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眠る星

 

 

「三階堂さーん。ちょっと来てもらっていいですか?」

 と、午後五時頃、高浜さんに声を掛けられた。

 

 珍しいことだった。たとえば、私がうろちょろどこかに用事をこなしに出かけていったり、社長から命じられた雑用をバックルームでこなしていたりと、そういうタイミングだったらわかる。そういうときに私の代わりに受付に座ってくれていた高浜さんが助けを求めてくるのは、まあないことではない。

 

 でも、私が受付に座っているときに奥から呼ばれるのは、かなり珍しい。

 椅子を立って、声のした方に向かう。展望室の両開きの扉から、高浜さんが顔を出している。隣にはいつもの常連、月丸さん。高浜さんよりもだいぶ控えめに顔を出した彼は、ども、と頭を下げてくれた。

 

「どうしたの。投影止まっちゃった?」

「いや、投影は終わったんですけど。ちょっと見てください」

 

 言われるがまま、私は展望室の中に入っていく。

 

 映画館の小さめのシアター一つ分くらいの広さをした、ドーム状の部屋だ。ちょうどお椀をすっぽり伏せたような形をしていて、床は段々に下ることもなくただ平面。扇形に並べられた椅子は一見すればそれこそ映画館や講堂にあるものと似た形に見えるけれど、そんなことはない。濃紺、あるいは青紫色にも近いそれにはリクライニング機能が付いていて、結構な数のお客さんを眠りの淵に落としていく。

 

 そして中央には、望遠鏡の王様みたいな巨大な機械が置いてある。

 

「さっき、月丸さんに教えてもらったんですけど」

 

 高浜さんは展望室の隅の方、コンソールの方に引っ込んでいる。彼の手が動くと、ぱっとドームの天井に星が散った。

 

「気付きます?」

「何に?」

「あれ」

 

 戸惑っていると、いつの間にか隣に来ていた月丸さんが、指を差してくれた。私はちょっとだけ膝を曲げて、同じくらいの高さから視線も合わせてみる。

 

 特に、何もわからない。

 

 せいぜいが「あれがオリオン座で」「真ん中に明るい星が三つあるからあれだけはすぐ見つけられるなあ」とか、それくらい。何か自分がわざわざ呼ばれる理由があるとは思えない。

 

「やっぱりわかりませんよね」

 と高浜さんは言った。

 

「星が増えているって言うんですよ」

 

 はあ、と納得しかけてから、一気に驚きが来た。

 

「増えてるって……月丸さん、覚えてるんですか? 星の配置」

 

 もちろん、このプラネタリウムに投影される星の数は、実際の宇宙に存在するそれとは比べ物にならないほど少ない。しかしそれでも、その数は数千は下らないはずだと思う。

 

「全部ではない、けど」

 実際、月丸さんも一度は首を横に振ったけれど、

 

「でも、前はなかった……と思い、ます」

 

 気付けるものなんだろうか。

 毎日のようにここに来て、この景色を見ていれば、自然とそんな風に目に焼き付いて、ちょっとした違和感にも気付けるものなんだろうか。「あれ」と月丸さんはもう一度指を差して教えてくれるけれど、私ではその「あれ」がどれなのかわからない。

 

 わからないならわからないなりに、話を進めることにした。

 

「これ、他のプロジェクターは切ってあるの?」

「切ってます。今動かしてるのはそのメインの投影機だけで」

「じゃあ、原因はこれ……あ、待って。一回投影止めてみて」

 

 止めてくれた。

 一応私は、月丸さんが指差してくれていた方に目を凝らしてみる。

 

「特に天井にも異常なさそうだね」

「そうなんですよ。だから困ってて」

 

 コンソールの方から、高浜さんがこっちに歩いてくる。彼は投影機を見上げながら、

 

「軽く見てみたんですけど、恒星原板の方の問題なんじゃないかと思って」

「恒星原板……」

 

 って何だっけ、は従業員としていくら何でもと思うので、私は一番最初、ここに勤め始めた頃に社長から貰った説明を、頑張って頭の中で思い出してみる。

 

「雛形のね」

「それかレンズの方か。どちらにせよ、ちょっと僕では」

 

 月丸さんがあまり呑み込めていないように見えたから、私は簡単に解説した。

 プラネタリウムの天井に星を映すには、あの大きな投影機が使われている。その投影機の仕組みはといえば、あのボールのようになっているところの内側にたくさんの小さな星空が――細かな穴の開いた金属板が入っていて、それを内側から照らすことでスクリーンに光を投影している。

 

「その星の雛形になっている金属板を、恒星原板って言うんです」

 

 それで月丸さんはあっさり頷いてくれた。恒星原板という言葉を知らなかっただけで、元々仕組みについては見当が付いていたのかもしれない。

 

「それって、ここで作ってるんじゃないんですか」

「ここではないんですよ。業者さん……ですか?」

「正直、私もよく知らないや。消耗品と同じで、恒星原板って、一番最初に社長が貰ってきてそのままなんじゃないかな」

「え。……そんなこと、あるんですか」

「あるんです。そもそもこの投影機自体、社長がそうやって貰ってきたものらしくて」

「らしいですね。博物館が閉まるときに貰ってきちゃったとか」

「あ、そうなんだ。それは知らなかった」

「あれ、三階堂さんが知らないなら嘘かも」

 

 何嘘って、と訊くと、いや何かの記憶と混同してるのかもしれませんと高浜さんが言うから、私の方も段々「そんな話を聞いたような」という気持ちになってきた。この手の古いのは保管したり処分したりにもお金がかかるから厄介だという話を聞いたのは、そういう文脈の中でのことだったっけ。

 

 高浜さんは、投影機を改めて眺めて、

 

「でもこれ、実際に今買うといくらくらいなんでしょうね。億とか?」

「お……!?」

 

 月丸さんが、聞いたこともないような声を出した。

 

「そ、そんなにするんですか」

「するんじゃないかなあ。ここのドーム建設費もどうやって捻出したんだろうって、たまに不思議になります」

 

