その河川敷は家と学校の間辺りにあって、学校からの帰り道や休日ではよくそこに居座って、乾燥さんと話していた。彼女がいなくとも、よくそこでぼーっとしていた。人がいないからだ。
誰も彼もが、自転車や電車を使えばここからそう遠くない飲食店やら洋服屋、施設を利用してそこに居座る。しかし彼は、あまりそういう気分になれなかった。彼が利用する施設といえば、図書館と本屋くらいなものだ。
彼は川を眺めた。緑の草が、風に揺れていた。
彼は空を見上げた。ゆっくり雲が流れていた。
どの自然も、自分勝手にマイペースに動く。季節や運によって暴れることはあるけれど、今は穏やかだった。
――この前来た時は、あそこの草はもっと短かったはずだ。たった二日で成長するものだ。
――昨日の雲と、形が違う。重なり具合も違う。きっとあの雲は、どこかへ行ってしまったのだろう。
変わらないようで、日によって様相が異なるこの景色。
けれど、些細にしか変わらない河川敷。
無味くんはここが、一番楽だった。
朝の九時半くらいから、彼はずっとここに座っていた。呆然と、時間潰しの暇潰しとして。
約束の時間より三十分ほど早く来てしまったけれど、遅刻しないよりかはいいだろう。というか問題ないだろう。何も。
しばらくして、彼はスマホを取り出す。現時刻は九時四十五分。あと十五分ほどすれば、彼女は来るはずだ。それまでしばらく、全く同じように、景色と同化するかのように見ているとしよう――。
「相変わらず早いですね。無味くんは」
無個性な声のする方に視線を流し、振り返ってみれば、見慣れた私服姿の乾燥さんが立っていた。
柄のない、無地のワンピース。黒で統一された自分と比べ、彼女は白かった。
「うん、おはよ。乾燥さん」
「――よっと」
そう返すと、彼女は自分より斜め下の方に移動して、三角座りする。いつもは立ち位置が逆になることがあるが、今日は自分が上の方にいたので下に行ったのだろう。
「今から出発したところで、どの道駅で待たされるので、時間になるまでここで待ちましょうか」
「そうだな。それがいい」
「映画館のこと、調べてくれましたか?」
「ルートはだいたい覚えた。万が一のときは地図アプリを頼ろう」
「ありがとうございます。私はこういうの把握するのが苦手なので」
「いいよ。慣れてるし」
「万物を掌握するのが苦手なもので」
「それは誰だって苦手だろ」
「あなたは何を掌握するのが得意ですか?」
「どんなものでも掌握なんてできないよ。人を動かすことはできないに等しい」
「そうですか? 無味くんが掌握しているもの、現在進行形であると思うのですが」
「何が?」
言われるが、全く見当がつかず率直に訊く彼。すると彼女は、こちらに振り向くことなく端的にこう答える。
「自分の心です」
「……」
言い返すことができなかった。けれど、疑問には思う。
「でも、そんなのは誰だってやってることだろ?」
「やってませんよ。意外と難しくてできないものです。私だってできません」
「……」
「もしかして不服ですか? 本当ですよ?」
「いや……不服じゃないよ。ただ、疑問なだけだ」
とうとうこちらを向いた彼女に、彼は無表情で呟くように言う。
「……そうか。みんなそんなに、やってないんだ」
「やってないというより、やれないんですよね。難しすぎて。ほら、感情って勝手に、自分の意思関係なく動くじゃないですか。まるで別の生き物に乗っ取られているかのように……何者かに寄生された場合、それを剥がすのは精神力どうので何とかできるのではないでしょう?」
「できないな。剥がせたとしたら、精神力ではなく奇跡や偶然だ」
「それと同じですよ。みんなから見たら奇跡や偶然を、貴方はやってのけるのです」
「そうかな……」
自分ではよく、わからない。ある程度はやっているつもりではあるけれど、果たしてそんな、有り得ない行為をしているのだろうか?
