オリウマ娘スワローウィローは、レースしたりトレーニングしたりしながら成長していきます。
蹄鉄の重い足音が遠くから聞こえる。応援する声、落胆のため息。見定める容赦のない大人達の呟き。それらが風にのって暗く冷たい廊下にまで届き、待機しているウマ娘達の緊張感を高めていく。
今日は定期開催される選考レースの日。入学して三度目となる開催だ。はじめはただ一生懸命走るだけだった新入生ウマ娘たちも、三度目ともなれば選考レースの重要を理解しはじめている。それゆえに、待機場の彼女たちの表情は硬かった。
スワローウィローも鏡の前で最後のチェックをしていた。
「一番綺麗な練習着にしたし、シューズも蹄鉄も完璧。ゼッケンも歪んでないし、耳の手入れもオッケー、尻尾は昨日たっぷり手入れしたし、ピンはちゃんと磨いたし……」
同室のデリバーステッカーに頼んで手伝ってもらい、ヘアピンが映えるように前髪に編み込みをいれてもらった。真っ黒な髪を留めるヘアピンは、スワローウィローを励ますようにピカピカと輝いている。経年劣化でその色は褪せたせいで、ピンを覆う淡い緑色は彼女の瞳とちょうど同じ色になっていた。
「3レース目待機の生徒、集合してください」
アナウンスを受け、番号通りに整列する。誘導する教官について地下道を抜けると、やわらかな日差しが降ってきた。ターフにはすでにゲートが用意されている。冷たい金属製のゲートは狭く、怖がって足がすくんでしまうウマ娘もいる。しかしスワローウィローはすんなりとゲートに入った。
スワローウィローだってゲートは怖い。けれど彼女はこのレースに賭けているのだ。今日までにできることは全てやった。準備に不足はなく、コンディションも万全だ。一番ピカピカに輝く自信がスワローウィローにはある。
「このレースで勝って、絶対に……絶対におねえさんに認めてもらうんだ!」
スタンドに一瞬だけ目をやる。スタンド席の三階に佇む人影は自分を見ている。そのはずだ。
息を深く吸い込む。つま先に力を込める。
ゲートが開く鈍い音がして、スワローウィローは一歩目を踏み出した。
「断る」
「なんでっ⁉︎」
ノータイムだった。契約の一文字も言わせることなく下された決断に、スワローウィローは叫んだ。
「一番とったんですよ、わたし。一番です。しかも二回!まぐれじゃないです!」
前回の選考レースでもスワローウィローは一着だった。しかし目の前の女性、善田トレーナーは首を縦に振ってくれなかったのだ。
「まぐれじゃないのはわかった。良い走りをしていたとも思う」
「それなら!」
「でもダメ」
「なんッ!で!ですか!」
いまにも噛みつきそうな勢いのスワローウィローにも、善田の仏頂面は揺るがなかった。
「キミ、芝ウマ娘でしょ。私はダート専門」
「嘘だ!わたし、知ってるもん。おねえさんの担当してる中に芝のウマ娘がいるって!」
「チッ……調べやがった。おいそこ、見てないでクールダウンちゃんとやんなさい」
「は,ハイ!」
様子を伺っている野次馬のウマ娘達が怯えまじりの顔で距離をとる。
黒いブルゾンに紫の大きなサングラス、男性並みの長身と威圧感のある声のせいで、たいていの新入生ウマ娘は萎縮する。怯えていないのは目の前でぷりぷりと怒っているスワローウィローぐらいだ。
「度胸は認める。でもダメなもんはダメ。諦めて他をあたりなさい。声かけてもらったんでしょ、他のトレーナーにも」
「いやです。わたし、絶対におねえさんに教えてもらうって決めてここに来たんです。だから、」
「却下。おーい、ちょっと、この子回収して」
「ハイ!ほら、行こ、スワロー」
クールダウンを終えた子達がスワローウィローの肩を叩く。
「ゼンタおねえさん!」
「ヨシダだって言ってんでしょ。はい、お疲れ〜」
「待て!おねえさん!わたしの話は終わってない!」
話を打ち切って背を向けるトレーナー、追い縋ろうとするウマ娘。ほとんど修羅場だ。
「スワロー、もう帰ろうって。ほら、飴あげるからさ」
「グミもつけたげるから、ね」
宥めるクラスメイトに抱えられ、引き離されていく。
「ぜったい、ぜーったい、契約するって言わせてみせるから!」
遠ざかっていく善田の背にスワローウィローは声を張り上げた。しかし善田は振り向くことはなかった。
「また断られたの?粘るねえ、スワローも」
スワローウィローが膨れ面で帰って来たのを見て、デリバーステッカーは大体のことを察した。
「だって約束したもん、あのとき」
「もう十年前の話でしょ?忘れてんじゃない?」
スワローウィローとトレーナーの『エピソード1』は、同室になった日から何度も聞かされている話だ。
「忘れてない。だって、トレセン学園に来た時真っ先にわたしのこと見つけてくれたんだよ?助けてくれたんだよ?運命だよ、これは!」
「はいはい、聞いた聞いた。転びそうになったところを助けてくれたんでしょ」
スワローの中でこれはエピソード3にあたるらしい。2はなんなんだと思うが、敢えて聞いてはいない。デリバーステッカーは賢かった。
「かっこよかったぁ、おねえさん」
「それもう百回聞いた」
「あと五百回聞いて」
「ムリ。ほら、電気消すよ。明日も朝練あるんだし」
今回の選考レースは出場しなかったが、デリバーステッカーの選考レースも近いのだ。明かりを消すと観念したのか、スワローウィローも渋々ベッドに入った。
「……ねえ、デリバー。おねえさん、どうして契約してくれないんだろう」
「そりゃ、アンタが芝ウマ娘だからでしょ」
「でもオーロラクラック先輩は芝ウマ娘だよ?」
一度だけゼンタというトレーナーを見たことがあるが、側にいたのはカレットパレットというダートウマ娘しかいなかった気がする。
「まあ、なんかじじょーがあんでしょ。もうねようよ」
「……一番になれば認めてくれると思ったのに」
隣のベッドから溢れた声は湿っていた。
「……ねえ、やりかた変えてみれば?」
「やり方?」
「一番になる以外でさ、なんか他にもあんじゃないの、アプローチの仕方が」
トレーナーとの契約は選考レースなどでのスカウトがほとんどと聞くが、勝利しなければ契約できないというわけでもない。名ウマ娘のインタビューを読んでいると、レースはあくまで決定打であり、そこに至るまでに様々な出会いを経ていることが多い。
「他の手段、か……」
どうやら納得してくれたらしい。スワローウィローがなにごとか呟いているのを聞き流しながら、デリバーステッカーは眠りについた。
出勤すると、デスクの上に見慣れない封筒が置かれていた。宛名を見ると、ひょろひょろとした字で善田トレーナーとだけ書かれており、差出人の名前はなかった。
「この封筒いつからありました?」
隣のデスクで仕事をしていたトレーナーが顔をあげた。
「僕が来た時にはもうありましたね。郵便にしては早いなとは思ったんですが」
トレセン学園宛に来た郵便物は一旦事務の方で仕分けされてから届けられる。しかしこの封筒には切手すら貼っていなかった。
「いたずらですか?それとも担当ウマ娘から?」
「いえ、うちの担当ウマ娘の字じゃないですね」
「それじゃあイタズラですかね?それにしてはけっこう分厚いような……」
「そうですね。とりあえず開けてみますか」
持ってみたところ、紙以外の感触は感じられない。善田は慎重に薄緑色の封筒を開いた。
『拝啓 善田トレーナー
新録が目に鮮やかな季節となりましたたが、おトレーナーにおかれましてはますますご建勝のこととお鹿び申し上げます。
十年前は故郷でお目にかかり、お話を司うことができこと、心より感謝しております。あの時、トレーナーのお言葉が私に新たな目標と走る意欲を与てくださいました。そのきっかけがなければ、私は今日の自分にはなれなかったと感じております。
このたび、選考レースで一番良い成積を収めることができました。これもひとえにトレーナーのご指道とお助言のおかげです。本当にありがとうございました。さらなる高みを目指して走り続けたいと思っておりますので、もしご可能であれば、改めてトレーナーのご指道をお願いできねばと存じます。
これからもおねえさんのご健康とご多幸をお祈り甲し上げます。最後に改めて、私をみちびいてくださったトレーナーへの感謝をお伝えさせていただきます。
敬貝』
「……」
誤字脱字がひどいすぎて頭痛がする。
善田は額を押さえた。
手紙の中にも差出人は書かれていなかったが、手紙の主が誰なのかはすぐにわかった。
「スワローウィローだ」
「スワローウィロー?ああ、一昨日の選考レースで一着だった」
同僚も覚えていたらしい。
「1,600……1,800はちょっと厳しいかな。でもそのぐらいは走れそうなウマ娘ですよね」
多くの契約はトレーナーからウマ娘に対してもちかける。トレーナーは契約を取るために在籍するウマ娘のデータに目を通して把握しているが、ウマ娘がトレーナーの名前を把握しているケースは少ない。契約して初めてトレーナーの名前を知ってもらうのがほとんどだ。
「羨ましいな、滅多にないウマ娘からの逆指名ですよ」
「そう言われましてもね……」
「彼女に何か問題でも?」
「芝ウマ娘なんですよ、あの子」
「ああ……そうか、善田さん芝のウマ娘ってあんまり担当してなかったですもんね」
現在善田の指導する担当ウマ娘は二人。そのうちの一人、オーロラクラックは芝ウマ娘ではあるが怪我からのリハビリを目的にしており、レースの指導をしたことはない。
