『今日の放課後、音楽室でお待ちしております』
夏に差し掛かるタイミングで
あの日の連絡以降、祥子との付き合いが悪く、学生は───不貞腐れていた。
登校から下校まで、10分休みからお昼休みに至るまで、会話を交わすタイミングは幾度となく存在していたが、それらの時間全てで会話する機会が存在しなかった。
故に、学生は不貞腐れていたし、一種の後悔も覚えた。
(やっぱゲームセンターはまずかったか?)
学生は恥じたが、とはいえ、それが理由になるとも限らなかった。学生の心情は穏やかではなかったが。
だからこそ、この連絡は学生にとってのご褒美に値した。
今日の学生は絶好調だ。授業を聞き流し、放課後まで時間が経過した。
この日の学生は日直だった。
まとめたノートブックを職員室まで運ぶ必要があり、少しばかし祥子を待たせることになってしまった。まずは詫びを入れなければ。 その思考を第一に学生は音楽室に向かった。
例の如く吹奏楽部は───どうやら休みの日だったらしい。開きっぱなしの音楽室には、当然ながら一人の少女がいた。
「ごきげんよう」
いつもと同じように、毛先の一つまで丁重に整えた薄い青色の紙に、黒を基調としたリボンを四つほど結ばれた、見慣れたヘアスタイル。一眼に、立つ姿を見れば、誰もが品位があると直感で納得できるような立ち方で、こちらを凛と見据えている。
右手で左腕を押さえながら、堅苦しい表情でこちらを見ている。
豊川祥子のそのスタイルに、学生のテンションは地の底から遥か大気圏を超えてしまうほどに上がった。
お腹を空かせたペットが餌を待ち侘びるように。
販売直前のゲームソフトを買いに行く子供のように。
給与振り込みの前の大人のように。
ご褒美を目の前にして、自分の感情を枷から外す。
集中し、視覚、聴覚、触覚含め、さわれない範囲の五感で祥子との会話を楽しもうとする。
学生は祥子が好きだ。それは決して、恋愛的な意味ではなく、その暴風雨に見舞われても決して朽ち果てることのない大樹のような堅実な心根と、深海の底の底に身が置かれたとしても、果てのない道が目の前にあったとしても、後退することなく進み続ける人間性の強さにあった。
「今日は大事な話がありますの」
「大事な話?」
真っ先に告白の二文字が出てきたが0.01秒で否定した。 祥子の表情は一言で言って真剣の二文字で表せる。上っ面を覚悟で固めたその顔に、学生も応じる。
「えぇ、誠に申し訳ございませんが───」
この先、
学生の笑顔は硬直した。
※
蛇に睨まれた蛙のような気分だった。全身が硬直し、思考回路が停止した。
言葉を咀嚼し、飲み込んで。
殴打された後のように、ひりひりとした痛みの幻が全身を襲ったような気がした。それが、まだ近づいているだけの夏の熱さまでやってきたように、相まって、どうにも気分が落ち着かない。
上空まで飛び上がった気分は撃墜されたのだ。立ち上がり、声を出すまでに間が空いていた。
「それは……」
一緒に過ごすことはない
……下校すること、放課後共に過ごすこと、あるいは休日を一緒に───まだしていないが───過ごすことを指しているのか。はたまた学生生活を過ごすことが出来ないのか。
さまざまな憶測が学生の中で錯綜する。祥子はこちらからの回答を待っている
そして、渦巻かれた思考の中で、飲み込んだ学生は思ったことを口にした。
「残念だな」
「……え?」
本心から、ただただ残念に思った。
まぁ過ごせないけど学生生活を共に過ごせるだけマシか、と学生は考える。
祥子の事情に首を突っ込む気はないが、抱えているモノを“なんとなく”で学生は把握している。状況と、情報で。
そのうちこんな日が来ると考えるし、三年間の高校生活を終えた後で連絡しなくなることなんて何もおかしな話ではない。
たまたまそれが高校一年生の夏前だったというだけなのだ。
そのうちやってくるであろうお別れに、済ませていた準備を解いたうえでの回答だった。
「寂しくなるよ」
「…………」
祥子は、都合の良い受け答えとしか思えなかった。
