テーマ:
おねショタ×ヤンデレ×メリバ
そんな感じの小説。



孤独に苛まれた少年と、彼を抱擁する少女の話。
置き去りにされた現実の端っこ。
五感による世界に囚われた哀れな人間と、汚された愚かな僕/私たち。
幻想の檻にて、悠久の凱歌を捧ぐ。

――はじめまして、世界。そして、さよなら。

今、僕/私はあなたと碧落の夜を歌いたい。

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<00>

+++【如月ユキ 大学三年生 十一月】+++

品川駅に着いた。
ドアが開く音がして、窓の先から見える人間の列が、新幹線に吸い込まれるようにして消えていく。僕は自分の隣の席に誰も座らないことを祈りながら、せめてもの抵抗として通路を歩く人間に対して不機嫌な顔を見せ続けた。幸い、願い通り誰も隣には座ってこず、なんとか一時の安寧を享受できることが確定した。
車内アナウンスが流れ、新幹線が人々を連れて加速する。僕は肘掛けに凭れ、溜息を吐いた。そして窓の先、曇り空の下に流れ行く雑居ビルの群れをぼんやりと眺める。
室内の温度は、外気との径庭を示すように暖かい。
冬、学校の教室のように。
イヤホンから流れる音楽が脊髄を透過する。
歩み寄る眠気が、僕をまどろみに引きずり込んだ。


永遠と雪のツガイ

<01>

 

+++【如月ユキ 中学三年生 八月】+++

 

窓の先の宵闇から、コオロギの鳴き声が聞こえる。

父方の実家に来ていた僕は、いつものように二階の部屋の隅で本を読んでいた。今頃リビングでは父親を含めた親戚たちが和気藹々と団欒を楽しんでいることだろう。

僕がそこにいないのは、別に、いじめられているとかではない。僕が自分で一人を選んだ。

一人は良い。誰にも気を遣わなくていいから。

 

「――君がユキくん?」

 

そんな静かな空間の中、本の世界に沈んでいたはずの僕の意識は、僕の名前を呼びかける声に浮上させられる。

話しかけてきたのはタンクトップにハーフパンツを履いた女性だった。知らない人ではない。いや、正確には知らない人”だった”。今日ここに来るまでは。

名前は父親から教えられたはずだが、関わることはないだろうと思っていたので正直覚えてはいない。ただ、従姉ということは知っている。

 

「……はい、そうですが」

「初めまして。私はミオ。よろしくね、ユキくん」

 

そう言って従姉――ミオが手を差し出してくる。「よろしくおねがいします」とだけ返して、僕は手を取らずに視線を本へ戻した。

無視はしない。それは能動的な衝突に繋がるから。ただ同時に相手に対して大したアクションも取らない。コミュニケーションは面倒だ。それに、僕は僕を含んだ人間が大嫌いだ。

こういう反応を返せば、親戚含め大抵の大人は僕に反感を持たず、ただ無闇に関わろうともせず、プラマイゼロの関係を築くことができた。親戚については、おそらく父親が彼らに僕を紹介する時に『人見知りだから』と伝えてくれていたのも大きいだろうが。

とにかく、僕は平坦な反応をして相手が早々に部屋から去ってくれることを祈った。しかし。

 

「ねぇ、何読んでるの?」

 

僕の願いに反して、ミオはこちらに近づいてきた。予想だにしない事態に、僕は本への集中を切らしてしまった。

 

「……東野圭吾……っていう、小説家の……小説……です」

 

本当なら人と会話なんかしたくない。しかし、近寄ってくる存在を堂々と無視できるほど肝の据わっていなかった僕は、諦めてミオの問いに答えた。

 

「東野圭吾!私知ってるよ!」

 

すると、彼女はあからさまに嬉々としてそう言った。何がそんなに嬉しいのか。僕は思わず顔を上げてミオを見た。

 

「っ……」

 

存外近い位置に彼女は立っていた。広すぎる自覚はあるとはいえ、僕のパーソナルスペースはすでに侵入されている。ミオはそのまま中腰になってこちらを見つめた。

今まで親戚の類は全員僕を放っておいてくれたので、対処法が分からずに喉がつまる。

 

「ねぇ、隣座っていい?いいよね?」

「え……あ……」

 

ミオは僕の返事を待たずに隣に座ってきた。離れてください、と言うことも出来ず、僕は近付く彼女を視界に入れないように本に意識を映した。

――なんなんだ、この人。

内心でぼやく。

 

「……私のことは無視して、本読んでていいよ」

「……はぁ」

 

――なら部屋から出てってよ。

ムッとしながらも、僕は言われた通りに本を読んだ――読もうとしたのだが、どうも集中できない。文章は文字の羅列としてしか頭に入らず、頭の中で文字から空間への変換が出来なくなっていた。隣に居座る闖入者のせいで。

――どうしよう。なんとかして切り抜けないと。

僕の意識は現実でもなく、本の中でもなく、ただこの事態を解決する手段を模索することに費やされた。

 

「さっきからずっとおんなじページ」

 

その指摘に体が固まる。慌ててページを捲ろうとして、しかしその行動こそが罠であることに気付いた。手を止めて、僕は隣の邪魔者を見上げた。

 

「ごめんって。そんな怖い顔しないで。可愛い顔が台無しだよ」

 

――か、かわっ……。

赤くなっているだろうことがバレないように、僕はすぐに本で自分の顔を隠した。文庫本なせいで口元までしか隠れてくれない。

 

「……何しに来たんですか。僕がどういう人間か、お父さんとかから聞いてないんですか」

 

ついに、僕は自分から口を開いてしまう。このままではどうしようもないと思って、仕方なく。

 

「聞いてるよ。人見知りって」

「……だったら、ここに来るのはおかしいと思いますが」

 

祖父母も叔父叔母もそれを知っているから二階のこの部屋に近寄らないのだ。詰問する自分の声に不興が帯びる。

 

「私も、――の家――みが――から」

「……え?」

 

呟いた言葉は部屋の畳に吸い取られて、僕には届かなかった。聞き返すと、ミオは誤魔化すように笑みを浮かべた。

 

「私の話、聞く気になった?」

「……聞いたら、部屋から出てってくれますか?」

「確約はしない。――じゃあ、聞いてもらおっかな」

 

強引だ。解せない感情を残したまま、ただ、彼女の有無を言わさない口調に、僕は本を裏にして床に置くことで応えた。いいですよ、とは言ってやらない。それは何だか負けた気がする。

 

「お、素直だね。偉い偉い」

 

そんな僕の内心を知らないまま、ミオは満足そうに僕の頭に手を置いた。

――あ。

古い感覚が喚起される。温度が背筋を流れた。

次いで、ミオがぽんぽんと叩くように頭を撫でるのを、僕は半ば無意識のまま受け入れる。

見上げた先の顔は、どこか”彼女”に似ていた。

 

「私、今年ここに戻ってきたばっかなんだ」

 

その言葉が答えとなる疑問は、僕が今日ここ――父方の実家に来て、彼女を見つけてからずっと頭の片隅に残っていたものだ。

僕が大型連休の際に父方の実家に来るようになったのは二年前、中一の夏からだった。数人いる”いとこ”たちの中に、確かミオの姿はなかったはずだ。それが急に、今回現れた。その疑問の答えが、今提示された。

 

「四年前、大学に行くためにここから出て、今年、帰ってきたの」

「はぁ……」

 

その言葉の真意を、僕は掴めなかった。ただ言葉通り、実家に戻ってきたばかりなのだろうと思った。

 

「ちょっと、いろいろあってね」

「そうなんですか」

 

翳ったミオの表情に、僕は何も聞く気になれなかった。興味がなかったわけではないが、それ以上に他人に踏み込むことが怖かった。当然、踏み込まれることも嫌だった。

そんな僕の返しに、ミオは苦笑いをしていた。

 

「ねぇ、ここは好き?」

 

ここ、というのはおそらくこの実家のことだろうか。

ならば、正直に言って好きではない。しかし、母親のいる”家”に比べれば幾分かマシだった。

だから父親に連れられて来るのを毎回拒否していなかった。

ただ、それをストレートにミオに伝えていいものだろうか。そんな懸念が頭をもたげる。

 

「大丈夫だよ。言いふらしたりしないから」

 

安心させるような言葉。同時に、僕の脳裏に先ほどのミオの表情が映し出される。

『私も、――の家――みが――から』

――私も、この家にいると肩身が狭いから。

記憶の中の暗晦が、僕の心の壁に触れた気がした。

 

「あんまり、好きじゃないです……」

「あはは。そうだよね。好きだったらアキラさんと一緒にリビングにいるはずだもんね」

 

アキラというのは、僕の父親の名前だ。

 

「リビングには、行きたくないです。賑やかなのも、好きじゃない……」

「……そうだね」

 

優しい声で呟いて、ミオは僕を見つめた。その目に宿る慈愛に、僕は、

――どこまで知ってるんだろう。

と思った。

もしそうだとしたら、彼女が僕に辿り着いた理由も、なんとなく理解ができる。

 

「どうして、私がリビングに行かないのか?」

「――えっ、あ、なんで……」

 

心を見透かされた気がして、動揺してしまった。ミオはニヤリとする。

 

「どうして私がこの部屋に来たのか?」

「……気になったら、いけませんか?」

「ううん。そんなことないよ」

「じゃあ……なんでですか」

「――まぁ、なんでかって言われたら、答え辛いんだけどね」

 

ミオは頬を掻いた。僕は言葉の真意を探るように、目だけでその先を訴える。

 

「ちょっと、構ってあげようかなって思っただけ」

「……それは、僕にですか」

「この状況で君以外に誰がいるの」

 

息がつまるような感覚がした。心臓の鼓動が、少しだけ早くなる。

これは歓喜ではない。恐怖による拒絶。あるいは停滞。

 

「そういう、の……嫌いです……」

「……どうしてか、聞いても良いかな」

 

僕の拒絶に、ミオはゆっくりと近づいてくる。

 

「だって……」

 

理由すら言うのが怖くて、僕は心中を探るようにミオの顔を見た。慈しみの表情に、闇が少しだけ顔を覗いている。それが、今までの他人とどこか違っていて、

 

「だって、嘘じゃないですか」

 

と、僕は内側の言葉を吐露した。

 

「僕のこと、知りませんよね……」

「今の君は知らない。でも、君の過去は知ってる。アキラさんと、サエコさんのことも、一応聞いたつもり」

 

サエコ。僕の母親の名前だ。聞いた瞬間、不快感が喉を伝う。

 

「……なら、なおさらここに来るのはおかしいです」

「……なんで?」

 

突き放す言葉に、ミオは未だ心の歩みを止めない。

僕の生まれた環境は、多分。あまりいいものではなかったと思う。物心ついたときに初めて焼き付いた思い出は、父親を責める母親の金切り声と、それに対して情けなく首を垂れる父親の影。

 

「普通、こんな人間、遠ざけます」

「”普通”ね……」

「……なんですか」

「ううん。でも私、普通じゃないから」

 

とんとん。近付いてきた心の手が、僕の内側を叩く。揺れる内心が、その手を遠ざけようと喚き始めた。その情動に従って、拒絶を言葉で表そうとした、その時。

 

「私のことは、”お姉ちゃん”だと思っていいから」

 

視界の中のミオが、僕を見つめる。その真に迫った表情が、彼女が”すべてを知っている”ことを裏付けていた。

 

口論する両親の影は、それを上回る良心にその都度上書きされていた。僕の目を隠し続けていたのは、他でもない姉――ナツキの手だった。

――お姉ちゃん。

ナツキは、僕の七つ上の姉だ。

古い記憶の中。恐怖に慄く僕の頭に、大好きな姉が手を置いて優しく撫でる。

その温度に、今まで何度救われて来たかわからない。

それは家庭のことだけではなく、僕の人生の全てのことに対してだった。

家庭にも学校にも、僕の居場所はなかったから。だから必然、僕の居場所は姉の隣だけだった。

 

僕が小学二年生の時に、両親は離婚した。いつものように、そこには言い合いの怒号だけがあった。度重なる親権争いの末、僕と姉は大嫌いな母親の元で暮らすことになった。父親の不在で母親が暴れることは無くなったが、時折見せるヒステリーは、僕の心をすり減らすには十分で。

そんな時、姉の存在は僕の擦り減った心を埋め合わせてくれていた。

度重なる歳月によって形成された母親の人間らしさ、汚さ、現実に塗れた人間性の顕現に、僕と姉は二人で耐え凌いでいた。

――そう、二人で。

 

「……お、ねえ、ちゃん……?」

 

真っ白な脳内の霧をかき分けながら、僕は何とか言葉を返した。ミオは一層近付いて、僕に向かって手を伸ばす。

 

「そう。これからは私があなたのお姉ちゃんだから――」

「――やめてください!」

 

差し出された手を、僕は衝動的に払いのけた。

我に返った自分の視界に映るミオの翳がかった顔に、少し胸が痛くなったが、僕は顔を逸らし、ただ蹲って、五感の世界から心を離そうとした。

――だって、あなたはお姉ちゃんじゃない。

それに、

 

「”お姉ちゃん”は、もう、いな、い……」

 

僕が小学六年生の冬に、姉は死んでしまった。

病気だったことは知っていた。しかしそれはいずれ治るものだと聞かされていた。姉からも、両親からも。

――嘘だったんだ。

僕は独り、大好きだった姉に騙された気分になって。でもそんなのは仕方のないことで。終焉を迎えようとした世界で、僕は姉の存在を振り払うように、一人で生き延びてきた。

当時の僕には、姉の消失という理由で自分の命を絶つことができなかった。それは多分、生物的生存本能。僕の遺伝子は、僕の思考と相反して生を望んだ。

不幸にも、僕の心を包み込んでいた姉の残滓は、なんとか僕に現実を歩き続ける糧を与えてしまっていた。

ただ当然、喪失による心の空洞が生存の過程で好転するなんていうことはなく。僕は僕の心を守るため、自分以外の人間を”他人”という存在以上には認識しないようにして、自分とそれ以外という二つの世界を作り出して、生きるという現象を”やり過ごした”。

それはクラスメイトだけじゃない。同じ屋根の下で暮らしているのに金銭補助以外何もしてくれない母親のことだって、全く関係のない人間だと思えば、何だか許せるような気がしたから。

 

「いらないです……。そういうの、もう、いらない……」

 

だから、僕は防衛本能に従って、ミオの手を遠ざけた。心を曝け出せば、今までの悲しみだって溢れてしまいそうだった。

悲しいけど、仕方がない。辛いけど仕方がない。

――僕は独りだ。

そう、最初から。

心の中でつぶやいて、僕はまた、人間を自分の範囲外に感じようとした。

しかし――。

 

「それは出来ない」

 

突っぱねた手を、ミオが掴む。力を入れて手を引いても、離れてくれない。

意地になって睨む僕に、彼女は優しく語りかけた。

 

「そういう訳にはいかないの。私はナツキに頼まれてたから」

「え……?お姉ちゃんに……?」

「そう。――私があなたのことを知っているのは、アキラさんから聞いただけじゃないよ。ナツキと私は友達だったからね。子供の頃はよく遊んでた。その時あなたのこともちょっとだけ聞いてたから」

 

懐かしむような眼が揺らいで、その瞳に寂寥が滲む。

 

「今日、アキラさんがナツキの遺書を見せてくれたの。だから私は――」

 

僕の手を一度離して、ミオはもう一度、今度は両手で包み込んだ。僕は黙ったまま目を伏せた。

 

「私はナツキの代わりに、あなたを受け入れたい」

「……わ、わか、りませ、ん……僕は……ぼく、は」

 

脳が思考を放棄して、脊髄が勝手に喉を揺り動かす。言葉が作り出せない僕に、ミオはただ、握る両手の力を強めた。

 

「私に何かしてくれなくていいよ。君はただ、享受すればいい。それだけが私の望む全てだから。そこから先は、またこれから考えれば良いよ。君が将来私をどう捉えるかは、その時になったら考えれば良いから」

 

――だから今だけは、私に君の世話をさせてくれないかな。

 

 

<02>

 

+++【如月ユキ 大学三年生 十一月】+++

 

