「もう少し先にいって、上がって行けばサンドーレです」
チューレの案内に従って、海底を泳いでいく。
チューレは泳ぎはそこまで早くなく、先導しているのもあって速度は無い。
だが頭の明かりが目印にもなっていて、道案内はわかりやすく覚えやすい。
ガイドとか向いてそうだな、と考える。
「お? チューレじゃないか!」
ふと、横から男の声がした。
見れば、数人の人魚が隊列を組んでこっちに向かってきていた。先頭にはチューレに似たチョウチンアンコウの人魚がいる。
オレンジがかった朱色の髪に、紫の三白眼。
色素は同じだが、その筋肉がついた体や後ろに撫でつけた艶のあるストレートの髪は似ていなかった。
なにやら三又の槍と胸元を守る鎧を付けていて、兵士の様に思える。
「あ、パパ!」
パパ、と言うことは彼はチューレの父親らしい。なるほど、血縁だ。
「何日も帰って来ないんだから、心配したんだぞ! 今までどこに行っていた!」
「うへ、ごめんごめん。ちょっとトラブルがあったのよ……」
「まったく……!」
岩陰に閉じ込められていたチューレのことを知らない父親は、チューレを叱りつけた。
しかしどこか安心した様な声色も感じて、真底心配していたんだろうと感じる。
感じるのだが……俺はその怒鳴り声に身を固くした。
「私も自警団としてこの地の危険については懇々と説明した筈だぞ。年頃の娘がフラフラと一人でどこかへ行くものじゃない!」
「う〜、ごめんって」
自分より体格が良いところだとか、怒鳴るときの声の低さだとか、聞こえる高さが似ていたのだ。
前世の父と。
オレの言う父は、本当の血縁では無い。
義父、と言う奴だ。
本当の父親は俺が生まれてすぐ、事故で亡くなったらしい。
母は生まれたばかりの子どもを抱えたシングルマザーになってしまった。
それでもめげずに、幼稚園、小学校、中学校と育ててくれた。
出産が決まっても仕事は休職だけで辞めていなかったから、産休が明けたらすぐに働き始めた。俺は鍵っ子になったが、家計の苦しさは理解していたから、何も言わなかった。
別に聡明な子どもではなかったけど、苦しい生活費をなんとか繋いでいる事くらいは、ぼんやりと察せられた。
狭いアパートだったし、ゲームや携帯も買えなかったけど、誕生日の手作りケーキが何よりも心を満たした。
そんな母が再婚した。高校に上がった直後のことだった。
別に驚きはしない。前々からデートのような食事会に行ったり、花を贈られる母を見てきたから。
母が幸せそうなら良いと、俺は特に何も言うことはしなかった。実際母は笑顔だったし、口笛を吹いてしまいそうなくらい仲睦まじい雰囲気を醸し出していたからだ。
俺に気を遣ってくれたりもしたし、まぁ、この人なら母を幸せにしてくれるだろうと思った。
それからは収入先が増えたのもあって、俺はスマホをゲットしたし家も引っ越した。
いきなり生活レベルを上げるのは避けて、ゆっくりと上げていった。それでも今までの生活から目に見えて楽になって、両親が揃っているとこうも違うのかと、普通の家庭を持つ友達の感性に納得したりもした。
そこまでは、幸せな普通の家族だった。
それが瓦解したのは大学一年の夏だった。
母が死んだ。脳卒中だった。おそらく俺の幼少期の無理が今になってきたんだと思う。
葬式を終わらせ、納骨も済んだ日。
義父は俺に殴りかかった。
今でもあの頬の痛みを覚えている。
左手薬指に付けられた指輪が頬骨にめり込んで、歪な音を立てたのを耳鳴りする。
義父は泣いていた。
母の死を心から嘆いていた。
その理由になった俺を心から憎んでいた。
ああ、母の死をまだ受け入れられていないのか。と俺はその凶行に何も言わなかった。母を本当に愛していた人だから。
数日もすれば落ち着くだろうと、甘んじてその暴力を受け入れた。
俺だって自己嫌悪でどうにかなりそうだったんだ。
しかし、その憎悪は消えなかった。
義父は酒をよく飲む様になった。前までは仕事の接待くらいでしか飲まなかったのに。
冷蔵庫に増えていくビール缶や酎ハイ。つまみのさきイカの匂いが部屋に充満して取れなくなる。
