ヒカルがもしも碁をやめたままだったら   作:カトタンバ

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最終話 二度目の旅立ち

 

 光陰矢の如しとはよく言ったもの。

 

 進藤ヒカルはあれからプロ試験を本戦の最後の一局まで勝ち抜き、無事に棋士として再起を果たした。

 そして藤崎あかりは、大学入試センター試験を終えて第一志望校の入試を受けるための勉強に取り組んでいる。

 

「今頃ヒカルはもう塔矢くんと打ってるのかなぁ」

 

 休憩時間のちょっとした呟き。

 ぼんやりと窓の外を眺めながらの一言……特に何かを意識することもなく自然と口を衝いて出たその一言は、彼女の意識を幼馴染の青年へと向ける。

 再び碁を始めて生き生きとしている彼の姿は、あかりには眩しすぎた。

 

「私も頑張らなきゃ…」

 

 働きながらプロをもう一度目指すことにした明日美さんだってヒカルに負けず劣らず頑張ってるはずだもん!

 

 決意を再び固めたあかりは、陽の光が明るく差し込む窓に向けていた視線を参考書に移す。

 

 

 

 暖かな日差しが寒空に少しばかりの彩りを添えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それじゃ、お二人ちょっと会話してみてください」

 

 日本棋院記者の古瀬村に促されて、横並びに立っていた二人が向き合う。

 

「うーん……そんなこと言われてもなぁ」

 

「この場で今更キミと何を話せばいいのやら…」

 

 両者は困ったように顔を見合わせる。

 

「ちょっと塔矢名人、何かこう……もう少しあるでしょ?ほら」

 

 古瀬村は呆れたように塔矢名人、もとい塔矢アキラに言葉を投げかける。

 昨年の名人戦の七番勝負にて畑中名人相手に初戦から四連勝を飾って一昨年のリベンジを果たすと共に、史上最年少で新名人となったアキラ。

 これからは「塔矢名人」と言われて、塔矢行洋ではなく塔矢アキラを思い浮かべる者も増えていくことだろう。

 

「そうですね…」

 

 しかし、そんな名人も今は年相応な顔を見せていた。頬をかきながら、何とか言葉を絞り出す。

 

「合格おめでとう、進藤。キミなら全勝出来ると信じていたよ」

 

 ぎこちないながらも褒め言葉を口にした。

 

「あ、ああ。ありがと…」

 

 ヒカルもおずおずと返事をする。

 

「うーん、なんか固いんだよなぁ」

 

 古瀬村は何か会話を盛り上げる材料が無いかと思案し、何気無く話題を振る。

 

「確か塔矢名人がプロ試験を受けた時も全勝だったんですよね?」

 

「いえ、ボクなら違いますよ。一度不戦敗してますから」

 

 アキラは事も無げに訂正する。

 だが、そこで彼を指差して声を張り上げる者がいた。

 

「そういやお前プロ試験の時に一回負けてんじゃん」

 

 得意気な笑みを浮かべたヒカルだった。

 

「だからあれは不戦敗だと…」

 

「それでも負けは負けだろ?オレなんか全勝しちゃったもんね〜」

 

 しかし、ここで黙るアキラではない。

 

「キミ一度目のプロ試験はどうだった?」

 

「うぐっ……三敗だった」

 

「そうだろう?ボクはキミと違って一度しかプロ試験を受けてないんだから、一度目同士で比べるのが筋じゃないか」

 

 アキラは意地の悪い笑顔で毒を吐く。

 

「くっそー!今日はお前なんかぶっ潰してやるからな!!」

 

「全力で返り討ちにしてやるとも!」

 

 

 

 そんなヒカルとアキラのやりとりを見て古瀬村は目を丸くする。

 あの塔矢名人にどこにでもいる十代の若者のような顔をさせる、この出戻り初段───進藤ヒカルは何者なのかと。

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 

 観戦室にはお馴染みのメンバーが集まっていた。

 

「確かに今の進藤は、何年も碁から遠ざかってただなんて信じられないほどの強さだけどよ…それでも塔矢には一捻りされるのがオチだろ」

 

 本田は顔をしかめる。

 

「逆コミがあるくらいじゃ勝負にはならねえよな。置き石が3つかせめて2つは無きゃキツいだろ」

 

