鎮守府が壊滅した。
提督は戦死した。
その日。
その運命の日。
艦娘たちのほとんどが遠征に出ていた。修復が必要な者は先晩に入渠を終え、ごく少数の休暇中の者を残して艦隊はどこそこに出航していた。奇しくも新進気鋭の提督として就任した青年提督による管理が徹底していたことが災いした。
しかしながら、殉死した青年を「油断していた」の一言で切って捨てるのはあまりに酷な話だ。鎮守府周辺海域の掃討は疾うの昔に完了したが、念には念を入れた索敵が敢えて不定期に繰り返されており、後年にいくら分析しても制空・制海権ともに盤石に違いなかった。蟻一匹侵入する余地すらなかったはずだった。
「提督……」
「テートク……どうして……」
だが、起きるはずのない襲撃は起きた。起きてはいけないことが起きた。膝から崩れ落ちた艦娘たちは現実を受け入れられず、微動だにしなかった。出来なかった。
その夜、陸海軍合同気象班による最新の天候予報は、文句無しの快晴のはずだった。
一閃、また一閃と雷光が轟いて天空を砕く。雨風が急行列車のように横顔を叩きつける。今にして思えば不吉極まっていたその一夜にして、鎮守府は瓦礫の山と化した。
海に面した鎮守府の窓から一望する海の景色はまるで絵葉書のようだった。陽光を浴びて輝く椋鳥の群れが蒼空を彩っていた。瀟洒な造りの鎮守府を囲う山々には豊かな自然が残され、朝は山頂から吹き降ろす爽やかな風を頬に感じ、夕暮れには水平線に沈む太陽を穏やかに見送った。誇りある歴史を刻んだ赤煉瓦の外壁にはいつも少女たちのレモン色の笑い声がこだましていた。
その歴史は、原形を留めない真っ黒な炭の塊となって途絶えた。美しい夕日を映してゆらゆらとまどろんでいた窓ガラスたちは溶けたのちに冷え固まり、剣山のように険しく突き立っている。まるで、
ワレ ゲンザイ キシュウ ウケル
ジョウキョウ ワルシ
ゼンカンタイ シキュウ キトウサレタシ
クリカエス───
急報を耳にした艦娘たちの驚天動地っぷりは到底比喩出来るものではなかった。目を血走らせ息を切らせ、全速力でもってそれぞれの派遣海域から取って返した。だが、駆けつけた時には、全てが遅かった。
いつどんな時でも両腕を広げるように海岸線にそびえ立ち、帰投する艦娘たちを温かく抱き迎えていた荘厳な鎮守府は一帯が焼け野原と化してもはや見る影もなかった。火山噴火を連想させるほどの天を突く業火が立ち昇っていた。夜空を真っ赤に染め上げる大火が怒り狂う海のように波打ち、轟々と吹き荒む熱風の咆哮があらゆる音を掻き消す。人間が悪夢に描く地獄を如実に再現したようなおぞましい光景だった。
「司令!どこですか、司令!」
「司令官さん!返事をしてください……!」
燃え盛る火の手を掻い潜りながら提督の名を叫ぶも返事はなく、最悪の事態を想像して焦燥が募った。言い知れぬ恐怖が全身を震えさせた。
かつて中庭があった瓦礫の山で彼女たちを迎えたのは………呆然とする数人の艦娘と、彼女らに抱きかかえられた提督の見るも無残な亡骸だった。
突然の襲撃に対しても臆することなく軍刀片手に残存戦力をまとめて陣頭指揮を執り、果敢に立ち向かった青年提督は、その溌剌とした若さ故の向こう見ずな勇猛さによって敵の機銃掃射の餌食となった。おそらく即死だったろう。自分が息絶えたことにも気が付かなかったに違いない。精悍だった顔貌は影も形もなかった。筋肉質だが長くスラリとしていた手足は惨たらしく千切れ、親しい者でなければ顔も判別できないほどだった。損傷激しいその遺体において、しかし背中に一切の傷は無く……。彼は2階級特進のうえに特例としてさらに1階級を上乗せされ、海軍大将として英霊の末席に祀られることとなった。
「アドミラール!アドミラールッ!いやっ!いやあああっ!!」
喉も裂けよとばかりに絶叫し、身も世もあらずと泣き喚いた。なかには半狂乱となり、提督を追って自決を試みた者もいた。極大の喪失感に魂を削られ、正気を保てない者たちも少なくなかった。それ故、葬式には秘書艦数名のみしか参列を許されなかった。
彼は誰からも慕われていた。父祖の代から海軍の要職を歴任してきた由緒正しい武家の嫡男でありながら、それを鼻に掛けることはついぞ無かった。誰に対しても分け隔てなく接し、組織の理不尽を許さず、無意味な損耗を忌避し、個人の怠惰を嫌い、勇気を信じ、他者を敬い、情に厚く、己を甘やかさない。良き軍人の規範となるべく心身の姿勢をピシリと正し、毎朝、狭い中庭で小一時間木刀を振るうことを日課としていた。しかし気を抜くときは適度に抜いて悪ふざけに身を興じ、周囲を過度に緊張させない。それを意識的にも無意識的にも実践していた。いざ怒る時はとても怖いが、説教が終わった途端にニヤリと笑って「さて、甘いものでも食いに行くか?」と酒保に誘ってくれるような、春の晴れ日のようにカラッとした性格だった。子供のような純粋な笑顔の似合う好青年だった。彼は誰からも慕われていた。艦娘たちにとって、彼は友であり、父であり、兄であり、心の支えであり、生き甲斐であり、そして煌めく青春の擬人化だった。
