───あの二人あれで付き合ってないの? 変なの。
誰かの囁く声が耳に入る。
まぁ無理もないな、と青嵐は心中で思う。
八雲青嵐と柚月風鈴はもともと付き合っていて、別れた。それは知ってる人は知ってることで、自分たちで「別に付き合ってない」と言ってるため、復縁したわけでもないことも知っている人は知っている話だ。
けれど、付き合っていた頃よりも距離感としてはおかしいという自覚もある。
具体的には、まず日傘。
夏の暑さが本格化してきた今日この頃ではあるが、暑さへの文句をぶつくさ言う割に未だに歩いて帰っている。
とはいえ直射日光に当てられると純粋に熱中症のリスクもあるため、最近は日傘とハンディ扇風機を持つことが定番化している。
のだが。
日傘は、1本。
つまりは俗に言う相合傘をしていて、何故そうなのかと言われると「2人とも傘を持つのめんどくさくない? どっちかが持てばいいじゃん」と風鈴が言ったから───、ひいてはそれに対して青嵐も否定をしなかったから。
「わたしさー」
「ん」
「パピコ食べるときって結構味付きのというか、定番のカフェオレ味じゃなくてマスカットとか桃を選びがちなんだけど、久しぶりに食べるとこれすごいおいしいね」
頬を緩ませながら、風鈴はパピコ(チョココーヒー)を齧っていた。
風鈴はカフェオレ味と評したが、珈琲風味のチョコレート味は、チョコレートの旨味と珈琲の香りが残る好ましい味わいだった。
彼女は右手にパピコを持って齧っていて、左手にはハンディ扇風機。そして頭上にはノーハンド日傘。
ノーハンドとはつまり、風鈴が日傘を手にしていないことを意味する。
つまり青嵐が差している日傘の下に彼女はいて、両手にアイスと扇風機を保持しているのは夏の帰り道の最適解と言うほかないだろう。
「まあパピコといえばこの味だよな。おれは家でよく家で食べてるから新鮮味はないが」
「そうなんだ。誰と分けてるの? 家族?」
「母親か妹だな。父親はあまり甘いものを食べない」
「あぁ、妹さんいるって言ってたね」
「うむ」
ふーん、と風鈴はパピコを齧りながら青嵐を見上げる。
「青嵐くんはうち来たことあるのにわたしは行ったことないの、不公平だよね」
「うちの妹見たいのか……?」
「そりゃ見たいでしょ!!」
「どういう熱量だよ……」
「わたしひとりっ子だからさー、やっぱ兄妹間の雰囲気とか憧れあるしー」
「そうなのか。確かにそれっぽいな」
「言ってなかったっけ?」
いつだったか、買い物に一緒に出掛けた際に青嵐に妹がいるという話はした。
けれど風鈴がひとりっ子であるという話は初耳である気がした。
「聞いたことはない……気がするが。でも実際、ひとりっ子、もしくは妹だと思ってた」
「どういうところが?」
「まぁわかりやすいところだとこういうところだろ」
青嵐は日傘を軽く揺らす。
「他人に甘えることが平気なところ。自由なところ。おれは血液型診断というものはあまり信じてないが、長男長女次男次女、あるいは末っ子───、家でどのポジションにいるかによる診断はある程度信憑性があると思ってる」
「あー」
風鈴は得心したようにうなずく。
「確かにそうかも! まぁ家庭によってはっていう例外はそりゃあるだろうけど、そういうのあるかもね~」
「長男長女はしっかりもの、みたいなな」
「で、わたしが妹に見えるんだ」
「他人のことをよく見てる節はよくあるが、だからと言って別に面倒見がいいかと言われるとそんなこともなく───……まぁそういう自立性があるところはひとりっ子の性質な気がする。自分がこうしたい、という『個』が強いのはひとりっ子という感じがしないか? で、しいていうならその自分を優先する雰囲気がどちらかというと妹の『甘え』にも通ずるところがあるなと思ったという話だな」
「おー……」
風鈴は感心して目を瞬かせる。
青嵐としても適当に思うままに口にしていただけで別に自信なんてものはなかったが、反応を見るに的外れというほどではないらしい。
「確かに好き勝手に生きてやろう! みたいなことは結構思ってるんだよね。人生一回だし。でもひとりっ子だからって言うのはどうなんだろうとは思うけど」
「そうでもないか?」
「一応そう思うようになった切っ掛け自体はあって、その前までは結構内に秘めるタイプだったかな。髪とか? この髪地毛って話したことあったっけ?」
「アルバム見せてもらっただろ、前」
「あぁそっか」
ジ、と風鈴の頭頂部を青嵐は見下ろす。
日本人としてはかなり色素の薄いほうだろう。亜麻色というには色濃いが、単に茶髪と評するには柔らかい色彩。
だから栗の色というのが一番似合うと彼は思っていて、透明感のある毛先、光の当たる角度によって変わる風合いはとても綺麗だった。
軽やかな風鈴に、よく似合う。
「まー、なんだろ。あれこれ周りに言われるのやだから黒染めするって言うのは自由人なひとりっ子とはちょっと違うのかな」