沈んでいた意識に、甲高い通知音が響く。

――そういえば、イヤホンしてたら通知聞こえるのか。

なんとなしにそう思いながら、座席テーブルに放っていたスマホを起こして通知欄を見た。

LINEだ。差出人はミオだった。

 

《もう新幹線乗った?》

 

そういえば、乗ったら連絡をしてくれ、と言われていたのだった。

 

《乗ったよ》

 

既読はすぐに付いた。

 

《良かった。何かあったのかと思った》

《ごめんなさい。忘れてただけ》

《うん。いいよ。静岡駅ついたらまた連絡してね》

《わかった》

 

既読が付いたが、返信はない。ラリーが終わったと思い、小さく嘆息して画面を寝かせる――と同時に耳元にまた通知音が届く。

 

《4年ぶりだって。そんな久しぶりなんだ。びっくりしちゃった》

 

文面が、仕舞っておきたかった記憶が脳裏を大袈裟に揺らした。顔をしかめているのが自分でもわかる。目をしばらくつぶってから、画面をタップし始めた。

 

《そうだね》

《っていうことはもう二十歳超えてるんだ!うわぁ。大人だ》

《うん》

 

何か続けようと思ったが、肯定以外の文章が思いつかなくて、手が止まった。

――大人なもんか。

少なくともミオよりは、僕は大人なんかじゃない。彼女と顔を合わせなくなってから夢想していた将来の自分の姿は、もっと『なんでもできる』存在だった。でも、今の僕には、この世界に何もできないことの方が多い。まぁ、人類みんなそうなのかもしれないが。

 

《あの時のこと。今でもはっきりと思い出せるよ》

 

脳髄がピリついた。寂寞と惨めさと瞋恚が四肢を巡るように、体が少しだけビクついた。

 

《僕は》

 

僕は、思い出したくなんてない。そんなことを言えるはずもなく、

 

《僕は、あんまり覚えてないかも。昔のことだし》

《そっか。四年も前だし、今まで一切会ってなかったし。そりゃ忘れちゃうよね》

 

「――忘れてないよ……」

 

呟きは灰色の空に向かって吐き出したが、それでもなんだか自分に跳ね返ってくるような気がして、気持ちが悪くて。

だから僕は、堪らず呻いていた。

 

 

ナツキに頼まれたから、という約束が発端だったのだろうが、それにしたって、YESかNOかしか言わない僕のどこに希望や友好を見出したのだろうか。それは今でもわからない。

とにかくミオはそんな僕に話しかけるのを止めず、読んでいる小説や漫画について、好きな映画、好きな料理、好きな季節。エトセトラエトセトラ。何でもいいという風な体でそれからも僕に構い続けた。

もちろん最初は突っぱねていた。人間、そう簡単に変われるものではない。

ただ人間不信と言っても、降りかかる善意全てを邪険に扱えたわけではなく、だんだんと僕も彼女に対して言葉数を増やしていった。彼女が学校の話をあまり振らなかったことも理由の一つかもしれない。

それが僕の心を言葉ではなく、無意識の斟酌の結果で触ってくれているという実感に繋がったから。

 

『ユキ、海行こう、海』

 

ミオという存在を認知してから三回目の帰省――高校生になるまでは、もうどこに住んでいるのかもわからない父親に連れられて大型連休の時に顔を出すだけだったが、僕が高校生になってから――ミオに心を開いてからは、毎月二週間に一度くらいの頻度で実家に通うようになった。なぜなら、家から自転車で通える距離にあったから。

 

『うん。行く』

 

実家のすぐ近くには海岸があって、やることがなくなって時間を潰すだけになった時は決まってそこに行っていた。行ったところで何か用事が増えるというわけではなかったが、ミオの両親や祖父母がそこにいるという感覚を頭に常に過らせてくる家の中とは違って、そこは僕とミオの二人だけだったから、何となく好きだった。

もちろん、彼らの性格が僕の母親のように致命的に終わっているとか、そういうわけではない。ただ結構堅苦しい性分らしく、何かにつけてミオを呼び出して長々と話をしたり、頻繁に実家に顔を出す僕に対しても、「勉強はしてるのか」「大学はどこに行くつもりなのか」などと聞いてくるので、あまり得意な方ではなかった。

僕とミオの関わりについても、言葉にこそ出しはしなかったが大分訝しんでいたように思う。そんな彼らの視線が、当然僕は好きではなかった。

”変わった人間を見る目”。

その目は学校でクラスメイトや教師から向けられるものと、少し似ていたから。

 

とはいえ、二十一歳になった今考えてみれば、僕の行動と、そしてそれを受け入れていたミオの態度はなかなかに異質だったと思う。

 

実際、僕たちは世間一般の常識というものを、超えてしまったのだから。

 

 

<03>

 

+++【如月ユキ 高校一年生 七月】+++

 

セミの鳴き声を聞き流しながら、僕とミオはいつものように意味もなく山に登り、虫を捕まえたり川で水遊びをして、そして疲れて家に帰っていた。

 

「ユキはさー。将来やりたいこととかってあるの?」

 

お風呂に入り終わって、僕は小説を読み、ミオが漫画を読んでだらだらしているとき、彼女は唐突にそんなことを聞いてきた。

 

「えー、やりたいことー?」

 

どうしてそんなことを聞くのか、という疑問は一旦横に置いて、僕は考えを巡らせた。

漠然とではあるが、自分の興味のあることは大体わかっている。小説。漫画。アニメ。音楽。大方そんなところだろうか。ただ同時にそれらの夢がそう簡単には叶わないこともわかっていた。

だから気恥ずかしくて、

 

「わかんない」

 

と僕は小説を読むふりをしながら返した。

 

「お姉ちゃんには、あったよ。やりたいこと」

「ふーん……?」

 

僕の相槌に、ミオはしばらく黙ったままでいた。怪訝に思って本から彼女へ視線を移すと、いつになく暗い顔をしていた。

漫画に向く目が、光を失ったように虚ろに見えた。

 

「……お姉ちゃん。もうすぐ二十三歳になるんだけど」

「う、うん。知ってるよ」

 

戸惑いながら相槌を返す。ついにミオは漫画から目を離し、こちらを真っ直ぐに向いた。

 

「まだ、実家にいる」

「……それが、どうしたの」

「――お姉ちゃん、仕事してないんだよ」

「……うん」

 

なんとなく察していた。別に平日に彼女に会いに行っていたわけでもないし、彼女の両親や祖父母から何か聞いたわけでもない。ただ、『大学卒業から数か月後に実家に戻って、土日には頻繁に七個下の従弟と一緒に遊ぶ』なんて、なんとなく普通の大人がやるようなことではないと思っていた。

 

「気付いてた?」

「……わかんないけど、なんとなく」

「そっか」

 

簡素に返すその表情は、あからさまに平静を繕っていた。

 

「お姉ちゃん、就活失敗しちゃってさぁ。まあ、一回失敗したからって、じゃあもう就活しちゃいけませんってわけじゃないんだけど、なーんかねぇ」

 

心情を吐露するような湿った声色に、僕はいつの間にか小説を裏にして彼女の話を聞いていた。

 

「自分にはさ、なんにもできないんじゃないかって思っちゃったんだよね。そう思ったらもう、なんか、ホントになんにもできなくなって……。それで……それでさ……」

 

クラスメイトとまともに会話が出来なくて、人の気持ちが汲み取れない僕でも、彼女が泣きそうになっているのは分かった。しかしどうしていいかわからなくて、どうにもできなくて。

僕はただ、彼女の目から涙が溢れ出すのを黙って見ていた。

 

「ごめん……ごめんね……。こんな話してもさ、ユキは困っちゃうよね」

「あ、えっ……」

 

急に話を振られて、僕は慌てて慰めの言葉を吐こうとした。でも口は上手く回ってくれなくて、だから近寄って、ただ「な、なかないでよ……」と言うだけしかできない。

 

「うぅ……ごめんね、ユキ……」

 

泣いている姿が、ナイフとなって僕の肋骨のあたりを撫でる。

 

「そ、そんなこと、ない……!」

 

顔を伏せて呻くミオに、口をついて出たのはそんな言葉だった。何が”そんなことない”のかは自分自身にもよくわからなかったが、とにかく彼女を元気にさせたかった。

 

「えっと、僕、お姉ちゃんと遊んで、すごい……嬉しい、よ? た、たのしいよ? ほんとだよ?」

 

だから、僕は僕が彼女に対して感謝していることを伝えることにした。

 

「だって、僕、友達いないから、こういう、遊ぶとか、あんまりしたことないし……」

 

励まそうとして吐いた言葉だったが、そんな僕の口調は、だんだんと萎れていった。

 

「家にいても、お父さんもお姉ちゃんももういないし、お母さんは、たまに変なおじさん連れてくるし……。だから、あんまり家にいたくない、から……」

 

母親が”知らないおじさん”を家に連れてきたのは、僕が高校生になってすぐのことだった。彼の素性は教えられたものの、そんなことは関係なかった。

姉はすでに死んでいたから、必然的に家は僕と母親と知らない人の三人になることが多い。

当然、僕はその状況が気持ち悪くて、怖くて。

ここに頻繁にくるのは、そういう理由で家にあまりいたくないからというものあった。

 

「だから、僕、お姉ちゃんがいなくなったら、嫌だ……」

 

僕は無意識に、ミオが離れて行くような感覚を覚えていた。

慰めるという当初の目的なんて一瞬で頭の外に飛んでいき、僕は縋るような声で、ミオに向かってそんなことを言っていた。

 

「あははっ、なんでユキが泣いてるの」

「……う、うるさい」

 

笑いながら、ミオがこちらに近づいてくる。恥ずかしくて顔を背ける僕に、「こら、そっぽむくな」とむくれた声で言ってきた。

 

「でも、ありがと」

 

そんな言葉と共に、僕の頭に手が置かれた。そのまま撫でてくる。

 

「子供扱いしてない?」

「そんなことないよ」

「……ならいいけど」

 

しばらく撫でた後、彼女の手は頭から離れたが、しかし僕からは離れず、そのまま頬へと触れた。少し懐かしい感じがして、温度が首筋を流れる。ミオはたまにこうやって僕の顔を弄ってくる。

 

「ん、くすぐったい……」

「…………」

「……お姉ちゃん?」

 

ただ、今回は少し長い気がした。黙って頬を触り続けるミオを不審に思って訊ねる。

 

「ねぇ、子供扱い、嫌だ?」

「? どういうこと?」

 

疑問には答えず、彼女は両手で僕の頬を包んだ。目と鼻の先に、ミオの顔が映る。不意にそれがナツキの面影と重なって、目頭が熱くなった。

 

「あ、あの……?」

 

じっとこちらを見つめる彼女に、僕は思わず視線だけ逸らした。顔自体は彼女の両手でがっちり固定されているので動かせない。

 

「ユキ、キスしたことある?」

 

それは前触れもなく。

 

「は、はぁ?なにそれ。別に、ないんじゃない……?」

 

僕は慌ててそう取り繕った。

 

「?……そう。じゃあこれがファーストキスだね」

「えっ、あ、な、何言ってん――」

 

引き寄せられるとともに、自分の”中身”に到達する、湿った感覚。少し、懐かしい匂いがする。

僕はただ、彼女に従った。”予想した通り”に、舌が口内を這うようにして蠢く。

甘いとか酸っぱいとかもなく、ただ、ミント特有の冷涼な感覚だけが舌を伝った。

――もう歯磨いてたんだ。

と、なんとなしに思った。

体という外側を、僅かに取り除いた感覚の共有は、数秒後に終わる。

 

「ね? 子供扱いじゃないでしょ?」

 

お互いが離れた後、ミオはそう言って笑っていた。

 

 

『もうアキラさんの実家に行くのはやめなさい』

 

夕飯の支度していた母親からそう告げられたのは、僕が高校二年生になる直前の頃だった。しばらく言葉を認識できずに固まっていたが、理解すると、当然そんな要求を呑めるはずもなく、僕は理由を問いただした。

しかし、彼女はそれ以上なにも言うつもりはなかったようで、いつものように僕を無視した。行動する前にしっかり考えることを常としていた僕だったが、この時ばかりは頭を使うよりも先に足が動いていた。

 

 

+++【如月ユキ 高校一年生 二月】+++

 

暗闇。田舎だったので、実家までの道のりはどこまでも黒く、次の街灯までがいつもより遠く感じた。

 

「ユキ!」

 

実家に着く前に、僕を呼ぶ声が聞こえた。暗夜の中に目を凝らす。

 

「お姉ちゃん!」

 

やっと見つけて、真夜中なので人目など無いだろうが、僕はなりふり構わずミオに駆け寄った。

 

「ユキ、今何時だと――」

「お姉ちゃん……!」

 

彼女の言葉を遮るようにして抱き着く。

――よかった。お姉ちゃんはここにいる。僕の目の前にいる……!

 

「お姉ちゃん、いる……!よかった……!」

 

思惟が口をついて出た。安心しきって息を吐いたが、しかしそんな自分とは違って、ミオは固まったように動かなかった。

 

「お姉ちゃん?」

「ユキ……」

 

いつもなら嬉々として抱き返してくれるはずなのに。彼女は僕の肩に手を置いて、ゆっくりとその体を引き剥がした。同時に、心も離れてしまうような気がして、僕は焦りを隠しきれずに、口を開こうとしたが、「ユキ、よく聞いて」というミオの言葉に封殺された。

 

「もう、ここに来ちゃダメ」

「え……な、なんで」

 

ついさっき聞いたような言葉が落ちて、僕はそれを拾いきれなかった。

 

「わかるでしょ?私たち、従姉弟同士なんだよ?」

「……」

「ね?頭の良いユキなら、わかるはずだよ」

 

ミオと関わって行く毎に……深く、関わって行く毎に増していた、不安感、異物感。それは確実に僕の心の隅に存在していた。しかしそれ以上に、僕にとってはこの世界が異質だった。同時に、世界にとっても僕はれっきとした外れ値だった。

僕とミオの関係より、そんな世界の方が気持ち悪くて、大嫌いで、僕には耐えがたいものだったから。

だから二人の関係の異常さに、理性は首を傾げても、僕の本能は難なく受け入れていた。

 

「わ、からない……」

 

ぎこちない返答を、ミオは理解したという風に受け取ったらしく、「偉いね。ユキ」といつものように微笑んだ。

 

「っ!だからっ!わかんないって!」

「ユキ……」

 

小さい僕のささやかな抵抗も意に介さない。微笑みの中の悲哀が僕の心を遠ざける。

 

「ごめんね。私、間違えちゃったみたい」

「間違ってないよ!……間違ってなんか、ない……」

「ううん。私は――私たちは『間違えた』んだ」

 

現実から逃げて、ミオに縋り付いて。

 

「なんでそんなこと、言うの……?」

 

それでも手に入れることができた幸せが、その言葉一個だけで全て否定されたような気がして、気が気ではなかった。

 

「楽しかったんじゃないの!?お姉ちゃんは僕と一緒なのが、嫌だったってこと?」

「……」

 

ミオはすぐには答えなかった。

 

「お姉ちゃん!」

「……嫌なわけ、ない……」

 

絞り出したような言葉に、僕は少しだけほっとした。「だったら……!」と口を開くが、

 

「でも、ダメなの!」

「何がダメなの!?」

「そんなの、私にだってわかんないよ!」

 

言いながら、ミオは僕から逃げるように、一歩後ずさった。

 

「や、やだ……お願い、嫌だ。お姉ちゃん……嫌だ……!」

 

その行動に頭が真っ白になって、何も考えられなくなって、だから、僕の口からは、そんな情けない懇願しか出てこなかった。

ミオは何も言わない。ただ少しずつ、二人の距離が開いていくだけだった。

 

「お姉ちゃん!いやっ、いやだっ!」

 

街灯の光が、二人の足元に大きな影を映している。その片方が消えて、僕の視界の先、ミオが暗闇の中に埋もれていった。

 

「大丈夫だよ、ユキ。あなたはきっと、私がいなくても大丈夫」

 

ミオの瞳が、光を帯びる。何故だかその言葉は、僕の耳には届いたけれど、意図はうまく掴めなかった。固まる僕を他所に、ミオは構わず離れていく。

 

「ユキ、私はずっと、あなたのことが大好きだからね」

 

――だから、忘れないでね。

 

消える前にそんな言葉だけが路地に響いて、わずかに残ったのは、僕の好きな”姉”の匂いだった。

 