そんな彼は、もういない。
半年後。
鎮守府が再建された。
新しい提督が着任した。
年季の入った老将校だった。
───前任提督である青年の、実の父親だった。
「……自己紹介なぞ、貴様らにはいらんな」
鎮守府再建後初の訓令行事。旧鎮守府に属していた艦娘たちは、何の意図があってか全員が再びここに配属させられていた。気まずい面持ちでお互いに顔を見合わせる。提督を失ったあの日に彼女たちにとっての現実は消え失せ、漂い流れてしまった。今ここにいるのは、中身をくり抜かれた空虚な少女の残影に過ぎない。生きるための励みを失い、惰性で生命活動を続ける肉塊に過ぎない。
虚ろな様相の艦娘たちが力なく一同に介した中庭で、牧師の説教壇のように壇上に立つ老提督はよそよそしい声で告げた。
「どうだ、新しい鎮守府は。たっぷりの予算をつぎ込んで大急ぎで造らせた。気に入ったか」
否定肯定、どちらを望んでいるのかも定かではない問い掛け。問い掛けているのかも判然としない。そもそも、そんな大層な設備を与えられても、晴れ晴れした顔など到底出来るはずがなかった。急ピッチで再建された出来立てほやほやの近代的な建物群。完璧に準備・整備された備品。ピカピカに磨き上げられた機能的で分厚い防護硝子。大勢が並べるほど広くなった中庭。
目に映るものすべてが出来の悪い虚像に見えてならなかった。たちの悪い冗談の集合体としか思えなかった。山稜から水平線まで垂れ込める一面の暗雲は切れ目一つなく、すべての色彩を陰鬱なモノクロのように錯覚させた。
『古くて困るわ』
頬を膨らませて苦戦していた設備のギシギシとした感触はまだこの指先に残っているのに。
『んもぉ、狭いんだから』
唇を尖らせた中庭も、その真んなかで「我慢しろ」と笑いながら木刀を振るう彼の横顔も、汗の匂いも、目を瞑ってまた開ければそこにある気がするのに……。
老提督はしばらく何も言わず、首を回してジロリと艦娘たちを睥睨する。
到底、青年提督と血が繋がっているとは思えなかった。背格好も顔貌もまるで似ていなかった。頬はあばただらけ。額から顎先まで顔面は平たく、目は細く切れ込んで鋭い。中肉中背……むしろ少し太り気味。酒と煙草を嗜むのだろう、肌や唇の色は不健康に黄色がかって浅黒い。はきはきと押し出し強く口を動かすより、静かにゆっくりと言い聞かせるように話をする。陰気で、内省的で、簡単に他人に耳を貸さないような雰囲気を漂わせている。全体的な印象は息子であるはずの青年提督とはまったくの真逆で、軍人というより慎重に他人の裏を掻く政治家然としていた。そして実際、彼は現海軍において、本来なら最前線に立つことなど有り得ないほど上位から数えたほうが早い高階級に座していた。
艦娘たちとしては申し訳無さに目を合わせることも出来ず、ただ押し黙って頭を垂れるしかなかった。青年提督の葬式で弔辞を述べたのはまさに壇上の老提督であり、その際に「唯一の肉親にして一人息子」と口にしたことは秘書官から耳にしていた。老提督にとって、艦娘たちは”ただ一人の大事な家族にして自慢の一人息子をみすみす死なせた役立たずの部下”に違いないのだ。艦娘たちは、今この瞬間も魂を擦り切られる罪悪感に苛まれていた。
今から、いったいどんな責め苦の言葉を投げかけられるのか。これから戦場でどんな扱いを受けるのか。きっと消耗品のように使い捨てられる。考えてみれば、そのほうが良いかもしれない。それが贖罪になるのなら。彼に会いに逝けるのなら……。
恐怖と諦観、悲痛と受容の感情にずぶずぶと沈む彼女たちを、老提督は次の言葉で一瞬にして仰天させ、顔を跳ね上げさせた。
「あの愚息はな、実に出来が悪かった」
自身たちの耳の異常を疑うも、鼻を鳴らして嘲笑を浮かべる表情から聞き間違えではないのだと悟り、艦娘たちは絶句した。
この
「幼い頃からなにをやらせても上手くいかん」
「意気地もなく、虫も殺せない弱虫だった」
「生意気に反抗してみせるくせに実力はちっとも伴わなかった」
「人の顔色ばかり伺っていた」
「なにか一つ事に秀でた才能もついぞ開花しなかった」
「英霊方も“このような蕩児が末席などとは”と、さぞや当惑して迷惑がられていることだろう。当家の恥だな」