「言い出しといてなんだが、そこまでいくと流石に兄妹構成だけだと語れない人格面な気がするな。対教師、対ルールの話だと本人の反骨心の度合いによるだろ」
「それはそうかもねぇ」
なお、最近は青嵐も暑すぎることを理由に自転車には乗っていない。
頑なにお散歩をすることにこだわる風鈴に合わせていくらか歩いて、バスに乗って帰るのが最近の通例だった。
だからこそ最近は手が空いているため日傘が持てるのだが。
「それはそれとして、日傘というものは意外といいな。気に入った」
「あ、でしょ。夏の良さ感じるでしょ」
「暑いものは暑いが、今日はそこそこ風がある日だし、日陰にいる気分だ」
「ね。意外と気に入ってくれてよかったよ」
「夏の嫌なところが緩和されて、夏の良いところがよく見える」
「例えば?」
「まぁちょっと毛色違うが、木漏れ日が綺麗なのは夏だけだよな」
「あー、そっちね」
「なにかあるか?」
「わたしは空が好きだな。夏の雲が一番ボリュームがあって、立体感あって、うわぁ空だぁ~~って気分になるんだよ」
「あぁ……確かにな……」
「空が一番青いのも夏じゃない?」
「そうかもな」
実際のところ、空の青さに焦点を当てた場合、夏の空は青くない。
何故ならば夏は湿度が高く、水分が多い空気は光を散乱するからだ。冬の空は澄んでいる───、というが夏が終わってからのほうが空は澄んだ色になる。
けれど、そんなことは主観的には関係がなくて。
白い雲が大きく、空が広く、青くて、明るい。
夏空には夏空にしかない魅力があって、それが好きだと風鈴は語る。
「まぁ暑いのは嫌いなんだけどね。でも夏はやっぱり好きだなぁ」
「変わってる……とまでは言わないが、夏休みも外出るのか」
「! そうそうその話したかったんだよ! もう来週から夏休みじゃん?」
ぱぁ、と彼女は表情を明るくする。
彼と彼女が友達付き合いになってから、もうだいぶ月日が経っていた。とっくに梅雨が明けて、湿度が下がり猛暑が訪れている。
そして、猛暑を避けるための、夏休み。
約1か月の長期休暇。
学校中色めき立つそのイベントの話題にこれまでならなかったとは言わないが、これといって「だから何をする」というところまではあまり話してない。
なんなら、少しその話題は避けていた。
「なんか遊ぼうよ。夏祭りは必須でしょー? あ、で、妹ちゃん見たいな。妹ちゃんいる日家行っていい?」
「最悪なスケジュールを立てようとするな馬鹿」
「どうせ家ならなんかやりたいよね。夏休みの宿題でもやる? いいじゃん。そうしようよ。てなるなら宿題早めに終わらせたいし、休みの前半がいいよね」
「いいじゃんじゃないが」
「いいじゃん」
青嵐に休み中の『遊び』に少し抵抗がある理由。
それは別に大したことではないし、むしろ気にしてるのは本当にダサいと思うのだが、いかんせん人づきあいというのは本当にくだらない悩みが伴うものだ。
青嵐は少し悩みつつ、突っ込んでおかなければならない問題に突っ込む。
「その遊びのスケジュール……」
「うん?」
「何人だ?」
「……あは」
にや~~と風鈴が悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「どっちのほうがいいの?」
「どっちのほうがいいとかではなくてだな」
「ここは男らしく答えとこうよ」
「逆になんて答えてほしいんだ……」
「なんて言ってほしい?」
「怠すぎる。……いやまぁ普通に、友達をやってるだろ、最近」
「友達をやってるってなかなか言わないよね」
「でも事実だろ」
恋人をやろうと言った数か月。
友達からやり直そう、と言って早一か月。
関係性なんてものは、自分でどう定義するかによって変わる部分が絶対にある。相手をどう扱うか。同じ相手でも尊敬する相手として敬愛するか、気さくにふるまえる友人として扱うか、面倒を見るべき庇護対象としてみるかによって振る舞いは大きく変わるだろう。
同年代の女の子に対しても同じで。
性別を越えた異性の友人として扱うか。はたまた異性としてではなく同性と同列の存在として扱うか。あるいは気になる異性として、扱うか。
これは至極当たり前のことではあるが、彼らの間では非常に微妙なバランスがあった。
何故なら───、
「友達になったはずなのに前とやってることが変わらないし、なんなら拍車がかってる気がす
るんだよな……」
「あは。それは仕方ないじゃん?」
友人と恋人の境界が、彼らにとっては曖昧だから。
「そもそも、恋人とか友達ってカタチにあまり意味はないと思わない? そりゃ昔付き合ってる振りをしてほしいって言ったくらいだし、どういう振る舞いが恋人らしく見えるかっていうのも多少はわかってるけど」
風鈴はパピコを齧りながら、なんでもないことのように話す。
「でも“らしく見える”ことと、実際のそれって全然違うじゃない?
