己の音色を響かせて 作:匿名
「野上君これ、ありがとう」
「おお、もう読み終わったか」
「うん」
トコトコと鎧塚が近寄って来た。その手には俺が貸した小説が握られている。俺はそれを受け取った。
『ジョーカー・ゲーム』、俺が貸した小説だ。これは第二次大戦頃の陸軍のスパイ組織を題材にしており、一話約五十ページ程の内容がいくつか載せられている。表紙には赤い椅子に座り軍服を着た年配の男性が描かれていて目元は軍帽のつばで見えない。それがこの男性のミステリアスさを際立たせていて、俺の興味を引いた。
「読破してもらえて何よりだ。しかし、鎧塚がこの手のジャンルに興味を持つとはねぇ……」
「読まず嫌いは良くないと思った。野上君が持っててくれて良かった」
本を無造作に開き、パラリと捲ったページを撫でる。元々鎧塚は中学の頃から本を良く読んでいた。性格暗いし友達も居なかったから、と本人は言っていたが、元々読書家の気質はあるんだろう。一つの事に対する集中力は他の人間とは比べ物にならない。
軍人が中心の本だから全体的に女子ウケは悪そうだと思っていたが、そうでもなさそうだ。或いは鎧塚が他とは違うか。俺もこの本を家の棚から初めて見つけた時は辛気臭そうだな、なんて思っていたがいざ読むと案外これが面白い。メインの登場人物にスパイが多いから、セリフの一つ一つに何か意味があるんじゃないかと勘繰りながら読んだ覚えがある。
「伊沢さん、凄かった」
「……ああ、ロビンソン、だったか」
「そう」
どうやらこの本からお気に入りの一話を見つけられたらしい。貸した側としても嬉しいものだ。『ロビンソン』は掻い摘んで話せば、その話の主人公である伊沢がスパイ容疑で捕り、敵スパイに拷問されてしまう。だが上官から渡された本が手掛かりである事に気付き、敵の拠地から脱出する話だ。だが単なる脱出劇では無い。一連の流れを彼の上官である結城中佐は全て読んでいた。伊沢の手腕に舌を巻くが、それ以上に結城中佐の底知れなさをひしひしと感じる事が出来る。
「凄かった。……チェス、指してるみたい」
「言い得て妙だな。あの話は結局、全て掌の上って事だろ」
「うん。軍の意見を通すための隠れ蓑って」
「あれえげつねぇよな。こんなのがずっと続くのか?って読むとき思ったよ」
「……?野上君、分かってて買ったんじゃないの?」
「いや、父親がいつの間にかな。気付けば本棚にあったんだ」
表紙の軍人さんがカッコよくてな!何でこれを買ったのかと聞いた時に父はそう答えた。当の本人は全然読んでいなかったのはスピン*1が五ページ目にあった事から明白だった。鎧塚を見習ってちゃんと読んで欲しい。千五百円が勿体無い。
ザアザアと空から雨が降り注ぐ。まだ人の少ない教室にはこの音が嫌でも耳に入ってくる。
「雨、まだ降ってる」
「今日の降水量は五十パーセント。暫くすれば止むと思ったが、今日ははずれだな」
窓を叩く雨粒が煩わしい。この雨は当分止みそうに無かった。
「私、部活辞めます」
音楽室にて。斎藤先輩が放った一言は音楽室に静かに木霊する。
全員での合奏練習。三日月の舞の演奏を止め、サックスパートに指摘が入る。音の粒の粗さが指摘され、一人づつ吹いていく事に。そこで一番最初に指定されたのがテナーサックス担当の三年生、斎藤葵であった。
言われた部分を吹いていく先輩。ベルから鳴るのはテナー特有の渋めの低音。だがどうにもそれだけでない沈んだ音、俺の耳にはそう届いた。
滝先生が指摘したのは出だしのブレだったが、それだけが問題だとは感じなかった。上手く行ってない、もしくは、何かに迷っている。そう受け取った。これは先輩一人が吹いているから浮き彫りになったのだろう。実際、演奏中は気にならなかった。周りの人は心配そうに先輩を見つめている。
コンクールは待ってくれない。期限を決め、課題をクリアしていかなければ良い演奏は出来ない。あなただけが音を濁している。受験勉強が忙しいのは理解するが、コンクールを控えた部員である事を意識して欲しい。少し端折ったが、要約するとこんな事を先生は語った。後半はフォローのつもりなんだろうが、俺には追い打ちにしか聞こえない。先輩は手元のサックスに目を落とすのみ。そこで発せられたのが、上記の一言である。