祥子は以前から学生とのコミュニケーションの中で、自分の言いたいことを全て理解する人間であると解を出そうとしていた。
こちらの事情に突っ込まない、突っ込むそぶりがない。一緒にいても嫌悪感がない。音楽を趣味としていない、豊川の名前に言及されない。
しつこく話を向けられていたし、断る理由もないので対応を取り続けていた。それは祥子の事情に入らない範囲で祥子のことを知ろうとしただけでしかない。地雷原に足を踏み込まないように精査し、その中で関係を構築してきた。
それは限りある時間の中でできる行為に収まり、祥子が決断した道の中で芽生えた出会いでしかない。
そのうえで、大人びている部分、現実を目の前にして狼狽える素振りも見せない子供らしくない動作に、祥子は少し怖かった。そして同時にこうも考えていた。
『この方も昔は何かあったのでしょう。ですが、聞く程の事ではありませんわね』
お互いのパーソナルスペースに入らない範囲での距離感が実を結んでいた。
故にこそ困惑があった。
同じことをしようとしているのに、踏みたくもない過去と同じことをしようとする、その選択を採ったことに。なのに、何も起きない。
「……それだけですの?」
「事情があるんでしょ? というか決定事項でしょ。私があれこれ言ったところで歩く道は決まってるんじゃない?」
「私は、正直殴られる覚悟で話の場を作ったつもりで来たというのに」
「殴る!? 重いってそれは」
主に、祥子の学生に対する想いの強さが。
それは、自分の起こした選択で学生が傷つくことを考えての言葉だった。
祥子の言葉には気迫がない。淡々と決められたことを話しているだけなのだ。
事情を話す気もさらさらないのだろう。
「重く考えすぎなんだよ、祥子ちゃんは。過去に何かあったのかは知らないけどさ」
「……私はてっきり知ってる上で関わっていると思いましたが」
「知らないよ。祥子ちゃんのパーソナルスペースに入ろうと思ったことはない。なんとなく苦労しているな、という認識はあるけど」
「そのなんとなくを───」
「訊ねたところで、私に何ができる? 私は祥子ちゃんと話したいっていうエゴはあるけど深いとこまで知りたいとは思っていないよ」
祥子の目に映る彼女はつらつらと言葉を並べている。
それは、祥子にとっては都合のいい言葉の並び。
そして、祥子の事情に深入りせず、翌日以降と関わらず、絶縁状態になったとしても追い縋るような行動を起こさないということの証左。
「祥子ちゃんは重く考えすぎなんだよ。経験から来てるのかもしれないけど、私はその人たちではないよ」
「……意外と大人なのですのね」
「まさか。五秒後に隕石が降ってくるかもしれない世界であれこれ考えるよりかは、こう考えた方が心情的に楽だとシフトしただけだよ」
寂しいものは寂しいけれど。
その言葉を置いて、祥子は学生から目を逸らす。
当然のことだが人間は人間の本心を知ることはできない。言葉で紡がれるそれをいかに信用できるかは本人との関係値に比例する。
祥子と学生は数ヶ月程度の関係だ。
たった数ヶ月、学校生活を共にしただけに過ぎない。
学生から主にコミュニケーションを図ることで形成された関係でしかない
友達でしかないのだ。
学生の不変なる赤心、そこから捻出される言葉に、祥子は直視することが出来なかった。
中学時代、それも後半の祥子は───客観的に見ても、酷く、醜く、苦しい状況に陥っていた。
母の死を乗り越えた。
Morfonicaの演奏に感銘を受け、心の拠り所として結成したCRY CHICは祥子にとっての輝かしい記憶であっただろう。
父が168億円の損失を背負った。
記憶の底にある祥子の父親は特徴として“誠実”のニ文字が出てくるような人であった。 発生した損失により勘当され、祥子は自ら付いていき、再起を図ろうとしていた。
CRY CHICの活動を、抱え込んだアルバイトと同時並行しながら行おうとした。
絵空事だった。
酒に溺れた父を介護する回数が日数を経過するごとに増えていった。