それに、今更青嵐くんとの付き合い方変えるのめんどくさいよ。
青嵐くんがわたしとキスとかハグとかしたいって言うならちょっと考えるけど、別にそうでもないなら相合傘の一つや二つしてても“友達”でよくない? って思う。
わたしと“友達”からやり直したいんでしょ?」
「ふうむ……」
友達からやり直したい、というのは彼自身が言ったことだった。
だけど友人関係というのは様々で、悪友と呼ばれるものもあれば戦友と呼ばれるものもあったり、親友も普通の友人とは毛色の違うものだろう。
とはいえ、なんとなく“友達”という言葉が強調されると、暗に告白はしてくるなよと言っているように感じる。
一番最初に会ったときも「男避けがほしい」みたいなことを言っていたわけで、そこは実際そうなのだろう。
青嵐はそう感じて、口を開く。
「じゃあやっぱり適当に誰か呼ぶか。我が家に来たいならそれもまた良しではあるが、妹に会えるかどうかはわからんぞ」
「妹ちゃんにも都合はあるもんねぇ」
風鈴は頷いて、
「二人で遊ばないの?」
一拍遅れて、よくわからない問いを投げてきた。
その言い方だと、彼女はどちらかと言うと二人きりを望んでいるようだった。しかしそれなら先ほどの牽制じみた発言はなんだったのか、と青嵐は目を瞬く。
「……さっきの『友達からやり直したいんでしょ』というのは釘刺してるんだろうなと思ったんだが」
「あぁ。あ〜〜……なるほどね?」
風鈴は虚を突かれたように目を丸くして驚いて、先ほどの自分の発言を振り返るように明後日の方向を見つめる。
「確かにそう聞こえ……るかも?」
「話の流れ的にもこれ以上踏み込んでくるなよということかと思った。間違っても勘違いして告白なんてしてくるなよ、みたいな」
「別に告白するのは個人の自由じゃない? ていうか、好きだって言ってもらえるのは嬉しいでしょ普通に。してもらえるならしてほしいよむしろ」
「意外だな」
「わたしのことなんだと思ってる?」
「男に声かけられるの嫌だから偽彼氏作る女」
「うーん正解! わたしの自業自得でした。反論する権利なかったみたい」
あはー、と風鈴は手をたたいて笑う。
「まぁそれはいいや。実際どうなの? そういうの抜きにして二人きりの方がいい? ねぇねぇ」
「うざすぎる」
青嵐は、はぁとため息を吐いて正直な感想を述べる。
「大人数のほうが面白いやつはともかく、別に二人で遊ぶことに否はない」
「じゃあ決まりね!」
ぱぁ、と顔を明るくする風鈴を見て、青嵐は気恥ずかしさを覚えた。
実際問題、嫌なら友達からやり直そうと青嵐が言ったあの日の時点で拒否されていただろうし、今の現状がある以上は気にしていないのだろう。変に気にして損した、と息を吐く。
「距離感バグ女に対して深読みしすぎたのが間違いだったか」
「わたし青嵐くんのこと好きだしね」
「それはよかった」
「うわサラっと流された」
「ねっとり返してほしかったのか?」
「…………うーん」
そういう意味ではないんだけど、と風鈴は唇をムムっと尖らせる。
「なんていうかこう……わたしからの愛が軽視されてる気はしてる」
「愛……?」
「あ、ほらそういうとこだよ。『好きか嫌いかでいうと好きなのかもしれないけど、それ以上でもそれ以下でもないだろうな』って思ってそうな絶妙な顔してるよ」
「表情豊かすぎだろ」
「あは」
風鈴は笑みをこぼした後、残りのパピコを吸い出していた。青嵐はとっくに食べ飲み終わったのでゴミを袋に突っ込んでいたのだが、彼女はちまちま口に運ぶ派であるらしい。
しかしそんな風鈴もそろそろ食べ終わったのか、パピコの先端を噛むように、ず……と吸っていた。
「ゴミ」
「ありがと〜」
コンビニでもらった袋がゴミ箱代わりになっていて、それは青嵐の手首に下がっている。
彼女はそこにゴミを入れつつ、改めて彼の顔を見ながら口を開く。
「ちゃんと好きだよ」
「ゴミ一つでその言葉出てくるのチョロすぎだろ」
「ちーがーうー」
もぅ、と彼女は唇を尖らせる。
「これあれかなぁ。わたしが結構のらりくらりと本音話さずにここまで来たことにも理由がある気もする……」
「……?」
「青嵐くんてさぁ」
「ん」
「わたしが青嵐くんに声掛けた本当の理由って知りたい?」
「なんのことかよくわからんが、その聞き方されてノーって言うやついるのか? 気になるだろ」
つまりイエスだと青嵐が答えると、風鈴は破顔する。
「……あは」
そして彼女はそのまま指を差す。
「ここじゃ暑いから、あのへんで話そうよ。結構涼しいし」
どこを指しているのか、と青嵐は指の延長線を眺めつつ首を傾げ、とりあえず頷いた。
「こっちこっち。ここ降りる。芝生滑るから気をつけてね」
案内された先は、高架下だった。
視界には入っていたがただの風景としてしか認識していなくて、だからこそ、初めて足を踏み入れて彼は目を丸くした。
高架下にできた影はまるで、夏の隙間のようだった。
眩しすぎる光が抑えられて、冷涼な風が吹いている。
元々水辺というものは気化熱により気温が下がるが、川沿いは川の温度と陸の温度差によって風が吹くこともあって、体感として一層涼しくなる。
もちろん真夏ゆえに相応に気温は高いが、人が生活することに困難な温度と過ごすことに苦はない温度の違いというものがあって、この空間は過ごしやすいそれだった。
蝉の声が、遠くもなく、近くもなく。
川沿い特有の湿ったにおいと緑のにおいがして。
川面は燦々と輝いていて、ときおり吹く風で光が揺れる。
肌を撫でる涼しさと、秘密基地に訪れたような特別感が沁み込んでいくようだった。
青嵐は、思わずポツリとこぼす。
「ここ涼しいな」
「でしょ? たまにキャッチボールしてる人とかいるよね」
