奴隷市場の竜姫(♂)
暗い。
そして、うるさい。
人々のざわめき、金属がぶつかる音、湿った石の床の冷たさ。嫌な感覚が、じわじわと俺の肌に染み込んでくる。
――何だ、この状況?
ぼんやりとした意識の中で、俺は自分の身体を動かそうとする。
だが、動かない。
いや、動かせない。
何かが俺の手首と足首を拘束している。ギシギシと嫌な金属音が響いた。
「さて、諸君! お待ちかねの目玉商品だ!!」
突然、野太い声が場内に響き渡る。
次の瞬間、背中を強引に押され、ぐらついた足取りのまま、明るい場所へと引きずり出された。
視界が一気に開ける。
まるでコロシアムのような半円形の観客席。そこには、貴族や商人らしき男たちが、興奮した目でこちらを見下ろしていた。
巨大な松明が赤々と燃え、空気はじっとりと湿っている。どこか、生臭い。
――奴隷市場。
俺は、一瞬で理解した。
なぜ俺がこんなところにいるのかは分からない。
だが、明らかに「売られる側」なのは理解した。
「さあ、見よ! 竜の血を引く貴き姫君! この美しさ、力、そして希少性!」
オークショニアの男がそう叫び、俺の顎を乱暴に掴む。
その瞬間、俺は気付いた。
――いや、待て待て。
腕が細い。
肌が白すぎる。
そして、髪が――
俺は反射的に視線を下に向けた。
そこには、銀色の長い髪、細くしなやかな体、そして――胸があった。
「……え?」
信じられない感触。
いや、いやいやいやいや、待て待て待て!!!
なんだこれは!? 俺、男だったよな!?!?
「なんと美しい……!」
「本物の竜姫なのか?」
「ツノと翼……間違いない! 竜族だ!」
観客たちのどよめきが耳に入る。
ツノ? 翼?
言われて、俺は恐る恐る背中へ手を伸ばす。
……ある。
柔らかい翼が、確かに俺の背中から生えている。
いやいやいやいや、おかしいだろ!?!?
俺、ドラゴンになってるんですけど!?!?!?
頭が混乱する。
これは夢か? それとも何かの悪い冗談か?
「では、入札を開始する!」
オークショニアの男が木槌を鳴らした。
「十万金貨!」
「十五万!」
「二十万!」
貴族たちが、狂ったように競り合いを始める。
いや、待て! 俺、なんで値段つけられてんの!?
ちょっと待て! 俺は人間だ!! ……いや、元人間だ!!!
どうにかして、この状況から抜け出さないと――
……
――むずむず。
鼻が、かゆい。
なんだこれ……?
俺は違和感を覚えた。
いや、ただの違和感じゃない。
これは、くしゃみの前兆だ。
――ヤバい。
この直感は、なぜか確信を持っていた。
「三十万金貨!」
「いや、三十五万だ!」
入札が白熱する。
……やばい。やばいやばいやばい。
俺の鼻のムズムズが止まらない。
しかも、なんか……熱が集まってくるような感覚がある。
「四十万金貨!!」
もう、くしゃみが止まらない!!
「五十――」
「へっくしゅん!!!」
次の瞬間――
轟音が響き渡った。
ドオオオオオオオオオオオン!!!!
爆風が吹き荒れる。
俺のくしゃみと同時に、灼熱の閃光が走り、オークション会場の床が爆発するように吹き飛んだ。
石造りの壁が砕け、天井が崩落する。
貴族たちの悲鳴が響く。
「な、なんだ!?」「何が起こった!?」「壁が……崩れた……!!」
俺は、ただのくしゃみをしただけなのに。
「ひっ!」
目の前で、オークショニアの男が声にならない悲鳴を上げ、呆然と立ち尽くしていた。
その後ろでは、貴族たちが逃げ惑っている。
いや、待て待て待て!? なんで俺、くしゃみしただけでこんなことになってんの!?
信じられなくて、俺は口元に手を当てた。
ほんのり熱を感じる。
――まさか。
俺のくしゃみ、ドラゴンブレスだったのか!?
あまりの事実に、俺は動けなかった。
その時――
ガシャン、と鈍い音が響く。
俺の足元に、焼け焦げた金属の破片が転がっていた。
それは、俺の手首と足首を拘束していた鎖と鉄輪の残骸だった。
「……え?」
思わず、両手を動かす。自由に動く。
足を踏み出す。鎖に引っ張られる感覚がない。
――あれ? 俺、自由になってる?
まさか、くしゃみと同時に手枷と足枷まで吹っ飛ばしてたのか!?
爆風の余韻が消え、辺りに静寂が訪れる。
穴の開いた壁の向こうには、夜空が広がっていた。
星が瞬いている。
まるで、俺の運命の荒波を象徴するかのように。
「ひ、ひいぃぃっ……!!」
震え上がる声が聞こえた。
俺は振り向いた。
オークショニアの男が、瓦礫の上に這い蹲っていた。
「……信じられない。まさか、くしゃみ一つでこの破壊力……!!」
俺も信じられねえよ!!
周囲を見渡すと、崩れた壁の向こうで、何人かの貴族が腰を抜かしている。
兵士たちは、俺に剣を向けようとするが――
「や、やめろ! 無闇に刺激するな!」
ひときわ豪華な服を着た男が、顔を真っ青にして叫ぶ。
「姫様が……またくしゃみをしたらどうする!?」
その言葉に、兵士たちがピタリと動きを止める。
あ。
なるほど。
俺の脳内で、カチリと何かがハマった。
――これ、俺、最強じゃね?
くしゃみひとつで会場を半壊させたやつに、誰が逆らえる?
「お、おい! 逃げるぞ!!」
「もう金貨どころじゃない! 命が大事だ!!」
次々と、オークションに参加していた貴族や商人が蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
どこかで鐘の音が鳴り響いた。
「脱走者だ! 逃がすな!!」
衛兵たちが俺を取り囲む。いや、囲もうとしていたが、誰も俺に手を出せない。
「ひ、ひいぃっ……!!」
一人の衛兵が、ガタガタと震えながら俺を見ている。
「お、お願いです……これ以上の破壊は、ご勘弁を……!」
……なるほど。
今の俺、めちゃくちゃ怖がられてる。
いや、そりゃそうか。
くしゃみ一発で建物半壊させるやつ、俺だって関わりたくない。
「……よし、分かった」
俺は、ゆっくりと壁の向こうへと歩き出し――
次の瞬間、足にぐっと力を入れた途端、
ドンッ!!!!
「――は?」
俺の視界が、一気に上昇した。
地面が急速に遠ざかる。いや、待て、これ――
俺、跳びすぎてないか!?
「うわああああああ!?!?」
想像以上の高さまで一気に跳び上がり、気づけば俺は夜空へと放り出されていた。
宙に舞う俺の目に、初めて異世界の全貌が映る。
遥か下には、光が瞬く巨大な都市。石畳の道が縦横に交差し、煌びやかな宮殿が街の中心にそびえ立っている。都市の周囲には、城壁がぐるりと囲み、その向こうには漆黒の森、広大な湖、連なる山々が月光に照らされていた。
そして――
空には、二つの月が浮かんでいた。
「……マジかよ」
俺はただ、呆然と見下ろしていた。
ゲームや小説でしか見たことのない、圧倒的な異世界の光景。
それが、今、目の前に広がっている。
だが、そんな感傷に浸る暇はなかった。
「ま、待て! 俺、これ……着地どうすんだ!?」
俺は、猛烈な勢いで地面に向かって落下し始めていた。
このままじゃ――
――俺の着地点、地獄じゃね!?
続く。