それから、僕はどうしたのだったか。走り回って辺りを探したのか、諦めて家に帰ったのかも、今では定かではない。

 

ただ、もう彼女に会うことはなかった。

 

 

<04>

 

+++【如月ユキ 大学三年生 十一月】+++

 

目を覚ました。乗り物の上で寝ることなどほとんどなかったはずなのに、今回は珍しく二回も寝てしまっていたようだ。

車内アナウンスが、静岡駅に到着したことを告げる。

 

《静岡駅着いたよ》

 

ミオにLINEを送って、リュックを手に取る。すでに通路には「扉が開いた瞬間に外に出てやろう」と躍起になっている人間がずらずらと並んでいた。

停車すると、予想通り彼らはお堅い顔のまま忙しなくホームへ降りていく。そんな彼らの慮れないしする気もない僕は、ゆっくりとリュックを背負ってから降車した。

数時間ぶりの外気は、乗り物酔いを軽減するには十分で、少し軽い足取りで僕は改札に向かう。もう何年も戻っていなかったので不安だったが、駅の内装は全く変わりなく、僕は考え事をしながらでも改札に辿り着くことができた。

その時。

 

「ユキ」

 

僕を呼ぶ声。四年ぶりの声。大好きな、”お姉ちゃん”の声。

改札を出た瞬間に、その声の主は躊躇う素振りもなく僕の元に駆け寄ってきた。

 

「っ!おねっ――ぁ…………」

 

不意に呼びそうになって、僕は言葉に詰まる。ミオはそんな僕の姿をまじまじと見て、そして一瞬だけ悲しそうな、何かを堪えるような顔をした。

 

「ユキ。久しぶりだね」

 

しかしすぐにその表情の悲哀は霧散して消え、彼女は微笑んだ。

 

「ぁ……」

 

僕はと言えば、口を半開きにしたまま。その懐かしい顔を見た瞬間、彼女と過ごしたあらゆる過去の記憶が脳から溢れ出て、寂寥と喪失があふれ出て。

その濁流に、声を出すための電気信号までもが呑み込まれていく。

 

「行こ?」

 

呆然とする僕に、その訳は聞いてこなかった。ミオはただ僕の手を取って、駅の外へ僕を連れて行った。

 

 

「あれが私の車」

 

駐車場に着いて、ミオが数ある車の中から一台だけ指をさして示した。僕はその車を見た瞬間に、また心を揺らした。その震動は、僕にある種の覚悟を決めさせた。

――話さないといけないのかな。

今になって、ミオの誘いに従ってここに来てしまったことを後悔する。誘ってきたミオにも、それを受け入れた自分にも、文句を言いたくなった。他人と喋れないことなんて、二人とも知っているくせに。

そんな迷いに時間的猶予はなく、ミオに手を惹かれて、すでに目と鼻の先にその車が鎮座していた。

 

「さ、乗って」

 

ミオが車のキーのボタンを押すと、音が鳴って解錠される。僕は半ば遠慮するように、後部座席右側のドアを開けようとした。

 

「なんで後部座席なの?」

「えっ……だって……」

 

不意の問いかけに、僕はしどろもどろになりながらも返した。

――だって、助手席には。

そう思いながら、恐る恐る目線を底に向ける。

 

「あれ……」

 

しかしそこには、人影なんてなかった。後部座席にだって。覚悟していた”誰か”の姿は、どこにも見つからない。

 

「いない……」

「連れてくるって言ってないでしょ?」

 

僕の態度に、ミオはその意図を察したようだった。「ほら、ユキはあっち」と、反対側のドアを指さす。

 

「あ……あの……」

 

彼女の指示に従って、助手席に座った瞬間、少しだけ心が冷たくなって、僕はミオに対していの一番に言わなければいけないことを思い出した。

 

「結婚、おめでとう……」

 

心にも思ってないその台詞は、内心に反してすらすらと口をついて出てくる。

 

「……うん」

「もっと、喜んでよ」

 

含みのある返答に、僕はつい不興をうまく隠せないままそう言ってしまった。ただ、そんな僕の言葉にも、ミオはただ「そうだね」と静かに返してきた。

 

 

二度目の喪失は、やはり僕に生の終末をほのめかしたものの、あいにく今度もそれを実行するには至らなかった。

ナツキの時とは違って少し大人になっていた僕は、死ぬことができない臆病な僕に、その生を肯定する知識や経験を与えていた。

なんて人間らしい行動なのだろう。呆れるほど、脱帽した。

大学生になるまでの二年間、自殺の報道ニュースを見るたびに彼らの勇姿を羨ましく見ていた。朝の登校中の晴天に、彼らの魂を見届けていた。

宇宙の彼方に果てる深淵の希望に僕は勇気付けられて、大学生になるころには”創作”なんていう自分の人生を歩く理由を作り出していた。

苦しかったけど、それはそれで良いと思った。良いと思って自分の心を覆い隠した。

幸い、壁を作ることは得意だったから。

僕は”また”、心の中に違う僕を生み出す。

 

――ただ、そんな死を先送りにする行動は、時間によって擦り減る心の壁を修復することはできず、今二十一歳になって、外界の現実という悪魔が、壁に出来た穴からこちらを覗いていた。

 

『ミオちゃん、結婚するってさ』

 

父親からそれを聞いたのは、つい一週間ほど前のことだった。母親の呪縛から逃れ、大学生になった僕の生活費を全て背負ってくれている父親だが、LINEや電話なんかはほとんどしなかったから、突然の連絡に一驚し、そしてその内容に形容しがたい喪失感を覚えた。

なんでわざわざそんなこと連絡しに来たんだ、と腹が立った。ただ、父親の意図はすぐにわかった。

翌日、彼を経由して登録された”友だち”。名前欄には『ミオ』とあった。頭に混乱を残したまま、彼女から言われたのは、ただ――。

 

《来週、静岡戻ってこれる?久しぶりに会いたいな》

 

――視界が、揺らいだ。

 

 

そんなことがあった手前、その”会いたい”が、ただ結婚相手を紹介したいだけだと考えるのは、普通のことだと思うのだが。

しかし実際、目の前にはミオの姿しか見えない。

 

「なんでも食べて良いからね」

 

言いながら、ミオはメニュー表をこちらを正位置にして広げた。逆で良いよ、とかそんな気の利いた台詞も言えず、ただ僕は「うん」と返して、じっとメニューを見やる。

 

「……高い」

 

駅から車で十分程して着いたこのレストランは、外観から凄まじく高級そうな雰囲気を漂わせていた。そしてその予想通り、目の前に提示されている金額は僕が普段通っているマクドナルドの二倍三倍もあって。だから値段ばかり気になって、料理が霞んで見える。

 

「お金なんて気にしないでいいよ。私が全部払うんだから」

 

――だから気になるんだけどな。

その思惟を飲み込んで、僕は何も考えずに料理を頼むことにした。

 

「流石に、大学生に大人が奢らないわけないでしょ?」

「……お父さんから聞いたの?僕のこと、どこまで聞いてるの」

 

記憶をたどっても、自分の口から自分のことをしゃべった記憶はない。大学生になったことも、言ってないはずなのだ。

 

「……うん。もしかして、嫌だった?」

「……別に」

 

ミオが父親と連絡を取っていたことに対して、何故か無性にイラついた。

僕と彼女を遠ざけた大人のうちの一人なのに。

でも、そんな父親に未だに世話になっている身であることを思い出して、だから、余計に腹が立った。

 

「そんなには聞いてないよ。もうサエコさんと縁を切って、アキラさんの扶養に入ってるってことと。筑波大学の大学生ってことだけ」

「……そうなんだ」

 

斜めった僕の言葉たちに、流石にミオも戸惑いを隠せなくなったようで。二人の間にしばらくの沈黙が落ちた。

 

「……決まった?」

「うん」

「どれ?」

「これ」

 

指さす。「これだね」と呟いた後、動かない僕に構わずミオは店員を呼び出してすらすらと注文を投げた。

店員が去って、再度沈黙が場を支配しかけたが、その前にミオが口を開いた。

 

「大学楽しい?筑波大学なんて、すっごい頭良いじゃん!私なんて上智だからさぁ。学費も高くって、まだ奨学金の返済してるよ」

「……大学、は、楽しくない」

 

笑いながら話しかけるミオに、僕は子供っぽく不機嫌なまま言った。

 

「……なんで?友達は?サークルとか……」

 

その疑問に、また不快感を覚えてしまう。その答えを、ミオはおしなべて察せるはずなのに。

 

「友達……いない。サークルも入ってない」

「いつもは何してるの?勉強以外」

「……」

 

黙った僕に、ミオは怪訝な顔をした。自分のことを話すなんて、なんだか自分で自分を気持ち悪く思ってしまって、あまり気乗りしなかった。しかし「ん?」という彼女の思慮の声を聞いて、口を開く。

 

「イラスト、描いてる。あと、文章。と、ギター弾いてる……」

「えっ、わぁ!すごいすごい!」

「声、大きい……」

 

沸き立つミオに、僕は反応に困って顔を横へ逸らした。次に来そうな言葉を予想して、居心地が悪くなった。

 

「大丈夫だよ。見せてなんて言わないから」

「……そう」

 

淡泊に返したが、内心はほっとしていた。ミオはそんな僕の心緒を見透かしているように笑った。

 

「ユキの考えることなんて全部わかるよ。お姉ちゃんなんだから」

「――”お姉ちゃん”……」

 

自分の喉から出たその言葉は違和感がなかったが、昔よりもずっと遠くに感じた。彼女の台詞が僕の脳を揺らす。思い出したくない記憶が氷解していく。気分が悪い。

 

「お姉ちゃんには、わかんないよ。僕の頭の中なんて」

 

我慢できず、溜息を吐いてしまった。そんな僕に、ミオは慌てて弁解する。

 

「も、もちろん全部は言い過ぎたけど、でも、ある程度ならわか――」

「ねぇ、なんで呼んだの」

 

もう、助走はいらないと思った。

 

「なんで突然、僕をここに呼んだの」

「……」

 

結論を急いて、喉がわずかに震える。室内なのに、少し寒かった。

「えっと……」と、答えたくない心中をミオはあからさまに態度に出した。

 

「あっ、注文来たね……」

 

ミオの言葉と共に、背後から足音を聞いた。

結局問いの答えは聞き出せず、料理を食べ終えた後、僕たちはそのままレストランを出た。

 

 

人間と関わって、心が満たされたことなんて一回もなかった。

今も一六〇cmもない小さな体だが、特に小学生の時は学校中どこを探しても自分より弱そうな人間なんていなくて、だからなのか、常になめられているような状態だった。やんわりと見下され、話しかけても大体は無視され、僕は常に空気だった。

もともと、疎外感は感じていた。周りの子供が話しているその内容に、僕はほとんどなじみがなかったから。だから出遅れた。スタートの遅れは、気付いたときには取り返せないほどに大きくなっていた。

それでも良かった。だって僕には大好きな姉がいたから。

 

――ただ、そんな依存の対象は、いつのまにかいなくなっていた。

 

中学の時には、ついにあからさまないじめを受けた。教科書に水をかけられるなんてこと創作以外にあり得るんだ、と他人事のように思った。その時の僕はまだ一般人らしく普通の感性を持っていて、いじめに対して先生に報告をして策を講じようとしたが、生憎自分には優しさを受けるだけの清廉さがなくて、返された言葉は決まって、

 

『お前にも何かそんなことをされる理由があったんじゃないのか』

 

というものだった。不条理だと思ってムカついたが、仕方ないとも感じた。

いじめられる理由があったかは今でも定かではないけれど、僕がその時からひねくれた人間だったことは確かなのだから。

幼少期からずっと、人間は全員愚かでかわいそうな生き物だと思っていた。自分もあなたも愚か者。ただ、周囲の人間の愚かさよりも、自分はマシだと思っていた、ということ。

そんな僕の心を、先生は見透かしていたのかもしれない。

 

『初めまして。私はミオ。よろしくね、ユキくん』

 

そんな僕の前に、昔の姉のような存在が現れた。大好きな姉と同じように、彼女のことも大好きになった。

 

でも、幸せはやっぱり僕には似合わないみたいで。

彼女との出会いは畢竟、僕に他人との境界を強める要因になっただけだった。

 

 

「おいしかったね」

 

ミオの綺麗な香りが充満している車内。心地が良いけど、居心地は悪かった。笑顔の彼女に、僕は「高級店だから」と返して、

――流石に感じが悪すぎるか。

すぐに自分の行動を反省する。

 

「……お金。ありがとう。おいしかった……」

「うん。どういたしまして」

 

偉いね、ユキ。そんな言葉まで付け加えて、ミオは相好を崩した。

エンジンキーを回す彼女の横で、もう21歳なんだけどな、と独りごちる。

 

「ユキ、次どこ行きたい?」

「……考えてなかったの?」

 

まさかと思って、僕は半目でミオを見上げた。彼女は少し気恥しそうにハンドルを握っている。――僕に考えろってこと?

行きたいところなんて、あるわけがない。呼ばれて来ただけなのだから。

ミオの言葉を受け取って、ここから先のことを考えた。しかし、未来のことを考えると無意識に脱力感を覚えてしまった。どうして今自分がここにいるのか、そんなことに全く意味がないように思えて、すべてがどうでも良くなった。

 

「お姉ちゃん、僕の考えてること、わかるんでしょ?」

 

じゃあ当ててみてよ。下を向いたまま問いかけても、返答はすぐには返ってこなかった。「ごめん、わかんない」と申し訳なさそうな声が届く。それが少し嫌で、僕はまた、考え無しに不興に口を現す。

 

「……帰りたい。ここに僕がいたって、何にも意味がないから」

「そんなこと、言わないで……」

 

勝手に悲しむ彼女の口調を受けて、僕は眉を顰めた。

 

「知らないよ、そんな――」

「意味ならあるよ」

 

はっきりとした口調だった。

 

「私がユキと会いたかったから、意味はある。だから、ごめん。今日は絶対ユキを帰さない。終電まで――ううん。終電を過ぎても、私が満足するまでいてもらうから」

「……なにそれ」

 

思わせぶりな言葉が、やっぱり嫌に感じた。

 

「終電逃したら帰れない……」

「だからその時は……車で茨城まで送る」

 

はぁ?という心情が顔に出る。嘆息と共に。

 

「馬鹿。何言ってんの……」

 

そこから、ミオの思い付きで市内の大型商業施設付属の映画館に行き、変な映画を見た。フリもオチも弱くて、なんだか不完全燃焼だった。

その後はそのまま下の階のゲームセンターでただ時間とお金を消費した。何も取れなかった。でも、ミオは満足そうに笑っていた。僕は自分の感情が分からなくなって、そんな彼女からずっと顔を逸らしていた。

最後に行った展望台の景色を見ても、僕は何も感じなかった。暗い中で車やビルの灯りが光って、ちかちかとするだけだった。

でも、ひとつだけ。

 

展望台の窓の近くで地上をじっと見降ろすミオの姿だけは、何故か目に焼き付いていた。

 

 

「あっという間に暗くなっちゃったね。冬だからかな」

「そうかもね」

 

展望台から出て見えた景色は、先程とは違いどこか大きく感じた。ミオの言葉に、僕はスマホを起こす。ロック画面には『20:32』の文字。

――まだ、帰れるな。

 

「ねぇ、ユキ。私からの、最後のお願い」

 

かけられた声に、僕はスマホから視線を外した。

 

「……なに?」

 

僕より頭半分ほど高い位置からこちらを優しい顔で見降ろしてくるミオに、釈然としないまま訊ねた。

 

「海行こう。海」

 

寒空。空の黒が重く、僕を大気圧で押しつぶそうとする。また、記憶が揺れる。

海岸の塩気に鼻がツンとしたような。

なんだか懐かしい思いがして、僕はただ「うん」と返した。

 

 

<05>

 

+++【如月ユキ 高校一年生 十二月】+++

 

「ユキっ!」

「わぁっ」

 

名前を呼ぶ声と共に、頬を少し熱い感触が伝う。ドキドキしながら振り返ると、ココアのスチール缶を持ったミオがしたり顔をこちらに見せつけていた。

「はいこれ、あげる」と、そのままココアを差し出す。

 

