人がいない――人がいない。どこもかしこも。
このまま誰にも会うことなく、自分以外の人類が滅んだのではないかと疑ってしまうほど閑散とした通学路を歩いて信号機に着くのだろうかなんて考えていると、彼女がいた。
黒い学ランとは正反対に、白いセーラー服に身を包む彼女。昨日と変わらず背が低い。
「はよ、乾燥さん」
欠伸交じりに挨拶すると、彼女はこちらを向いて眼を合わせる。
「おはようございます。無味くん。あなたが欠伸をするのは初めて見ますね。何かあったんですか?」
「いや、何も。自分でもなぜかはわからない」
片目をこすり、隣に並びながら彼は言った。少し、眠い。できることなら二度寝したかったけれど、このくらいの時間に起きるのが習慣になっているせいか、なかなか寝付けなかったので仕方なくこうして学校に向かうことにした。
昨日は一体何時に寝付けたのだろう。いつもならわざわざ寝ようとせずとも、勝手に意識が飛んでいくというのに、昨日はそれが起きなかったのだ。寝不足……というものを、身をもって体験した。これは確かに、居眠りや昼寝をしたくなる。
ただ――一応判明していることもあって、原因はわからずじまいだけれど、昨日は何だか落ち着くことができなかったのだ。プリントだらけの自室だったというのに、なぜだろう。
そんなことを考えていると、信号はすぐに青に変わった。
「珍しいこともあるんですね。体調管理のためにも、原因を突き止めたいところですが……」
「そうだな。今日だけならまだしも、明日以降も続くのは困る」
「本当に何もなかったんですか? 家でだけでなく、文化祭で一人になったときとか。悩み事や考え事があると人は眠れなくなるものですよ」
「……」
数瞬だけ、言葉に詰まる無味くん。
隠すことは大の得意だけど、抑えるのも玄人といっていいほどだけれど、他人に嘘をつくことは滅多にしたことがなかった。
苦手ではなく、したくなかったからだ。誰かを騙すような真似は。
「何も、なかったよ」
平静を装って、繕って、平坦な発音になるようにそう口にする。
「……そうですか」
こちらを向いていた彼女は、前に向き直った。どこまでバレていたのかはわからない。いっそ全てバレていた方が気が楽にはなったかもしれない……が、そうするわけにはいかなかった。彼女を騙すより、もっと苦しむかもしれないから。
「何もないのだとしたら、なんでですかね。そうでなくとも眠りやすくなる秘訣など……メラメラくんや鉛筆くんに訊いてみてはどうでしょう? 私は眠れなかったことがないので、こういうことには疎いのです」
「ああ、そうしてみるよ」
――悪いことを、してると思う。
彼女が恋焦がれるように求めている『それ』について、先日うーさんから答えらしきものを聞いたのだから。急に寝不足になったのも、案外それが理由かもしれない。
好きはとても軽いもので、認めるものである――今そのことについて彼女に話せば、きっと彼女ならば、実感を伴ってすぐにでも体験することができるだろう。ずっと探し続けていたことなのだから。
自分とは――違って。
やる気もなく、目的もなく、漫然としている自分とは違う。何もかもが。
これ以上彼女との共通点がなくなってしまうのは――怖かった。彼女が変わってしまいそうだから。
変わってしまったら、たぶん――離れていくだろう。楽しいや面白いを開拓していって、遠いところに行ってしまうだろう。
彼女が離れていくと思うと、気が気でなかった。こういう自分があまり気に入ってない。
独りでいられないのも、これまで協力してきたのにいざとなったら妨げようとするのも。
でも……こうするしかなかった。
せめて自分に好きの実感を持てるようになるまでは、待っていてほしかった。
昨日から不思議と、これは好きかもしれないと気付いても全く認めることができないのだ。認めるように、思い込もうとしている。努力している。
なのに――。
なのに……心のブレーキがかかる。
……これが解けるまでは、言いたくなかった。
もっと良い方法があるのかもしれないけれど、自分にはこれくらいしか思いつかない。
彼女を騙す手段しか、思いつかない……。
……恩のある彼女を……好きかもしれない彼女を騙すのは、苦しかった。
「付き合ってください。無味くん」
そんな考え事を頭の中でグルグルさせていると、乾燥さんの単調な声が聞こえてきた。
気付けば横断歩道も渡り切っている。
「……ん、ごめん。聞いてなかった。今度はどこ? 何をしに?」
「そうではなく、付き合ってください。これは告白です」
「…………は?」
思考が停止して、ついそんな素っ頓狂な声を上げそうになった。
君は何を――言って――
「おや、鈍いですね。だから私の彼氏になって、デートしてください。恋を知りたいんです」
…………え。
え、え、え、え、え、え。
なんで、急に、そんなことを、え?