「クソ暑いなかよくやるなと思っていたが、確かにここならまだいいな」
「川のほうにボールいったら終わりだけどね」
だからたぶんここで遊ぶ人は少ないのだろうな、とも思う。
けれどそれでもここを選ぶ人の気持ちもわかる。
真夏から切り離されたここは、どこか特別感があって心地いい。
「絶対マクドナルドとかのほうがいいと思ってたが」
「あは。風情がないよ風情が」
風鈴は笑いながら、んー、と伸びをした後に座り込む。天然の芝生で覆われているが故に汚くは見えないが、間違いなく土汚れはあるだろうし、虫もいるだろう。けれど頓着なく腰を下ろして、彼女は青嵐を手招きする。
青嵐は胡坐をかいて、どさりと腰を下ろす。
「なんでわざわざここに? って話をすると、そもそもここが結構わたしの思い出の場所なんだよね」
「そうなのか」
「そうそう。さっきも話に出たけどさ、わたしって昔は黒染めしてたんだよ。でも中2のときにやめたんだよね」
「それはまた何故」
んー、と風鈴は後ろ手をつきながら、空を仰ぐ。
その目は懐かしむように細められていて、ここではないどこかを見つめているようだった。
それにどこか“遠さ”を見て、青嵐は何故だか寂寥感のようなものを抱きながら言葉を待った。
「悩みなんてものは、紙飛行機にでも乗せて飛ばしちゃうのがいいらしいんだよ」
「…………ハァ?」
そして青嵐は、困惑した。
そんな彼の顔を見て、風鈴は「あはー」と手を叩いて笑う。
「ね、
「……」
「あは。覚えててくれて嬉しいよ」
「勝手に表情を読むな。いま頭の中を整理してるんだ」
紙飛行機。川。夏。黒髪の少女。
いくつかの単語がリフレインしては消えて、残ったものが繋がっていく。
「……あのときのクソガキか」
「クソガキ?!」
聞き捨てならないんだけど! と騒ぐ声を聞き流しながら、青嵐は手のひらで顔を覆う。そうして深いため息を吐いて、彼はそのままパタリと背中から倒れる。
「あっ死んじゃった」
「死んでない」
目元を覆う手の隙間から空の青を覗きつつ、青嵐は3年前のことを思い出していた。
あのときも、よく晴れた夏の日だった。
「生きてますか? あの」
それを見つけたのは偶然だった。
彼が河川敷を通っている最中、ふと視界に入ったもの。
それは倒れた人影だった。
近づくとそれは年頃の少女だとわかり、安否の確認のために声を投げかけた。
夏という季節は、人間が生活できる気温をしていない。熱中症で倒れたなんて話は身近にも聞く話で、彼は倒れた少女もそれではないかと思ったのだ。
「……別に死んでない」
声を投げかけると、少女は芝生に体を預けながら口だけぼそりと動かす。
芝生に無造作に広がった髪の雰囲気と、能面のような顔、氷の目付き。それらと真夏に昼寝をしている少女という非日常が相まって、正直不気味だった。
「ならいいです。なんでまたこんなとこで寝てるのか知らないですけど、熱中症になる前に帰ったほうがいいですよ」
「……はいはい」
「はいは一回で済ますことを推奨します」
愛想はない。どころか不愛想だった。
少女の眉根は顰められ、鬱陶しそうに顔を背けられる始末だ。
「うるさ」
「……本当に熱中症になっても知らないですよ」
「弱ってる女に声かける男にロクな奴はいない」
「おー……」
なかなか言うな、と青嵐は感心して踵を返す。なるほど、と納得した面もあったからだ。あれだけ顔立ちが良ければナンパとかに辟易した経験でもあるのだろう、と。
オーバーサイズのTシャツにカジュアルなジャージパンツを穿いているだけなのに、なんだか様になっている。一見した身長の印象からして高校生だろうか。
「死なれてニュースになられても困るし、適当に帰ってください」
「……」
返事はなかったが、青嵐は踵を返してその場を去った。
そして幾許かの時が───、おそらく小一時間は経っただろう頃。
再び、河川敷に彼は戻ってきた。
人影は佇まいこそ変わっているもののまだそこにいた。どうやら少女は、スマートフォンを眺め、膝を抱えて座っている。
いてほしくなかった、と彼は小さくため息を吐く。
「───……まだいる」
「また来たの」
「これ」
「……なにこれ」
ガサリと音を立てるビニール袋を胡乱な目で見つめながら、少女は眉根に皺を寄せる。
「ん」
無言で彼がなお差し出すと、少女はようやく受け取り、中身を見る。
そこに入っていたのはクーリッシュが2個とスポーツドリンクが2本。
「アイス?」
「飲み物くらいは最低限飲んどいたほうがいいです。あとは普通に体温下げるのにアイスは最適───……というかこれに関してはおれが食べたかった。2個もいらないし、持って帰るまでに溶けるし食ってください」
青嵐がそう言うと、少女は視線を彷徨わせ、口を開閉し、逡巡するそぶりを繰り返したのちに、ガサリと受け取った。
「…………ぁりがと」
「片方はおれのなんで。じゃあ」
「……」
青嵐は片手を挙げて、後ろを振り返ることなく立ち去る。
愛想の悪い人相手に話していて楽しいと感じるほど彼はマゾ気質ではないし、そもそも悟られてはいないだろうが女性に対する苦手意識というものがある。それに少女自身もあまり彼と話したくはないだろう───、と。
「ふんっ……ぎぎ……」
思っていたのだが、力んだような少女の声を聴いて、ぴたりと足を止める。
そんなことがあるか、と思い後ろを振り返ると、そこにはペットボトルのキャップを開けることに苦労している少女の姿があった。
「……貸してください」
「……あ、うん……」
無愛想とはいえ羞恥心というものはあるらしく、耳を真っ赤にしている。
青嵐はボトルを受け取って、ぱきき、と軽く捻って開ける。
「非力だな……」
「うるさい。爪邪魔なの」