「ぁ……ありがと……」

 

僕の感謝を受け取って、ミオは僕が座っていた防波堤の隣に、同じように座った。距離が近くて、僕はまたドキドキしてしまったが、すぐに浮ついた気持ちは霧散した。足元に泥が付いたように、心が重くなった。

 

理由は、学校で投げかけられた何気ない言葉。きっと、当の本人たちにとってはどうでもいいことで、それを口にしたのだっておそらく気まぐれだっただろう。

しかしそれは、僕にとっては簡単に処理できないものだった。真意が知りたかった。でもそれを確かめられるほど僕は強くなかったし、聞いた先に待っている結論が、いいものだとも思えなかった。

だから今日はずっと、その言葉が僕の頭にこびりついて離れなくて。

ただ、僕の感覚の世界に残っていたのはそれだけではない。

彼らが口にした言葉を、クラスメイトは全員聞いていた。それに対してだれも僕を助けようとはしなかった。

その事実が、その時の感覚が、心緒が、明確な刃となって心に突き刺さっている。

――僕は独りだった。

そんな僕の内心が外界に晒されてしまうのを恐れて――恐れすぎて、結局、僕はミオに不自然な対応を続けてしまっていた。

 

「ユキ……元気ないね」

 

でも、やっぱりそれは露呈して。

 

「っ……そうかな」

 

ミオが気遣うような声で僕に向いたのを確認して、少し体をビクつかせてしまったが、なんとか平静を装う。

 

「なんかあった?」

「……わかんない」

 

自分からは切り出せなくて、でももう少し近付いてきて欲しくて、そんな不明瞭な返答をした。

 

「……人間なんてね、そんなもんだよ」

 

突然、ミオが切り出す。意図が掴めずに僕は首を傾げた。

 

「視覚でも、頭の中でも現実しか見られない。個人じゃなくて社会しか認識できない。しょうもない生きものばっかりなんだよ」

「……どういうこと?」

「だれも、自分が正しいかどうかなんて考えてないってこと」

 

そう言って、ミオは立ち上がった。僕の前に立って、影を作りながら見降ろす。

 

「そんな人間の言うことなんか、気にすんな、少年」

 

僕の心を傷つけた彼らの言葉は、現実の塊となって僕にしがみついていた。彼らは現実の僕の振舞いに、現実による社会性の伴った常識を投げつけた。それを、ミオはまるですべて見ていたかのように言い当てたのだった。

 

「……僕、何があったかとか、お姉ちゃんに言ったっけ?」

 

聞いてないよ。とミオは笑う。じゃあどうして、僕の心を見透かしたみたいな励ましの言葉をくれるんだろう。

 

「そんな人たちと違って、ユキは偉いよ」

「……どうしてそう思うの?」

「だってユキは、全部誰かのせいにしないでしょ?」

「うん?……うん」

「不平や不満を言っても最後には毎回こう言ってる。”でも、僕もそんな綺麗な人間じゃないし”って」

「……だって、本当のことだよ。僕は、綺麗な人間じゃない」

 

現実の世界に囚われた彼らのことは嫌いだ。消えてなくなれと思う。間違っていると思う。

そしてそれは、僕を孤独にしたその他大勢にも言えた。

ただ、客観的事実なんかではない。この嫌悪と不正は僕に内在している、僕の価値観から見出したものだから。

だから僕は彼らが嫌いだけれど、世界が彼らを嫌っているとは思わない。でもだからと言って正しいとも思ってない。

その見解は、現実の世界には矛盾となって僕の頭を泥の中に沈めてくる。

そういうところだよ、とミオは言った。

 

「ユキは、大半の人間と違って、自分が間違ってるかもしれないことを知ってる。納得してる。それってすごいことだと思うんだ」

 

僕の見解の矛盾を解決するのは、”君も僕も皆愚かだ”という悲観主義の思考だった。

汚い君が嫌いなのは、同じく汚い僕が個人的にそう思っているだけ。世界から見れば、きっとどちらも綺麗じゃない。

ただ一つ、言いたいのは。

――きっと僕だけは、他の人間よりも綺麗だ。

と、”僕は思っている”こと。

 

「……そうなの?」

 

その思考回路は、結局世界で自分だけが信用できる、と言っているだけに過ぎない。

それがミオの言う”偉い”とはどうしても結びつかなくて、僕は彼女の言葉に疑問を呈した。

 

「そうなのっ」

「うわっ」

 

そんな僕の、自分に対する不信感を振り払うように。

ミオは手を取って、無理やり僕を立たせた。

 

「だから機嫌を直しなさい!そいつは、自分もまともに見れないアホなやつなんだからさ!」

 

励ましの言葉を、きっと、世界は正しいと言わないかもしれない。

しかし、そんな正しさは僕の内心による諾否には関係がなかった。

ならば僕がするのは、ただミオの言葉を享受すること。

 

「ありがとう、お姉ちゃん」

「ん、いいってことよ」

 

僕の礼に、ミオは晴れ晴れとした笑顔を見せた。

そんな彼女を見て僕はふと、あることに気付いた。自分が何を欲しがって、何がいらなかったかを。

 

「ねぇ、お姉ちゃん」

「んー?」

「お姉ちゃんは、そんな僕が嫌い?」

「――何言ってんの」

 

頭に、暖かい感触が触れた。

 

「……好きだよ、ユキ」

 

そのまま、僕を抱き寄せる。良い匂いがして、心が浮ついた。へへ、と声を漏らしてしまう。

 

「僕、気付いた。自分が、ホントに欲しかったもの」

 

僕の行動や情動の正否に、”関係のない他人”の言葉はいらない。それは、僕が僕で決定するものだから。しかし、そんな一人の僕に一つだけ、僕じゃない誰かの言葉が必要なことに気付いた。

 

「なぁに?」

「他の人なんて、どうでもいいの。お姉ちゃんの、言葉が……それだけが、ずっと欲しいんだって」

 

それはミオの言葉。それだけは、僕以外の人間のものでも、僕の心に入れることができた。

僕だけの決断が、彼女の言葉でいくらかの確証を得られる。

 

「もー、そんな可愛いことばっかり言って……」

 

少し困ったような口調と裏腹に、その表情はどこか嬉しそうだった。

 

「ねぇ、お姉ちゃん」

 

再び、僕はミオに訊ねる。

 

「ホントに好き?」

「疑い深いなぁ……。――ほんとに好きだよ。私は……私だけは、ユキのことが、世界で一番好き。ずっとずっと、あなたのことが大好きだからね」

 

その言葉は、外気を伝うことなく、僕に触れる躯から直接流れ込むようだった。暖かい温度が、心を満たしていくようだった。

温度が平衡した後、ミオはまた防波堤に座り込んだ。僕もそれに倣う。次いで、心を這わせるように、僕は彼女の肩に頭を乗せた。

 

「ユキは、雪見たことある?」

 

斜め上から、そんな問いが落ちてくる。

 

「ゆき?ゆき?僕が、見たって……何が?」

「あはは。違う違う。降る方の雪」

「あぁ……」

 

その答えはNoだった。何せここは雪の降らない都市なのだから。

そのまま答えると、ミオは「それもそっか」と言った。

 

「私はね、東京で暮らしてたから、見たことあるんだ」

「へぇ、どんななの?」

「うーん。あんまりね、綺麗じゃないかも」

「えー。おんなじ名前を持つものとして、困るなぁ」

「ね。ユキはこんなに綺麗で可愛いのにね」

「まぁ、関係ないけどね」

 

ニヤつく自分の顔に、ミオに見られなくて良かった、と安堵しながら言った。

 

「だからね、今度はユキと一緒に見たいな」

「……一緒に見ると何か違うの?」

「わかんない。変わるかもしれない。だから、一緒に見てみたい。そしたら、前よりは綺麗に映るかもしれないでしょ?」

「ふーん?そういうもん?」

「うん。そういうもんだよ」

 

この時、僕は少しだけ、自分の名前が好きになった。いつかミオと見るだろう雪のために、好きでいようと思った。

 

 

<06>

 

+++【如月ユキ 大学三年生 十一月】+++

 

足に柔らかい感触が跳ね返る。真横の防波堤は、僕の二倍ほどの大きさでこちらを見降ろし、僕はなんとなく、あそこから落ちたら少し怖いな、と思った。

砂の感触、海の匂い、海岸の景色。すべてがあの時と変わってない。それはそうだ。だってそもそも僕があの時と全く変わっていないのだから。身体的にも、精神的にも、世界が嫌いなあの時の僕と、一切。

大人になったらわかると教えられてきたものはほとんど今でもわからない。トマトもピーマンも、今でも大嫌いだ。受け入れられると他人から宥められてきた現実は、時間が経ってもその汚さを僕に見せつけるだけだった。

僕にとって、汚い世界は汚いままだ。

あるいは、見た目もありふれた大人の男みたいに逞しくなれていれば、見える世界も違ったのかもしれないが、同時に僕はそうなれない――そうなりたくないことも知っている。

僕はいつまで経っても、ミオが好きだと言ってくれた幼くて綺麗な体のままでいたかったから。

 

「やっぱり暗いね」

 

目の前を歩くミオが呟いた。当たり前だ。もう時刻は二十一時を回っている。

二人を照らすのは月明かりと、防波堤の向こうの街灯だけ。

 

「覚えてる?よく二人でここに来たよね」

「……覚えてるよ」

 

ミオが足を止める。辛うじて視認できる距離に、まだ僕より背の高い彼女の姿が見えた。

 

「……なんだ、覚えてるんじゃん」

「LINEで言ったのは、嘘だから。……ホントは全部、覚えてる」

 

忘れたかったけどね。と視線を海に移す。

 

「そっか、忘れたかったんだ」

「……なに、ダメなの?」

「……ううん。ちょっと悲しかっただけ。ごめんね」

 

勝手に悲しくなって、勝手に謝って。僕に気を遣うみたいに、勝手にほほ笑んでいる。僕は嫌になって、「謝るの、やめてよ」と言った。

 

「ごめんね。じゃあ、ほら」

 

僕の要求を無視して、ミオは手を差し出した。

 

「おいで。また、慰めてあげる」

 

過去の記憶を消したかった、と告げた不機嫌な僕に、やはりミオはそれを気遣うように甘言を宣う。だが、

 

「……やめてよ」

 

――そんなことする勇気もないくせに。

僕は、一歩だけ後ずさった。

不意に、あの夜の光景がフラッシュバックする。そういえばあの時も、少しでも距離を開けてしまえば、お互いの姿なんて見えなかった。

 

「もう帰ろうよ」

 

耐えきれなくなった心の声が口をついて出てくる。堰を切ったように、嫌味が溢れた。

 

「久しぶりに顔が見れてよかった。じゃあ、旦那さんによろしく――」

 

僕を見るミオの視界から逃げるように、後ろを向こうとして、

しかし――、

 

「うるさい」

 

聞いたことのない冷淡な口調で、ミオは僕の言葉を遮った。強い視線が一瞬だけ僕を捕らえたが、すぐにその表情は戻った。

 

「え……」

 

衝撃に、鼓動が加速する。

 

「ごめんね。でも、言ったでしょ?『今日は私が満足するまで帰さない』って。私はまだ、満足してない」

 

取り繕った笑顔が見えた。

 

「満足?回りくどいな!じゃあ、今すぐそれをすればいいでしょ!?」

 

ミオの衝動的な態度の変遷に心が動揺し、僕は語気を荒げて言葉を捲し立てた。

 

「さっきだって、何でここに呼んだのか聞いても何も答えなかったくせに!」

 

そんな僕に反してミオは落ち着いた様子で、「わかった」とこちらに近づく。

 

「じゃあ、手を」

 

そう言って、再び手を差し出す。

 

「繋ぎなさい」

 

有無を言わさない態度に、僕は黙ってその手を取った。

ゆっくりと、ミオは僕の手を引き海に連れていく。漣の音が大きくなっていき、僕は徐々に怖さを覚えた。

無意識に、体が震える。

 

「寒い?」

 

繋いだ手の向こうで、ミオが僕に問いかける。頷くと、「おいで」ともう片方の手を差し出してきた。僕は何か得体のしれないものに惹かれて、彼女の懐に収まった。

 

「……ずっと、このままでいられると思ってた」

 

頭半分ほど高い位置から、湿った声が落ちてくる。見上げると、その顔は四年前と何ら変わっていなかった。

 

「……僕も、このままがよかった」

 

言いながら、声が震える。

 

「離れて行ったのは、お姉ちゃんだからね」

 

ミオが別れを切り出した日のことは、はっきりと思い出せるはずなのに。まるでそれを拒否しているかのように、思い出そうとすると、あの日の街灯に照らされない暗闇が視界を覆いつくして、僕の記憶も隠してしまう。

しかしこれだけはわかる。

――お姉ちゃんが、裏切ったってこと。

恨みを含んだ僕の言葉を、ミオは「そうだね」と悲しそうな声を出して肯定した。

そして片方の手は繋いだまま、僕を抱擁から離して、再度横に並んだ。海を見る目が深淵を象る。

 

「――お母さんが、見てた」

「……なにを?」

「私とユキが、”そういうこと”をしてたの」

「……うん」

 

そんなことだろうとは思っていた。方法は知り得ないが、何らかのきっかけで、二人の関係が露呈したと思い至るのは至極当然のことだろう。

僕が理性で”おかしい”と感じていた状況は、現実に囚われた人間にとってはきっと、情動で忌避すべきものだったと思う。

ミオの告白に僕は少しだけ驚いたが、すぐに納得が出来た。

 

「私の両親、真面目でしょ?それこそ、社会の中で生きてる人だからさ。いかに法律で大丈夫でも、きっと”そうなる可能性”を危惧したんじゃないかな」

 

――可能性。

それは余計な正義を振りかざす理由に成り得るのだろうか。いや、きっと彼らはそんなことも考えてなかっただろう。

 

「結婚ってこと?それとも子供?――信じらんない。勝手に僕たちのことを除いて、勝手に僕たちのことを決めつけて、勝手に心配して……。結婚もしないし、子供だって作ろうとしてなかったのに」

「そうだね。結婚して、子供も作って……。そうなったらきっと、周りの人から変な目で見られる。だから、私たちの為っていう大義名分で、ミオと会わないように私に言ってきた」

 

変な目で見られるという懸念は、おそらく的を得たものだとは思う。ただその正義はきっと、僕たちの為なんかではない。

 

「……お姉ちゃんは、それを――」

「違う。私だって、ユキと離れたくなんかなかった」

 

僕を握る手がわずかに震えた。

芯から疑っていたわけではないものの、僕は安堵の息を吐いた。

 

「でも……でもね。あの時の私は、就職に失敗して実家に戻ってきたばっかりで、仕事もしてなくて、奨学金だって、親が返してる状態で……。今だったら、ユキにだってわかるでしょ?これがいかに”ダメな状態”なのかってこと」

「……うん。わかるよ」

「不満がね。やっぱり溜まってたみたい。最初はユキと遊んでることを、親らしく良いことだと思って見守ってくれてたみたいだけど、心の底ではそんな私をどうにかしたいと思ってたんだって。そんな不安と、ユキとの関係が重なった。――そんなことを言われちゃったらさ。もう、何も言い返せなかった。ユキとどうこうなったって、働きだすわけでもない。結婚もその先もするつもりもない。それでも、ダメだった」

 

ミオは小さく息を吐いて、僕を見降ろした。目が合って、微笑んで僕の頭に手を置く。

 

「ユキを連れて、家を出て行くことも考えたよ。幸いユキも家より私が好きだったからね」

「うん。当たり前でしょ」

 

何せ、最初は家にいたくないから実家に通っていたくらいだ。

 

「……ただ、一緒に出て行ってどうするんだって話だよね。ユキはきっと私に付いて行ってくれると思ったけど、二人で、親の庇護なしでどうやって生きてくんだろう。って思った。ユキは高校を辞めることになるだろうし、そうなったら、どうやってまたユキを学校に行かせよう、とか。私は母親じゃないから、きっとどうすることもできない」

「……やめてよ」

 

ミオの、どこか”僕のため”を思うような、逃げているような言葉に嫌気がさして、ついそうやって遮った。

 

