かれこれ2時間羽根ペンを走らせ続けたアステリアは、柱時計が夕食の時間を告げるのと同時に顔を上げた。そろそろ休まなくてはならない。
ブラック家のタウンハウスであるグリモールド・プレイス12番地での食事にもすっかり慣れてきた。クリーチャーは絶品と言ってよいシチューのレシピを心得ているし、ローストビーフの火入れを失敗したこともないし、食後に完璧なお茶をサーブしてくれる。
しかし、今だけはグリーングラス家に仕えるシミーのチキンポットパイが食べたかった。
「ご苦労であったな」
「いえ、これくらい! お姉様はもっと頑張っているのですから、私もいっぱい頑張ります!」
アークタルスの労いに応えながらペンを置く。
ニューイヤー・パーティーの来賓たちへの手紙をしたため続ける日々にも終わりが見えてきた。あのハーポとの戦いをきっかけとしてグリーングラス閥に期待を寄せる声は着実に高まっている。この機を逃す手はない。
今や英国魔法界の中心派閥はマルフォイ・グリーングラス・ブラックの連合であることを、あの夜誰もが承知した。それはダフネが政治的影響力を持つことへの承認でもあった。
つまり、アステリアが書いている手紙はダフネを、ひいてはグリーングラス家を承認した人々への感謝の手紙だった。
「己の努力を他者と比較すべきではない。何かを讃える上で相対評価というものは大して役に立たん。比較というものは讃えるためではなく、勘定するためにある」
「金言ですね。でも、私はお姉様が今も頑張っていると思うから頑張れるのです。……アステリアは、あまりお役に立てませんでしたから」
激闘が繰り広げられたニューイヤー・パーティーの夜、アステリアは先んじてダフネから指示を受けていた。それは、セーフルームに避難してきた人々を受け入れ落ち着かせる仕事だった。
もちろん、大役ではある。各地から集った貴賓たち、ダフネの支持者になりうる人々を受け入れ、安心させるというのは、そう簡単にできることではない。アステリアはダフネに命じられた通りに尽力し、多くの人々と言葉を交わした。
しかし、アステリアにはある思いがあった。
「お姉様が私にあの仕事を任せたのは、私を戦いの場から引き離すためだったのではないかと、そう思うのです。お姉様が私を大事に思ってくださっているのはもちろん嬉しいです。でも……アステリアは、お姉様のお役に立ちたいのです」
アークタルスは答えず、静かにインク壺の栓を閉じた。
多くの力ある魔法族がハーポの呪いに絡め取られた。ダンブルドアですらハーポの脅威度を測り損ねたのだ。それはアークタルスも例外ではなかった。
ここしばらく、アークタルスが思い悩んでいることはアステリアにもわかった。アークタルスは清濁併せ呑む政界を貴族として生き抜いてきた古豪だ。しかし、それは必ずしも全ての脅威に対処できることを意味しない。今回は彼の力が役に立たなかった。
もちろん、それはアークタルスが無能であることを意味しない。彼が無能なら今回ほとんどの英国魔法族は無能を晒したことになる。しかし、姉妹の保護者として長くダフネを見守ってきたアークタルスにとって、この一件が忸怩たる思いを招くものであったのは確かだった。
今や養父となったこの老人を元気づける言葉を、アステリアは持ち合わせていなかった。しかし、彼に寄り添い、彼の後悔を受け止めることについては、一寸の躊躇すらなかった。
「……なんにせよ、食べるものを食べて力をつけねば話にならん。食事にするか」
そう口にしてアークタルスが立ち上がった、その時だった。
玄関の方角から何か言い争うような騒ぎが聞こえた。誰かが怒鳴っている。今日は来客の予定もないし、このグリモールド・プレイスにアステリアとアークタルス以外の住人はいない。
戸惑っていると、すぐ目の前にクリーチャーが姿を現した。
「大旦那様、お嬢様、申し訳ございません。予期しないお方が訪ねてまいりまして、ヴァルブルガ様が大変お怒りのご様子で……」
「どなたなの、クリーチャー?」
「それが……」
クリーチャーが答えるまでもなく、執務室の扉が開かれた。
暗い廊下に、灰色の瞳が輝いていた。幽鬼を思わせる復讐者の執念と、長い収監から解き放たれ少しずつ取り戻された理性。そのどちらもが彼の瞳に優美な活力を与えていた。
シリウス・ブラックが、眉間に皺を寄せてそこに立っていた。彼はアークタルスを一瞥し、何も言わず執務室に入った。そしてアステリアの前に立つと、彼は膝をついて頭を下げた。
「すまなかった」
それはとても簡素で、しかしはっきりとした謝罪の言葉だった。
アステリアが驚きに目を丸くしていると、シリウスは顔を上げてアステリアを見上げた。その表情は静かで、以前の彼ほど荒ぶっていなかった。粗野な髭も、櫛の通されていない髪も、やりどころのない怒りも、今は彼から消え去っていた。