「でも資料見る限りダートが走れなくもない感じなんですけど」
ウマ娘の家庭調査書には親族にウマ娘がいる場合、その成績も記載されている。スワローウィローの家は姉も含めて全てダートウマ娘だ。芝を走っているとはいえ、ダートの才能も持ち合わせている可能性がある。
同僚の言葉に善田は苦笑した。
「芝が走れるなら芝の方で出るべきでしょ」
スマートファルコンをはじめとしたアイドルウマ娘のおかげで、ダートレースも盛り上がりをみせているとはいえ、やはり芝のレースと比べると盛り上がりに差があることは否めない。ダートのクラシック三冠も存在する。けれど世間一般にクラシック三冠といえば芝のレースを指すのだ。
スワローウィローにはその芝を走れる能力がある。それなら芝の指導ができるトレーナーを選ぶべきなのだ。
「でももったいないなぁ、そんな熱烈なラブレターを貰えるなんて、それだけ善田トレーナーに思い入れがあるんですよ」
「ただの思い出補正ですよ」
手紙を封筒に戻すと、デスクの引き出しに放り込む。スワローウィローの資料は再び未所属ウマ娘のファイルに戻され、棚に戻されていった。
後日、スワローウィローの部屋に大きな封筒が届く。芝ウマ娘の合同トレーニングの案内書と共に、漢字ドリルが添えられていた。
オーロラクラックがトレーニング場所を変更したいと言うのでグラウンドに来てみれば、なぜかそこにはスワローウィローまでいた。まだ綻びもない真っ白な体操服には仮のゼッケンまでつけてある。どうやら走るつもりでいるらしい。
「諦めの悪い奴だとは思ったけど、ここまでとは」
「だってわたし、まだ三回しか断られてないですから!」
「十分だと思うけど?」
「これまでのやつはサンゴの礼って言うんですよね。だから今日はきっと大丈夫だと思うんです!」
何が大丈夫なのだろうか。そしてその自信はどこから来るのだろうか。三顧の礼のことを言っているのだとしたら、すでに手遅れなのだが。
色々言いたいことはあるが、ひとまずそれらは飲み込んで、担当ウマ娘へ向き直る。
「オーロラはなんのつもりなんだ。今日は室内トレーニングの予定だったろ」
オーロラクラックは半年前に足首を故障し、善田の元へ来たウマ娘だ。芝を走るウマ娘だが、リハビリ目的でならという理由で契約をした。故障さえ治れば確実にオープンウマ娘にはなれる実力の持ち主だ。
「ンフフー、今日は足首の調子がいいから、せっかくだしスワちゃんと並走してみよっかなって」
「君ね……」
契約をとりつけたいがあまりオーロラクラックを焚き付けたのか、とスワローウィローを睨むと、オーロラクラックが慌てた。
「ちがうよぉ、私から誘ったの。一緒に走ろって」
スワローウィローがグラウンドの隅でダンゴムシを眺めているのを見て、不憫に思ったらしい。オーロラクラックから言い出したのなら仕方ない。善田は諦めのため息をついた。
「オーロラ、足見せて。前後に動かしてみて。そう……痛みは?」
「ないよ〜」
彼女の足首の骨自体はほぼ治っている。だが善田はまだ無理をさせたくなかった。
念のためテーピングを巻き直し、動きの確認をする。オーロラクラックの表情を見る限り、痛みがないのは本当のようだ。
「三本までならいいよ」
「やったぁ。トレーナーありがと」
ちょうどコースが開いた。ゴール位置にはカレットパレットを立たせ、二人をスタート位置に並ばせる。コーナーでの負荷を考え、オーロラクラックは外枠を意識した位置に。スワローウィローを内枠に立たせる。
「距離は1,600m、コーナーは二つ。今回はコーナリングで無理に体を傾けないようにしなさい。まだリハビリの範囲だ。ちゃんとセーブをするように」
「はぁーい」
「おねえさん、わたしは?わたしには?」
「……好きに走りな。Ready,set,……GO!」
体が熱い。喉がヒリヒリと痛み、いくら息を吸い込んでも足りない気がする。
汗が止まらない。足の感覚が遠い。まるで自分の足ではないように重い。ごうごうと音が耳の中で鳴っているのに、誰の声も聞こえない。
三本目の並走は、オーロラクラックの背を見ながらのゴールだった。汗と疲労で視界は滲み、ぼんやりとしかその背は見えない。ゴール後に倒れ込むことだけは気合いで我慢したが、ベンチの手前まで行ったところでスワローウィローは倒れ込んだ。
「スワちゃん!?」
「トレーナー!」
オーロラクラックとカレットパレットが駆け寄る気配がする。大丈夫だと片手を上げたつもりだったが、両手はグラウンドについたままピクリとも動かなかった。
「カレット、ボトル取って。口開けなさい」
仰向けにしてくれたのだろう。ぐるりと視界が回って太陽の光が意識を揺らし、青い空が映った。半分開いた口に冷たい水が流れ込む。
飲み込んでいくうちに、少しずつ感覚が体に戻ってくる。風の音も、温度も、喉を癒すドリンクの味も。そして自分を抱き抱えている人の顔も。
「おねえさん」
まるで、あのときみたいだ。
スワローウィローはぼんやりと思い出していた。初めて彼女と出会った時も、こうやって抱き上げてもらった。
「サングラス、してない」
「してたら顔色わかんないでしょ。……呼吸も大丈夫そうだ。立てる?」
カレットパレットに支えてもらいながら、なんとか立ち上がる。さっきまでは感覚もなかった足裏が、今はしっかりと地面を感じている。
善田に言われるがままに手足を動かしたが特に痛みはなく、大丈夫だと告げると、善田は安堵の息を洩らした。
「肝が冷える。並走ってのは全力疾走するもんじゃないんだよ」
「……ハイ」
言われてみればそうだ。同じ距離を走ったはずのオーロラクラックは平然としている。
「まあ、注意しなかった私の責任もある。悪かった」
「お、おねえさんが謝ることじゃない!わたし、先輩に勝ちたくて……」
一本目は同着、二本目は勝てた。だから三本目も勝って、自分をアピールしたかったのだ。だが、走った後になってわかった。最初の二本は手加減されていたのだ。オーロラクラックは善田に言われた通り、セーブをして走っていた。
「わたし、ぜんぜん強くない……」
「そりゃ当然でしょ」「当たり前だよぉ」
カレットパレットとオーロラクラックは噴き出した。
「だって君はまだ本格化どころかデビューもしてないウマ娘だよ?走り方もトレーニング方法も、まだ身についていない。そんな子に負けちゃ、あたしたちの方が困るよ」
「そうだよぉ、私と並走できるぐらいに走れてるんだもん、自信持っていいよ〜」
だから、とカレットパレットが手を差し出す。
「これから一緒に頑張っていこう」
「ちょっと待てカレット」
善田が抗議の声をあげるが、二人は無視をした。
「見た感じ君は芝のマイル向きだろ?オーロラとは路線が違うし、チームの登録にも問題ないはずだ」
「もーちょっと距離短くてもいけるかも?そのへんトレーナーと相談だねぇ〜」
「あ、あの……」
いいのだろうか。ちらりと善田の顔を伺うと、彼女はしばらく黙って空を見上げていたが、「誠に遺憾である」という文字を浮かべたような渋面で、ゆっくりと頷いた。
「ようこそ、チームへ。まだ名前はないけど、君が三人目の仲間だ」
「さっそくスワちゃんの歓迎会しよー!」
「よろしくお願いします!」
差し出された手を握り返す。
あたたかな風が吹き抜け、髪を揺らす。どこかで鳥の鳴く声が聞こえた。
スワローウィローが連れてこられたのは、ミーティング用の小さな会議室だった。
「それじゃ、チームミーティングするよ」
「ええ〜歓迎会はぁ?」
「知らん。カレットパレットのレースが近いんだから、そっち優先」
善田がホワイトボードにレース名を書いていく。カレットパレットの次走は東京ダート1,600m。青竜ステークスだ。
「そっかぁ、仕方ないね〜。ハイ、お菓子あげる。じゃあスワちゃんの歓迎会は、カレっちの祝勝会と一緒にやろうねぇ」
「ゴメンネ」
「いえ、その、がんばってください!」
「次、オーロラクラックの復帰について。明後日病院の最終診断が出るから、それを待って復帰戦のスケジュールを組む。六月前半にある東京の一勝クラス、芝2000mのレースを目標だ。夏合宿の前に一戦はしておきたい」
「京都は出られないの?」
「急すぎる。復帰戦で無理をするべきじゃない」
トゥインクルシリーズは毎週多くのレースが開催される。名前がつくものもあれば、一勝クラスや二勝クラスといったシンプルな名前だけのレースもある。全てのウマ娘の憧れ、GⅠのレースに出るには、こうした名前のないレースに勝ち抜いていく必要があった。
「で、急に静かになったそこのポニーについてだが」
「はい!」
普段ならポニーではないと抗議するところだろうが、初めてのミーティングと膨大な情報にスワローウィローは混乱していた。
「当面は出走に向けて課題の修正」
「えっと……スタミナ、とかですか?」
オーロラクラックとの併走ではスタミナを使い切り、倒れてしまった。思い返すと、三本目のレースはほとんどガス欠だった気もする。
そう答えると、善田はしばらく目を伏せ、
「……まあそのへんだ」
と、頷いた。明らかにいろんな言葉を飲み込んだ表情だ。それほどまでに課題が多いのか。スワローウィローは手元の紙を握りしめた。
「トレーナー、もーちょっとスワちゃんに優しくしたげてよぉ」
「大人気ないですよ」
「ぐっ……」
二人に嗜められた善田は、スワローウィローにまっすぐ向き直った。