見知った番号から電話が来ることに祥子はすでに億劫に感じている。
『あぁ、またいつものですか』
何度も起きればそれは日常だ。壊れた日常は祥子にとっての現実でしかなく、活動なんて到底出来るものではなかった。だから壊した。己の手で。
土砂降りの中、傘をさすこともなく、心に幾重もの仮面を重ねて、集まっていたバンドメンバーに向けて、内心が表に現れないように。 自らの口で火種を撒き、事情を把握している幼なじみの言葉*1と共に巻かれた油は全てを焼き尽くした。
雨にかき消された慟哭は虚しく、響き渡ることもない。
現実を知った。
巡り合わせが悪かった。
魔が悪かった。
運が悪かった。
けれど───祥子は選択した。
それでも前を向き、暗中模索に走る日常を。
祥子は選択した。結果として、祥子の第一歩となる歌が自ら離れていった。
祥子は選択した。戻らない現実から目を背けずに、己の全てを“それ”に賭けることを。
全てが壊され、そして自分から壊し、尚のこと経過する時間の中で、祥子が抱えたストレスは重く、第三者が触れて易々と解決するものではなかった。
蓄積されたストレスには経験も伴っている。
だから祥子は、自分の言葉によってかつて壊したバンドと同じ末路を辿るのではないかと考えるに至った。
経験しているから。
たった数ヶ月の関係で、一生の思い出となるような時間を過ごした仲間に酷い言葉を浴びせ、浴びさせられたから。
同じような結末になると、考えていた。
「それでも、私は」
「別にこの先会えなくなるってわけじゃないんでしょ?」
「───」
返す言葉が出てこなかった。学生の心の構造は祥子の言葉では揺らぐことなく、事実として受け止めて関係を継続できるような案を出した。
「転校するのか、就職するのか、忙しくなるのかはわからないけどさ」
ポケットから取り出したスマートフォン。背面とカバーの間には、先日祥子と共に撮影したプリクラの写真が挟まっている。 学生にとっての、消したくない一生の思い出だ。 そしてそれは、祥子にとっても───
「スマートフォン一つで会話ができるんだ。私たちはいつでも繋がってるんだぜ?」
「───」
円満解決は双方の納得があってこそ成される。 納得には感情と理解が必ず交わる。
事情を慮り、解決のために協力するなど言われても、祥子は断ることしかできない。
なんでもする、一生を賭ける。数ヶ月の関係値では軽い言葉にしか他ならない。
プライドがあるのだ。 心を悟られたくはない。鬱屈とするような日常を、現実を知ってほしくないのだ。
怠った、と言えるほど祥子のコミュニケーションは欠けてはいない。
納得のいく終わり方をしていない自覚はあった。学んだ上で同じ選択を採ろうとした。
してしまった。したが故に、解決手段を構成することが出来なかった。
「祥子ちゃんは優しいね」
「……何がですの」
「だってそうでしょ。殴られる覚悟できたーなんて、私を大切に思ってないと出てこない言葉だよ?」
引き出された予測による言葉は蓄積された経験によって出てきたものだ。
這い寄ってきた過去が言葉に伴っている。 傷ついた過去が、ひたすらに。
「何回も言うけどさ、祥子ちゃんは重く捉えすぎなんだよ。交友関係がなくなることなんてよくあることでしょ。卒業とか転校だとかで。でもそれで別に会えなくなるわけじゃないじゃん」
「…………」
学生も祥子もお互いに過去を知らない。
祥子がCRY CHICを結成し、壊したことを知らない。
祥子の家庭環境が崩壊していることも知らない。
祥子の現実を知らない。
知らないが故に、外枠を予測した上での言葉しか出てこない。
一目でわかる激しくひどい案件に、積極的に野次馬と化す人はいない。
「やー、残念だ。祥子ちゃんとの学生生活が今日で終わりだとは流石に思わなかったよ」
「……転校するわけでも就職するわけでもありませんわ。ここを離れることではないです」
「えぇ……」
先に言えや! 言葉にしようとしてすぐに押さえ込んだ。
「ただ、忙しくなるだけ。貴女と過ごす時間がなくなるだけです」