「君のお姉さんにひどいことをしてしまった。闇の魔法使いを相手に身を挺して戦った彼女は讃えられるべきだ。私は見誤った」
「……それは、お姉様に直接伝えてください。お姉様はきっと、あなたの謝罪を受け入れます」
シリウスは膝をついたまま、黙って小さく頷いた。
「だが、君にも謝らなければならない。私は何かすべきだった。ハリーのために力を尽くしてくれている君たち姉妹に、何か報いるべきだったと思う」
その瞳のまっすぐさに、アステリアは薄っすらと理解しはじめた。
シリウス・ブラックという男の時間は収監された12年前で止まってしまっている。彼にとって善悪とは光か闇かであり、ダンブルドアかヴォルデモートかなのだ。
確かに、ダフネは決して光の人ではない。ルシウスを腹心とし、時には際どい手口を選びもする。アステリアはもう子どもではない。ダフネが自分のために何をしてくれているかくらいは理解している。
一瞬、アステリアの胸中に怒りがこみ上げた。
あれだけ頑張っているダフネが、誰かのために命を費やしているダフネが、光の存在でないというだけで虐げられる。それは許されるべきことではない。
しかし、アークタルスの薫陶を受けたアステリアには理解できた。それが市民なのだ。何をしたかではなく、どの陣営にいるかで評価される。シリウスは市民として、当たり前のようにダフネを評価し、当たり前のように嫌った。
それならば、その評価が覆った今、彼を取りこぼすべきではない。アステリアはダフネの役に立ちたいのだから、怒ってなどいられない。
「シリウスお義兄様。あなたは、力になってくださいますか?」
「私にできることがあるだろうか。君はブラック家を手に入れた。もうあげられるものは何も残っていない」
「いいえ。……いいえ、お義兄様。私はあなたがほしい」
確かに、もはやシリウスはブラック家にとって名ばかりの長子だ。端から家を継ぐ気のない彼に期待することは何もない。アークタルスからアステリアへ、もしくはその婿へ相続されるにあたって彼が邪魔しなければそれでいい。
しかし、シリウス・ブラックという人物は単なるブラック家の飾り物ではない。
シリウスは学生時代から優秀な成績を残し、独学で動物もどきになることにも成功している。決闘も巧みだったと多くの証拠が示している。
なにより、シリウスは戦争を知っている。戦火を肌で浴びてきた彼の経験、後悔、そして憎悪は、間違いなくアステリアの力になる。
「お義兄様。私、強くなりたいんです」
「……強く、か」
「はい。私はいつでもお姉様の一番おそばにいたい。それなら、私がお姉様をお守りできるのが一番いい。そうでしょう? どんな相手にも負けない、絶対にお姉様を守り抜ける、そんな力がほしいんです」
アステリアは、魔法界で最も強い魔女になりたかった。
これが子供じみた理想であることは自覚している。まだ発症していないが、アステリアもまた血の呪いの罹患者だ。場合によっては、力をつけることそれ自体がアステリアの障害となる可能性もある。
しかし、それでもアステリアはダフネを守りたかった。
セーフルームで過ごしたあの時、もしアステリアが杖を振るってハーポを追いやる力を持っていれば、ダフネの一番近くで戦えたかもしれない。ダフネの力になりたかった。アステリアは永遠にダフネの妹であり、その覇道を最前で助ける者なのだから。
シリウスは立ち上がり、困ったように薄っすらと笑った。その笑顔にはブラック家らしい優美さと、シリウス・ブラック個人のひねくれた快活さの両方が表れていた。
「それは、君の教師になれということか?」
「お願いできますか?」
「……じいさんはそれでいいのか」
静かに見守っていたアークタルスは、ゆっくりと口を開いた。
「余には教えてやれぬことだ。お前が適任だろう」
それは、当主アークタルス直々の許可だった。
アークタルスは呪いについて無知ではない。旧家中の旧家、名門中の名門であるブラック家には、多くの失伝した呪いについて世の人が目を剥くような知識が残っている。それはおそらく、衆目に晒されてはならない知識だ。
しかし、アークタルスはそれらを実戦で使ってきたわけではない。アークタルスは貴人として生きてきた。自ら杖を振るい、火花を散らすのはアークタルスの仕事ではなかった。
ここにいるシリウス・ブラックという男は、ブラック家の忌むべき知識を継承する権利人であり、同時に貴人であることを捨てた戦士だ。アークタルスの頷きには、その事実への承認、すなわちシリウスという子孫がそうあることへの承認が込められていた。