周りの動揺を他所に話は進む。普通ならここで引き留めるなりするのだろうが、滝先生の生徒の意思を尊重する方針が裏目に出た。確固たる意志があっての退部なら頷かざるを得ない。受験勉強という将来に繋がる大事な物なら猶更だ。先生も気が変わる事は無いと判断したのか斎藤先輩の退部を認め、退部届を受け取る様にとだけ伝えた。
親しかったであろう他部員の引き留める声を無視しながら、楽譜ファイルとサックスを手に音楽室を後にする斎藤先輩。音楽室には雨の様なざわつきと暗い空気が立ち込めていた。
一夜明けた翌日。今日は田中先輩が指揮台に立ち全体の音を見ている。小笠原先輩は今日休みらしい。確実に昨日の件が効いている。田中先輩は小笠原先輩と全然違う。指摘がシンプルかつストレート。余計な言葉が無いからか刺々しく聞こえる。部長とは真逆だ。注意を受けた一年生も縮こまっている。今日の練習はちょいと息苦しかった。
「うーん……」
外は今日も雨。いつになったら晴れるのやら。梅雨は嫌いだ。雨ばっかりだし、荷物増えるしで良い事無い。
「……何見てるの」
「雨雲。梅雨はこれだから嫌になる」
「そう。でも外見ながら唸るの、止めた方が良いと思う」
「……気を付けます」
「うん。早く帰ろ」
片付けもせずにいた俺を鎧塚がバッサリ。練習終わったのに何やってんだって事だよな。ごめんなマジで。急いで荷物を纏め音楽室を出ると――
「あーらら。また香織先輩にフラれちゃった?」
「うっさい!アンタはまたいちいち……」
顔をニヤつかせおちょくる中川と口をムッとさせた吉川の言い合いを目撃する。
「またか。飽きねぇなぁあの二人」
「うん。いつもの」
「ハァ……」
この二人はいつもそうだ。こいつらをセットにすると大体こうなる。去年から度々見てたからもう慣れた物だ。そりが合わねぇなら無視すりゃ良いものを。それをしないのは相手への対抗意識か否か。律儀なもんだよお互いに。
「オラ、そこどけ邪魔だろうが」
「ほら言われてんじゃん。邪魔だって」
「それはアンタもでしょうが」
「ド真ん中で突っ立ってる人に言われたくありませ~ん」
「むうぅ……!」
五十歩百歩、どんぐりの背比べ。小競り合いは終わらない。だからお前等はアホなのだ。ここで煽り合いを続行する辺り根が似てるのか?いや無いな。
暇人二人を放置して階段を下りる。鎧塚と他愛もない会話を繰り広げながら、一階に着いた辺りで吉川が階段を駆け下りて来た。
「あぁ~良かったぁ。まだ帰ってなかった。ねぇみぞれ、今日一緒に帰っても良い?」
「うん。大丈夫」
「ホント?ありがとう」
「……中川はどうした」
「夏紀?置いてきてやったわ。帰り道でも相手するなんて御免よ」
吉川に中川の事を聞くと急に声のトーンが下がった。でも怒っている様子が無いのを見るにそこまで嫌いではないのかもしれん。下駄箱から靴を取り出して履く。
傘をさしながら三人で下校する。会話を続けている内に内容はオーディションへと移って行った。
「もう少しでオーディションかぁ。みぞれはどう?緊張してる?」
「別に」
「そっか。野上は……聞くまでもないわね」
「はぁ?」
ぞんざいに扱うじゃねぇか。でも言われた通り、緊張はそんなに感じてない。でも中川が個人練やり始めたのを見て、本当に空気が変わったんだなと感じている。今の所練習は順調。ただオーディションで本調子が発揮出来なければそれも水の泡。朝練で基礎を固めてきた事が功を奏している。
「……まあ良い。で、そっちは最近どうなんだ。中世古先輩と帰れて無いみたいだが」
「……昨日は先帰っててって言われちゃったし、今日は気付いたら居なくなってたし……うぅ、香織せんぱ~い……」
「中世古先輩も鬱陶しくなったんじゃないか?」
「そんな事無い!香織先輩は優しくてキュートだし、もうヤバイ!」
うわ出た吉川のコレ。このモードもこいつあんま好きじゃ無いんだよな。香織先輩香織先輩ってうるせぇし、ちと苦手だ。
「今日の香織先輩もヤバかったんだから肌もキレイで髪もサラサラだし一緒にいると少し香水の匂いがフワッとしてホントヤバイんだから練習も分かりやすく教えてくれてマジエンジェルって感じでそれから――」
