「何ィ────ッ!?」
『うげぇっ!!』丙暖壬が驚嘆の声をあげると同時に流星の如く空を裂いた露伴が足場最上段の丙暖壬目掛けて落下すると、大人二人が足場板に叩きつけられる凄まじい音が住宅街に響き渡った。ディバインアタックによって最大限まで増幅された重力を帯びた露伴の身体を退かすことは実質的に不可能で、先の一撃によって胸部に受けた傷の痛みもあり、一瞬にして戦況は覆り、丙暖壬が露伴に組み敷かれる構図となった。
「『ベビィ・メタル』ッ!
不意にのし掛かった重さに耐えかねて、反射的に言いかけたところでふと我に返り文末を殺す。噴上の荒い吐息が耳に入った。仰向けの状態で横を向くと、足場の骨組みと重なってあまりよく見えなかったが、中腰だった噴上が地面に片膝をついているのが見えた。
「……違う……私が間違っていた……。今選ぶべきは『
『跡形残らず皆殺しだあああ──ッ!!』丙暖壬からベビィ・メタルに命令が下る。〈
「うわあぁあぁぁあぁあ────ッ!!」
噴上の絶叫に合わせるかのように朝霧が晴れていく。重圧によって既に虫の息だった噴上にベビィ・メタルの直接攻撃に耐えきれる余力は残されていなかった。
丙暖壬は胸の奥で響く〈完全決着〉の甘美な響きに歪な笑みを浮かべた。しかし、その一秒後に香った紛れもない敵意の〈臭い〉によってそれは崩れることとなる。
ベビィ・メタルの攻撃動作は
ディバインアタックによって今も尚露伴に降り掛かっている重力を受けて、落下時の衝撃によってひしゃげた足場板が更に歪み、それに合わせて骨組みも大きく曲がっていく。
「そんなバカなッ!?」
「なぁ~~~~んてな」
視線を遮るものがなくなったクリアな視界に映し出されたのは、足跡型のハイウェイ・スターがベビィ・メタルを包み込んでいる光景だった。
「ガ……
自身を覆うハイウェイ・スターの隙間から悲痛な叫びを溢すベビィ・メタルのすぐ側では無傷の噴上がほくそ笑んでいた。
「目障りだったんでついでに退かしておいたよ」
真上から降り注いだ露伴の言葉を補足するように、黒い足跡の隙間を縫って出た銀色の触手に斜めに切れ目が走って新体操のリボンが渦を巻くようにクルクルと開き、〈噴上裕也の前までふっ飛ぶ〉の文字が露となった。
「
これまで幾度となく警察に捕まり、血と暴力が蔓延した世界を闊歩してきた丙暖壬を襲った経験したことのない感情。全てが終わるかもしれないという〈危機感〉の臭いが、全身の穴という穴から侵入してどす黒く染まった脳に危険を知らせていた。
ベビィ・メタルから吸い上げた養分によって傷を癒した噴上が再び立ち上がる。
「誰に似たのかは知らねえが、おれの『ハイウェイ・スター』はひねくれもんでよォ──。
『蹴りくれてやるくらいワケね──ぜッ!!』足跡が
丙暖壬とベビィ・メタルの間に精神的な
露伴は丙暖壬の胸に膝をついたまま独り言とも取れる言葉を振り下ろす。
「『漫画家』というのは『展開』を考える仕事だ。仕入れたネタを組み立て、キャラクター性を際立たせるセリフを考え、到底勝てるとは思えない強敵を予想外の一手で打ち倒す。どうすれば胸踊る未知の体験を読者に届けられるのかを常に考えている」
「ドシュウッ」と聞こえてくるほどに勢いよく丙暖壬の顔が本になって開く。
「正直何がなんだかよく分かっちゃいないが、
露伴はそう言うと目の前の本となった男に〈ベビィ・メタルとの契約を解消する〉と〈出頭してこれまでの罪をすべて自白する〉と書き込んだ。
「ベビィ・メタルがいなくてもおまえを始末することくらい簡単なんだよッ!!」
ディバインアタックが解けたことで露伴が浴びていた重力が消失し、露伴を押し退けた勢いそのままに、隠し持っていたナイフで息の根を止めようと丙暖壬の右手が伸びる。露伴の名前を叫んだ噴上に露伴は「問題ない」と返すと、まるでその言葉が見えない盾として具現化したかのようにナイフが宙で止まった。答え合わせをするかのように、丙暖壬の記憶を初めて覗いたときに〈岸辺露伴を攻撃できない〉と書き込んだページが音を立てて開いた。
丙暖壬は魂が抜けたように脱力したまま天を仰いだ。度重なる衝撃に耐えかねた足場板が大きく傾き、露伴と丙暖壬の両者が最上段から振り落とされる。丙暖壬は腰を頭を強く打ったことで脊椎の骨を砕く重傷を負い、その激痛で気を失っていたが、露伴は斜めがけにした鞄がクッションとなり大事には至らなかった。
安否を問いかけながら近付く噴上に露伴が予てからの疑問を問いかける
「噴上裕也。そろそろ教えてくれてもいいんじゃあないのか?『スタンド使い』だというところまでは分かったが、結局のところ君はいったい『