「勝手だよ。お姉ちゃんも、大人たちも、みんな勝手だ。勝手に心配して、勝手に縛り付けて、勝手に生きさせようとして……。僕のためだって言いたいみたいだったけど、違うでしょ?お姉ちゃんも、きっと自分のことを考えてた。奨学金とか、仕事のこととか。自分が生きるためには、実家にいなきゃいけなかっただけだよ。僕のことなんか、どうでも良かった。お姉ちゃんはあの時、僕を裏切ったんだよ」

「……そう、だね。もちろん、ユキの言ったこともホントだよ。あの時の私には、柵が多かった。でも、だからってユキを大事に思うこの気持ちは嘘じゃない。この気持ちだけは本当だから。……だから、そんなこと言わないで。いくらユキでも、怒るよ」

 

最後の言葉に、彼女の強い意志が感じられた。僕の胸にそれが少しだけ刺さって、狼狽える。

 

「……ごめん、なさい……」

 

そんな僕を慰めるように、頭に置かれていたミオの手がゆっくりと動く。冷気を失った温度が、僕の頭を動かす。ふと、浅はかな考えが頭を過った。

 

「で、でもさ。今は違うよ!僕は高校を卒業したし、大学を辞めて、働くことだってできる!お姉ちゃんも、今なら働けるでしょ?だからっ――……だから……」

「……だから、なに?」

 

一見、優し気な雰囲気を纏ったミオの顔だったが、それが表面だけであることは僕も分かった。そしてそんな彼女の態度に関係なく、僕自身がその言葉の儚さを理解していた。

 

「……ごめん」

 

ミオなら、そんなことは何度だって考えたはずだ。でも無理だった。一度現実に縛られてしまえば、そこから抜け出すことは、きっと、不可能に近い可能性しか孕んでいない。

 

「わかってたはずなのに……。そんなの、無理だって」

「ユキは、いい子だね」

 

言いながら、ミオが手を僕の頭から頬に向かって這わせた。

ミオがあの時直面した現実の壁は、僕が成長したことで小さく見えるようになっていた。しかしそれが現実を乗り越える要因にはなり得ない。

現実は乗り越えられるものではないから。その時超克した現実の先には、また別の現実が待ち構えていた。

 

「私たちはいつだって、現実の中にいるんだよ。水中にいる限り、息ができないみたいに。現実の中でしか生きられない私たちには、現実から解放される術はない」

 

どんなに頭の中で夢想したって、僕の目はいつだって現実を視界に映した。

 

「ねぇ、どうして結婚したの」

 

僕の頬を擦る手が止まる。ミオの目は、また海の先を遠く眺めた。

 

「……結局、私はどうしても仕事が出来なかった」

 

静かな波の音でも消されてしまいそうな声だった。

 

「大学生の時はむしろバイトばっかしてたんだけどな。卒業したら、なんでかできなくなっちゃってた」

「それは……なんでなの?」

「……なんでかな」

 

ふふ、と小さく苦笑する。

 

「今から仕事を始めます、って言われると、急に体が動かなくなっちゃうんだ。頭では何をやったらいいのか理解してるんだけど、上手く電気が流れてくれない。そのくせ、心の中だけは私の声がうるさく響くんだ。目の前の出来事を処理しようとしてもできないから、その空想の世界に私の意識を引き込もうとしてくる」

「現実が、辛いから……?」

「そう。――きっと本当は、そんなことないんだろうけどね。私の身体はしっかり動くし、何の異常もない。そこらへんにいる鬱病の人たちに比べたら、カウンセリングを受けなくても、きっと『考え方次第』で、私は普通の人になれる。なれると思う。……でも、なんでだろうな。そんな姿の私を、いつしか私自身が想像できなくなってた」

 

それは、おそらく発狂と解放の抑止。狂気と正常の間。現実に動けるわけではないが、現実を捉えられないわけでもない。そんな曖昧な位置。

 

「私はずっと実家で、学生の時と同じようにバイトをしながら生活を続けてた。まぁ、あの時と違ってフリーターの扱いになるんだけどね。……そんな、ゆっくりと死んでいくような、全く現実的な生き方。でも、そんな生き方でも家族はある程度安心してくれてたみたい。起伏はないけど、目立った絶望もない。それが、私には似合ってるって言われてるみたいだった」

 

生きているだけの人間でも、みんな満足なのかな。言葉が海に吸い込まれる。

 

「”平凡な人生を続けていけたらいい”ってよく聞くよね。僕、そういう”生きるためだけの言葉”みたいなの、だいっきらい」

 

――どうしてみんな、生きるために生きることができるんだろう。

それは随分と、自分の中の利己的な遺伝子の意思にのっとった、生き物らしい生き方だと思う。だから嫌いだ。僕のそんな呟きに、「奇遇だね、私も」とミオが返した。

 

「でも、いずれ終わる人生に、今終わらせようとする勇気は私にはなくて、だらだらと生きてたんだけど、ある日、お母さんからこんな話をされたんだ」

 

吐き捨てるように。

 

「『お見合いをする気はないか』ってさ」

「……うん」

 

何でもない風に頷いてみた。やっぱり、夜風が冷たい。

 

「相手は、中学校の頃によく仲良くしてた人だった。見た瞬間、あー、お母さんが頑張って話を付けてくれたんだなって思った。役所で働いてる、いわゆる公務員ってやつ?安定した収入と、良い人柄。お母さんも、良い人を見つけてきたな。――って、他人事みたいに思った。思いたかった」

「だから、結婚することになったの?」

「……断って、なんになるの。きっとまた次の人が来るだけだよ。もとより、私には断わる道なんて残されてなかったんだ。だからと言って、全部が全部、私の意思じゃないとは言わない。断っても、すぐに勘当されるなんてことはなかっただろうしね」

 

はぁ、という大きなため息が、ミオの口から零れた。目は、未だに海を捉えている。深い黒の中に、彼女の今までの思惟が見えるようだった。

 

「妥協して、生きるために生きることを覚悟しても、一人じゃそれも許されないんだね。二回も妥協して。……だったら、生きるなんて選択肢はきっと――」

 

そこで、ミオの目が少しだけ大きく開かれた。すぐに目を瞑って、次の瞬間には海から逸らし、眼下の砂浜を見つめる。

 

「お姉ちゃん?」

 

僕の呼びかけに、ゆっくりと顔を上げ、こちらを向いた。目の深淵が、光を取り戻している。

――まるで、別人のように。

固まる僕を置いて、ただミオは言葉を紡いだ。

 

「ねぇユキ。現実は辛いね」

 

突然語りかけるので、僕は少し反応に遅れた。

 

「……うん、辛いよ。……ずっと辛い」

 

辛くなかったことなんて、今まであっただろうか。束の間の幸せですら、その後の転落を運命づけていたのだとしたら、悲劇以外の何物でもない。

 

「ユキは、将来何になりたい?」

「え?え……っと」

 

二度目の急な問いかけに、僕もまた言葉がつまった。「頭の中にあるだけなら」と続ける。

 

「小説家、と……漫画家、とか、イラストレーターとか……あと、曲作る人――あ、作曲家……?とか……」

 

自分が思った以上に、夢はいくつもあった。

 

「そっか。そういえば、レストランで言ってたね。絵と文章とギターやってるって。いいじゃん、頑張ってよ。きっといつか、それをやってよかったって思える日が来るから」

 

――そうかな。

その励ましは、僕の心には届かず、ただ夜風に流れて、黒い海に溶けていった。

 

「……ネットを見たら、小説も、漫画も、ギターも、みんな高校の頃からやってた。僕は全部大学から始めたから、まだ初めて三年も経ってない。ねぇ、一体何年やれば、全部僕の手足になると思う?僕が三十になった時?それとも四十歳?」

 

――それは、嫌だ。

 

「――どうして、そんな歳になるまで生きてないといけないの」

 

きっと、遅すぎた。高校までに、何かに手を付けていればよかった。でもきっと、今の僕が過去に戻って同じことをあの時の僕に言ってもその言葉は届かないだろう。

――だって、そんな場合じゃなかった。

家庭環境が良くなかったから。いじめられていてどこにも居場所が無かったから。

ただ、そんなことを考えても、それが後悔を薄めるための言い訳でしかないことも分かっている。

しかし、それは嘘でもない。心の余裕がなかったことは、きっと真実だ。

辛い現実で疲弊していたという真実と、それを言い訳に使う現状が、僕の心を板挟みにする。どっちも嘘なんかじゃないから、そんなことを考えるたび、頭が未来を拒絶した。

 

「大丈夫」

 

俯いた僕の顔を、ミオが覗き込んできた。

 

「私もそう思ってた。頭の中に叶えられるだけの未来がないのに、現実に生きてたって意味が無いって。でも、大丈夫だよ」

 

また、そんな無責任な言葉が僕の頭に降りかかる。

――どうしてそんなこと、言うんだろう。

ミオの目の中の光が、静かに揺らいだ。

 

「結婚するって決まった時に、思ったんだ。そんな人生も悪くないって」

「え……?」

 

酷く、ミオの声が遠く感じる。

 

「私はきっと、死ぬまでこの”何も成せない人生”を歩んでいくと思う。それはきっと、大きな幸せを味わわせてはくれないけど、”彼”との暮らしは、小さな幸せを、ちょっとずつ私に恵んでくれる」

「……」

 

呆然として、僕はミオの顔を見つめていた。温度の感じられない言葉が心臓を不快に染める。

 

「生きていくのも、そう悪くないよ」

 

最後に、そう言ってミオは僕に笑いかけた。その言葉が信じられなくて、顔が引きつる。

――ねぇ、それは”誰の言葉”?

 

「や、やめてよ。そういうの」

 

引き攣った顔をごまかすように苦笑した。

 

「だから、ユキも頑張って生きるんだよ。夢だって、まだ生きてるんだから。私なんかに比べたら、ユキはよっぽど理想の近くにいる」

 

ミオの口から出てくる、でも、ミオの心ではない言葉。

 

「だからやめてって」

 

――こんなの、僕の”お姉ちゃん”じゃない。

 

「もう、私と会えなくなっても、元気でいるんだよ」

「――やめて!!」

 

羅列された言葉が、僕の心を砂に埋めるみたいに感じて、気持ち悪かった。

声を荒げて、彼女の手の届く範囲から離れる。視界が揺れて五感が鈍って。

拒絶の声を出すために息を吸うと、喉が鳴った。

 

「そんなこと聞きたくないっ!最低!無責任!意味わかんない!信じらんない!気持ち悪いっ!――それが、僕をここに呼んでまで伝えたかったこと?ふざけんな!お姉ちゃん、今自分が何を言ってるのか、わかってるの?」

 

息が切れて、喉がつまる。

 

「っ……同じなんだよ、全部!僕たちが嫌ってた、現実を受け入れるための嘘の言葉なんだよ?」

 

ありったけの言葉をぶつけた。動悸が息を繰り返し、声が震える。寒い。熱い。苦しい。

許せないのは、嘘そのものじゃない。ミオがその嘘を受け入れようと――世界に迎合しようとしているところだった。

それが、あの時の幸福な記憶と、彼女を一度受け入れた僕の判断すら否定してくる気がして、許せなかった。怖かった。

目の前の現実に動揺する自分の心境が、目にミオの顔を映すのを遅らせる。やっとピントが合った彼女の顔には、やっぱり光のともった目があった。

 

「ひどいなぁ……。――いや、酷いのは私か」

 

自己完結して、ミオは僕から海へ視線を映した。

すると、彼女の虹彩から白が消えた。いつか見た深淵が、黒を大きくする。

 

――あ……。

 

その光景に。現象に。

違和感が唐突に瓦解した。不快感は納得と、ある種の希望に変わった。

それは、惜別の記憶。

 

『大丈夫だよ、ユキ。あなたはきっと、私がいなくても大丈夫』

『もう、私と会えなくなっても、元気でいるんだよ』

 

――嘘なんだ。

言葉じゃない。その態度すら、嘘。その先にある一つの答えを隠すための嘘。それは、確かに僕を遠ざけるためのものだった。しかし、その遠ざけた先の答えが同じなら、きっと、ミオは僕を……。

――受け入れてくれる?

だったら、と僕は思った。終わりを迎える希望が、暗闇の世界に一縷だけ望みを見せた。

――同じ。同じ。お姉ちゃんは、僕と同じ?

あの時、ミオが僕と一緒になった時。おそらく僕たちは、”一緒にいたい”という気持ちを共有した。それは結局見過ごされて留めることは出来なかったが、今、もう一度、二人は現実逃避の思考と内心の欲求を共有している。

 

「お姉ちゃん!」

 

そう思うと、いてもたってもいられなくなった。僕の呼びかけに、ミオはビックリしたような顔でこっちを向いた。

 

「え……?」

「お姉ちゃん、僕、お姉ちゃんに見せたいものがある!」

 

先程とは別の理由で、心が揺れている。それはある種の期待だった。でも、この期待は保証のない期待じゃない。終わらせる期待。終着点の期待。人類最後の期待。

 

「見せたいもの?っていうか、どうしたの、そんなはしゃいで……」

「ダメ?」

「う、ううん、ダメじゃないよ。すごい可愛い……」

「ありがと。ねぇ、見せたいものがあるの。取ってきて良い?車の中にあるから鍵貸して」

 

矢継ぎ早に捲し立てると、ミオは戸惑いながらも車のキーを投げてくれた。

 

「ちょっとまってて!」

 

そう言って、僕は防波堤の向こうを目指した。停車中の車が暗闇にぼんやりと映る。

――もしものためにと思って買っといてよかった!

足取りが軽い。やっと全部から解放される。僕も、ミオも。今日、ここに来てよかった、と僕は本気で思った。

 

 

<07>

 

+++【如月ミオ】+++

 

平均的な家族がどういうものか、と問われれば、私は『私の家族』と答えてるだろう。

父親はサラリーマン。私を生んだ時は役職を持ったばっかりだったらしい。

母は同じ市の企業で働いていた事務員で、その出会いは共通の友人を介したものだった。

そんなありふれた経歴とありふれた出会いを経た二人は、双方が三十を超えたあたりで私を生んだ。

そして私たちは三人で暮らしていく……と思われた矢先、母方の祖父母の容態が悪化し、両親は”結果的に”母方の実家に戻り、介護をしながら生活することに決めた。

そんな不本意な心労ですら、おそらくありふれた人生の道中だったと思う。

私の家族は、どこまでも”普通”だった。

 

『いいかいミオ、そういう場合は彼女たちに共感してあげると良いよ。話を聞くだけでも良い。そうすればミオが何か言われることはないからね』

『わかった、お父さん』

 

幼いころから、私は普通の状態に直面し、そのたび親から教えられた普通というカードを切ってきた。おかげで小中高ともに人間関係で普通以上の困難に出会うことはなかった。その点、私両親に非常に感謝している。

ただ彼らにはどうしようもない心残りがあった。

それは学歴、職歴、介護、年齢。

 

『わたしもお父さんも、たくさん勉強してたわけじゃないからねぇ。ちょっと、足りなかったかもねぇ』

 

もっといい大学に入っていれば。もっといい企業に入っていれば。親の介護を誰かに任せられたら。もっと若い時に結婚、出産していれば。

 

『ミオはたくさん勉強するんだよ。そして、いい大学に入って、いい企業に入って、わたしたちを喜ばせてね』

『……?わかった、お母さん』

 

当時はそんな彼らの真意など気付きもしなかったが、時間だけ大人になった今ならわかる。

両親は、私に彼らのやり直しをさせたかったのだと。彼らが私に啓蒙してきた”普通”は、やり直しの障害をなるべく少なくするためのものだったのだ。

 

幼少期の習い事。中学高校での塾。良好な友好関係。型に当てはめるような汚い強要は、一人の人間にしていいことではない。しかしそんな彼らの教育によって、私は何不自由なく育ち、大学は、一応名門である上智大学に進学することができた。

親元など、別にはなれたくはなかった。でも東京の大学なので仕方なく私は上京し、一人暮らしを始めた。周りの友達は初めての一人暮らしで浮かれ気分な人が多かったが、私はただ、親のいない状況に困惑していた。

そんな時だった。

 

『如月さんって、変わってるよね』

『え……?』

 