「もういいもういい、分かったから」
「そう?まだまだあるんだけど」
「結構だ」
まだまだ続きそうな話をぶった切る。このまま聞いてたら俺がやられる。話をずらさなければ。
「今思い出したが、トランペットのソロ、どうなってるんだ?やっぱ中世古先輩か?」
「それがさ……」
吉川は曇った表情で語りだす。どうやらソロパートの練習をしてる高坂が気に入らないらしい。高坂の実力はパート内でも抜きんでており、上級生も高坂に教えを乞うているとの事。ただ言い方が強く遠慮が無い為、トラブルが起きそうな空気になる事もしばしば。その度に中世古先輩が仲裁をしている。それだけ世話になってる先輩を差し置いてソロを吹く気なのはどういう事だと、時々怒りを混ぜながらそれを吐き出した。
「こっちの指示には素直に従ってるんだけど、何かモヤモヤするって言うか……」
「あー、成程そういう。高坂って普段からそんな感じか」
「野上何か知ってるの?」
「お前程は知らんよ。朝練で顔合わす位だな。すぐどっか行くが」
俺らが朝練してる最中に高坂は登校してくる。必要最低限の挨拶だけ交わして別の所で練習するのだ。自分のトランペットに情熱を掛ける姿はストイックに見えるが、どこか素っ気ない態度は可愛げが無いと言われても止む無しだろう。
「音大でも目指してるんじゃねぇか?あんだけ吹けて、しかもマイ楽器持ち。無くは無いだろ」
「そうかも知れないけど、香織先輩に気を遣いなさいって話よ」
「今の所、生意気な後輩って感じか」
「そうそう。……香織先輩、高坂だけじゃなくて葵先輩の事も気にかけてたって聞いたから……」
「へぇ」
「へぇって何よ。その反応」
「いや別に。そうなんだ、くらい」
斎藤先輩の退部には驚いたが、それだけだ。受験が理由なら仕方無いし、俺に何かある訳でも無い。ただの先輩ってだけだからどうだって良かった。
「ハァァ……みぞれならともかく、野上までそれはどうなのよ」
「はぁ?鎧塚は良いのかよ」
「みぞれはマイペースなのが良い所なの。傍にいるなら、野上がしっかりアンテナ張っときなさいよね」
「ンな事言われてもな。いらん情報仕入れてどうするってんだ」
「話だけじゃ無いわよ。先輩が部活辞めるってなったから、もうちょっとこう……」
「別に仲良かったって事も無いしなぁ」
「関わり無いから良い、じゃ無いわよ。野上はその考え方直しなさい。後で困るのはアンタなんだからね」
額に手を当て、呆れた言わんばかりの顔を浮かべ言葉を吐く吉川。何でそんな顔されなきゃならんのだ。このスタンスで困ってる事なんて無いんだから良いだろうに。
「ま、気が向いたらな」
「それ絶対直さないやつでしょ」
「さあ、どうだろうな」
考え方なんて言われてすぐ変えられる奴は稀だと思う。俺は早々には変えられないと考えるタイプだ。だからそれをコロッと変えられる奴は素直に凄いと思う。
吉川はどうだろうか。案外出来るタイプに見える。中世古先輩関連になるとデバフが掛かってキツいだけで、それ以外の時は棲み分けが出来てそうだ。
鎧塚は………どうだろう。何というか、思考のスイッチを切り替えて話してる姿が浮かばない。授業の間の準備時間でも、大体読書か俺が勧めた曲の感想を言いに来る位だ。見知った相手以外と話してる姿を見た事無いから、想像出来ないのかも知れない。
「あ。みぞれ、鞄濡れてるよ」
「ん。優子、ありがとう」
「いいのいいの。気にしないで」
鞄に着いた水滴をタオルで優しく拭き取る吉川は、まるで世話を焼く母親みたいだ。俺への態度は何だったのか。露骨な扱いの差に俺への遠慮の無さを見た。
「私こっちだから。じゃあね二人共!また明日!」
「おう。またな」
「バイバイ」
帰路に着くその背中を見送る。早く帰りたいのは分かるが、走るのは止めた方が良いぞ吉川よ。あーあー、そんなに急ぐから水が跳ねて掛かってら。
見送ってすぐの所で、鎧塚は唐突に口を開いた。
「……私もさっきみたいなの、やってみたい」
「さっきって?」
「優子とやってたやつ、あれ」
さっきのやつ……さっきのやつ……?