「お──っと忘れてたぜ。それじゃあ露伴センセ。鞄の中を見ることを『
『……なるほど。そーゆーことか』肩から下がるやけに膨らんだ鞄の中には、露伴自身の手によって切り取られた〈体験の記憶〉が記されたページが詰め込まれていた。噴上が露伴の名を呼び、自身の腹を指差して「ヘブンズ・ドアーで自分の腹を開いてみろ」と態度で促す。それに従ってランニングウェアを捲りあげて開かれた白紙のページには〈噴上裕也の言う通りにする〉という一文だけが残されていた。
「ここからはあんたが言った言葉を借りて説明するぜ。作戦を考えたあんたにおれから説明するってのも変な話だがよォ」
『まァとりあえず聞いてくれ』噴上は庭の片隅に置かれたベンチに腰掛け、ことの〈起こり〉を語り始めた。
丙暖壬が再び姿を現す数分前、露伴と噴上は揃って空を見上げていた。もしも丙暖壬の頭上に飛んでいくことができるなら、ディバインアタックの重力を利用して上から奇襲を仕掛けることができると考えたからである。露伴は射程距離が短い自身のヘブンズ・ドアーでは不可能であることを伝えたうえで、遠隔地にも発現可能なハイウェイ・スターならばどうかと噴上に問いかけた。
「確かにいいアイデアだが……おれの『ハイウェイ・スター』も『無理』だぜ。
『残念ながら空は専門外だ』噴上は面目ないといった面持ちで作戦が不可能な旨を言い渡す。
「『ヘブンズ・ドアー』で書き込んで空でも飛べたら一発なんだがよォ~~」
悪気はなかったものの露伴を責めるような口調になったことを謝る噴上の言葉を聞いて、露伴の頭の中にある作戦が思い浮かんだ。
そこからの露伴の行動は早かった。
ヘブンズ・ドアーが持つ〈書き込んだことを実現させる力〉はすべての願いを叶える万能の力ではない。多少の物理法則であれば無視することも可能だが、基本的には〈実現可能な言動〉を強制的に実行させる極めて
記憶とは瞬間の蓄積であり、つまり〈質量〉を伴う。広瀬康一が露伴に初めて会った際に、体験の記憶を奪われて体重が大きく減ったこともそれを証明するひとつの証拠である。しかしながら
「それが2キロ
本になって開いた右腕に書かれた体重の増減を記録するグラフには、つい数分前まで2キロだったことが表示されている。
カラスの脚力は鷲やハヤブサなどの大型猛禽類と比べると非常に弱く、ヘブンズ・ドアーで多少無理を利かせたとしても運ぶことができる重さはたかが知れていた。そのため三羽のカラスが運ぶことができる想定荷重になるまで余分な記憶を削ぎ落とす必要があり、最終的に露伴に残された記憶は、丙暖壬シスイとベビィ・メタルに関する記憶と、自身がヘブンズ・ドアーの使い手で漫画家──岸辺露伴であるという記憶の僅か四つのみとなった。
ヘブンズ・ドアーで書き込んだ命令は〈外的なパーツ〉と捉えられるためか、書き込まれている間は体重が大幅に増加するという特徴がある。露伴が自分自身に書き込んだ〈噴上裕也の言う通りにする〉という命令の〈
「余計な
唐突に全身のページを毟りはじめた露伴の奇行に面食らって数秒間固まったものの、奇行と共に語られる作戦を聞いて急いで手伝った記憶が噴上の脳裏に甦る。
「それにしても鼻つまみモンのカラスまで手懐けるとは畏れ入ったぜ」
現代ではゴミを荒らす習性や鳴き声による騒音問題などから煙たがられることが多いカラスだが、日本書紀や古事記では神の使いとされ、平安時代に記された〈
遠い過去にも思える数分前の記憶をなぞりながら露伴は思う。理解不能な噴上の言動も、ヘブンズ・ドアーを縛り付けたのも全ては自分が仕組んだことだったのだと。自分宛の置き手紙に従って動いていただけだったのだと。
船頭である露伴の命が途切れればそこで終わりの危険な船旅で噴上は露伴を護り抜いた。敵に誰が船頭であるかを悟らせず、己こそが船の要であると態度で示して、見事に用心棒としての役を全うした噴上に対して露伴は純粋に尊敬の念を抱いた。
記憶を失ったことで噴上のことを〈ハイウェイ・スター探偵事務所の所長を務める噴上裕也という一般人〉としか認識できていなかった露伴は噴上にとって敵とも味方ともいえない存在であった。何をしでかすか分からない露伴相手に水面下で進行する極秘作戦を理解させると同時に丙暖壬の注意を引き付ける仕事は噴上にとって至難の技だった。〈たった一語〉の誤りによって敵に作戦のからくりを見破られ、いとも容易く瓦解する可能性を孕んだこの作戦を成功させるために、噴上は思考さえも鈍化する身体で細心の注意を払うことを強いられた。
(いや……自ら『
「だから気に入った」
かつて命を狙った相手から送られた純粋な称賛に、噴上は照れ臭そうに少年のような笑みを覗かせた。