かつて、この国には王がいた。
王侯貴族が富と権力を独占し、生まれによって人の一生が決まる時代があった。貧しい者は貧しいまま、学ぶことも、病を治すこともままならず、ただ日々を生き延びることに精いっぱいだった。
しかし、革命が起きた。
王は倒れ、王国は滅び、アガド共和国が誕生した。
それから二十年。
共和国は豊かになった。
学校が建ち、病院が建ち、鉄道が敷かれ、工場の煙突が空高くそびえるようになった。かつて読み書きすらできなかった農民の子供たちは、今では大学へ進み、技師となり、医師となり、官僚となった。
生まれではなく、能力によって人を選ぶ。
努力した者には、それにふさわしい報酬を。
それが、この国の掲げる理想だった。
そして、その繁栄を支える四つの巨大財閥があった。
重工業と鉄鋼のランピード。
化学と製薬のウェルス。
教育と医療福祉のコビンスキー。
金融と運輸のヨセフ。
四体の巨人は共和国を支え、その巨大な影の下で、二千万の国民が暮らしていた。
人々は学び、働き、競い合った。
昨日より豊かに。今日より立派に。明日はもっと高いところへ。
競争に勝った者は称賛され、敗れた者には、もう一度努力することが求められた。
それは、かつての王国よりも、はるかに公平な社会だった。
だが、誰もが偉くなりたいわけではない。
誰もが競争に勝ちたいわけでもない。
朝になれば畑を耕し、夕暮れには家族と食卓を囲む。ただそれだけの人生を望む者もいる。
サラ・コビンスキー。
共和国の教育制度を築いたリア・コビンスキーの娘にして、四大財閥の一角を担う名門の令嬢。
何不自由なく育ち、最高の教育を与えられ、誰よりも恵まれた未来を約束された娘。
そんな彼女が望んだものは、富でも、名誉でも、権力でもなかった。
ただ、静かに暮らしたかった。
だから彼女は逃げ出した。
大学から、家族から、そして自分に与えられた未来から。
たどり着いたのは、共和国の辺境にある小さな農村だった。
そこには試験もなければ、成績表もない。
あるのは畑と、粗末な家と、親切な農夫の親子だけ。
サラは思った。
ここでなら、私は私のままで生きていけるのではないか。
しかし、彼女はまだ知らなかった。
四体の巨人の影は、共和国の果てにまで届いていることを。
そして、自分自身もまた、その巨人の血を引く娘であることを。
これは、偉くなりたくなかった一人の娘が、やがて多くの人々の人生を背負うことになる物語である。
「大徳さん、今日の食事はどうでした?」
「ああ、とてもおいしかったよ。なあ、母さん」
「そうだねぇ。サラがうちに来てくれてよかったよ。わたしはもう寝るよ。お休み」
「ああ、母さん。お休み」
小さな農村。サラは貧しい農家の親子のもとに厄介になっていた。貧しいが穏やかな日々。
「なあ、サラ。そろそろ君の身の上を教えてくれないか?」
大柄な男が穏やかに聞いた。名は大徳。貧しい農村で年老いた母と二人で暮らしている。そんなところにサラが転がり込んだのは二年前だった。
「そうね、ここに来て二年になる。もう話してもいいかな」
「もしかしてつらい話か? なら無理には聞かないよ」
「いや、話したいから話すの。この共和国は四大財閥が支配してる。重工業と鉄鋼を支配するランピード財閥、化学産業と製薬をつかさどるウェルス財閥、教育と医療福祉を一から築いたコビンスキー財閥、そして金融と運輸から国を支えるヨセフ財閥」
「ああ、四大財閥だな。実力次第で上に上がれる。俺も昔、登用試験に挑戦したんだよ。ランピード財閥に。でもダメだった。親友は受かって俺はダメ。今やあいつは中央勤務さ」
食後に会話が弾む二人。
「そのコビンスキー財閥の頭取、リア・コビンスキーと、ヨセフ財閥の頭取、ヨセフ・コビンスキーは夫婦なんです。その二人には二人の子供がいた。長男カンナ。優秀が服を着て歩いているような人です。父の期待に応えようと勉学に励み、海軍士官としてキャリアを積み、ランピード財閥のトップまで上り詰めた」