「それだけならまだ安いよ。寿命みたいな言葉が出てきたら流石に焦ったけど」
「安いって……」
「だから重いんだって」
苦笑。笑いをこぼして学生は祥子に近づく。
今にも涙をこぼしてしまいそうな祥子の瞳を据えながら言う。
「明日から何するかは知らないけどさ。応援してる。それが友達ってものだと私は思うよ」
友達なのだ。一生を誓い合ったグループでもなければ、同じ血が流れている血縁でもない。 ただの友達。
たまたま同じ学校、同じクラスで顔を合わせた者同士。 過ごした時間は数ヶ月。
祥子は自分の言葉で自分が納得していなかった。言ったら後悔するとわかっていて告げただけに過ぎない。その事実に後悔する。
「はぁ〜〜〜……」
「すっごいため息」
こめかみを抑えた、大きな大きなため息。
「はぁ……。反省しました。いえ、この場合は猛省ですわ」
「猛省?」
「同じ過ちを犯そうとしている自分が恥ずかしいですわ。私はまだ……昔の、弱いままの自分から変わっていないのですわね」
「……祥子ちゃんの過去は本当に知らないし、高校に入ってから今目の前にいる祥子ちゃんのことしか知らないけどさ」
身長は学生の方が高く、祥子は基本的に上を向いている。 学生は子供をあやす親のように膝を少し曲げ、目線の高さを合わせる。
「その祥子ちゃんが、私は好きなんだよ。何が好きなのかは……前に言ったから、もう言わないケド」
恥ずかしいから。 最後に目線を外して言う。
恋愛感情などお互いにはない。ただの交友関係に過ぎない。
三年間のうちの一年間にも満たない、たった数ヶ月の関係。
ただそれだけを、祥子が大切に思ってくれていた。
その事実が学生にはたまらなく嬉しかった。
会えなくなる事実よりも、よっぽど。
※
「私はバカですわ」
「気づいてなかったの?」
「うるさいですわ」
少し経って落ち着きを戻す。 音楽室に置いてある机をくっつけて時間を共有する。 祥子は学生の方を向いていない。向いているのは窓側。
日が沈みかけているような時間。
羽丘女子学園に残る生徒は指で数える程度しかいないだろう。
「私もまだまだですわね。まだ後悔しているなんて。変えられないものであると知っているというのに」
学生は口を挟まない。
突いたら出てきそうな蛇が猛毒を持っていそうだから。
今の状況ならば話してくれそうだが、聞いたところで出来るレスポンスで、祥子に良い反応をさせることはできないと思ったから。祥子は聞こうとは言わない。
聞いたところで答える気はないし、それを問うたところで学生が興味を持たないことを今日までの会話と経験で理解している。
「…………今日みたいな時間を過ごせなくなると、私は言いましたね」
「言ったね」
「貴女に、こちらを」
スクールバッグから取り出したのはクリアファイル。その中から出てくるのは招待状のようなもの。
「なにこれ。開けてもいい?」
「構いません」
留め具を外して出てくるのはチケットのようなものだ。
関係者席の言葉が記されたそのチケットにはローマ字でタイトル名が記載されていた。
「あ、あべ……?」
読めなかった。
「Ave Mujicaですわ」
「なんそれ……」
スマートフォンを取り出してインターネットで検索。
一番上に出てきたサイトをタップして詳細を見る。 そこにいたのは異質な五人組だった。 バンドグループなのだろう。扱う楽器と役割が一目でわかるようになっている。
仮面を被った五人の女性と、ライブの概要、人物紹介として情報が載っている。 黒を基調とした、どことなく欧風な衣装を身に纏い、楽器と共に写真が載っている集団。
劇───マスカレードともいう───と音楽を混ぜた、どことなく興味を惹かれてしまうトピックスの波であった。
スクロールを重ねて、一人の姿に目が止まった。
仮面の空いた部分から既視感のある瞳、据える髪は隣にいる少女に酷似している。
「しょーこちゃんじゃん」
「オブリビオニスですわ」
「オブ、え、何? なんて?」
「オブリビオニスですわ」
「ビビデバビデブ?」
「オブリビオニスですわ!」
