無味くんの家は一軒家である。およそその家に対する感情を、彼はどこかに置いていった。
どこに置いて行ったのかは見当もつかない。気付いたらどこかへ置き去りにして、そのまま放置してしまった。
この家のどこかに置いたのかもしれない。いつの日か連れられたもう覚えてない場所かもしれない。それか産まれた際に、母親のお腹の中に置いてきたとも考えられる。それがどこにあるのかは、彼には見当がつかなかった。
ただ一つ言えることは――目の前の家には、何も思わないということだ。
恐怖も不安も安堵感も、何も。
彼は足を止めずに、最小限の動作で家の中へと入っていく。
玄関の靴は、いつも整理整頓されていた。というか、している。自分が。自分の学校用の靴と、私生活用の靴だけだが。
端の方に、並べていた。酔っぱらって帰ってきた両親が来てもいいように、踏まれないようにするために。
時々あるのだ。でろんでろんに、どうしようもなく、意識が混濁しているとしか思えないほどに酔っぱらって帰ってくることが。意識が混濁しているから、己の意思に関わらず踏んでしまうことがある。
無論いつもは、敢えて踏んだりはしない。ちゃんと避ける。そこら辺は普通の、良識のある大人だった。
彼は二階にある自室に戻る前に、手洗いうがいを欠かさなかった。風邪をひくのは苦痛だ。しないで済むなら、それに越したことはないだろう。
それから彼は、二階へと上がる。
この家が広い方なのか狭い方なのか、彼にはわからない。誰かの家に行ったことも、誰かを家に連れてきたこともなかったから。祖父と祖母は、両親が縁を切っているため会ったことはなかった。
でも、これだけはいえる。この家は少なくとも、教室よりも殺風景であると。
無味くんの部屋は、とても簡素なものだった。
足の低いテーブルに、ベッドが一つずつ。隅っこに私服が数着、捨てられたように転がっていた。
ああそうそう、隅っこと描写してしまったからには、部屋の四方の内一つの角のみに集中しているかのように誤解させてしまったかもしれないが――実際には、四方の角それぞれに、数着ずつ置かれていた。
それも、現在の身長ではとても着られなさそうな、小学生や中学生の頃の衣服。制服や体育着も混ざっている。
とはいえ、それだけといえばそれだけの部屋。
……いや、厳密にいえば、それだけではなかった。
壁に、何千枚ものプリントらしき紙が貼られている。中にはテストや、パンフレットなんかが、セロハンテープで留められていた。日時をよく見れば、それらのプリントは今から五年以上前のものばかり。それ以降に貼られたらしきプリントは、どこにもなかった。
これといって、意味はない。
ただ、何となく――理由もなく、壁に学校で配られたプリントを貼っていた。親に渡す必要がなさそうなものをちゃんと選んで。
どうせ読み終わったプリントは使い道はなく捨てるだけだし、これくらいやってもいいだろう。この部屋に来る人間はいないから疑問に思う人間もいないし、誰かに迷惑をかけているわけでもない。
でも、そう……きっかけは何だったかな。
小学一年生の頃、その週の行事や特別必要なものが一覧されたプリントが配られたときだった。この内容を忘れてはいけない。そうするようにと、担任の先生に言われていたから。
けれど、忘れないようにする工夫を知らず、とりあえず捨てるわけにはいかないと自分の部屋のテーブルに置いておいた。すると身近にあったために、忘れないことができたのだ。当たり前の話だけれど、一年生の頃の自分にはそういう発想がなかったため、未知の発見した気分だった。
しかし、いつまでもテーブルの上に置いておくわけにはいかない。数が増えると邪魔になってしまうから。
そこで、学校の壁に紙を貼られているのと同じように、自分の部屋にもセロハンテープで貼ることにしたのだ。とりあえず二、三枚ほど。