友達からすればきっと、何でもない言葉。悪気もない。むしろ”そこも良いんだけどね”と言いたげな口調で。

大学で出来た友達にそう言われたとき、私はただ焦った。不安が頭を支配した。

変わっているということは、普通じゃないということ。普通じゃないということは、周囲から浮くということ。親の教えに従って、当時の私の心はぴったり型にはまっていた。

そのはずの心が、心の形が、親の不在によって徐々に変形していった。

 

――私は、普通じゃない。

 

その考えが、私に行動を遅らせた。頭ばかりを働かせた。思惟だけが先行し、それが周囲とのずれを大きくした。幸い今まで享受してきた”普通”によって友達に嫌われるなんてことはなかったものの、そんな現実はお構いなしに、私の頭だけは周囲との差異を大仰に私の心に表した。

 

被害妄想の様だった。おそらく、周りの人間は私に特別変わった感情を抱いてなかったと思う。

『ちょっと変わった、大人しい女』

そんなものだろう。ただ、私だけはそうじゃない。私だけがそうじゃない。そんな不安に打ちのめされ、私は友達と徐々に距離を開けていった。普通じゃないことが露呈していくのが怖かったから。それで、私を拒絶されるのが嫌だったから。

 

その焦りは、私に両親に連絡させることすら忌避させた。普通じゃない私を見て、両親はどう思うか。

『わたしたちを喜ばせてね』

笑う母親の顔が、夢の中で険しくなっていった。

 

そんな生活の実情に反して、学業自体はそこまで退廃しなかった。授業料の減額、奨学金の返還免除のために好成績を治めなければいけなかったから、週5日のバイトの傍ら、勉強することだけは手放さなかった。

ただ所詮、トンビはタカを産めなかった。

必死に時間を費やしたのに反して、私が手にしたのは授業料の三分の一免除のみ。

もちろん家が貧乏だったわけではないので、親からの仕送りはあった。というより、地方の大学生よりは多くもらっていたはずだ。しかし、東京の暮らしというのはそう簡単ではない。親の意向でセキュリティや立地の良い家に住まわされ、その家賃は十万を超えていた。物価だって実家とは比べ物にならない。

田舎の普通は、都会の普通には届かない。平均以上の家庭の子供が歩む生活は、平均的な家庭には再現できなかった。私は周りより少しだけ、窮屈な暮らしをしていた。

 

心がすり減って行く状況でも、そこまでならまだよかった。学業という壁を乗り越えた先、私の目の前に現れたのは、就活という名の迷路だった。

 

 

『ごめんね。辛かったよね。就職はまだいいから、一回帰っておいで』

『……うん、ごめんなさい、お母さん』

 

久しぶりに帰った実家は、どこか私を閉じ込めるような気がして、逃げられない私に、逃げたいという選択肢を否応なしに浮かばせた。

 

戻って一ヶ月も経たず、母親から、叔父であるアキラがここへ帰省してくることを聞いた。

――そういえば、世間は夏休みか。

他人事のように思いながら、両親や祖父母に連れたって迎えに行く。

そこにはアキラのほかに、人影が一つ。

他の面々が和気藹々と喋っている中、私の意識はその”子”に注がれていた。

 

『……』

 

女の子みたいな顔。長めの髪の毛。

 

『ほら、ユキ。挨拶しろ』

 

――ユキ……。

聞き覚えがある。

そんな私の目線に気付いたのか、アキラがその子の背中を軽く叩いて言った。だが、何も答えない。

 

『……』

 

小さな体。前髪の間から除く、すべてを怖がっているような、そんな目が、私を捉える。

 

『悪いなミオちゃん。こいつ人見知りなんだ』

 

――誰だろう。

そんな疑問はすぐに合致に変わった。

ナツキに、似ていた。

 

『今、君にこれを見せるのは罪だと思う。だが、見てほしいんだ』

 

その日。ユキを初めて見た日。叔父――如月アキラから見せられたのは、ナツキの遺書だった。そこに書いてあったのは、ユキのこと。長くない自分の時間を憂いて、彼を心配するような文章。

そして私に要求してきた、ユキの世話。

 

『ユキは人見知りなんて言う簡単な言葉で片づけられる状態じゃない』

『……どういうこと?』

『抽象的な表現で申し訳ないが、あいつには他人以外の人間がいない。……つまりだな。あいつには人間全員が”自分に関係のない人間”に映ってるんだ。それこそ、ナツキ以外はな』

 

自分と、それ以外の人間。そういう境界の定め方は特段おかしいものではない。子供は親という存在を認識して初めて自分という境界を作るのだという。

しかし、ユキはそうではない、とアキラは言った。

ユキが他人との間に設けているのは、拒絶という壁。恐怖なのか、不信感なのか、忌避なのか。それはわからない。とにかく彼はそうやって、自分という存在を心の中に閉じ込めて、孤独を作り出していた。

その内心が、私には少しだけわかる気がした。心の孤独という一点に置いて、おそらくは、私とユキは心情を共有していた。

 

『……よくわかんないけど、アキラさんが私に頼みたいことは分かったよ。――うん、やってみる。私、子供はそこまで苦手じゃないから』

 

頼まれたからとりあえず受けてみた。そんな風を装って、私はその要求を引き受けた。もちろんその気持ちもあったし、両親からの憐憫の視線をなるべく避けていたいという思惑もあった。

しかし、表面上の体裁だけでは説明できないどこかの部分で、私は彼を特別な感情で見ていた。今まで感じたことのない感情で見ていた。それはただかわいい見た目に惹かれて抱いた劣情なのか。可哀想だからと私が生物学上の利他性を発揮したからなのか。

 

――わからない。

 

『初めまして。私はミオ。よろしくね、ユキくん』

 

とにかく私はそこで初めて、自分の意思で誰かに手を差し伸べた。

 

 

<08>

 

+++【如月ミオ 二十三歳 一月】+++

 

「…………」

 

静まり返る部屋の中、かたっ、とペンを置く音が落ちる。

――課題が終わったのかな。

そう思って、私はユキが席から立つのを漫画を読みながら待った。

 

「…………」

 

しかし、何も音がしない。一瞥すると、彼は席に座ってじっとしていた。何があったのか、私は心配で、ゆっくり彼に近づく。

 

「ユキ、どうしたの」

「あっ……」

 

私の声掛けに、ユキは小さくビクついた。「急に話しかけてごめんね」と笑いかけるが、その顔は晴れない。

――そんなに怖いかな、私。

中学三年生だというのに、一五〇cmもない身長。一見――というか、じっくり見ても女の子のような端正な顔。華奢な体躯。見た目明らかに弱弱しいユキは、その通り内面も何かを拒絶するように、心を体で閉じ込めていた。

初めて出会った日からずっと、私は気の向くままに彼に対して言葉を投げかけていた。それが分かりやすく功を奏したことはない。ただ同時に拒絶されるようなこともなかった。

だからなんとなく、私は自分が失敗していないことは理解していた。

 

「……なんでもありません」

 

まだ三ヶ月も関わっていない間柄だが、なんとなく彼の言葉と心の状態が推測できるようになっていた。「なんでもない」は「なにかあった」時の返しだ。

そう思って、課題を見やる。彼の手元にあったのは、おそらく国語の試験問題。所謂筆者の内心を言い当てろという記述問題で、その回答欄は途中まで埋まっていたものの、完答はしていなかった。

――わかんなかったのかな。

ユキは頭が良い。とアキラは言っていた。特に数学と理科が得意で、他の科目も悉く高水準にまとまっている、と。そんな彼にも、わからない問題があるんだな、と珍しく思いながら、問題を見やる。

そう難しい問題ではなかった。曲がりなりにも大卒の人間だな、と私は少し自分を褒めた。

 

「ヒントは、この部分と、あとここの文章かな。それと、この問題が難しいのは、多分、結論が最後の方にあるからだね。そして――」

 

頭が良いことは分かっていたので、わりと難しい言葉も織り交ぜて普通の速度で説明をしてみる。ユキは最初は戸惑っていたものの、すぐに「なるほど」と小さく唸りながら私の言葉を咀嚼し始めた。

 

「こ、こうですか?」

「えっと……?うんうん、こんな感じ。これで多分いいと思うよ」

 

そう言ってやると、ユキは無表情の中に少しだけ嬉々の内心を浮上させた。顔がほんのり赤い。

 

「よかったね、ユキ」

「あっ、は、はい……」

 

ユキの力になれてよかった。私はうきうきする心を彼に見せないように隠しながら、その場から離れようとした。

 

「あ、あの!」

「おわっ」

 

急に声をかけられてびっくりした。振り返ると、いつの間にか席を立ったユキが頭一個分下の位置から私を見上げていた。

 

「あ、ありがとう……ございました……」

「あ、あぁ。いーのいーの。このくらいなんてことないから」

 

またわかんない所があったら言ってね。と笑いながら告げる。話は終わりかな、と思ったが、ユキはまだ何かを言いたそうに眼を揺らしていた。

 

「どうした?」

「……”お姉ちゃん”」

「……え」

「って呼んだら怒りますか……?」

 

今の間に、どんな心情の変化があったのかはわからない。

 

『これからは私が君のお姉ちゃんだよ』

 

ただ、彼は私が過去に言った台詞に答えるように、そう呟いた。

 

「怒んないよ!」

 

浮ついた心に、思わず大声を上げた。ユキはびっくりしたように目を剥いている。私はそのまま彼の両手を自分の両手で掴んだ。

 

「むしろ嬉しい!むしろっていうかすごい嬉しい!」

「あ、え、あ、それはどうも……」

「ユキ、やっと呼んでくれるんだね。『お姉ちゃん』って!」

 

赤面するユキに、構わず私は言葉を投げた。「よ、よびます」という軽い当惑を含んだ声が返ってくる。

 

「やったぁ!――ねぇユキ。頭撫でて良い?撫でたい!良いよね?」

「え、え、あ、え?あ、はい、どうぞ……」

 

そう言って、ユキは少し頭を傾けてきた。私はまた両手でその頭に触れた。小さい。髪がさらさらしている。

 

「私、弟が欲しかったんだぁ」

「そ、そうなんですか」

 

私に頭を好き勝手されていたユキは、戸惑いながらもそれを止めることはしなかった。私はそんな彼の態度に増長して、頭から少しずつ下へ手を這わせる。

 

「……」

 

耳に達しても、ユキはじっとしていた。

 

「ぁっ」

 

私はそこでハッとして、慌ててユキの顔を伺った。「あの……」とこちらを見上げる視線は、明らかに恍惚としていて、私はその反応に、心の中の何かが奮い立つのを感じた。

耳から手を離すことなく、その柔らかい肌を指で圧す。ふにふにと摩る。拒絶はない。

 

「い、嫌だったら言ってね……」

「ぁ……はい……」

 

返答を聞いて、私はゆっくりと手を耳から頬に伝わせた。くすぐったいのだろう。ユキは少し息を漏らしながら、一瞬体を震わせた。構わず首と頬を交互に触る。

 

「中三って、こんなに肌がきれいなもんだっけ……」

「そう……なんですか。ぼ、くには……わかん、ない……です」

「あー……そうだよね……そうだよね……」

 

息の絶え絶えと言った感じで言葉を返すユキ。私は触るのに夢中で、ただ生返事を繰り返した。

――かわいい……。ホントに男の子?ホントにもう十五になる歳なの……?

もっと触りたい。衝動の赴くまま、私は次いでユキの唇の近くに触れた。

――すごい。なんでこんなにかわいいんだろう。

初めての感情だった。子供を扱う時とは違う。明らかに純粋ではない、泥のような感情。

 

「あ、あの……」

「……わぁ……」

「あのっ」

「――え……あっ」

 

投げられた言葉を受けて、ユキの顔全体にピントが合う。彼はうっすらと涙目になりながら私を見つめていた。

 

「わっ、ご、ごめん!触り過ぎた!」

 

慌てて彼から両手を離した。離した瞬間、ユキは体ごとそっぽを向いた。

――やり過ぎた……。

私は項垂れかけたが、

 

「し、仕返しします」

 

というユキの言葉に我を取り戻す。目を丸くする私に、ユキは振り向いて、間髪入れずに両手をこちらへ近付けた。

――あ、化粧してなくて良かった。

と思う暇もなく、ユキの手が自分の頬に触れた。驚いたが、その手を拒否したりはしない。したくなかった。

 

「い、いいよ。好きにして……」

「言われなくても……」

 

ぎこちないユキの手に顔をいじられながら、私は私の感情を内省していた。

あれは、庇護ではない情緒。特別な感情。しかし、信じられなかった。

私は、明らかにその先を望んでいた。

元々そういう癖だったのだろうか。たしかに、今まで周りの男性に対してその感情を抱いたことはなかった。かっこいいとか、優しいとかを感じることはあったが、それは多分、客観的な評価の上での心情だ。本能ではなく、理性でそう思っていたに過ぎない。

ならばこれは、この気持ちは、なんだろう。

最初に本能が感じた。それを理性が支持した。私の脳は悉くそれを否定しなかった。

――じゃあ、そういうこと?

それは極めて単純な答えだった。

 

「雑だなぁ、触るの」

「ぅ……あ、の……ぎゃ、逆にそっちは慣れ過ぎてませんか?」

 

しかし、私はそれを言葉にできるわけもなく、ただユキの白い手にしばらく己の身を委ねるだけだった。

 

 

はっきりとしたきっかけがあったわけじゃない。ただ、いつの日からか、両親や祖父母は私とユキを奇異の目で見るようになっていた。私が大学で受けた、”ちょっと面白い人を見る目”ではない。あれは確実に、”社会から外れそうな人”を心配そうに見る目だった。

 

『じゃあ、これがファーストキスだね』

 

そう言ってあの時、私はユキにキスをした。親愛なんて言う綺麗なものではなかった。そこから、私の心の泥は堰を切ったように体に溢れ出し、無視できない熱を籠らせた。脳髄が麻痺して――。

――いや、違うな。

気付けば、なんていう言葉は取り繕うための嘘だ。

私は徹頭徹尾自我を保ったまま、ユキに手を出した。自分がおかしくなっていることを、そしてそれを抑えきれないことを自覚して、感情の背中を押す理性と一緒に目の前の異性を抱き寄せた。

 

ああ、やっちゃったな。と思う暇もなく、年頃であるはずの、目の前の高校生男子は難なく私を受け入れた。変にこちらを意識することもなかった。

それは私にとっては好都合なはずだったのに、違和感はぬぐえなかった。

そして、ユキと関わって行くにつれ、気付く。

――ああ、そうか。この子は知ってるんだな。

私が彼にした行為全てを。だから彼は私の好意をそのまま好意として、余計な思い込みもなくストレートに受容していた。それは、心を閉ざした者なら到底できないはずの行動。

だとすれば、経験済みであると。

私はそこで初めてナツキという人間を真に理解した。

過去、私とナツキは交流する過程で彼女の弟、つまりユキの存在を当たり前に知った。彼女もその存在は隠すつもりはなかったようだった。ならば、私がその弟に会いたいと思うのも当たり前のことで。

しかし。

 

『ユキは人見知りだから、あんまり会わせたくないんだ』

 

ナツキのその言葉を、私はその通りに受け取った。だからユキと遊ぶどころか、その姿を観ることすらなかった。

いつだったか、しつこく私がユキのことを探ろうとしたとき、

 

『ユキのことは、ダメ。ユキは私の大事な弟なんだもん』

 

温厚なはずの彼女は、珍しく眉を顰めてそう返してきたことがあった。

今ならその言葉の真意が分かる。

彼女はただ、ユキという存在を誰にも渡したくなかったのだ。だから私にあまり弟の話をしたがらなかった。私にユキを認識させまいとしていた。

実際私はユキと初めて会った時、その認識が刹那だけだが遅れたのだ。

死に直面して初めて、彼の未来を考えて私にユキを託したのだろうが、そうでなければ、”こんなことになる”と予期していたはずの彼女にとってそれは本意ではなかった。

実際、私とユキは”こんなこと”になってしまったのだから。

 

そして、終わりの日は前触れもなく訪れた。

 

『ミオ、あなた、いつもユキと一緒に何をしているのかしら?』

 

一見、何かを探る意図も見えなかった。ただ好奇心で尋ねているような口調だった。

――会ったら毎回エッチしてますよ。

なんて言えるはずもなく、私はただ、

 

『仲良く遊んでるよ』

 

