「ここは遊泳禁止区域の筈なんだけど」
「そうなんだ、それって人魚も処罰されるの?」
「貴女……人魚なのね」
ブロンドをはためかせながら、少女は返事を返してくれる。
少し勝気そうな眉をしていて、瞳は綺麗な碧。ただ、海というよりは空を思わせる色だ。この白い町によく似合っている。
「人魚に会うのは初めて?」
「初めてよ。そもそも、この町に人魚は寄りつかないの。漁の網に引っかかるし、金持ちも多いから」
「金持ちが多いと何か問題が?」
「……人魚をただのインテリアだと思う奴もいるってこと。貴女、人魚なのに知らないの?」
「俺は人間に会うのは2回目なんだ」
「……もう少し危機感を持つ事をお勧めするわね」
わざわざ危険な事を教えてくれるなんて、 この娘は親切だ。手にある貝殻のブレスレットや、細工がされたサンダル。彼女は裕福な生まれなのだろう、頭につけたリボンにもよく見ると細やかな刺繍がされている。
「お嬢さんは、この町の子? 漁師の娘には見えないけど」
「……私はここに住んでるけど、漁師の娘じゃないわ。人魚をインテリアだと思ってる、ろくでなしの娘よ」
「それじゃあ、俺はインテリアにされるのかな?」
「あんな人たちと私を一緒にしないで!」
少女は俺の言葉に激昂し、叫んだ。突然の大声に驚くと、少女はすぐにバツが悪そうに歯を食いしばる。
思わず、叫んでしまったと己を叱咤しているのだろうか。ギリっと握られた手は荒れを知らない美しい指だ。
「……ごめんなさい。つい大声を出して。でも、私とあの人たちを一緒にしないで。あの家に生まれた事を私が一番後悔してるの」
「家族が嫌い?」
「嫌いよ。金に物を言わせて好き放題。自分中心で、わがままで、視野が狭くて。踏ん反り返ってる暇があるなら、使用人の給料でも上げてあげれば良いのに」
この世界の金持ちといえば、貴族だ。爵位はどうあれ、皆服飾や調度品に拘る余裕があり、領地を持っていることも多い。煌びやかな世界は平民とは隔絶した生活レベルの高さがある。
彼女はそんな家の生まれなのだろうか。それとも、大きな商会の主の娘か。商人も、時に貴族に匹敵する富を貯めていることがあるそうで、この世界では金持ちの職らしい。
もちろん、その日暮らしの個人商店なんかもあるが。
「……ねぇ、ちょっと私の愚痴に付き合ってくれない。対価は払うわ。その代わり、誰にも言わないで」
「何をくれるの?」
「貴女、人間と会うのは2度目なんでしょう? 人間のことを教えてあげるわ。これでも教養はある方よ。それとも貴女も金貨が欲しい?」
少女は腰に下げていたバッグから金貨を1枚取り出した。黄金はキラリと光を反射し、少女の手の中で価値を輝かせている。
そういえば、この世界の貨幣価値や国について、まだ知らないことが多い。
ハーヴィやシラタマから陸のことは聞いていたが、ハーヴィは体調から長く話せなかったし、シラタマは陸に出たことがないので噂しか知らない。
その点、今現在陸に生きていて学もありそうな少女の話は魅力的だ。
「オーケー。君の愚痴を聞いて、俺の質問に答える。それで交渉は成立だ。俺はセイ。よろしく」
「サーシャよ」
この世界でも共通のコミュニケーション、握手をする。俺の手は海で濡れていたけど、サーシャは構わず手を取ってくれた。その手は、人魚の俺より暖かく、乾いている。
「……まず、私の周りのことを話さないとね。私はサーシャ・トキカルテ。トキカルテ家長女。この町に別荘を持つ男爵、フォスター・トキカルテの実の娘よ」
彼女が話すに、今の時期は毎年避暑地のミューセに家族で旅行に来るのだとか。本来の住居は王都にあり、ちょっとした領地もあるらしい。ほとんど部下任せのようだが。