「ふうん……」
確かにペットボトルのキャップというものは、やや開けづらいのかもしれない。非力だという前提もそうだが、特に女性の場合ネイルが長いと力が込めづらいという物理的な側面もあるのだろう。
手元を見つめると中々に長かった。女の子らしい、とは思うが日常動作に支障が出るくらいなら切ってしまえばいいのに、と思わざるを得ない。
「生活指導って言っても手元までグチグチ言われることあんまりないし、こういうところくらい自由にしたいの」
「なるほど」
青嵐の視線に思うところがあったのか、少女は言い訳をしはじめた。
別にそこは個人の趣味であるし、構いやしないのだが、一度立ち去ろうとした手前、少し気まずい。
「……そっちも開けたほうがいいですか?」
青嵐は一緒に渡したクーリッシュを指差した。
すると少女は眉を顰め、唇を尖らせる。
「馬鹿にしてる?!」
「いや、ペットボトルに苦労したこともないから違いがわからなくて。申し訳ないです」
「ち、チビのくせに!」
「この感じさては同い年もしくは年下だな?」
「ガキみたいって言った?」
「言った」
思えば河川敷で黄昏れるように───、というより不貞腐れるように佇んでいた少女だった。
彼が当初感じた印象よりも、もしかすると幼いのかもしれない。けれど少なくとも青嵐より少女は身長が高く、大人の女性と言って差し支えないくらいには育っている。
「ていうかなに、きみ、すごいチビだけど中学生?」
「三度目はないぞ。チビはチビと言われることに敏感なんだ」
「ふーん」
具体的に彼の身長を述べると137cmである。140にも満たないのは同い年の男子たちの中でも珍しく、身長順に並ぶと一番前になってしまう。
それと比べると、おそらく目の前の少女は標準的というか、どちらかというと発育のいい方なのだろう。きっと彼よりも10cmは高いのではなかろうか。
とはいえ。
客観的に見て、彼の姿は中学生である。何故なら青嵐は今学校に寄った帰りで、その身は制服に身を包んでいるからだ。いかに身長が小学生レベルでも彼が中学生であることに疑いの余地はない。
余地はないはずなので、わざわざ中学生かと聴かれたことが青嵐にとってはやや癪だった。
「……まあそんなことはどうでもよくて。とりあえず水分は摂れよ」
「敬語使いなよ、中学生」
「……高校生だったのか……ですか」
「同年代っぽいって一方的にそっちが言っただけでしょ。なに、高校生がガキっぽい振る舞いしたらダメなの」
後にわかる事実として。
彼らは同い年であり、このときあたかも年上のように振る舞った彼女のそれはただの嘘でしかないのだが、当時の青嵐にそれを知る術はなかった。
だから、少女の問いに目を閉じて熟考し、頭を下げる。
「駄目じゃないですね。……すいません」
「わかればいいよ、ガキ」
「……」
どう考えても目の前の女の方がガキだなと思いつつ、反論をするのはガキっぽい気がして気が引けた。
が。
彼も当たり前のように、ガキである。気が引ける、というのはやらない理由としてはやや浅かった。
悪態をつくように、ため息を吐くように、素朴な疑問を口にする。
「それで、そんなお姉さんはこんなところでどんな大人の遊びをしてたんですか」
「……なんか、大人の遊びって言われるとえっちじゃない?」
「やっぱりガキだなこの人。…………帰りますね」
「さすがに言い捨てて帰るのは無しでしょ! こんな美人と話せる機会早々ないよ!?」
「えぇ……?」
青嵐は改めて、目の前の少女を上から下までじっくり眺める。
ラフな格好をしていてもわかるスタイルの良さ、大きな目元、白い肌、さらりとした
「まぁ美人なのは認めますけど」
「が?」
「おれはもっと笑い上戸の女がいいです」
「酔っ払い……?」
「酒飲んでなくてもよく笑う人のことはそう言うだろ。……たぶんですけど」
「ふーん」
少女の構成要素は、“美しい”と形容するに相応しいものがあった。まだ
けれど。
裏を返せば、“可愛らしい”と形容する部分が欠けていた。言葉、仕草、表情。子どもらしい振る舞いに可愛げを見出すほどの達観した視野は今の彼にはなく、ただの“生意気な美人”に見えていて。
それがあまり、好ましいとは思えなかった。
「ついでに言うと髪はもっと長いほうが好きなので」
「髪フェチだ! 欲深い! 高望みしすぎでしょ!」
「好みなんて言うだけタダでしょ」
「くっ……別にきみに好かれようなんて欠片も思ってないけど負けた気分……! てかわたし別にショートでもないけどね」
少女はくるくると指先で髪をいじる。
確かに肩にかかるくらいには、少女の黒髪は長かった。
「腰くらいまで伸びててほしいんですよね」
「手入れ大変すぎでしょ。そこまで伸ばすだけで何年いると思ってるの……」
「一年くらい?」
「舐めすぎ」
一般論として、髪が伸びるのは1カ月で1.0〜1.5cmとされている。もちろん個人差はあるが、肩口から腰までになると、3〜4年はかかるだろう。
青嵐の言葉を馬鹿にするように、少女は鼻を鳴らす。
「……確かに言われてみればそんなに早いはずないか。世の中のロングヘア女子はすごいですね」
「それは本当にそう」
少女は深く頷き、ため息を吐いて手元に目を落とす。
「これ飲んでいい?」
「もちろん。というか変な話の飛び方しちゃいましたね」
「本当にね」
ごくごく、と喉を鳴らしてスポーツドリンクの中身が減っていく。ぷは、と少女が口を離したときには中身が半分ほど減っていた。
やはりと言うべきか、相当のどが渇いていたらしい。
「アイスも食べていい?」
「もちろん」
「きみ何してんの?」
「……おれですか?」