「いや、しょーこちゃんでしょ」
「さき、オ、オブリビオニス、ですわ!」
スマートフォンから音声が流れる。
祥子ちゃんだろ……と思いながらオブリビオニスの紹介ページを開く。
正面、横、全体図の姿に、加えてサンプルボイスが聞けるみたいだ。 試しに押してみる。
“オブリビオニス”
“───我、忘却を恐れる勿れ”
「「…………」」
一瞬の沈黙。 そして沈黙を壊したのは当然学生。
聞いたことのある声でしかなかった。 なんなら扱う楽器でも判別できた。
「祥子ちゃんですやん」
「……もうなんでもいいですわ」
本日何度目の諦めになるのか、祥子は正直にやることを話さなくてもよかったのでは、若干の後悔が募ってきている。
「それとして、知っている方には正体がわかるものなのですわね」
「知り合いでピンときた人がいたらバレるんじゃない? 私は他の四人を知らないけれど、私は祥子ちゃんが好きだからわかるよ?」
「好きの言葉も言い過ぎると、より軽くなりますのね。学びましたわ」
「ひぃん……」
泣き真似はさておき。
Ave Mujicaの公式ページを眺めつつ、受け取った招待状に再度話は戻る。
祥子はどうやらこの先、演者として公演をやる機会が増えるらしい。
と、なると普段から練習なり特訓なり打ち合わせを重ねる必要がある。
なるほど、だからアルバイトをやめたのか。学生は納得した。
実際は異なるが。
学生は当然知らないが、祥子は作曲と脚本を担当しており、果てにはステージ演出まで自らが考えている。発起人が祥子なのだ。
このため、世界観の隅々まで祥子は常に制作していることになる。
作成した曲と、脚本によって世界観を構築するのだ。
はっきり言って祥子の負担が過剰であるし、目の前の祥子からその姿まで、学生は察することが当然できなかった。
顔色一つ、疲れを見せていないためだ。
学生から見れば、オーディションが通ったのだろう、程度だ。
Ave Mujicaで忙しくなるから一緒に過ごせないのか。
なるほど、それは仕方がない。学生は納得した。
全部口にすれば早かったのでは、という言葉は出た瞬間に霧散した。
「餞別のつもりで渡しましたが、撤回しますわ」
祥子がこちらを向く。 その顔には先ほどまでの鬱蒼した雰囲気はない。
黄金色の輝きを目に感じた。
「先ずは、約束した日をキャンセルしてしまって、大変申し訳ございません。
「私にはやるべきことができました。私は進む道を固めることができました。
「そしてそれは、私の一生を賭けたもの。
「私が渡したのは招待状───Ave Mujicaの演奏に、世界に足を踏むことができる権利。
「酔いしれて、魅了されて、推して、盲信して、心酔して、頭の中を全てAve Mujicaで埋めてしまえるように、
「Ave Mujicaが放つ輝きを、貴女にどうか、体感してほしい」
豊川祥子は抱いている。
結成したAve Mujicaが永遠に残るような存在としていられることを。
その第一歩がここにある。
「……一応言っておきますが、この日以外の公演は未定ですわ。もしも予定があるのなら「必ず行く」……そうですわよね」
矢を放つような一声に、祥子は納得以外の感情を持ち得なかった。
なぜならば───
「貴女は、私のことが大好きですものね」
「うん、大好き」
当然ながら、お互いに恋愛的な意味がないことを知っている。
知った上での信頼。築き上げた関係だからこそ出来るコミュニケーション。
ひとえに学生から行っただけのコミュニケーションは、祥子の心を解したようだ。
「ですので、しばらく忙しい日々が続くでしょう。それが何日、何ヶ月、何十年……立て込んだ日々が流れてくる。
「奔走する日々が続くことでしょう。学生生活と両立ができなくなるかもしれません。……出来る限りは続けますが。
「なので、たった一日だけ、予定を空けておいてください。
「いつになるかはわかりませんが、必ず、その日だけは、私と遊びに行きましょう。
「私たちは───いつだって繋がっている。そうでしたわね?
