、彼は恐らく迷わない部類の『強い人間』であろう。その眼からは確固たる精神の強さが感じ取れるからには、固く、硬く、堅い。そんなような雰囲気だ。己が右を向いたならば、例え他者が左を向いても意固地なまでに向き続けるだろう。そんな彼が迷い、好機を見逃すだろうか。ならば残るは小津であるが、彼は当時の私ほどの気の迷いを抱いているなどとは考えられない。おちゃらけた阿保にはその悩みは些か重すぎる。しかし、状況証拠として最も小津が怪しいのも事実。
「違いますよ! 僕はあなたほど不器用な卑屈じゃありませんって」
失礼な奴だ。あたかも私が根暗で阿保なわからずやのようではないか。そんな事実無根は許してはおけない。
「おい、小津。ここぞとばかりに貶めるのは辞めてくれないか」
〇
階段、廊下。階段、階段、廊下。廊下、廊下、扉、廊下。
それからどれだけ時間が経っただろうか。私の天ヶ瀬ダムは早々に決壊し、しばらくは小津に揶揄われる日が続くことだろう。ここから脱出ができればの話であるが。私の体内時計が間違っていなければそろそろ三時間、四時間、いや五時間か。その程度時間が経っており、このまま数日たとうものなら私は餓死する自信がある。何か物がないかと廊下をくまなく探したがあるのは雨漏れ水の入ったバケツ、靴、本とゴミ。おお、此処に住む住民たちよ。我々にどうか焼き肉を、せめてカステラを恵んではくれまいか。
「どの程度、ここを巡ったんだ? ぼくたちは」
「……、」
とうとう小津は声を出す元気すら枯れ果てたようだ。その足取りは屍人のようにおぼつかず、いきなり私の首元を掻っ切てきても何ら不思議ではない。
さらにしばらく進むと、あからさまに今までにはない大きな異物があった。体育座りをする黒の軍服と妙に自己主張のある眼鏡。小津はすぐにピンときた。
「あ、相島先輩!?」
「知り合いか?」
相島。知り合いかと聞かれれば知り合いでもあるし知り合ってすらないとも言える。また、浅からぬ因縁が小津との間に万里の長城が如く張り巡らされていることも知っている。彼は私の通う大学の先輩であり、かつて栄華を誇った『福猫飯店』の店長であり、映画サークル『みそぎ』のサークル長の二足草鞋どころか三足草鞋を履いていた人物だ。その陰湿な考えと性格の悪さが滲み出る言動に別の私が目の敵にしていた。そして、かつて明石さんに恋をしていたと聞き及んでいる。スキャンダルの件もあり、とっくに卒業してどこかに消え去ったと考えていたが、彼の消えた先はどうやら下鴨幽水荘であったようだ。世間とは狭いものだ。
「おーい、相島先輩?」
小津が彼の肩を揺さぶる。返答はない、屍のようである。訂正しよう、そのやせ細った体躯は屍のようであったがまだ息は続いていた。当の相島本人はこちらを認識したが、小津に襲い掛かることは無く、力なくうなだれるだけであった。
しかし妙だ。前回ではどれだけの時間と部屋を巡ろうにもいたのは私だけであった。けれど今回、相島がそこにいた。実は、並行世界で身売りにあった相島である可能性も否定できないがその可能性を疑い出すと自分の存在定義について真剣に考察しないとならなくなるので今回は割愛する。
「彼は?」
岸辺先生からすると、この男は見ず知らずであることには変わりはない。念のために説明を挟むとしよう。
「かくかくしかじか。ただの阿保です」
実に端的に説明できたと、私は私を賛美したい。
すると岸辺先生は彼に近づいて一言何かつぶやいた後に深く頷いた。
「そうか、彼が迷い人だったんだッ!」
一体何が「そうだ」なのかは何一つとして理解できないが、先生はこの迷宮について何かしらのヒントを得たらしい。是非とも私達にもそれを共有してもらいたいものだ。
「……く、くく。よくもぼくをこんな下宿に閉じ込めてくれたんじゃあないかッ!」「こんな下らない理由でッ!!」
ドドドドと凄みのある独特な擬音が、岸辺先生の周りに文字として私の目には出力されていた。私は今にもその擬音の『押しつぶしてきそうな存在感』に圧倒されていた。まるでラビリントスの怪物『ミノタウロス』のように、いやそれに立ち向かう勇士『テセウス』がアリアドネの糸で解決口を手に入れたような、自信に満ち溢れた『覚悟』した顔つきであった。
「『天国の扉』ッ!」
何かを叫んだと思うと岸辺先生は玄関に向かって全力疾走していった。私と小津もそれを追うように走ってついていく。物のついでに相島を引きずる。彼の鬼気迫る顔を見て何かあると確信するのは容易であった。そのアスリート顔負けの走り方に度肝を抜かれるが、最後の気合で喰らいついて走る。
「ぼくはその男に『迷わずに一歩踏み出す』と書き込ませてもらった!」
そのままの勢いで私達三人は階段、踊り場のガラスを突き破り、外に落ちていった。
〇
陽光が地平線に消える頃。我々はへとへとになりながら帰路についていた。闇夜というには街頭の明かりが輝き、下町情緒の風情を感じさせる。
「岸辺露伴先生、猫ラーメンを食べに行きましょう」
「猫ラーメン? なんだいそれは。気になる。――よし行こうじゃあないか。すぐに」
結局あの軽トラックの主は相島先輩であったようだ。人伝で聞いた話ではあるが、小津によるスキャンダルのせいで失脚した彼は野次馬たちに追われる身となりほとぼりが冷めるまで人の寄り付かない下鴨幽水荘に住み着いた。後は私と似たような境遇になっていたらしく、あの迷宮を作り上げた原因もまた彼だったようだ。そんな彼の迷宮に偶然我々が入り込んでしまっていたらしく、あんな騒動に発展したのだった。彼は人生に思い悩むほどできた人間ではないと思っていたが、どうやら私の観察眼はいつの間にか腐っていたらしい。そして、当の相島は救出後、人が変わったように私と小津に平謝りを繰り返した後、走って明石さんに胸の内を吐露したとのこと。後日聞いた話であるが、明石さん曰く「恋をさせてくれてありがとう」などという妄言を垂れ流し、どこかへ消えたそうだ。哀れなり相島、その恋は実る前に朽ち果てていた。
「……どうして君は小津くんと友人なんだい? 言っては悪いけど彼は阿保と呼ばれる類の人間だ」
肘を片腕に置き、手を顎に当てた岸辺先生がそう問うてくる。小津は少し離れたところで頭の後ろで手を組みながら鼻歌を歌っており、先生の言葉など耳にも入っていないだろう。
「そうですね。確かに小津はどうしようもない阿保ですし、こんなどす黒い糸が無ければ関わらないが吉でしょう。実際、あいつが元凶で割を食ったことも数え切れないほどあります。けれど、どれだけ否定材料を並べたとしても友人であるのもまた事実なのです。つまり」
友人であることに理由はいらない。ならばこれ以上は蛇足と言うもの。その後はただ猫ラーメンを食べ、無事平穏に分かれたに過ぎないのだ。そんな波のない話を語るほど、皆さんの時間は安売りしていないと思われる。故に、この『奇妙な話』はここで終いとさせていただく。
「――俺なりの愛だ」
「いいね。気に入った、その友情」
正確には10719字なんですけどね。次は有頂天家族で何かしら書きたい、無理そうだけど。
知ってはいたけど森見登美彦先生の文は難しい。特に私のような知識のない半端者の阿呆には。