 社長は「金がある状態から金を増やすのはそんなに難しくない」って言ってましたよ、と教えてあげる。「雪だるま式ですね」と高浜さんは笑って、

 

「あ、で、そうだ。すみません脱線しちゃって。それでどうしましょう、三階堂さん」

「とりあえず私から社長に連絡してみ――あれ、圏外だ。向こうで電話してきちゃうね」

 

 通話しようにも、電波が通じていなかった。

 元からここってこうだっけ、と首を傾げながら、私は一人バックルームに向かう。たまにしか鳴らない、鳴ってもほとんどの場合私が取っている固定の電話機を掴まえて、このご時世に珍しくも暗記している番号を入力する。

 

『おかけになった電話は、現在電波の届かないところに――』

 

 向こうもらしい。

 電波障害でも起こってるわけじゃないだろうに。留守電に「トラブル発生。着信を見たら私でも高浜さんでもいいので折り返しください」と言い残して、展望室に戻る。投影機の傍で、高浜さんが月丸さんに「ここがこうで」「ああなって」と仕組みを説明している。

 

 二人とも、私に気付く。

 両腕で×印を作って、疑問に答えてあげた。

 

「ダメ。出なかったから折り返し待ち」

「了解です。それじゃあ投影は……」

「一旦止めておこっか。私たちだけじゃ何かあったとき対応できないし。ちょうど五時からのお客さんも来てないし、明日は定休日だから。その間に連絡付くでしょ」

 

 了解です、と高浜さんが頷く。そういうわけだからと、月丸さんにお礼もする。教えてくれてありがとうございました。いや、と彼はいつものように帽子のつばを引っ張って答える。

 

 連絡は、付かなかった。

 

 

 

 

「出た」

 と私が言えば、「よくあるんですか」と高浜さんが訊く。

 

「よくはないんだけど、前にもあったんだよ。まさか倒れてるのかなって心配して、私、家まで行っちゃって」

「どうだったんですか?」

「それがそっちも全然。車もないからどこかに失踪したのかと思って、警察に届け出を出したりして……でもそうしたらあの人、一週間くらいしてからケロッと帰ってきて。それでなんて言ったと思う?」

「『留守番ご苦労』?」

「『急な仕事で忙しかった』……でも、高浜さんのそれの方が面白いかも。そっちだったことにしようかな」

 

 始業前のバックルームで、早めに集合したから、まだ時計は午前九時を指していた。

 

 頭を失った従業員二人が話し合うべきことは、たった一つしかない。私たち、これからどうしようか。

 

「恒星原板の不具合だけなら、私が投影前に入って説明しちゃおうか」

「そうしてもらえると助かりますけど、ちょっとその前にもう少しこっちで投影機を見させてもらっていいですか」

 

 もちろん、と頷く。何やるの。

 

「怖いんですけど、バラしてみて、本当に恒星原板が不具合の原因なのか確かめておきたくて。ランプの方に問題があったら、もしかしたら発火まで行くかもしれないですし」

 

 自然と二人で、視線が同じところに集まった。バックルームの端の消火器。たまに〈銀河〉全体でやる防災訓練で扱い方は教わっているけれど、使う機会には遭遇したくない。

 

 了解、と頷いてから、

 

「その前にもう一回掛けておこうか。電話」

 と受話器を取った。

 

 ボタンを押して呼び出し音が鳴るのを待つ。三コール、五コール、七コール。永久にこのまま鳴らし続けてやろうかと思うけれど、いつも途中で留守番電話サービスに繋がってしまうからかえって不完全燃焼の気分になる。八コール。九コール目で高浜さんと目を合わせて、肩を竦めて、

 

「もしもし」

 十コール目の途中で、向こうから声が聞こえた。

 

 一瞬、番号を間違えたのかと思った。しゃがれたような低い声。後ろからは、まるで電車がホームに着いたばかりの駅にいるような喧騒が聞こえてくる。寝起きか、それかノイズでも乗っただけかもしれないと、気を取り直して、

 

「三階堂です」

 

 名乗ると、二秒ほど間が空いて、ああ、と返ってきた。

 

「社長、今大丈夫ですか? ちょっとプラネタリウムの設備に問題が出てて」

「悪い。仕事が立て込んで――ちょっと待て。問題ってのは何だ」

「恒星原板? らしいんですけど」

「もう少し詳しく」

「知らない星が」

 

 増えてるんです、と私は言った。

 けれど、届かなかったらしい。電話口を手のひらで塞ぐような音が聞こえた。少し遠いところで、社長が何かを言う声がする。

 

 喧騒が止んだ。

 

「もう一回言ってくれ」

「だから、投影したときに光が余分に出ちゃってるみたいなんです。知らない星が増えてて。高浜さんは、恒星原板に異常があるんじゃないかって言うんですけど」

「どのあたりだ」

「どの――えっと、オリオン座のあたりです」

「三階堂」

「はい?」

「私が戻るまでプラネタリウムは休館にする。後は頼んだ」

「は?」

 

 切れた。

 つー、つー、と受話器から音が流れてくる。リダイヤルを掛ける。おかけになった電話番号は現在――

 

 受話器を置く。

 どうなったんですか、と高浜さんが訊いてくる。

 

「しばらく閉めるって」

 伝えれば、もちろん彼は驚いた。

 

「それは……やっぱり結構、致命的な故障なんですか、これって」

「全然わかんない。不具合の内容を伝えたら、『私が戻るまで休館にしろ』って、それだけ」

 

 高浜さんは戸惑っている。もちろん、こっちも戸惑っている。けれど、私はそれなりに社長との付き合いが長いだけあって、こういうときは慌てても無駄なのだということがわかっている。

 

「とりあえず、休館用の看板に張り紙してきちゃうね。機材メンテナンスにつきしばらくお休みしますって」

「あ、は、はい。じゃあ、僕はホームページの方に文章を載せておきますね」

「お願い。〈銀河〉の方にも一応連絡しておくとして……後何かあるかな」

 

 とりあえず、と高浜さんは頷いてくれた。こういうとき、一人じゃないのは遥かに気が楽だ。

 