投げ捨てられる空き缶の数に比例して殴られる回数が増えた。わざわざ俺の部屋にまで来て、襟首を掴まれて頭や腹を殴られる。
鬱血する胸元やこめかみを鏡で確認する事が増えた。
ピアスを外した。引きちぎられかけて耳たぶが切れたから。
髪を切るのを辞めた。傷跡が目立つから。
長袖しか着なくなった。痣が消えないから。
大学を辞めた。酒代が稼げなくなったから。
特定の煙草の匂いを覚えた。火傷とともに理解させられたから。
コンタクトを辞めた。死んだ目を見られたくなかったから。
ズルズルと今までの生活から崩れていく。
暴言とともに落ちてくる拳骨を歯を食いしばって受け止めて、ただひたすら黙って耐えた。
怒りが収まったらバイトに行って、心配する同僚を躱しながら金を稼ぐ。
今思うと、あそこで助けを呼んでおけばよかったのにな。
今までの楽しい思い出がそれを邪魔してしまった。
助けを求めたら、もうあの家にはいられないかもしれない。
母の仏壇に手を合わせられなくなるかもしれない。
一緒に生きて過ごした証が、ソファの染みや壁の傷が見られなくなるかもしれない。
まだ義父が正気に戻ると信じていたい。
様々な思いが、俺をあの生活に引き留めていた。
今なら狂っていると簡単に言えてしまうのだけど。
あの頃の心の傷は、転生しても残っているらしい。
たとえ他人の父親だろうと、その拳がこちらに向けられることは無いとわかっていても、指先は冷えて喉は痛くなる。
かつて殴られた場所が引き攣る。痺れる。
なのに目線は外せないのだから、脳機能というのは不便だと思う。
もうあの人はいないのに。
ああ、そういえば俺は義父に殺されたんだろうか。
死んでも、おかしくないよな。あの生活だ。
母が死んで2年程度で息子も死ぬのか。後追いなんてしないって約束したんだけどな。
結局、こうして母の元へも行けなかったわけだし。
そう考えると、俺ってなんで生きてるんだ?
フワフワとしていた前世をハッキリ思い出した今、俺がこのまま生きていく意味って、あるか?
なんでこんな異世界で生きてるんだっけ、もう前世で十分頭も身体も使ったと思うんだ。精神を削り切ったと思うんだ。
あれ? あれ? あれ?
なんでここにいるんだっけ。
最後に覚えてることって、なんだっけ。
殴られて、掴まれて、引きずられて、風呂場に行って──それから記憶が無い。
深い深い海の底に生まれて?
それで──
「セイ様!!」
「っ!?」
ハッと意識が現実に戻る。
真っ暗だった視界が急速に色を取り戻し、視界には青と白があった。
いつの間にかシラタマが俺の頬を触手で挟んでいる。
「あ……しら、たま?」
「セイ様! どうなさいましたか!? 体調が優れないのですか?」
「……なんで、ここに」
まだバチバチと前世のフラッシュバックを視界の端に映しながら、シラタマに問うた。
シラタマは神隠し空間で深海の民の面倒を見ていた筈。ここには、呼んでいないが。
「神隠し空間の空が突然闇に覆われたのでございます! 空間を作られているセイ様に何かあったのではと、こちらに出てまいりました」
「闇……? あ、ああ……」
おそらく俺の精神が急速に不安定になったからだろうか。
神隠し空間に影響が及ぶなんて、シラタマや深海の民はさぞ不安に思っただろう。
「あ……そうか……」
そうか、俺の空間にはシラタマと深海の民がいるんだった。
俺が死んだら、今度こそ彼らは路頭に迷う。信じるものも信じられなくなってしまうかもしれない。
それこそ、死んでしまうかも。
俺がなんで生きているのかって、一度拾い上げた彼らの面倒を最後まで見きるためじゃないのか。
少なくとも、今のあいだは。
「セイさん、大丈夫ですか……?」
チューレも、急に押し黙った俺を心配げに見つめている。
彼女の父親はもうどこかへ行っていた。
それが分かると、心がスッと軽さを取り戻す。
思考の中はまだグルグルと渦を巻いているが、俺はそっと顔色を整えた。
「……うん、大丈夫」
そう言えば、シラタマたちは心配を少し和らげて笑みを見せる。
俺はまたチューレの案内に沿って泳ぎ始めた。
また助けを呼ばないんだな。と思考の隅、冷静な自分が溢したのが聞こえた気がした。