ある朝目覚めるとグレゴール・ザムザは一匹の毒虫になっていた。甲羅のついた背、褐色のお腹、たくさん生えている小さな無数の足、そして、気持ち悪い斑点まで身体についている。
しかもただの毒虫ではない。一滴の毒が気体化することで街一つを滅ぼせるほどに、強力な毒虫だ。それが人間サイズとなることで何を意味するのか。まともな教育を受けてなくても生物として本能が教えてくれるだろう。
誰しもが悲観的な妄想を浮かべた。
事実、それは現実となった。
グレゴール・ザムザは毒虫でありながら人間としての知性を残していた。それが幸いだったのか、不運にもキッカケとなったのかは、後世の歴史研究家が証明してくれることだろう。
生まれたての赤子が力を制御できないように、覚醒直後のグレゴールはただ延々と毒を撒き散らすことしかできなかった。
毒虫なので明確なコミュニケーションはできない。ただ重い身体を引き摺るように鳴らす音だけが、彼にとっての発声代わりだったと言える。そのたびに幾万の人間を殺せる毒液が撒き散らされていたのは、まさに歩く災厄としか表現できない。
グレゴールがその身に宿された災厄に気付くまで要する時間は、大好物のアップルパイが焼き上がるよりも早かった。
まず起きて早々、近くにいた父親が死んでいた。
死体の口は泡を吹いており、目や耳や鼻といった全身の『穴』からは腐敗したように変色した体液がゴポゴポと垂れ流されている。
第二被害者はグレゴールの母親だった。彼女の最愛する夫が倒れた音を聞き、朝食すらも放置して駆けつけたのが最後となった。
グレゴールの毒は液体として放出されるが気化するのは極めて早い。これはアルコールよりも圧倒的な速度であり、即ち殺せる範囲が瞬く間に広がっていく能力とも捉えられる。
母親の意識を刈り取ったのも気化した毒ガスだ。第二の人生として産声をあげたグレゴールに送られた最初の言葉は、賛美でもなく、悲鳴どころか言葉にもなっていない肉体反応としての『音』だった。
母親が最後にどんな気持ちで死んでいったのかグレゴールには想像するしかできない。最愛する夫の死を認識する前にこの世から去っていたと、そう願うことしか出来なかった。
速攻で広がる毒ガス。
殺すのに数秒にも満たない、致死性の猛毒。
グレゴールは毒虫となる前、有能なセールスマンをしていた。大黒柱だった父親に代わり一家を支えられる程度には稼ぎがあった。つまり人並み以上の賢さを備えている。
そして賢さとは理性の強さとも言いかえられる。
彼は無闇に争うことはしない性格をしていた。血肉を流すくらいなら法廷で、書面を通して決着をつけるタイプだった。人間にとって唯一正当化された武器こそが法律であり、誰しもが逆らえない絶対的な権力だと信じてやまなかった。
しかしグレゴール自身を支えてきた権力のヒエラルキーは音を立てて崩れ去っていく。もう支配階級は毒虫に対して通用しない。そもそも抵抗するまもなく殺せる有毒ガスに、法の権威とやらは通用するのだろうか。
否、通用しない。
誰もがグレゴールを止められないだろう。
そうして灰色の脳細胞が蠢きだす。彼のセールスマン人生で積み重ねられた合理性が導きだしたのは、自身を頂点とする新たな支配構造であった。
ならば前は急げと動き出す。躊躇うことなく即断即決で行動するのもまた、セールスマンという職業故の結末と言えるだろう。
毒虫らしくガサガサと気味悪い音を鳴らしながら近隣の街まで降り立った。勿論その身に有する毒液をばら撒きながらだ。結果として空気は汚染され、川は魚の水死体に埋め尽くされる。道中で出会った人間からは幾つもの悲鳴が聞こえたが、それも直ぐに物言わぬ肉塊に成り果てていった。
グレゴールはまず自分の権威を示すように、生活していた街を誰もが生きれぬ呪われた地へと変えていく。息するものは体液を吐き出しながら死に、訪れるものは誰であろうと物言わぬ屍となる。重苦しい毒ガスと腐敗臭だけが漂い、沈黙こそが彼を肯定する唯一の答えとなった。
グレゴールは嗤ったが、やはりガサガサと気味悪い音しか出なかった。
半日も経たずに地獄絵図と化したグレゴールの街。シェイクスピアに憧れた三流作家でも書かないような非現実的な光景に、その異常性をキャッチしたアメリカ軍も最初は半信半疑であっただろう。
そうして後手に回してしまった結果、グレゴールとアメリカ兵が初めて衝突したのは、彼が毒ガスを撒き散らして街三つ滅ぼした直後だ。
当初はテロリストによる有毒ガス兵器という解釈で駆けつけたアメリカ軍だったが、部隊全員は驚嘆の声しか上げられなかったという。ある者は恐れて、神に十字架を捧げたとまで言われている。
毒虫。
それも人間サイズが居るのだ。
即座に指揮官は叫び、ハンドジェスチャーを通して銃撃戦の構えを取らせた。参加部隊は毒ガス兵器と聞いていた為、当然ながら防毒用ガスマスクを装着している。予想と大きく異なる相手だが、ここはアメリカだ。近代兵器の前にモンスターは通用しないと、誰もが鼓舞するようにそう信じ込んだ。
グレゴールは軍隊を見て、ガサガサと嗤う。
彼にとって殺戮とはその権威を表現する行為にほかならない。つまりアメリカにおいて圧倒的な暴力の権威ともいえる軍隊に勝利すれば、己の正当性は今以上に強固されるのだ。
喜ぶように、無数の小さな足はタップダンスみたく地面を叩いた。そのたびにビチャビチャと毒液が噴霧されていくのは彼の意図することではない。