「あのね、スワローウィロー。君には課題が山ほどある」
「……ハイ」
「でもデビュー前のウマ娘なんて課題だらけで当然なんだ。急いで全部いっぺんに直す必要はない。一つ一つ課題を潰していくのが私の方針だ。デビューまでまだ時間はある。さっき挙げたスタミナ管理も含め、丁寧にやっていこう」
つまりは契約成立だ。
まるでフィルターがとれたように、パッと世界が明るくなる。尻尾が大きく波打ち、耳が天を向く。頬が熱い。全力疾走した後のようだ。
スワローウィローは机に額がつきそうなぐらいに頭を下げた。
「ハ、ハイ!よろしくお願いします!」
「課題はいろいろあるが……とりあえず真っ先に直した方がいいのはポジショニングと、それを踏まえたコース取りだ」
個人トレーニング初日、善田に指摘されたのはポジショニングの悪さだった。
「併走の時もそうだったが、キミの走りはやたらとフラフラする。後方でキックバックを気にするならともかく、先頭に立っている間も細かくポジションを変えている。これに関してキミ自身の意見はある?」
「えっ、……ない、です。というかわたし、そんなフラフラ走ってるつもりはなくて……」
「無自覚か……だとすると根が深いな」
善田はタブレットを取り出して動画を再生した。
「これは先日の併走。二回目の走りだ」
オーロラクラックとの二度目の併走、スワローウィローは渾身の走りで先着した。スタミナ管理はさておき、見る限り自分のしたいレースが出来たとスワローウィローは思っていた。しかし善田は首を横に振った。
「スタートしてから最初のコーナーに行くまでの直線」
善田が動画をスロー再生にする。
「オーロラクラックよりも先にゲートを出たキミは細かくポジションを変えている」
「それはバ場のいいところを探して……」
「たしかに状態のいい場所を探すのは大事だ」
一日に12レース、半分が芝のレースだ。何人ものウマ娘がそのパワーで全力疾走をすれば、芝は当然傷み、開催終盤にはほとんど土になってしまう箇所もある。だから、状態のいいバ場、いわゆる経済コースを探すのは大事だと善田は言った。
「でもそれは一歩ずつ行うものではない。キミは走る時、とにかく視線が低い。とくに内ラチ沿いにまで来ると、まるでバ場のいい場所だけを選んで飛び跳ねるような走り方をしている」
言われてみればそうだ。毎日整備されているとはいえ、みんながよく走るコースは全体的に芝が薄い。その場所に差し掛かると、スワローウィローの走行フォームは崩れが目立つようになっていた。
「なぜこんな走り方をしているかはわからないが、このままではレースに出せない」
スワローウィローは身を強張らせた。
慎重にバ場を選びすぎることはフォームを崩し、スタミナを浪費するだけではない。バ群に入ったとき、接触事故が起こりかねない。
時速60kmで走るウマ娘たちが競走中に接触した場合、その衝撃はそのまま肉体に伝わる。衝撃を緩和してくれる鉄の装甲などない、剥き身でレースをしているのだ。
「ゴールまで真っ直ぐ走る練習。それが最初の課題だ」
ウマ娘なら物心つくころにはやっている簡単な練習。しかしそれがスワローウィローにとって厄介な課題になるとは、そのとき思ってもみなかった。
最初はトラックを使い、真っ直ぐ走る練習からだった。ウマ娘のレースは基本的にラインを用いた専用のレーンを持たない。バ場状態と最適な走行ラインを描くこともレースの魅力とされているからだ。だからラインを引いたグラウンドを走らされるのは小学校の運動会以来だ。
走る距離は530m。東京競バ場の第四コーナーを曲がってからゴールまでの距離と同じに設定された直線を、ただ走るだけだ。ただし、白線を越えてはいけない。1.2mしかない狭い幅の中でしか走れないのだ。それは思った以上に苦しい練習だった。
「視線下げない、前を見る!線を踏むな!」
厳しい声が飛んでくる。
「ここはグラウンドだぞ、バ場を選ぶ理由なんてない」
善田の言う通りだ。しかし、走り終えたスワローウィローが振り返ると、白線を踏んだ足跡がいくつも残っていた。
ただまっすぐに走る。それだけのことがこんなにも難しい。500mという超短距離はスピードが乗り切らないので大したスタミナも使っていない。それなのに五本走った程度でスワローウィローの息はあがっていた。
「15分休憩。水分補給しなさい」
「ハイ……」
気合いを入れるためにおろした黒いシューズは砂と石灰にまみれ、薄汚れていた。ただまっすぐ走るだけの簡単な練習なのに、一度もクリアできない。ひどく惨めな気分だった。
スワローウィローが休んでいる間、善田はコースにいた。
「……?」
スワローウィローが走ったレーンをゆっくり歩き、時々止まってはしゃがみ込むを繰り返す。何かを拾っているようだった。
「息は戻った?」
「ハイ。あの、おね……トレーナー、何してたんですか?」
「石」
善田は握っていた拳を広げる。そこには1センチも満たない小石が乗っていた。
「今キミが白線を踏んだところ全ての小石を拾ってきた。これでバ場を選ぶ理由はないはずだ」
だが、結果は変わらなかった。
何度走ってもどこかで白線を踏んでしまう。大丈夫だとわかっていても、足が迷ってしまうのだ。無意識に安全なルートを探す癖がついているのではないか、と善田は分析した。
「あの、トレーナー、これは一体……?」
コースに立つなり両手を握られ、スワローウィローはどぎまぎした。
「ゴールまで歩くだけ。ただし、絶対に私から目を逸らさないこと。いい?」
そう言われても、サングラスを外した善田にまっすぐ見つめられてしまうと思わず視線を逸らしたくなる。なんとか堪えて頷くと、善田はスワローウィローの手を引いて後退していく。
100メートル近くを歩いたところでスワローウィローは善田がしていることに気がついた。ずっと後ろを向いているのに、背中に目がついているかのように真っ直ぐ歩いているのだ。
なぜだろうか、と疑問に思ったところで目の焦点が外れ、善田の背後にあるゴールラインが浮かび上がるように見えた。
「あ……」
善田がこちらを見ているのにも関わらず、コースから外れない理由がわかった。
「わかった気がする」
二人は立ち止まった。
「言語化してみて」
「えっと……トレーナーだけを見ているつもりだったのに、実際見えているのはトレーナーだけじゃなくて、ゴールと、空と、グラウンドと、いろいろあって……ええと、うーん、とにかくいっぱい見えていました!」
「……キミは授業をもう少し頑張った方がいい。まあでも、理解はできたようだね」
善田は手を離した。
「おそらくその安全圏を選ぶ走り方は身に染みついたものだ。体が覚えてしまっていることを変えるのは難しい。だが、意識の方は変えられる」
要因は二つ。一つは無意識に足が走りやすい場所を探す体の反応。もう一つがそれを探そうとする意識だ。危機回避の意識が視線を誘導し、視界から入る情報に体は付随する。それがフラフラと千鳥足で走る悪癖につながっていた。
「足元だけを見るな。キミが見えている世界はもっと広い。目の前の状態、その少し先のもの、そしてゴール。見るものを増やし、そこから同じくらいに情報を拾いなさい」
練習最後の一本。振り向くと、白線は滲むことなく綺麗なまま、まっすぐに伸びていた。
中京5R 芝1400m メイクデビュー
天候 雨、馬場 重、出走数 8人
1 バッカスブルー
2 スワローウィロー
3 マルカン
4 クロカワノサイフ
5 リンゴキャンディ
6 レンネット
7 ロータスロータス
8 シーブルージェム
朝から降っていた雨は昼になって本降りの様相を見せていた。
控え室から引き上げた善田は、関係者用のエリアでスワローウィローが入場するのを待っていた。同じレースを走るトレーナー達が傘やレインコート姿で並ぶ中に善田も混じる。
居並ぶトレーナー達の表情は一様に浮かなかった。
条件が悪い。
メイクデビューは好条件でもトラブルがつきものだ。初めて走るコースに加えてこの視界の悪さ、重い馬場と滑りやすい芝。この条件では本来の実力を測ることは難しい。
とにかく一周無事に回ってきてくれ。
トレーナー達の気持ちは一つだった。
八人のウマ娘が向正面でゲートに入る。トレセン学園にもゲートはあるが、やはり本物のゲートとなると威圧感があるのだろう。緊張で何人かのウマ娘がゲートインに手こずっていた。ウマ娘ではない人間からすると、ゲートを嫌がる気持ちはわからないが、オーロラクラック曰く「バンジージャンプを飛ぶ前みたいな、や〜なドキドキがあるよぉ」ということらしい。
スワローウィローはすんなりとゲートに入った。体制が整い、スターターが赤い旗を振る。
無事に帰ってこい。
善田は雨で冷たくなった両手を握りしめた。
『八人のウマ娘が揃いました。中京第五レース、メイクデビュー、今……スタートしました!バラついたスタートになりました。ハナをとったのは4番クロカワノサイフ、2バ身、3バ身と距離をとっていきます。』
クロカワノサイフが逃げていく。その背中を見ながら、スワローウィローは内枠を先行集団の中にいた。スタートは決してうまくはなかったが、それは他のウマ娘も同じだったらしく大きな不利はなさそうだった。
(雨が目に入る。わかってたけど、めちゃくちゃ走りにくい!おねえさんは周りをしっかり見ろって言ったけど、どこ走ってんのかぶっちゃけ全然わかんないー!)