「その時はもちろん、あの時と同じようにエスコートしてくれますわね?」
祥子が上げた左手に、即座に学生は右手を置いた。一瞬だった。
「必ず」
花を愛でるかのように包んだ。 荒れた手は暖かい。
そのまま指を交差させてしまおうか、邪な考えを浮かべたところで手が離れてしまう。
……寂しい気持ちが灯ったが、学生は気を立て直す。
「楽しみにしてるよ、Ave Mujicaの公演。しかし、仮面で顔を隠しちゃって。しょーこちゃんの可愛い顔がよく見えないじゃんか」
「そういう世界ですので。
「どういうとき?」
「そうですわね……、少なくともすぐに外すことはないでしょう。何年か経った先なら……」
「遠いなぁ」
「ですが、素敵でしょう? 仮面の奥なんて、普通は見たがるものですから」
貴女は違うかもしれませんが。付け加えて言う。
言葉通りの意味でしかない。
Ave Mujicaは祥子が作り、作曲を担い、脚本も祥子が仕上げている。
学んだ知識の結晶だ。上手くいくという確信を持って世界に放とうとしている。
その中で爆弾を何度も作る。
話題として取り上げてもらうために、その中心にいるようにするために。
「うっかり事故で仮面が取れないようにしないとね」
「問題ありません。付ければ人の手で触らない限りは取れないように設計しております。もちろんテスト済みですわ。パフォーマンス中にこぼれ落ちることはないでしょう」
「なら安心だね!」
「えぇ、安心ですわ!」
わっはっは。お互いに顔を綻ばせた。
学生が入室した時の憂鬱とした雰囲気はそこにはもうない。
ただの、友達同士のコミュニケーションしか存在していない。
最後に過ごすたわいもない、日常の一ページでしかない。
「……と、日が暮れてきましたわ。一緒に帰りましょう」
「祥子ちゃん」
「しょ……なんです?」
「最後に一つだけ、お願いがあるんだけどさ」
「それは?」
祥子が聞き返すと、学生はとびっきりの、真夏の日差しで照らされたひまわりのような笑顔で、祥子に申し出た。
「祥子ちゃんの演奏と、歌が聴きたいなぁ」
※
「リクエストはありまして?」
音楽室に設置されている、グランドピアノの鍵鍵盤を開いた祥子は学生に向けて質問する。学生の願いは叶った。
祥子は祥子で、前々から大好きだと話していたことを覚えていたことと、今日が最後なのもあって、その言葉に快く応じた。
「せっかくだから、祥子ちゃんが決めてほしいな〜」
「強欲ですのね」
「自覚はある」
でしたら……、と祥子は思考の海に入水する。
学生が好きそうなもの……そこそこの付き合いにはなるが、祥子から見た学生像だと該当するものはない。
というのも、学生は音楽をやってはいなければ、部活動に参加しているわけでもないし、勉学に集中しているわけでもない。ミーハーにして、ただの一般人。そこから上にいかない。
祥子はこの先プロとして舞台に上がる。上がる以上は、観客を満足させなければならない。
矜持であり、至極当たり前のこと。
ならば、ありきたりなものを。
「ふむ……それは何かが違う気がしますわ」
即座に否定した。学生は、祥子の事情を考えてはいないが考えてはくれている。
ならばこちらもそれに値するような礼をあげたい。 加えて、今日の出来事に対しての反省もある。
「…………正気なのですか?」
「?」
自問自答する。
祥子が浮かんだ曲は。
テレビやSNSで話題になっているような、有名アーティストの曲ではない。
その歌はとあるライブハウスで、たった一度のみ歌われた唯一無二の曲。
それは祥子にとってのオリジン。祥子の始まりであり、第一歩の証明。
そして閉じ込めておきたい過去であり、もう二度と自分の手には砂粒一つ残らないような淡い幻想。