 じゃあそういう流れで、と早速それぞれの仕事に取り掛かる。まずは机の上からコピー用紙を引き抜いて、お知らせの作成。変に凝らない方が急遽感が出ていていいだろう。それからセロテープを持って、バックルームを出る。いつもの『本日の上映は終了しました』の看板に、びーっとその紙を張り付ける。

 

「お……」

 と、背中から声がする。振り向く。目が合う。

 

「お、ざいます。今日って……」

 

 月丸さんがいる。

 後何かあるかといえば、彼のことがあった。

 

 

 

 

 月丸さんは、いわゆる不登校児だそうだ。

 

 だそうだというか、単純にプラネタリウムに来てくれている日のうち平日が何日あるかを数えてみれば、はっきりとわかる。彼は、そんなに学校には行っていない。

 

 深い理由を訊いてみたことがないのは、そもそも人見知りが激しそうに見えるのと、わざわざここに来ているのに、無理に学校のことを思い起こさせる必要もないだろうと考えているから。一応、月丸さんのご両親は何度も挨拶に来てくれていて面識があるので、社長なんかはそのあたりの事情もしっかり把握しているのかもしれない。

 

 私がわかっているのは、朝九時前に月丸さんは〈銀河〉に車で下ろされて、夕方五時過ぎ頃に迎えが来るということ。

 

「あ、いえいえ。大丈夫ですよ。どうせ今日一日はプラネタリウムに詰めているつもりだったので。いえ。そうなんですよ、急な機材トラブルだったので何とも……。はい。はい。ええ、大丈夫ですよ。それではお迎えお待ちして――あ、全然急がなくて大丈夫ですからね。いえ、どうせ今日はこっちで夕食を取るつもりなので。運転、お気を付けて来てください。はーい、では」

 

 受話器を置く。

 バックルーム。肩身が狭そうに椅子に腰掛ける月丸さんに、微笑みかける。

 

「いつもの時間にお迎えに来てくれるみたいですから、今日はゆっくりしていってください」

「……すいません」

「いえ、こっちこそ。ごめんなさい、急なお休みになってしまって」

 

 月丸さんのご両親は、日中の仕事の関係で今すぐ迎えに来るのは難しいとのことだった。小学生を一人だけで一日放り出しておくのも忍びない。うちでお預かりしましょうかと言えば、向こうも結構、このプラネタリウムを信頼してくれているらしい。あるいは、それを運営している社長のことをか。いいんですかすみません、とこっちが恐縮してしまうような話しぶりで、承諾してくれた。

 

「月丸さん、何か時間を潰すものとかは持ってますか?」

「一応……」

 

 高浜さんが訊けば、月丸さんは鞄からゲーム機を取り出した。それはよかった、と彼は笑って、

 

「バックルームにいてくれても構いませんし、何なら展望室に行ってもらっても大丈夫ですよ。椅子は向こうの方が柔らかいかな」

 

 じゃあ、と頭を下げて、月丸さんは展望室の方に抜けていった。

 さて、と従業員二人だけが残されて、

 

「電話番と受付説明係、どっちがいい?」

「……正直に言ってもいいですか」

「どっちも嫌なんでしょ」

 

 はい、と高浜さんは頷いた。最初の頃はこういう発言をするたびにもう少し申し訳なさそうというか、見ていて気の毒になる感じの意気消沈を見せていたけれど、最近はどうも「とほほ……」という声が聞こえてきそうな感じで、気軽な意思表示になってきている。

 

「いいよね」

 私の方も、それに合わせて軽い調子で、

 

「別に閉館してるんだから、私たち、本当はいないんだし。月丸さんのこともあるから、同時にはいなくならないようにしておいて、そのくらいで。何かあったら呼んで」

 

 いつも助かります、と彼は言う。いえいえこちらこそ、と私も言う。

 

 そうして、薄ぼんやりと時間は過ぎていった。

 

 いつも「大してやることもない仕事だなあ」と思っていたけれど、本当にやることのない日がやってくると、単なる勘違いだった気もしてきた。受付には、かなり早い段階で座っている意味がないことに気が付いた。むしろ私の姿が外から見える方が人を戸惑わせる。エントランスの電灯を切って、いよいよ完全に閉館した風に見せた方がずっと親切だ。

 

 高浜さんに言って、トイレに行ったのが一回、二回。

 そろそろお昼の時間が近付いてきたから、聞き込みをしようと思った。

 

「高浜さん、外食べに行く?」

「お弁当があるので、僕は大丈夫ですよ」

 

 バックルームで高浜さんに確認。三階堂さんは、と訊かれるけれど、この時点では特に決めていない。次は展望室へ。普段からお昼の時間帯はフードコートに行ったりしているみたいだから余計なお世話だろうけど、一声かけるくらいはしてもいいだろう。扉を開けて、月丸さんを探す。

 

 真ん中あたりの席、投影機からそれほど遠くないところに彼は座っている。近付くと、もうゲーム機を触ってはいなかった。

 

「月丸さん」

「はい」

「お昼ごはんはどうしますか? 私は今から、フードコートか食品売り場に買いに行くつもりなんですけど」

 

 だいじょぶです、と彼は答えた。持ってるんで、とポケットから財布を取り出して見せてくれる。私も特には深追いしないことにした。子どもの頃を思い返してみれば、大人と同じ空間にいること自体に多少のストレスを感じていた。

 

 そっか、と頷いて踵を返そうとした。

 何かあったら言ってねくらいの言葉は掛けてもいいかと、その足を止めたら、そのときに、

 

「あの、これって古いんですか」

 と、月丸さんが訊いた。

 

 指を差しているのは、投影機だった。いかにも宇宙から取ってきましたというような、厳めしいデザイン。電気を点けているから今日はそこまででもないけれど、プラネタリウムの上映前後なんかは、思わず息を潜めてしまうような存在感を漂わせている。

 

「具体的な年は知らないんですけど、もう耐用年数は超えてると思います」

「太陽……」

「賞味期限みたいなものです。本当ならもう壊れていてもおかしくないって、前にオーナーが言ってましたから。わかりますか。私と、あのお兄さんと、もう一人いる」

 