 和谷も同意を述べた。

 進藤が戻ってきてから一段と腕を上げた塔矢アキラは既に五冠時代の父親とどちらが強いかと並び語られるほどの実力者。まかり間違っても逆コミ程度のハンデで初段が敵うような相手ではない。

 

「まあ伊角さんの時みたいには行かないだろうねぇ」

 

 越智としても進藤が塔矢に勝つどころか善戦出来るとも思っていない。

 伊角が新初段シリーズで桑原本因坊を下した時のような大金星はおそらく無いだろう。塔矢が最初から本気で打つのならばなおのこと。

 

 その伊角は今日は来ていない。

 棋聖リーグ入りを果たしてからの彼は忙しく、休みもろくに取れないようだった。しかし、この調子なら挑戦者にまで登りつめて倉田棋聖に挑む日もそう遠くは無いかもしれない。

 

「そういえば岡くんと庄司くんはまだなのかな。ちょっと遅いよね」

 

 こんな時でもマイペースに後輩の心配をするのはフクこと福井雄太。あの二人は、今まで年上に可愛がられるばかりだった自分が初めて親身に世話をした後輩だ。

 度重なる努力と苦悩の末、伊角と本田の次の年にようやくプロになれた彼は大人びた顔つきで時計を眺める。

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 

 パシャッ…

 

 カメラの位置調整の試写で発せられた唐突なフラッシュにヒカルはビクッと肩を震わせる。

 

 

 ……二度目だけどやっぱりここの空気は慣れねえな。

 

 

 間違いない。ここ、幽玄の間には魔物が住んでいる。

 

 今ヒカルの口の中は粘度を増した唾液で粘つき、手もジットリと汗ばんでいた。

 それでも目から輝きは失われておらず、先に対岸に座っていたアキラと睨み合っている。

 

 二人の間に流れる空気を感じ取った記録係は二人の間に飛び散る火花を幻視して固唾を飲む。

 だが、それは記録係だけではなかった。高段者でありベテランとして場数も踏んでいる立会人も、眼鏡を外して目をしばたたかせる。それほどまでに二人は如何とも形容しがたい空気を醸し出していた。

 睨み合いと呼ぶべき視線の交錯も実際には五秒にも満たないものだったが、当事者以外の者達からは五分にも十分にも感じられる。

 

 

 

 さながらトッププロ同士の真剣勝負のような激戦が今始まろうとしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

「おい庄司!遅れたのはお前のせいだぞ!」

 

「ごめん、ごめん!何とかギリ間に合いそうなんだからそんな怒るなよ岡…」

 

 観戦室にも二人の新初段が現れた。

 

「やあ岡くん、庄司くん。相変わらず仲良さそうだね」

 

 呑気に笑いかけるフクに二人は口を揃えて反発する。

 

「「別に仲良くなんか無いですって!!」」

 

 彼らは院生順位が一位で無かったため夏季試験ではプロになれなかったものの、冬季試験で見事に一位二位の座を勝ち取りプロになった者達である。

 そんな岡と庄司でも本戦終盤で圧倒的な大敗を喫したのが進藤ヒカルだった。だからこそ彼らは思う。

 

「今日の一局はどっちが勝つんだろ?」

 

「うん、どっちが勝ってもおかしくない」

 

 普段何かといがみ合う二人でもこの時ばかりは意見が一致していた。

 それを笑い飛ばす者達もいたが。

 

「おいおい、進藤が勝つかもってか?」

 

「あいつは俺達にもまだ一度も勝てたことないんだぜ?」

 

「まあ誰か一人か二人は進藤勝利の可能性を信じてあげないとね。ボクは100%塔矢が勝つと思ってるけど」

 

 和谷、本田、越智は幼い新初段達に現実を教えてやる。決して進藤を馬鹿にしているわけでなく、塔矢との間に純然たる力の差があることは言っておかなければならない。

 

 

 

「そうかな?僕も進藤くんが勝つかもしれないと思ってるよ」

 

 

 

 と、ここでヒカルの番狂わせを信じる者がもう一人。

 

「…フク?」

 

 怪訝な顔で振り返る和谷を尻目に進藤ヒカルの第一手が打たれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 