ついぞ最近、祥子はそれを聴いてしまった。
聴いてしまったが故に祥子は行動に至るための原点を得た。
「祥子ちゃん?」
過去はいつだって襲いかかる。
後悔は常に背負われている。
現実は目の前でこちらを見つめている。
「そう、ですわよね」
だから、これは決別。 祥子がもう二度と戻らないために。
背けたものに欲望を抱かないように。
「これは私の起源。もう二度と戻らない、豊川祥子の始まり。
「私たちの曲ではないソレをここで歌い、全てをここに置いていきます。
「豊川祥子としての数年を。そして、ここからが私の新たな始まりであるということを。
「私の最後の演奏、───さんを必ず楽しませます。
「それではお聞きを───」
───春日陰
※
「悴んだ心、ふるえる眼差し世界で───」
一声聞いて、学生は桜の舞う姿を幻視した。
音楽室にいたはずなのに、気づけば地の上に立っている光景が目に浮かんでいる。
学生が聴いたことのない歌だった。
祥子が考えている通り、学生の世界での音楽はテレビで話題になっているか、SNSで話題になっているかの二択でしかなかった。
祥子のセンスがいかがなものなのか、祥子を知るためにリクエストしたものは、想像していない角度から答えが入ってきた。
「雲間をぬって、きらり、きらり───心、満たしては、溢れ───」
震えている声だ。けれども伝わってくる感情には、祥子の愛が込められていると、学生は理解した。
愛がある。手縫いで編まれたマフラーのように暖かな、春の日差しに照らされて、学生は言葉を失った。祥子の実力と、その才覚に対する感想を言語化することが出来なかったからだ。
優しい歌だ、と学生は思った。居場所を肯定し、紡いだ関係性を離したくないような意思が伝わってくる。いや、離したくなかったからこそなのか、震えた声で紡がれる歌に感情が乗っかって、伝わってくる。
「照らされた世界、咲き誇る大切な人───」
この歌詞祥子ちゃんみたいだ、無意識にそう思った。
その言葉に否定する言葉を持ち得てはいない。根拠もなければ確信もない、学生はただ、何となくそう思った。
そして、眩しい。舞い散る桜は地に落ちて、けれどもそこで終わることはない、時の流れに乗って、幾度となく、桜は咲き誇る。
「ねぇお願い、どうかこのまま離さないでいて───」
ずっと、ずっと。離さないでいて。
祥子の原点にして出発点。その一瞬に触れた学生は、思考の全てが豊川祥子という存在に焼かれていた。
歌い切って、息を吐いて。
気づけば日は落ちていて。見えていた景色が幻想であることを理解して、静寂に包まれている。拍手はない、歓声はない。観客は一人しかいない。
終止符を打つ。
祥子の心の中で折り合いをつけるために、自らの心を、郷愁にいたその心を離すために、自らのエゴをさらけ出した。
過去は消えない、心の整理のために諳んじた。
それが学生の胸を打った。その事実のみがここに残っている。
「では、───さん」
「うん。しょーこちゃん」
「さきこですわ」
「
「よろしい」
破顔して、祥子は満足そうに立ち上がる。
鍵鍵盤を閉じて、椅子を引いて一礼。
「ごきげんよう」
スクールバッグを手に持って、音楽室の電気を消す。
放課後と呼ぶべき時間はとうに過ぎていて。夏が始まろうとしている。
祥子のスマートフォンに着信が来ることもなく、その日は終えようとしている。
「ごきげんよう」
また、明日以降も顔を合わせるが、祥子の言った通りの日常が続くため、今後は今日まで同じ日々を過ごすとは言い切れない。
祥子が約束してくれた日がいつか来ると信じて、学生は帰路につき、Ave Mujicaの公演を待ちわびるのだった。