「ああ、知ってるよ。三十歳ですごいよな。かなりのやり手だとか」
「そして不真面目で出来が悪い妹。勉強、仕事、嫌なことから逃げ回り、家から金を持ち出して逃げてきた馬鹿な妹。サラ・コビンスキー。それが私です」
「ハハ! そいつは傑作だ。確かに十年分の生活費をここにポンと置いたときは驚いたが、そんなわけがあったとは。ならサラ、本当のことを話してくれないか? 一体あのお金はどこから? おそらくどこかの農協の積立金だろ? まだお金には手を付けていない。一緒に返そう?」
「本当のことなら話しました!! やっぱり信じてくれなかった。みんな私の敵なのね」
「そんなことは言ってないだろ?」
「おやすみなさい」
ぷりぷりと怒りながら、サラは自分の部屋に戻ってしまった。
「やれやれ、年頃の女の子は難しいな」
そうつぶやくと、大徳は蒸留酒をあおり、座ったままうとうとと眠ってしまう。
翌朝、小さな寒村に似つかわしくない物々しい連中が、突如として現れたのだ。
「大徳、おい大徳、大変だ。共和国軍だ、共和国軍が来たぞ。令状片手に家々をガサ入れしてる。お前、何したんだ?」
顔を真っ青にした隣の敬三が駆け込んで、そう言った。
「なに? 俺は何もしとらん……」
「おはよう、善良なる市民よ。この少女をご存じか? 名前はサラ、姓はコビンスキー。褐色の肌に黒い髪。政府の要人だ。些細なことでもいい。教えてくれないか?」
玄関先に立っていたのは、共和国警察の特務部隊に所属する刑事だった。寒村の広場には、いつの間にか真っ黒い装甲車の車列がずらりと並んでいた。
「いや、そんな子はここには……」
「うちにいます!!」
年老いた母がそう叫ぶ。
「母さん」
「おお、ご婦人。麗しの令嬢はどこです?」
「二階の寝室です」
「ご協力どうも。これはほんの気持ちです。おい」
大柄な男がアタッシュケースを手渡した。中には金塊が。それはこの家族が中央で遊んで暮らすには十分な額だった。
「これでよかったんだよ。あの子のためにも」
老婆は悲しみに顔をゆがめながら、そうつぶやく。
「いや、嫌よ!! あそこに戻るなんて」
引きずられていくサラは、ふと大徳と目が合った。
「大徳さん!! 助けて。私!! あなたのこと!!」
「お嬢様。わがままはここまでです。荷物みたいに抱えられたいですか?」
そうたしなめられ、サラは装甲車に押し込められた。
「よお、二年ぶりだな」
そこには、糊のきいたスーツに身を包んだカンナが、足を組んで新聞に目を通していた。その目は虎のように鋭い。オールバックの髪に銀縁の眼鏡がトレードマークの、おっかない兄貴だ。
「こんなやり方しかできないの?」
サラは兄貴に悪態をつく。
「二年間の休暇はおしまい。お前には修道院に入ってもらう」
「修道院、あそこは、嫌、嫌だよ」
「おい、おい。修道院はこの国を支える教育機関だぞ? 何も尼さんになれって言ってるんじゃない」
「知ってる。修道院、共和国教育委員会を母さんは『修道院』って呼んでるんでしょ? 教師にでもなれと?」
「その通りだ。教師になって子供たちの面倒を見れば、大人としての分別もつくだろう」
やがて景色がのどかな田園風景から、鉛色に変化する。ビルが立ち並び、自動車が行き交い、煤煙が空を覆う。
「おお、タイタスが見えてきた。麗しの我らの首都」
アガド共和国の首都タイタス。この国は四大財閥という四体の巨人が支えている。首都タイタスはその巨人の足元にある。巨人の影が差すその場所は、今日もどこか薄暗く、空気は重く、よどんでいる。
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