 右上スミ小目、やはりそう来たか。

 これは本因坊秀策の…いや、佐為さんの十八番。ならば進藤が打ってきてもおかしくはない。

 

 

 アキラは思い出していた。対局前のインタビューであの後ヒカルが語ったことを。

 

 

『……この世界に戻ってきてから、オレの打つ碁には仲間達への感謝も入っています。おかげでちょっと持つ石が重く感じるような気もするけど。でも、悪くはない感じです』 

 

 彼にしては珍しく殊勝な言葉だった。

 

『もちろんそんなにいい感情ばかりが碁に詰まってるわけじゃありません……後悔だってありますし、このまま碁を続けていけば時には恨みが加わるかもしれない。あまりにも重たくなって、石が握れなくような日だって来るかも。でも、それを跳ね除けられるくらい強くなりたいです!』

 

 

 “仲間“には佐為さんも間違いなく含まれているのだろう。

 この一手目はその表明に違いない。佐為さんの教えを十全に受け入れつつ、佐為さんへの子供染みた依存から脱するための新たな一歩。

 思えば、今までの進藤とボクの対局はほとんどが実質的に佐為さんの手で打たれた物。囲碁部の大会の一局すら前半に打っていたのは佐為さんだ。

 本当の意味でのボクらの初対局は、今この時なんだ!

 

 

 

……パチッ

 

 

 

 オレは背筋を伸ばした。緊張からではなくこいつの前ではしゃきっとせねばと思ったからだった。

 

 

 手が進むにつれ、逆コミのリード分は消えていく。しかし、ヒカルは焦ることなくアキラの白石を攻め立てる。

 今は右上スミから上辺で打ち合っているが、アキラは右辺と繋げたいはず。だが、さっきの一手が邪魔していて、上手く繋げない状況。

 そしてヒカルの黒石は上辺の争いで有利なだけではなく、アキラの右辺に割って入る時に絶妙に効いている。

 

 

 

 このヒカルの思わぬ奮闘をモニター越しに見守る観戦室では驚きと歓喜の声が挙がっていた。

 更に思い出したように再び巻き起こるフラッシュとシャッター音の嵐。

 シャッター音の嵐を押しのけ、まるで散らした火花が爆ぜたかのように碁石を打つ音が幽玄の間に響く。

 

 

 

 とはいえ、大人しくやられるアキラではない。

 彼の下辺への打ち込みを契機に盤上では新たな戦いが始まった。

 そこから中央のヒカルの黒石が逃げ出し、その攻防は、やがて中央の模様全体を巻き込んだものになっていた。

 

 やっぱ塔矢は強えーな……。ヒカルのこめかみを汗が伝う。

 

 アキラは冷徹にヒカルの黒地の大きいところに打ち下ろしてくる。

 そして、その三線に打ち込んだ緻密なアキラの一手は下辺を荒らすだけでなくシチョウ良しで、先程アキラが一度放棄したかに見えた右辺への連絡路を生み出していた。

 

 

 

パシィッ…パチッ

 

 

 

 互いに闘気では一歩も譲らず、熱戦は更なる盛況を見せる。

 

 そんな時、握りしめたヒカルの手の中にあったのは扇子だった。

 先程棋院の売店で購入した何の変哲も無い扇子。それでもヒカルにとっては重大な決意の証なのだ。

 

 

 

 あの時の喪失感はまだ心に残ったまま。

 そう簡単には忘れられない。忘れられる事なんて、多分ずっと無い。

 胸の痛みも自責の念も消える事なんてない。自ら消そうとも思ってはいない。

 それを背負いながら、前に向かうと決めた。

 

 佐為から託されたものを背負って、自分自身が選んだ道を進んで、神の一手を求めて、ひたすら歩む。

 

 

 

 

 

 いつか命尽きるその日まで、上を目指すんだ。───お前(キミ)と共に!

 

 ヒカルとアキラは碁を通して語り合う。

 

 

 

 

 

 如何なる名局も勝者は一人。

 果たして勝利の女神はどちらに微笑むのか。

 そして囲碁界はどのような未来へと歩むのか。

 

 

 

 

 

 

 その答えは神のみぞ知る。

 

 

 

 

 

 




以上で拙作は完結です。
今まで読んでくださった方々はありがとうございました。
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