先頭に立てば雨風をまともにうけるし、後続につけばキックバックの芝と泥とが容赦なくぶつかる。
経験豊富なウマ娘であれば臨機応変にコースを変えて風や泥を避ける、あるいは辛抱して走るだろうが、今日がデビュー戦となるウマ娘達には難しい。キックバックを嫌がって密なバ群にはならず、足元の悪さもあって縦長の展開となった。
(コーナーは二つ。隣に誰もいないなら思い切って回っていいって言われたけど……足が全然抜けない!)
コーナリングが得意なオーロラクラックのように体を傾けて最短コースを取ることもできず、やや膨らんだカーブとなる。しかしそれが幸いにも後続に距離を取らせる結果となった。
クロカワノサイフの背が少しずつ近づいてくる。スタミナ切れだ。1400mという短距離であっても、重馬場のデビュー戦はスタミナを削っていく。
(このまま行けば前は開く。次のコーナーを回って直線に出たら、全部出し切る!)
『先頭を行く4番クロカワノサイフ、前との距離が縮まってきました。後続との差は一バ身。第四コーナーを回りました。集団横に広がって、抜け出したのは2番スワローウィロー!8番シーブルジェムが追いかける!外からきたのは3番マルカン!』
スタンドから歓声があがる。だがスワローウィローの耳には蹄の音と雨音、ごうごうと唸る風の音しか聞こえない。
息が苦しい。全身を叩く雨粒が痛い。ゴール板が見えない。ほとんど目を瞑った状態で、スワローウィローはゴール板を駆け抜けた。
『1着はスワローウィロー、スワローウィローです。雨の降りしきる中、見事デビュー勝ち!2着はマルカン、3着はシーブルージェム!』
快哉が聞こえる。けれどそれが聞こえていないスワローウィローは、足を止めるのが怖かった。
減速することなく直線を駆け抜け、コーナーの手前にまで来て、後ろから声をかけられたスワローウィローはようやく足を止めた。
「わたし……勝った?」
スワローウィローを追いかけてきてくれたマルカンは苦笑した。
「掲示板見なよ。悔しいけど、クビ差でアンタの勝ち」
掲示板には1着2番という数字が赤く表示されていた。
マルカンの声に悔しさは滲むも表情はさっぱりとしている。悪条件なりに実力を発揮できたからだろう。
「や、ったぁ〜」
「あーあ、せっかくセンターになる練習してきたのに」
「センター……」
ウイニングライブは学園の授業で毎日のように受けている。誰がセンターになるかはわからないので、全員がセンターとサイド、バックのフリを一通り習得することになっている。特にセンターは自主練する者が最も多い。誰もが憧れるポジションだ。そのはずなのだが……、
「何言ってんの?メイクデビューのウイニングライブがあるでしょうが。授業でセンターの練習ちゃんとしてれば……え、まさか、ウソでしょ?」
嫌な沈黙にマルカンの表情が固まる。
「どうしよう、マルカンちゃん……センターのフリ、全部忘れちゃった!」
ウイニングライブまで、あと4時間。
トレセン学園近くにあるカラオケの一室。ガラステーブルには四つのドリンクと山盛りのポテトが並べられていた。
にんじんジュースを手にしたオーロラクラックが乾杯の音頭をとる。
「それではぁ、スワちゃんの初勝利兼、私の二勝目兼、カレっちのお疲れ様会」
「兼、反省会」
渋面の善田が呟いたが、オーロラクラックは華麗にそれを無視した。
「乾杯⭐︎」
「かんぱーい!」
グラスが鳴り、オーロラクラックが設定したBGMが流れ始める。ウイニングライブで使われている曲のアレンジ版だ。
「まさか『Make debut』!でフリ飛ばす奴がいるとは思わなかったよ」
「まあまあ、良いじゃないですか。あれはあれでいい演出でしたよ。ライブはちゃんと盛り上がってたし」
三勝目を目指したカレットパレットだったが、結果は惜しくも差し切られての二着。レース内容に課題が多く見つかったものの、それがむしろ彼女のやる気を高めたらしく、表情は明るかった。
「そうだよぉ、むしろ初々しくて推せるって言ってた人もいたよ〜」
オーロラクラックは半年のブランクを経ての復帰戦で見事に勝利。半年前のレースと遜色ない走りを見せたと評価され、ファン数が一気に増えた。
「来年の参考映像で晒される時も同じことが言えるならね」
「う゛っ……」
スワローウィローは悪条件の新バ戦を勝ちきり、期待のウマ娘の一人としてピックアップされた。しかしその記念すべき最初のウイニングライブは酷いものだった。
ほぼ全ての振り付けを忘れたスワローウィローは、同じレースを走ったマルカン達の助けも虚しく間に合わなかった。
「もう下手に踊らせるよりは、歌だけに集中させたほうがいい」
というシーブルージェムの判断により、スワローウィローはど真ん中に立ち、マイクを握ってひたすら歌を歌うという異例のスタイルでウイニングライブを終えたのだった。
ライブスタッフの尽力と工夫により、観客には演出として誤魔化すことはできたが、トレーナー達やスワローウィローの両親は何が起きたのかすぐに察したらしい。
善田はその日、多くのトレーナーから苦笑を向けられ、スワローウィローの両親からは「不器用な子ですが、長い目で見てやってください…」という言葉と共に大量の差し入れを渡された。
「ウイニングライブは特別なものなんだ。ましてやセンターに立てる数なんて限られている。レースと同じぐらい大事にしなさい」
「ハイ……」
「次からはダンスと歌の練習もチェックするから。ちゃんと授業で練習してきな」
特に『Make debut!』は今後も歌う機会が多い。
「トレーナーってライブの振り付け覚えてるんですか?」
「何年トレーナーやってると思ってんだ。トレーナーなら定番曲の振り付けぐらい覚えてるもんだよ」
「えっ、じゃあおねえさんも『うまぴょい伝説』歌ったりできるんですか?聞きたいです!」
踊れるトレーナーは稀だが、実は善田も歌うだけならば一通りできる。担当の前で歌うぐらいなら京都競バ場の3000mを走る方がマシだと思っているが。
「さて、次走についてだが」
スワローウィローがピィピィと喚くのを無視し、善田はスケジュール帳をテーブルに広げる。トレセン学園から支給されるレースカレンダーつきの手帳には、オープンのレースも含め開催12レースが記載されているトレーナー専用の手帳だ。
「カレットパレットは九月のさざんかテレビ杯への出走を目標にする。格上挑戦だが実力、条件に不足はないと思っている。夏合宿できっちり上積みを作るぞ」
「はい!」
「オーロラクラック」
さっきまで曲選びに夢中だったオーロラクラックは、すでに善田の方へ向き直っていた。
「オールカマーかセントライト記念。どちらも右回り、中山だ。得意条件ではあるが、足の具合次第で判断する。いいね?」
「はぁーい。がんばるよん」
完治の診断は貰えたが、前走はペースの速いレースだった。足首の調子によっては格上挑戦ではなく、勝ちを意識したレース選択をすると伝える。
「スワローウィロー」
「は、はい!」
「……次走は京王杯ジュニアステークスだ」
「重賞……!」
スワローウィローの喉がごくりと鳴る。それを聞いた先輩二人の表情も変わった。
メイクデビューで勝利したウマ娘の次走は三パターン。同じ一勝クラスの条件戦、混合のプレオープン、そしてジュニアを対象にした重賞。
善田は安全堅実派のトレーナーだ。カレットパレット、オーロラクラックともに格上挑戦をするときにはそれなりの実力を備えさせてからでないとゴーサインを出さない。
スワローウィローには課題が多い。それを解消しないうちに重賞へ挑戦させるのは、異例ともいえる判断だった。
次走を決めるにあたって、善田は他のトレーナーにアドバイスを求めに行った。あまり交流の機会がなかった芝を得意とするトレーナーの所にも出向いてきめたのが京王杯ジュニアステークスだった。
「京王杯は前走と同じ1400m左回り。コースは違うが、条件は変わらない」
トレーナーからは距離を1600mに延長させ、新潟ジュニアステークスなどに出走させるのも良いのではないかと提案された。しかし善田はスワローウィローの実力をもう一度見ることにした。あの新バ戦は悪天候と少人数のため、実力を全て出せたとは言い難い。
距離の延長はそれからだ、と善田は決めた。
「私は二人の夏合宿に帯同するから、普段よりも自主練の割合が多くなる。指示を守り、トレーニングを怠らないように」
「がんばります!」
「ダンスと漢字ドリルもだからね」
「はぃ……」
京王杯ジュニアステークスは十一月。
スワローウィローにとって大事な準備期間が始まった。