ずっと邪険にされ続けて、無愛想の権化だった少女から自分のことを尋ねられるとは思っておらず、青嵐は首を傾げる。
「これ食べ終わるまではお話ししてあげる」
「上から過ぎる。なんだこの人」
「わたし様」
本当に何様だ? という気持ちだった。
このまま無言で帰ってもいいな、と思った。
けれどこのまま拗ねてまたここで昼寝されて熱中症で倒れられても嫌だったし、それに
青嵐はため息を吐きながら、芝生の上に座り込む。
「お話しって言われてもな……」
彼は眉間を揉みほすぐようにして悩むが、何を話せばいいかまったく見当がつかない。
「何話すんですか」
「知らない。何か面白い話して」
「えぇ……」
流石に我儘すぎると眉を顰めるが、当の本人は他人事のようにクーリッシュに齧り付いている。
青嵐は正直あまり女子とは関わりを持たないし、女子が好みそうな話題に心当たりもない。
悩みに悩んで、彼はごく普通に、パッと頭に浮かんでいた話をすることにした。
「紙飛行機って、何メートル飛ぶか知ってますか」
青嵐の問いかけに、少女は目を瞬き、どういうこと? と疑念のこもった視線を向けてくる。
「なぞなぞか何か?」
「いや、普通に。紙飛行機のギネス記録知ってますか」
「へー、そんなのにもギネスってあるんだ」
「あるんですよ。それで何メートルだと思います?」
「知らない。てかそれこそ無限じゃないの?」
「何をどうしたら無限に……?」
「屋上から飛ばすとか……あ、それこそ気球から飛ばしたら無限じゃない?」
「普通に平地でやる
「ふーん。答えは?」
「……」
考えるそぶりくらいしてくれても、と彼は内心消沈していたが、クイズに対する温度感なんてそんなものだよなと自分を慰める。
特別面白い話題振りでもないのは確かにそうだったので、仕方がないのだろう。
「88.31メートル、だそうです」
「こまか」
「そしてそのギネス記録を出した紙飛行機がこちら」
「出来上がったものがこちらですの奴だ……!」
青嵐は横に置いていた学生かばんから、少し変わった紙飛行機を取り出した。
料理番組では長時間の煮込みなど、番組内で紹介しきれないものを「それをしたものがこちら」と紹介する定番がある。
本来のそれを知らなくてもパロディネタなどで知っている人は多く、彼らもどこで知ったかはそもそも覚えてないが何となく知っていた。
とはいえそんな展開になるとは欠片も想像していなかったため、少女は目を丸くして驚いていた。
「え、なにそれ。本当に面白いじゃん」
「……? 少し変な形ですよね」
「いやそうじゃなくて。なんでそんなの持ってるの。面白すぎでしょ。見せて見せて」
「どぞ」
何が少女の琴線に触れたのかは分からない。
けれど少女は、受け取った紙飛行機を優しく両手で抱え、楽しげに眺めていた。光を受けた瞳がきらめき、声の調子もどこか柔らかい。
その横顔には、年相応のあどけなさが滲み出ていて───仏頂面をしていた時よりも、むしろこちらの方が彼女らしいのかもしれない、と青嵐は感じた。
「これどうしたの」
「文化祭の展示。うちのクラスは『面白ギネス』で、おれの担当が紙飛行機です」
「へー、文化祭って中学であるんだ」
「なかったんですか」
「わたしのとこはない……なかったなぁ。学生の本文は勉強だとか先生たちはほざいてたけど」
「ほざ……。いやまぁ、うちの学校も展示だけなんで中学校はそんなものなんですかね」
それで言うと高校はイメージとして飲食もやっていいイメージがあるが、どうなのだろうか。
「高校だとどうなんですか?」
「……あー、どうなんだろ。わたし高一だから……まだ……高校の文化祭がどんなものなのか知らないな……?」
「高一……」
「……え、何なんか文句ある?」
「いや、子どもっぽいと正直思ってたんですけど、二歳差……あぁおれは中二なんですけど、二歳差って言われたらまぁ別に言うほど変わんないのかもなと」
「へー、中二なんだ。まぁでも中学と高校には大きな差があるよ。ちゃんと敬いな、ガキ」
「そういう口ぶりだから敬おうと思えないんですけどね」
意地悪そうに唇を吊り上げる少女を見て、青嵐は小さくため息を吐く。
「で、何やるんですか? 中高の違いとかそういうのはアレとして、自クラスで」
青嵐は『高校の文化祭がどんなものかよく知らない』という高校生女子の言葉を、『(全体像を把握してるわけじゃないから)中高と違いと言われるとわからない』と解釈していた。
けれど実際のところは、そもそも少女の中学で文化祭というものはなく、少女自身は
「あー……」
「……?」
「あんまよく知らない。決めるとき寝てた」
「なるほど」
あまりに苦し紛れの答えだったが、青嵐は違和感を抱くことなく納得した。
内容くらいは知っておけ、と思ったものの実際クラスにひとりやふたり乗り気じゃない人たちというのはいるものだ。
そう思って単純にうなずいたのだが、少女は自身の稚拙な嘘をごまかすように慌てて言葉を重ねる。
「仕方ないじゃん。学校つまんないし」
「はあ……」
彼はもしかすると地雷踏んだか、と思った。
先ほども先生への苦手意識が垣間見える発言をしていたが、どうやら学校自体が苦手らしい。
「……いいよね、文化祭とかがんばれるの」
不貞腐れるようにこぼす言葉には、愚痴のニュアンスと
「色々あるんですね、高校生には」
「……まぁ、中学高校で変わるものじゃないとは思うけど。わたしも中学時代から家のこととか学校とか苦労したし」
「あぁ、家でも色々あるんですか。だからか」
「まぁ……家に帰りたくはないよね」
ははーん、と彼は得心した。
いくらこの高架下が日陰で少し涼しいとは言え、夏の屋外という時点で暑いものは暑い。健康に害を及ぼすレベルの酷暑において、好きだから外にいるというのは正直違和感があったが、家にいたくないというのであれば納得はできた。