当時の自分はとても不器用で、斜めになったりと綺麗に貼ることができなかったけれど、それから部屋を見渡したら、不思議と気分が良くなった。
何かが――自分の中でストンと、音を立てて嵌ったような気がした。それからはもう、気が済むまで片っ端からプリントを壁に貼るようになったのだ。
――狭く窮屈に感じる部屋に足を踏み入れた彼は、顔色を変えることなく、私服に着替えて、室内の真ん中にあるテーブルに着き少ない課題を取り出す。
二十分ほどで苦もなくそれらを終わらせて、まだ授業でやってない範囲のページを開いた。予習する。淡々と。夕食の時間まで。
いつ親が帰ってくるのか、正確な時間は知らないけれど、夕飯は作ってもらえた。時々深夜辺りの時間帯になることはあるけれど、それほど気にしなかった。
食事を用意してもらえただけでも、良かったと思う。いや本当に良かったのかどうか、正直なところわからないけれど――いっそ死んだ方がよかったのかもしれないけれど、ともかく、飢え死にすることはなかった。けど、おそらく飢え死にさせたくない理由があるのだろう。
なぜそう言い切れるかといえば、それは自分が産まれた理由を知っているからだった。
親が言うには、誤って自分を産んだらしい。
産んでしまった――らしい。そう聞いている。
これは別に、親から直接言われたわけでも、訊いてそう答えられたわけでもない。偶然、聞いてしまった。親からどんな扱いを受けているのか、どう認識されているのかを。自分がそれを知っていることを、親はきっと知らない。なぜかも疑わない。
殺さなかったのはきっと、犯罪者になりたくなかったからで。
あとはまぁ……実験として、生かせると思ったからだろう。
そう思いながら、彼は教科書から目を離して顔を上げ、正面を見つめる。遠い誰かを、眇めるように。
もやもやとした何かが、そこにはいた。
静かな夕飯を終えて、無味くんは一時間ほど勉強。ノートのページをめくって、そういえば映画館のことを調べておいてほしいと彼女から言われていたことを思い出し、スマホを確認する。すると彼女からメッセージが届いており、その映画館を検索した。ついでに観る予定の映画も。
……なるほど、こんな感じなのか。だいたい頭に入った。明日の朝にもう一度チェックすれば、忘れにくくなるだろう。
三十分ほど風呂に浸かってドライヤーで髪を乾かし、彼は再び単語を脳に叩き込む……繰り返し同じページを読んだり、買ってきた問題集を何度も解き直しているだけだが。
書いて書いて書いて書いて書いて。ただそれだけの時間が過ぎていって。眠くなって、寝た。
今日も、ベッドを使わなかったな……そう、思いながら。
その日俺は、夢を見た。
部屋を自由自在に作り変えられる夢だった。
扉は閉まっていて、白い空間。部屋の真ん中にたった一つの機械があった。
スイッチやレバーが大量に取り付けられた機械。俺はそれを弄ってみた。
黄色いボタンを押すと、天井に電球が現れた。二回押すとランプに変わった。三回目はLEDライト。四回目押すと……ライトは消えてしまった。
レバーを引けば部屋が狭くなり、レバーを押すと広くなる。
赤いスイッチを押せば炎が溢れ、青いスイッチを押せば水が溢れる。
家具も出てきた。絨毯も現れた。本や小道具も登場した。
レバーを押しては元に戻して、手前に引いては元に戻して。
ボタンを押せば、現れたものが消えるまで押して。
スイッチを押せば、もう一度押して元の状態にする。
どれくらいの時間、そんなことをしていたのだろう。
扉の形は変わり、床の模様は変わり、壁の色は変わった。
飽きるまで、俺はそれを続けていた。自分がこれでいいやと、そう思えるまで。
いつしか出来た真っ暗闇に、俺は満足して座り込んだ。
どこもかしこも暗くて、光なんてものはなくて、境界線は曖昧になる。
そしてゆっくり、俺は眼を閉じた。