七月に入り、クラシック、シニアのウマ娘は夏合宿が始まった。
とくにクラシック期の夏合宿は能力が大きく伸びる時期だ。当然トレーナーたちはほとんどがその夏合宿に帯同するため、専属トレーナーをもたないジュニアのウマ娘達は自主トレーニングがメインになっていた。
合宿所はいくつかに分かれており、今年は比較的トレセン学園に近い場所だったこともあって、三日に一度は善田がトレーニングを見てくれていた。
「ちゃんと指示通りトレーニングできてるみたいだね。よくこなせている」
一通りのメニューをこなし、各所のチェックを終えると、善田は珍しく褒め言葉を口にした。だがいつもならうるさいくらい喜ぶはずのスワローウィローは、どこか不安気だった。
「ハイ。でもなんかちょっと……物足りない感じがして……」
スワローウィローの後ろでは他のウマ娘が走り込みをしている。坂路、パワートレーニング、瞬発トレーニングと過酷なトレーニングを積む彼女達の様子に対し、スワローウィローに課されたのは基本トレーニングと長いウォーミングアップのみ。走り込みも善田が見ている時にだけしか許されてはいない。
みんなは汗を流して走っているのに、自分は涼しい顔をしてトレーニングを終えている。そんな状況に戸惑いを感じているようだった。
「それでいいんだ。君の身体は今が成長期だ。本格化を前に過度なトレーニングをするのはいい選択じゃない」
「ハイ……」
「……何か、気になることでも?」
「えっと、デリバーが……同室の子なんだけど、デビューしたけど、なかなか勝ててなくて」
デリバーステッカーのことはスワローウィローから聞いたことがある。メイクデビューは3着。フォームや筋肉は備わりつつあるが、レース勘や粘り、競り合いに負けないなどのセンス部分の要素が不足している印象だった。
「毎日朝早くから練習してて、すごいなって思うんです。でも、このまえのレースも勝てなくて、だからもっと練習しなきゃってなってて……わたしはあの時勝てたから、ちょっとしか練習しなくていいのだとしたら、なんかヤダなって……」
「フーン。それだけ?」
「う、うん……」
「じゃ、来週までに同じメニューこなしておきなさい」
「おねえさん!」
「トレーナーと呼びなさい」
スワローウィローの額を弾く。
「練習量と勝ち星は比例しないよ。ハードトレーニングが必要な時期もあるけど、勝負の世界は頑張ったら頑張った分だけ報われる公平な世界ではない」
ジュニアの時期のウマ娘にはよくある悩みだ。レースは勝負の世界だが、トレセン学園に来るウマ娘達が全員覚悟して来ているわけではない。それまで純粋に走ることを楽しんでいた彼女達は、勝ち負けのつく世界に来て初めて知るのだ。走ることは楽しいだけではない、と。
ただ走りたくて走っていただけのそれに、付加価値がどんどんついていく。
自分の走りが誰かを喜ばせ、誰かを傷つける。そして迷う。
勝者だからこそ一層厳しいトレーニングをしなければいけないという考えも、その迷いから生まれる誤解だ。
「私は勝つための練習はさせるけど、練習すれば勝てるとは言わない。練習が足りないから勝てないことはあっても、勝てなかったから練習が足りないわけじゃない。練習と勝利はイコールじゃないんだよ」
スワローウィローは頷いたが、その表情は晴れない。善田の言葉を飲み込むにはかなりの時間がかかりそうだった。
「……来週、なにか予定は?」
「ない、です」
「じゃ、来週は休みだ」
「えっ」
「デリバーステッカーだっけか。彼女のトレーナーにも話を通しておく」
幸い、デリバーステッカーのトレーナーとは頼み事の出来る仲だ。お互い良いリフレッシュ期間にはなるだろう。
「夏休みが楽しめるのはジュニアの時期だけだ。今のうちに少し遊んできなさい」
潮騒の音と少し前に流行ったポップスが混じり合って届く。広域放送のぼやけた声、車の通る音、蝉の鳴き声。
いろんな音を吸い込んだ黒鹿毛のウマ耳をぴくぴくと動かしながら、スワローウィローはデリバーステッカーの後を追いかけた。
トレーナーに休みを言い渡されたスワローウィローはデリバーステッカーに誘われ、彼女の家に遊びに来ていた。
電車を降り、テニスコートを通り過ぎて小さな神社を曲がったところに、デリバーステッカーの家はあった。
大きな生垣がぐるりと囲み、どっしりとした石の門と車が四台入る大きな駐車場。生垣の向こうには大きな松があり、古くからある立派な家だということはわかった。
「ただいまー」
「もう着いたの?電話してくれたら迎えに行ったのに……あら、あなたがお友達ね。娘がいつもお世話になってます」
デリバーステッカーの母親は彼女そっくりの鹿毛のウマ娘だった。
「あ、え、こ、こんにち、は……」
思わずデリバーステッカーの陰に隠れる。トレセン学園に行ってから少しは大人と話すことにも慣れて来たが、やはり知らない大人と話す時は緊張してしまう。
「この子ちょっと照れ屋なんだよ。父さんは?」
「配達。夕方には戻ってくるよ。今日はアンタが帰ってくるから大急ぎで配達してくるって張り切って出て行ったから」
「安全第一って言っといて。ほら、スワロー、こっち」
「ウン」
二階に行くと、日本家屋らしからぬポップでカラフルなステッカーがいっぱいに貼られた部屋があった。そこがデリバーステッカーの部屋らしい。
だが彼女の部屋には、部屋の主人ではない先客がいたようだ。
「おかーりー」
カラフルな壁や天井に反してシンプルなグレーのベッドの上には、小学生ぐらいの女の子が漫画を読んでいた。
「すみれ、ここアタシの部屋なんだけど」
「だってここが一番涼しいんだもん。……もしかして、お姉ちゃんの友達?」
「は、はじめまして。スワローウィロー、です」
少女の耳は肌と同じ色で小さく丸い。どうやらウマ娘ではないようだった。
「初めまして。妹のすみれです。ウマ娘だぁ……あ、そっか、トレセン学園だもんね。みんなウマ娘だよね。どっち走るの?ダート?芝?どのレースが目標?やっぱダービー?」
「すみれ、初対面の人に失礼だよ。荷物、こっち置きな」
「ねえねえ、お姉ちゃんといっしょの部屋なんでしょ?お姉ちゃん口うるさくない?靴下片付けろとか、本出しておくとすぐにしまえって言うし」
「デリバーは優しいよ。わたしはきょうだいがいないから、デリバーが一緒だと安心する」
初めての寮生活で何から何まで初体験だったため、デリバーステッカーがいなければ慣れるより先に潰れてしまっていたかもしれない。
「ふーん。スワローウィロー……、わ、すごい。お姉さん、メイクデビューで勝ったんだ」
メイクデビューの映像を見ているのだろうか。友人や親から褒められるのとはまた違った感覚が落ち着かない。
「そーだよ。強いウマ娘なんだよ、スワローは。さ、ちょっと出かけよう。近くにいいコースがあるんだ」
そう言ってくれてホッとした。
デリバーステッカーに連れられるまま、二人は自然と走り出していた。海岸沿いはランニングコースになっているらしく、ウマ娘の専用レーンはないものの、十分に走れる広さがあった。
海水浴客で賑わう海岸を眺めながら走っていき、小さな公園で休憩をした。
「小さい頃からここを走ってるんだ。海を見ながらずっと走って、この公園でジュース飲んで、帰りは砂浜走って家まで戻る。トレーニングしてたわけじゃない。ただ走りたいのを止められなくて、ここを走ってた」
夕方、人のいなくなった浜辺を走る。乱反射する夕焼けの橙色がとても美しいのだとデリバーステッカーは語った。
「このあたりさ、大昔レース場があったんだって。今もそのレース場があれば、アタシはここで走ってたかもしれない」
今そのレース場はボートレース場になっているという。浜辺を走るデリバーステッカーが、そのままレース場に飛び込む姿を想像して、スワローウィローは楽しくなった。
その様子を見て、デリバーステッカーは微笑んだ。
「アンタさ、アタシが勝てなかったの、気にしてるでしょ」
「……ウン」
先週の未勝利戦、デリバーステッカーは四着だった。
「正直者め。……アタシもね、気にしてる。でも親はもっと気にしてると思う。今年中に、なんとか勝てればいいんだけど」
「……」
どう答えればいいのかわからなかった。スワローウィローはメイクデビューで勝っている。ジュニア期は一勝した者とそうでない者の間に大きな差がある。レースを選べる自由があり、基礎を積んでいく余裕がある。
勝つことと練習はイコールではない。