ただ結果として、その気味悪い踊りは開戦の合図となった。
銃弾の嵐がグレゴールを襲う。
炸裂する銃火がチカチカと光っては空気を焦がしていく。弾幕は鳴り止むことはなく、大量の薬莢がこぼれ落ちていった。兵士の声と、銃声音だけが空気を揺らしていく。やがてグレゴールが白混じりの土煙に包まれていくと、ようやくアメリカ軍による演奏は一時休止を迎えられた。
指揮官は銃を構えながら、警戒する。
土煙が晴れていくと、影が蠢いている。
そこには無傷のグレゴールが立っていた。
彼は人間サイズの毒虫だ。その有毒性ばかりに目を引かれるが、巨大な昆虫であり人間より頑丈な構造をしている。
そして毒虫には無数の足が生えており、気味悪い斑点がつけられており、背には『甲羅』がついている。
指揮官が叫ぶのと同時に、グレゴールは軍隊へと接敵した。
『無数の足』による高速移動は人間のそれを遥かに凌駕する。車にでも引かれたような衝撃で、軍人の何名かは吹き飛ばされていった。勿論そこには最前線を立っていた指揮官も含まれている。
銃に囲まれて、グレゴールは立ち止まると身を大きく震わせる。今までは移動するだけで人を死に至らしていった彼だが、ここにきて初めて明確な攻撃意思を見せたのだ。
体内に宿されていた災厄は、大量の毒液として噴射されていく。アメリカ軍は対テロ用の防毒マスクを装備しているが、彼の明確な攻撃はいとも容易くマスクを貫いていった。一人、また一人と、激しく痙攣しながら無力な肉塊となる。
最後の通信が途絶えた時点で、アメリカ政府は非常事態宣言を発令した。
こうしてグレゴールとアメリカ政府、いや世界との戦争は始まりを迎えていった。
人類の長所には悲観的な予測ができるという生まれながらの想像力がある。
ネガティブ思考とは危険をシミュレーションできる力だ。誰しもがその能力で予測できるように、グレゴールと世界との戦争は激化した。
大気は侵されていき、海は濁っていき、大地は腐り果てていく。数年も経てば常識なんて別物へと変わっていく。狂気に犯されていった人間の逃避行動というものは醜いもので、自分の身が助かる為ならあらゆる宗教も捨てるし、愛しい我が子でさえも贄として差し出せる。
まさにグレゴールが当初想定していた通りの支配階級が構築されようとしていた。
各国の有する兵器は総じてグレゴールの身体スペックには通用しない。背についた甲羅はあらゆる銃火器を弾いてしまい、接近しようにも毒を振りまかれれば勝ち目がない。
追い詰められた軍により空からミサイルを投下されたこともあるが、未だにグレゴールが猛毒を撒き散らしている現実が、何よりの答えとなる。
果たしてこのまま一匹の毒虫により世界は終わってしまうのだろうか。
グレゴールが大地を渡っていき、神に祈りを捧げながら死に行く巡礼者が数万を超えた頃。
小高い丘に鎮座する毒虫の下へと、一人の女性が近寄っていった。
彼に近付いてくる人間はたまに現れる。
毒虫を新たな神として認識しては、まるでカルト染みた創作性溢れる儀式を実行するために人身御供として現れることがある。またその類いだろうと、彼はため息を吐くように身を震わした。もしくは神託を聞こうとする愚者かもしれない。大抵そういう人間は近寄ると、満足そうに狂気的な笑みで死んでいくものだ。
だからこそグレゴールは気にも止めない。このまま殺しても良いが、わざわざ構うのも億劫に思えた。さてどうしたものかと思案を巡らせていくうちに、女性はいつの間にか即死圏内まで近寄っている。
まあ良いやと、彼にしては珍しく合理性のない遅い決断をした。殺しても殺さなくても良い。数年にわたる環境はグレゴール自身も変えたのだろう。
その慢心は、一匹の毒虫を傷付ける結果へと繋がった。
グレゴールの身体から紫色の体液が垂れ流される。即座に無数の足による高速移動で身を引き、女性を見た。容姿は二十代とまだ若く、グレゴール自身よりも若干歳下とも思える。
しかし極めつけは、彼女の背後から伸びる一本の針に目を奪われる。それは蜂のような、サソリのような、生物的構造をした巨大な針であった。
「やっと会えたね、兄さん」
グレゴールは毒虫になってから初めて悪寒というものを感じた。
確かにどこか見覚えがあるような気がする。
確かに彼女の死体は確認していない。
確かに彼女の行方は判っていない。
まさかと思い、過去の記憶を巡らせる。
「私の名前は、カフカ・ザムザ。妹の顔は覚えているようだね」
カフカと名乗る女性の顔つきに毒虫は初めて狼狽した。追い払うように毒を撒き散らしながら後退するが、それを逃すほど女性も慈悲あるわけではない。
「ここで終わらせよう。兄妹喧嘩は初めてかな」
カフカは目を閉じて、大きく息を吸い込んだ。まるで決別を示すかのように。まるで殺し合いを宣言するように。揺るがない意思を持って、言葉を発した。
「変身……ッ!」
カフカ・ザムザは目覚めると一匹の毒虫になっていた。甲羅のついた手、黄土色の腹、図太く凶悪そうな六本の足、そして、背には身の丈以上の毒針が生えている。しかもただの毒虫ではない。力と欲望に溺れてしまった兄を唯一殺すため成長した、強力な毒虫だ。
彼女は人類の願いを背負っている。まさにパンドラの箱に残った最後の希望とも言える。
人類の命運をかけられた二匹の毒虫。
壮絶な戦いは、始まりを告げたばかりである。
続きません