今頃乾燥さんとメラメラくんで、どこに出かけているのだろうか。
買ってきた参考書が入った袋を片手に、ふと――そんなことを思う。これまで彼女が今何をしているかなんて、一度として気にしたことがないのに……。
……いや、無意識に考えたことはあるけれど、ずっとそれを否定してきたのだ。そんなことは思っていないと、自分を騙していた。
感情は認めるものだと、そう言われてからだ。こんなことを気にするようになったのは。相変わらず――感情は、あまり好きではないけれど。このままなかったことにしたいけれど。
――でも、抑え過ぎたら、潰されてしまうかもしれないから。
とりあえず、もう少し認めてみよう。それによって何が起こるのかは、よくわからないが……彼女があれだけ求めているということは、価値があるものなのかもしれない。
……まさか、自分が彼女の側につくとはな……彼女がこちら側につくかどうかを、試していたはずなのに……。
思いを巡らせて、無味くんは街中を歩く。河川敷の方角だった。
穏やかな川が好きだ。空模様が好きだ。
……。
やっぱりどこか、空っぽな響きだった。だから自信がない。
――本当に俺は、彼女のことが好きなのだろうか?
こんなにも空っぽで、少し意識している程度で、好きと認識していいのだろうか?
……なんてあの人に訊いたら、きっとこう言うに違いない。
『認識しちゃいましょう。恋愛なんて激安なんですから、とりあえず買っちゃいましょう』
あの人は本当に、良い先輩だと思う。
何となく気を許せてしまったのも、彼女の人柄の良さが起因しているのだろう。
あるいは――。
初対面の時から、あの人からもどこか自分と似たような感覚を感じたからだ。
メラメラくんとは――違って。
河川敷に着くと、先客がいた。
俯いているせいか顔はわからなかったけれど、その見慣れた容姿から容易に推測できた。三角座りしている乾燥さんである。
昨日の帰り道で「早速明日、デートすることになりました。私からの報告をお待ちください。期待するかどうかはあなたに任せます」とのことで、二人で出かけているのは知っていた。正確な時刻は確認していないが、家を出て店を出てからそう経ってないはずなので、おそらく四時くらいのはずだ。
彼女のことだから、てっきり六時くらいまでは一緒にいるのかと思っていたのだが……彼の方に用事があったから、早めに切り上げたのだろうか。それとも一時的に離れていて待ってるとか? しかし、周囲にはそれらしい人影は見当たらない。
無味くんは彼女の斜め上の位置に腰かけて、訊いてみる。
「どうだった? あいつとのデート」
すると彼女は、ゆっくりと顔をこちらに向けてから川の方へと変えて、いつもの声音で答える。
「何もありませんでした。胸キュンとやらもありませんでしたね。彼は色々と、私が楽しめるようにと準備してくれていたのですが、どれも空振りでした」
「……そっか」
何か掴めたかもしれないと危惧……していたけれど、何もなかったらしい。安堵するべきか、自己嫌悪するべきか、悩みそうになった。
「なんていうか、彼にそういう感情を一切抱けないんですよね……どこまでも、どこまでも……何もないといいますか」
どこか、嘆息つきそうな語調でそう零すことに、違和感を覚える。
「……? そんなに気に病むことなのか?」
さっぱりとしていて、後腐れなくて、次から次へと切り替わるのが彼女だろう。なのに……
「……無味くん」
乾燥さんは答える代わりに、こう問うた。
「あなたは、私がこれからお話することを、無条件で信じてくれますか? 私を疑わないでくれますか?」
彼女はずっと、河川敷で流れる川を見つめる。こちらの表情を確認することなく、だ。
だからか――彼女の表情が、よく見えなかった。
「……うん、信じるよ」
「……」
彼女はやや顎を引いて、ただでさえ大人しい声を更に大人しくする。
「この世界は夢。私の夢、なんです……」
「……そうなんだ」
「はい。母がいるというのも嘘です。嘘をつきました。いることにした方が何かと都合がよかったので、そういうことにしていたのですが……でも実際には、いません」
その言葉を難なく受け入れられたのは、きっとそれが紛れもない真実だからだろう。思えば何かと、彼女について不自然なことはあった。その度に誤魔化されてきたけれど。
「生命が滅び、地球が荒廃していくだけの世界で、たまたま私だけが生き残りました。そして、夢を見るようになったんです。この世界の夢を――まだ美しかった頃の、地球を。だから私は、忘れてしまった喜びを思い出すために、何度も夢を見るようにしました」
「じゃあ……思い出せたら、もう夢は見ないのか?」
「……わかりません」
顔を上げて、今度は雲を眺めながら乾燥さんは呟く。
「満足するまで何度も見続けるかもしれませんし、あっさり満足して、安らかに消えるかもしれません。あまり考えたことはなかったです」
「そっか――どちらにせよ、君なら見つけられると思うよ。俺は応援する」
応援なんて、そんなこと、きっと以前までの自分なら口にしなかっただろう。
……だが、
「……本当にそうでしょうか」
そうして、再び面持ちを下げる彼女。
「夢、ですよ。夢如きに何ができるというのですか」
「……っ」
その時の乾燥さんの声色は、自分でもわかるほどに情感があって。
「やはり、夢に恋をするなんて馬鹿げてます。本気の恋なんて……好きに思うことなんて、できないですよ……。……ねぇ、無味くん、趣味でも特技でも、見つけられるんですかね? 夢なんていう空想の中でも、本気になれますかね? そうだと、言ってください……お願いします」
堰を切ったように、彼女の心中が溢れ出る。
今彼女が発露したものは、これまで抑え続けて、見ないようにしてきたことなのかもしれない。