善田はそう言ったが、自分よりずっと過酷な練習をしてきたデリバーステッカーが勝てていないのに、自分は安穏としていていて良いのだろうかという不安が消えなかった。
「よし、休憩おしまい!帰りにさ、海の家寄って行こうよ」
「海の家、あるの?」
「当たり前じゃん、夏といえば海の家でしょ」
「だって海、行ったことないもん」
小さい頃住んでいた場所には近く海があったそうだが、海水浴というものは映像の中でしか見たことがない。
「うっそ、まじで?じゃあ明日は朝から泳ぎにいこっか」
「うん!」
青春を歌うキラキラした歌が、夏の光線と共に届く。木漏れ日はまだ強く輝いていた。
夕日が残りわずかな明かりで縁側を照らす。スワローウィローとデリバーステッカーは心地よい疲労と共にくつろいでいた。
「あのウマ娘の人たち、すっごく強かったね」
飛び入り参加したビーチバレー大会で、二人は順調に勝ち進んでいった。しかし準々決勝で異様な強さのウマ娘コンビにあたってしまい、あえなく敗退。サイダーの参加賞を貰って帰ってきていた。
「名前聞きそびれちゃった。誰だったんだろ。地元じゃ見ない顔だから観光客だと思うんだけど」
一人はブラウンの髪に白い星が散りばめられたリボン、もう一人は青色のラッシュガードに白い大きなクロスのピンが目立つウマ娘だった。
他にもウマ娘の参加者はいたが、あの二人だけは他と核が違う様子だった。
「もしかして、どこかのレース場にいるかもね」
試合中走る姿は見られなかったが、あの瞬発力やパワーは並ではない。おそらくまだレースを現役で走っているのかもしれない。二人はその話でしばらく盛り上がった。
「すーちゃん、ちょっと手伝って」
「はぁーい」
祖母に呼ばれ、デリバーステッカーが立ち上がる。今日は庭でバーベキューだ。
客だから座っていなさいと言われ、スワローウィローは縁側の隅でサイダーを舐める。デリバーステッカーの家族はみんな良い人だが、さすがに一人にされるとまだ心細い。
「あんたさん、トレセン学園の生徒さんだそうだが」
所在なさげなスワローウィローを気遣ったのだろうか。デリバーステッカーの祖父が話しかけてきた。デリバーステッカーに良く似た目元で、気さくで話しやすい老人だった。
「あの子、どうだね」
老人の頬は赤い。手にはビール缶が握られていた。
「え?どうって……いつも優しくて、頼りになって」
「そりゃあ、わかってるよ。そうでなくてな、こう……レースのことだよ。勝てると思うかい」
「……わ、わかりません。わたし、ダートじゃ、ない、ので……」
そうとしか言えない。ダートレースには馴染みがあるが、観戦したことしかなく、実際のレースで何が起きているかは想像がつかない。
「親父、飲み過ぎだ。そろそろやめとけよ」
返答に詰まるスワローウィローに気づいたのか、炭を準備していたデリバーステッカーの父親が止めに来てくれた。
しかし彼女の祖父は止まらなかった。止められない、という様子だった。
「お前は黙っとれ。芝だのダートだのは関係ない。あんたは勝てると思うかね」
「……」
答えられなかった。デリバーステッカーには勝ってほしいと心から願っているが、勝てると安易に口に出してはいけない。自分が一勝をできたからこそ、そう感じていた。
「……あの子は、もう三回もレースに負けとる」
「おい、親父」
「あの子はここらじゃ、いっちばん速いウマ娘だ。小学校の頃から誰にも負けたことがない。大人にだって負けたことがない」
「やめとけって、なあ!」
「それなのになんで勝てん?なんであの子は毎回泣かにゃならん?」
スワローウィローを責めているわけではない。それはわかる。しかし老人の苦しい心情をぶつけられたスワローウィローは動揺で固まってしまった。
見かねた父親がついにはっきりと怒りの表情になった。
「スワちゃん、あっち行ってな。悪いね、この爺さん酔ってんだよ」
優しく、しかしこれ以上この場にいてはいけないと告げられ、スワローウィローはおずおずと立ち上がった。
「じいちゃん、父さんもしかして喧嘩してんの?……スワロー?」
行きなさい、と父親が手を振る。デリバーステッカーに駆け寄ったスワローウィローは急いでその場から離れようと手を取った。
「中央なんて行かせるべきやなかったんや……!」
「親父!」
酒で緩んでしまった堰は止めることができなかった。
老人の顔が青ざめている。己の口から出た言葉が信じられないようだった。
「………………」
「デリバー、……」
シン、と静まり返った庭に、パチパチと炭がはぜる音だけが響いた。
重い沈黙を破ったのはデリバーステッカーだった。手に持っていた盆を置くことなくスワローウィローの手を引く。
「スワロー、向こうでスイカ食べよ」
玄関先に出したベンチに座り、黙ってスイカを齧った。
「ごめんね、大丈夫だった?」
「……う、ん」
平気だ、と言おうとしたが言葉が出なかった。どういうわけか涙がぽろぽろと溢れ、スイカの上に落ちる。
「あー……、そうだよね、わけわかんなくて怖かったよね。ほんとごめん」
「ごめん、デリバーが、辛いの……わかって、あげられなくて」
どれだけ想像したところで、その境遇にしかわからない感情がある。
「アンタはいい子だね。ヨシヨシ」
「デリバーは、平気、なの?」
「んー?アタシはねえ、平気……じゃないよ。流石に身内にああ言われるとね」
そう言いながらデリバーステッカーは三つめのスイカに手を伸ばした。
「でもね、悲しいとはなんか違うかな。なんというか、……悔しいが三割、ムカつくが五割、納得が二割ってかんじ」
「納得、してるの?」
「ちょっとだけ、ね。中央のレベルの高さは予想してたけど、思ってた以上だったなぁって。才能の差ってやつかな」
誰よりも早くに起きて、誰よりも遅くまで練習したところで勝てない者はいる。人はそれを才能、という残酷な二文字で呼ぶ。
「もちろん、まだアタシは辞めるつもりないよ。トレーナーだって、まだ諦めるには早いって言ってくれてるし」
連闘はウマ娘だけではなくトレーナーにも相応のリスクがある。それでもデリバーステッカーを勝たせてやりたいトレーナーは、彼女を可能な限りのレースに出走させていた。
「でもね、そろそろ考えなきゃいけないのも確かなんだ。アタシは中三だからさ」
トレセン学園には厳しい競争のルールが存在する。一定の期間内に勝利できない者は転籍を告げられることがある。
中等部の三年にいるウマ娘の何割かは、転籍か進学かを考えなければならない時期に来ていた。
「このままトレセン学園に進学して本格化を待つか、それとも地方トレセンに転籍してたくさんレースをするか」
「デリバー……」
「まだ先の話、だよ。アンタが心配することじゃない」
学期途中で転籍する者もいるが、多くは節目の時期に進路の決定をする。進路の決定までまだ数ヶ月の猶予があった。
デリバーステッカーの表情は穏やかだ。初めて移籍という言葉を聞いたスワローウィローは平静でいられなかった。
「レースの世界じゃなかったら、こんなことなかったのかな」
「……そうかもしれない。でも、アタシたちは望んでレースの世界に飛び込んだんだ。勝つ奴がいれば、負ける奴もいる。負けるつもりでレースしたりはしないけどさ、でも負けた時のことは考えなきゃ。わかる?」
「……わかんない」
善田の言葉もまだ飲み込めていないスワローウィローに、デリバーステッカーの言葉は難しかった。
「スワローにはまだ早いか。まあ、アンタはそのままでいいよ」
上手く励ますこともできず、逆に励まされてしまう。自分がまだ子どものままでいることが、悔しかった。
「さて、ちょっと行ってくる」
「どこに?」
「すぐ戻るよ。大事な友達を怖がらせた酔っ払いをシメてくるだけだから」
不穏な笑顔が薄明かりに浮かぶ。
「待って待って」
「大丈夫、ちょっとキュッとしてくるだけだから」
なにがキュッとされるのか。恐ろしくて聞けない。
「それダイジョウブじゃない音だと思う!」
庭の方から怒声が聞こえる。近所の犬が怯えるほどの剣幕で怒っているのは、おそらくデリバーステッカーの祖母だろう。
その夜、祖父の酒は全てご近所に配られるという形で処分され、二人の部屋には山ほどの土産が送られることになった。
昼間はウマ娘達の声が賑やかなトレセン学園だが、ナイター練習用の照明が消える頃になると様相はがらりと変わる。
生徒の姿はなくなり、整備や点検、清掃をする大人たちが至る所に現れて仕事をしていく。
彼らの邪魔にならないように気をつけながら、善田は走り始めた。