 こくりと月丸さんは頷く。

 賞味期限、と繰り返し呟く。

 

「施設や設備の老朽化で、今は色んなところでプラネタリウムが休館してるみたいです。何せ、オーナーが子どもの頃からあるようなところもたくさんありましたから」

「休館って、直さないんですか」

 

 素朴な質問だけれど、私が口にしなくてはならない答えは、それに比べて世知辛い。

 

「お金がかかりますからね。それこそ、リニューアルに何億円とか。大きい自治体……都道府県とか、区とか、市とか、会社さんならともかく、今は色んなところで過疎化が進んだりで元気がなくなってきているので、難しいところもあるんだと思います。それに、お金があっても修理できるとも限らなくて」

 

 たとえば、とちょうど月丸さんの膝の上にゲーム機が載っていたから、

 

「そのゲーム機の、前の前くらいのゲーム機を私、昔持ってたんです。でももう、販売元では修理してくれないんですよ」

「……なんでですか」

「修理できる人がいなくなっちゃったとか、その部品を作らなくなって、交換ができなくなったとか、私もそんなに詳しくはないんですけど。特に投影機はそんなにたくさん本数を作るものでもないですから」

 

 しばらく、彼は投影機を見ていた。

 その眼差しは真剣で、私もちゃんと答えたつもりとはいえ、何となく申し訳ないような気持ちになる。だから、努めて優しくその先を続けた。

 

「でも、うちのオーナーってちょっと変わり者なので、なくなることはないと思いますよ」

 

 知ってますか、と訊ねてみた。最近のプラネタリウムは、こういう大きい投影機じゃなくて、もっとスマートな形になってたりするんです。星の数も色も増えていて、場所によってはプロジェクターを使っているところもあるらしくて。だからオーナーが戻ってきたらまた、

 

 ぼろ、と月丸さんの瞳から涙が零れた。

 

「あ、えと、っす」

 

 驚いた私を、彼は片手で制した。だいじょぶです、と言う。ハンカチを出しもしない。もう片方の手で目頭を押さえると、すー、と数回、深く鼻で息をして、

 

「だいじょぶです。あの、おれ、いつもその、こうなっちゃうんで」

 

 そう言われても、普段からあまり感情がわかりやすいとは言えない子だから、本当に大丈夫なのかこっちにはわからない。屈み込むだけ屈み込んでみる。ほんとにだいじょぶです、と彼は言う。

 

「教室とかでも、よくなるんで。スイッチ入ると、なんか」

 

 ほっとけば治るんで、と彼は本当に慣れた調子で言った。

 その日の日中にあったことは、それだけだった。傍にいた方がいいか、そっとしておいた方がいいかと訊ねると、一人で、と遠慮がちに月丸さんは言った。私は罪悪感とか不安感とかそういうものを抱えながらバックルームに引っ込んで、その代わりに高浜さんがたまに様子を見に行ってくれて、気付けば五時過ぎ。

 

 いかにも慌てた様子で、月丸さんのご両親がやってきた。どうもすみません。お世話になりました。いやいや今日に限らずいつも息子が大変お世話になっておりまして――。そこまで言われると、かえって申し訳なく思える。うちの方でも突然な事情でしたからと切り返して、それから私は、こっそりと月丸さんのお母さんに訊ねた。

 

 申し訳ないのはこちらで、実は昼に――

 

「ああ……」

 彼女は納得したような、諦めたような様子で頷いた。

 

「気にしないでください。本人も理由がわからないみたいで……。こちらに来るとそういうことが起こらないので、大瓦さんには親身になっていただいてたんですけど」

 

 びっくりしちゃったんだと思います、と。特に私に怒ることもなくそう言って、親子三人は去っていった。

 

 高浜さんと二人で話した。今日はとりあえず一日いてみたけど、明日からはどうしようか。あんまり僕たちがいる意味はないような気がしましたね。やっぱりそうだよね。

 

「じゃあ、社長が来るまでは各自――」

 

 自由で、と言うところだった。

 駆け足の音が、耳に届いた。

 

 特別な意味を持って、たとえばお客さんが来たのかもとか、そういうことを思って振り向いたわけじゃない。ただ何となく。強いて言うなら、たまにそうして〈銀河〉の中を走り回る子どももいるし、エスカレーターが近くにある場所だから、うっすらとした心配を込めてそっちを見たのかもしれない。

 

 月丸さんだった。

 

「あの、」

 

 急いで戻って来たらしい。息を切らしている。何かを言おうとする。左右をきょろきょろと見回して、

 

「来て」

 

 結局、それだけ言って彼は、私と高浜さんの袖を引いた。

 

 どうしたの、と訊いても特に声は返ってこない。そのままエスカレーターを下らされる。こういう風に扱われるということは少なくとも嫌われてはないんだろうな、とちょっと安心する。一階に着く。そのまま出口の自動ドアをくぐる。年が明けてからしばらく経って、でも、まだ冬だ。頬はぱっと張り詰めて、首元から胸に入り込んだ空気は、砕けた氷のように冷たい。日の入りはずっと遅くなって、まだ夕暮れと夜との境目に私たちはいたけれど、その光の色も、照らされた雲の影も、どこか金属的な無機質さを放って見えた。

 

「あれ」

 と月丸さんが指を差す。もちろん私は覚えている。つい最近、同じことがあった。そのときと同じことをした。膝を屈めて、視線を合わせる。彼が指し示す方向を、目で追い掛ける。

 

 今度はわかった。

 それ一つしか、見当たらなかったから。

 

「プラネタリウムで光ってたのと同じの、だから」

 

 見せたくて、と彼は言った。

 

 

 

 

 しばらく、私は漠然とした日々を送った。

 

 降って湧いたような休暇の日々だ。まずは、年末に気合が足りなくてやらずにいた大掃除をしてみる。シューズクロークの中にほとんど使っていないジョギング用のスニーカーを見つけて、ちょっとだけ走ってみたりもした。湯舟にはいつもの倍の時間を掛けて浸かって、高浜さんの教えに従って買い揃えた調味料の消費計画も立ててみる。