――していないだろう。できないだろう。現実的に考えて。
けれどまぁ、自覚していないだけで本当にやっているのだとしたら、やれてしまっているのだとしたら、それはそれでいいか。苦行では、ないし。
「はい。完全には掌握できていないようですが」
「そうなんだ」
他人事のように、彼は返す。彼女も滑らかに、こんなことを口にした。
「だって無味くんは、抑えつけることはできてもコントロールすることはできないじゃないですか」
「……」
……。
……それは……どういう……?
「あ、そろそろ時間ですね。行きましょうか」
そんな彼を置いてけぼりに、乾燥さんはバックからスマホを取り出した。
「……ああ、もう十五分経ったんだ」
一人でいたときは、もっと長く感じていたのに。
彼女が立ち上がるのに続いて、無味くんも立ち上がる。
「さて、ここから駅まで二十分。電車で三十分。結構な遠出ですね。乗り遅れたら大変です。迷わないように注意しながら行きましょう」
「おう」
そうして、乾燥さんが先導する形で人気のない道を歩き始める二人。
「ところで無味くん、今日はどれくらいの時間まで付き合えますか?」
「まぁ、八時ぐらいまでなら」
「なるほど。了解です」
「……」
休日は共にいることが多いけれど、何時まで一緒にいる、ということはない。主に二つの理由でしか、乾燥さんと一緒に休日を過ごしたりしないからだ。
一つ目は、互いに暇になって行ける場所がない場合、たまたま河川敷で鉢合わせることがある。まぁ、かなり低い確率だけれど。大抵は乾燥さんは家で調べ物をしていたり、知らない場所に行っていたりすることがあるからだ。それに比べて、自分は家か図書館か本屋にしか行かない。
二つ目は、彼女がやりたがっていることを手伝うとき。これはよくあることだ。そういうときは、彼女が満足するまで付き合っているため、厳密に何時に解散ということはしない。朝に集まって昼に解散したり、急に呼び出されて十分も経たずに終わったり。
だからこうして訊かれることは、滅多になかった。訊かれるとしたら長引き、なおかつ時間が過ぎても拘束されているため動けない手伝い……。
「……乾燥さん。俺は映画は一本しか観ないからな」
「な、なぜバレたんですか。こっそりチケットを買って八時ギリギリまで二人で映画鑑賞しようとしていたことを」
ゆったりと、わざとらしくぎょっとした身振り手振りをして、棒読みで読み上げる彼女。止まることなく歩きながら彼は口を開く。
「今のはバレバレだよ。分かりやすい。なんで前もって言わなかったんだ?」
「……言ったら無味くん、断ったでしょう。一本観てダメなら意味ないって」
「まぁな。実際意味ないし」
「お金は私が払いますから。B級映画もアクション映画も実写映画も試しましょうよ。もしかしたらお気に入りの映画が見つかるかもしれませんよ?」
「いや、金の問題じゃないよ。金の問題じゃないけど……そもそもそんなに金あるのか? 使う用途は絞るべきだよ、湧き続けるようなものじゃないんだから」
「それは問題ありません。お小遣いは一万円貰ってます」
「だからそういう問題じゃ……」
と、そこで思い当たった疑問に、彼女に訊いてみる無味くん。
「乾燥さん、この前は六千円って言ってなかったか?」
「……気のせいじゃないですか。それよりも今は、映画の話です」
「……」
明らかに話題を避けたけれど、言及はしなかった。してほしくなさそうだったから。
「できる限り色々な映画を観てみたいんですよ」
「なら一人で観たらいいよ。俺は一本観て帰るから」
「それは困ります。無味くんと一緒でなければ検証できません」
「……今回の検証する内容って?」
「一人ではつまらない映画も、誰かと観たら面白く感じるかの実験です」
……なるほど。だから自分を誘ったのか。一人で観てダメだったから。
だけど彼は――かぶりを振った。
「一回やればわかることだよ。きっと」
「……なぜ、そう断言を……」
言いかけた言葉を、彼女は自ら切った。どうして最後まで続けなかったのかは、わからない。
代わりに、こんなことを持ちかけられた。
「では、こうしましょう無味くん。一度観てみて、それで少しでも心境に変化があったら八時まで一緒に観てください」
「……うん、いいよ。それで」
それで諦めてくれるなら、いい。
そう思って、彼は了承した。