いつも着ている真っ黒なジャケットではなく、反射材で作られた白銀のジャケットに着替えている。ナイトウォッチ(夜警)というロゴが大きくプリントされた背中の文字通り、善田はランニングがてら学園中を一周するようにしている。
体を鈍らせたくなくて学園の近くをランニングコースにしていたのだが、寮の門限を守らなかったり、隠れて過剰な練習をしてしまうウマ娘が後を絶たなかったために、パトロールも兼ねて学園中を見回ることにしていた。
計測用のアプリを立ち上げ、学園の外周から走っていく。複数のコースや遊泳施設等を併設した敷地はおそろしく広い。一周走るだけでもトレーニングには十分な距離だ。
門を出るまではゆったりと、そこから先は徐々にペースを上げていく。腕につけたリストバンドでペースを管理しつつも、善田の頭の中はスワローウィローのトレーニングのことでいっぱいだった。
スワローウィローの次走を京王杯ジュニアステークスと決めた。夏の基礎練期間、約束通りの練習をこなせた彼女は、春からかなり成長をした。しかし、レースのテクニックに関しては未熟な点が目立っていた。
一番の課題であるポジショニングについては、メイクデビューに合わせて多少マシにはなった。いまだにバ場を選ぶ癖は抜けていないが、少なくともレースで大事故を起こすほどではない。
次の課題はペース管理だ。今は1400mなので最初からトップスピードでも誤魔化せるが、ここからマイル路線に進むのであれば、コースに合わせたペースセッティングが必要になっていく。そのための練習をさせてはいるが、
(どうにも、下手くそなんだよなぁ)
スワローウィローは聞き分けが良いのだが、勉強の方はというとあまりよろしくない。知識を学ぶのにも少々時間を必要とするタイプだが、それを実践するセンスも足りていない。難しいことを考えながら走ろうとすると、体がチグハグになってしまうらしい。
リストバンドの機能を使ったペース管理をさせてみたが、意識するあまり自然なギアの切り替えができずにスタミナを消耗。
VRを使用して東京1400mのコースを体験させてもみたが、感覚はわかってもそれを体に反映させることができず不発。
音楽を使ったリズム管理を取り入れてみたが、
(まさかリズム感も壊滅的だとは……)
ダンスが苦手なのも納得できる。今まで担当してきた中で一番下手と言ってもいい。
仕方なくペーサーをつけた併走で体に覚えさせるよう練習をしている。
練習はそれでなんとかなっているが、レース本番になるとそうはいかない。
クラシックやシニア期になればレーススタイルも安定し、逃げや先行勢をペーサーにしても問題ない。しかしジュニア期は全員が未熟なため、自身のペースを見失った展開になりがちだ。レース中は修正してくれるトレーナーの声も届かない。スワローウィロー自身で解決するしかないのだが、
(無理だろ、あの子じゃ)
座学の時間は常に頭から煙が出てるような子だ。早々に打つ手がなくなってしまっていた。
善田が考えている間も足は動いていく。体にしみついたリズムは思考程度で乱れることはなく、今日も大きなタイムの変更もなく学園を一周しきった。
あとは学園内の施設、とくに寮の周辺を見回ったら夜警は終了だ。
「さて、今日は誰もいないといいが」
夏が終わり、過ごしやすい季節になると夜間の出歩きが増える。本格的なレースシーズンになるために、じっとしていられないウマ娘が多いためだ。先週も栗東で二人のウマ娘を見つけてしまい、小言を言う羽目になった。
気持ちはわかってやりたいが、規則は規則だ。
栗東寮の周辺を終え、美浦寮へと向かうと、玄関の近くに立つ人影が見えた。
善田は内心で舌打ちをし、念のためのマグライトを握り込む。
「そこ、何してんの」
声をかけられた人影は建物の中に逃げ出そうとした。
「入れさせるかよ」
ウマ娘は人よりもずっと速く走ることができるが、初速に関しては意外にも人の方が速い。トレーニングを積んでいれば、数メートルの間だけは追いつける。
善田の足は一気にトップスピードに乗り、その人影を捕らえた。
「大人しくし……スワロー!?」
小言を言わねばならない相手は、なんと自分の担当ウマ娘であった。
頭痛がしそうだ。
「お前さぁ、何してんの……」
「ごめんなさい、寮長さんにお願いして十五分だけって約束で、ちょっと外にいたの」
その声に動揺はない。玄関の方に目をやると、美浦寮の寮長が顔を覗かせていた。どうやら本当らしい。
善田はひとまずマグライトの灯りを消した。
「なんでこんな時間に出てるの」
「……トレーナーを待ってて。いつも夜に見回りしてるって聞いたから」
「私を?何で?昼間に言えばいいでしょうが」
「だって、お風呂入ってるときに思いついたやつなんだもん。明日からおねえさん出張だって言うから、今日聞きたかったの」
他にやりようはあっただろうに、と言いたくなるのをぐっと飲み込む。説教に時間を使うよりも、さっさと要件を済ませるほうが良い。善田は話すように促した。
「あのね、わたし、逃げちゃだめかな?」
「逃げる?」
「レースで走る時、逃げは一番リスクが高いって授業でも教えてもらったよ。でも、わたし、考えて走るの難しくて」
それならば尚更、徹底して自分のペースを作らなければならない逃げは悪手だ。
「だからね、思いついたの。最初から全速力でゴールまで走るスタミナをつければ、ペースとか考えなくても逃げられるんじゃないかって!」
善田は無言で天を仰いだ。
頭痛がするほどの蛮勇だ。しかし、善田は衝動的に否定たくなるのを堪えた。
スワローウィローの思いつきは単純すぎるものだが、不可能というわけでもないのだ。
スワローウィローには潜在的なマイル適性がある。それを1400mに凝縮すれば、全力で駆け抜けることもできるかもしれない。
しかしそれをするにはリスクが大きすぎる。克服しなければいけない課題も今以上に増える。
スワローウィローは真剣だ。彼女なりに考えはしたのだろう。
「……私が帰ってくるまでに、自分の走りを見直して課題をまとめなさい。私の想定と一致しなければ、逃げは却下。いい?」
「ありがとう、おねえさん!」
「トレーナーと呼びなさい。わかったらさっさと戻る。寮長にちゃんとお礼を言っておくように」
「はい!」
「次やったら指導やめるからね」
「ぐぅ……ごめんなさい」
スワローウィローが寮に入るのを見届け、善田は暗闇の中で深く溜息をついた。
(間に合うのか?いや、間に合わせるしかない……)
スワローウィローには振り回されてばかりで疲れる。こんな感覚は久しぶりだ。
(ちょっとアイツを思い出すな)
きっと今頃、くしゃみのひとつでもしているだろうか。善田はリストバンドにプリントされたナイトウォッチの文字を撫でた。
「京王杯ジュニアステークスは枠順の差があまりでない。もちろん内枠が若干有利なところはあるが、最多勝利は外枠だ。枠順の差は気にせず、バ群に包まれず、進路を確保することが第一目標だ」
レース四日前。枠順の発表を受け、レースに向けた最終調整のミーティングが行われた。
会議室のホワイトボードには、東京競バ場のコースが映し出されている。コースが3D映像になっており、高低差がはっきりとわかるようになっていた。
「左回り、コーナー二つなのは前走と変わらないが、坂がポイントになる」
東京1400mはスタート直後に上り坂がある。さらに4コーナーをまわって直線に入ると160mの上り坂があり、短距離といえどスタミナを備えたレースプランが必要となる。
「君はもともと直線の伸びはいいものを持っているが、上り坂も意外と悪くない。思い切った逃げを打つのも悪くはない」
坂を下ってコーナーの間は平坦だ。そこで息を入れることもできる。長い直線で粘ってそのまま逃げ切ったウマ娘も過去に存在する。
「だがそれも、スタートがうまくいったらの話だ」
スワローウィローの課題。それはスタートの悪さだった。
ゲートインを嫌がったりするタイプではないのだが、スタートの上手いウマ娘と比べるとほんの少しだが遅れるのだ。時間にしてまばたきひとつほど。しかしそのコンマ数秒は逃げを選ぶウマ娘には痛手だ。
逃げレースをすると決めて以来、スワローウィローと善田はしつこいぐらいのスタート練習をしてきた。
しかしいくら練習を繰り返しても、ベストなタイミングが掴めない。
「どうしてもほんのちょっと遅れちゃうねぇ〜。私もゲート苦手だからわかる〜」
「ゲートが開く瞬間、なんかパッと景色が変わるのがびっくりしちゃうんです」
「ああ、ちょっとわかるな。日差しが強い時とかだとさ、急に明るくなってびっくりすることがあるし」