老提督は気付かない。艦娘たちの握る拳が血の気が引いて白くなり、爪の食い込んだ手のひらから血が流れ落ちていることに。ざわざわとさざ波のように小刻みに震える華奢な肩がぐっと持ち上がり、八重歯が露わとなり、艷やかな髪が闘犬の背のようにみるみる総毛立っていることに。彼女たちは全身で「それ以上言うな」と強く警告を発していた。やはりそれでも老提督は不自然なほど気が付く様子がない。彼女たちの瞳からはすでに悲哀が立ち退き、代わりに怒りの反発心が陣取っていることにも。沈んでいたその場の空気が、地獄の釜を開けたように怒涛の憤怒で燃え盛っていることにも。
「死んで当然な───まったくもって凡庸な愚か者だった」
風船が割れるように何かが弾けた。いくらか冷静な秘書艦が瞬時に立ちはだからなければ、老提督の命は無かったろう。艦娘たちの伸ばした手は死神の鎌のように鋭く、仁王のように怒りに満ち満ちて、あと一寸と踏み込めば老提督の首に届いていたに違いなかった。
引き裂かんばかりの殺意が滲む荒々しい息遣いに囲まれながら、しかし大胆にも艦娘たちを真っ直ぐに見返す老提督の冷酷な双眸にはやはり感情の一粒さえ発露しなかった。
………否。違うのだ。
「───そうか。ああ、そうか。こうも好かれていたのだなぁ、
こうして指先が触れるほど間近で見なければ気づけなかった。皺に埋没した瞳の奥底で、深い深い悲しみが水面のように揺れていることに。
老提督は、息子を嫌悪しているのではなかった。息子の死に鈍感なのではなかった。長年、感情を表に出すなと己を制してきた故に表情筋を意図的に退化させた男が、それでも堪えきれない悲しみに打ち震えていた。
険悪な雰囲気は瞬く間に霧散した。自分たちの反応を試していたと知り、面食らって呆気にとられる彼女たちに、老提督は言葉を続けた。
「一昨年、長年連れ添った妻が逝った。俺は死に目に会えなかった。それどころか病を患っていることも知らなかった。頭のなかは
老提督が遠くを見るように目を窄める。油脂のような汗の臭いが鼻を突いた。心を引き裂く後悔が発する濃い臭いが老提督の肩に
「妻の葬式のあと、倅が俺のところに歩み寄ってきた。軽蔑されているに違いないと思った。唾棄されるに違いないと思った。唯一の肉親に憎まれているのだと。否定されるのだと……俺はこれ以上家族を失うことが怖かった。だが、アイツはこう言った。『大丈夫か、お父さん』と。アイツは俺を心配してくれた。肩に手を置いてくれた。思えば昔から人一倍優しい子だった。取り柄など無くても皆から必要とされた。俺は……あの一言で……あの一言が……あの、一言に……」
震える唇がぎゅっと引き締められ、不意に空を見上げる。それきりもう台詞が紡がれることはなかった。しかし、言葉にならない言葉を艦娘たちは理解できた。『救われた』のだ、と。彼は誰からも慕われていた。実の父親からも、たしかに。
気付けば、彼女たちは老提督と深く共感していた。老提督の心のなかに自分たちと同じ影を見た。
「教えてくれ……涙を流すべきは、俺なのか?君たちなのか?」
彼女たちは、自らの心の在りようが変化してきたことに気が付いていた。空っぽの壺のようだった心にコンクリートのような重たく冷たい何かが注がれ、みっちりと固く充満していく感覚を覚えていた。
「教えてくれ……許しを請うて塞ぎ込むべきは、我々なのか?」
提督の死という事柄が内包する意味合いが変化していた。力点の方向が変化していた。より破壊的な方向に。より自損的な方向に。より過激な方向に。より暴力的な方向に。
しとしとと霧雨が頭上に降り落ち、彼女たちの肩をじっとりと濡らしてくる。しかし、心は火に炙られているようにジリジリと熱を帯びていた。点火したら最後、目的を果たすまで消えない炎。自分自身すら燃やし尽くすことが前提で着火される、黒い炎。
「教えてくれ……死ぬべきは、誰だ?」
誰も答えなかった。答えなくとも、その場にいる全員の心は魂の奥底で溶鉱炉の如く融解し、融合していた。そこにあるのは複数の個の集合体ではなく、一つの意思によって動く群体生物であった。一つの意思───。世の万般の例に漏れず、大切な人を一方的に奪われ現世に放り残されることになった者たちが最終的に選択する目的は、たったひとつだけだ。その胸中で渦巻く感情を究極的に中和できるものはたったひとつだけだ。
そう、たったひとつ……“復讐”だけなのだ。
その日。
その運命の日。
死兵の集団が誕生した。恐れを知らず、損耗など蚊程も厭わぬ地獄の尖兵たち。彼女たちは深海棲艦との戦争に際して重要な局面を何度となく繰り広げた。
そうして終戦を迎えた日、その鎮守府に在していた者たちは誰一人として生き残ってはいなかった。
彼女たちを率いていた、あの老提督も含めて。
久しぶりの小説書き書きでした。楽しかったです。