と貼り付けた笑顔で告げた。そこで終わればよかった。再就職の話ならば、フリーターとして一応バイトしていることもあり、深く追及されることはなかった。彼らも彼らで私の領域に足を踏み入れることを恐れていただろうから。

ただ、この時ばかりは違った。

 

『……ちょっといいかしら』

 

そう言って、母は私を私の部屋へ連れて行った。

――まさか。

ゴミ箱、ベッド周りに関しては、完全に証拠は消している。バレるはずなどなかった。

しかし、彼女の行動は私の想定の外にあった。

 

『……うそ、なにそれ』

 

本棚の奥。母が取り出したのは、小さいレンズの付いた黒い筐体。

 

『わたしの話を、聞いてくれる?』

 

呆然自失の私に、母は貼り付けた慈しみの顔を向けた。

 

 

<09>

 

+++【如月ミオ 二十七歳 十一月】+++

 

「ユキ」

 

改札から出てきた姿を観とめて、私は声をかけた。前髪に少し隠れた目が、外界を恐れるように揺れている。

あの時と同じように。

 

「っ!おねぇ――」

 

――そうだよ、ユキ。お姉ちゃんだよ。

歓喜と悲哀と寂寥が入り混じったような顔に、「慰めろ」と私の本能が訴えかける。すでに二十一歳になっているはずの少年は、私の過去の罪を再認識させるように、変わらない見た目で目の前に現れた。

――あぁ、どうしてこんなに、嬉しいんだろう。

最後の再会に、心の感情は不要なはずだった。そう決めていたはずだった。なのにどうして。いや、だからこそ、私の心は締め付けられる。

 

「結婚、おめでとう……」

 

本人は分かっているのだろうか。その言葉に微塵も心が籠ってないことを。

”彼”を連れてきていないことに、ユキはひどく驚いていた。大方、結婚報告のために呼ばれたと思っていたのだろう。

 

「もっと喜んでよ」

「……そうだね」

 

そんなことするわけない。するはずがない。

誰を紹介されようが、誰と結婚しようが、私の中の一番はユキだけだ。私が今日、ユキを呼んだのは、ひとえに私が会いたかったから。それだけでしかない。

今日という記念の日に。

私が初めて世界と対面する、吉日。私という魂の生誕祭。

そんな日に、”あの人”はいらない。

――私は今、”あなた”が欲しい。

 

 

ユキと離れることを、最初から許容していたわけじゃない。

――お母さんたちを捨てて、ユキと一緒に。

そんな非現実的な妄想は、しかし私の空虚な心を埋めるには十分だった。

そして、ユキ以外の全てを捨てて生きていく覚悟を決めたとき、私はやっと、自分の愚かさに気付いた。

 

『私がユキを育てる。アキラさんやサエコさんがユキを捨てても、私は絶対あの子を捨てない』

『……ミオちゃん、それは……』

 

私がアキラにそう告げたとき、彼の顔は、悲しみであふれていた。何故か。

――どうして。

 

『ユキは、オレのものでも、サエコのものでもない。そして、君のものでもないんだぞ。君はそれを、よくわかってるはずだ』

 

――あ。

脳裏に、幼いころから浴びせられた両親の言葉が蘇る。

大学生になって初めて認識した。彼らの強要の異常さ。

『私はお母さんやお父さんのものじゃない……!』

誰にも、誰かを好き勝手していい権利はない。私はそれを身を持って知っているはずだった。

でもこの時の私は、ユキを”自分のモノ”だと既に認識してしまっていた。

 

綺麗なビー玉は、外に出すと汚れてしまう気がして、ガラス瓶から出したくなかった。

 

私は、自分の半径八〇cmにユキを束縛したかった。

それは私を”大切に”育ててくれた両親と、何ら変わりはないのではないか。

――最低だ。

私は結局、両親の娘なんだな。

 

『大丈夫だよ、ユキ。あなたはきっと、私がいなくても大丈夫』

 

嘘の言葉を吐き出すと、同時に私の心は死んだ。それで良かった。ユキを殺してしまうかもしれない私の心だったら、失くしちゃっても良い。

その時から、私は最初に出会ったユキと同じように、意図的に心を閉ざして過ごしていった。

私とユキを離したことに罪悪感を感じていたのかはわからないが、両親もそんな私に対してとやかく言うことはなかった。

『わかってほしい。これもお前を思ってのことなんだ』

そんな言い訳のような正義感ばかりが耳に届いて。でもそれは、私のユキへの思いと似ているみたいに感じられて、気持ちが悪かった。

絶対違う。そう信じていたかった。

 

 

「――同じなんだよ、全部!僕たちが嫌ってた、現実を受け入れるための嘘の言葉なんだよ?」

「ひどいなぁ……。――いや、酷いのは私か」

 

思いのたけをすべてぶつけられた私は、否定するでもなく、いや、否定なんかできるはずもなく、その言葉をただ咀嚼していた。

――また、押し付けちゃったのかな。

その押し付けも、きっと私の善意なのだろう。私のユキを大切に思う気持ちに偽りはない。この思いだけは、誰にも踏みにじられたくない。

しかしそれは同時に束縛や逃避になる。ユキの心を傷つける言葉や行動となる。

なんてままならない世の中だろう。

――辛いな、現実って。

そう思いながら、私は暗闇に溶ける海を見つめた。嘘の言葉で塗り固められた心が、海の濁流で洗われるような気分がした。心地よさと恐怖が同居する。

 

「お姉ちゃん!」

 

ふと、傍らからそんな声が届いた。一瞬、ユキの声だと分からなかった。だって異常なほどさっきと声調が異なっていたから。まるで先程までが全て”なかった”ように、その声は明るい。

 

「え……?」

「お姉ちゃん、僕、お姉ちゃんに見せたいものがある!」

 

ユキの方に向くと、やはりというべきか、彼は心底嬉しそうな顔をしていた。

 

「見せたいもの?っていうか、どうしたの、そんなはしゃいで……」

「ダメ?」

「う、ううん、ダメじゃないよ。すごい可愛い……」

「ありがと。ねぇ、見せたいものがあるの。取ってきて良い?車の中にあるから鍵貸して」

 

まるで”あの時”に戻ったかのように、ユキは幼い口調でそう捲し立ててきた。狼狽えつつも、私はポケットから車のキーを渡す。ユキはそのまま「ちょっとまってて!」と告げながら車を停車させた方へ走って行った。

 

「なんだよもー……」

 

走り去っていくユキをしばらく眺めてから、呟く。その態度の変わりようには驚いたが、反面、嬉しい気持ちもあった。なぜなら、叶わないだろうと諦めていた、あの時の無邪気なユキの顔が見れたから。

 

「かわいいやつめ」

 

――ただ、私にはもう見れないだろうな。

そんな思考を鎮めようと、私は再び海を眺めた。

 

 

母親から紹介された”お見合いの相手”は、中学の頃の同級生だった。高校も一緒で、家も近いのでよく二人で登校していた。関係は全く持って良好で、たまに二人で遊びに出かけることもあった。だからか、その関係はクラスメイトなんかに噂された。実際、彼からは何回かアプローチを受けた記憶がある。ただそれは直接的なものではなく、当時の私がようやく彼の真意に気付いたのは中3の夏――。

 

『あの……お、俺達、付き合わね?』

『うーん、いいよ。別に』

『……お前それ、おっけーってこと?』

『うん』

 

ドラマチックが不在でも、私は彼と付き合うことになった。しかし私は特別に彼に何かしてあげたいとは思わなくて、彼からの施しも、私は『どうしてそんなに私に構うのかな』と不思議に思うだけだった。

好きなことは理解していた。理解はしていても心は納得していなかった。だから私はその行動の結果だけを享受していた。

そんな私だったから、二人の関係が瓦解するのも時間の問題だった。私たちは彼からの申し出によって別れることになった。多分その時にだって、私は『いいよ』と返したのだろう。

 

終わり方が終わり方だったので、絶対にうまくいかないだろう、と私は高を括っていた。うまくいかないならそれでいい。母親が諦めて次を連れてくるだけだ。そうなったら、また私は周りの人間に流されてYESを繰り返す。生き続けるのは苦しかったが、生きる理由を考えなくていいのは、とても楽だった。

 

しかし、案外彼とはうまくいってしまった。子供の頃と同じで、何も彼に与えられない私だったが、そんな自分に構わず彼は私に多くを与え続けた。

彼の行動に対して、私は今度こそ心でその意図をくみ取れた。

――私のこと、好きなんだな。

客観が本能の手を掴んで外界に晒した。ユキの時とは違う道筋ではあったものの、なんとか私は彼のことを好きになれた。

ああ、よかった。私もまた”普通”に戻れる。

 

でも、本当は気付いていたのかもしれない。

それが自分のための嘘だったということに。

 

 

「はぁ……はぁ……お姉ちゃん」

「おっ、おかえりユキ」

 

息を切らせながら、ユキが帰ってきた。本気で危惧していたわけではないが、しっかり戻ってきてくれたので、私は安堵と嬉しさに声が少し弾んだ。

 

「お姉ちゃん、海好き?」

 

ユキはまた、突拍子もなくそんな言葉を投げかけてくる。

 

「うーん、どうかな……」

 

わからないけど、

 

「ユキとここにいるのは好きだよ」

 

多分これだけは真実だ。「なんで?」と投げかけに対する疑問を返してみる。

 

「ずっと見てたから、海」

「あぁ――……そうだね」

 

海を見ると、落ち着くから。

私は嘘ではない言葉をユキに告げた。

海は、私を少しだけ現実から遠ざけてくれる。終末の希望を私に見せてくれる。

さっき、展望台でユキに見せてしまった姿はちょっとあからさまだったけど、海を見るのは変ではないはずだ。だから、私は頻繁にその深淵を味わうように眺めていた。

 

「お姉ちゃん」

 

呼ばれた。意識が浮上して、私はユキに振り返る。

 

「また海見てた」

 

屈託のない笑顔で、ユキがそう言った。そんな彼のあどけなさに、私の抑えていた心がくすぐられる。見た目の変わらない彼の姿を再度視認して、やはりあの時の記憶が蘇る。胸が苦しい。

 

「ユキ、おいで」

 

そんな苦しさを発散するように、私はユキへ両手を差し出した。

――これで最後なんだから。

と、また私は理性の鎖を外す。

 

 

『ご、ごめん。まだ歯を磨いてないから……』

 

気付いたのは、”彼”が私にキスをしようとしたときだった。理性で覆っていた感情が、本能的にそれを拒んだことを、私はありふれた理由で誤魔化した。

 

『まだ、私、緊張して……ごめんなさい』

『い、いいよ。俺も、性急すぎた……』

 

私が就職失敗して実家に戻ってきた経緯は彼も知っていた。だからそのせいだろうと思わせることができたのかもしれない。

その日は、何とか逃れることができた。

そして同時に。”普通”になれない私に、次の現実が壁となって立ちはだかっていた。

 

 

だから思った。

――こんな現実が何度も続くなら。私は。

――一度しかない幻想の中に。

――忘れられない記憶を夢に見ながら。

――私は。

 

「私のところに来て。また、キスをしてあげる」

 

私のかわいいユキ。未来の貴方を手放しても、今の貴方は永遠に私のもの。

そうやって彼を迎え入れようとした私に、

 

「ユキ?」

 

しかし、ユキが応えることはなかった。

ただ、こちらを眺める。

ゆっくりと降ろされる私の両手に一瞬だけ気を取られたように視線が流れたが、すぐにまた、私を捉えた。

 

「お姉ちゃん」

 

その表情に、不自然なほど不快や困惑はない。ただ酷く嬉しそうに無邪気な笑顔を私に見せた。

 

「雪、見たよ」

「ユキ……?あぁ」

 

雪か。腑に落ちた後、あの時の記憶が掘り起こされる。

 

「どうだった?やっぱり汚かった?」

「うん。降ってる途中の雪はちょっと綺麗だったけど、積もった雪は、なんか誰かの足跡とか地面の色がついてて、黄ばんでて、汚かった」

「ね。湿度や温度もあるから、すぐに溶けちゃうし、触ってもべたべたしてるし。……雪の無い街の住人としては、ちょっとがっかりだったなぁ」

「でもね」

 

ユキは夜空に見上げて、手を翳した。

 

「見た目は汚くても、多分、本当は綺麗なんだよ」

「どういうこと?」

「僕たちの目に映るのは、現実だから。そんな現実の中に囚われたら、きっと雪は汚く見える。でもちょっと考えれば――現実の世界から認識を離したら、本当は綺麗なのかもしれないって、思える」

「ユキは、どこが綺麗だって思えたの?」

 

私の問いかけに、ユキは「ふふ」と小さく笑った。まるで、小さな子供が親に自慢する直前のように。

 

「生きようとしないところ」

 

と、静かに言った。

 

「雪にとっては、降るときが全てなんだ。だから、落ちた後はどうだっていいんだよ。だから汚くなれる。足に踏まれても道路に汚れても、生きてないから関係ない。雪は短い時間に生きて、長い時間を放棄してる」

 

だから、すっごい綺麗なの。そう言うユキの顔も、私の記憶の中で降る白い雨のように、綺麗だった。そして、雪の軌跡をなぞるように、儚く見えた。

 

「……ユキ、何を考えてるの……?」

「……お姉ちゃんは、何を考えているの?」

 

オウム返しをされて、私は狼狽える。私の知らないところで、私の内心が晒されているような感覚がした。

 

「……わ、私は……」

「僕はね。汚い雪でも良いの。ちょっとでも綺麗な瞬間があったら、それでも前を向けるよ」

 

屈託のない笑顔で言うものだから、私は安堵して息を吐いた。

 

「うん。よかったぁ。私はユキにずっと笑顔でいてほしいか――」

「あの頃の記憶だけは、僕が綺麗だったことを証明してくれる」

「え……」

「ねぇお姉ちゃん――、

 

――永遠になろう?」

 

そう言って、ユキは私に近づいた。幾分の恐怖と驚愕が私の足を後ろに引っ張ったが、それを超える幸福感が阻止した。

ユキを抱きしめたい。ただそう思った。

しかし。

 

「――あ……ユ、キ……?」

 

腹部に襲い掛かってきた鈍痛。へそのやや左辺りが熱い。何が起きたのか、一瞬私は現実に置いて行かれた。触覚がひどく揺らいでいる。

――ユキに腹を刺された。

その景色は、視界に入れて初めて現実となる。

 

「ぁ……ぁ……」

 

頭が働かない。動けない私に対して、目の前の現状は刻一刻と動き出している。刺さっていたのは包丁だった。かなり深く刺さっているようで、服のしわで刃元すら隠れてしまっている。

痛みは全くないが、異物感はあった。刺された個所から徐々に血が滲んでいく。

――私、死ぬのかな。

 

『お姉ちゃん』

 

――ユキ、ユキ。

覚悟した瞬間、脳裏に浮かんだのは、やはりユキの姿だった。

私がいなくなったら、ユキは生きていけるのだろうか。どこかで一人で泣いていないだろうか。

そんな後悔が反響する。

ユキには、ずっと笑顔でいてほしいのに。

 

「ユキ……」

 

ただ心配で、私はユキを見た。酷く悲しい顔をしていた。

――あぁ、嫌だな。ユキ、そんな顔しちゃ……だめだよ。

ユキは何も言うことなく、ゆっくりと包丁を私の腹から離していく。脱力感が襲って来て、抜かれた瞬間に私はその場にへたり込んだ。

腹部を刺されたからといって、すぐに死ぬわけじゃない。頭ではそう理解しているはずなのだが、裂傷から溢れ出る大量の血液に、死の感覚は拭えなかった。

 

「お姉ちゃん!」

 

ユキの声がする。私の前に座り込んで、血の付いた包丁の峰を手に、その柄をこちらに差し出した。

それは、終焉の要求。

――ああ、そういうことか。

 

「お願い、お姉ちゃん……!」

 

その懇願に、今までのユキの態度、全ての違和感が霧散した。

――ユキも、私と同じなんだね。

ユキは”私と”永遠になりたかった。そして私のお粗末な自己韜晦を見破り、その思惑を悟ったのだ。

 

「早く!」

 

急かす声に従って、私はユキから包丁を受け取る。触覚が蘇り、痛みが私の脳を刺激した。しかしこれで最期の仕事だと考えると、腕の感覚だけはやけに冴えた。

 