 

 数日が経つ。長いこと封を開けずにいた貰い物の紅茶を淹れて、朝のニュースと占いを眺めていると、不意にドーナツが食べたくなった。年始に買った服に着替えて、〈銀河〉に行くことにする。

 

「なんだ、潰れたんじゃなかったのか」

 と、ドーナツ屋さんの店長を務める茂倉さんは言った。

 

 縁起でもないことを言わないでください、と言うと、悪い悪い、と快活に笑う。

 

「いや今、入り口のパンフレットのところに出てるだろ。プラネタリウム休館中って。前にそうやって市民センターのが潰れたことがあったからよ、こっちもいよいよかと思って。ふっるいんだろ? あの機械」

 

 しっかしまあ、と茂倉さんは重ねて、

 

「あのへんは元々閑散としてると思ってたけど、意外とプラネタリウムも存在感あったんだな。閉じてたら一気にしょんぼりして見えら」

「閑散とって……失礼な。どこも似たようなものでしょ」

「まあな。閑散とした地方都市だよ。空洞化ってやつだ、空洞化」

 

 多分、ドーナツを見ながら喋っていたからその単語が出てきたんだと思うけれど、別にこのあたりに『栄えている』と言えるような周縁部はないので、空洞化という言葉は正しくない。では何が正しいのかと言うと……口には出さないまま、私は店内の席でドーナツを二つ食べた。

 

 本屋さんに向かう。

 この間、月丸さんの迎えを待っている日に思った。本当に何もない時間を過ごそうとしたとき、あのプラネタリウムには暇つぶしになるものがなさすぎる。『今年一番売れてます!』と威勢の良いポップが書かれているのと、その周りにあった短編集を、合わせて三冊買ってみた。早速、プラネタリウムにそれを置きに行く。

 

 鍵を開けると、本当に静かな場所だった。

 

 廊下の電灯が瞬く音まで、耳に届いた。廊下を歩いて、バックルームへ。机も椅子も冷蔵庫もケトルも何もかもが、あの日の続きのままで残っている。私の頭の中には、幽霊船が浮かんでいた。それは、どこかの遠い海に現れた船の話だ。どこから来てどこへ行くのかもわからない。すれ違って不思議に思った別の船が、おおい大丈夫かと声を掛ける。声は返ってこない。中に乗り込んでみると、誰もいない。なのに、事件が起こった様子もない。争いの跡もなく、ちょっとどこかに出掛けてまだ戻ってきていないだけというように、全てのものが日常の続きのまま、そこに置いてある。

 

 天井から音がした。

 

 私はそれを目で追う。小さな足音にも思えたし、この建物の屋根の厚みを考えれば、とても大きな足音にも感じた。その音はバックルームを出ていく。廊下を歩いていって、展望室へと向かう。

 

 暗く大きなその部屋で、その音は途絶えた。

 椅子に腰掛けてみる。静かで、暗くて、だからすごく当然のことが起こる。

 

 しばらくの間、私は眠った。

 

 

 

 

「三階堂さん。おーい」

 と声がするから、目を覚ました。

 

 開いた瞼の隙間から、ちかっと光が差し込んでくる。「あ、ごめん」と声の主は言って、それを消してしまう。明暗の差で、全く視界が効かなくなった。声を思い出して、当たりをつける。

 

「浦々さん?」

 

 そうだよ、と彼女は答えた。じわじわと、思考が戻ってくる。

 

「なんでいるの」

「こっちの台詞ですけど。久しぶりに開いてると思ったら、受付に三階堂さんいないし。中にいるかなと思って探してみたら、寝てるし。危ないよ」

 

 ああそっか、と私は言う。寝ちゃってたんだ、なんて白々しいことも言う。ありがとう、と彼女にお礼を言って立ち上がる。

 

 ちょっとだけ目が慣れた。

 浦々さんが、どこにもいない気がする。

 

「ていうかそう、三階堂さんに会ったら聞いてもらいたいことあったんだよね。今暇?」

「暇、だけど」

「あたし今、親と絶賛喧嘩中でさあ」

 

 きょろきょろと、辺りを見回してみる。やっぱり、彼女の影も形も、ここにはない気がする。暗闇に紛れてしまっただけなんだろうか。代わりに、耳を澄ましてみる。

 

「それが聞いてよ、あたし全然悪くないわけ。親が健康診断で引っ掛かって入院検査するかもとか言って不安がってたからさあ、ばしーんと言ってやったんだよ。『そんときはあたしが世話してやっから心配すんな!』って。そしたら親が超怒り出すの。理不尽じゃない?」

 

 その声は、ずっと上の方から聞こえているような気もしたし、すぐ近くで響いているようにも思えた。プラネタリウムドームでは、音の聞こえがすごく良い。前に、コンサートの会場に貸したこともあった。

 

「『そんなことできるわけないだろ』って。でもあたし、結構ほら、バイトもちゃんとやれてるじゃん。やれてるの。だからそう言ったら、『あんなとこいつまであるかもわからない』って。ねえ、どう思う?」

「……うーん」

「なくなるわけないじゃん。だってここ、あたしが生まれる前からあるんだよ? 大体、『あんなとこ』って言い方もなくない? このへんで一番栄えてるのってここじゃん。ここがなくなったらもう、このへん何もなくなっちゃうじゃん」

 

 わんわんと、その音が反響を始める。誰の声なのか、わからなくなってくる。

 

「あたしが生まれたとこって、そんなに言われるほど悪いとこ? 抜け出さなくちゃいけないようなとこなの? 入院前で不安なのはわかるけどさ、あたしだって悪気があって言ったわけじゃないじゃん。むしろ安心させてやろうって思って、こういうの、子の心親知らずっていうかさ……ねえ、三階堂さん」

「何?」

「三階堂さんは、そう言われてどう思った?」

 

 声が止んだ。

 

 非常口を知らせる看板が、部屋の隅で輝いていた。その白と緑の灯りに沿って歩いていく。出口まで行って、展望室の電気を点けようとする。点かない。不具合か停電か。確かめるためにそのまま廊下を歩いて、エントランスまで行く。