そんな家に生まれた娘。それも上に兄が3人いる末の子に生まれた以上、彼女の役割は別の家に嫁いでパイプを作ること。
同じ男爵か、上の階級の嫡男に嫁げれば万々歳。家は長兄に継がせればいい。
貴族の娘に生まれたからには、それが彼女に定められた将来だった。
しかしそれにサーシャはたいそう忌避感を抱いた。
家族は皆平民を見下し、領民を軽んじ、血縁ではなく黄金を愛した。
家族仲は冷えているのに、家には豪華な調度品ばかり増える始末。領地は困窮はしていないが、砂時計の粒のようにジワジワと不満が溜まっていっているだろう。
困窮していないことと、満たされていることは別だからだ。
父親にそれを伝えようにも、嫁ぐしかやる事がない娘の話など意にも介さず。今日もまた商人を呼び、真珠だの高級食材だのを買い付けようとする。
目の前の娯楽に盲目になって、先細りする未来が見えていないのだ。サーシャは絶望した。
「……別に、私だって顔も知らない領民に人生全てを捧げようとする聖人にはなれない。私はね、愛が欲しいの。家族が家族に向ける、無償の愛が欲しかった」
サンダルを脱ぎ、海に足を浸しているサーシャ。その姿は1枚の傑作絵画にも見える。
「暖かい家庭に夢見てしまったのね。物語に出るような、母に甘えて父と学ぶような、兄と遊んだり、家族みんなで笑い合う、そんなただの家族に」
今の家は家族はあくまでも血縁という証で、そこに愛も親しみも何もない。
長兄は家を継ぐために、下の兄はそのスペアや騎士になるために。父と母は家督を譲っても豊かな生活ができるように。
それぞれがそれぞれの利己で動いている、そんな関係。
「冬の暖炉の薪には困らないのに、私の家は冷え切っているの。……私だってバカじゃない。貴族はそれが普通で、私が夢を見過ぎなだけなの。だから、嫁いで暖かい家庭を築くなんて無理なこともわかってる。不出来な妻として突き返されるか、ずっと自分を押さえて生きていくしかない」
その声は震えておらず、底冷えした理性の芯があった。何度も何度も考えて、理解し、客観した思考の結論だ。
「きっと私は、来年に行けないわ」
でも、最後のこの言葉だけは、まだ迷いがあるような、恐れを拭えないような震えがあった。
ああ、彼女は死のうとしている。最初に見た時、感じた不穏な気配はこれだった。
俺の死期を見る力は、あくまでもその身体の寿命だ。自死や事故はわからない。
それでも、彼女の帯びた死の気配は強く、離れ難いほど染み付いている。
ちゃぷ、と足先で水を遊ばせる姿は、どこにも辛さの見えないあどけない少女だというのに。
その頭の中には、鮮明な終わりのイメージが出来上がっているのだろう。
「……どうして、見ず知らずの俺にそんな話を?」
「勘違いしないでね、止めて欲しいわけじゃないのよ。私の周りは私の父ありきの人しかいないの。町の人も、使用人も、客人も。こんなこと、家族の誰にも知られたくない。だから、貴女に話したのよ」
絶対に話さないでね。
そう釘を刺されるが、俺は別に言いふらす気はない。
彼女の「愛されたい」という気持ちに、少なからず同調してしまったから。──前世を、思い出したから。
彼女とは環境も状況も違うが、家族愛を求める気持ちは同じだった。今この世界では、もう叶うことは無い願いだけれど。
…………義父は今も生きているのだろうか。確かめる術は無い。
「これで、私の愚痴は終わりよ。今度は貴女の番。私に答えられることなら、なんでも聞きなさいな」
「わかった。……ああ、その前に一ついいか、ただの感想なんだが」
「何?」
「俺は、サーシャの願いを肯定するよ。その考えは何も間違ってない」
そう言うと、彼女は目を丸くして呆けた後、クスリと大人びて笑った。
「その言葉を素直に受け取れない自分が憎いわ」