それにしたって図書館だとか無料で涼しい場所に行けよと思いはしたが、そこまで突っ込む必要はないだろう。
「や、違う。別にそういうのじゃないから」
「……愚痴くらいなら聴きますけど」
「別に愚痴ってほどのことでもないけど、生まれついてのことでやんや言われたり、家族の病気とか。わたしが何言っても仕方ないことで世の中あふれてるよなってだけ。きみにはどうにもできないでしょ」
言い捨てるような少女の口ぶりに、青嵐は何も言えなかった。
病気だとか生まれついての、だとか。
そういうものは、確かにどうにもならない。どうにもならないからこそ少女は不平不満を溜め込んでいて、ここにいるのだろうし、何も言われたくないとばかりにそっぽを向いてしまっている。
気まずいな、と青嵐は思った。
彼はこの状態の相手にどう接していいのかわからず、視線を逸らした。けれど、沈黙が長引けば空気は重くなる。
ごまかすように手元のペットボトルに目を落とすが、もう空になっていた。
両者ともに気まずくなるくらいなら変に話さず帰るべきだったか、と思いつつ───、
「仕方ないんで、おまじないかけてあげますね」
男という生き物は、大なり小なりかっこをつけて生きるものだ。
それがかっこいいかどうかはさておき、何もしないことを選ぶこともできないのだから仕方ない。
青嵐は、この後の自分の行いを想像して、顛末をイメージして、腹をくくる。
「はあ? おまじない?」
「どうにもならないことに対しては、いい方向に向かうことを願うことしかできないと思う。少なくとも、赤の他人でしかないおれはそれしかできない。そもそも、アンタの言う通り確かにガキだし、人の悩みを解決する能力もない」
「……まぁなんとかできるって思われるのも腹立つよね」
「でもまぁおまじないくらいはいいだろ、と。それも余計なお世話って思われるかもしれないけど」
「ふうん……で、なにしてくれるの?」
少女も別に大した期待はしていないのだろう。青嵐の言葉に興味の色も、喜びの色もなく、ただ聞いている。
それを薄々感じ取りつつも、青嵐は言葉を続ける。明確な拒絶がないのであれば、それでよかった。
「この紙飛行機が向こう岸までたどり着いたらアンタは幸せになります」
青嵐は大真面目な顔で言ったが、少女の顔はやや呆れ気味だった。
「……色々突っ込みたいんだけど、向こう岸って、あっち?」
「うむ」
「無理じゃない?」
彼らの住まう町に流れる川は、広大である。
課外学習の定番スポットでもあるため、若い彼らにもなじみ深く、町を横断する長さを誇っているがゆえに自然と目に入る機会の多い川。
その川幅は広いところで100メートルはあるらしい。
実際向こう岸までは目算で相当に遠く、普通に考えれば無理が過ぎる。
「そこにギネスの通り作った紙飛行機があります」
「でもそれ手作りでしょ。ていうかちょっと折れてるし」
「だからいいんじゃないか」
「?」
怪訝そうな顔をする少女から紙飛行機を返してもらって、青嵐は改めて自分で折った紙飛行機を眺める。
かばんにいれていたのもあって、確かに先端がやや折れている。これではまともに飛ばない気がする。
「実際どうなるかわからないから願いを託すにはいいんだろう。100%成功するならしなくたっていい」
「可能性0%でしょ」
「ちょっとした小細工はする」
青嵐は嘆息を吐きつつ、手元の紙飛行機を少しでも飛ぶように弄る。
とはいえ、これ自体は小細工でもなんでもないのだが。
「神風が吹くかもしれないし、吹かないかもしれない。まぁなんにせよどんな形であれ向こう岸に着いたんなら、アンタは幸せになるよ」
「ふうん」
「とりあえずもうやるぞ。ちゃんと見てろよ」
「はいはい」
青嵐は機敏に立ち上がり、すちゃ、と紙飛行機を構える。
少女は、ぼんやりとそれを見ていた。
「ふんっ」
彼はそこそこ様になったフォームで、紙飛行機を投げた。
「おー……」
少女は感嘆の声を漏らす。
さすがギネスというべきか、思ったよりも飛んだからだ。
けれど、
「すごいね。真ん中くらいまで行ったんじゃない?」
その結果は無残なもので、紙飛行機は川中に落ちてしまった。
少女の口ぶりは軽く、それはつまり向こう岸まで届くなどと信じていなかったことを意味する。
「すごいよすごい」
少女は拍手もして、結果を賞賛する。
けれど青嵐は「まだ早い」と指を突き付ける。
「向こう岸につけばいいんだから、その過程は問われてない」
「まだ続けるのこれ」
「いいから黙ってみていてください」
青嵐はそう言うと、シャツとズボンを脱ぎ始めた。
「えぇえ?! いや何してんの?!」
「いったん向こう岸に届けてくる」
「は?! 泳いで?! 馬鹿じゃないの?! 普通にやめな?!」
動揺する少女の声を振り切って、彼は一歩前に出る。
「あ、そうそう。最後なんで言いたいこと言わせてもらうと、アンタそうやってぎゃーすか喚いてるほうが魅力的だと思いますよ。何言っても仕方ないって言ってたけど、言うだけタダの場面があるなら、好き勝手振る舞ってもいいんじゃないか」
それだけ言い捨てて。
彼は、川へ飛び込んだ。
夏の日。
蝉の叫びが満ちた空から、水面へ。
頭の上で、水が砕け。響く。
どぽん。
「……───ってことがあったよね、いやー懐かしい」
「いっそ殺してくれ。黒歴史だ」
「えー? なんで?」
「説明がいるか? 顛末知ってるか? 知らんか」
「パトカーと救急車が来て連れていかれた中学生が一人いたことは知ってる。いやそう、ずっと聞きたかったんだよね、あれ最後どうなったの?」
苦虫を嚙み潰したような青嵐の顔を見て、風鈴がけらけらと笑う。