 

 機械音だけが、ほのかに耳に届く。

 エスカレーターは動いたままで、誰の姿もなかった。

 

 吹き抜けの柵に沿って歩いていく。自分のもの以外は、何の足音も聞こえない。三階を一通り歩き通して、フードコートにもどこにも、人の気配がない。店頭に並ぶ顔のないマネキンが、夜な夜な働いてこの場所を作り出したようにも見えた。戻ってくる。エスカレーターに乗る。

 

 下った先は、また三階だった。

 何が違うのかと思ったら、入っているテナントが違う。

 

 前にここには、キャンプ用品店が入っていた。いつの間にかなくなっていた。いつ頃のことだったのかは覚えていないけれど、とにかくそれは、昔のことだったと思う。それ以外は何も変わらない。

 

 もう一階、下に降りる。

 今度は靴屋さんが入っていた。こっちも覚えている。なぜかこのあたりに靴屋さんが三軒と靴も扱うスポーツショップが一軒の計四軒が入っていた。品揃えもそんなに変わり映えはしなくて、一軒また一軒と撤退をしていったときは、それはそうなるだろうなと思った。これも、いつのことだったのか覚えていない。

 

 もう一階下がる。

 次は、英会話教室。

 

 もう一階。

 ホームセンター。

 

 お菓子屋さんに晴れ着屋さん、写真に雑貨にCDショップ……。段々と、見覚えのないものも増えていく。開店セールの文字を見かけて、立ち止まる。エスカレーターはまだ続いている。下の階を覗き込む。その果てが見えない。上を仰ぎ見る。天窓が開いている。目を逸らす。

 

 エレベーターがあるのを見つけた。

 

 呼び出しボタンを押すと、長い長い時間の果てに、その扉は開いた。階数の指定ボタンが、壁と床と天井に、隙間なく並べられている。乗り込んでも、まだ押す意思がないから、床のボタンは反応しない。無数の数字が並んでいる。『3』を見つける。押すと、全てのボタンに光が灯る。扉が閉じる。月まで続く塔を登るような、永遠に止むことのないような浮遊感が背中にのしかかってくる。

 

 止まる。

 開く。

 

〈銀河〉の中にいる。

 

 どこからか微かに、エスカレーターでもエレベーターでもない音が聞こえてきていた。

 

 辿って行くと、フードコートに着く。そのさらに奥で電子音が響いている。何かが動いている気配がして、そっとその奥を覗き込んでみる。

 

「月丸さん」

 

 声を掛けると、その途端にゲームオーバーの文字が画面に現れた。ああ、と思う。子どもの頃に大人からこういうことをされた記憶があるけれど、とうとう自分が、それをする側になってしまった。

 

 けれど、月丸さんは気を悪くした風でもなかった。ぼんやりとその文字を眺めながら、彼は口を開く。

 

「この間、学校、行ったんです」

 

 えと、とたどたどしい言葉で言う。いや、いつも行ってはいるんですけど、そういうことじゃなくて、

 

「プラネタリウム、閉じちゃったから。平日毎日、行ってみて。でも、」

 

 途切れる。

 

 隣に座る。ゲームの筐体は、ほとんど電源が入っていないのかもしれない。何の息遣いもないまま、静かに佇んでいた。

 

「おれ、ほんとはああやって泣く理由、わかってて」

「うん」

「前、合唱の練習してるときだったんだけど、急に『おれがこうしてる日って、生きててもう二度と』……その、『会うことないんだ』って思って。思い出したくても思い出せなくなったりするんだって思って、でも、そうやって思ってる時間ももう、そう思ってるときにはなくなってて、掴めないから、なんかどうしようもなくて」

「うん」

「なのにおれ、学校行っても平気だった。毎日行っても、全然なんか……悲しくはなるけど、泣いたりしなくて。全然、普通っていうか」

 

 月丸さんが、こっちを見た。

 帽子は、筐体の上に置きっぱなしになっている。伸びた前髪の向こうから、ゲームの光を瞳に映し込んで、

 

「これって良いこと? 悪いこと?」

 

 連れ立ってプラネタリウムに向かうと、やっぱり中は真っ暗なままだった。

 コンソールの方に進む。月丸さんが心配そうにこちらを窺う気配がするから、努めて背を伸ばして、それを見る。

 

 昔、一時期だけこの仕事もしたことがあった。ボタンを押してプログラムを開始するだけ。本当はもっとたくさんの仕事があるらしいけれど、その頃は単なる間に合わせで、それだけでよかった。

 

 ボタンを押す。

 

「夜空を見上げて、あなたはいくつの星を見つけられますか?」

 

 音と光が流れ始めるから、それを頼りに、月丸さんの隣に腰掛けた。

 オリオン座の方角には、一際強く輝く星があった。もう、月よりも明るい。

 

「こうした重たい恒星が最後に放つ光を、超新星爆発と呼びます。また、太陽は超新星爆発を起こすほど重たい恒星ではありませんが、同じく寿命があり――」

 

 流れているのは、昔の声だ。

 社長に渡された台本をいくつも目の前にして、何度も練習した。簡単なものもあれば、妙に専門的で、読んでいる自分にすら全くわからないようなものもあった。「こんなの子どもが聞いてもわかりませんよ」と訴えると、社長は「それでいいんだよ」と言った。理解は後から追い付いてくるんだ。十年後、二十年後に、ふっとわかればそれでいい。

 

「そして、寿命があるのは太陽だけではありません。銀河にも、宇宙にも、終わりはあると考えられています。どのようにして終わるかについて様々な説がありますが、ここでは『熱的死』という一つの考え方を紹介しましょう」

 

 この間、と月丸さんが言った。

 ん、と訊き返すと、彼はその続きを話し始める。

 

 おれ、ここで寝ちゃったときに、夢見たんです。

 

 どんな?

 

「このように宇宙が膨張していくとすると、やがては宇宙空間における物質の密度は非常に低いものとなっていきます」

 

 おれ、プラネタリウムに座ったままのつもりで、一個、どんどん大きくなる光があって。

 

 あの星?