「――そ、そう……か。知りたいんだ。恋」
「はい。先日文芸部で恋愛小説を嗜みまして。これまで恋愛なんて非現実的で胡散臭いものだと思っていたのですが、気が変わりました。どうせならとことん試したいです」
「そ、そういうことか、うん。そっかそっか。うん……うん……」
不自然極まりない返答をする無味くんの様子に、さしもの乾燥さんは眉をひそめる。
「何をそんなにも動揺しているのですか? 無味くんらしくもない」
「寝不足だよ、寝不足」
「んー……ならしょうがない、んですかね?」
とっさの言い訳に納得しかける彼女。無味くんは心なし程度の息を吐く。
「それで、付き合ってください。お返事は?」
そんな急に話題を戻さないでほしい。
「……その、つまり好きを知るために仮の付き合いをするって、そういうことか?」
「はい。別に恋愛感情があるから告白したわけではありません。知るために告白しました」
「あ、ああ……」
なるほど、彼女の意図していることは理解した。合理的というか、如何にも考えそうなことだ。
だが、昨日までの自分なら、きっとこんなにも動揺することなく返事をしていただろうけれど、今はそんなことできない。
――彼女が恋愛を引き金に好きを知ってしまうことを防ぎたいから。並大抵のことでは知れないと思うけれど、うーさんから好きの見解を聞いたのは恋愛話がきっかけになっていた。可能性はある。
――自分が好きを知ってしまったことをまだ彼女には隠したいから。意識していることに気付かれて、訊かれて、答えて、それを知った彼女が変わるかもしれない。協力者の立場としては裏切るような行為だけれど、これは譲れない。
――それと。
恋愛感情を持ってないとはっきり言われたことに、傷ついた自分がここにいる。
彼女は好きを知らないという、安心材料のはずなのに。
偽りの付き合いは、したくなかった。
「……ごめん。彼氏役の協力は、できない」
「……」
彼女は驚いたように、沈黙した。てっきりすんなりオーケーされるかと思ったのに……そう言いたげだ。
「どうしてですか?」
「……やりたくないんだ」
そうとだけ、答える。
すると、少しして、乾燥さんは立ち止まった。
「……無味くん、私の眼を見てください」
「いいけど……」
彼も立ち止まって、彼女の瞳を見つめる。
「……(キラキラキラキラ)」
「無表情で目をキラキラさせないでくれ」
「……(うるうるうるうる)」
「無表情で目をうるうるさせないでくれ」
「……(ピカピカピカピカ)」
「無表情で目をピカピカさせないでくれ。眩しい」
謎のやり取りを終えると、一転して、彼女の瞳は普通の黒い瞳に戻る。
「むー、ダメでしたか。目力でなんとか了承を貰えると思ったのですが……」
「無理だったな」
そして、再び歩き始める二人。
「全く……相変わらず情がないですね。無味くんは」
「相変わらず感情が死んでるな。乾燥さんは」
本当に――死にすぎだよ。ちょっと。
「まぁ、いいです。なぜあなたがそうまでして拒むのかはわかりかねますが、ならばメラメラくんにお願いするとします」
「……」
乾燥じみた声音の発言を、つい、止めたくなってしまったけれど、自分にそうする権利がないことを思い出して、何も言わないようにした。