「刺すのは左側……こっちだからね」

 

震える手で、ユキが自分の腹を指さした。

 

「思いっきり刺して。深く入らないと出血しないから……」

「ユキ、刺すよ……」

 

無理矢理冴え渡らせた感覚が、いつ終わるかわからない。ユキの言葉を咀嚼しつつ、私もまた彼を急かすように告げる。

 

「うん。お願い」

 

そう言って、ユキは服を捲った。白い肌が見える。

――綺麗だな。

そんなユキの腹に、思いっきり包丁を突き刺す。皮膚の壁に動きが止まったが、一瞬で貫いた。

 

「あうっ……!」

 

ユキが呻く。私は勢いを失くさず、包丁を柄の方まで深く潜り込ませた。刃のほとんどがユキの体内に隠れた後、硬い感覚がして手が止まる。背骨に当たったのかもしれない。

 

「お、姉ちゃん……ぁ、ぬ、抜い、て……」

 

言われた通り、包丁を引き抜こうとする。ただ、筋肉の収縮で上手く抜けない。

 

「ユキ、力入れちゃダメ……」

「無理、言わな、いで……!」

 

そう言いつつ、ユキは私の肩に手を置いて体勢を直し始める。一瞬だけ力が抜けた感じがして、その隙に腕を引くと、包丁は抵抗なく動き始めた。

 

「ぃ、ぎ――う、ぅぅ……」

 

復路の最中に裂傷が広がる。

完全に引き抜くと、私の時と同じように傷口から血が流れ始めた。

 

「う……ぁ……た、たぶん、これ、くらいなら……」

 

流れる血を見ながらユキが呟いた。すでに、ズボンの方まで滲んでいる。

――たぶんこれくらい血が流れれば。

確実に出血多量で死ぬ。ユキはおそらくそう言いたかったのだろう。

私は死を自覚してユキの姿を思い馳せた。

ならば、ユキは私を想ってくれただろうか。

 

「はぁ……はぁ……お姉ちゃん」

 

息を切らしながらユキが呼んでくる。見ると、彼は泣いていた。

私はその姿に、ただ両手を差し出した。

 

「ユキ、おいで」

 

半ば倒れ込むようにユキが抱き着いてくる。背中の先で、嗚咽が聞こえ始めた。

 

「ダメ、泣かないで……」

「でも、お姉ちゃん……これで、良かったのかな。僕、間違ってなかった……?」

 

その答えはきっと、走馬灯の代わりに流れた脳裏の映像が証明している。

この結末が間違っていたというなら、きっと、それは私の責任でもあるのだろう。

過去と今の私が、ユキをそうさせたのだ。

だからその間違いは、二人に共有されるはず。

そして、今ここには二人だけの世界しかないのだ。

だから、と私は結論を見出す。

その世界にとっては、この選択も間違いじゃない。

 

「大丈夫。ユキは間違ってなんかない……」

 

きっとユキにとって、私との別れは過去のものではなかった。あの時からユキは誰かを信用することを忌避していた。

でも――。

『お願い、お姉ちゃん……!』

きっとあの時。

ユキは初めて、私を心から信用したのかもしれない。

しかし一度裏切った私に、それは未来への確証を決定付けることは出来なかった。

だから、保存した。

今を。

永遠に。

 

「私たちは、永遠になれるよ」

 

雑居ビルがひしめく大都市に降る、あの白い雨のように。

宇宙の果てまで続く、眩しい晴天のように。

あの頃の記憶を背負ったまま、心まで社会に汚される前に。終末の希望に照らされて。

 

「よかった……。僕、今になってやっと、前が見える……」

 

それは、背ける未来の現実がないから。不確定な可能性が潰えたから。

私たちにとっては、今が永遠のことだから。

そして今だけは、私たちは祝福の残滓を受け取ることができる。

 

「ユキ、キスしてあげる」

 

私は肩に収まるユキの顔を離して、そっと頬に両手を添えた。ふらつく上体をなんとか立たせて、ユキの清純で綺麗な顔を見据える。

 

「かわいいユキ。私のユキ。たった一人の、好きな人。あなたの過去も未来も、ぜんぶ私のもの」

「うん。お姉ちゃんも、僕のだからね」

 

そう言って、ユキはいじらしく笑った。「当たり前でしょ」と告げて、その唇に私の口をそっと押し付ける。

――あったかいな。

冷めた肉体に、少しだけ温度が戻った。

感情を交換してしばらく。私は唇を離した。ユキの恍惚と気恥ずかしさを含んだ表情を見て、法悦が鳥肌を誘発する。

――きっとあの頃も、こんな感じで。

 

「何回しても照れるの。恥ずかしい……」

「うん。でも、これで最後だよ」

「……うん」

 

その肯定は、酷く寂しそうで。そんなユキの顔を見たくはなくて。

だから私はすぐに、もう一度キスをした。ユキの喉から鳴る嬌声が耳をくすぐる。顔を離すと、ユキは肩で息をし始めた。

 

「あ……最後、終わっちゃった」

「大丈夫だよ。ずっと一緒だから」

「そういえば、そうだった」

 

ふふ、とユキが微笑む。私もつられて笑った。

 

「わっ」

 

次の瞬間、ユキが私の方へ倒れ込んだ。支えられなくて、二人とも砂浜に倒れた。横並びになって、顔を突き合わせる。

 

「ごめん、お姉ちゃん」

「ううん、いいよ。私も――」

 

意識が朦朧とする。

 

「私も、もう……無理、かも……」

「お姉ちゃん、手、握って」

 

視界が淀んで、私は触覚だけでユキの手を掴んだ。冷たい。そしてそれはきっと私も。

体温が外気と同化している。

 

「ねぇ、どっちかが最初になるの、嫌だ」

「じゃあ、おやすみって言ったら、もう黙ろっか?」

「うん。そうする」

 

漣の音も聞こえ無くなって、ユキの声だけが意識を揺らしていた。

 

「……ユキ」

「ん?」

「大好き」

「ふふっ。僕もお姉ちゃん大好き」

 

今、世界には私とユキだけが存在している。

 

「ユキ」

「なに?」

 

時間が停止した。

二人だけの世界の檻。消えかかる意識の端っこに――、

 

「……おやすみ」

「……うん、おやすみ」

 

夜が聞こえる。

 




【登場人物情報開示】

<如月ユキ>
性別:男
身長:一四六cm(中学三年~高校一年)、一五三cm(大学三年)
体重:三五kg(中学三年~高校一年)、四〇kg(大学三年)

見た目:
幼少期から女子と見紛うような綺麗な見た目をしていた。ただ普遍的な成長による男性化にすら抗ったのは姉のナツキやミオによる影響が大きい。
彼女たちはユキが”かわいらしい見た目”であることを強く望み、それをユキも無意識に感じ取って体の成長を拒んでいた。それは二人がユキから離れた後でも作用し、二十一歳になっても時間が止まったように幼いままの見た目を維持していた。

性格:
内向寄りの内向。元来の人見知り。
幼少期は家庭での時間を全て姉であるナツキと過ごしていたので、それ以外の外界の情報を取り入れることがなく、それが学校内での周囲との隔絶に繋がった。
またその学校での疎外感がナツキへの依存に繋がり、負のサイクルを築いていた。
基本ペシミスト。世界の見え方は「僕は悪い人。でもみんなも悪い人」というもの。当然実際はそんなことはなく、自分をいじめたり、疎外感を覚えさせたりした人間にもある程度の”優しさ”があることも理解している。しかしそれでは自分の”悲しい”人生にそれを歩ませただけの理由がなくなってしまうことになるので、そんな他人の優しさすら飲み込んで「みんな悪い人」という考えをするに至った。

来歴:
【小学校】
この時から周囲との隔絶を肌で感じる。生活のほとんどに置いてナツキに依存しきっていて、彼女がいないと何もできない状態になっていた。
【中学校】
部活には所属せず、クラスメイトとの疎外感に抗うこともなく、勉強する以外の時間はほとんどを小説や漫画の世界に浸ることに費やしていた。
一応ユキは見た目が良いので、気遣ったりする同級生もいたが、他人に関心を持たないようにしていたユキには何の効果もなかった。
【ミオとの邂逅】
ミオと出会ったことで心の空洞は埋められたが、これはナツキに依存していた時とほとんど同じで、ユキの根本的な精神的成長には全く繋がらなかった。
勉強、読書の二つに”ミオと遊ぶ時間”が追加される。
【高校生】
基本的にナツキがいなくなった時と同じ行動をする。ただ変に知識が付いたことで、未来の人生をユキは想起することになる。
中学の時と同じく部活には所属していない。
【大学生】
奨学金や授業料免除のためにまじめに勉強する。母親の元を離れたことで自由が生まれ、物書きや絵描き、音楽の趣味を一気にし始める。
勉強、バイト、趣味のサイクルをせわしなく回すことでナツキやミオのことを忘れようとしていた。しかし心の底に残る泥濘を掃除できることもなく、ユキは徐々に心をすり減らしていった。
見た目や成績が良く、趣味にただ没頭する姿も周囲から見たら高潔でかっこいいものに見えたので、告白されたこともあったが、相手は悉くそんなユキの”外側”しか見ておらず、ユキが少しでも内面(相手に依存し傾倒する側面)を見せた瞬間に冷め、ユキから離れることになった。
一応これも心をすり減らす要因となった。
【ミオとの再会】
ミオと違い、ユキには未来を生きるだけの糧(趣味)が十分にあったが、彼の眼前の現実はその未来を楽観視させるほどに綺麗に映ってはいなかった。
ただ、ミオより自殺への覚悟が決まっていたわけでもない。予定は立てていたが、実行できるかは五分五分だった。そんな中で、ミオの願望を察して一寸先の未来だけに希望を見出し、彼女との心中を半ば衝動的に選ぶ。

<如月ミオ>
性別:女
身長:一六四cm
体重:五〇kg

年齢:
ユキの七つ上。ナツキと同じ。

見た目:
とても良い。モテる。

性格:
外向寄りの内向。
大学生になるまで周囲との温度差をあまり感じずに過ごしてきた結果、明朗な女性に育つ。
しかし、大学生の時の友達に言われた何気ない一言によってその溌溂さは崩壊。就活失敗によって心が折れることになり、明るい性格は鳴りを潜めていった。

来歴:
【小学校中学校】
親の教育によって割と何不自由なく過ごす。勉強も運動もそつなくこなし、そんなミオに憧れる男子は多かった。しかしミオ自身がそこまで恋愛に興味を持っていたなかったので、告白されても軽く流していた。人間関係に関しては波風が立たないようにうまく切り抜けていた。
中学の部活はバレー部。
【高校生】
ナツキと出会う。高校は別だったが、親戚で家が近かったこともあり、割と一緒に遊んでいた。ただナツキはユキの世話、ミオは勉強は部活に時間を割いていたので頻度はそこまで多くはない。
ナツキとの会話でユキの存在を知る。ミオは気になって会いたがったが、ユキを独占したいナツキはそれを許さなかった。
高校二年生の時に将来の結婚相手となる男と付き合うことになる。彼とうまくいかなかったのは二人に特段問題があったわけではなく、ただミオの性癖に合わなかったというだけ。
部活は引き続きバレー部。
【大学生】
友達の一言でミオの中の”普通”が瓦解する。明確な答えを持ち、努力すれば割としっかり結果が現れる勉学に対してはそれほど悪影響は出なかったが、就活に関してはこの事件が大きく響き、一度の失敗で彼女の内心、大きな自信を失うことになる。
【ユキとの邂逅】
ミオがユキに惹かれたのは、同じ社会との疎外感を所有していたからということのほかに、単純にかわいいものが好きだったというものがあった。
その癖が、ナツキとの交流で年上に対する破壊力を抜群に兼ね備えていたユキの態度でエスカレートしていき、ついに爆発。過去にナツキが行ったように、ミオもユキに手を出すことになる。
ナツキがユキを隠したがったのは、そんなミオの癖を察知していたからである。
【結婚】
ユキと一緒に自分の心にすら別れを告げ、両親の言われた通りに結婚まで受け入れる。
しかし、相手と近付いていくにつれて自分の中の本能が彼を拒絶していることを感じ取る。
意思すら捨て、生きるために生きることを選んだミオだったが、それすらできないことを理解し、そして一人で生きるには「自分個人には何もない」ことも気付き、ならば、と自分という存在を終わらせることに決める。

<ユキとミオの結末>
自分に偽りの現実を見せて、遠ざけようとするミオの真意をユキは感じ取った。
ユキはミオと再会したあと一人で死ぬことに決めていたのだが、それはミオも同じだった。
ユキはそれに気付いて、その現象と感覚の共有を保存するために心中を選んだ。
二人で生きていく、という選択肢は、現実の大きさと汚さを知っている二人には選べなかった。
ユキにとっては、人間は生きている以上裏切る存在で、それはミオも同じ。だからそんな未来の可能性すら否定し、今を固定するために殺さざるを得なかった。
ミオはユキほど未来を悲観してはいないが、ユキをそういう性格にまで仕立て上げたのはナツキや自分自身でもあるので、彼の我儘を受容した。

<如月ナツキ>
性別:女
身長:一五九cm
体重:四八kg
(どちらも死亡直前、一八歳程度)

年齢:
ユキの七つ上。ミオと同じ。

見た目:
ミオに似ている。肌が異常に白い。

性格:
内向。ユキと同じく外界からの情報を取り込んでいなかったので、周囲からは浮いていた。その孤独感を払拭するかのように、ユキが生まれた瞬間から彼の面倒を見続けた。それがいつかユキに対する独占欲に繋がり、ナツキはある程度の計画性を持ってユキを依存させていった。

来歴:
ナツキの原初の記憶は、仲睦まじく会話をする両親の姿だった。
実は両親はナツキが生まれてから数年は割と平穏を漂わせていたのだが、あることがきっかけでその空気が崩壊することになる。
ナツキ自身は幸せだった過去の記憶を反芻することで自我を保ち、ユキが生まれてからは彼を家族以上の存在に仕立て上げることで自分の心を満たしていった。
一八歳の時に心臓に異常が見つかる。彼女の心残りはユキだけで、一人で取り残されるであろうユキを想い、悲しい思いをしないように不本意ながらもミオにユキについての遺書を残す選択をした。

<如月アキラ>
性別:男

性格:
優柔不断。優しいがそれ故に何かを捨てられないという欠点を持つ。
妻であるサエコをヒステリックに仕立て上げた張本人である。
原因は浮気。もともと独占欲の強いサエコにアキラは最初こそ満足していたが段々と辟易、憔悴していき、その悩み相談をしていた知己とついには一線を越えてしまった。
浮気がバレたのは、アキラが正直に話したから。
ある意味ユキとナツキを地獄に落とした元凶と言えるかもしれない。
ただ元来優しいので、離婚した後も何かとナツキやユキの世話をしていた。特にユキに関しては不本意な子供であったため気後れしていたが、それでも大学生だった彼の生活費を出したりなど、まだ心を失ってはいなかった。

<如月(旧姓:月花)サエコ>
性別:女

性格:
ヤンデレかつメンヘラ。元々そうだったが、アキラの浮気がきっかけでヒステリーにまで発展する。
ナツキやユキの依存性は彼女から継承されたものだと考えられる。
性格に難ありだがナツキとユキに愛情がないわけではなく、特にユキに関しては自分の我儘で無理矢理生んでしまったということもあり、悔悟の念を抱いている。
ユキに金銭的な援助を惜しまず、精神崩壊手前まで行きつつも体を売ってまで金を稼いでいたり、ユキが自分の元を離れることに関しても甘んじて受け入れていたりことからも一定の愛情は伺える。
とはいえアキラの一件に関わらず、彼女の性分では結婚や出産は向いていなかったと言えよう。

<ミオの両親>
作中でも語られている通り、平々凡々な来歴を持つ両人だが、学歴や晩婚にある程度のコンプレックスを抱えていた。また、母方の親の介護をしなければいけなくなった環境もあり、家庭は中々に拗れる。苗字からも分かる通り、婿入りである。
気遣いという大義名分でミオに強要していた”普通”の裏には「学歴などのコンプレックスを彼女に昇華させたい」とか「早く結婚して祖父母の介護を手伝ってほしい」という勝手な思惑もあった。

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