 

「つまり、全てが離れ離れになっていくのです」

 

 うん。それが、おれも最初は超新星だと思ったんだけど、違くて。彗星だと思ったんだけど、それも違くて。

 

 何だったんですか?

 

「離れ離れになった者同士は、もう滅多なことでは衝突することもありません」

 

 笑わない?

 

 はい。

 

「全体が均一な状態になり、宇宙はほとんど光もなく、熱もない、安定した状態になり、停止します」

 

 ……宇宙人。

 

 宇宙人?

 

「全てのものには、始まりと終わりがあるのです」

 

 そう。宇宙人……っていうか、光なんだけど。それがおれに言ってきて。

 

「しかし、」

 

 なんて?

 

「先ほど言った通り、それ以外にも宇宙の行く先については、様々な考え方があります」

 

 こんにちは、って。

 

「ビッグクランチやビッグリップのような異なる終わり方も提唱されており、理論も、またそれを裏付けるための観測方法も日進月歩。宇宙はまだまだ、人類の知識の及びつかない領域がたくさん残されているのです。皆さんもまた――」

 

 だからおれ、言っちゃった。こんにちはって。それで、握手もした。

 握手も?

 

 握手、みたいな。……あの、三階堂さん。

 はい。

 

 これって良いこと? 悪いこと?

 

「――宇宙だけではなく、このショッピングセンター〈銀河〉のことだって、隅々までは知らないでしょうから」

 

 どっちがいいんですか?

 

「当プラネタリウムでは、他にも宇宙に関する様々なプログラムを上映しています」

 

 ……そっか。

 

「よろしければ皆さん、また〈銀河〉を探検する途中にお立ち寄りになって、ぜひ星に思いを馳せてもらえれば幸いです。それでは、」

 

 じゃあ、私が良いことにしておきます。

 

「またお会いできる日を、この〈銀河〉で心待ちにしております」

 

 ちちんぷいぷい。

 

「何それ」

 

 おれ、そんな子どもじゃないよ。

 

 そっか、と私は笑った。

 

 

 

 

 泥棒が入ったのかと思った。

 

「お」

「っくりした……。開いてるんですもん、鍵」

「開けるだろ。誰がこのプラネタリウムのオーナーだと思ってる」

 

 日曜日の朝。ふらりといつもの癖でプラネタリウムに向かうと、鍵が開いていた。中から音も聞こえてくるから、まさかと思いつつそっと中を覗くと、とてもよく見慣れた人がいた。

 

 社長だ。

 

「仕事は片付いたんですか」

「今やってる」

「そっちじゃなくて」

 

 展望室だ。

 社長は作業着を着込んでいて、あの立派で古めかしい投影機は、今は手術中らしかった。社長もよく一人でできたものだと思う。今は一部分が解体されて、床の上に広げられている。

 

「本業の――うわ。社長、顔色すごいことになってますよ」

「寝てないからな」

「うわー……。今日車ですか?」

「タクシー」

 

 そして今は、それを組み立て直すところらしい。手伝いますよと袖を捲ろうとしたけれど、いやいい三階堂に力仕事は期待してない、とすげなく断られる。その後、社長は私をじっと見て、

 

「痩せたか?」

「コートを着てないからじゃないですか。もう春ですよ、春。社長が音信不通の間に」

「ああ……」

 

 もうそんな季節か、と社長は顔色とは裏腹にきびきびと動いて作業を完了させていく。けれど、その途中で手を止めて、

 

「今日、高浜は来てるか」

「来てませんよ。一体何日休みにしてると――」

「あれ、社長?」

 

 三階堂さんも、と声がした。

 

 振り向くと、たった今名前を出された人が展望室の入り口に立っている。春めいた服装の彼は、はは、と子犬のような笑みを浮かべて、

 

「おかえりなさい。僕、また失職したのかと思っちゃいましたよ」

「ただいま。高浜、早速で悪いんだが、組み立ての最終チェックを頼んでいいか」

「もちろんで――わ。社長、だいぶ目元が……今日って車で来たんですか?」

 

 社長がさっきと全く同じ答えを口にする。その後に、なんで同じことを訊くんだお前らは姉弟かというようなことを言う。高浜さんの鞄と上着を受け取って、私はひとまず、社長を椅子に座らせる。

 

 何の仕事だったんですか、と訊いてもどうせ答えてはくれない。だから、別の話題を振ることにした。

 

「結局、恒星原板の不具合だったんですか」

 

 五秒くらい間があって、「何が」と社長は言った。

 

「今直してたじゃないですか」

 

 もう社長は、ほとんど眠る寸前に見えた。

 目を閉じているし、段々息が深くなってきている。おーい、と起こしてやろうかと思ったけれど、それも可哀想でやめておいた。こっちに来ていない間は、よっぽど働き詰めだったらしい。

 

「多分、加工段階で」

 それでも、社長は低い声で答えてくれた。

 

「薄くなってた部分があったんじゃないか。穴が開いてたから、替えのを持ってきた」

 

 ふうん、と頷いた。私は投影機を隅々まで検分したわけでもないから、異論はない。すぐにスペアを用意できるなんて流石社長、と褒め称えてあげようと思ったけれど、もう彼女は完全に眠りに落ちたように見えた。意味もなく高浜さんの周りでうろちょろしてみる。所在がなくなって、何となくいつもの定位置に向かってしまう。

 

 受付。

 

「あ、」

 

 見つかった。

 

「三階堂さんだ! え、今日開いてる?」

「開い……てはないかも。今、メンテンナンス中」

「ほんと? よかったー。あたし、もう完全に潰れるもんだと思ってた」

 

 浦々さんだ。

 珍しい時間に遭遇したな、と思ったけれど、不思議なことは何もなかった。今日は日曜日。学校がないから、高校生が昼間からここに来ていたって、何もおかしくない。

 

 何せ、ここは大型ショッピングセンター。

〈銀河〉という仰々しい名前を背負った、近隣住民の生活と娯楽を支える、一大生態圏なのだから。

 