「……そう、か」
シリウスは戸惑ったように首をかき、それからアークタルスとアステリアを交互に見た。
戸惑っていたが、その表情に不快感はなかった。アステリアの伝え聞くシリウスは、ブラック家であることに、そう扱われることに憎悪と言ってよい感情を向けていた。その彼が、当主に承認され、それを拒んでいない。
そこには少なからず、アズカバンという監獄で感情が削ぎ落とされたことも影響しているのだろう。ピーター・ペティグリューへの復讐心、そして己は無実であるという確信だけを頼りにして生き延びた彼にとって、もはやブラック家という名は周縁部に過ぎなかった。
そして、今シリウスはその自らに付随する周縁部としてのブラック家を、部分的にであるにせよ認めた。アステリアが思うに、それもまた勇気の形だった。
「よろしくお願いします、お義兄様」
アステリアが頭を下げると、シリウスは慌てたようにアステリアの肩に手を置いた。
「よしてくれ、私はまだ君のお姉さんに謝れていない」
「教わる身ですから、礼を尽くします。きっとお姉様でもそうしたと思いますよ?」
「……なんというか、君たち姉妹は特殊だ。とても純血らしいのに、どこまでいっても純血らしくない。私の時代はひどいものだった。純血を誇る者の大半が闇に染まっていた。今の時代は、まあ、そうでもないらしいということをようやくわかってきたよ」
シリウスは躊躇いながら、それでもアステリアの手を取った。
壊れ物を扱うような、慎重な手つきでシリウスはアステリアの手を握った。長い獄中生活は彼の指から生気を奪っていたが、それでもここしばらくのまともな生活のおかげでそこには熱があった。
「杖だこよりペンだこの方が馴染みそうな手だな。厳しいレッスンになるぞ、お嬢さん」
「覚悟の上です」
「よく言った。じいさんも、文句はないだろうな?」
「アステリアが決めたことだ。余が口を挟む理由もあるまい」
こうして、アステリアはシリウスを師と仰ぐこととなった。
シリウスは最強の魔法戦士ではない。魔法界を探せば、シリウスを凌ぐ使い手はいくらでも見つかるだろう。よりよい師を求めているとダフネに伝えるだけで翌週には1ダースの家庭教師がつくかもしれない。
しかし、その師はアステリアを危険にさらしてくれない。
本物の戦争を知っている、本物の牢獄を味わった、死と冷気で鍛えられた鋼に打たれることでしか育たない力というものがある。アステリアはそう信じて、シリウスの手を強く握った。
「まずは体力をつけるところからだな。ジェームズと私は動物の姿になって禁じられた森をとにかく走った。どんな杖捌きの持ち主だろうと、体力のない魔術師は戦争では生き延びられない。それから、いくつかの呪文を練習して――」
シリウスの言葉を遮ったのは、クリーチャーの咳払いだった。
「血を裏切りし坊ちゃま。お言葉ですが、大旦那様とお嬢様はお食事のお時間でございます」
「……クリーチャー。私の言葉を遮るとは、偉くなったものだな」
「恐れながら、クリーチャーがお仕えするのは伝統と格式あるブラック家にございます。アークタルス大旦那様と呪われし血のアステリアお嬢様、そしてダフネお嬢様にこそ敬意をお払いいたしますが、血を裏切りしシリウスお坊ちゃまはクリーチャーの主人ではないのでございます」
不快そうに鼻を鳴らしたが、シリウスは否定せずにアステリアの手を離した。
一瞬アークタルスに視線を向けてから、シリウスは踵を返した。クリーチャーはシリウスを見送ろうともせず、まるで不快害虫がそこを這っているかのように顔全体を皺くちゃにした。しかし、クリーチャーもそれ以上シリウスを罵倒しようとはしなかった。
「ホグワーツが始まったら連絡を送る。それまでは体力をつけることを優先するといい」
「わかりました。……いってらっしゃいませ、お義兄様」
差し出がましいことを言っただろうか、とアステリアは一瞬後悔した。
シリウスは返事をせず、しかし文句も言わず、グリモールド・プレイス12番地を出ていった。その背中は堂々としていた。もはや彼は囚人ではなかった。
ブラック家に対して滾らせていた憎悪が消え去ったわけではない。彼が嫌ったブラック家の伝統も、彼が受けた両親からの仕打ちも、決して霧散したわけではないからだ。彼はこれからもブラックの家名を名乗るたびに胸中を不快感にざわつかせるだろう。
しかし、シリウスはここが彼の帰ってくる場所であるというアステリアの言葉を拒否しなかった。それはきっと、かつてよりも彼にとってこの家が居心地の悪いものではないことのささやかな証明だった。
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