その顔色はかつて出会った少女とは、似ても似つかない。確かに言われてみれば顔立ちは似ているが、髪の色も違うし、そもそもたった一日の中のたった十数分しか話していないのだから気付けなくとも無理はないと彼は思う。
「誰かが通報したんだろうな。向こう岸に着いて少ししたらパトカーと救急車が来て……まぁ多少水飲んで満身創痍ではあったから念のため病院に連れていかれた。ちなみに通報って?」
「わたしじゃないよ。どうしていいかわかんなくて普通に困ってた」
「それは……すまん……」
「三年経ってるんだから今更そういうのはいいよ。あのときはわたしもだいぶアレだったし。それで?」
「それでと言われてもあんまり言うことはないが……逆に他なにかあるか?」
「怒られた?」
「怒られたな。親にも怒られたし、警察に怒られたのも人生初だった。あの川足着かないし、そもそも多少脱いでたとはいえ着衣水泳は本気で死ねるからな」
「あは。生きててよかったね」
「小学生のとき着衣水泳体験と称して私服でプールに跳び込む授業があったんだが、あれがなかったらヤバかったな……」
着衣のまま泳ごうとするとまともに泳げないので、そのまま流されて溺れ死ぬ可能性が非常に高い。
水中で服を脱ぐこともままならないため、下手に動かず救助を待つことが最優先となる。
だからこそそれを見つけた周囲の人間は助けを呼ぶために通報をすることになるのだが、これのため川へ入った少年とそれを見送った少女は会うことがなかった。
意識はあったが念のため病院へ連れていかれ、少女のそばに置き去りにしていた荷物は後で大人に回収される顛末だった。
「ね。後悔してる?」
「場合による」
「?」
「自分勝手なアレで嫌な思い出相手に残してたら後悔だが、そうでもなかったなら別に後悔しない」
「……あは。わたし次第じゃん」
彼女は、風に髪をたなびかせながら穏やかに笑う。
汗をかいた肌が風で涼やかに冷めるこの感覚は、夏だけにしか味わえないものだろう。
「よかったよ。溺れかけた人に対して言うことじゃないかもしんないけど、正直爆笑したし、結構胸軽くなった気はする」
「ならよかった」
「あ、そうそう。一応ちゃんと向こう岸にびしょ濡れの紙飛行機が置いてあったのはちゃんと見たよ。その時持ってった本人はもういなかったけど」
「それもまぁよかった」
「今も家にあるよ、アレ」
「本気か?」
水でぐしゃぐしゃになった紙なんて、とても見れたものじゃないだろう。
まともな形を成していないし、正直ゴミに近いだろう。
「前にうち来た時見せてあげようかなと思ったりもしたけどね。さすがにやめた」
「そうなのか」
「そうなの。別にだからどうって話じゃないし……だからつまり、そういうことなんだよ」
「なにがだ?」
「わたしが青嵐くんに声かけた理由」
「…………」
青嵐は風鈴の言う言葉を咀嚼し、呑み込む。
思い返せば、ではあるが。
「そういえば屋上で紙飛行機とか飛ばしてたな……」
「そうそう。場合によってはあそこで思い出すかなとか『昔こういうことがあって』って話題に出るかなと思ってたけど一生出ないからさ」
「まぁ黒歴史だったし、だいぶ変わってたから正直気付かなかった」
「そう?」
風鈴は、自分の髪に指をすかす。
長い栗色の髪が、さらりと風に揺れる。
「……あは」
わざとらしく、笑う。
「───髪の長い、笑い上戸の女になったでしょ?」
青嵐は時間が止まったような気持ちで、目を見開く。
見惚れるというのはこういうのを言うのだろう。
川風が髪を揺らし、遠くで蝉が鳴いている。熱気の中に混じる水の匂いが、夏だった。
そんな夏の光で縁取られた彼女は、あまりに綺麗で、可憐だった。
「まぁ別に青嵐くんのためにそうしたわけじゃないけど」
「おい。ちょっと今かなり思うところがあったのに」
「あはー」
手を叩いて笑う風鈴を見ていられず、彼は視線を逸らす。
三年経ってもクソガキはクソガキだったと確信する。そして彼女は、そんな彼の後ろ姿を見て目を細める。
「青嵐くんもさ、女の子完全に平気になるといいよね」
「なんだ藪から棒に」
「わたしだってこんな変わったんだから、青嵐くんだって変われるでしょ。ていうか妹さんとはそんな仲悪くなさそうな雰囲気だったし、いけるものはいけるでしょ」
「……そうだな」
目の前にここまで変わった女がいると。
なんともいえない、心持ちがある。
できるできないではなくて、なんとなく、心がふわふわと浮ついているような。
ただ気楽で、なんとかなりそうな。楽観という二文字で表すのがきっと適切な、軽い気持ち。
「ね。ちゃんとわかってくれた? わたしの愛」
「あぁ、なんとなく」
「あは。わかってなさそうな顔してる」
風鈴はそう言いながら「よいしょ」と立ち上がって、手を差し伸べてくる。
「わたしちゃんと好きだよ、青嵐くんのこと。最初は興味本位で、昔のあの人がどんな人か知りたかっただけだけど、ね?」
「……」
「あは」
風鈴は笑う。
「なんて答えたらいいかわかんないって顔してる。いいよそれで。わたし、前家来てくれたとき嬉しかった」
「表情読むな馬鹿」
青嵐は悪態を吐きながら、差し伸べられた風鈴の手を握る。
「……おれも好きだよ」
「あは。女の子平気になったらちゃんと付き合おうね」
「いつになるか知らんぞ、普通に」
「三年くらいは一旦待てるよ」
眩しすぎる光の熱も、いつかはきっと溶けて馴染む。
けれど光は光であるがゆえに明るく、悩みというものは風に流れてふわりと浮かんで、消えていく。
「じゃあそういうわけで、また明日からよろしくね」
眩し気に空を仰ぐと、今日も空は青くて。
雲間からこぼれる光が街を照らし、心地いい風が吹いていた。