何がきっかけで解れてしまったのか、見当もつかなかったけど……声をかけたくなった。
誰かを励ますことなんて、したことがないけれど……全くやり慣れてないせいで、逆に傷つけてしまうかもしれないけれど――それでも、無味くんは言った。
自分なりに紡いだ、自分の言葉で。
「俺がなれたから、きっと乾燥さんもなれると思うよ」
「……え?」
わかりやすいほどに驚いた表情をして、乾燥さんはこちらを向いた。
――彼女が変わるかもしれない。それが何だというのだろう。
怖いけれど、でも、彼女を少しでも励ませるなら、それでいいじゃないか。
「とてもほんのりとしたものだけどな。自覚してなかっただけで、俺、好きな人がいたんだ」
名前を出すのは、とてもじゃないができなかった。
それだけの勇気を、彼は持っていなかったから。
「その人は、自分にはないものを持っていて、最初は憧れた。その人の掲げる目標は、あまりに理想的すぎて、否定したくなったけれど……それでも、最終的にはそっちが正しかったのかもしれないと、そう思った。どうして彼女がそれを求めているのかは、今でもわからないが……」
一行で終わると思っていたのに、話してみたら不思議なくらいにスラスラと言葉が出てきた。
じゃあ、やっぱり……半信半疑だったけれど、俺は乾燥さんのことが……。
『ちょっとのことでいいんです。些細なことでも――この人と一緒にいたいなとか、この人と離れたくないなとか、それってもう好きでしょう』
うーさんの、そんな言葉を思い出す。
「いつも引っ張ってくれたんだ。俺のことを。引っ掻き回してくれた。かと思いきや、俺に付き合って何もしないでくれることもあって……その最中は気付かなかったけど、心地よく感じてたんだよ。たぶん、だけど……。俺は何もない一生を過ごして、死んでいくんだろうなって思ってたのに……ちゃんと見たら、何もない人生じゃなかったし、ちゃんと気付いたら、彼女と離れたくないという気持ちもあった。その人のおかげで好きを知ることができたといっても過言じゃない」
感謝してる、と言いたかった。特に文化祭の一日目、家庭のことについて自分の気持ちを理解してくれたことに。誰にも打ち明けることができなかったけれど、彼女だからこそ打ち明けられたことだ。
けれど言えない。
言ってしまったら、バレてしまうから。
――なんていうか、好きな人に好きと伝えるのは、あまりに慣れていないから。どう思われるか、わかったもんじゃないし。
「じゃあ……昨日、付き合えないと断ったのは……」
それまで黙って聞いていた乾燥さんが眼を見開いたまま訊くと、無味くんはバツが悪そうに視線をずらす。
「……好きな人がいたから、仮とはいえ付き合いたくなかったんだ」
だが、なおも正直なことは話せない。話してしまったら、好きな相手が乾燥さんのことだと告白するようなものだ。
告白なんて……まだ、できない。心の準備とか、色々……。
「そう……だったんですか。てっきりもう、喜びなんて見出せるはずがないと、完全に諦めてしまったからだとばかり……」
視線を前へと戻して、眼を閉じる乾燥さん。
「今も諦めてるといえば、諦めてるよ。まだ実感はないし、本気の恋ってやつじゃないと思う。けど、俺ができたから、乾燥さんもできるはずだよ。夢の中なら、それこそ何でもできるだろ。俺だってできる限りの協力するから、だから――」
……ああ、そっか。今更ながらに気付いた。
「一緒に好きを実感するために、頑張ろう」
独りでいられる強さに惹かれていたけれど、心のどこかでは、そういう一面の彼女にも憧れていたのかもしれない。
彼女を否定したかったのではなく、彼女を否定する自分を否定してほしかったのかもしれない。
もしかしたら、だけど。
――自分なりの稚拙な励ましの言葉をかけると、彼女は口元をほんのり綻ばせた。
「……ありがとうございます。まだまだ試していないことは山ほどありますからね。いつか宇宙にでも行きましょうか。この青い地球を拝むのです」
「うん」
その時の乾燥さんは、いつもの前向きな乾燥さんだった。どうやらこんな自分でも励ませたようだ。少し……嬉しく、思う。誰かを助ける喜びって、こういうのを指すのかな。
相槌を打って、共に川を眺める。その川はやはり……綺麗だった。
ぽつり……と、平坦で浮き沈みがなくて、淡々とした乾燥さんの声がする。
「でも、本当に良かったです。無味くんにも知ってもらえることができて。その人に感謝しないとですね」
「……うん。君のおかげで、俺は……」
――浮かれてしまっていたのだろう。そう、口にしてから、気付いた。
自分がとんでもないやらかしをしてしまったことに。
「……え? 無味くん、君って……もしかして、その好きな人って……」
あ、あ……。
彼女の言葉が耳に入ってこない。いや、入ってきているのかもしれないけれど、上手く処理できない。
ようやく現実を認識し始めると、彼はじんわりと、瞳と口を半開きにするばかり。
ただただ心臓の鼓動が大きくなって、湧き出るはずの感情は、衝撃で全て打ち消されてしまった。
思考もままならず、混乱して、彼女の顔なんて見ている余裕がなくなって――気付いたら、無味くんはその場を離れていた。
ちゃんと何か一言残していったのか、何も言わずに走りだしたのか、わからない。覚えてない。彼女がどんな反応をしていたのかも……考えることすら、できなくなっていた。
現実が急に遠くなって、怖くなって――気付いたら、自分の家に着いていた。
自室に向かって早歩きして、ベッドの上に転がる。荒い息を鎮めようとする。
ようやく落ち着きを取り戻した頃には――後悔と恥の念が彼を苛んだ。
やった……やってしまった……と。
具体性のないそればかりが、彼の中で巡回する。