そう言う割に、カレットパレットはスタートが上手い。何か秘訣があるのではないか、とスワローウィローが聞くと、カレットパレットは苦笑した。
「オーロラにも教えたことあるんだけど、あたしのやり方は感覚的すぎるみたいで、うまく伝わったことがないんだ」
それでもいいなら、と前置きをしたカレットパレットが教えてくれたのは、
「ゲートが開く直前の音を掴むこと」
という、ものだった。
ゲートはスターターの操作により、電動で開く。カレットパレットは、ゲートが開くほんの僅かな時間に起きる起動音のようなものを感じ取っているのだという。
「その瞬間に一歩目を踏み出すイメージを作って、開いた瞬間に足を動かす。……伝わった?」
「何回聞いてもわかんなーい」
「えーと、……いっぱい練習します!」
カレットパレットの言う前兆を感じ取るのに丸々一月を費やした。だが、その甲斐あってスワローウィローのスタートは以前に比べ目に見えて改善された。
「これならゴーサインを出してもいい」
スタートダッシュを見た善田も頷いた。
並行してトレーニングしてきた他の課題も、それなりに改善されてきている。
「あとは良バ場であることを祈ろう」
レースまであと一週間。スワローウィローの部屋の窓には、その日からてるてる坊主が下げられた。
東京11R 京王杯ジュニアステークス
距離1400m 左
天候 曇/芝 不良
出走数18
1 ウォーターリボン
2 ゴッチエッグ
3 アスミカケル
4 ブロッサムカーテン
5 マルカン
6 ソレアード
7 アットマート
8 グレイチャーグレイ
9 リュバンロヴ
10 タンタンスウ
11 スワローウィロー
12 シュトゥルム
13 シーブルージェム
14 ヨイコノアメ
15 アカネサンダー
16 スマガード
17 カムイユウヒ
18 ゴールドシーカー
『成長著しいジュニアの俊足達が集う京王杯ジュニアステークス。ジュニアのウマ娘を励ますように、昨日から降り続いていた雨があがりました。天候は曇り、コンディションは不良。ゴール前直線は向かい風が吹き付ける秋の東京競バ場1400m。ウマ娘が続々とゲートインしていきます』
実況アナウンサーの声が曇天を抜けてlゲート前のウマ娘達にも届く。
スワローウィローの枠順は11番。前回のレースは8人の出走だったが、今回はフルゲートの18人だ。ジュニア期に重賞を取れれば、クラシック期のGⅠ出走に大きく弾みがつく。周りのウマ娘達の気迫に呑まれそうになり、スワローウィローは深呼吸をした。
『一番人気はブロッサムカーテン。メイクデビューは五バ身差の快勝。二番人気、アットマート、ゲートに入ります。三番人気、シーブルージェム。母も祖母もGⅠウマ娘という名ウマ娘の系譜』
スワローウィローは17番人気。メイクデビューでシーブルージェムに勝ったにも関わらずの人気順に、周りはそろって首をかしげた。
おそらくスワローウィローの家が代々ダートウマ娘ばかりであり、地方トレセンでしか走ってこなかったことが要因だろう、と善田が分析した。
「つまり今、君はとても舐められている。ノーマークな分、逃げをやりやすくなったんだ、しっかり決めてきなさい」
先入れのウマ娘がゲートに入り、偶数番が呼ばれる。スワローウィローはすんなりとゲートに収まった。
ゲートの中は落ち着かない。周りは金属の仕切りで視界を遮られて冷たい印象が拭えないし、ストレッチする余裕もないぐらいに狭い。ゲートの中に長く留まるのが苦手なウマ娘もいるぐらいだ。スワローウィローだって好んでゲートの中にいたくはない。
しかしスタートをうまく決めるためには、ゲート内での集中が必要だ。他のウマ娘がまごつく間に、スワローウィローは呼吸を落ち着けていく。
(周りをちゃんと見るんだ。空の色とか、風の強さとか、自分の足の状態とか)
善田に教えられた小さなルーティンをこなすと、肩から力が抜けていく。
(入りは軽く、抜く時は鋭く)
大事なのは一歩目だ。
スワローウィローの走りを「軽い」と善田は評した。だからこそ良バ場を祈ったのだ。あいにくその祈りは届かなかったが。
(ゲートを出るときに呼吸が合えば、ちゃんと逃げれる……たぶん!)
ゲートインが完了したらしい。さあ、と周りのウマ娘が身構える音がする。
顔を上げる。
ゲートが開く直前、ほんのわずかに聞こえる駆動音の軋み。
(……今!)
ガコン、と音がすると同時にスワローウィローは一歩目を踏み出した。
『さあ、スタートしました。おっと、15番アカネサンダー躓いた!そのほかのウマ娘は揃ったスタートとなりました』
一歩目はうまく行った。しかし、理想的なスタートダッシュとはいかなかった。
(芝が重い!滑る!坂三つもあるのに!)
だが先頭を譲るつもりはない。スワローウィローは一気にギアを上げて先頭へ行き、インコースを陣取った。
スタート直後にある上り坂と下り坂はスタート直後からスタミナを奪っていく。
おそらく後続はゴール前直線を狙ってスタミナの温存をしているはずだ。
だから、行く。
『先頭は11番スワローウィロー。軽やかな足取りで坂を降りていきます。後続との差は二バ身。二番手はシュトゥルム、カムイユウヒ、タンタンスウと続いていきます。一番人気ブロッサムカーテンは中団外ほど。一団に固まって第三コーナーを回っていきます』
ゆるやかなカーブで呼吸を入れる。第四コーナーを曲がった後の長い直線に入れば、もう息を吸う余裕もないのだから。
(スタミナどんだけのこってるかわかんない。後ろの状態もわかんない!)
だが足は動いている。それだけはわかる。
(だからいける!)
『第四コーナーまわり、各ウマ娘横に広がって直線入りました!先頭は依然スワローウィロー、だが後続との差は縮まっている!じわじわとブロッサムカーテンが進出を開始、タンタンスウ、シーブルージェムも前に出る!スワローウィローはまだ逃げている!』
胸が熱い。風が冷たい。目を開いているのもやっとだ。
自分の腕や、足がどんなふうに動いているかもわからない。
ただ前へ、前へという強い衝動だけで全身が動いている。
盛り上がる歓声も、背中にぴったりと張り付いている足音にかき消されて聞こえない。これが逃げの恐怖だ。圧迫感に本能が警鐘を鳴らし、呼吸が乱れそうになる。
(怖がってたまるか!)
坂を抜けた。
ゴールまでの平坦な直線。風は強い。しかし足元の芝はゴール前よりわずかに軽い。
さっきまでぴたりと張り付いていた空気が、ふわりと動いた気がした。
『ブロッサムカーテンが並ぶ!スワローウィロー、ブロッサムカーテン、スワローウィロー、ブロッサムカーテン……!』
重たい風がスワローウィローの前に出る。その瞬間、視界の端にゴール板が映った。
『二人並んでゴールイン!わずかに……外、ブロッサムカーテンが先着か。確定まで今しばらくお待ちください』
(あ、……負けた)
掲示板の一着と二着は空欄のまま。写真判定をしている最中なのだろう。しかしスワローウィローには結果がわかっていた。
少し先で流しているブロッサムカーテンも、わかっているのだろう。淡い桜色の髪を揺らし、爽やかな笑顔でスタンドに向かって手を挙げた。息が乱れ、汗が止まらないスワローウィローに対してブロッサムカーテンは涼やかだ。
(負けちゃった……)
だが悔しさは込み上げてこない。かわりに不思議な確信がスワローウィローの中にあった。
ブロッサムカーテンはこの背中を何人ものウマ娘に見せていくのだろう。彼女は間違いなくこの世代の頂点に立てるウマ娘だ。
スワローウィローはその背をじっと見つめていた。
(もう二度と見たくない)
だからこそ目に焼き付けておく。
これで最後だと自分に言い聞かせておくために。
地下を通って控え室に戻ると、善田がタオルを持って待っていた。
「……負けちゃった」
「そうだな。負けた」
「あの人、強いね」
「そうだな。強い」
「…………わたし、速くなれるかな?」
幼い頃、同じことを善田に尋ねたことがあった。善田はその時とまったく同じ、つまらないことを聞くという呆れ顔をした。
「なれるに決まってるでしょ」
スワローウィローの頬が熱くなる。たぶんこれは涙だ。それを拭いながら、スワローウィローは笑顔は笑った。
「つぎは、ぜったい勝つから」
東京11R 確定
一着 ブロッサムカーテン
二着 スワローウィロー
三着 タンタンスウ
四着 アットマート
五着 シーブルージェム
クラシックで本格化は来るのか?
距離は延長するのか、維持なのか?GⅠ挑戦は?
スワ郎の未来は何も決まっていません。どこかで見かけた際はあたたかく見守ってやってください。