「ていうか、三階堂さんに会ったのめっちゃ久しぶりな感じする。え、これ今日開ける? だったらあたし、見てこうかな。記念に」

「何の記念?」

「え、もしかして開いてる?」

 

 もう一人来た。

 

 今度は高校生でもないし、何ならお店の制服を着たままだった。それこそトイレ休憩のときにでも、こっちで喋り声がするのに気付いたのだろうか。ゲームセンターの店員の尾花さん。彼女もまた、受付に来る。本人曰く「インターネットで喋ってるのが本業」というだけあって、怒涛のように喋る。気にはしてたんですけど機材直ったんですかよかったですねえこれもう始まる感じですかてかそっちの子ってもしかしてフードコートの子じゃないやっぱそうだよく見るから覚えてたもしかしてこことここって仲良いのそうだすみませんちょっと高浜に用あって今中います? 私は答える。はい。

 

「来る?」

 

 と訊ねると、浦々さんも頷くので、一緒に展望室に行った。わ、と彼女は入り口で足を止める。分解中の投影機に目を見張る。先に入っていった尾花さんはすでにその投影機の傍にいて、高浜さんそっちのけで機械の方に興味を持っていかれている。行っていいですか、と奥ゆかしく浦々さんが訊ねてくるので、私は答える。はい。

 

 社長が起きていた。

 

「あれ、寝てていいのに」

「お客様が来たから、一応な」

 

 ふう、と本当に疲れているときにしか出さないような溜息を吐く。私は隣に座る。

 

「あれだけ取り換えれば、もう大丈夫なんですか」

「動くには動くが、そろそろオーバーホールしたいな」

 

 なんですかそれ、と訊ねると、全体メンテナンス、とざっくり答えてくれる。相当古いしな、とあくびを噛み殺すようにして社長は、

 

「私が月丸さんくらいの頃から博物館で使われてたんだ。これでまだ現役で動いてるんだから、大したシーラカンスだよ」

「そこから貰ってきたんですか」

 

 そう、と頷く。へえ、と相槌を打つと、なんだ言ったことなかったか、と社長は、

 

「それで将来が決まったようなもんだ」

「え?」

「感動したんだよ。その頃は学校にも馴染めてなかったし、小学生は無料だったから、毎日通い詰めた。星を見てる間は色んなことを忘れられる気がして……地球っていうより、宇宙で育った気分だ。今でも昔のことを思い出そうとすると、一番最初にあの野暮ったい建物が浮かぶ」

 

 遠い目をしていた。投影が始まったわけでもないのに、天井を見ながら、星を眺めるように呟く。

 

「あった方がいいんだ」

 

 もしかして、と私は言おうとした。けれど、その前に社長の視線が動く。入口の方。すぐにその理由が、私にもわかった。声がする。

 

 出ていくと、人が数人集まっていた。

 

「あれ、皆さん」

 

 知っている顔が何人もいた。私と仲間意識を共有している〈銀河〉の従業員の人たち。あるいは何度か挨拶をしたことがある、社長の知り合いの人。もしかしたら尾花さんみたいな、高浜さんのお友達もいたかもしれない。代表するように、一歩前に出てきたのはドーナツ屋の店長、茂倉さん。

 

「帰ってきたのか、オーナーさん」

「戻りましたよ」

 

 私の代わりに、展望室から顔を覗かせた社長が答えた。彼女は一身に注目を受けながら、手招きをして、

 

「今、うちのホープが機材のメンテナンスをしてるところです。なかなか見る機会のないものですから、時間があれば見ていってください」

 

 案内は私の役目だった。

 たくさんの人に囲まれてあれこれと答える高浜さんは、もちろんあわあわとしていた。でも、私や尾花さんがときどき横入りしていれば、彼にとってはそもそもそんなに難しい問いを投げられているわけでもなかったらしい。段々と頼りがいのある口ぶりになって、滑らかな受け答えになっていく。

 

 壁に寄る。

 

「社長」

「ん?」

 

 隣の彼女に、「もしかして」の続きを訊ねてみようかと思った。もしかして、それでこのプラネタリウムを作ったんですか。でも、その答えはわかり切っていると思ったから、

 

「もしかして私って、その博物館にいた解説の人と似てたりするんですか」

 

 意外にも、社長はしばらく考え込んだ。

 

 よっぽど古い記憶なのか、それともやっぱり睡眠不足や疲労が祟って頭の動きが鈍いのか。腕を組んで、しばらく宙を睨む。その間に私は、どっちでもよくなった。

 

「生解説って、やっぱり天文知識がないと厳しいですよね」

「……まあな」

「初心者が勉強するのにおすすめの本とかって、ありますか」

「そこの鞄に入ってる」

 

 次の「もしかして」は、私がそう言い出すのをずっと待っていたのかということ。業務命令にでもしちゃえばいいのに。社長って可愛いところありますよね。ぽこ、と肩を叩かれて私は笑う。

 

「社長、すみません! わかりません!」

 

 高浜さんが助けを呼ぶ声がして、なんだ、と社長が投影機の方に行く。聞いていると、どうも投影機それ自体じゃなく星に関する質問を受けていたみたいだった。最近ニュースでやってたあの昼でも見える星ってのは何なんですかね。社長は淀みなく答えた。こういうときはいくつかパターンが考えられます。彗星。または恒星の終わりに風前の灯火のように輝く超新星。それから二つの星がお互いに影響を及ぼすことで発生する新星。超新星と新星は名前の割に新しい星が生まれているわけではないんですが、原始星が増光するような例もあって――

 

 そのときに私が気付けたのは、声がしたからでも何でもなかった。多分、長年受付を務めていたことで身に付いた、一種のテレパシーだ。

 

 展望室を出る。廊下に出る。

 その先のエントランスに、見慣れた男の子が立っている。

 

「こんにちは」

「こんにちは」

 

 彼は頭を下げる。いつも被っている帽子のつばを、指先で掴まえる。

 ちょっとだけそれを引き上げて、訊ねてくる。

 

「今日、プラネタリウム、やってますか」

 

 はい、と私は答えた。

 

 

(了)

 

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