「……うーんと、あの、掛け合いみたいな?」
「そう。それ」
鎧塚が、あれを?……この子は不思議な所に憧れるねぇ。
「それはいいが相手を選べよ。すげー意外だからな」
「分かってる。だから野上君に言った」
「……鎧塚が、あんな風に?えぇ?いやぁ、でも……」
「……むぅ」
鎧塚が急にそんな事言い出すとは、世の中何があるか分からんな。
俺の反応が気に食わなかったのか、不服ですと言わんばかりに口先を尖らせてるのが面白くもあり、可愛らしかった。
「やっぱり、私じゃ難しい?」
「想像つかんだけだ。まだなんとも言えん。だが初っ端からは相手も何事?となるだろうから、いきなりあれを目指すんじゃ無く、ちょっとずつ積み重ねてくのが現実的だろうな」
「……分かった。ちょっとずつ、やってみる」
「まぁ、程々にな」
今のままでも十分だと思うんだがなぁ……。本人が妙にやる気だし、水差して白けさせるのもなぁ……。でも、どれ位の期間するつもりなんだ?今は謎のやる気を発揮してるとは言え、俺はそこまで持たないと踏んでいる。三日持てば御の字、いやそれは舐め過ぎか。
気付けばいつもの交差点まで来ていた。雨もどんどん激しくなってきている。今日はここいらで終いだな。
「お、もうここまで来たか」
「うん。また明日」
「おう。じゃあな」
交差点で鎧塚と別れ自宅へと早歩きする。変わろうとする事自体は良い事だと思う。急激な変化をされると戸惑うだけで。ただ空回りとか、しっかり話せるのかとか、気付けばそんな事を心配していた。これでは吉川の事を言えないな。自分に苦笑しながら、俺は玄関の扉を開けた。
翌日、雨も止み久しぶりの晴れの日となった。いつもの様に二人で登校し鍵を貰い、音楽室の扉を開ける。椅子に座り、楽器ケースを開いている内に、雲の隙間から日の光が差す。久しぶりの日差しに目を細めた。
練習前の習慣として、組み立て前の状態チェックをする。部活終わりにしっかりと掃除はしてるが念の為だ。
「野上君」
「うん?」
声だけで返事する。今は汚れの確認に集中したい。許せ鎧塚。
下管を傾け中を見る。細かな所も確認しないと何があるか分からないからな。目視では問題無かったが一応クロスを掛けておく。シュルリ、シュルリと布の擦れる音がする。
呼ばれたものの、続きが来ない。どうしたのかと思い顔を上げると、ジッと見つめる瞳と目が合った。癖だ。鎧塚の、集中する時の癖。鎧塚は集中する時、瞬きをほとんどしなくなる。見つめ合う事数秒。パチリと瞬きをした後、鎧塚は瞳をスッと逸らし、呟いた。
「……あがた祭り、一緒に行こ」
昨日のやり取りが脳裏に過る。成程、そうきたか……。